作家・五木寛之さん(83)は、長年の「共闘者」野坂昭如さんを惜しむ文章を朝日新聞に寄せた。

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 いずれどちらかが先に逝くだろうと覚悟していたが、突然の訃報(ふほう)に呆然(ぼうぜん)としている。

 新人として登場した頃から、偽悪、偽善の両面を役割分担しつつ、微妙な距離感を保って50年あまりが過ぎている。

 彼が選挙に出たときには、応援演説もしたし、「四畳半襖の下張」事件では弁護側証人として法廷にも立った。また「対論」という型破りの本も一緒に作った。私生活ではお互いに意識的に離れながらも、時代に対しては共闘者として対してきたつもりである。

 ジャーナリズムの奔流の中で、くじけそうになるたびに、野坂昭如は頑張っているじゃないか、と自分をはげましたものだった。そんな意味では、恩人でもあり、仲間でもあった。大きな支えが失われたようで、淋(さび)しい。無頼派を演じつつも、傷つきやすい芸術家だったと思う。

 野坂昭如、ノーリターン。合掌。

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日刊ゲンダイ『流されゆく日々』-「野坂昭如ノーリターン⑤」 (五木寛之)

(昨日のつづき)
 戦後70年というけど、敗戦後の2、30年は、戦前レジームの延長だったと思う。
 文芸ジャーナリズムにしてもそうだった。文学界も、エンターテインメントの分野も、戦前、戦中の大家が幅を利かせていたような気がする。
 そんな時代の中に、突如として戦後の風を吹きこんだのが、野坂昭如の登場だった。
<黒眼鏡の作家>
<プレイボーイ>
 などと、いかにもイカガワしさを身にまとって、野坂昭如は登場した。文壇の新人類といった感じだったのだ。吉行淳之介さんなどは、最初から好意的だったけど、それなりの風当たりも強かったように思う。いわゆる良風美俗に対する反抗者として世にはばかるというのが、彼のスタイルだったからである。
 それに共感する同業者や編集者、そしてジャーナリストたちが彼を中心にして集っていた。いわゆる「酔狂連」や、その他のグループである。またラグビーのチームを作ったり、田植えをやったりと、担当編集者たちも結構大変だったようだ。
 しかし、彼はかなり後まで、最初の“いかがわしさ”を守り抜いた。偽善をつらぬくのもエネルギーがいるが、偽悪を通すのも楽なことではない。

 私たちは、それぞれに焼跡闇市派とか、外地引揚派とかいう看板をしょって、突っ張り続けたのだ。そこには守備範囲こそちがえ、同じフロントラインに立つ同世代意識があった。ジャーナリストにも、編集者にもそれがあった。そのように有形無形の援護射撃があったればこそ、私たち新人はなんとか世にはばかることができたのである。
 野坂昭如は、ただ才能のある一人の書き手ではなかった。ある世代、ある時代のシンボルとして活躍した表現者だった。わたしたちの“いかがわしさ”は、一つの世代のマニフェストであり、前世代へのはっきりしたノーだったのである。

 野坂昭如の不在は、あきらかに一つの時代の終りを意味する。それは戦後という時代の終幕のベルである。いま、これまでとちがう時代が開幕しようとしているのだ。ヒューマンな反戦作家のイメージの背後に、黒眼鏡の“いかがわしき”風紀紊乱(ふうきびんらん)者の姿を重ね合わせて見るとき、彼の存在意義が明らかになってくる。野坂昭如ノーリターン。時代もまたノーリターンなのだ。一つの時代が終り、もう一つの時代がはじまる。 (この項つづく)

(以上、転載終り)

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