市橋容疑者は生きてたの !?

 スピードの早い今の世の中、あっと驚く出来事が次々に起きてくるものです。
 何と4日、‘07年3月イギリス人英会話講師リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22)殺害の容疑で全国に指名手配中の市橋達也容疑者(30)が、名古屋市内の整形病院で鼻を高くする手術を受けていたことが判明しました。
 そして5日千葉県警は、その時病院で撮られた写真を公開しました。まあびっくりです。以前の手配写真時の、目じりも眉毛もキリッとつりあがった、見ようによっては険のある凶悪そうな人相から、何とも人の良さそうなふっくら丸顔に変わっているではありませんか !

 思えば千葉県市川市内の市橋の自宅マンションから、職務質問のため訪れた警官を振り切って逃亡してから2年半。その間市橋に関する足取りはまったくつかめず。イギリスに住むリンゼイさんのご遺族には申し訳ないながら、『市橋は死んでしまって、もうこの世にはいないだろう』と思っていました。
 しかし市橋はどっこいしたたかに生きていたわけです。それも整形は今回が初めてではないと見られています。整形美容外科の専門家の見立てでは、都合8ヵ所も手を入れているのではないか?というのです。一重を二重まぶたに、下唇を薄く、左頬の2つのほくろを取ったり、つりあがった眉毛を垂れさせたり、両頬や下あごにヒアルロン酸を注入して膨らませたりと、しめて総費用数十万円から百万円ほど。

 素足のまま逃走した市橋は、当初の所持金は5万円程度とみられていました。それなのに、一体そんなお金どうやって捻出出来たのでしょうか?また今回の件から、福岡県内の美容整形外科でも整形手術を受けようとして断られていたことも判明しました。
 逃走後、大阪ー福岡ー名古屋ーあるいはその他の地域。市橋は日本列島を自在に移動していたことになります。そのための資金もどうしていたのでしょう?やはり逃亡を手伝った知人の存在があったのか、逃走中に知り合った女性に貢がせたのか、あるいは大阪や名古屋あたりの風俗店にもぐりこんで市橋自身が稼いだものなのか。疑問が残ります。

 しかし今回の整形の件で市橋容疑者は、自ら墓穴を掘ったかっこうです。改めて整形後の写真が公開された以上、今までの整形苦労は水の泡となったわけです。生存が確実になって居場所が特定されたからには、警察当局としてはむしろ格段に捜査しやすくなったとも言えます。
 実際警察当局は、捜査の網の目を名古屋市に絞って、市橋が立ち寄った可能性のある、同市内の24時間営業のマンガ喫茶、ネットカフェ、ホテルなどに聴き込みを続けているもようです。また市橋のマンションから女装用のカツラが発見され、女装趣味があるとされていますが、3日午後2時前、名古屋市内のコスプレ店に市橋らしき人物が立ち寄ったとの情報も寄せられています。

 包囲網は確実に狭められ、逮捕にそう時間はかからないかもしれません。
 しかし市橋容疑者にこれほどてこずった、元々の原因は千葉県警の不手際にあります。数人の警官が自宅マンションに職質に訪れながら、一瞬の隙をつかれまんまと市橋の逃亡を許してしまったわけですから。
 リンゼイさん殺害事件は、当時母国イギリスでも大々的に報じられ、我が国の安全神話がまた一つ大きく崩れることになりました。同時に千葉県警の大失態は、日本警察に対する国際的な信用を失墜させることにもなりました。

 千葉県警の失態はそれだけではありません。
 当ブログでシリーズ化を始めている、例の木嶋佳苗(34)の結婚詐欺事件においてもそうです。2年前の‘07年8月、千葉県松戸市に住む福山定男さん(当時70)の突然死。あるいは今年5月の同県野田市の安藤建三さん(当時80)の住居火災による焼死。いずれにも関係していた木嶋佳苗を、もっとしっかり取り調べ逮捕していれば、後の事件が起こることはなかったのです。
 
 さらに今年7月には、豊田愛子さん(61)を殺害し、次女の豊田智美さん(21)を拉致して全国に指名手配中の仲田敏行(28)の事件でもそうです。仲田は智美さんに度々ストーカー行為を繰り返し、ナイフを所持していることを知りながら逮捕せず、傷口を広げてしまったのです。
 このような度重なる失態から、一部ネットでは千葉県警は「恥場県警」と揶揄されているようです。(「俺は男だ」の森田健作知事、もっとしっかりしてよ ! )
 まさか犯罪者は、『千葉県警はゆるいぞ。千葉で何か罪を犯しても大丈夫そうだぞ』と思っているわけでもないでしょうが。なぜか千葉県では、犯罪が多発しているように思われます。そういえば、先月下旬に起きた、松戸市の5階建てマンション2階での火災、同室に住む千葉大女子大生荻野友花里さん(21)殺害事件も、いまだ未解決のままです。

 警察の失態は、何も千葉県警に止まりません。押尾学事件に見られるように、赤坂警察署のように地場の闇社会や芸能界とズブズブで、そのため肝心の捜査を怠ったりと、日常的に報じられる全国警察組織のゆるみ、たるみ、乱れは目を覆うものがあります。
 郵政など次々に民営化される中、官庁組織の中でも「警察、自衛隊、消防署」は絶対民営化されないだろうと言われています。それもそのはずです。これらは国家権力維持の要(かなめ)なのですから。しかしそれにあぐらをかいてもらっては困ります。いずれも国の治安や国防に関わる重大な部局です。これらが乱れれば(実際はいずれも乱れているわけですが)国全体が乱れ、犯罪は頻発し市民生活が脅かされます。
 警察の汚名の一つをそそぐためにも、千葉県警には市橋容疑者の一刻も早い逮捕を強く望みたいものです。

 (大場光太郎・記)

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日々雑感(7)

 当ブログおかげ様で最近順調です。10月23日(金)以来、連続で1日訪問者数が「100人」を越えています。これでやっと昨年4月の開設当初目指していた目標ラインに到達出来たかな、とほっと一安堵です。
 当ブログは毎度申し上げておりますように、その大半が「検索」によるご訪問、言ってみれば通りすがりの方が圧倒的に多いブログです。ですから、好評の『薬物汚染シリーズ』も世間の関心が薄れるとともに、また100人以下に逆戻りということは十分考えられます。

 そんな中、久しぶりで当ブログ大当たり記事が出ました。10月29日(木)の『時の話題(1)』記事です。同記事を公開したのは夜9時頃のことでした。やはり今世間で最も関心の高い、34歳の女の「結婚詐欺事件」に触れたのが大きかったようです。またその日の夕刊紙「日刊ゲンダイ」に、女の名前が「木嶋佳苗」であることが公表され、同記事でその実名を出したことも大きかったと思います。
 公開した夜はさほどでもありませんでした。ところが日付が変わってからが凄かったのです。同記事へのアクセス、引きもきらず。結局30日(金)は、7月22日の『皆既日食』記事の時の301人を少し越えた「316人」となりました。

 「木嶋香苗」での検索フレーズによるアクセスが圧倒的でした。「えっ。木嶋香苗?木嶋佳苗じゃないの?」となりそうです。そうなのです。なぜ「木嶋香苗」なのか?これには少々回りくどい説明が必要です。当初同記事公開時、私は「木嶋佳苗」を「木嶋香苗」としてしまったのです。おそらく押尾学の事件の「田中香織」という被害女性が頭のどこかにあって、無意識的に「佳」を「香」と入力してしまったのだと思われます。
 『あれっ。何で木嶋香苗なんだ?』。アクセス解析をたどってみると、次も次も次も「木嶋香苗」「木嶋香苗」「木嶋香苗」…。不審に思い、ひっとして私自身が間違えていたのかもしれないと気づき、確かめたところやっぱりそうでした。

 念のためグーグルで「木嶋香苗」を検索してみると、項目はたったの4件(今現在では200件以上)。そして少し前送信したばかりなのに、当ブログタイトル『今この時&あの日あの時』がそのトップに表示されているのです。
 『ははあ。これだな』。私は早速当ブログ記事作成画面に戻り、「木嶋香苗」を「木嶋佳苗」に直しました。しかしグーグルなどに最初に掲示されてしまうと、もう修正は出来ないようです。例のグーグル項目を見直しましたが、やはり「木嶋香苗」のままでした。

 しかしこの間違いはむしろ“けがの功名”と言うべきです。というのも、さすがネットの世界は情報が早い ! ちなみに次に「木嶋佳苗」で検索を試みますと、既に夥しい項目数(実際の数字は覚えていません)で。「木嶋佳苗って?」「木嶋佳苗 かなえキッチン」など、あるわあるわ。私の『時の話題(1)』などどこにあるか分からないくらいです。
 多くの方が「木嶋香苗」と思い違いしておられるのか。それとも「ひらがな」で「かなえ」と入力すると、ただちに「香苗」と変換されてしまうので、ついそれで検索してしまうからなのか。3日未明の段階でも、「木嶋香苗」での検索が続いている状態です。
 たまには正式名の「木嶋佳苗」でのアクセスもありますが。私が思いますに、もし最初から正式名で打ち込んでいたら、このように驚異的な(あくまでも当ブログの基準では)訪問者は得られただろうか?そこで『これはまさにけがの功名だな』と思う次第です。

 つまらない、どうでもいいようなことを長々と述べてしまいました。しかしこれはこれで、当ブログとしてのささやかな「ニュース」ですので。
 と言うわけで『時の話題』は、あまり書くことがない場合、緊急避難的にその時々の芸能、事件ネタなどを適当にブレンドしたものをシリーズ化していこう、そういう軽い考えで始めたものでした。それが予想外の大ブレークで。30日(金)ー316人。31日ー183人。11月1日ー406人。2日ー364人。300人どころか、400人すら軽く越えてしまいました。
 また同記事は、30日のココログ「雑記」「日常」カテゴリーの「ディリー部門」で、堂々の1位にもなりました。(なお、前日記事『薬物汚染の拡がりを憂う(26)』も、「雑記」1位「日常」2位でした。)

 それはともかく。今回の「結婚詐欺事件」のみならず、木嶋佳苗の周辺で男性6人もが謎の死を遂げている事件。大変複雑怪奇な内容だけに、なかなかうまくまとめきれずにいます。それに「薬物事件」といい今回の事件と言い、『少し“事件モノ”を興味本位で追いすぎていないか?』という私自身のジレンマもあります。そこで、この事件を深追いするのはよそうか?とも思いました。
 しかし皆様からこれだけのご訪問をいただいきますと、ムゲに止めるのもどうかと思います。この事件をより深く知りたい、核心を知りたいという世の中の願望がそれだけ大きいと言うことなのでしょうから。

 芸能ジャーナリストでも、事件記者でもない私如き者が、どれだけそのニーズにお応え出来ますか、自信はありません。しかし私なりにこの事件を探索し、時に私独自の切り口を交えて同事件を扱っていければと思います。
 木嶋容疑者は、出身が北海道別海町。祖父は私の隣接士業である司法書士事務所を長く経営し、同町の町議会議長も勤めたほどの名士。父親(故人)は大学職員。
 そのことにまず興味がある上、木嶋佳苗の中学、高校の卒業文集がテレビで公開されていますが、中学時のものなど、中学生とは思われないほどの達筆でしっかりした文章を書いていました。町でも指折りの裕福で堅実な名家の子女で、成績優秀だったらしい同女が、なぜこんな“稀代の毒婦”的犯罪を犯すに到ったのか?私自身その辺に興味がないわけでもありません。

 犯罪と言えば。あの押尾学に2日午前中、「懲役1年6ヵ月、執行猶予5年」の判決が出されました。当然こちらも『薬物汚染(28)』記事を出さなければなりません。
 さらには1日夜の大河ドラマ『天地人』最後の「天地人紀行」は、何と私の出身地である「南陽市宮内」、そして私の母校がある「長井市」がセットで紹介されて。これに応えるためにも、『天地人』シリーズの続きも出さなければなりません。

 本当は私の願いとしては、例えば『君待つと』『秋の名句(3)』『天に北斗の光あり 地上に花の香ある』などの記事で300人を越えるようだと、大変嬉しいのですが。実際は、このような記事ですと途端にアクセスが減少してしまいます。

 (大場光太郎・記)

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『雨月物語』など

   秋薔薇のピンクの夢の在り処(どころ)   (拙句)

 きょうから11月です。あらためて言うまでもないことながら、今年も後2ヶ月を残すのみです。12月に入ってから慌ててでは大変だから、年内にやっておくべきことは何事も早め早めにと毎年思えども。ついつい日々の雑事にかまけて、気がついたら師走もどん詰まりになっていて。『あーあ。結局何も出来なかったなぁ』となりがちです。今年ばかりはそうならないようにと思いつつも、さてどうなりますことやら。

 日中は家の中にいたので確かなことは分かりませんが、けっこう良い秋晴れの天気だったようです。東京は25℃以上の夏日となり、11月の夏日は11年ぶりのことだとか。
 3時頃本厚木駅方面に向かうべく外出した頃には、早や秋の日はかの大山の上の中空にまで到っていました。日は差し込んでいても、全天厚い雲に覆われだし何やら怪しい雲行きです。
 結局駅付近で用を済ませ、さるコーヒーショップに入りそこを出たのが夜7時頃。不安的中で外はもう雨になっていました。当然傘など持って来ていません。ルーフ付きのバス停で思案気に雨のようすを見るに、さほど大降りでもなさそう。心配は地元近くのバス停を降りてからですが、ままよとバスに乗り込みました。

 結局バス停で降りて実際雨に打たれながら歩くに、やはりさほどのこともない小降り程度で、それでも早足でいつもの帰路を歩きました。
 いつかご紹介しました桜落葉散り敷く遊歩道の手前に、これも去年ご紹介しました、とある家の庭先にひょろんと細い幹を3m以上伸ばした薔薇の幾つかがあります。この季節またピンクの見事な大輪の花を咲かせているのです。全部で十余輪ほど。花が咲いているのはすべて人間の背丈より上から天辺にかけてです。私にとってこの季節その薔薇は、帰路における私だけのほんのささやかなランドマーク的目印で、いつも見上げてはつかの間の鑑賞タイムを楽しみながら通り過ぎます。
 本日はもう7時を回って辺りは真っ暗です。それでも薔薇は、夜目にも鮮やかに浮き出て見えていました。

 10月30日は十三夜。「十五夜に晴れ無く、十三夜に曇り無し」とは古来からの言い伝え。そのとおり今年の十三夜も澄み渡った夜空で、月はひときわ光を放っていました。それからすればきょうは旧九月十五日で満月のはずですが、あいにくの雨月です。
 雨月と言えば。最近の『君待つと』記事で、上田秋成(うえだ・あきなり)の『雨月物語』に少し触れました。それで最近にわかに、同書の中の「白峯」や「吉備津の釜」などを読んでみたくなりました。
 最初に読んだのは高校時代。当時の私が、まともに原文で初めから終わりまで読んだ唯一の古典です。学校の図書館に並んでいた古典文学全集中から同書を選び、早速借りて夢中で読みました。今でも、通学途中の汽車の中で『雨月物語』を読んでいる我が姿をかすかに覚えています。ということは、そうとう熱中して読んでいたということなのでしょう。

 よほど印象深いものがあったのか。当地に来てからしばらくした20代終わりの頃、本厚木駅前の有隣堂書店に並んでいた、某古典全集中の『雨月物語』を買い求めました。その時は『すぐ読みたい』というほどの強いものではなく、『いつかそのうち』という軽い気持ちだったかと思います。ただ上記に挙げた幾つかの物語は、その時も読んだような記憶があります。
 それがどこにいったか、何年か前確か見かけたはずでおそらく処分はしなかったと思いますが、どこを捜しても見当たらないのです。本というものは、思い立った時に読まないとなかなか次のチャンスが来ないものです。今後もし捜せましたら、主な作品をきちんと読んで、読後感などを述べてみたいと思います。

 上田秋成(享保19年・1734年~文化6年・1809年)は、後世の泉鏡花、内田百閒、江戸川乱歩、夢野久作などの近代幻想作家、さらには京極夏彦、小川洋子といった現代幻想作家たちの先駆者的存在でした。そして後代の作家たちも及ばないような幻想世界を描き出したのが、名作『雨月物語』だったように思います。

 書きながら思い当たりましたが、高校時代はなぜか「怪奇幻想譚」に惹かれるところがありました。ありきたりの日常につまらなさを感じ、非日常の幻想世界に耽る傾向が多分にあったようです。その頃『黒猫』などエドガー・アラン・ポーの作品も読み耽りました。
 そんなことも、高度経済成長真っ只中の現実社会に否応もなく投げ込まれる前の、モラトリアム期の懐かしい思い出です。

 (大場光太郎・記)  

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天に北斗の光あり 地上に花の香ある

       山形県立長井高等学校校歌 
                 県立長井中学校校友会 作詞
                      山崎藤得      作曲

  1 天(そら)に北斗の光あり 地上に花の香(かおり)ある
    緑の山河友となし 栄華の夢をよそに見て
    早苗ヶ原にそびえ立つ これぞ我らの理想郷

  2 銀河の星に照らされて 山錦繍(きんしゅう)に映(は)ゆるとき
    雄々しき姿白鷹(しらたか)の 強き力を双翼に
    理想の天地前にして 希望に燃ゆる我が健児

 (出来ましたら以下の記事をお読みになる前、同校歌mp3演奏をお聴きください。冒頭のタイトル左クリックで「校歌ページ」が開きます。)

 「人に校歌あり」。すべての人がかつて学び舎で過ごした経験を持ちます。小、中、高、大学と上級学校に多く進んだ人ほど、いくつもの校歌を持っているわけです。皆様にとって一番愛着のある校歌は、何でしょうか?
 私は高卒です。したがって私の場合は、小、中、高校の三つの校歌を持っていることになります。(実際は30代前半、都内新宿区にある工学院大学の専門学校課程の土木科夜間部に2年間通学し、一応卒業しました。しかし私自身はこれを最終学歴に含めないことにしています。)

 我が小学校の宮内小学校(山形県)校歌は、昨年11月記事『菊祭りの思い出』でその一部をご紹介しました。作詞:高野辰之、作曲:梁田貞と、当時の文部省唱歌を数多く手がけた大御所の作った歌であり、それなりの愛着も懐かしさもあります。また我が宮内中学校校歌は、本年7月記事『娘ことごとく売られし村』で取り上げた郷土の歌人結城哀草果の作詞になるもので、これまた捨てがたいものがあります。
 しかし私にとってひときわ愛着が深く懐かしさを感じるのが、今回ご紹介の長井高校校歌なのです。そこには、人生の中で最も多感な時期であった高校時代の校歌だからということもあるのでしょう。しかしそれ以上に、とにかく詞も曲もピカイチの歌だと思われるのです。

 同校歌は、母校ホームページの「校歌紹介」によりますと、<昭和3年10月3日制定>とあります。昨年記事『万物備乎我(2)』でも述べましたが、母校は大正9年に旧制山形県立長井中学校として発足しました。ですから校歌が制定された昭和3年当時は、旧制中学校の校歌であったわけです。いささか手前味噌ながら、このような校歌を持てたことを誇りに思います。

 いきなり「天に北斗の光あり 地上に花の香ある」。北斗は北斗七星。古代中国では、太乙(たいいつ-北極星)と共に、道教などでは特に重要視される星斗でした。私の郷里は北の地方でしたから「北斗」が自然に歌われているわけです。何とも心鼓舞される雄渾な出だしです。
 作詞は長井中学校校友会、作曲は山崎藤得という人。小学校校歌のように名だたる人たちの手によるものではない、おそらく当時の母校関係者による歌なのでしょう。なのにこのスケールと格調の高さ。

 「緑の山河友となし 栄華の夢をよそに見て」。旧制第一高等学校寮歌の『嗚呼玉杯に花受けて』の一節の、「治安の夢に耽(ふけ)りたる 栄華の巷(ちまた)低く見て」などの影響を多分に受けたのではないでしょうか?一般庶民が栄華を求めるのは致し方ない。しかし我々は、そんな泡沫(うたかた)の酔夢を追うことはしないのだ、という選良(エリート)たる青年たちの質実剛健の気概が偲ばれます。当時の社会体制がいかなるものであったにせよ、「理想(ゆめ)」を歌え、語れる世の中は、少なくとも今よりはずっとましだったと言えると思うのです。
 私の頃はぎりぎり「栄華の夢をよそに見」るメンタリティーを理解出来ました。しかし万事豊かになること、経済至上主義があたり前、そのための学歴であり偏差値であるという風潮の今日、母校在校生諸君はこの歌詞をどう捉えて歌っているのでしょうか?

 もっとも昭和40年代前半在籍していた頃の私は、同校歌に今ほど思い入れがあったわけではありません。「万物備乎我」という孟子の成句を、犬養毅(犬養木堂)が揮毫してくれて扁額になっていることすら知らなかったのですから。「意味をじっくり味わって校歌を歌いなさいよ」などと、在校生に言えたものではありません。

 私が「校歌の力」を実感するようになったのは、母校を卒業してずっと経ってからのことです。今でも思い出しては、口ずさむことがあります。年と共に涙もろくなったせいか、一節一節かみしめて歌っていると、熱いものがこみ上げてきます。
 そして気づかされるのです。『オレはホントに、それらしきことを何もしてこなかったよなあ』と。若き日の理想(ゆめ)とそれ以降今日の現実と。その何たる乖離(かいり)よ。いな現実に埋没してしまっているのに、それすらも気がつけない恐ろしさよ。

 だから改めて思うのです。『このまま終わってしまっては、オレの人生ゼロだな。何とかしなきゃあな』と。
 世に歌は星の数ほどあれど、同校歌は私にとって第一の「人生の応援歌」です。校歌はつくづくありがたきかな。   十三夜(後の月)の夜更けにー

 (大場光太郎・記)   

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鰯雲(鱗雲)

   遠き日の故郷の空ようろこ雲   (拙句)

 ここ何日か暖かい日が続いています。きょうも10月下旬にしては、通りを歩いていても思わず日陰を歩きたくなるような強い陽射しで、少し汗ばむくらいの陽気でした。
 午後風はやや強いものの、決して寒さをもよおすような風ではなく、肌に当たればむしろ心地よいほどの風です。しかし季節は争えないもので、真っ青で天まで抜けるような青空には、秋の徴(しる)しの一つである、鰯雲(いわしぐも)またの名を鱗雲(うろこぐも)が中空一面を覆っていました。

 角川文庫版・俳句歳時記「秋の部」によりますと、
 「秋によく見る鰯雲は、巻積雲あるいは高積雲のこと。さざ波にも似た小さな雲片の集まりで、この広がりは小さいことが多いが、一端が地平線まで延びていたり、空に一面に広がっていたりする。魚鱗のように見えることから鱗雲、鯖の背の斑紋(はんもん)のように見えることから鯖雲(さばぐも)などともいう。この雲が出ると鰯が集まるといい、そこからこの名(鰯雲)がついたといわれる」と述べてあります。

 うろこ雲、いわし雲と言うと、やはり北の我が故郷の、遠い少年時代の頃の秋空を思い出します。
   夕空晴れて秋風吹き
   月影落ちて鈴虫鳴く
   思へば遠し故郷の空
   ああ父母いかにおはす   (唱歌『故郷の空』1番)
 侘しさを誘う秋という季節もあいまってか、空にこのうろこ雲を見るとなぜか郷愁に駆られるのです。それは、現実的な郷里への望郷の想いというよりも、遠く過ぎ去った故郷での日々への郷愁の方がより強いようです。
 
 空にその雲を仰ぎ見ながらまた、映画『鰯雲』のことが思い出されました。この映画のことは、去年の『夕焼け小焼け』記事で少し触れましたが、厚木市が生んだ農民文学者の和田傅(わだ・でん)の同名の小説を映画化したものです。
 制作発表は昭和33年。監督は成瀬巳喜男、脚本は橋本忍。当時の厚木付近の農家の、当主、嫁、姑、息子たちの姿を、ある年の早春から初夏にかけての季節を描いた作品です。

  女学校を卒業後、厚木在の農家の嫁になった主役の八重を、淡島千景が演じていました。女優としての華は隠せないもので、農家の嫁にはあるまじき仄かな色香漂う好演が光りました。八重は、厚木通信部に赴任してきた某新聞社の記者・大川(木村功)とふとしたことから知り合い、うたかたの恋に発展するも、大川が東京本社に戻るとともに恋は終わりを告げる。それをメーンテーマに、八重を取り巻く人間模様も随所に描かれていました。
 小林珪樹、中村雁治郎、杉村春子、新珠三千代、加東大介など懐かしい往年のスターたちが、しっかり脇を固めたなかなかの名作でした。

 この映画は、過去にテレビでも何度か放映されており、私は2回ほど観ました。また当市が舞台の映画ですから、厚木市の出先機関である「郷土資料館」の視聴覚ライブラリーにビデオが置いてあり、3年ほど前借りて観たこともあります。
 かれこれ40余年住んでいる私は、厚木市はもう第二の故郷のような感じです。まだ高度経済成長に到る前の昭和30年代前半の、大山の麓の厚木ののどかな農村風景がドラマの展開の合間、合間にふんだんに描かれています。それがこの映画の詩情を一段と高める効果をもたらしており、何となく懐かしささえ感じたものでした。

 原作者の和田傅は、農民文学作家として、農民の土地への執着や農村の変化などを描き続けました。
 1900年(昭和33年)愛甲郡南毛利村(現厚木市南毛利)の恩名(おんな)の生まれ。旧制厚木中学(現厚木高校)を経て、早稲田大学仏文科入学、1923年(大正12年)同大学卒業。その年初めての作品『山の奥へ』を発表しました。
 1937年(昭和12年)『沃土』で第1回新潮文学賞を受賞し、一躍有名になりました。戦後の1954年(昭和29年)日本農民文学会の初代会長となり、翌年神奈川文化賞を受賞しました。1980年(昭和60年)厚木市初の名誉市民となるも、同年10月24日亡くなりました。享年85歳。
 代表作は、『沃土』『門と倉』『大日向村』『日本農人傅』『鰯雲』など。

 私は、生前の和田傅を一度だけお見かけしたことがあります。昭和45年過ぎ頃のことでした。当時は測量の仕事で当市内を回ることが多く、やはり同業務の折り、恩名地区の路上で偶然出会ったのです。
 お宅が近く、散歩の途中ででもあったのでしょうか。和田傅は裏道を悠然と歩いていました。痩せ型の長身で、和服のその姿は「鶴のような」という表現がぴったりのお姿でした。何やらとっくに解脱したような、枯淡で超然とした風貌にお見受けしました。

 (大場光太郎・記)

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『ヴィヨンの妻』など

 今年は作家の太宰治生誕100年だそうです。太宰は1909年(明治42年)6月19日生まれですから、なるほどちょうどそうなるわけです。
 ちなみに太宰治とまったく同じなのが、松本清張(同年12月21日生まれ)だそうです。しかし2人は個性も作風もまるで違う上、太宰の方は戦前作家、そして清張の方は戦後作家というイメージがあります。それもそのはずで、太宰が愛人山崎富栄とともに玉川に入水心中したのが昭和23年6月13日38歳のこと。その時清張はまだ作家活動はしておらず、ようやく処女作『西郷札』を書き始めたのがその翌年、清張40歳過ぎのことだったからです。

 ともかく節目の今年は、太宰治に関するイベントがけっこう多いようです。その一環として太宰の代表的な作品が、今年相次いで映画化されています。まず手始めは、6月頃に封切られた『斜陽』です。原作『斜陽』は、青森県五所川原市の生家が「斜陽館」(太宰治記念館)として残されているほどの、彼の代表作の一つです。
 高校2、3年の頃、学校の図書館で借りて一気に読み通し1日で読み終わりました。何事にも過敏感激症(裏を返せば過敏落込み症)だったあの頃の私は、心の底まで嬉しくなるような感動を覚えました。しかし漠然とながら作家を夢見ていた私は、同時期読んだ夏目漱石の『こころ』、島崎藤村の『破戒』、志賀直哉の『城の崎にて』、谷崎潤一郎の『春琴抄』などとともに、その完成度の高い作品に圧倒され打ちのめされもしたのでした。

 その時以来、『斜陽』は一度も読んでいません。確か戦後まもなくの頃の、没落華族令嬢がヒロインだったかな?くらいで、詳細なストーリーなどまるで思い出せません。『斜陽』だけではありませんが、あの頃あれほど感動した諸作品を、60歳過ぎた今読み返してみたらどんなだろう?と思うことがあります。案外面白い試みであるかもしれません。

 続いて今映画『ヴィヨンの妻』が公開されています。監督は根岸吉太郎で、主演は松たか子、浅野忠信です。この映画について、先日深夜の民放番組で予告編をやっていました。面白そうなので近いうち観てみようと思います。それに先立って、短編で読みやすいため原作をざっと1回読んでみました。
 そして同時に『パンドラの匣(はこ)』という作品も映画化されているようです。これは監督が冨永昌敬、主演は窪塚洋介。窪塚といえば、数年前横須賀の自宅マンション9階から謎の空中ダイブをし、一時は重体となりましたが、九死に一生を得てその後タレント復帰を果たしました。同事故をめぐっては、「あれは薬物以外考えらんねえぞ」という噂もありますが、さてどうなのでしょう。この映画は観るかどうか決めていません。その時の気分次第ということで。

 さらに来春には『人間失格』が封切られるようです。
 『人間失格』については些細な思い出があります。今から20年以上前のこと、私が本厚木駅目指して歩道を歩いていた人影まばらなある午後のこと。すると駅の方から一人の女性がやって来るのが見えました。見たところ20代後半くらい、やや大柄で太めな感じです。私がその女性に目がいったのは、何と本を読みながら歩いているからです。『今時、女二宮金次郎か?』。ついぞ出くわしたことのない光景に、すれ違いざま何の本なのか確かめたくなりました。読んでいるのは文庫本、そしてちらっとタイトルも分かりました。『人間失格』。
 彼女は知的に見えないこともないけれど、器量はイマイチ、はっきり言って不美人。おそらく電車の中でも読んでいて、止まらなくなったのでしょう。周りのことなどまるで眼中になく、本に釘付けのまま遠ざかっていきました。私は一度後ろを振り返って、『ありゃ、かぶれてるわ』。

 ことほどさように、太宰治の作品は読者をとりこにする魔力のようなものがあるようです。彼の独特な文体や、言葉の魔術師的技巧、思わず蕩(たら)されそうな機微をうがった描写などによるものなのでしょうか?それが証拠にこの『人間失格』は、新潮文庫中漱石の『こころ』と何十年も売上げ累計トップを争っているのだそうです。
 私はその何年も後40代前後の頃、はじめて『人間失格』を読みました。もちろん感受性は鈍磨し、人間世界の垢がずいぶんくっついた身。それなりの面白さは感じたものの、『斜陽』の時のような沸き立つような感動など望むべくもありませんでした。しかしそうは言っても、太宰最晩年の遺作とも自叙伝的とも目されている作品。この映画化は今から楽しみで、その前今度はもう少し丹念に読んでみようと思います。

 最後に『ヴィヨンの妻』を読んだ感想らしきものをー。
 『斜陽』と同時期の昭和22年の作品です。さすが太宰は小説の名手、『うまいなあ』の一言です。大谷というはちゃめちゃな売れない詩人の妻の視点から描かれた短編です。
 最近の文体の流れは、シャープで小気味よい短いセンテンスが主流であるのに、この短編は会話文でも地の文でも、話があっちに飛んでこっちに飛んで、いつ終わるかしれないほどやたら長い文章で、しかしこれも太宰は戦略的にそんな文体にしたのに違いなく、なるほど最後でぴたっと筋道がついて、大谷や大谷に戦前から飲み代を踏み倒されっぱなしで、しまいにはタンスの中の年越しの虎の子の五千円まで盗まれる飲み屋の夫婦のことも、語り手の妻のことも、彼らを取り巻く状況も戦後まもなくの逼迫した世相なども、何もかも判然としてくる仕掛け、この辺が太宰の真骨頂に違いありませんです。

 しかし読みながらタイトルにある「ヴィヨン」とは一体何者、それでタイトルの『ヴィヨンの妻』とは何を暗示しているのかしら、と疑問を感じながら読んでおりましたら、ありましたのです文の途中に、それは「フランソワーズ・ヴィヨン」という詩人として出ていましたので、これはまた太宰創作の架空の人物か、はたまた19世紀末フランスのボードレールのようには売れなかった退嬰的な詩人の名前を拝借したものかと推量し、しかし気になって調べてみましたら、意外なことに実在の人物で、何と15世紀中世フランスのけっこう有名な詩人、貧しい生まれながらパリ大学にも入ったはいいが、生来のアウトサイダー的、破滅型的性格から盗賊団や売春婦と付き合い、身を持ち崩しながらも後世に残るような瑞々しい詩を書き上げ、30歳過ぎた頃忽然と歴史から消え去ったという大変面白い人物で、無頼派の太宰は自分と響きあうヴィヨンを知って、その人物に託して大谷なるデカダンな人物像を作り上げたものなのでございましょう。

 と太宰の文体を少し模倣して述べてみました。作るにも読むにも骨が折れますね。ともあれ、映画『ヴィヨンの妻』は原作をどのように料理しているのか、大谷の妻を松たか子はどのように演じているのか、楽しみです。

 (大場光太郎・記) 

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『天地人』について(16)

 米沢移封をめぐって

 関が原の戦い(慶長5年旧9月15日-1600年)は、徳川家康(松方弘樹)率いる東軍の勝利で終わりました。石田三成(小栗旬)は敗れて逃走するも、捕らえられ処刑されました。個性的な演技が光った小栗三成が見られなくなるのは残念ですが、私としてはその後の展開にはことのほか興味があります。

 というのも、西軍側に味方した会津上杉藩が、いよいよ我が郷土の出羽の国・置賜(米沢)に移ってくることになるからです。昔は上杉藩領であった山形県東置賜郡出身の私としては、やっと子供の頃から知っていた上杉藩の物語が始まるんだな、という感じです。
 しかし私が郷里で過ごしたのは18歳の時まで。したがって上杉藩のほんの上辺を知っていたに過ぎません。今回の『天地人』の米沢移封をきっかけとして、改めて「米沢上杉藩物語」を学び直したいと思います。

 第40回は「上杉転落」第41回は「上杉の生きる道」で、米沢への移封、減封の次第が描かれていました。
 関が原で西軍に加わった各大名には、当然厳しい処分が待ち受けていたわけです。上杉とて同じこと、お家の取り潰しも覚悟しなければならない局面です。そんな厳しい状況の中で、上杉景勝(北村一輝)と直江兼続(妻夫木聡)の主従はどうその難局を乗り切っていったのか。その辺のところが、このドラマのテーマである「義と愛」に沿った美談仕立てで描かれていたように思います。

 美談のはじめは、兼続が徳川家康の参謀格の重臣・本多正信(松山政路)のもとを訪れ、本多家に直江家の家督を譲るということを切り出したことです。もちろんこれには名門直江家の息女である、妻お船(常盤貴子)は反対なわけです。そうなれば嫡男の竹松(加藤清史郎)が直江家を継ぐことは出来ず、あまりにも不憫であるという理由もありました。
 しかしそのことに誰よりも心を痛めているのは兼続自身。だが上杉家を存続させるためには、どうしてもそうしなければならないのだとお船を説得します。わが身、我が肉親、我が家系をまず犠牲にしてお家の存続を図るという、まさに「苦肉の策」といったところでしょうか。

 それを正信から聞いた家康も、「そうすれば直江家を通して、徳川が上杉をコントロール出来るというわけじゃの。悪くないのう。その話進めよ」となります。
 そのような兼続のお家存続の努力に加えて、「義と愛」に心動かされたか、東軍に味方した福島正則(石原良純)や関が原の最重要局面で東軍に寝返った小早川秀秋(上地雄輔)などが、上杉存続に尽力します。その結果淀殿(深田恭子)に呼び出された家康が、豊臣秀頼の一言でしぶしぶ上杉存続を認めさせられたという筋立てでした。

 しかし実際はどうだったのでしょう?確かに西軍についた各大名はことごとく所領没収などの憂き目にあいました。豊臣秀頼ですら、それまでの近畿200万石から摂津、河内、和泉3ヶ国65万石にまで減封されています。それからすれば上杉も、所領没収となってもおかしくはなかったわけです。
 しかし家康の上杉への処遇は当初から決まっていたようです。本多正信に対して家康は、「何しろ謙信公の上杉じゃ。無くすわけにはいかぬ」。もちろん老獪な家康の腹のうちは、軍神・謙信への尊敬だけではありません。「それにのう。上杉はなかなか強い。敵に回すよりは味方にして使うべし」。これが当初からの家康の本心だったようです。

 それだけ謙信以来の上杉家の武勇が天下に知れ渡っていたこと、豊臣政権下で景勝は家康と共に五大老の要職にあったこと、兼続という無類の軍師がついていること。いろいろ考慮すれば、ここで上杉への対応を間違えれば上杉軍は捨て身で戦い、それに呼応して徳川に不満を持つ諸国の武将たちが秀頼を旗印に第二、第三の関が原を起こしかねない。そうなれば、「天下統一」という徳川家康の野望は潰(つい)えかねません。
 領地没収、断絶に到らなかった上杉への処遇は、家康の度量の大きさを物語るものであると共に、その深謀遠慮が働いた結果であるとみるべきです。
 なおこの決定と同じようなケースが、同じく五大老で関が原では総大将だった毛利輝元(中尾彬)への処遇です。やはり120万石から周防、長門の2ヶ国(後の長州藩)の30万石に減封され、高齢の輝元は隠居し嫡男の秀就に家督を譲っています。

 家康と交渉のため、景勝と兼続が上洛したのは、関が原合戦の翌年の慶長6年7月のことでした。大坂に入った兼続は本多正信と下交渉に入ります。時に正信60余歳、兼続40歳をわずかに過ぎた頃。
 その結果、「領地は置賜(おいたま)と陸奥信夫(むつしのぶ)、伊達(だて)である。それでよしとせよ」と正信に告げられます。置賜は(現山形県の)雪深い山国の盆地でしたが、それに(現福島県の県北地方の)信夫と伊達が含まれていたことは、上杉としてもありがたかったはずです。両地方は旧伊達家の領地で、阿武隈川が流れみちのくの奥大道、その上地味も豊かで、交通の要衝でもあったからです。

 上杉は本多正信が窓口で良かったとみるべきです。三河出身の正信は幼少から家康に仕え、事務方の筆頭にまで上った人物です。古参の武断派からは敵視されていたものの家康からは深く信任され、江戸では総奉行として辣腕をふるい、徳川幕府250年の基礎を固めた功労者の一人です。
 上杉家存続のため直江家の家督を差し出したというのは多分に美談と見るべきで、その交渉の過程で正信、兼続共に肝胆照らし合い、互いの人物にほれ込んでいった。したがって本多家から直江家への婿養子の話は、その後の交流の過程で自然と出た話ではなかったかと思われます。

 ともかく。上杉のそれまでの領地は、会津、置賜92万石、佐渡13万石、出羽庄内14万石の約120万石でした。それが置賜、信夫、伊達の30万石、一気に1/4にまで減封されることになったのです。お家断絶は免れたものの、上杉家始まって以来の厳しさであることに変わりはありません。
 この厳しい事態を受けて、さて直江兼続はどんな手を打っていったのか。それは既にドラマでも描かれていますが、また近いうち述べてみたいと思います。

 (大場光太郎・記)

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夜討ヶ窪と云ふ地名

   秋風や夜討ヶ窪と云ふ地名   (拙句)

 過日の台風18号は「非常に強い台風」ということで、さては数年前アメリカ南部各州を襲ったカテリーナクラスの超強力台風上陸かと覚悟していました。それに2年ぶりかで日本列島のどこかに上陸ということですから、不安は倍増されました。
 しかし実際は8日愛知県の知多半島かどこかに上陸後、確かに通過した都道府県に被害はもたらしたものの予想以上に深刻なものではなく、列島北上後北海道の太平洋上にまた抜けてくれました。
 
 それ以降は秋雨前線もどこかに退いてくれて、連日まあまあの秋晴れに恵まれています。ただ代わって西高東低の冬型の気圧配置が早々と現れ、連休中はうすら寒い日もありました。そんな日は秋風が分けても身に沁みるものです。
 しかし変わりやすきは秋の空。本日はすっきり大快晴で汗ばむほどの陽気でした。だからきょうは特別風を意識するほどのこともなかったものの、季節柄なぜか「秋風」が想われました。

 古来「秋風の歌」として有名なのは、かの万葉歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)の歌でしょうか。おっと、危うく以下に引用しそうになりましたが、この歌はいずれ『和歌・短歌鑑賞』でご紹介したいと思いますので、その時まで未公開とさせていただきます。
 代わってといっては何ですが、私の拙い句を冒頭に掲げました。これは今から7、8年前に作ったものです。秋風というそこはかとなく哀れをさそう季語の上、さらに夜討ヶ窪ですから。何か総毛立つようなおどろおどろしい句であるかもしれません。

 しかし「夜討ヶ窪」は、当厚木市に実際あった地名なのです。「実際あった」と過去形なのは、その後町名変更によりどうなっているか分からない、多分無くなった可能性の方が高いと思われるからです。
 もちろんそんな地名、厚木の旧市街ではありません。場所は当市の西外れに近い「飯山(いいやま)」という大字(おおあざ)地内の小字(こあざ)名だったのです。東京など関東にお住まいの方なら、飯山は「飯山温泉」や「飯山観音」でご存知かもしれません。しかし飯山はかなり広い地域で、夜討ヶ窪は飯山の南外れ、北側の飯山観音に隣接した飯山温泉の近くではありません。いや、かなり遠いです。
 どちらかといえば、これも有名な「七沢(ななさわ)温泉」の方が近いくらいです。もっといえば、以前厚木市に青山学院大学キャンパスがありましたが、同学園はさらに近いです。(ただし同大学キャンパスは、2003年相模原に移転したため閉鎖となりました。)

 多分古くからの地元の人しか知らないであろうそんな地名を、元々の地元の人間でもない私がなぜ知ったかといいますと、以前の職業柄でです。
 以前何度か述べましたが、私が当地に来て最初に就いた仕事は測量でした。町の小さな測量事務所ですから、広大な土地の測量はあまりなく、小規模宅地造成や個人が農地転用、宅地化して転売などに伴う分筆(ぶんぴつ)など、表示登記がらみの土地家屋調査士業務が主体でした。詳述は省きますが、それには横浜地方法務局厚木支局で閲覧した、「公図(こうず)」という各土地土地の古くからの地図が必要だったのです。(ただしその後法務省もコンピュータ化され、今では旧来の不正確な公図に代わり、かなり精度の高い「旧土地台帳附属地図」として、市民などからの請求があればコンピュータからすぐ取り出せるシステムになっています。)

 今から35年も前私がまだ20代の頃、業務上で飯山の同地区の公図を調べていた時、たまたまその字名(あざめい)を発見したのです。『へぇー。おもしれえ地名だなぁ』と思い、記憶のどこかに残っていたわけです。
 昔の地名というのは、何かしらその元になった謂われなり出来事などがあったものなのでしょう。ですからこの「夜討ヶ窪」でも、昔々江戸時代あたりその辺で、ばっさり夜討ちで斬った者と斬られた者がいたということなのではないでしょうか?もちろんその当時はまったく灯りなどなく、真っ暗闇の夜中にです。
 それが当時としては周辺どころか、瓦版級の殺人事件、ビックニュースとなって近隣近郷に噂が広まるほどだった。それが後々まで人々の記憶に残り、いつしかその土地は夜討ヶ窪という地名になっていった、というようなことではないでしょうか?

 その辺は公図から判断するに、少し距離は離れているものの、名門ゴルフコースの本厚木ゴルフ場と同じ高台の一角だったようです。その辺にたまたま窪んだ一角があったのでしょう。私が当地に来た昭和40年代は、その辺一帯は見渡す限りの田園風景が広がっていました。(もっともその手前は、市街から高台の入り口に名門厚木高校があり、緑ヶ丘という規格化されたネーミングの広い住宅地、さらには「尼寺原工業団地」というこれまたおかしな名前の工業団地がありましたが。注-今もあります。)
 しかし今ではその辺は新しい幹線道路も整備され、同路線沿いにはきらびやかな店舗が続いています。そしてその一帯は大住宅地です。今となっては、その辺を車で通ってみても、「さて、どこが夜討ヶ窪であるのやら」というほどの変わりようです。

 (大場光太郎・記)

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乞食さんの思い出

 『差別用語・考』で述べましたように、乞食(こじき)とは一般的に、「周りの人たちに物乞いする人」のことをいいます。以下に語る人たちが果たしてそれに該当するものなのかどうか、私には判断がつきません。あるいはもっと別の分類をすべき人たちなのかもしれません。ともかくも私の人生につかの間現れ消えていった、今となっては懐かしい人たちです。
                        (1)
 昭和30年代前半は、我が国が高度経済成長に離陸する前の時代。世の中全体が、映画『ALWAYS 3丁目の夕日』のような貧しいけれどどこか温もりのある時代でした。
 貧しい中でもひときわ貧しい人もいました。どういうわけか住む家がなく、川原のどこかをねぐらにしているような人たちです。私の郷里の山形県東置賜郡宮内町(現南陽市宮内)にもそんな人がいたのです。
 当時私は小学生。再三述べましたように町の母子寮に母らとともにお世話になっていました。母子寮は町の東外れ、二、三十メートル行けば吉野川に出られます。私が幼少を過ごした太郎村の家のすぐ側を流れていた同川も、数キロ下流の町場を流れる頃には川幅も大きくなり、それなりの中小河川の風格も備わります。

 その川を数百メートル上流に行った辺りに、当時頻繁に出没していた人がしました。近所の人たちはその人を「キツタロさ」と呼んでいました。正式に書けば「吉太郎さん」とでもなるのでしょうか。
 その人が私が最初に目にした乞食さんなのです。ずんぐりむっくりした初老の男性でした。いつもうす汚いよれよれのどてらのような着物に腰紐をしめた姿。子供達は乞食とばかり思い込んでいましたが、実はキツタロさが物乞いして歩いている姿を見たことはただの一度もありません。それもそのはず、その人には一応れっきとした仕事があったからです。

 その仕事というのは、「廃物集め」今でいう廃品回収業です。キツタロさの姿が見かけられるのは、決まって吉野川原のその辺ででした。すぐ上の方に古い木橋が架けられていて、山の方に行けるようになっていました。だからキツタロさも、たいがいがそうであるようにその橋の下辺りをねぐらにしていたものなのでしょうか。
 
 当時の子供達特に母子寮暮らしの私には、日々の小遣い銭などめったに与えられるものではありません。しかし寮の道を挟んで対面に駄菓子屋さんがあり、そこに「一粒百メートル」などという殺し文句入りのグリコのキャラメル、小さな袋に入って当たるともう一袋ついてくる甘納豆、舐めていると色が赤や緑にころころ変わる変わり玉などといった、子供の目を幻惑し食欲をそそる品々がどっさり置いてあるのです。

 そこで小学校4、5年の頃小遣い銭欲しさに、学校が終わると近所の仲間と共に、川原辺りに行って空き缶やら鉄くずなどを集めたものでした。まあ「俄か子供廃品回収業」といったところでしょうか。それを袋か何かに詰め込んで、川の土手道をさかのぼってキツタロさの所に持っていくのです。
 今もそうでしょうが、当時も並みの鉄くずよりも「アカ」や「アルミ」の方が値打ちがありました。アカとは銅線のこと、アルミとはアルミニュームのことです。ですからその方が金になるのでアカやアルミ主体に方々を漁るのですが、これがなかなか見つからないのです。
 ともかくそうして集めた廃物を「キツタロさ、これ買ってけろ」と言うと、「ああ、いいよ」とばかりに引き取ってくれたのです。そして廃物を受け取って、磁石で鉄くずとアカやアルミをより分けたキツタロさは、私たちに報酬として30円とか50円とかをくれるわけなのです。
 さあ現金を受け取った私たちは、一目散に件(くだん)の駄菓子屋に走って行ったことはいうまでもありません。

 キツタロさはいたって気のいい人で、まず怒るということのない人でした。それに近所の噂では、頼まれれば自分の下半身を見せてくれるというのです。いたずら盛りの私たちはそれに興味を持って、ある時仲間内で本当かどうか確かめてみることにしました。
 その時は確か廃物は持っていかなかったと思いますが、3人位でキツタロさのいるいつもの川原にそっと近づきました。そしてキツタロさを取り囲みながら、誰かが「キツタロさ。キ○○マ見しぇでけろ」と切り出しました。
 するとキツタロさは私たちの要望に快く応じてくれ、無言で着物の下をベロッとめくってアレを出して見せてくれたのです。それは、キツタロさの背丈のようにずんぐり縮こまったどす黒いものでした。私たちは物珍しげにそれにしばし見入ったのでした。

 しかしキツタロさとはそれが縁の切れ目になりました。私たちには何か見てはいけないものを見てしまったという後ろめたいような気持ちがあり、それからは廃物集めをしなくなりキツタロさとは会わなくなったからです。
 それから2年ほどすると私は中学生になり、その川原の土手道が通学路になりました。しかし朝晩通るにしては、どうしたことかキツタロさの姿を見かけることがなくなりました。  (以下「続」につづく)

 (大場光太郎・記)

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十六夜(いざよい)

   十六夜の窓辺に寄りし人の影   (拙句)

 きのうの十五夜は既報のとおり雲が多い夜空となり、名月が見られるかどうかはらはらさせられました。雲間より十五夜月がその全貌を現し、そして黒雲の間に紛れ込んでしまった午後6時前頃。満月本来の溢れる光が全く遮られてしまうほど、空全体が漆黒の闇に覆い尽くされてしまい、もうこれきり今夜は無月になってしまうのだろうと思いました。

 しかし変わりやすきは秋の空、それは夜空とて同じこと。7時過ぎあまり期待もせずに夜空を仰いでみると、あれほど全天をすっぽり覆っていた雲が特に中空では切れ始めていて、名月は雲を透かして全貌が見えたり、雲間からすっかり姿を現したりしていました。その時分満月は、夕方の黄金色から冴え冴えとした白銀に面を変えています。
 それからずっと見続けるわけにもいかず、時折り見てみるに、依然雲間を出たり入ったりの観月ショーが夜通し見られたようです。

 きょう10月4日は、きのうとはうって変わってすっきりした秋晴れの一日となりました。日曜日でもあり、各地の行楽地は家族連れなどでさぞ賑わったことでしょう。我が国でこのようなレジャースタイルが始まったのは、意外に早く大正時代のことでした。都会から郊外に電車が開通したことによりまたその後の自動車の普及により、一般庶民にとっても都市から近郊へ、さらに遠い行楽地へというレジャーの流れが確立していったのです。

 ともかく夕方になっても雲一つないと形容してもいいような、すっきりした秋の夕暮れ。ある家の庭には他の植木に混じって柿の木が見られます。実が大きく黄色に熟して、たわわに生っています。
 またとある家の建物に隣接した所には、平屋の屋根と同じ高さの酔芙蓉が見られ、今を盛りと花を咲かせています。まるでプラタナスの葉を思わせるような大振りな葉が全体に繁り、その所々からそんな葉に不釣合いなピンクの見事な花が開いているのです。なるほど酔芙蓉は、日照の加減なのか気温の加減によるものなのか、ある時は白々とした色で、またある時は本当にほんのり酔った佳人の頬のようにピンクがかった芙蓉さながらのゴージャスな花です。
 また少し近郊に車を走らせますと、当地では既に稲刈りを済ませた田んぼも見られます。まだの田でも稲穂が黄色く色づき重そうに下に垂れています。
 街並みのようすも街の景観の添物として置かれた自然の種々(くさぐさ)も、皆々静かな秋の夕暮れの佇(たたず)まいです。

 今宵も十六夜(いざよい)の月を見ようと、中津川堤防道に向かいました。そこでは東の空が川向こうに大きく広がって見渡せます。午後5時20分、何と既に十六夜月は昇っていたのです。いつもの堤防中段では、十六夜月は川向こうの大きな工場の陰に隠れてしまいます。そこで少し上流側の中段にずれて座りました。
 その位置では月は工場の左側、そこの屋根より少し低い所に昇っています。満月といっていいほどの大きなまん丸月です。わずか何分か見ているさえ月の上昇は明らかで、月は工場の屋根と肩を並べ、そのうち屋根を抜き去ってぐんぐん昇っていきます。それとともに見始めの頃は薄ぼんやりした明るさだったのが、暮色の深まりとともにくっきり明るさを増していきました。

 川そのものも静かな秋の夕川原の趣きです。この時期最近のぐずつき気味の天候の割には、川の流れはやや少なく穏やかです。下流からの南風のせいか、水面(みなも)が川上側にわずかに波紋して広がっている感じです。
 下流の大堰のこちら側に、見れば十羽ほどの鴨の群れが気持ち良さ気にめんめめんめに泳いでいます。
 こちら岸の水辺の葦群れも向こう岸の葦原も、天辺に穂波が連なって白く見えています。ことによく見えるこちら岸の葦群れは時折り吹きつける下流からの川風に、緑の葉も枯れた葉もかさこそ音を立てながら、白い穂とともに上流側に身をなびかせます。

 葦原の手前に私の位置より少し上流側に、8月上旬頃雑草を総刈りして以降生えたものと思しき、背の低いコスモスが一株夕風に吹かれながら咲いています。数年前まで上の堤防道の両側には、この時期コスモスが連なって咲いていて見事でした。それがいつしか同じコスモス科のオレンジ色の外来種に乗っ取られ、本来のコスモスはどんどん姿を消しつつあります。
 だからそうしてぽつんと数輪咲いているコスモスは、言ってみれば上の道に連なって咲いていたその忘れ形見。募りゆく暮色の中で、可憐さの上どこか哀れさを感じさせます。

 川にあって鳴く虫は早や盛りをすぎたのでしょうか。一頃のようなあっちこっちからひっきりなしにリンリンとではなく、葦陰の遠い所からか細く聴こえるのみ。
 午後5時45分。周りはすっかり夕闇に包まれ、十六夜月はいよいよ輝きを増し加え、早やもう工場のだいぶ高い所まで昇っています。川を見れば、何十メートルかの川幅いっぱいに、月影が千切れ揺らめきながら一本の帯のように連なって映っています。
 その様を眺めやった帰り際。近代西洋のさる画家が、水面に映じた月影によほど魅せられたらしく、何枚もそれを画題とした絵を描いていたことをふと思い出しました。

 (大場光太郎・記) 

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ドキュメント・お月見

   空黒く名月行方不明なり  

   十五夜の路地に一つの夢こぼす   (以上拙句)

 本日10月3日は旧暦の9月15日すなわち「十五夜」です。秋雨前線停滞や太平洋上の台風などのせいか、9月末頃から雨がちのぐづついた天気が続いています。
 きょうは雨こそ降らなかったものの、朝から分厚い雲が全天を覆うあいにくの空模様でした。普段の日ならば、ちょいと外出するにも遠出するにしても「雨さえ降らなければОK」のはずですが、十五夜のこの日ばかりはそうはいきません。

 十五夜の満月がくっきりと見られる良夜であるためには、全天を覆い尽くすこの黒い雲がきれいさっぱりなくなること、しかし日中のこの雲の具合からしてそれが難しいのであれば、せめて空全体の何割かでも雲が切れて、そのあわいから十五夜月が望めれば良しとしなければなりません。
 『でもそれすらムリかもな』と半ばあきらめかけていた午後4時前後。東の方の空の雲が少しずつ切れ、水色の澄んだ空の色が見え始めたではありませんか。そして夕色が兆すとともに次第にその辺に占める秋空の割合が多くなり出したのです。

 それより上の中空、西の方の空は依然として薄黒い厚い雲で覆われています。特に西にでんと聳える大山の辺りは黒雲大いにわだかまり、昔からの「大山は雨降り山」の言い伝えどおり今夜の全天のお天気回復は望むべくもありません。だから余計「今月今夜のこの月」は、昇り初め頃を拝するしかないようです。

 と少し経った4時半過ぎ頃から、またまた雲行きが怪しくなってきました。頼みの東の低い空の切れ間がすっかり北の方にずれてしまったのです。月が昇りそうな真東から、おおよその月のルートをイメージするに、その辺は皆悉く分厚い雲に覆われていて。
 「女心と秋の空」とはよく言われてきたけれど、つれないものは十五夜の曇り行く空。そういえば「十五夜に晴れなし」という言い伝えもあるようで、特に関東以西はこの夜晴天に恵まれる確率は少ないとのこと。嗚呼 !

 夕方5時かっきり当市の「夕焼け小焼けチャイム」が鳴り響いた時には、家の中にいると取分け外は薄暗く感じられ、名月を待ち望む心にそのチャイムの音(ね)はもの寂しく聴かれたのでした。
 暮色募りゆく中やはり空模様が気になって、5時15分過ぎ家を出て近郊に車を走らせました。東の方の空が見渡せる辺りで車を停めました。

 やはり覆い始めた薄黒い雲は長々と横たわり、早や夕刻の今はわずかにのぞいている空の色はすっかり色あせて白雲と見まごうばかり。低空の雲の感じから月の出を見ることはとても適いそうになく、東の半ばから上の空にぽっかりと雲の切れ間が広がっており、せめてそこから今宵の名月が顔を出してくれることを待ち望んだ次第。
 ただ雲の移ろうさまは無常なる人間世界の移ろいにも似て、一寸先の予断つき難し。さてどうなるものかと、私は近くのスーパーに向かったのでした。

 スーパーの広い駐車場に着いてその一角に東向きに車を駐車させました。そして何気に東空を仰いでみると、何と斜め25度くらいの低空の雲の上から、お月様の天辺がほの見えているではありませんか。時に5時45分。満月というものは午後6時に昇るものと思い込んでいた私には、不意討ちの月でした。
 雲と月の動きは早く、名月は1/2、2/3、3/4と刻々と雲のへりをぬうように。せめて地上で月見を待ち望む者に、その姿を見せてあげようと意思するもののようで。
 私は全体の雲の具合からして、今を逃したら今夜はもう月見は出来ないと思い、せめて一瞬なりとも名月の全貌を見たいものと凝視し続けます。

 名月は再び雲間にもぐり込んだかとみると、遂に雲間を完全に脱してその全貌を現しました。本当に神々しい黄金色のお月様です。時に午後5時48分。
 私はしばしその煌たる大きな光体に見惚れていると、5時51分月の天辺が今度は上の雲に隠れてしまいました。そうなるとあっけないもので、またたく間に半分が隠れそして全体が雲の中にすっぽり隠れてしまいました。後には下の方の雲の縁(ふち)を薄明るく染めて、それがたった今まで名月がその辺に出ていたことのわずかな証明であるばかり。そうしている間にも、雲の薄明かりも徐々にさめていきます。

 『次にまた出てくれるだろうか?』。私は夜空を広く眺め渡しました。すると南の方に星一つ、うっすらと。『シリウスだろうか?』。それすらもあっという間に掻き消えてしまったのでした。
 再び月が出ていた辺りに目を転じてみると、もう黒一色の雲に閉ざされてしまっています。時に5時53分。『今夜はもうムリらしいな』。私はすっかりあきらめて、車から出てスーパー入り口に向かったのでした。

 (追記) ただし午後7時過ぎから中空の雲間が少しずつ切れ始め、その後雲間から出たり入ったりの名月ショーが夜通し繰り広げられました。

 (大場光太郎・記) 

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『天地人』について(15)

 「天地人 小栗三成良い」 「小栗三成 主役の方が良い」

 「天下分け目の関が原」に向けて、あるいは慶長5年旧9月15日(1600年10月21日)同合戦の真っ最中、そして関が原以後と、ここ3話ほどは、小栗旬演じる石田三成を中心にストーリーが展開しているような具合でした。
 もちろん第38話「二つの関が原」にありましたように、関が原の戦いと同時に奥州出羽の国でも、東軍の徳川方に異を唱える上杉軍と東軍方の最上勢との間でも「天下分け目の」合戦が繰り広げられていたわけです。

 しかし本来の主役である直江兼続(妻夫木聡)やその主君上杉景勝(北村一輝)の働きを食ってしまうほど、小栗三成の演技は群を抜いていたと思います。
 冒頭に掲げましたフレーズは、いずれも過去の当ブログ本シリーズにアクセスしてこられた最近の検索フレーズの代表的なものです。それも1人、2人ではありません。何人もの人がこのようなフレーズでアクセスしてこられたのです。いかに石田三成を演じた小栗旬の演技が光っていたか、印象深かったかを物語るものだと思います。

 私はだいぶ前の回で、元服前後の樋口与六(後の直江兼続)が織田信長に上杉藩を代表して会いに行くという、およそ考えられない設定に疑問を呈したことがありました。その時石田佐吉(後の石田三成)役の小栗旬も初登場したのでした。その時の彼のカツラや衣装などから『何だこりゃ。さまになってねぇ』と率直に思ったのでした。私が漠然とながら抱いていた石田三成像とは著しく隔たっていると感じたのです。
 しかし後で分かったことには、当時からそしてその後ずっとそれで通すことになる小栗三成のカツラと衣装は、実は小栗自身のアィデアを採用したものであることが分かりました。なるほどそういえば、回を追って小栗三成の登場場面が増えていくごとにその三成の姿がさまになっていき気にならなくなりました。

 前の記事でNHK総合の『トップランナー』に小栗旬がゲスト出演した時のもようをご紹介しました。小栗はこと演技の道を極めるためには貪欲であるようです。陰の苦労話などを漏れ聞くと、本当に見上げた役者根性だと思います。井上ひさし原作、蜷川幸雄監督の舞台『ムサシ』で共演した、同じ年(26歳)の藤原竜也とは、良きライバルとして互いに切磋琢磨し合っているようです。
 
 秀吉(笹野高史)亡き後の豊臣家を守るべく、豊臣恩顧の諸大名に触れを出し西軍を組織し、徳川家康(松方弘樹)の東軍と全面対決した石田三成。西軍約10万と数の上では、家康の東軍を上回っていたものの。そこは過去に武田信玄との三方が原の戦いなどで大惨敗を喫するなど、戦(いくさ)を知り抜いておりなおかつ人身掌握術に長けた老獪な徳川家康のこと。
 早朝歴史的大合戦の火蓋が切っておとされ、昼過ぎになっても勝敗の行方が分からない一進一退。後は自陣にでんと構えてなぜか動こうとしない小早川秀秋(上地雄輔)が撃って出てくれれば勝算はこちらのもの。そこで三成自身小早川の陣に赴き出撃を促すもやはり動かず。小早川に動いてもらわなければならないのは家康も同じこと。そこでかねて内通していた古今稀なる優柔不断の武将小早川のハラを決めさせるため、小早川陣に鉄砲を撃ち込ませる。ビビッた小早川は、あろうことか西軍の大谷刑部吉継や三成の陣めがけて突進してくる。

 古来多くの歴史家が指摘するように、これが関が原の勝敗の分岐点だったと思われます。その結果本来なら負けるはずのなかった西軍は総崩れ。わずか一日にして関が原合戦の帰趨は決し、その瞬間徳川家康が天下を掌握する舞台が整えられたのでした。
 小早川の裏切りの他にも、福島正則(石原良純)は当初から東軍につき、西軍の毛利輝元(中尾彬)も陣取った山上から様子見して動かなかったなど。歴史的人物としての石田三成は政務には明るくても、大軍を掌握しそれを組織化して手駒のように自在に動かす軍事的才能に欠けていた、そしてよく指摘されるように人望もまた欠けていたことも事実なのでしょう。

 結果石田三成は戦いに敗れ再起をかけて逃亡するも捕らえられ、京の六条河原で斬首の刑に。その関が原以後を描いた第39話「三成の遺言」は、私が思うに『天地人』でも屈指の出来で感動ものでした。捕らえられてから処刑に到るまでの、小栗旬の三成は鬼気迫る演技で。あの若さでこれだけの凄みを出せるとはと唸らされました。
 また以前の関が原物ではただ卑怯者、裏切り者として片付けられていた小早川秀秋の内面、そして東軍についた福島正則の葛藤も描かれていて、これは今までにない視点であり評価したい点です。

 今回は小栗三成のことが主となり、肝心の上杉藩そして直江兼続らのことには触れられませんでしたが。直江兼続の出した「直江状」が徳川家康の逆鱗に触れ、関が原の遠因になったというのはそのとおりかもしれません。直江状を読んだ家康は激怒して、自ら先頭に立ち会津討伐軍を繰り出し、今の栃木県小山市までやってきます。その虚を衝く形で、西軍を組織していた三成が「頃合は良し」とばかりに、北と南の両方から家康を挟み撃ちにしようとしたからです。
 最上義光軍との長谷堂城の戦いは我が出身県での戦いであり、もう少し詳細に触れるつもりでした。しかし残念ながら紙面が尽きてしまいました。いよいよ米沢減封に到る、家康の上杉藩の処罰の次第次回が楽しみです。

 (大場光太郎・記)

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九月尽(2)

   雨しとと家並み木立に九月尽(くがつじん)   (拙句)

 最近は秋雨前線が関東から中国地方まで、太平洋側列島に長く伸びて停滞しているとのこと。そのため前線の刺激により、当地でもきのうきょうは雨がちのぐずついた天気が続いています。
 一年間の月別雨量では例年ならば、二百十日を月初に迎え台風シーズンでもあり、9月は6月と並んで雨の多い月のようです。ところが今年に限っては関東地方の場合晴れの日が続き、おとといまでの9月雨量は例年の20%くらいだったそうです。きのうきょうの雨で例年雨量に少しは近づいたのでしょうか。それにしてはどちらかというと傘も要らないような小雨がちで、さして貢献しなかったかもしれません。

 ですから冒頭の拙句は「雨しとと」でありまして、「雨しとど」でも「雨しとしと」でもありません。「雨しとと」。これはひょっとして私の造語かもしれませんが、それによってそんなに本降りの雨ではないということを表現したかったのです。と俳句において本来こんな説明は不要ですし、してはいけないのかもしれませんが、何せそこは「素人俳人」のこととご寛恕賜りたいと存じます。
                         *
 さて9月も末日ですが、何といっても今月最大の政治的、社会的イベントは、政権交代による鳩山新政権が発足したということに尽きると思います。スタートしてまだ2週間ほどの新政権に早々と評価を下すのはいくら何でも早すぎます。
 それでも順調なすべり出し、スタートダッシュにはまずまず十分成功したと見ていいのではないでしょうか。
 新政権は官邸主導、政治的一元化を目指す目的で、国家戦略局という新しい部局を設置し、初代大臣に菅直人を据え、従前の官僚任せではない政治家主導の姿勢を内外に強くアピールしました。今は「室」であり今後どうしたいのかはまだ具体的には見えてきませんが、早く「局」に格上げして本来の機能を発揮して、「政治改革」「霞ヶ関改革」を進めていってもらいたいものです。

 鳩山新首相自らが、政権発足後1週間くらいで国連の場に乗り込み、気候変動首脳会議の演説で日本は「2020年まで温室効果ガス25%削減」を実施するとぶち上げ、世界中の度肝を抜きまた賞賛もされました。これは我が国にとって、重大な責任を伴う「世界公約」であると共に、環境問題という重要分野で世界各国の中で今後我が国がイニシアティヴを取れるということでもあります。
 思えば自民党政権下での時々の首相といえば、アメリカ様の顔色をひたすらうかがうばかり。「我が国としてどうしてもこれをしたいんだ」という、世界への強いメッセージ発信力は限りなくゼロに近いものでした。とにかくあの国連演説をした鳩山首相の姿に、本来あるべき「プライム・ミニスター(宰相)」を見る思いでした。

 その他藤井財務相、前原国交相、原口総務相、長妻厚労相、亀井金融相など、司つかさで改革のための新機軸を出し合って、脱官僚依存、政治主導の流れを作り出そうとしています。
 そんな中、かつて野党時代の「ミスター年金」長妻大臣に、厚労省官僚は恨み骨髄。それは自分たちの積年のデタラメ、ズサンさを棚上げした逆恨みもいいとこですが、就任時の1階総出迎えでは拍手一つしませんでした。他の官庁は一応は新政権の出方をとりあえずは様子見なのに、この官庁は最初から敵意丸出し、対決姿勢でした。自民党政権の尻拭いといっていい、消えた年金問題、後期高齢者医療や身障者自己負担費、派遣法改正などの見直し、撤廃問題等々。厚生、労働両分野で、手をつけるべき課題が非常に多い問題官庁ですが、とにかく報道されない官僚たちのいやがらせが凄まじく、さすがの長妻大臣も音を上げる寸前との話も洩れ伝わってきています。省益、保身だけの薄汚い厚労官僚なんかに負けるな、長妻大臣 !

 亀井金融相の中小企業の借入金の「3年間モラトリアム」。亀井自身と弱小国民新党をアピールするためのパフォーマンス的意味合いもあるのかもしれませんが、アイディアとしてはなかなか面白いと思います。我が国の9割以上を占める中小企業への目配り。「大企業目線」の自民党政権下では絶対打ち出せない政策です。閣内の藤井財務相はじめ金融機関、経済ジャーナリストなどからも、劇薬だけに副作用を懸念する慎重論が多いようです。
 しかし小泉格差増大政治によって、地方も中小企業も疲弊し切っていて何らかの有効な手立てが早急に必要です。亀井大臣、藤井大臣など省庁横断で十分協議して、最も有効な着地点を探ってもらいたいものです。

 前原国交相の「八ッ場ダム建設中止」も大いに評価できます。建設計画が持ち上がったのは、今から57年前の昭和27年のこと。時代は大きく変わって、途中でダムを作る必要性がまったくなくなったのです。にも関わらず、族議員、天下り役人、一部ゼネコン、おこぼれいただきの各県や周辺自治体のためだけに延々造り続けて、何千億円。詳細には述べられませんが施工上障害が多く、完成まで後どれほどの年数を要するか知れないシロモノです。上記関係者やマスコミがいくら騒ごうが、即刻中止した方がお国のためなのです。
 しかしこの問題の一連の騒動には、政治的転換がいかに難しいか痛感させられました。実際に中止に到るまでは紆余曲折、前途多難が予想されます。だからといって既得権益者たちの言いなりになって続行では、まさに亡国行為です。同ダムは「政官財癒着公共事業」の象徴のようなもといえます。これを中止する意味は測り知れません。全国各地の同様のムダ工事中止の生きた範例となるからです。
 ただダム建設のために翻弄され続けてきた、一番の被害者である地元住民の方々には、個別にきちんと対応し、手厚い保証をお願いしたいと思います。

 その他前麻生政権下での概算要求を白紙見直し、新政権として新規の予算編成をし直すこと。独立行政法人などへのお役人の「天下り禁止」を明確に打ち出したこと等々。政権が変わると、政治はこれほどドラマチックに動くものなのかと驚いてしまいます。
 だがこれらはすべて、霞ヶ関官僚との衝突が避けられない問題です。かのマッカーサーですら手がつけられなかったと言われる、我が国の「官僚機構改革」。初めは面従背服、やがて自分たちの省益が脅かされると分かると、リーク、資料隠し、さぼり、恫喝何でもありのしたたかな官僚たち。
 しかし、伏魔殿的霞ヶ関の深部にまで斬り込まなければ、「真の改革」はないわけです。国民もそれに期待していることを忘れず、今後とも一歩一歩具体的成果に向けて歩みを進めていってもらいたいものです。

 (大場光太郎・記) 

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差別用語・考

 先日あるブログのコメントで、「乞食(こじき)」の思い出話が語られていました。私は興味深く読ませてもらったのですが、しかし考えてみれば乞食という言葉は今日では「差別用語」に当たるものであり使用自粛の方向にあるわけです。
 だったらこの言葉は一切使用してはいけないのでしょうか?さあこうなると大変複雑な問題をはらんでしまいます。今回はこの言葉を契機として、差別用語について少し考えてみたいと思います。

 折角ですから、まずは問題の乞食から始めます。ご存知の方も多いかと思いますが、乞食の元々の意味は仏教用語の「乞食(こつじき)」から来ています。それは比丘(僧侶)が自己の色身(しきしん-肉体)を維持するために食料などを人から乞うことを意味していました。「行乞(ぎょうこつ)」「托鉢(たくはつ)」とも言われ、仏教さらにそれ以前のバラモン教における重要な修行の一つであったのです。

 それが我が国ではいつの間にか、僧侶ではない者が路上などで物乞いをする行為やその当人を呼ぶのが一般的になりました。その転機はずいぶん大昔のことだったろうと思われます。なぜならこの世には「貧富の格差」は古来常に存在していたからです。さまざまな理由から自力で食料などの生活物資の確保がままならず、周りの人々に物乞いして露命をつなぐしか手段のない人たちがいたのです。その人たちを卑しいと見るかどうかは別として、それらの人々はいつの世の最底辺にも存在し続けたのは冷厳な事実です。

 世の種々相を赤裸々に描き抉り取ることを使命の一つとする文学作品でも、乞食は各時代の作品の中でさまざまに取り上げられてきたことでしょう。
 差別用語論議がかまびすしい今日の作家なら、このテーマを描く場合どうするのでしょう?現代ならばホームレスでしょうが、厳密にはそれと乞食とはニュアンスが違います。乞食という言葉は、ある意味立派な文化的伝統を背負ってきた言葉の一つでもあるのです。一時代以上前の時代が背景の作品では、やはり乞食は乞食として表現していく以外に、その時代の雰囲気を正確に伝えることは出来ないのではないでしょうか?

 乞食の例のように、差別用語は特定の属性(例:少数民族、被差別階級、性別、同性愛者、特定疾患の罹患者、職業など)を持つ人々に対する差別を目的として使用されている俗語、蔑称を指す用語とされます。明確な基準があるわけではありませんが、一般的に日常会話においては禁句、また主要メディアにおいては「放送禁止用語」として扱われています。

 差別用語特に放送禁止用語として挙げられている言葉は、実に夥しい数にのぼります。当ブログでこれまで何気なく使ってきた中にも、差別用語・放送禁止用語があるわあるわ。「百姓」「土方」「つんぼさじき」「田舎」「垂れ流す」「狂気」「川向こう」「片手落ち」「芸人」「後進国」「表日本」「裏日本」「身分」「部落」「ヤバイ」…。
 私自身既に使っているから言うわけではありませんが、もしこれらの言葉のすべてを今後一切使用禁止とする、仮に使用した場合は法的に処罰するなどとなったらどうでしょう?私たちの日常会話、文章表現は著しく制限され、言語生活はずいぶん貧しいものになるのではないでしょうか?

 確かに中には、「穢多(えた)」「非人」「廃人」「賎民(せんみん)」など最初から差別を目的として作られた用語もあります。このような言葉は常識的に判断して当然使うべきではありません。その他身体上の障害者に対する「めくら」「つんぼ」「おし」「どもり」「かたわ」なども多分に侮蔑的用語であり、使うのは控えるべきだと思います。(ただ以前の邦訳聖書や文学作品では、これらの言葉も頻繁に使われていたように記憶しています。)

 といっても、「盲人」「盲目」「文盲」もダメというのは、少し行き過ぎなのでは?と思ってしまいます。それらに変わる言葉として、盲人は「目の不自由な人、視覚障害者」、盲目は「分別に欠ける、理性がない」、文盲は「字の読めない人、非識字者」というように置き換えなければならないのです。
 ずいぶん回りくどい表現ではないでしょうか。例えば昔から「恋は盲目」という表現がありますが、これがダメなら「恋は分別に欠ける」?これでは折角の詩的表現が台無しです。

 差別用語あるいは放送禁止用語として無制限に規制の網をかぶせることは、憲法で保障された「表現の自由」を侵害することにもなりかねません。差別用語という言葉の「差別」にもなり、とどのつまりは「言葉狩り」にまで行き着いてしまいます。
 一応は差別用語や放送禁止用語として挙げられている言葉も、時と場合に応じて臨機応変に使用しても良いのではないでしょうか。また差別用語は使っていても、全体としての文脈が必ずしも差別を意味していなければОKということで。時には差別用語を使っていなくても、全体の文意として著しく差別しているということもあり得ます。私はこっちの方がずっと問題だと思います。

 差別用語はもちろん時には大問題となりますが、それより何より当今の極端な格差社会の問題、さらには私たち一人一人の心に潜む「差別意識」の方が遥かに深刻な問題だと考えます。
 というわけで私は自己責任で、使いたい用語は今後とも使っていきます。この問題、皆様はいかがお感じでしょうか?

 (追記) そういうわけで後日、私自身の「乞食さん」の思い出を綴ってみたいと思います。

 (大場光太郎・記)

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9月26日の上弦の月

   半月も地軸も国も傾ぶけり   (拙句)

 当地では、ここ三日ほどすっきりした秋晴れに恵まれています。シルバーウィークこそ終わったものの、いよいよ本格的な秋の行楽シーズン到来といった感じです。

 さて本日は午後から本厚木に行き、7時過ぎに帰ってきました。帰りは乗る時の一つ手前のバス停で降りて、そこから700mほど歩いて我が家に帰ります。行きのバス停より距離はありますが、何せ普段は運動不足の身、努めて歩かねばと本厚木方面に行った帰りは決まってそのコースで帰るのです。
 そのバス停の表通りの反対側のブックオフ店を右折して何10mかすると、近年整備された遊歩道がその道に直行する形で真っ直ぐ先の方まで通っています。私はいつも左折して北に伸びたその遊歩道を通ります。

 整備される以前そこは草ぼうぼうのただの水路でした。草丈の低い冬や春先などはそこの土手を伝って歩けることは歩けます。しかしそこには入らず、もう少し行くと高層団地群の側道があるのでそこを通っていました。
 その水路を市で何年度計画かで整備されたのが今から数年前です。途中2本の車道があり、したがって水路も2つに別れていますので、それを年度を違えて整備工事したのです。水路は幅員3mほどを暗渠にして隠し、表面は茶褐色の歩きやすい特殊アスファルト歩道に、そして両側にはその歩道に並行する形で花壇も設けられました。

 整備したての頃は何となく、それまでの当たり前の自然の姿が損なわれたような違和感がありました。それに私個人の勝手な考えとして、『どうせだったら花壇じゃなく、一定区間に植樹してほしかったな。そうすれば自然の中を歩く感じがもっと出たのにな』と思いました。しかしそれは土台無理な注文で、市の公園緑地課などとしては剪定(せんてい)や落ち葉のメンテナンスで手間のかかる植栽などもとより計画にないわけです。
 それでなくても手前の一本目の遊歩道は、片方に元々あった数本の桜の大木をそのまま残したために、今の季節はその桜落ち葉が路面に散り敷き始めているくらいだし。

 しかし以来その遊歩道には、地元のボランティアのご婦人たちの手によって、四季折々きれいな花々がいつも植えられ、通る人たちの目を楽しませてくれます。さすがに真冬や真夏は花々は少なくなるとはいえ、何しろ総延長で約250mずっと花壇続きです。その手入れの労たるや大変なものだと心のどこかで思いつつ、さながら「花野の道を行くごとし」。私もいつも花々を見やりながら帰っています。
 
 何のことはない、この遊歩道は2本目の車道の先は何度もお伝えしてきた、例の「水路道」につながるのです。ただし水路道の方は、施工はずっと古く遊歩道仕様でもありません。
 さてこの遊歩道をいつものとおり歩いていた私は、2本目の道で何となく後ろ(南の方向)を振り返ったのです。そうしますと、少し西よりの中空に半月が出ているではありませんか。月を眺めたくなった私は、少し先に設けられているベンチに腰かけました。私が座って面している東側隣接地には公民館があります。当地域の行政的なセンターとしての機能を有し各種選挙の投票所であり、またいつぞやお伝えしました当市の防災無線の「夕焼け小焼けチャイム」も、当地区ではここに設置された無線塔から流されていたのでした。

 半月は雲一つなく澄み渡った夜空に冴え冴えと掛かっています。少しばかり傾いた上弦の月です。地上に目を移せば、ちょうど折りよく公民館施設の際に少しばかりのすすき群が見られます。十幾つほどの穂波が、半月の仄(ほの)明かりに白く照らされています。
 遊歩道には一定間隔で街灯が設置されていて、決して暗い夜道といった感じではありません。しかし裏道には違いなく、この時刻滅多に人は通りません。「月にすすき」の風情の上さらに、花壇の花陰のあちこちから、良夜を寿(ことほ)ぐような心地良いすずろな虫の音も聴かれます。

 冒頭の句は、そんな上弦月の風情をそぐような少しブラックジョークがかった句です。これは本日の月を詠んだものではなく、小泉政治華やかなりし数年前半ばヤケクソで作った句です。鳩山新政権になって、少なくとも今のところはこんな句を詠むこともないようです。
 また本記事のタイトルは、それから帰って真っ先に開いたマイブログに、「9月26日6時の半月」という検索フレーズでアクセスしてこられた人がおり、それをちょいと拝借したものです。

 (大場光太郎・記) 

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ブログ背景変えました

   街にふとコスモスありて安堵かな   (拙句)

本日23日は秋分の日です。また同時に秋彼岸の中日でもあります。「暑さ寒さも彼岸まで」と昔からよく言い習わしています。思えば「暖かさ、暑さ」に向かう起点であった春分点から、ちょうど180度真反対に、きょうの秋分点は位置しているわけです。
 10月中旬頃まで、時にまだ暑い日もあることでしょう。しかしそれでもきょうを境に、確実に「寒い季節」に向かうことになるわけです。春分そして今日の秋分の日。なるほど確かに、共に季節を截然と「分ける日」なのですね。

 そのようなことで、季節を分ける秋分の本日、当ブログの背景も模様替えしてみました。いくらなんでも、これから「winter」では寒々しすぎると。候補は幾つかありましたが、これからの季節的なこと、背景全体のバランスなどを考慮の結果、ご覧のとおりの「紅葉(もみじ)」をしばらく採用することに致しました。まだ紅葉の季節には間があり、少し早いような気もしますが…。
 全山ならぬ全背景、紅葉色で少し記事が見づらい、読みづらいかもしれません。しかし「winter」もそうでしたが、そのうち目になじんでくるのでは、と考えております。それでも読みづらい場合は、言っていただければその時点でまた検討したいと思います。

 本日は日本海に秋雨前線が長々と伸び、そのため日本海側の各県は曇り、雨、所によっては雷雨に見舞われた地方もあったのでしょうか?(と推測なのは、本日のニュースよく見ておりませんので)
 当地(神奈川県県央地区)はおかげ様で、多少雲が多目ながらよく晴れた秋晴れの一日となりました。雲も天高き薄い秋特有のすじ雲が多く、そのさまからもいよいよ深まりゆく秋の気配を感じたことでした。

 (大場光太郎・記)

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老いない奇跡

 本日9月21日は「敬老の日」です。わが国の国民の祝日のうちの一日です。「国民の祝日に関する法律(祝日法)」では、「多年にわたり社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨とすると定められています。
 2002年までは毎年9月15日を敬老の日としていましたが、前年の祝日法改正(「ハッピーマンデー」制度の適用)により、2003年からは9月第3月曜日となりました。これにより今年のように、土曜日の19日を休日とすることにより、23日の秋分の日まで5連休となり(22日は振替休日)、5月の「ゴールデンウィーク」に対して新しく「シルバーウィーク」と呼ばれる年も出てきます。

 敬老の日のそもそもの始まりは、戦後間もない1947年(昭和22年)兵庫県多可郡野間谷村(現多可町八千代区)の村長らが提唱した「としよりの日」が始まりのようです。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、農閑期にあたり気候もよい9月中旬の15日を「としよりの日」と定め敬老会を開きました。これが1950年(昭和35年)からは兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がったもののようです。
 その後「としより」という表現は良くないということから、1964年(昭和39年)に「老人の日」と改称、1966年(昭和41年)正式に国民の祝日の「敬老の日」となりました。例えば5月の「母の日」はアメリカにならって導入された記念日ですが、敬老の日は日本独自の祝日であり諸外国には例がありません。  (フリー百科事典『ウィキペディア』「敬老の日」より)

 私も今年4月満60歳を迎えました。意識して気にしないようにはしていますが、「老い」という人類普遍の命題はやはり気になります。ご存知のとおりわが国は世界でも1、2位の長寿大国になっております。それは必然的に高齢化社会に突入していることを意味します。年々出生率が減少しているため、正確には「少子高齢化社会」です。わが国がかつて経験したことのないような、逆ピラミッド型の人口構成になりつつあるわけです。これが、就労人口の減少、福祉、医療費の増大など、現下の難しい社会的問題の一つとなっていて、有効な対応を迫られているわけです。


 私がもう一つ気になったのは、それでは「老人とは何歳からをいうの?」ということでした。『60歳はもう「老人」なのか?まさかそんなことはないだろう』。世の中全般が「こうだ」と物事を規定してしまうと、人はいつしかそれに無意識的に従ってしまう傾向があります。『世の中が老人というんだから、やっぱり年寄り然としていなければならない』というように。私は気になって調べてみました。そうしましたら、あくまで人口動態調査、統計上の数字ながら、
   15歳未満が、幼年人口
   15歳~64歳が、生産年齢人口
   65歳以上が、老年人口
というように大別されるようです。つまり「老人」とは一応65歳以上の方々を言うわけです。私は辛うじて後何年かのモラトリアム(猶予)期間があるわけで、少しほっとした気分です。

 でもそれでは65歳過ぎの方々が、皆々お年寄り然としているかというと、最近の高齢者はとてもお若くてお元気のようです。昨日たまたまテレビニュースを見ていましたが、「日韓交流おまつり」というようなイベントが、東京とソウルで同時開催され、東京の会場で新しくファーストレディになった鳩山幸さんがスピーチしていました。幸さんは66歳、れっきとした「老人」(もっと正確にいえば「前期高齢者」)なわけですが、壇上の幸さんの何と若々しいこと ! 容姿はもちろんながら、そのスピーチが歯切れのよい元気な声でとてもそんなお年には見えませんでした。

 どうも高齢になればなるほど、「若い感じ」「老けた感じ」という個人差がどんどん開いてくるように思われます。その差を現しているのは一体何なのでしょう?気力、精神力などといえば堅苦しくなります。簡単にいえば「生きよう」「生きるぞ」「元気で若々しく生きるぞ」という、「意欲」が強いか弱いかの差ではないのかなと思われます。それと難しいことながら、「自分が一番輝いていた若い時の姿」をいつも心のスクリーンに映し出しているかどうかでしょうか。
 かつてない超高齢社会を迎えつつある今日、何より元気で若々しくあることが、ご本人のためにも社会的要請としても今求められていると思います。

 本記事のタイトルは『老いない奇跡』です。実は本記事はこれをタイトルとする本をじっくりご紹介する予定でした。しかしもう紙面的余裕がありません。そこで取り急ぎー。
 この本は、「老いは必然なのか」という問題提起から始まって、「若返りは可能か」「いつまでも元気で若々しくあるためにはどうすべきか」などを、多角的に述べてあります。1993年アメリカで原書が発売された時は、9ヵ月にわたって全米ベストセラーを記録したそうです。

 誰かの言葉に、「体には栄養を、頭には刺激を、心には感動を」というのがあったように記憶しています。この本はまさに、体に栄養をは別として、「頭に刺激を」「心に感動を」十分与えてくれる本です。「意識」「生命」「若返り」の探求はここまで来たのか、と驚かされます。人類にとって不老不死も間近いんじゃないの、とも思わせられます。特に50歳以上の方には是非お奨めしたい本です。

    チョプラ博士の 老いない「奇跡」
     -「意識パワー」で永遠の若さを生きる
        (沢田博+伊藤和子=共訳)
      講談社刊  定価 1,800円(税別)

 (大場光太郎・記)

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続・新政権の厳しい船出

 8月30日の歴史的な総選挙から半月あまり、16日ようやく民主、社民、国民新3党による鳩山連立内閣が発足しました。この間、3党間での連立協議や閣僚人事などをめぐって少しもたもたしていた感じで、折角の「政権交代」の感激も冷めかけていました。

 ともかくも17人の閣僚も決まり、鳩山内閣が発足しました。閣僚人事では蓮舫参院議員など華のある女性閣僚を多用するとか、民間人からの登用なども噂されていました。しかしいざフタを開けてみると、テレビなどで既におなじみのメンバーばかり。その意味では地味でやや新鮮味に欠ける印象はいなめません。
 しかし新閣僚の顔ぶれを改めてよく見てみますと、いずれも政策通の実力者ぞろい。オールスターといったメンバー構成で、現時点で考え得る最強の布陣という感じがします。まさに名を捨てて実を取った「仕事師内閣」といったところでしょうか。この布陣からは、鳩山新首相の「政治とこの国の仕組みを根本から変えていくぞ」という強いメッセージが読み取れるようです。

 その姿勢は、鳩山新首相の就任記者会見にも顕著に表れています。
 「総理に選出いただいた瞬間に、日本の歴史が変わるという身震いするような感激と、この国を本当の意味で国民主権の世の中に変えていかなければならない、そのためにの先頭を切って仕事をしていく強い責任もあわせて感じました」と、冒頭こう切り出しました。
 (引用が長くなりますが)続けて「まだ歴史は変わっていない。本当の意味で変わるのはこれからの私たちの仕事いかんだ。今回の選挙の勝利者は国民であり、国民の勝利を本物にしていくために、国民のための政治を作り出していく。そのために脱官僚依存の政治を今こそ世の中に問うて、実践していかなければなりません。」

 鳩山演説はさらにー。そのためには国民も共に政治に参画するという意識が必要であること。何しろ「未知との遭遇」にも等しい経験のない世界に飛び込んでいくのだから、試行錯誤し時に失敗もあるだろう。国民には寛容の心をもって辛抱強く新政権をお支え願いたい、というような内容でした。
 私は従前の官僚の作文の棒読みではない、鳩山首相自身の血の通った肉声で国民に直接話してくれたな、という印象を強くもちました。「政治家は言葉が命」とはよく言われます。しかしこれまで政治家の不誠実な言葉をずいぶん聞かされ続けてきた身には、久しぶり政治家の本心の吐露を聞いたな、という新鮮な感じがします。

 オバマ大統領の就任演説に勝るとも劣らないと思われる、今回の「名演説」にはどこもケチをつけるところはありません。ただ政治家は「言葉」とともに、その放った言葉(つまり政治公約)を着実に実行していく実行力、実現力の方が遥かに重要です。政治家なかんずく首相に求められるものは、ただ一つ「結果責任」。

 鳩山由紀夫はテレビなどを通しても、とにかく「育ちのよさ」が感じられます。それに輪をかけて「友愛」を公然と語り、また時に「宇宙人になりたいと思っているんです。地球人を超えたい」「UFOというものの存在も、頭の中では理解しています」と言ってはばからない御仁。私なら丸ごと受容出来ます。しかし一般国民、特に従来の永田町的政治風土では、どこか頼りなく青臭い政治家との印象が強かったかもしれません。
 しかしここのところの鳩山氏は顔がきりっと引き締まり、眼光鋭く、まさに「闘う男」「闘う政治家」の面目躍如という感じがします。ついつい『この男ならやってくれるんじゃないか』と期待してしまいます。

 それには国家戦略相の菅直人をはじめ、外相の岡田克也、財務相の藤井裕久、国交相の前原誠司、厚労相の長妻昭、行政刷新相の仙石由人、郵政・金融相の亀井静香など、各大臣の個人的力量と共に、鳩山首相の下一致結束して「歴史的大改革」のためのチームプレーも欠かせません。(なお閣僚ではないものの、衆院の外交委員長に決まった新党・大地の鈴木宗男が面白いと思います。おそらく外務官僚には恨み骨髄でしょうから。この際「伏魔殿」の実態を白日に曝してもらいたいものです。)

 とにかく鳩山新首相の下、これだけの強力な布陣でこの「腐り切った日本」が変わらないようなら、もうこの国は本当に「ジ・エンド」だと思います。鳩山首相も言ったように、私たち国民も政権に参画しているんだという意識のもと、寛容さをもって見守り、育て、サポートしていきたいものです。

 (大場光太郎・記)

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「9・11」とは何だったのか(4)

 何といっても「WTC崩壊」は9・11全体を象徴するような出来事でした。果たしてそれは、本当に米国政府発表のように2機の旅客機突入テロによるものだったのか、それとも何か別の要因が働いた結果だったのか。それ次第では、9・11という「アメリカ同時多発テロ事件」の結論が180度変わってきてしまいます。

 ここまでお読みいただいてお分かりかと存じますが、当ブログでは徹頭徹尾「9・11謀略説」という立場を取っております。主要メディアが垂れ流し続け今や全世界的定説になっている、米国政府見解をただなそるだけではつまりませんし、第一ナンセンスですから。
 そこで今回は「WTC崩壊」に的を絞って、「謀略説」を裏付けるような事例をどっさりご紹介してみようと思います。なおそれについては『911の真相とは?』というサイトが、箇条書きで要点をよくまとめています。そこで同サイトなどを参考に致しました。

 まずは(事前の不思議な動き)についてです。

1 9・11の前週、アメリカン航空とユナイテット航空(9・11には両社の旅客機が使用されたとされる)の株取引が、それまでの「12倍」にもはね上がっていた。
2 CIA関連会社が事前にアメリカン航空などの株を空売りしていた。一番儲けたのは、これもユダヤ系財閥であるモルガン・スタンレー。
3 WTCの低階層のビルメンテナンスをしていた者の証言では、事件の何日か前その階の四隅に何かの装置のようなものを取り付けている男たちを目撃した。(ひょとして起爆装置?チェック厳しい同ビルにアルカイダメンバーが事前に侵入するなどは不可能。)
4 事件数日前、WTC内から多数の荷物が運び出されている。
5 ツインビルと共に「謎の崩壊」を遂げた第7ビルを含め、あるオーナーがWTCを7週間前に買い取り、事件前に多額の保険金を掛けていた。

 そしていよいよ、9・11当日の数々の疑惑についてです。

1 元WTC管理人の証言。1機目が北棟に衝突する6秒前に「地下で」爆発音があった。
2 同元保全責任者(ウィリアム・ロドリゲス)の証言。強い衝撃を受けたと思ったら館内放送で「65階がやられた」と告げられ、この爆発で65階から44階が崩れ落ちた。実際に旅客機が突入したのは100階付近である。
3 救助に駆けつけた消防士たちは、ビル解体時のような数回の爆発音をビルの内外で聞いている。その数は22名にも及ぶ。
4 ニューヨーク消防署の主任放火調査官は、事件翌日の12日のテレビインタビューで、内部からの爆発がWTCを崩壊させたと証言した。
5 1機目の航空機は7:45ボストン発のアメリカン航空11便(B767)と言われているが、最初に目撃した女性によると小さなプライベート・ジェットだったと証言している。
6 2機目の航空機がWTCに突入するよりわずかに早く、同じビルの反対側が爆発を起こしている。
7 南棟に突っ込んだのはユナイテッド157便だと言われているが、民間航空機なのに窓がなく他の航空機と入れ替わっていると、米空軍に30年いた軍人や民間航空機のパイロットが証言している。
8 南棟に突入した航空機の胴体下部に不審な物体が取り付けられている。これは「劣化ウラン弾」ではないかとするリポートもある。また突入寸前をスローモーションで見ると謎の閃光が見られるが、ミサイルが打ち込まれたのではないかという説もある。
9 近くの大学の地震計が、それぞれのビルの崩壊の8秒から10秒前に揺れを観測している。そして本来なら残骸が地面に落下した瞬間に最大値を記録するはずなのに、倒壊が始まる瞬間に記録された衝撃の方が、倒壊した時のものより20倍以上大きかった。
10 鉄が溶解するには1600℃が必要だが、ジェット燃料ではせいぜい800℃にしかならない。過去に鉄骨高層ビルが火災で崩壊したことはない。
11 WTCビル崩壊の時、一瞬早くビルの真ん中で爆発が起きている。
12 ツインタワーとは数ブロック離れている47階のWTC第7ビルが、航空機が突っ込んでもいないのに8時間後になぜか崩壊した。周辺で崩壊したのはこのビルだけである。このビルから飛行機をリモートコントロールしていた疑いがある。実際23階にはジュリアーニNY市長(当時)の「緊急事態指令センター」があった。このビルのあまりにも不可解な崩壊については公式発表で無視され、マスコミも報道しようとしない。
13 崩壊した3つのビルはいずれも、通常のビル解体時に見られるような現象を示している。まっすぐ下に自由落下しており、そのようすから多くの解体業者が「ビル解体とまったく同じだ」と述べている。

 以上列記しました事例をお読みになり、どうお思いになりましたでしょうか?私は「ねっ。だから絶対“謀略説”でしょ」などと強要するつもりはありません。本シリーズ次回はいよいよ結論としたいと思いますが、それも含めまして、ご判断はお一人お一人に委ねたいと思います。  (以下次回につづく)

 (注記) 参考にしました、『911の真相は?』のアドレスは下記のとおりです。
        http://rose.eek.jp/911/

 (大場光太郎・記) 

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二木紘三のうた物語(6)

 今回のこの記事をお読みの方は、『二木紘三のうた物語』というサイトをご存知の方も多いことと思われます。あるいは「ご存知」などというレベルを通り越して、「『うた物語』なしでは夜も日も明けぬ」くらい病みつきの方もおられることでしょう。

 さて私は昨年末の(5)記事で述べましたように、『うた物語』コメントから完全に撤退するつもりでした。そして事実4、5ヶ月はほとんどコメントしませんでした。しかし同サイトそしてコメントの行方はやはり気になるのです。
 かといってコメントする立場から離れてしまうと、以前ほど他人様のコメントは注意して読まなくなるものです。特に毎日のようにコメントを繰り返す人のものは、『またアンタかい。いい加減ウザッタイんだよ』と嫌気がさして、ハナから読む気にもなりません。けっこうなご年配の人が、よくもまあ臆面もなく「愚にもつかない」コメントを毎日2つも3つも出来るものです。よほどの「おひまびと」なのでしょうが、その常人離れした神経にはただただ驚くばかりです。(しかし振り返ってみますと、私自身も多少そういう傾向があったわけで大いに反省すべきところです。)

 しかしポイントとなるコメントには目を通していたつもりです。そんな折りの5月上旬、以前私がコメントしたものについて感想を述べられた方がおられました。それは同サイトコメントの「カラオケ大会化」を憂いておられるようで、私に『何とか元に戻してもらえまいか?』というSOSのシグナルのように感じられました。
 私は『多くの方もそうお感じなのでは?』と早合点してしまい、以後今度は「Lemuria(レムリア)」というハンドルネームで定期的にコメントし今日に到ったような次第です。

 その間4ヶ月余ほど。率直に申しますと、昨年末の時点で感じました時より今回はさらに「手応え」が感じられませんでした。初代の人そしてそれを受け継いだ2代目による、短コメント連発式の「カラオケ大会方式」がすっかり定着し、私のような堅いコメントは敬遠されがちになっていたようなのです。
 私は自身がコメントを始めた頃から比べてすっかりさま変わりしてしまったなあ、という違和感を感じるばかりです。しかしそれでご満足の方もけっこう多いようなのです。

 「カラオケ大会」とは、もっとあけすけに申せば、「お年寄りカラオケ大会」ということです。そうなのです。私が今回特に感じたのは、うた物語はしょせん「お年寄りブログ」なんだなということなのです。
 それらの方々は年齢的にも仕事をリタイアされ、年金や貯金でこの不景気にもさほどお困りではない。そして一日一日をどう過ごそうかと思うほど、余暇がたっぷりある。そういう方々が多いわけです。そこでまずは近くのカラオケやパチンコで暇つぶし。いやそんなカネのかかるめんどくさいことも省略して、パソコンの前に日がな一日座って『うた物語』サイトとにらめっこ。都合のよいことに同サイトには、昔懐かしい「懐メロ」がどっさり収録してあるし…。

 そういうことは、ご同好の方々のコメントからも十分うかがえます。ほぼすべての方のコメントが「過去」と「現在」についてのもの、将来展望や将来ビジョンを述べたものは滅多にありません。もっとも同サイトコメントの趣旨の一つが「歌にまつわる思い出など」ですから、致し方ない面もあることはありますが。

   大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大
   そして威力の霊感を受ける限り、
   人の若さは失われない。   (サミュエル・ウルマン『青春』より)

 私が「お年寄り」という時、何も肉体年齢のことだけを申しているのではありません。「心の中の実年齢」を指して言っています。現に齢80歳を過ぎても、十分若々しい「青年」のような方もおられるわけですから。(逆もまたあります。)
 現役時代からしみついた本音隠して建前だけで。一人が何かの歌にコメントすると右ならえで続けてぞろぞろと…。この国の国民性の一端を垣間見る思いです。そういう事なかれ主義が「お年寄り」の「カラオケ方式」の一例だと思うのです。そこには革新性も若々しさもまったく感じられません。ましてインスピレーションを得ることなどまず期待できません。
 
 「お年寄り状態」を何より厭(いと)う「反逆児」たる私は、今回も多少「ショック療法」のつもりで、少し踏み込んだコメントも幾つかさせていただきました。しかしそれは当ブログでこれまで述べてきた内容を、落とし薄めたものです。それでも「お年寄り」にはダメなんですねぇ。「精神的その日暮らし」が脅かされそうで、断固受け入れたくないしとにかく目障りなわけです。なんだかんだ言っても、今のぬるま湯が一番。この安穏な現状がいつまでも続くと幻想しているのです。だから本当の意味での変化(チェンジ)など、まるで望んでおられないのです。
 一体これらの方々は、(何度も繰り返しますが)史上かつてない重要な「今この時」を、ただパソコンの前に座して死を待つおつもりなのでしょうか?

  私はそんな方々によって、『うた物語』コメントから永久追放されることになるのでしょう。そして大変申し訳ない物言いながら、私もそんなご同好の方々にはとことん嫌気がさしつつあります。

 (大場光太郎・記)

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夢の話(2)

 昨年7月以来の「夢の話」です。私はほぼ毎晩といってよいほど夢を見ています。夢見の最中(いわゆる「レム睡眠」中)は夢を見ていることが分かっているのです。しかし目が覚めてみるともういけません。せっかく見た貴重な夢は脈絡を失い、急速に忘却の彼方に消えていってしまい、わずかに夢の断片が残っているのみ。
 見る夢は日常生活の延長のような雑夢も確かにあります。いやその方が多いかもしれません。しかし時として『えっ。オレってけっこう凄いじゃん ! 』と思われるような奇想天外な冒険譚の夢もまたあるのです。そんな貴重な夢に限って、目覚めとともに忘却の彼方とは…。本当に宝石が粉々に砕け散ってしまったような愛惜を感じることがままあります。

 これは、記銘ー保持ー想起という三つの記憶機能のいずれかが衰えてきていることの表れだろうか。それとも最近は夢にさほど関心をはらっていないからなのだろうか。そういえば40代前半のある時期、夢に関心を持ったことがあります。その頃はとにかく忘れまいと、目覚めに何度も見た夢を反芻し、なるべく早い段階で「夢ノート」に記録したりしていました。
 これは意外と時間がかかり面倒でそのうち止めてしまいましたが、夢に関心を持っていた頃は、そんな私のリクエストに応えるようにずいぶん鮮明な夢も見たものです。しかし関心が薄れていくとともに、夢は次第にぼけたものになっていきました。
                          *
 今回久しぶりで「夢の話」を持ち出したのは他でもない、5日の明け方とっておきの夢を見たからなのです。といっても、例によって夢の一部始終を覚えているわけではなく、夢の最後のシーンだけです。それはー。

 …長い夢の末に、私はとあるビルを上階に昇って、多分4、5階のある一室に入って行きました。その部屋には私の他にもう一人、私より若い男がいたようです。部屋の窓は、上から下まで一面の総ガラス窓です。私は窓辺に寄って外のようすをうかがいます。夕方のようです。なぜか周りにビルなどの建物はなく、一面少しグレーがかった空の色です。(私は「カラーの夢」はめったに見ないのです。)
 すると窓外の左下の方に、何やらプカプカ浮いている小さな黒い物体が認められます。『何だろう?』とよく見ると、何と円盤型のUFOなのです。それはオードブル用の大皿に丸くいっぱい盛り付けしたくらいの大きさでした。上と下に2機見えています。
 その夢とともに目が覚めたのでした。

 私は夢の中でさほど驚きもしていなかったようです。しかしUFOは実物はもちろん、今まで夢の中でも見たことはありません。さすがに「UFOの初夢」が気になって、後でそれが意味するものを調べてみました。当たったのは我が家に3冊ほどあったはずの夢関連の本の1冊です。(他の本は見つからず)その本の夢解釈の「UFOの項」を抜粋してみますと概略ー
 「 UFOには超常世界からの使者としての意味があり、不思議を体験することで現実を乗り越えようという心理が強く働いている。人智を越えた存在という点では、神の代役をなすものと考えてもよい。宇宙船には、良くも悪しくも飛躍という意味がある。」
というように述べられています。
 UFOの夢はまた「霊夢」の可能性が高く、夢見後も気になって仕方がない夢もまた霊夢である可能性があるようです。この夢に関して私自身まだ十分な夢解釈が出来ていません。
                         *
 UFOの夢のついでとしてー。時おりしも、今度新しくわが国のファーストレディとなる(鳩山由紀夫の奥方の)鳩山幸(はとやま・みゆき-66)の、「UFOに乗って金星に行ったことがある」という話などが、最近海外のメディアに大きく取り上げられたようです。鳩山由紀夫もかつて、政治家に似つかわしくない言動から「宇宙人」と呼ばれました。幸婦人は更に輪をかけた宇宙人だったわけです。
 しかしこのぶっ飛びそうな発言を、海外メディアからは意外にも「変革の象徴」などと好意的に受け止められているようです。これは、今やUFOは世界的なコンセンサスとなりつつあることの証明と思われ、私個人としては大変喜ばしいことと考えます。

 幸さんのこの話は少し補足が必要です。出どころは幸さんが昨年出版した『私が出あった世にも不思議な出来事』(共著)です(売り切れで入手出来ず)。その中で「眠っている間、私の魂が三角形のUFOに乗り、金星に行った。とても美しく、緑でいっぱいだった」という趣旨の内容を紹介したものだったようです。
 当ブログでも今年6月の『UFO記念日(2)』記事で、横尾忠則らの同様の出来事を紹介しました。「私の魂が」というのは正確には「私のアストラル体が」とするべきで、同記事で触れました「アストラルトリップ(幽体離脱)」を指すものと思われます。

 現在の天文学で解明されている金星は、2、300℃の灼熱で高温ガスに覆われた惑星で、とても生命体が住める環境ではないという結論です。しかし実は、それが「3次元天文学」の浅はかなところなのです。
 幸さんたちに共通しているのは「アストラル体で行った」ということです。つまり金星の真の姿は、肉体よりも高次元の精妙体で行かないと分からない、見えない世界なのです。(そういう体は、時間空間をいとも簡単に超えられるのです。)
 ちなみに金星を初めとする太陽系の諸惑星は、地球以外は既に「アセンション(次元上昇)」を終えているようです。そして近未来我が地球もアセンションして、ようやく他惑星の仲間入り(「銀河市民」の仲間入り)が出来る予定です。3次元から(4次元を一気に飛び越えて)5次元へ、惑星丸ごとの上昇です。

 幸さんの話の真偽のほどは確かめようもありません。もし本当の体験だったのなら凄いことです。私のような凡人は『羨ましい』と思いつつ、せめてこの次は『すっきりした青空をバックに、もっと大きな本物らしいUFOを見せてよ ! 』と思ってしまいます。

 (大場光太郎・記) 

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『天地人』について(14)

 久しぶりでNHK大河ドラマ『天地人』についての感想記事です。前回の(13)記事以来ずいぶん間が空いてしまい、ドラマは第27回「与六と与七」(7/5放送)から第35回「家康の陰謀」(8/30放送)まで進んでしまいました。

 その間、千利休(神山繁)の死、朝鮮出兵、淀殿(深田恭子)の捨丸(後の豊臣秀頼)出産、関白秀次の死、上杉家の越後から会津への国替え、そして前回の太閤・豊臣秀吉(笹野高史)の死と、めまぐるしい展開を見せました。
 この何回かはさすがの私もあまりケチのつけどころなく、それなりに楽しんで観ていました。「天地人 おもしろくない」検索フレーズもここのところ、皆無ではないもののだいぶ減ってきています。
 やはりポイントは、いよいよ「関が原合戦」へとなだれ込む手前の、緊迫した戦国絵巻がメーンステージであることだと思われます。それに絡めて、上杉景勝(北村一輝)、直江兼続(妻夫木聡)の上杉主従の激動の世への対処、苦慮ぶり。また秀吉亡き後いよいよ勢力を増しつつある徳川家康(松方弘樹)と、それを必死で食い止めようとする石田三成(小栗旬)のつばぜり合いなどを描いているのが面白いのだろうと思います。

 上杉藩は秀吉の命により、父祖伝来の地・越後を後にし会津へとやって来ました。北の伊達政宗、南の徳川家康両勢力の牽制のため、百二十万石に加増されてです。私の郷里(出羽の国・置賜地方)も旧領地だった上杉藩の米沢減封まで後少しであることも、いっそう興味を引きつけられる要因です。
 会津への国替えに当たって、上杉家筆頭家老とは言え直江山城守兼続に出羽・米沢三十万石が、豊臣家から与えられたのは異例中の異例と言えます。兼続は上杉藩にあっても名門の出ではありません。むしろ父親は下っ端役人だった可能性すらあります。なのに三十代後半という若さでの異例の栄達。戦国末期の群雄割拠の時代にあって、直江兼続の政治的力量、軍事的才能、人間的器量がいかに群を抜いていたかが推し量られます。

 何回か前から、直江役の妻夫木と三成役の小栗は同時に口ひげをつけての演技となりました。それにより二人とも、だいぶ役の貫禄と風格が増して感じられます。
 ところで今進行中のドラマでは、妻夫木兼続と小栗三成とが「差しで」対面するシーンが度々あります。これは史実がどうであったのかは別として、ほぼ同年代の気鋭の役者同士、互いが役者としてのプライドを賭けてのぶつかり合いとの感もあり、なかなか興味深いものがあります。
 話は変わりますが、当ブログでこのところ「天地人 小栗三成の演技」といった検索フレーズがふえています。3日の検索フレーズランキングでは、「天地人 小栗三成主役の方が良い」が第1位になりました。
 その対面、対決の場面では、主役の妻夫木兼続もなかなか迫真の演技です。しかし私も客観的に両者を比較するに、小栗三成の方によりいっそうの凄みを感じるのです。どうも小栗の演技力は妻夫木に勝っているなあ、主役を食っちゃってるなあ、と感じられるのです。ドラマは「関が原合戦」まで間近です。それ以降小栗旬はドラマから退場となるわけですが、何となく残念な気がします。

 ところでNHK総合テレビで、「トップランナー」という番組があります。各分野の第一線で活躍している今最も「旬」な人物をゲストに迎え、司会者とゲストとの対話などを通してその人物像により深く迫っていこうというような企画番組です。
 本5日未明の同番組ゲストが小栗旬だったのです。私はたまたまですが、終いまで観ました。それまで小栗は、何となく今売れっ子の生意気なアンちゃんタレントという印象でした。しかし今回の番組を通して認識を改めさせられました。とにかく小栗旬は役者としてプロ根性が凄そうなのです。こと演技に関しては、ストイックなまでに精進努力しているようです。『何とも見上げた役者根性だ。コイツはまだまだ伸びるぞ』と唸らされました。(ただし小栗にも例の疑惑がないではないが…。)

 ドラマは「天下分け目の関が原」に向けて、ますます白熱していくことでしょう。家康役の松形弘樹の、誇張された老獪な狸爺(たぬきじじい)ぶりも堂に入っています。小栗三成いびりの迫真の演技もさすがです。

 (以下独り言)ところで、これも今旬であるはずの「清純派女優」長澤まさみ(初音役)の出番が極端に減ってしまったのはどうしてだ?長澤は体調不良なの?それとも長澤に関して、NHKは何か重大情報をかぎつけたのかなあ?
 さてまさみちゃんのお友だちでもある深キョンは、準主役級の淀君役。大阪夏の陣までは出てもらわなければなるまいし…。でも結局何だかんだ言って、大河ドラマや紅白クラスの「大物」タレント・歌手は全員セーフということなのか?

 (大場光太郎・記)

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日々雑感(6)

   ほうぼうに幾草(いくくさ)ありて虫の夜   (拙句)

 このところ政権交代、薬物事件などすっかり世事、人事のことに気を取られておりました。が気がついてみますと、早や9月も3日。知らぬ間にすっかり秋めいてきました。

 そういえばおととい9月1日は防災の日であるとともに、二百十日でもありました。二百十日は昔から天気が荒れる日が多く、台風の特異日とも言われています。ちょうどその日ではなかったものの、その前日の8月31日台風11号が関東地方に接近し、暴風雨に見舞われた地方もあったようで、当たらずといえども遠からずといったところでしょうか。昔からの言い伝えは、さまざまな先験的知恵の集積と思われ、あながち無視すべきではないのかもしれません。

 通常は台風一過ともなると、翌日はスカッとした秋晴れが続くものです。しかし今回の台風は本式の秋の訪れを告知するように、ここ何日かの涼しさをもたらしました。ちなみに「涼し」は、秋の季語です。
 どうやらきのうきょうは、最高気温が25℃を下回ったようです。25℃は、それ以下だと半そでシャツの上に何か着込んだ方がいい目安になるとのこと。どおりで私も、ここ何日かは背広を着込んで外出しております。

                         *
 『薬物汚染シリーズ』。今年1月たまたま起こった、小向美奈子の覚せい剤使用による逮捕事件をきっかけに始めたものでした。間を置かず大相撲の元若麒麟真一(本名:鈴川真一)による同様の事件が起こり(4)まで記事にしました。
 しかしその後私自身何となく「薬物問題」に触れる気にならず、同シリーズしばらくほったらかしの状態でした。(気にはなっておりましたが。)
 それが8月上旬、押尾、酒井両事件が立て続けに起こりました。特に「のりピー失踪事件」が世間の注目を集めたことで、私が本来持っている「やじ馬」の血を呼び覚まさせ(笑)、また再開ということになりました。そして気がつけば『天地人シリーズ』の(13)と並んでしまいました。

 どこかでも述べましたが、この両事件は探れば探るほど今のこの社会の「鏡、縮図」のように思われてきます。事件そのものも、臭いもの、どす黒いものにフタをしてしまうことも含めて…すべて。しかし「関係者」「当局」が隠そうとすればするほど、余計見たい、本当のことが知りたいとなるのが人情と言うものです。
 とにかくこの両事件特に押尾事件は、奥が深く(「闇が深く」と言うべきか)探るべきミステリー性に富んでおります。今後名誉毀損には気をつけながら(もう既にかなりヤバイか?)、皆様より一歩先んじた新情報をお伝えできればと思います。
                         *
 「8月30日」という歴史的な日の前もその後も、なぜか世の中静かな感じがします。そもそも今回は選挙報道が極端に少なかった中で、民主党はあの郵政選挙時の自民党の獲得議席をも上回ったのです。
 国民有権者は、あの時以来今日に至る政治状況から相当教訓を得たようです。つまり有権者はこの4年間でかなり成熟したのだと思われます。ジャーナリストの中には、前回の自民大勝には一言の文句も言わなかったくせして、今回の民主大勝に対して「前はあっち(自民)今度はこっち(民主)と振り子のように両端にドッと振れる。おかしい国民は ! 」とあからさまに憤慨する者もいました。ねっ、田原総一朗さん。

 (以下独白)でもおかしいのはあなたの方ですよ。テレビ業界を上手く泳ぎまわろうとするから、そういう見方になるんです。今回国民は各マスコミの「総選挙隠し」の目にあいながらも、いたって冷静な判断をしたんです。言ってみれば今回の投票行動は、国民有権者による「静かなる無血革命」なんです。
 それを何ですか、あなたも各マスコミも。これから船出しようとする新政権の足を引っ張るような論評ばかり繰り返して。結局は「既得権益」を失うのが恐くて反対したいんでしょ。今後とも足を引っ張り続けるおつもりですか?
 8月25日に亡くなった政治評論家・細川隆一郎氏は、最後まで「鳩山政権の誕生」を楽しみにしていたことはご存知でしょ?時代の空気をしっかり読んで、大先達に少しは見習ったらどうなんです。でないと、あなたも新聞もテレビも、自民党と一緒で、国民からそっぽを向かれてしまいますよ。
                          *
 空き地の隅でコスモスの幾花かが、風に揺れながらひっそりと咲いています。そのすぐ上には2、3羽の赤とんぼがすいすいと。季節の移り変わりを鋭敏なセンサーのように察知し、咲いたり現れたりする動植物たち。
 何度もお伝えしてきたとおり、当地にもミニ開発や宅地造成の波が押し寄せ、新住居やアパート、マンションがどんどん建ち、年々身近な自然が狭められている状況です。しかしそんな当地でも、夜ともなれば本当にわずかな草花があれば、その陰からリンリンたる虫の声が聞こえてきます。懐かしさを呼び覚まされる虫の音です。

 (大場光太郎・記)

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新政権の厳しい船出

 少し前まで、この国ではまず政権交代は起きないだろうと思われていました。しかしそれが現実に起こってしまいました。起こしたのは他でもない私たち国民の力です。「民主党308議席」。それにしても凄まじいほどの大勝利です。
 今回民主党に託した、有権者の一票一票への思いはさまざまなものだったことでしょう。政権交代への全面的支持から、リスク覚悟で「とりあえず任せてみよう」という人まで、投票動機は実にさまざま。しかしこれ以上自公政権に任せていたら、この国と我々の生活は更にどん底になる、そんな危機感は共通していたのではないでしょうか。

 そのような国民の期待を一身に背負ったかたちの、民主党を中心とした新政権は、果たして本当に国民の負託に十分応えてくれるのでしょうか?残念ながら、当面はあまり過度な期待はしない方が良いと思います。4年前の「郵政が民営化されればすべてが良くなる」式のバラ色の夢を抱いてしまうと、早晩幻滅させられることになるのは必至かと思います。
 小泉政権以降の「新しい失われた10年」、さらには1955年発足以来半世紀以上にも及ぶ自民党一党支配によるこの国の「負の遺産」は、それこそ膨大なものです。どの党が政権を取って国の舵取りをしていこうと、一朝一夕で解決を見るような生易しいことではありません。

 国地方合わせて1000兆円超とも言われる莫大な財政赤字をどうやって減らすのか。六本木ヒルズと地方のシャッター商店街、一部の億万長者とワーキングプアなどの格差の是正をどうやって図るのか。輸出頼みの外需依存型から内需拡大型へどうやって経済を質的に転換させていくのか。本当に景気浮揚は出来るのか。どのようにして食糧自給率を高めていくのか。高齢者、失業者、身障者など社会的弱者へのセーフティネットをどう構築していくのか。少子高齢化が急速に進む社会にどう有効に対応するのか。医療、介護などの社会福祉の充実をどうやって図るのか。地方分権、地方への財源移譲問題とどう向き合っていくのか。問題の多い教育をどう立て直すつもりなのか。犯罪多発、薬物汚染拡大をどう防ぐのか。地球環境問題には、どう取り組むのか。従来の従属的な関係から対等の日米関係にチェンジするにはどうすべきなのか。真の国際貢献とはどのようなものなのか。中国、韓国との近隣外交はとのようなスタンスでいくのか。北朝鮮とは…。
 懸案の問題、難題は数多くあります。

 民主党をはじめとして連立を組むどの党も、政権与党の経験がないことも不安材料の大きな要因です。しかしこれは自民党に代わって受け皿となる政党を育ててこなかった、我々国民にも責任があります。これについては、経験不足から生じる多少の齟齬(そご)は寛容の心で見守るしかないと思います。
 また経験がないことだからこそ、新鮮な気持ちでチャレンジ出来るということもあるものです。それに民主党には、今回の新当選組も含めて勉強熱心で優秀な若手の人材が大勢います。ベテランの藤井裕久(元大蔵大臣)や菅直人(元厚生大臣)のような閣僚経験者とともに、それら若い力による現状突破力にも大いに期待したいものです。

 次にマニフェストに掲げた政権公約実行に当たって、選挙期間中にもしばしば問題にされた「財源はどうするのか?」ということがあります。自民党は政権交代が起きることを見越して、「民主党に渡すな」とばかりに「埋蔵金」を悉く使い果たしたのです。だから確信を持ってそう言うわけです。大マスコミもそれに同調していたとおり、確かに厳しいと言わざるを得ません。
 しかしそれは政官財癒着構造で、予算を分配する仕組みの自民党政権下での旧思考です。そのシステムを根本から改めてムリ、ムダ、ムラを見直せば、政策実現に必要な財源は必ず確保出来るはずです。

 その前に立ちはだかるのは、明治以来連綿と続いてきた「官僚の壁」です。これに対して小沢一郎が代表の時、「民主党が政権を取ったら、霞ヶ関に100人の議員団を送り込み、霞ヶ関改革を断行する」とぶち上げました。中央官僚はさぞびびったことでしょう。新政権では後を継いだ鳩山由紀夫が首相になるわけですが、その「脱・官僚」の基本姿勢は変わっていないと思います。
 ただ初めからけんか腰で乗り込むと、小泉政権下の田中真紀子外相のように、お役人から総スカンをくらい物事が一歩も進まない事態も考えられます。官僚は任された分野では国会議員が太刀打ち出来ないほどのプロ、優秀で確かに手ごわい相手です。そして己の保身には極めて敏感です。
 一方で脱・官僚、霞ヶ関改革を進めながら、もう一方ではうまく官僚を手なづけて協力させなければならない。難しいことながら新政権の成否は、実にこの一点にかかっているといっても過言ではなさそうです。

 こうしてみますと、新政権にとっては実に厳しい船出と言えそうです。308議席を獲得しても、鳩山代表はじめ民主党首脳の顔に笑みはありませんでした。身の引き締まる思い、とても浮かれている気分ではないのでしょう。政権担当は初めてという初々しさから、自公政権のように数の力を頼みとした暴挙に出る心配はないと思います。

 8月30日は、以前述べましたように、徳川幕府の大政奉還にも匹敵する「歴史的な日」となりました。とにかく新政権に、この国の浮沈と私たち国民の命運がかかっています。前途は多難でも、これまでの閉塞感、絶望感ただよう暗雲垂れ込めた状況から、天の一角に光が射し初めたのです。理想的な政治形態にはまだまだです。しかしそれに何歩か近づいたことは確かです。
 光をよりいっそう輝かせるべく暗雲を払おうと、新人も含め当選した308人の民主党議員たちは、それこそがむしゃらに仕事をすることでしょう。私も「よしっ。オレも自分の立場でしっかり仕事をしていくぞ ! 」という、新たなやる気をかき立てられました。

 (大場光太郎・記)

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ご報告致します(8)

 昨8月24日で、総訪問者20,000人を越えました。開設後483日目での到達です。私と致しましては、開設当初の心もとなさを振り返ってみますと、『意外と早かったな』と率直に思います。しかし実際のところ、早いのか遅いのかは私には分かりません。でも簡単に2万人と言いますが、よく考えてみれば大変な数字です。私ごとき者のブログにかくも大勢の方々がご訪問くださり、まことに感謝に堪えません。
 いつものとおり、訪問者等の概略を以下にご報告申し上げます。

(1)開設(‘08年4月29日)~‘09年8月24日(延べ日数-483日)
    訪問者合計         20.025 人
    日 平 均            41.4 人
(2)15,000人到達時点(6月23日)~8月24日(延べ日数-62日)
    訪問者合計          4,979 人
    日 平 均            80.3 人
(3)訪問者5,000人当たり対比
    前回   70日で到達  (4月14日~6月23日)
    今回   62日で到達  (6月24日~8月24日)
    今回/前回比         0.88
(4)直前1ヵ月間(7月25日~8月24日)
    訪問者合計          2,406 人     
    日 平 均            80.2 人

 以上の数値は、あくまで平均値です。少し前の『記事数500越えました』で申しましたように、『皆既日食』記事のように、1日300人という訪問者数を記録することもあれば、「季節報告文」「名句、名詩」などのような地味な記事、あるいは更新休みの日などは50人台というように、日によってかなりのばらつきがあります。ただ一つ言えることは、50人を下回ることはなくなったということです。

 今回の数値から判断する限り、現時点における当ブログ実力は、1日当たり「80人」ということになろうかと思われます。こうなると更に欲が出ます。いつの日か、「常時100人」を記録出来るようになりたいということです。そしてあわよくば、どんな記事の日であろうがたとえ更新を休もうが、コンスタントに100人を刻んでいければと思います。
 しかし現時点で100人を越えるのは、月にほんの1、2回程度です。今回/前回比でお分かりのとおり、(前回の0.70に対して)今回は0.88と、訪問者の増加は明らかに鈍っています。当ブログのように「堅めの文章のみ」で勝負するブログにとって、「100の壁」はなかなかなのです。道なお遠しの感を深く致します。

 1年以上前私は、「“芸能ネタ”“政治ネタ”の類は、当ブログでは扱いません」と言い切りました。しかし一年以上経った今日ではどうでしょう。今や扱わないはずだったそれらの記事が、主力になりつつあるようにも思います。
 これはやはり、ある程度の訪問者獲得のためやむを得なかった面があります。何度か触れましたとおり、たいがいのブログには「アクセス解析」機能が備わっています。以前述べましたが、テレビ局が視聴率を気にするように、やはりブログを運営しておりますと「訪問者数」と「訪問者の動向」は大変気になるものなのです。訪問者動向とは、「どのような記事のどういう内容に惹かれて、訪問されているのか」という傾向性のことです。
 やはりそれを分析致しますと、「芸能ネタ」あるいは「今最も旬なニュース記事」へのご訪問が圧倒的です。『じゃあ、やっぱりポイントポイントでそういう記事を入れていこうか』ということに、どうしてもなってしまいます。(「政治記事」は思ったほどの訪問者数は得られません。)

 これは考えてみれば、私の方針の変節であり転向ととられても致し方ない面もあります。特に開設以来ずっとご訪問されておられる方には、お詫び申し上げなければなりません。
 ただ私と致しましては、これらを加えたことにより、私自身の「心のレパートリー」が少しばかり広がった感じが致します。大新聞のような正確で高尚な内容ではなく、時に三面記事がかった内容になろうかと思いますが、このような記事も当ブログの可能性の拡大とお受け取りいただければと存じます。
 私は当初申し上げました「癒しブログ」としての役割も、決して忘れてはおりません。今後とも開設当初のような記事と、芸能、時事的記事とのバランスを考えた記事作りを心がけていくつもりです。もし何か著しい偏向が見られるようでしたら、ご遠慮なくご指摘たまわればと存じます。(今週から来週半ば頃までは、「衆院選期間」「薬物問題期間」などでどうしてもそちらの記事が主になるかもしれません。)

 次回のご報告は、またまた大いに間のびするかもしれませんが、「3万人到達時点」とさせていただきます。
 当ブログは、時に「本音丸出し」で述べさせていただいている、珍しいブログ(?)かもしれません。それゆえなおのこと、出来るだけ多くの方々にお読みいただきたいと思うのです。かつてない重要な「今この時」、その時々に生起する諸問題をご一緒に考えていければと思います。
 それでは当ブログ、今後ともよろしくお願い申し上げます。

 (大場光太郎・記)

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秋の気配

   我が心早や秋風と思ひけり   (拙句)

 『薬物汚染の拡がりを憂う』につい熱中し、関連する新情報を追いかけ3回連続で同シリーズを載せました。しかしふと気がついて調べてみますと、昨23日(日)は二十四節気の一つである「処暑」なのでした。
 処暑のことは去年記事にしましたが、「暑さが峠を越えて、後退し始める頃」という意味です。二十四節気という暦上の季節の変わり目と実際の季節には、多くギャップが見られるものです。しかしこの処暑は、ほぼ実際の季節感覚と一致しているようです。

 例えばきょう24日です。当地では午前中から昼過ぎまでは日差しが明るくやや暑いくらいでしたが、2時過ぎ頃から空に何やら秋めいたうす雲がかかり始め、徐々に日が翳りだしました。曇りゆく景色の中町並みはどことなく沈みがちで、真夏の頃とは明らかに装いが違います。
 風もやや強く吹き渡り、揺れる道の辺の草花は早や秋草の風情です。

 並木道上の梢では確かにまだ蝉声は聞こえつつも、以前ほどのかまびすしさではありません。蝉といえば、旧盆前頃までは、夜中の10時過ぎても木立があろうものなら、そこからけたたましいほどの夜蝉の鳴き声が聞かれたものでした。しかし今は同時刻夜蝉はバッタリで、代わって草むらからひっきりなしにリンリンと鳴く虫の声が聞こえてきます。

 夕方5時頃例の中津川堤防を降りてみました。7月まではこちら側は草が伸び放題でした。しかし今月に入って、県から委託された業者が草刈機で刈り取り、今は堤防の上から下までキレイな丸坊主状態です。
 私がいつも腰を下ろす所の手前、下段にはマツヨイグサ(月見草)が雑草に混じって群生して咲いていました。夜に訪れると、黄色い花々が咲きそろいそれなりに風情がありました。しかし今はそれも含めてきれいさっぱりです。ずっと100m上流まで見渡せます。

 空全体をいよいよ厚い雲が覆い尽くしています。座って見上げているのは東空ですが、その中空より少し低い辺りの雲間から、夕べの薄い光が漏れ出しています。周りの雲がうす茜色に染められています。
 川の中ほど20mほど上空を、鳶(とび)でしょうか、黒い大きな羽をグライダー状に広げっぱなしでゆったりと旋回しています。

 少し下流の大堰からこちら上流側は、さながら堰止め湖のような具合です。満々たる水を湛えています。強い夕の川風が吹き渡っているせいか、川面(かわも)は一面細波(ささなみ)が立っています。やや上流の中洲や向こう岸の際(きわ)のみ波は収まり、そこの葦の連なりが水面(みなも)に映じ、その深緑のさまに何となく涼しさを覚えます。実際川を渡る風はけっこう強く、涼しさを通り越して少し肌寒さすら感じるほどです。

 と、(さすがそこだけは刈り残された)こちら岸の水際の少し上流の葦群れの陰から、つがいなのでしょう、2羽の鴨がツツゥーと姿を現しました。私が座っている堤防中段から、ほんの数m先をゆっくり通っていきます。私は息を殺してじっと身動きせず見ています。鴨は悠然と通り過ぎ下っていきます。
 少し下流のこちら岸沿いに、2列並んで20くらいのテトラポットがあります。この満水時期は、丸い天辺だけ水面に突起している状態です。2羽の鴨は、そのテトラポットの1つそして隣の1つに、1羽ずつ乗っかりました。逃げ出さぬよう、私はいよいよ用心して彼らを見守ります。(幸い私がいる間中、ずっとそのテトラ上で羽を休めていました。)

 川の中ほどに、その鴨を何倍も小さくしたような、1羽の水鳥の姿が見られます。一応水鳥としての形は整っているものの、本当にびっくりするほど小さな水鳥です。全長せいぜい7、8cm、首はいたって細く直径1cmあるかないかといったところです。
 数年前まで私は、この鳥の名前を知らず勝手に「小水鳥(こみずどり)」と名づけて、俳句にもそう詠みました。その後今から4年ほど前、たまたま訪れた「厚木市郷土資料館」の1階陳列棚の中に、この水鳥の剥製が置いてありました。名前を見ると「カイツブリ」。

 このカイツブリ、ただ泳ぎ回っているのではありません。少し水面に浮いていたかと思うと、意を決したかのように、小さな頭からクルリと水中に潜っていきます。小さな波紋を残して、瞬く間に姿が見えなくなります。そうやって必死で小魚を探しているのです。何10秒、時に1分以上も潜りこんでいて、『あれっ。どこに行っちゃったの?』と心配していると、意外な離れた所にパッと姿を現すのです。

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(8)

 今は衆院選挙の真っ最中です。しかしテレビなどは、酒井事件と新型インフルエンザ流行問題が連日報道されています。選挙戦はすっかり霞んでしまっているようです。4年前の郵政選挙時の、あの過熱報道とのさま変わりには驚きます。

 さて酒井事件の陰に隠れてついつい忘れがちですが、同時期に起こった押尾学容疑者(31)の事件も忘れてはいけません。それのみか「薬物問題」の本筋からすれば、こちらの方がはるかに重要だと言えそうです。というのも、酒井事件の方はあくまで夫婦間あるいはつながりのある芸能人の所持、使用というレベルですが、押尾事件の方は「汚染の拡がり」のスケールがまるで違うからです。
 捜査の進展しだいでは、芸能界のみならず政界、IT業界、スポーツ界などを巻き込んだ大スキャンダルに発展する可能性が大なのです。

 なのになぜばったりなのでしょう?あるマスコミ関係者が言ったそうです。「上から出来るだけ“のりピーのネタ”を取り上げるように言われています。押尾の方は難しい問題があるから控えめにというお達しです。何らかの圧力がかかっているようです」
 これはどういうことなのでしょう。実は押尾事件では、大物政治家の名前が取りざたされているのです。問題の六本木ヒルズマンションの一室で、押尾と一緒にいて死亡した女性(30)は一時「政治家の娘」と言われましたが、どうやらその政治家との関連でそのような噂が流れたようなのです。
 それ以外にも、同事件では何人ものIT企業のトップの名前が取りざたされていますし、これらと関係の深い大物政治家もいるようです。実際、問題の一室には政界関係者も出入りしていたという情報もあるくらいです。

 六本木ヒルズレジデンスはセキュリティ万全で、当然防犯カメラも設置されていて、その中に出入りした人たちがいっぱい写っているわけです。中には「どうして?」と思われるような人物も写っているようです。例えば、紅白出場経験のあるグループのメンバー、アスリート、女性歌手のマネージャー、さらには政界ジュニアなど。警察は既にチェックに入っていると言われています。

 ところで、この事件の発端となった問題の「六本木ヒルズレジデンス」の借主の実像が明確になってきました。借主は、通販下着会社「ピーチ・ジョン」の野口美佳社長(44)。同室は野口社長が賃貸契約している1LDKで家賃40万円以上の3部屋の一室で、別名「ミーティングルーム」。親しいタレントや関係者に自由に使わせていたようです。
 野口社長は「ミカジョン」の愛称で知られ、ヒルズ族の中心的存在だとか。人脈は華麗で、堀江貴文、IT社長の野尻佳孝、歌手の浜崎あゆみ、タレントの吉川ひなの、あびる優、梅宮アンナ等々。(ただし同社長を含め以上の人たちは、薬物とは無関係と信じたいです。)

 野口社長は1965年仙台市生まれ。高校卒業とともに上京し、グラフィックデザインを学び、‘94年に女性向け下着通信販売会社ピーチ・ジョンを設立。‘06年にはワコールホールディングスと資本業務提携を結び、‘08年には完全子会社に。野口社長はワコール株を670万株所有している筆頭株主で、同株だけで80億円を超える超資産家なのです。これを彼女一代で築いたわけですから、相当のやり手女性なわけです。
 彼女のモットーは「情熱と快楽」。そのせいか結婚、離婚を繰り返し、バツ2で子供4人の母親。現在5人目の子供を妊娠中ですが、父親の名前は明かしていないそうです。

 その野口社長は、今年6月の自身のブログで押尾容疑者を「押尾先生」と呼び、その顔や肉体美を賞賛していたとのこと。今回亡くなった女性と押尾が知り合ったのは、同社長の知人に連れて行かれた銀座の高級クラブだったようです。
 ただ事件後はさすがに、「押尾を安易に信用したことを反省している」とのコメントを発表しました。

 押尾事件には捜査一課も乗り出しているようです。つい先日警視庁長官が、「芸能界の薬物一掃のため、関係者には再発防止に努めていただきたい」旨の発言をしたばかりです。
 本シリーズなかなか結論に至れませんが、薬物中毒は肉体のみならず「諸体」にも極めて深刻なダメージをもたらします。「今回の人生」だけで済むような生易しいものではないのです。もうこれ以上の薬物汚染の拡がりを防ぐためにも、警視庁は政治的思惑などに左右されることなく、六本木ヒルズ“麻薬窟”レジデンスの怪しい実態解明のため、徹底的に捜査のメスを振るっていただきたいものです。

 (大場光太郎・記)

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64回目の終戦記念日

 きょう8月15日は64回目の終戦記念日です。「戦争と平和を考える季節」の締めくくりとなるこの日。8月6日の広島原爆の日あたりから、各マスコミ特にNHK総合テレビでは先の戦争の特集を組みもし、またこの日は恒例の政府主催の全国戦没者追悼式典が催されます。
 しかし戦後64年も経過すると戦争の記憶は年々に薄れていってしまうのは、いかんともし難いものがあります。毎度申し上げるとおり、かく言う私は昭和24年生まれで「戦争を知らない子供たち」の世代なのです。

 しかし歴史的な出来事の中には、それが自国民にとって苦痛を伴う記憶であったとしても、決して忘れてはいけない出来事というのがあります。遠ざかりゆく昭和にあって、分けても開戦、戦争、敗戦(終戦)という重い事実は特にそうだと思います。
 そもそもなぜ開戦に至ったのか。開戦は本当に不可避だったのだろうか。もし仮にそれが不可避なものだったとしても、戦争を始めるからには予め「終結時点」を定めておくのが国家戦略上の基本かと思いますが、それがきちんと定められていたのかどうか。戦時中我が国はいつどこで何をしたのか。良いことも悪いことも一切合切白日の下にさらして、国内外の広い検証を待つべきです。それが健全な国家としての在り方です。

 どこかの党はもし政権を取った場合、「東アジア共同体構想」を進展させると言っています。私は従来の「対米従属」は国として健全な在り方ではない、従って同構想には前々から大賛成ですが、ならばなおのこと。我が国の戦争検証は避けて通れない問題となることでしょう。大いにやればいいと思います。我が国、中国、韓国それぞれの専門家同士が、侃々諤々の議論を重ね、共通の歴史認識に至るのであれば。

 64年前のこの日は、抜けるような青空の暑い日だったそうです。当地は同じく暑い日となりました。日盛りの中、全国に何百とあるであろう都市の街中を歩く人々に、果して「きょうが終戦記念日」という意識が、どれだけあるのだろうか?
 当時とは何もかもがさま変わり。当時のさる街と今現在のどこかの街を並べて比べあったら、「これが同じ国の街か?」と驚くのではないでしょうか。当時とは比べものにならないくらい異質な素材による高層のビル群、街そのものも街行く人々も、キラキラカラフルな装い。
 しかし見る人が見たら、今日の光景に、何かしら「たましい」がすっぽり抜け落ちているような、虚無的なただよいを感受するかもしれません。然り、人々の意識そのものが、昔と今とでは全く違っているのです。

 ちなみにぎんぎらぎんに髪を染めて、耳にピアスのあの色黒の若者はどうだろう。「君はきょうがどんな日か知ってるかい?」と聞いたとしたら。一体どんな反応を見せるのだろうか。『チェッ。ウザッタイおやじだ』とばかりに、急ぎもの言わず立ち去るのだろうか。それとも一言くらい何かしゃべってくれるのだろうか。
 若者のみならず、けっこうの年配者でも、きょうのこの日かつての戦争に深く思いを致す人がどれほどいるのだろうか。

 「賢人は歴史から学び、凡人は経験から学ぶ」。こんな誰かの言葉があったかと思います。要は痛い思いをして分かるのか、それをしなくても分かるのかの違いかと思います。先の戦争そして終戦は、極めて深刻で悲惨な国家的体験でした。それだけにその中には、いまだに学ぶべきものがどっさりあるはずです。
 なのにそれをきっちり教える学校がない。また教わる側にも、しっかり咀嚼(そしゃく)するしかるべき学力がない。そして今という刹那、街をさしたる目的もなくただ漂いながら歩いているだけ。こんな人種を次々に増産し続ける国。
 この国は一体どこに漂着しつつあるのでしょうか。

 (大場光太郎・記)

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記事数500越えました

 前記事『夏の名句(2)』で、開設以来の記事数が500に達しました。既にご承知のとおり、当ブログは他のブログに比べて1記事あたりの文章が圧倒的に長文です。これを毎回読みこなしていくのは、大変難儀なことなのではないでしょうか。にも関わりませず、ほぼ毎日のようにご訪問いただいております方々には深く感謝申し上げますと共に、「なみなみならぬ読書家」と心より敬意を表させていただきます。

 今回調べましたところ、1記事あたりざっと1500~2000文字。つまり400字詰め原稿用紙4、5枚くらいになりそうです。仮に1記事400字詰め原稿用紙4.5枚としますと、 4.5×500=2250枚となります。
 中には一部矢嶋武弘様、くまさん様のコメント文をそのまま記事として公開したものもありました。それらを差し引いても、十分2000枚以上にはなりそうです。もし仮にこれが首尾一貫したストーリーを有する小説だとしたら、それこそ何巻にも及ぶ大長編小説になりそうです。(ただ残念ながら私には、そのような大長編をものするための構想力も筆力も気力もありませんが。)

 このような節目に何度か申し上げましたが、昨年4月末の開設当初は、『ホントに今後新しい記事を書き続けていけるの?』と不安でいっぱいでした。しかし本当に「必要は発明の母」というものです。折角二木紘三先生のお勧めによるものであり、中途半端に挫折してしまっては申し訳ないという思い、その上何かしら使命感のようなものが私を今日まで衝き動かしてくれたように思います。

 先月下旬のある記事が、当ブログとしては驚異的な訪問者数、アクセス数をはじき出しました。何だと思われます?意外とお思いかもしれませんが、『皆既日食』記事です。日食当日である22日未明同記事を完成させ、その日の昼前当ブログの「アクセス解析」を開いてみてびっくりです。何とその時点で、既に「訪問者120人」が表示されていたのです。時間帯によっては1時間30数人ということもありました。
 ちなみにそれまでの最高訪問者数は、5月21日『草なぎ剛 手紙』記事の156人でした。たった半日でそれに迫ろうかという勢いだったのです。
 
 私は結局見逃してしまいましたが、当日列島各地は曇りがちだったものの、午前11時前に日食があったことが大きかったと思われます。昼少し前のニュース番組でそのことを知りましたので、『さすがに訪問も下火だろうな』と思っていました。しかしその後も同記事へのアクセスは一向に衰えることなく、夕方6時頃には訪問者200を軽く越えました。その時点で当ブログとしては前代未聞の領域でしたが、『こりぁ、ひょっとすると300にいくんじゃないの?』と期待させるに十分なものでした。

 結局当日の相訪問者数は301人、アクセス数342件。私としては本当に目をむくような驚異的な数字となりました。もちろんこれは『皆既日食』だけの数字ではありません。しかしざっと見たところ、約90%くらいは同記事への訪問、アクセスでした。
 また同記事は「雑記」「日常」「身辺雑記」「思い出」カテゴリーに載せましたが、翌日の各カテゴリーの「ディリー部門」はすべて1位でした。特にブロガーが集中しやすい「雑記」でも、その時ばかりはぶっちぎりの1位だったと確信しています。

 その前数日間訪問者数が減少気味でした。それでてこ入れのために、タイムリーな記事として同記事を選んだという理由はあります。そこそこはいくだろうと思ってはいましたが、『小室哲哉』『草なぎ剛』『レッドクリフ』『天地人』『酒井法子』といった芸能がらみではないだけに、そんなに期待はしていませんでした。
 この息苦しい現在の社会システムの中で、ともすれば見失いがちな「本当の自分」というものを、日食という珍しい自然現象を通して確かめたい欲求からなのか。あるいは古代から連綿と続く、日食というものへの畏れと憧れがないまぜになった心情が、現代人の血の中に依然として流れているからなのか。それとも単に、事前に各マスコミがはやし立てたからなのか。とにかく今回の異常な関心の高さには驚きました。

 それに引きかえ、「自然観察文」「季節の報告文」「名句・名詩観賞文」「スピリチュアルな内容の文」などは、アクセスが減少します。これらは私が最も力を入れて、推敲を重ねて公開しているものです。ですからこれらの文こそ、本当は多くの方にじっくりお読みいただきたい記事なのです。
 しかしこれらの「不人気記事」も、後になってから思いがけない検索フレーズでご訪問されお読みいただくケースがままあります。アクセス解析でそのような方を発見しては、『お読みいただきありがとうございます』と思っています。

 ここのところすっかり無頓着になっていますが、当月中に総訪問者数20,000人に達しそうです。また本日で、(推定)アクセス総数が30,000件に達しました。
 なお今後は、3、4記事を公開したら1日は「更新なし」くらいのペースでやっていこうかな、と考えております。折角軌道に乗り始めた当ブログ、長く続けたいですから。そのためにはそう気負うことなくゆったりしたペースで、と考えるきょうこの頃です。どうぞご了承の上、これをお読みの皆様も、気長く当ブログとお付き合いください。

 (大場光太郎・記) 

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百合根掘り

   掘り出だす百合根芳(かぐわ)し風の原   (拙句)

 いつもご紹介しております「水路道」は、両側の住居群が尽きると、その先数十mは木々や草花はなくただ雑草だけの道になります。
 6、7月は伸び放題の雑草の中、真ん中のコンクリート部分を歩く感じでした。しかし先月半ば頃、市役所の関係者か近隣の人たちかの手によってきれいに刈り込まれ、今は見通しよく歩きやすい道となっています。

 この道は一直線に数十m続いて、やがて東西に走る車道と直交します。その左側手前に、2階建て×1階あたり4所帯分のアパートが建っています。いわば全国どこででも見られそうなステレオタイプのアパートです。反対側が玄関、水路道に面した側は裏になります。通路際から建物まで約2mくらい。
 同アパートの真ん中くらいの通路に近い所に、一株の大きな百合が植えられています。毎年6月末頃から7月中旬頃までが最盛期で、大きな白百合が咲き誇っています。いわゆる野生の山百合ではありません。多分観賞用として品種改良を重ねたものなのでしょう。高さ80cmくらい、茎は太くてしっかりしています。その上の方に、白い花が集中して次から次へと咲き続けるのです。
 私は、行きは水路道の途中から西に直角に曲がって行きますが、町からの帰りはここを通ることにしています。その季節はいつも、この花を眺めながら通るのが楽しみの一つです。

 観賞用としての百合のみならず、当地では車で少し遠出でもすると山百合を見かけることが出来ます。例えば元は小山だった所を切り通しにして車道にした、その法面(のりめん-傾斜面)の上辺りに、山百合の白い花がしなだれるようにせり出して咲きこぼれているさまに、ハッとすることがあるのです。

 このような百合の花を見ると、少年時代の郷里の百合の思い出が甦ってくることがあります。山百合はもちろん、私が小学校1年の秋から過ごした山形県(旧)宮内町外れの野山にもずいぶん咲いていました。
 しかし思い出すのはなぜか、母の実家で私の生家のある山の中の七軒部落の水林での思い出です。町場の母子寮に越してからも、小学校時代夏休みと冬休みにしばしば寄越されました。そのことは今年1月の『雪に埋もれし我が故郷(1)』記事、あるいは「二木紘三のうた物語」の『花嫁人形』コメントで触れたとおりです。

 小学校5年頃の夏休みもやはり、水林で過ごしました。ある晴れた日の昼下がり。実家の中にいると、そこの叔母(私の母より数歳年長)が、「コタロ。えっしょに外さあえべ。(光太郎。一緒に外に行こう)」と言うので、私はついて行きました。
 といっても、わずか七軒だけの狭い山部落のこと、そんな遠くではありません。行き先は、部落の奥から二軒目の実家からでも、歩いてすぐの部落のたもとに広がる野ッ原でした。それこそ草という草が勢いよく繁茂しています。

 むせかえるような草いきれの中、草をかき分けて叔母に従って野ッ原に入っていきました。丈高い草に混じって、白い山百合が所々に咲いています。叔母は百合が何株か群生して咲いている所で止まりました。そして持ってきた鍬(くわ)かスコップだかで、やおらその根元を掘り出したのです。そうして土を掘り返すと、白くて大きな山百合の球根が現われます。
 周り中に百合根独特の芳しい匂いが漂ってきます。百合根は実は、おおむね食料に乏しい山部落にとっては、貴重な山の幸でもあるのです。これを採ってきては、茹でたりして食べるのです。

 だから叔母は、初めから根っこだけが目的だったのであり、野に咲く百合の花を眺めにきたのではありません。ですからおよそ花には目もくれず、ただ黙々と次々に根っこを掘り出しては、側で私が袋を持って待って立っているもので、その中に一塊りを入れていきます。そうして袋が一杯になるまで、叔母は百合根を片っ端から掘り続けたのでした。
 花はそのままうっちやっかといえば。記憶にはありませんが、その幾花かは仏花として持って帰ったのだったかもしれません。

 (大場光太郎・記) 

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けふ立秋(2)

   外階段昇りて夕の星涼し   (拙句)

 きょう8月7日は「立秋」です。と去年も同じ書き出しで『けふ立秋』を記事にしました。早いものであれから1年が経過したわけです。同記事で立秋そのものには触れませんでしたので、例によって簡単に触れてみたいと思います。

 立秋は二十四節気の一つ。8月7日頃。またはこの日から「処暑」までの期間。太陽黄経が135度の時で、初めて秋の気配が表れてくる頃とされる。江戸時代の『暦便覧』では「初めて秋の気立つがゆゑ也」と説明している。
 夏至と秋分の中間にあたり、昼夜の長さを基準に季節を区分すると、この日から「立冬」の前日までが秋となる。暦の上では秋になるが、実際には残暑が厳しく、1年で最も暑い時期でもある。
 なおこの日に至っても梅雨が明けない場合は、「梅雨明け」の発表はされなくなる。それゆえに東北地方などでは、「梅雨明けなし」となることが過去に何度かあった。  (フリー百科事典『ウィキペディア』「立秋」の項より)

 上記のうち、今年は先日東北地方の梅雨明けが発表され、これで列島全体の梅雨が明けたことになります。今年は以南の地方よりいち早く梅雨明けが発表された関東甲信地方でしたが、当ブログで何度か指摘しましたとおり、その後戻り梅雨と思しきぐずついた天気が続きました。しかしさすがにここ何日かは、夏本番と確信される暑さが続いています。
 ただ暑いことは暑いとしても、どちらかというと曇りがち。今年は例年に比べて日照時間の少ない夏とはいえそうです。それを示すように、収穫量が減少しているのか、スーパーなどに並んでいるナス、トマト、きゅうりなどの野菜の値段がここのところ急騰しているようです。

 また、「残暑が厳しく1年で最も暑い時期」というのもそのとおりです。
 例えば我が家の三毛雑種の飼い猫(親子猫)2匹。以前若い頃ならば暖かくなり始める4月頃から10月半ば頃まで、夜ともなるとどこかで外泊して、早朝エサを求めて帰ってくるというパターンでした。それがここ何年かは夏時分の外泊期間が年々狭まっていました。しかしさすがにこの暑さで、年中毛皮を着込んでいる身には「こりゃ、たまらん二ャー」とでも思ったか、最近はやはりどこか外にお泊りです。
 また「夏の高校野球」も、いよいよ明日8日から開幕です。よく「熱闘 ! 甲子園」と言われるとおり、抜けるような青空の下、勝ち進んで連投に次ぐ連投のエースピッチャーが投げるマウンドは、輻射と地熱で40℃以上と言われます。全国何千校の頂点を目指す、暑い戦いはまさにこれからです。

 そんな中、先日午前中近くの水路で、見事な朝顔がいっぱい咲いているのを見かけました。この水路は、いつもの「水路道」ではありません。(もっとも水路道でも、ちらほら赤系の朝顔は咲いていますけれども)そこより先の、車道に面した10m未満の狭い水路です。
 去年の晩秋、「二木紘三のうた物語」の『野菊』の中で、数年前まではそこに野生の野菊が群生していたが、ある年根っこから引き抜かれてしまい、以後野菊の姿が見かけられず残念です、というようなコメントをした場所です。
 その水路の車道に近い際、隣の某店舗駐車場の白いフェンスにもたれるように、幅2mくらいで朝顔が咲いているのです。技術未熟なため、当ブログでは画像をアップ出来ませんが、皆様にお見せしたいほどの可憐な朝顔です。澄んだ水色と青紫を白く縁取りされた、いかにも涼(りょう)を感じさせる色合いです。どなたが植えられたのか、花を愛(め)でる心映えのほどが偲ばれます。

 「涼」といえば、きのう6日夕方、所用で平塚市街を目指して車を走らせていました。市街地にさしかかる手前で、左(東)の空に何か奇妙なものがふわふわ浮かんでいるのに気がつきました。『何だ、ありゃ?』。その方をよく見ますと、何とパラセーリングだったのです。それも3つも。
 ああいうものは、沖縄など南の島でやるものだとばかり思っていました。それが意外や意外、相模川上空でも見かけるとは。『何と優雅なことよ。カネもかかるだろうに。それにしても、あれは免許なんかいらないのか?』
 そんな私の懸念をよそに、3機(と数えていいのかどうか)は風の向くまま気の向くまま、それぞれがてんでにぷかぷか空に浮いているのです。数10mから100m上空です。乗っている人は、さぞ絶景と涼を満喫していることでしょう。

 また同日7時過ぎ平塚からの帰り、東の中空より少し低く、雲間から真ん丸い月が認められました。後で調べましたら十六夜(いざよい)の月だったのですが、まるで満月といってもいいような、冴え冴えとした神々しいほどのお月様でした。
 その月を仰ぎながら、しみじみ『あヽもう夏月ではなく、秋月だなあ』と思ったことでした。

 (大場光太郎・記)

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喜びのタネをまこう(3)

 思いますに、意識レベルの高い人ほど「喜びのタネをまこう」と心がけるものなのではないでしょうか。
 
 ところである人が「意識の地図」というのを提唱しています。人間個々のさまざまな感情レベル、意識レベルを10数段階に分類して、それぞれの段階におけるレベルの数値化を試みているのです。それは大変示唆に富み、時々私自身それを読み返してみて、今現在の自分のレベルはどのレベルにあるのかの指標としています。

 「意識の地図」を簡単にご紹介しますと―。
 そうとうの覚者や達人ならいざ知らず、私たちの「心」は日々刻々揺れ動いています。「一日中考えていること、それ自体が取りも直さずその人自身である」という、19世紀アメリカの思想家・エマーソンの有名な名言があります。常日頃の「想い、考え、心構え」などが原因となって、現在ただ今あるいは未来のその人間を形成することになるのです。
 その意味で私たちは、「想い一つ、考え一つ」で日々刻々上昇(アセンション)か下降(ディセンション)かを繰返していることになります。その「心のバランスシート」がプラスかマイナスか、その総和で今後の行き先が決定されていくわけです。決して「外なる神」によって決定されるのではなく、「内なる心」が決定するのです。

 その上昇か下降かの、分かれ目となるのが「勇気(肯定)」だそうです。これを数値化すると200です。これ以下は下降となり、以下「プライド(軽蔑)」「怒り(憎しみ)」「欲望(切望)」「恐怖(不安)」…「罪悪感(責める)」「恥(屈辱)」となります。下に行くほど負のスパイラルがきつくなり、エントロピーがどんどん増大するだけの、どうしようもない状況となります。「外は内の反映」ですから、内心の苦しみに応じて思うにまかせない環境、状況に置かされることになるわけです。

 対して、「勇気」を起点とした上昇局面は、「中立(信頼)」「意欲(楽観)」「受容(許し)」…と続き、今回問題となる「喜び(落ち着き)」では540という高い数値となります。さらにその上に「平和(幸福感)」(600)そして「悟り(言語に絶する)」(700~1000)が最上位の境地となります。
 このように「喜び」は極めて高い意識レベルなのです。

 ある人(上記「意識の地図」提唱者とは別の人物)はかつて、「人間は喜びの表現体」と言いました。これは幼い子供たちを見ているとよく分かります。「幼子は天国の型」という言い方もされますが、とにかくピュアで喜びにはちきれんばかりです。このように常に喜びに満ち溢れていることこそが、人間としての自然な在り方なのです。
 しかし私たち大人は、「喜びの表現体」でないことが多いものです。どうしてなのでしょうか?それは上記でご説明しました「プライド」「怒り」「欲望」「罪悪感」「恥」などに我が心を占領されてしまうからです。心の中で常に他者との比較があり、「憎い、惜しい、嫉ましい」となりがちです。欠乏、飢餓、闘争などの想いが渦巻いています。肉体生活に付随した「小我(エゴの我)」に、内なる「大我(真の我)」が覆われてしまって、外に光が出られない状態なのです。
 
 「神は喜びなり」。「大我」はまた「神我(=真我)」といわれます。ゆえに「大我は喜びなり」とも言い換えられます。覆っていた不純物、邪魔物(小我=エゴの心)を取除いて、それを輝き出させるようにすれば、いつしかふつふつと「喜び」が湧いてくるのが道理です。
 肉体の自分を通して大我を周囲に輝かせるためには、禅家で言うさまざまな「静中の工夫、動中の工夫」が必要でしょう。私はその中の重要な工夫の一つが、「喜びのタネをまこう」なのではないだろうかと思うのです。

 大我は、肉体に付随した小我を遙かに超えた文字どおり「大きな我」です。小我が見る世界は、肉体として別なら赤の他人という、分離、分割、対立の世界。対して大我が観る世界は、肉体としては別々でも深いところでは一つにつながっている「共通的生命の兄弟同士」という、統合意識です。片や「我善し(小我=不調和)」、片や「皆善し(大我=調和)」。
 そのような「あなたは私であり、私はあなたである」という認識に立てば、「怒り」や「憎しみ」などというネガティヴなものを蒔くことなど出来ましょうか。心の奥底からの自然な発露として、「喜びのタネ」を蒔くはずだと思います。

 以上、偉そうなことを申し述べさせていただきました。未熟者の私自身、「喜びのタネをまこう」という高い意識状態から外れることがままあります。しかし心の片隅でいつも、そのことを心がけていることもまた事実です。
 ともあれ、私たちは「今喜べているだろうか?」と時折り自問してみる必要がありそうです。地球全体が「アセンション(次元上昇)」しようとしている「今この時」、自然万物と共々そのコースに乗っていることの大切なバロメーターとして。   ― 完 ―

 (大場光太郎・記) 

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喜びのタネをまこう(2)

 以下では「喜びのタネをまこう」について、私が考えますことを少し述べてみたいと思います。

 まず確認したいことは「喜びのタネ」をまくことがなぜ重要なのかということについてです。
 「蒔かざる者は刈り取ることを得ず」とは、イエスの有名な言葉です。当然のことながら、種(たね)を蒔かなければ、作物は育たないし果実を収穫することなどなお出来ない道理です。これは「原因結果の法則」と言われているものですが、この法則は実はこの地上世界のみならず、そのまま「宇宙法則」でもあるようです。
 
 イエスはまた別のところで、「汝(なんじ)が与えたものを汝は受け取る」とも教えています。つまりここでは与えたもの(=蒔いたもの)がどのようなものなのか、その内容が問われるのだというわけです。これは原因結果の法則と同じ内容ながら、特に「ブーメランの法則」とも呼ばれます。
 つまり「喜びのタネ」を蒔けば喜びが、「悲しみのタネ」を蒔けば悲しみが、「憎しみのタネ」を蒔けば憎しみが、蒔いた(与えた)当人にそのまま返ってくるということです。

 ただ蒔く(与える)ことと、刈り取る(受け取る)ことは同時ではありません。この三次元世界では、過去・現在・未来という直線的時間が錯覚(幻想)されているため、当然のようにタイムラグがある(ように感受される)わけです。(到る所に時計が溢れかえり、時計とにらめっこし、時間に追いまくられている現システムそれ自体が、「幻想」の上に成り立っているシステムであるということです。)
 
 中にはこの世で行った行為の結果を、あちらの世界あるいは来世、来々世で、ということもままありました。その分なかなか「原因結果の法則」に気づけず、勝手気まま好き放題してきた人たちも多かったわけです。
 しかし間近に「タイムゼロ」が迫っている、今回は違います。既にお気づきの方もおられるかと存じますが、原因=結果の世界にどんどん近づいているのです。すべてスピード化、加速化です。己の為した行為の結果がどのようなものであるのか、良いことも悪いことも驚くほど短時日のうちに確かめられ、検証し得る、そんな時代なのです。

 いずれにしてもどれを蒔くかは、個人の自由意志に委ねられています。なぜならこの世界それ自体が「自由意志の世界」であるからです。「自由意志」は神聖なもので、原則として他が侵してはならないものです。
 ただし「蒔いたものを刈り取る」「与えたものを受け取る」のが、この宇宙のシステムです。そこで人間個々は自由意志を自己責任で行使して、時に不都合なものを蒔いたり与えたりして、辛く苦しい思いを刈り取りながらスタディし、レッスンして、より完全な存在に成長、進化していくシステムなのです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

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喜びのタネをまこう(1)

 ご存知の方も多いかと思いますが、「喜びのタネをまこう」という言葉は株式会社ダスキンの企業理念を表わす標語です。私は同社とは何の関係もない人間ながら、この標語は以前から心に深く残っています。そこで今回はこの言葉について、少し考えてみたいと思います。
 まずこの言葉を社会に提供してくれている「ダスキン」についてご紹介します。

 株式会社ダスキン(本社:大阪府吹田市)は、モップをはじめとするお掃除用品、浄水器・空気清浄機などの生活用品のレンタル、販売や、ミスタードーナツというファーストフード店を展開している会社です。
 同社の創業者・鈴木清一は1964年社名を「株式会社ゾーキン」とするつもりでした。しかし「人に言いにくい」「嫁が来なくなる」などの社員の反対により、「ダスト(ほこり)」と「ゾーキン(雑巾)」の合成で「ダスキン」という社名にしたのだそうです。その時鈴木元社長は、「自分が汚れただけ人が綺麗になるのだ。“ぞうきん”で何が悪い」と語ったそうです。
 その創業者・鈴木清一は「祈りの経営」を掲げ、そのコーポレイトステートメントに掲げたのが「喜びのタネをまこう」だったのです。

 鈴木清一がダスキンを社名にした1964年(昭和39年)は、東京オリンピックが開催された年でもあります。我が国の高度経済成長がいよいよ上昇気流に乗りつつある時期でした。それ以降急激な経済発展を遂げ、世界第二位の経済大国にまでなりました。しかし同時にさまざまな負の遺産もこの国にもたらしました。ただひたすら経済至上主義で突っ走る我が国国民の姿が、諸外国から「エコノミック・アニマル(経済動物)」と顰蹙(ひんしゅく)を買ったこともありました。
 そんな中での「祈りの経営」、「“ぞうきん”で何が悪い」と言い切る信念、そして「喜びのタネをまこう」。何やら鈴木清一という人は、高度経済成長期などはるかに飛び越えて、21世紀の今日の企業理念を先取りしていた先見性のある経営者だったように思われます。

 ただしこういうタイプの企業は、とにかく業績を拡大し成長するためには手段を選ばず式のアコギな体質ではない分、そんなに急激な伸びは期待出来ないはずです。しかし時間が経つほどじわじわ社会にその良さが浸透していき、着実に成長していける企業だと思います。同社はそのとおりに堅実に成長を続け、2006年(平成18年)には東証一部、大証一部に上場を果たしました。
 なお翌年、上場後初の株主総会が大阪の某ホテルで開催されました。開催前に般若心経を唱和したそうです。いかにも同社らしいエピソードです。
 ただ長い歳月が経過するとどんな企業も創業時の理念やモラルが風化しがちです。現にダスキンでも、2002年(平成14年)には傘下企業であるミスタードーナツの禁止添加物事件とその隠蔽加担により、当時の社長が辞任するという出来事があったことはまだ記憶に新しいところです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

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日々雑感(5)

 暑中お見舞い申し上げます

 8月になりました。それでも本当に梅雨が明けたのやら、明けていないのやら。どうも今一つはっきりしない今年の夏模様です。
 ここ2、3日の天気の移り変わりをみましても。当地では30日は真夏の暑さだったかと思うと、7月末のきのうはうって変わって曇りがちのしのぎやすい一日で。そしてきょう8月1日は、午前中は曇りで昼過ぎから日が射して夏らしい暑さがぶり返す。ここで一気に夏本番かと思いきや、さにあらず。明日2日は全国的にまたぐずついた天気に逆戻りのようで、中部地方などでは豪雨が心配されそうな予報です。

 こういう年は「暑中見舞い」をいつ出すべきか迷うところです。気象庁が梅雨明けを発表した先月14日から3日ほどは、それこそ真夏を思わせる暑さでした。発表後すかさず出せばよかったものを。その後はすっかりぐずつき気味の天候で、出すタイミングを逸してしまいました。
 しかしこれ以上ぐずぐずしていると、今月8日はもう暦の上の「立秋」です。どなたもご存知かと思いますが、マナー上この日を過ぎてしまえば「残暑見舞い」となり少々具合の悪いことになってしまいます。そこであす、あさってあたりまでには、急ぎ取りまとめて現実上の暑中見舞いを出さなければと、大いに気が焦っているきょうこの頃です。

 というような次第で、当ブログでも大変遅ればせながら、本記事をもちまして「暑中見舞い」とさせていただきます。(ちなみに去年は、『暑気所感』記事の7月27日のことでした。)
 さすがにここ近年の「猛暑型」でない分しのぎやすいと申しましても、やはり夏ですから暑いことは暑いです。曇りでも雨でも、少し動きでもすれば、体の中からジトッと汗が吹き出してきます。どうぞ皆様。お体大切に、暑さ本番の今月を乗り切っていただきたいと存じます。
 と申しておりますこの私が、諸事、雑事に追われがちな日々の中で、早くも少し夏バテ気味です。それが当ブログにも影響しておりまして、ここのところ更新が滞りがちです。毎日のように新記事を楽しみにご訪問いただいております皆様には、ご期待に添えない日もあり、大変申し訳なく存じます。と申しましても、食欲がないとか夜眠られないというような重症ではありませんので、ご心配なきよう。

 それに致しましても、当月は選挙戦一色になりそうですが、何せ何十年ぶりかという八月・真夏の選挙ですから、全国各選挙区の候補者の方々はさぞ大変なことと思います。かんかん照りの中街頭に立ちっ放しで、自身や所属政党の政策を声を限りに訴えたり、聴衆のただ中に飛び込んで握手をして回ったり…。それも1、2ヶ所ではなく何ヶ所、十何ヶ所と回るわけですから。
 衆議院議員という国家の選良(エリート)と言えども、先ずは頭脳戦よりは体力戦を強いられるわけです。特に70歳以上の高齢候補者にとって、真夏の選挙戦は一段とこたえるのではないでしょうか。有権者何千万人分の一の一人に過ぎない者ながら、ご同情申し上げますといったところです。

 話は全く変わりまして―。例の草なぎ剛の、芸能界復帰はほぼ順調のようですね。確か他のSMAPメンバーに混じっての、何かの大型新作CMも、きょうあたりからオンエアーされるのではないでしょうか。
 また事件当時総務相の鳩山邦夫の厳しい批判で、「地上デジタル担当大使」はもう金輪際ないだろうと見られていましたが、結局先月下旬地デジ・メインキャラクターに再び任命されたとのこと。「たかが酔っ払ってハメを外したくらいで逮捕とは」という世間の同情の声に押し切られた形なのか。日本郵政の西川社長留任を受けて辞任した、鳩山大臣という重しが取れたせいなのか。
 とにかく草なぎ剛にとってのその後の芸能活動。「雨降って地固まる」的状況のようで、本人もやれやれといったところでしょうか。
                         *
 既にお気づきのとおり、当ブログ背景をこれまでの『若葉』から『Winter』に変えました。昨年よりご訪問の方はお分かりと存じますが、このテンプレート引き続きまして今年も使用致します。ココログでは、ブログ背景として数多くのテンプレートを取り揃えていますが、いざ探してみますとなかなかピンとくるのがないものです。そこで私は各シーズンごとに同じものを繰り返し使用する方針です。なお去年梅雨時使用しました『カッパ君と雨』、愛着はあるものの短期間のため割愛しました。どうぞご了承ください。
 なお「Summer(夏)」なのにどうして「Winter(冬)」なのか?につきましては、既に去年ご説明したとおりです。8月も冷夏続きで寒々とした背景にならぬよう、本来の(ただし猛暑ではなくそこそこの)暑さを望みたいものです。
 
 (大場光太郎・記)

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夏祭り

   お祭りを見るや見ざるや蛾眉(がび)の月  (拙句)

 週間予報では確か、関東地方のきょうあしたは曇りのはずでした。(私の天気予報感覚はそんなもので、今朝最新の予報など見ないのです)。きのうおとといの雨がちの空模様からして、私は『おそらく予報どおりかな?』と思っておりました。
 しかし当地では曇りは朝のうちだけで、その後少しずつ雲が切れ始め薄日が射してきました。昼過ぎは日差しが強まり、それと共に気温もぐんぐん上昇し、午後は何ごともなかったかのような真夏の日となりました。

 所用で午後、当厚木市内を少しぐるぐる回るかっこうになりました。街並みは夏の太陽の輝きのただ中にある感じです。そして市街地を逸れでもすると、当地はけっこう自然が豊かで、おちこちに小山が連なっています。それがさながら夏の季語の「青嶺(あおね)」そのものなのです。久しぶりの日差しに、全山の深緑が生き生きとして目に迫ってきます。遠い前線から運ばれてくるものなのか、やや強い風が吹き渡っています。暑い戸外ではこの風こそは涼風です。
 述べる機会がありませんでしたが、蝉ももう10日ほど前から聞かれました。久しぶり晴れたきょう午後は、また一段とかまびすしい鳴声が聞かれます。

 このような天気を目の当たりにすると、きょう現在の天気図など見ていないので梅雨前線がどうなったのか分からないものの、『あれっ。やっぱり気象庁の梅雨明け発表は正解だったのかなあ』と思えてくるから奇妙です。しかし明日になればまたぐずついた天気に戻るかも知れず。こればっかりは、今しばらくは予断を許しません。(深夜のニュースによると関東地方は真夏のような日でも、今度は九州地方が集中豪雨に見舞われたとのこと。)

 きょうのこの真夏そのものの天気に誘われたわけではないものの、方々を回って目につくのは「お祭り」の多さです。そう言えばきょうは7月下旬の土曜日。子供たちも20日頃から夏休みのはず。夏祭りを行うにはもってこいの日であるわけです。
 その一つ。厚木市街を少し南の平塚方面に行った高層住宅群の自治会では、夕方普段は団地内公園と思しき場所がすっかりお祭り広場と化していました。もう大勢の人が集まっていました。信号待ちの間見ていますと、中央に櫓(やぐら)が組まれています。本番はやはり盆踊りの夜祭りのようです。櫓から少し離れて、煙がもくもく上がっています。見ると自治会の役員たちが焼き鳥を焼いて参加者に振舞っているようです。もっとよく見ると、焼き鳥をもらおうと、たくさんの人が一列になって並んでいます。
 これからお祭り広場へ行こうとして、歩道を歩く家族連れの姿も見かけられました。中に、小学生と思しき可愛らしい浴衣の少女の姿も認められます。

 そして我が住居から何百mか南にある5階建ての団地群自治会でも、やはり今夜夜祭りのようです。7時少し前、今度は徒歩で歩いていて分かったのです。そのお祭り広場を見る前から、ドンドンドーンという太鼓の音が聞こえてきて『おっ。こっちでもやってるな』とすぐ気がつきました。
 少し離れた道を、そのようすを横目で見ながら通りました。やはり先ほど見た祭りの光景とだいたい同じような感じです。そのさまを見ながら思い出しました。去年の7月最終土曜日は26日でしたが、その日のことを『暑気所感』という記事にまとめました。同じくその日はそこのお祭りだったものの、何と夕方からもの凄い雷と豪雨になり、道に水が溢れるは、近年珍しく停電になるはで、お祭りも取り止めになったことでしょう、というようなことを述べました。
 あれから1年、今年は好条件の中無事夜祭が行われそうです。

 そう言えばきょうお祭りが行われるのは、ほとんどが大きな団地関係の所のようです。やはり現住居から数百m先の、例の中津川堤防道に到る旧道沿いの自治体の場合は、例年8月が夏祭りです。お寺の駐車場が会場ですが、付近は旧農家など古くからの家が多いため旧盆過ぎくらいになるのでしょう。ちなみに現居住地付近は、皆新しい住宅群で果してきちんとした自治会があるのかないのか、今もってよく分かりません。ついぞそのような催し物の案内を受けたことがないのです。
 特に都市部ほど、普段から人間関係が疎遠になりがちです。それを解消し、同じ地域社会に住むお互いの交流、親睦を図る意味でも、お祭りのような老若男女誰でも参加できる場がもっと必要なのかもしれません。

 (大場光太郎・記)

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雨大暑

   作物に人によろしき雨大暑   (拙句)

 本日23日は二十四節気の一つの「大暑」です。
 去年は1日早い22日が大暑で、やはり『大暑』という記事にしました。それを読み返してみますと、去年はその前の週末に梅雨明けし、それから22日までの3日間ほどそこそこ暑かったようです。同記事では暑さが更に増幅するような、「暑さを表現する季語」をズラッと並べたり、気象庁の「暑い夏を表現する用語」を紹介しました。

 暑さが最も厳しい時期とされる大暑ながら、日本列島の広い範囲できょうも曇りや雨模様となり、西日本では梅雨明けのめどさえ立たないなど、すっきりしない一日となりました。
 思えば、今年の関東甲信地方の梅雨明けが発表されたのは14日のことでした。その後確かに3日ほどは真夏らしく連日30℃を越える暑い日が続いたものの…。その後はずっと曇ったり雨が降ったりの、ぐづついた日が続いています。当厚木市でも本日は朝から雨がちで、昼過ぎに一時ぶんまくような激しい雨さえ降りました。

 私はこのぐづついた天気から、何日か前から『関東地方の梅雨明け発表は少し早すぎたんじゃないの?』と思っておりました。きょうの昼のあるテレビ番組で、この天気について特集していました。その中で知ったことには、この疑問は私だけではないらしく、気象庁には「いったいどうなってるの?いっそ(関東甲信地方の)梅雨明けを取り消したらどうか」というような問い合わせが、けっこう多く寄せられているそうです。
 その番組専属の気象予報士によると―。(気象庁が関東甲信地方の梅雨明けを発表した)14日の日本列島の天気図では、太平洋上の高気圧が強まり、関東甲信地方をすっぽりその勢力圏内におさめ、なおかつ列島広く包み込み、梅雨前線は南は中国大陸の方、北は北海道の海上に分断されてしまっていた。これは典型的な夏型の気圧配置で、この状態では関東甲信地方に梅雨前線が下りてくることはもうないだろう。ただ関西など西日本は高気圧の周縁部にあたり、まだ予断を許さない。それで西日本に先駆けて、関東甲信地方の梅雨明け発表となったもようです。

 しかし何のいたずらか、真夏をもたらす太平洋高気圧はその後勢力を弱め、列島から大きく後退し、代わって分断されていた梅雨前線が再びつながって活発化していることが、現在の戻り梅雨のような状態をもたらしている、ということのようです。
 過去にも1993年、2005年が今年と似たような年だったようです。そして両年とも冷夏傾向で、特に1993年は昔なら大冷害、大凶作といっていいほどで、ご記憶の方も多いことでしょうが国内の備蓄米が底をつき、タイ米などを急遽輸入して何とかしのいだ年でもありました。

 ということは、今年は例年の猛暑による熱中症の急増などはあまり心配しなくてもいいのかもしれません。その代わり、21日中国地方特に山口県を襲った集中豪雨被害のようなことが多くなるかもしれません。
 私は気象庁は潔く誤りを認めて、関東甲信地方の梅雨明けを取り消すべきだと思います。しかし、お役所における「メンツ意識」はなかなかのもの。そう簡単に取り下げはしないでしょう。ただその代わり、例年その年の梅雨の状況を9月末頃見直して、その時点で改めて梅雨入り、梅雨明けを確定する仕組みのようです。
 なお同予報士の見立てでは、今のこの状態は今月30日くらいまでで、それ以降本当の梅雨明けとなるでしょう、ということでした。

 (大場光太郎・記)

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皆既日食

 本日22日は日本の陸地で観測できる、46年ぶりの皆既日食だそうです。近づくにつれて、テレビや新聞で特集が組まれているため、関心が高くなるのも当然というものです。ネットでこれについて投票を呼びかけたところ、「関心ある…71%」「関心ない…29%」という結果となり、改めてその関心の高さが裏付けられました。
 しかし皆既日食帯に入るのは、トカラ列島や奄美大島の一部だけで、ほとんどの人はテレビやインターネット中継で観賞するしかありません。部分日食なら全国で観測することができます。たとえ部分日食でも専用メガネで「直接観賞したい」という人も2割以上いるそうですから、予想以上のフィーバーぶりということができるのかもしれません。

 日本では46年ぶりということは。1963年(昭和38年)7月21日北海道東部で見られた時以来ということだそうです。次回は2035年9月2日北陸、北関東などで見られるそうですが、実に26年後のことで、皆既日食とはかくも珍しい現象ということができます。

 果てして皆既日食だったのかどうか。私の記憶ではそうだったのですが、人間の記憶はとかく不完全なものまで完全なものとしてデフォルメして記憶しがちです。とにかく私が子供の頃に、日食を見た思い出があります。
 定かではないものの、昭和30年代前半私が小学校の3、4年生頃のことです。(ますますもって、皆既日食ではなかった可能性が高くなりました)。季節はいつだったのか覚えていませんが、比較的暖かかったこと、雪などなかったことから冬でなかったことは間違いありません。

 山形県内のわが町(宮内町)の我が母子寮付近でも、日食は大騒ぎでした。日食が始まったのは、日が南の高い空にあったように記憶していますから、昼過ぎて間もない時分だったでしょうか。
 寮内の大人たちや子供たちそれに近所の人たち十数人が、母子寮前の道路に集まりました。その当時日食専用のメガネなどというハイカラなものがあろうはずがありません。さりとて裸眼で太陽を直視するのは危険だということは、大人は皆知っています。そこで寮の職員の人だったか、長方形のすりガラスにロウソクの火か何かで煤をつけて曇らせたのを用意し、「ええが。これを当でで見んなだぞ」と子供たちに一枚ずつ渡してくれました。

 その日は幸いにも晴天でした。それが日食の始まりとともに、少しずつ不気味に薄暗くなり…。なぜか私の記憶はそこまでです。世の常ならぬ出来事に、すっかり魂消(たまげ)てしまったからなのでしょうか。果して日食中に渡されたガラスを有効活用したものか、肝心の日食のようすはどうだったのか、まるで覚えていないのです。

 日食とは誰でも知ってのとおり、月が太陽の前を横切るために、月によって一時的に太陽の一部(部分日食)または全部(皆既日食)が隠される現象です。皆既日食では太陽の周りにはコロナが広がって見られます。また太陽の方が大きく見えるため、月の周りから太陽がはみ出して見えた時には「金環日食(金環食)」と呼ばれます。

 大変珍しい現象ではあっても、その起きる原理さえ知ってしまえばさして驚くような現象でもありません。しかし今日の私たちのような天文学的知識がなかった昔々の人々にとって、突如太陽が見えなくなって世界が闇に覆われる日食は、畏怖すべきまた大変不吉な前触れとして恐れられてきました。そのため世界各地にさまざまな日食伝説、伝承が残されているようです。
 ちなみに我が国の古事記の有名な、天照大神(アマテラスオオミカミ)の「岩戸隠れ」の故事の元となったのは日食だったのではないだろうかとする研究者もいるようです。

 今回の日食に関しては、私はさほど関心がありません。しかしそうは言っても、いざ日食が始まってしまえば、真っ先に戸外に飛び出して食い入るように空を見上げるかもしれません。

 (追記)最後にのん気なことを記しましたが、前日は山口県を中心に大変な集中豪雨被害が発生してしまいました。被害に遭われた地方の皆様のご苦労、お察し申し上げます。またお亡くなりになられた方々には心よりお悔やみ申し上げます。
 当地でも数日来ぐづついた空模様が続いていて、まだまだ梅雨前線は活発なようすです。これは「戻り梅雨」と見るべきで、気象庁の梅雨明け宣言は少し早すぎたのではないでしょうか?この分では、関東地方で部分日食が見られるかどうか、大変微妙です。

 (大場光太郎・記)

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日々雑感(4)

 気象庁が関東地方の梅雨明けを発表してから、なるほど急に暑い日が続いていました。しかし本日、当地では朝から曇りがちな空模様。昼前はけっこう激しい雨に見舞われたりして、『さては戻り梅雨か?』と思われました。雨は30分ほどでやみ、昼過ぎからは薄日が射したりしたものの、まあまあしのぎやすい一日となりました。

 近年は特に梅雨が明けると、半端ではない猛暑が連日続く傾向があります。その間何日も何日も雨が一滴も降らないような。これも地球全体の温暖化傾向による異常気象のしからしむるところなのでしょう。しかし農耕社会の昔だったら、確実に旱(ひでり)、旱魃(かんばつ)で大騒ぎだったことでしょう。
 現代は自給自足ならぬ「他給他足の時代」ですから、ついそのことは看過されがちです。特に我が国では、農作物、穀物の自給率が30~40%にも関わらず、あい変わらずの飽食ですから、実は旱魃であることには少しも気づかず『毎日暑いですねぇ』で済まされてしまうわけなのです。

 しかしご存知のとおり、先進国といわれる国々でも我が国のように極端に低い自給率の国は他にありません。フランスなどは200%に迫るといわれ、やや低いアメリカでさえほぼ100%に達しています。もし仮に今日うまく機能している農作物輸入頼みの他給他足システムが万一全世界的に破綻したとしたら?…。国民の6、7割は飢餓線上をさ迷うことになるわけで、考えただけでもぞっとします。
 そういう意味では、来るべき総選挙では、各党ともこの問題にどう取り組むのか、しっかりした農業政策をきちんとマニュフェストに盛り込んでもらいたいものです。

 総選挙といえば。麻生首相が「解散予告」という前例のない発表をしてから数日。案の定「麻生おろし」の風が吹き荒れました。16日(木)には中川秀直、加藤紘一、武部勤といった元幹事長の面々を中心とする反麻生派が、与謝野馨何でも兼務大臣、石破茂農水大臣も取り込んで、両院議員総会を開催するのに必要な120余名以上の議員の署名を集めたとかで、大騒ぎになりました。
 「すわっ。やっぱり麻生さんは解散できずに退陣か ! 」と、成り行きを興味深く見守っていました。しかし結局は、現執行部と各派閥の締めつけにより、その勢いが急速にしぼんでしまったようです。今の自民党には「○○の乱」を起こすようなエネルギーすらないようで。これで、麻生首相の下で、今月21日解散、8月30日投票は確定のようです。
 しかし国外的に見た場合、これでよかったと言うことができます。もし仮に、一国の宰相が「解散する」と宣言しながら「解散できませんでした」では、また我が国の国際的な赤っ恥となるところでしたから。

 ここのところ『天地人』は、まあまあ可もなし不可もなし。特別『天地人シリーズ』として取り上げることのほどもなさそうです。
 肝心の主役・直江兼続役の妻夫木聡は、若くてイケメン過ぎて、回が進んで上杉家筆頭家老になっても、何度秀吉と対面しようと、どうもイマイチ戦国武将、名参謀、名軍師としての威厳、風格が感じられません。(これは、始まる前から言い続けていることながら。)
 と思っておりましたら、もう少し回が進むとヒゲをはやした兼続になりそうです。それによって、少しは風格が出てくれればなあと、今から期待しております。
 その点主君である上杉景勝役の北村一輝は、さすが決まっています。どっしりした落ち着きと重厚感があり、「さすが名門・上杉藩主」といった趣きで安心して見ていられます。

 今回の『天地人』では脇役である、豊臣秀吉や徳川家康を演じている笹野高史、松方弘樹は、さすがベテランの役者らしく、これも安心して見ていられます。特に笹野高史の秀吉は、『実際の秀吉もあんな感じだったんじゃないの?』と思われるほど、はまり役だと思います。
 小栗旬の石田三成役も最近ようやくなじんできました。しかしいつまでたっても何となく「小姓っぽい」いでたちなのが気になります。あの独特のカツラや衣装も含めて、実際の三成もあんな感じだったのだろうか?『少し違っていたんじゃないの?』という違和感は残ります。

 その他女性陣について。高島礼子の仙桃院、常盤貴子のお船の方、その侍女役のあき竹城…。それぞれの持ち味を出して、よく演じていると思います。目立たないながらあき竹城、そのうち舞台が生まれ故郷の米沢に移るわけで、さぞ大張り切りなことでしょう。深田恭子の淀君は意外でした。今後どんな演技を見せてくれるのか楽しみです。
 ただ高島・仙桃院は、幾つになってもシワ一つない若々しさです。まあ、若くてお美しい女性(にょしょう)は大歓迎ですけれども…。

 (大場光太郎・記)

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梅雨が明けて

   梅雨明けの夢のやうなる白き雲   (拙句)

 13日気象庁は、関東甲信地方が梅雨明けしたとみられると発表しました。ここ何日かの夏そのもののような晴れがちの天気から、『梅雨明け間近か?』と思っていました。しかしいささか唐突だったようにも思われます。
 例年なら、梅雨明けは7月の20日前後だったように記憶しているからです。それに過日の1週間予報では関東地方は今週半ば頃また天気がくずれて梅雨が戻ってくるでしょう、というようなことでしたから。
 また異例なのは、中部、関西、中国など関東以南の地方をさしおいて、関東地方が一足お先に梅雨明けとなったことです。梅雨明けは必ず南の方から順ぐりでなければならない、という決まりがあるわけではないものの…。確かに今年の関東地方の梅雨明けは、例年より6日ほど早く、去年より5日早かったようです。

 それでも梅雨明け翌日の14日は、確かに暑かったものの空に雲も多く、その雲は既に梅雨雲のような鉛色の雲ではないとしても、かといって夏特有のニョキニョキムクムクの雲の峰といった感じでもない白い横雲で、何となく「プチ梅雨明け」といった趣きでした。

 しかし本15日は違います。朝から雲も少なく、日がカァーッと照りつける一日となりました。昨晩は熱帯夜で寝苦しく、早朝には既に30℃近くあったようです。それが日差しの強まりとともにぐんぐん気温も上昇し、(確かめたわけではありませんが)関東各地は35℃に迫ろうかという所が多かったのではないでしょうか。
 長くうっとうしい梅雨が早く明けないかなあと望みながら、いざ明けてみると今度は容赦ない暑さが襲いかかります。こういう季節の変わり目は、えてして体の変調が起こりやすいもの。体調管理には十分留意したいものです。

 話は変わって―。イギリスの作家サー・アーサー・コナン・ドイル(1859年~1930年)は、名探偵シャーロック・ホームズの生みの親(原作者)として有名です。しかし同時にコナン・ドイルは、イギリスにおけるスピリチュアリズムの先駆者の一人としても有名なのです。いな実はそれを広めることこそ彼のライフワークだと考えていて、そのため大評判のシャーロック・ホームズ物語で得た印税のすべてを、その啓蒙のために注ぎ込んだくらいです。
 コナン・ドイルは、死後の世界の最上界を「サマーランド」と名づけました。その世界は常夏のように果実がたわわに実り、緑豊かで、日が輝いて影のない(さりとて暑すぎもしない)世界とイメージしたわけです。あるいはイメージばかりではなく、コナンドイル自身が霊覚者としての一面がありましたから、それは彼自身の霊視によるものだったのかもしれません。

 なるほどと思いますね。これは対極的季節である真冬と比べてみると明らかです。万物が凋落し、すがれて寒々とした世界を天界とは誰も思わないだろうからです。
 しかしコナンドイル以降、スピリチュアリズムの進歩は目覚しく、今日ではここ地球世界に限ってみても、彼の表現した「サマーランド」は実はアストラル界という下から2番目の世界の最上界であって、その上に更に大別して5つもの精妙世界(細分化すれば35階層)が展開されていることが分かってきています。これは何を意味するのでしょうか?私たちの進歩、進化には限りがないということです。本当に「もうこれでオーケー」ということがないのです。無限に続く「学び」です。こちらの世界でも、あちらの世界でも。

 …日に向って歩こうものなら、まるでこの私の体に暑さがフォーカスされてでもいるかのようです。そのような暑さの中街を歩きます。見れば西の遠くの大山の峰の上に、薄黒い雲が横に大きくわだかまっています。何やら雲の峰崩れといった感じです。しかしそれを見ていると、何とはなしに涼感を感じてくるから奇妙です。
 にわかに風が吹いていることに気がつきました。それも、街並みの各店舗の店先の多くの布旗や木々の梢(こずえ)を、なみなみ揺らすほどのけっこう強い風です。これには救われます。本式な炎暑になると、風はベタッと凪いでしまいまるで無風状態、ただただ暑さだけが猛烈に実感されるということになるからです。

 (大場光太郎・記)

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俳句を始めた頃(5)

 句作を始めた年が明けた2月頃、毎日俳壇(毎日新聞日曜版俳句コーナー)に投句しました。同俳壇の選者は3名ほどいたと思いますが、好きな選者を指定して投句してよい決まりになっていました。そこで私が選んだのが鷹羽狩行(たかは・しゅぎょう)でした。既に『現代の俳句』収録の鷹羽の代表的な何十かの句を読んでその句風に共鳴出来たこと、そして同じ山形県出身であることに共感を覚えたことなどが主な理由だったと思います。

 投句したのは、
   煮凝り(にこごり)の凝るをかしさ食ひにけり  
という句です。寒さ厳しい雪国では、冬の夜に母が煮魚をこしらえておきますと、次の日の朝になると煮汁が固まってこげ茶色の寒天状になってしまいます。そうして食べた煮魚そのものももちろんですが、煮凝りのトロンとした舌ざわりがまた何とも言えず乙な味だったのです。寝たきりで臥せっている母を介護しながら、そんな郷里でのことをふと思い出して詠んだ句です。 
 それが何と、初投句でいきなり毎日俳壇に掲載されたのです(もちろん私の句ばかりではなく、10数句くらいと共に)。『うわぁ、オレの句と名前が全国紙に載ったんだ ! 』。今となっては別にどうということもありませんが、当時の私はまるで天にも昇る嬉しさでした。嬉しさあまって、その日曜版を5部ほどまとめて買ったことを覚えています。

 味をしめて次も鷹羽選で投句しました。しかしその時は採用されませんでした。初投句でいきなりというのは良し悪しというもので、その後は毎日俳壇への投句をやめてしまいました。
 代わって、私が当時購読していた朝日新聞の朝日俳壇にチャレンジしてみることにしました。しかしこれがなかなかの難関なのです。選者も、稲畑汀子(いなはた・ていこ)、金子兜太(かねこ・とうた)ら4名、いずれも当時超一流の俳人です。後で分かったことながら、同俳壇に掲載されるのはわずか数10句ですが、それに向けて1回あたり約1万句くらいの投句があるというのです。
 投句者の中にはプロを目指している人も大勢いたことと思います。そんな中で駆け出しの私など、とても太刀打ち出来るものではありません。不採用が何回続いてもこりずに10数回投句し続けました。しかし結局ただの一度も採用されることなく、終いには断念しました。

 なお毎日俳壇の選者だった鷹羽狩行は、毎年中秋の名月に行われる伊勢神宮観月会・俳句部門の選者でもありました。テーマは「月」でしたが、私は3、4回毎年こちらにも投句しましたが、その度に採用していただきました。次の句はその中の一句です。
   あをあをと月に読まるる川原かな

 このようにして数年間、1日10句以上をノルマに俳句を作り続けました。そうして句がびっしり書き込まれた手製の俳句手帳も6冊に及びました。
 しかし身心のコンデションが何とか復調し、頭の働きも自分で『まあまあ元に戻ったかな』と思われる段階になると、毎日句を作り続けることが面倒くさくなってきました。そうして気がついた時には、ほとんど句を作らなくなっていました。

 当ブログでしばしば過去の拙句を冒頭に掲載するのは、現在ほとんど句作していないからです。そして今現在にわかに句を作ってみても、「継続は力なり」というもので、集中して句作していたあの頃より句のレベルは明らかに落ちてるなと、自分でもそう思います。  ―  完  ―

 (大場光太郎・記)

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俳句を始めた頃(4)

 そのようにして手製俳句手帳に書き連ねていった1000以上の句の中から、50句、100句くらい何とかものになりそうな句を選んで、今度は別の用紙に書き出してみました。その頃になると単なる能力開発という目的とは別に、『もっと俳句がうまくなりたい』という欲が出てきました。
 そのため歳時記を揃え読み出したり、有名俳人の俳句入門書を読んだり、『名句観賞』の俳人略歴で度々引用しております講談社学術文庫中の『現代の俳句』(平井照敏編)を少しずつ読み込んだりしました。また『角川俳句』『俳句朝日』『俳句研究』という月刊の俳句雑誌を毎号欠かさず講読するようになりました。

 何事もそうでしょうが、俳句の場合も上達の最も良い方法はとにかく先人の優れた作品に数多く接し味わうことに尽きるようです。その意味で『現代の俳句』を繰り返し読みこんだことは、私の句作のレベルを上げる上で大いに効果的だったと思います。
 実はもう一つ優れた方法があります。それは自分と波長の合った先輩俳人を見出し、その同人結社に加わることです。そしてそこで催される句会などに積極的に参加して、そこから大いに刺激を受けること。句会は俳聖・松尾芭蕉以来の伝統でもあるわけで、本当はこれこそが俳句上達の王道であるのかもしれません。

 しかしすっかり出不精になり、元々あまり社交的でない私は、これには当初から抵抗がありました。句会の席で自分の作った句を周りの人から批評、指摘される。逆に私がそういう立場になることもある。『ウーン、どうもなあ』という感じがしたのです。
 それにもう一つ、特定の俳句結社に所属してしまうことは、その結社のカラーに染められ縛られてしまい、それを越えるような発想が出来にくくなる可能性もあるのではないだろうか?とも思われたのです。

 それに、この年になって何も「プロの俳人」を目指すわけでもないのだし。結局早い段階で、同人結社に所属しないことにしようと決めました。
 ただ同人結社の利点はもう一つ。自分の作った句が大勢の批評眼にさらされることによって、独りよがり、自己満足になりがちな傾向から逃れられるということがあると思います。自分の作った句はどうしても評価が甘くなりますから。そこで極力そうならないよう、自作を厳しくチェックする「もう一人の自分」を常に置いておかなければならないなとも思いました。

 「プロ俳人を目指すわけではない」と言いながら、次の段階として『自分の作った句を出来るだけ多くの人に読んでもらいたい』という欲求が芽生えました。ともかくもそういう欲求が芽生えたということは、その頃には当初の軽いウツ傾向は脱しつつあったといっていいのかもしれません。

 各俳句雑誌では、定期的に「俳句賞」「俳句新人賞」などへの応募を呼びかけていました。例えば「角川俳句賞」「俳句朝日賞」「俳句研究新人賞」といったものです。30句または50句をまとめて、それに自分で決めたタイトルをつけて応募するというような形式です。その中でも角川俳句賞は俳句界では権威ある賞ですから、もし受賞でもすれば一気にプロ俳人への道が開かれるわけです。また俳句研究新人賞も、プロ俳人としての登竜門になるような賞です。

 無謀にも私は、句作を始めて何ヶ月かした段階でこれらに次々に応募するようになったのでした。応募して何ヶ月かすると、各誌に受賞した作品、次点何作品かが発表され、それに選考委員の講評が出されます。
 結果は言わずと知れたもので、毎回まるでかすりもしませんでした。しかしせっせと応募した効用は確かにありました。私自身が応募した賞ですから、まず受賞作、次点作を丹念に読むわけです。そして『なるほど違うなあ』と彼我の力量の差が、そこで測れるわけなのです。そして選考委員の講評をじっくり読んだことで、自分の句作の力を高める上でずいぶんヒントが得られたように思います。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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七夕だより

   雲切れて七夕富士の全容(すがた)かな   (拙句)

 7月7日七夕のきょうは、久しぶりの梅雨晴れ間の一日となりました。それでも午前9時過ぎいったん曇りだし、どっちに転ぶか分からないような空模様となったものの、昼が近づくにつれて日差しが優勢となり、後は気温もぐんぐん上昇し、夏そのものの一日となりました。そういえば本日は、七夕であるとともに、二十四節気の「小暑」でもあります。
 ただ空全体を、梅雨雲ではないものの薄白色の雲が覆っており、『これじゃあ、彦星も織姫星も見られないな』と、日中から何となく予想されました。

 昼過ぎお隣の平塚市に向かい、同市内の不動産会社を訪問しました。
 その話のついでに、「いい天気で(平塚の)七夕、きょうはさぞ賑わっているでしょうね?」と私。すると同社社長は「何言ってんですか。七夕は日曜日で終わっちゃいましたよ」。「えっ。そうだったんですか。ずいぶん早かったんですねぇ」
 新暦7月7日の七夕の日を待たずに、その2日前に七夕まつりが終わってしまうとは。いくら何でもちと早過ぎませんか?平塚市さん。しかし実際そのとおりらしく、同社長いわく、平塚市紅屋町(べにやちょう)の大通りを華々しく飾った七夕飾りは、旧暦(新暦8月)で催される仙台の七夕まつりにずいぶん流用されるのだとのこと。
 「こっちが本場なのに、いつの間にかあっち(仙台)の方が有名になっちまって」と社長。『んっ、ホントに?』。その言葉は出さずに飲み込みました。

 気になって後で調べてみました。平塚七夕、去年までは7月7日と土日をはさんだ数日間行われていたものの、今年からは7月第一木曜日からの4日間(つまり次週日曜日-今年は7月5日まで)に変更されたもようです。なお平塚市が7月開催にしている由来は、平塚七夕が始まった戦後間もなくの頃は新暦による開催地がなく注目度が集まることや、飾り物が旧暦の開催地に対して譲渡出来る(やっばり ! )利点があるなどの理由によるもののようです。
 平塚市は第二次世界大戦中、海軍火薬廠があったため米軍の攻撃目標とされ、1945年(昭和20年)7月の「平塚空襲」で焼け野原となりました。終戦後の1950年(昭和25年)7月に復興まつりが開催され、翌年平塚商工会議所、平塚商店街連合会が中心となり、仙台七夕まつりを模範とした第1回「平塚七夕まつり」が行われた。云々。
 社長の話の中の、仙台七夕への譲渡は正解。しかし「平塚の方が本場」というのは誤りだったわけです。

 ついでに「仙台七夕まつり」の由来も少々―。
 始まりは、江戸時代初期の仙台藩祖・伊達政宗公の肝入りでとも言われますが、詳細は不明のようです。ただ1783年(天明3年)の有名な「天明の大飢饉」による荒廃した世俗の世直しを目的として藩内で盛大に七夕祭りが行われ、以来江戸末期まで続いたようです。その後明治新政府による新暦採用により、七夕の風習は廃れる一方でした。
 1927年(昭和2年)この事態を憂えた地元商店街の有志らによって大規模な七夕飾りが飾られました。すると大勢の見物客で大賑わいだったそうです。これが仙台七夕まつりの原点と言えるもののようです。
 ただ第二次世界大戦の戦局悪化により縮小の方向に行かざるを得ず、それに仙台も平塚と同じように空襲で焼け野原となりました。戦後の1946年(昭和21年)52本の竹飾りをし、復活の兆しが見えました。翌47年(昭和22年)昭和天皇の巡幸の際には、沿道に5000本もの竹飾りで天皇をお出迎えし、これが完全復活になったようです。その後高度経済成長期には、東北三大祭りの一つに数えられ、日本全国から団体客が大勢押しかけ、日本有数の七夕まつりとなって今日に至っています。

 …午後3時前帰路につきました。ルートは金目川(かなめがわ)という秦野市方面を上流として、相模湾に注ぐ中河川沿いの道を秦野市方向に向いました。そのまま川沿いにずっと進めば、以前ご紹介した東海大学湘南キャンパスの校門が道の右手に見えます。その何キロか手前を右折して、小田原厚木道路の側道に入るのです。
 この道を走っていますと、ちょうど真正面に大山が見えています。厚木市から望む大山は、その右手に一連なりのように少し低く丹沢連峰が並んで見えます。しかしこちらから望む大山は、丹沢連峰がその陰に隠れている按配で、大山の秀峰だけが強調されている感じです。この道は以前からずいぶん通ったはずなのに、今まで気がつきませんでした。
 新しい発見ですが、この方向からの大山も実に秀麗です。本日上空に少しグレーの雲で覆われているものの、深緑(ふかみどり)色した大山はその全容を余すところなく現しています。ただし、厚木市で見られるよりは幾分遠い感じなのが難点です。

 と、そのずいぶん左手の方向に、大山以上に美麗な富士山の姿が見えているではありませんか。麓から中腹にかけて幾分白い雲に包まれているものの、その濃紺の気高い全貌がくっきりと望まれます。山頂から縦に幾筋かの残雪の富士が、また素晴らしいのです。
 確か7月1日に「富士のお山開き」があったはず。こんなに隔たっていては確かめようがないものの、この時分にも山頂目指して登っている人もずいぶん多いことでしょう。

 小田原厚木道路沿いは何度も述べましたとおり、まだまだ豊かな田園が広く残っています。水田の青苗も、畑の里芋の大ぶりな葉群も、玉蜀黍(とうもろこし)葉群も。輝く陽光のもと、一帯がすっかり夏野になっておりました。

 夜何度か外に出て夜空を見上げました。夜が更けるとともに、雲は切れ出しました。ですから幾つか強い光を放つ星は認められるものの、彦星、織女星の今夜の主役星は探し出せませんでした。ましてや天の川の所在などからきしダメで…。やはり夜光都市での星探しは無理のようです。
 加えて今夜は旧暦6月15夜の満月です。雲を払って、夏満月が煌々と光を放っていることも多分に影響しているのかもしれません。
 空地の方々から、(既に6月下旬頃からですが)早や虫の声が聞こえています。ただ秋虫よりは、まだか細い鳴き音(なきね)です。やや強い風が吹き渡っています。日中の暑さにさらされた身を元から冷ましてくれそうな心地よい夜風です。
 そういえば、金目川沿い道で信号待ちしている時気がついたのですが、川の葦原の上を何と気が早いことに赤とんぼがけっこうな数、すいすい飛んでおりました。 
 
 (大場光太郎・記)

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俳句を始めた頃(3)

 俳句を作ろうと思い立った当初、私の俳句心得は、俳句とは五・七・五の十七音で季語を一つ入れて作るものという、初心者の域を出ないものでした(でも後々分かったことには、この基本こそがいつの場合も句作で最も大切なのです)。当初は、入門書や歳時記や有名俳人の名句集など何一つ用意せず、ぶっつけ本番で『とにかく俳句を作ってみよう』という甚だ無謀なものでした。

 しかしいざ句作に取り組んでみると。子供の頃からどちらかというと、知的関心があっちこっちと分散、拡散しやすい散文タイプの私にとって、予め「十七音」に制約されている俳句という詩形を作るということは予想外に難しいことでした。例えば「すすき」という秋の風物を目の当たりにすると、その周辺の事物の連想が広がり『あれも、これも句の中に盛り込みたい』となってしまって収拾がつかなくなり、一句として凝縮、収斂させていくのが困難だったのです。
 それに(当時)50歳という年齢も意識され、いくら初心者でも子供じみた稚拙な句は作れない、というような変な気負いのようなものもあったと思います。

 こうして、一句目がなかなか作れずに何日も過ぎてしまいました。しかしある時、俳句を作るのは人様に読んでもらうためではない、あくまで自分の能力開発の一環なんだと思い直し、目先の事物をとにかく一句にまとめてみようと思い立ちました。そしてまた「すすき」を一句だけでまとめようとするからかえってまとまらないのであって、関連した句を幾つ作ってもいいじゃないかと考えることにしました。
 これ自体は、アィデア創出法の一つである「ブレーンストーミング法」にならったやり方だったかもしれません。通常は会議などで、良し悪しを一切判断せず参加者に自由気ままにアィディアを出させる手法ですが、私は句作に当たって「一人ブレーンストーミング法」を試みたことになります。

 そのためには、字余りでも季語がない句(無季句)でもなんでも構わない。散文、雑文でも構わないから、思いつくままどんどん作ってみよう、ということになったのです。そうして思いついた「俳句もどき」を、用意した一冊の小さなノートに次々に筆記していきました。後で気がついたことですが、自前のにわか俳句手帳だったわけです。
 すると大いに気が楽になって、「十七文字」がポツリ、ポツリと出てくるようになりました。大変お恥ずかしい話しながら、時には変なエロの句も飛び出してきました。それらを委細構わず、小ノートにどんどん書きとめていったのです。業務上車で少し遠い所に移動している時など、移り行く風景を眺めているうち途中から調子が乗ってきて、その日1日で100以上の句が出来た時もありました。

 こうして気がついた時には、小ノートは4、5ヶ月で「俳句もどき」でほぼびっしり埋め尽くされていました。数えてみますと、ゆうに1000句以上。当初のそのプロセスは、長年私の心の奥深くで重く澱んでいたものが、これをキッカケに表面に浮上させられた具合でした。そのため作ったものの大半は、自分自身で後で読み返しても恥ずかしいようなもので、とても公に出来るようなシロモノではありませんでした。
 しかしそれが呼び水となったのか、途中から10数句に1句くらい(あくまで初心者の判断ながら)『んっ。これはいけそうだぞ ! 』という上澄みのような句が、ポツリポツリと混じり出したのです。例えば上に例に出しましたすすきの句として当時出来たのは、以下のようなものです。
   薄穂(すすきほ)のそこだけさはなる夕の風   (拙句)
 なお「さは(さわ)なる」は、「多なる」の古語、雅語として用いたものです。 (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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俳句を始めた頃(2)

 何日かクルミ回しを続けた結果は効果てきめんでした。それまでクモの巣が張られているようで何となくもやもやしていた頭の中が、少しずつ晴れていく感じがしました。それと共に失いつつあったやる気も、徐々に取り戻しつつあることが実感されました。

 手はよく「第二の脳」「脳の出先機関」などと表現されることがあります。実際最新の脳科学によりますと、手のひら全体また手の各指は脳の特定の部位と密接に関連し合っていると言われています。よってクルミ回しという一見何の変哲もない運動は、実は脳全体に直接的、間接的に大きな刺激を与えていることになるのです。ちなみに、左手は右脳へ、右手は左脳への刺激となります。
 とにかくこのシンプルな手の運動を、気がついた時特に夜寝る前や車で遠出した運転時など、1日15~30分ほど毎日続けるのを習慣にしました。我が錆びついた頭の機能が、少しずつ回復していくのが実感されました。特にやり始めの頃、普段なら夢はほとんど覚えていないのに、明け方しばしば鮮明な夢を見るようになりました。

 こうして頭と心が少しずつ元気回復して半年ほど経ったその年の秋頃、次に始めたのが「俳句」でした。クルミ回しが我が脳トレの基礎編なら、俳句はその応用編、実践編というべきものだったでしょうか。
 当時も今も、高度な脳トレあるいはボディワークは数多く存在します。しかしいかに高い成果が見込まれるとしても、長続き出来なければあまり意味はありません。その点何事も飽きっぽく三日坊主的傾向のある私には、この2つのワークはまさにうってつけだったようです。毎日欠かさずとはいかないまでも、今日に到るまで継続出来ているからです。

 何で俳句をと思いついたのか、今となっては仔細に覚えていません。しかし思い当たるのは、30代半ば頃(昭和60年頃)脳科学者・品川嘉也の著した『俳句は右脳から飛び出す』といういっぷう変わった俳句入門書を読んで、いたく感じ入ったことです。多分その時その本を思い出し、『イメージ脳である右脳を鍛えなければ。それには俳句が一番いいのでは?』と思ったのだろうと思います。

 俳句は中学2年の国語の授業で、(当ブログ『名句観賞』でも取り上げた)高浜虚子の「桐一葉日当たりながら落ちにけり」「流れ行く大根の葉の早さかな」などの句を教わり、社会人になってから河出書房版・日本文学全集中の『現代詩歌集』の、子規、虚子、飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男といった有名俳人の句をぱらぱらと拾い読みしたくらいでした。
 いや中学時代詩作を始めた頃、実は句作を試みたことがありました。しかし頭をひねりにひねってようやく出来たのは、
    世の波に忘れられゆくすすきかな  (拙句-中学3年)
という一句だけという、大変お寒い状況でした。以来俳句を作るのは大変難しいというのが、私の固定観念となっていたのでした。

 その後30数年も経ってから、改めて俳句に取り組もうというのです。しかしその後人間社会の大波にもまれて、さまざまな人生経験を積んできた大人なのだから、今度は俳句を作るのは簡単だろうと思ったらさにあらず。いざ句作を試みても、やはり難しくてなかなか一句として形になってくれないのです。
 10年前俳句について知っていたことと言えば、原則として一句は五・七・五の十七音であること、そして一句の中に「季語」を一つ入れるということだけでした。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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俳句を始めた頃(1)

 『梅雨の名句(3)』で鷹羽狩行について述べながら、私が俳句を始めた頃のことを思い出していました。今回はその頃のことを述べてみたいと思います。

 私が拙い俳句を始めたのは、今から10年ほど前のことです。
 その頃は現業務を開業して2、3年ほど、また自宅で母を介護して1、2年ほどでした。その頃は思うように業務が確保出来ず、その上連日の母の介護による疲れ、両方から知らず知らずのうちに身心にストレスがかかっていた時期でした。
 今考えれば、当時は軽いうつ病にかかっていたのではないかと思われます。何となく諸事やる気が湧かなかったのです。また例えば深夜母のその日の介護を終えて、座イスを適当に倒しながら身を横たえ見るともなしにテレビを見ていますと、『死にたい』という想いが意識の表面に上ってくるのです。次の瞬間『そんなことを考えてはダメだ』と打ち消せるほど軽症なものながら、その想いは毎晩のように続きました。

 また同時期、若年ボケのような症状も自覚されました。とにかく我ながら呆れるほど、物忘れやとんでもないポカが多かったのです。お客や横浜の県庁窓口に行ったのに、肝心な書類などを忘れてお話にならず、出直しというようなことがけっこうありました。
 『これは放置していたらとんでもないことになるぞ』。早めに何とかしなければと焦りました。何かリハビリの必要性を痛感したのです。しかし当初は何をどうすればよいのか、皆目見当がつきません。しかし先ず思ったのは、『頭の働きを元どおりにしなければ…』ということでした。
 人間の「力」というものを「知力」「体力」に大別した場合、私は若い頃から体力の方はからきし自信がありませんでした。そのため(元々有るか無きか分からないながら)ともかく知力だけが私のすがるべき力なのでした。なのに『肝心の頭がダメになってしまったら…』、それこそ私という人間の一巻の終わりだと思いました。

 そこでボケ症状を直し、知力を取り戻すにはどうすれば良いのか?その方法は意外なところで見つかりました。多分ビデオだったと思いますが、以前評判になった映画『梟の城』(司馬遼太郎原作)を観ていた時でした。その中で戦国武将の前田利家が、居城にいて家臣の者に何事か指示する、というようなシーンがありました。見ればその時利家の手のひらには3個のクルミの実があり、それをくるくる回していたのです。
 途端に『これだ ! 』と思いました。そこでクルミの実をどこからか探し出すことが、当面の懸案事項ということになりました。

 とは言っても、それはそう簡単には見つけられないだろうと思っていました。しかし必要を強く感じているものはどこからか手に入るもののようです。
 時は3月上旬早春の頃のことでした。中津川堤防道のことは、当ブログでしばしば述べてきました。ある午後、いつもの地点より下流(大堰より数百メートル下流)の堤防道端に車を停めて、そこから川に降りて行ったのです。その辺では川の本流は向こう岸側にあり、こちら側はわずか1m弱のちよろちょろとした流れがあるばかり。早春の午後の日を浴びて輝いている細い流れをまたいで、広い中州に入って行きました。
 というのも、そこの州に胡桃の木が3本ほど植えられているのを知っていたからです。その季節葉はすっかり落ちた裸木になっていました。ひょっとしてその木の下に実が落ちていないだろうか?と淡い期待を抱いて木の根元に向ったのです。

 すると、そこら一面に実がどっさり落ちていたのです。思わぬ展開に小躍りしながら、『どうせ今もって誰も拾っていないんだから…』とばかりに、私は一心にクルミの実を拾いました。既に皮は無く黒くて固い殻むき出しの実を、コートとズボンのポケットいっぱいに、詰めるだけ詰め込みました。(なお3本ほどの川中の胡桃の木は、現在では伐採されてもうありません。)
 そして家に持ち帰って、早速その日から掌でのクルミ回しトレーニングを開始しました。当初は回しているうちに、殻表面の黒っぽいのが手に付着したりしましたが、構わず回しているうちに徐々にピカピカ光るほどツヤが出てきました。と共に天辺の角もとれて、より滑らかに回せるようになりました。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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『天地人』について(13)

 本シリーズ(12)以来だいぶ間があいてしまいました。前回は第23回「愛の兜」についてでしたが、それから「戸惑いの上洛」「天下人の誘惑」「関白を叱る」と第26回まで、3回分も進んでしまいました。
 この3回は、上杉景勝(北村一輝)と直江兼続(妻夫木聡)主従の「初上洛シリーズ」といったところでした。この上洛シリーズ、私は素直にまあまあ面白かったと思います。

 なぜだろう?と考えてみました。理由は意外にも簡単で、ドラマの舞台が一気に戦国時代末期の中心地である京都、大坂に一時的に移ったこと。そしてまた織田信長亡き後の戦国大スターである豊臣秀吉(笹野高史)を中心とした、名だたる戦国スターたちが勢揃いしたためです。
 秀吉以外に、徳川家康(松方弘樹)、前田利家(宇津井健)、福島正則(石原良純)、石田三成(小栗旬)、千利休(神山繁)、北条氏政(井吹吾郎)、真田幸村(城田優)…。それら戦国豪華スターたちの中に立ち混じって、景勝、兼続の名門・上杉主従がお家の面子にかけていかに立ち回ったのか?
 おそらく今回の上洛シーンの多くはフィクションであるとしても、当時の歴史的中心地で上杉主従を巻き込んで繰り広げられた人間模様がけっこう楽しんで観られたのです。

 これは何度も述べることですが、やはり戦国ドラマは戦国スターたちによる戦国絵巻が展開されないと面白くありません。例えば越後の直江家の兼続とお船(常盤貴子)の家庭の事情を情緒的に描かれても…。それは現代的メロドラマのテーマを戦国時代にただ移し替えたに過ぎず、これでは面白くない、つまらないとなりがちだと思いますがいかがでしょうか?

 ここで上洛シリーズにおける主要キャスト評を―。
 まず秀吉役の笹野高史についてです。どちらかのブログで、笹野高史は『釣りバカ日誌』での運転者役のイメージが強すぎて、天下人秀吉の風格などありゃせんよ、というような批評がありました。私は幸いにも(?)同映画はあまり観ていませんので、運転手笹野がどういうものなのかイメージが湧きません。
 笹野高史には申し訳ありませんが、「猿のようだった」と評される秀吉の風采には、まさに打ってつけなのではないでしょうか?信長(吉川晃司)存命の頃は、秀吉の特異なキャラクターを誇張し過ぎな演技がいささかハナにつきました。しかし天下人になった現在の秀吉役としては、なかなかさまになっていると思います。

 誇張し過ぎといえば、松方弘樹の徳川家康にもその傾向が見られます。秀吉、家康(ついでに言えば石原良純の福島正則も)を戯画的に演じさせる、これは今回のドラマの演出家、脚本家の方針によるものなのでしょう。
 いずれ秀吉は死に、家康が戦国の世にピリオドを打つことになります。そのプロセスでもなお戯画的に演じさせるのだろうか?あるいは、松方弘樹はどのような家康像を作り上げていくのだろうか?今後注視していきたいと思います。

 何日か前、「小栗旬 目で演技する凄み」というような検索フレーズで本シリーズにアクセスしてこられた人がいました。なるほど言われてみれば。今回の「関白を叱る」の中で、北条家から逃げてきた初音(長澤まさみ)の扱いをめぐって、三成の屋敷で三成と兼続が差しでやりとりするシーンがありました。襖一枚へだてた次の間で、初音は耳そば立てて二人のやり取りを聞いている。その時、小栗旬の「目の演技の凄み」を感じました。
 私の中で「小栗旬映画監督効果」が生じたのか、小栗三成を少し(だいぶ)見直しつつあります。小栗は26歳、主役の妻夫木は27歳。妻夫木の方が一歳年上ながら、役者の力量としては小栗旬の方が上なのかな?と感じられます。

 その他今回私が特に触れたいのは、(おそらく架空の人物に違いない)千利休の娘で上杉主従の上洛中の世話係のお涼役の木村佳乃です。
 個人的な好みで大変恐縮ながら、私は実は現在の日本の女優の中で木村佳乃が一番のお気に入りなのです。彼女は、日本航空の幹部だった父親の赴任先のロンドン生まれだそうです。小学時日本に帰国したものの、中学時今度は父親の転勤でニューヨークで。高校からようやく日本に住み続けることになった、ばりばりのバイリンガルなのです。
 にも関わらず、私は以前から木村佳乃に、日本女優の伝統的気品のようなものを感じるのです。そのような女優さんは、吉永小百合以来本当に数少なくなりましたから。今回のお涼役もぴったりはまっているようです。

 またその父親の千利休役の神山繁。神山利休もなかなか良い味を出しています。今後悲劇的最期をどのように演じるのか、今から楽しみです。

 今回もキャストなどをめぐって、「天地人評」を気楽に述べてみました。上杉主従が越後に戻った途端、また「戦国越後版メロドラマ」に先祖帰りしませんように(既に今回のラストでその徴候が見えていました)。ドラマチックな、上杉版戦国絵巻を期待したいものです。

 (大場光太郎・記)

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梅雨だより(4)

   キキと鳴き嬉々(きき)と飛びたり雨つばめ   (拙句)

 ここ何日か雨が降ったり曇ったりの梅雨らしい日が続いています。むしむししてうっとうしい感じはあるものの、真夏の暑さではない分しのぎやすいというものです。雪国生まれで猛暑に弱い私にとっては大助かりです。それでも今月中旬過ぎにはほぼ間違いなく梅雨は明け、以後9月初旬頃まで連日の暑さが続くと予想されるわけで…。今から夏バテしないよう、しっかりと心構えをしていきたいと思っています。

 近所のとある家の垣にバラが広がっています。5月中旬頃そこには真紅の美しいバラの花が幾つも咲き誇っていました。その後6月に入って気がついた頃には、そこのバラの花は消えていました。
 それが本日たった2輪だけですが、また見事な花を咲かせていました。緑の葉群の中、真っ赤なバラですから、遠目にもすぐに分かるのです。同じ夏の間ながら、これも戻り花というべきなのでしょうか。
                         *
 マイケル・ジャクソン(50)が急死して、早や一週間ほどが経過しました。マイケルは生前から私生活をあまり覗かせず、ミステリアスな部分の多い人物でした。いな謎が多いゆえに、スーパースターだったのかもしれません。今の日本の芸能界のようにすぐに私生活がフォーカス・フラィデーされてしまう状況では、スーパースターは育ちにくいのかもしれません。何の神秘性もミステリアスもなくなってしまうからです。
 マイケルの死因をめぐってはさまざまな揣摩(しま)憶測を呼びました。莫大な彼の遺産の行方も気になるところです。
 私は急死後何度か記事にしようと試みました。しかしマイケルという存在が大きすぎることと、あまりよく知らないこともあいまって、一文としてまとめるのは大変です。今後もしうまくまとまりましたら、公開したいと考えております。

 我が国の政界模様もこの梅雨空と同じくどんより澱んだ状況が続いています。これを一気に晴らすには解散総選挙しか方途はないはずですが、依然ずるずると先延ばしの方向です。
 今回の東国原英夫宮崎県知事入閣問題にしても、結局小粒だった内閣改造人事にしても、麻生内閣、自公政権の小手先だけの延命策ばかり。もういい加減にしてよ ! というところですが、今日のこのような閉塞的状況を招いた責任は、そもそも私たち国民にもあります。
 考えてみれば、自公政権は現在絶対多数の議席数を占めているわけです。そう簡単に解散などするはずがありません。選挙をすれば減りこそすれ、まず増は見込めないわけですから。だったら任期いっぱいまで引き延ばそうじゃないの、となるのが人情というものです。

 これは小選挙区制度の怖さでもあります。やはり私たち国民は、不用意に一つの政党に絶対安定多数を与えてはダメだということだろうと思います。今回のように解散は任期満了までずるずる引き延ばされるは、その間国民の審判を仰ぐことなく何人も総理大臣が変えられるは、数の力を頼りに2/3の衆院再議決を乱発して慎重審議なしの法案が可決されるは…。
 かえって国政の停滞、閉塞を招くばかりで、国民にとっていいことはあまりありません。まるで「一億総霊がかり」のようだった、先の郵政選挙から私たちはどれほどの教訓を得ただろうか?なりふり構わぬ自民党による東国原擁立問題、それをほぼ無批判で垂れ流し報道する大マスコミ…。少なくとも「権力側」は何も変わってはいません。後は私たち国民がそれらに影響されることなく、どれほど冷静な国政判断が出来るかどうかにかかっていると思われます。
                         *
 早朝はざあざあ降りだったものの、少しして雨は上がりその後は終日曇りでした。
 夕方市街地を離れて愛川町方面に車を走らせました。車道の右片側(そのずっと先は中津川)には、何十枚も見渡す限りの田んぼが広がっています。たまに農家がポツンと点在し、道際に消防署分署があるくらいなもの。そちら側は市街化調整区域で開発から免れているのです。
 昔なら日本全国どこででも見られた田園風景は、今はこのようにごく限られた場所でしか見かけられなくなりました。でも青々と伸び広がる苗のさまが目に心地良く、チラッチラッとそちらの方に顔を向けながら運転していました。

 途中つばめが私の向うすぐ前を低く滑空しています。以前にも書きましたが、つばめたちはこういう曇り日が本当に大好きみたいです。田んぼといわず道路といわず、嬉しさが伝わってくるようにすいすい飛び交っています。『おい。ぶつかるぞ』と冷や冷やしながらも、そこはつばめたちも慣れたもの。際どいところで、すいとばかりに優雅に逸れていきます。
 暑くなって涼しいお国に行くまで、梅雨の間はまだ当地で滑空を楽しみたいようです。

 (大場光太郎・記)

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ご報告致します(7)

 諸事、雑事に追われてつい忘れておりましたが、おかげ様で23日(火)当ブログ開設以来の総訪問者数が15,000人を越えておりました。遅ればせながら、ここにご報告申し上げます。訪問者等の概略は以下のとおりです。

(1)開設~‘09年6月23日(延べ日数-421日)
    訪問者合計       15,046 人
    日 平 均          35.7 人
(2)1万人達成時点(4月14日)~6月23日(延べ日数-70日)
    訪問者合計        5,007 人
    日 平 均          71.5 人
(3)訪問者5,000人当たり対比
    前回  100日で到達  (1月5日~4月14日)
    今回   70日で到達  (4月14日~6月23日)
    今回/前回比        0.70
(4)直前1ヵ月間(5月25日~6月23日)
    訪問者合計        2,287 人
    日 平 均           76.2 人
 
 実際のところ前回の1万人到達が、私の中で一つの大きな区切りであったようです。と申しますのも、以来訪問者累計がさほど気にならなくなったからです。ですから今回は何日も見過ごしてしまい、気がついたら15,000人(中には開設以来毎日のようにご訪問たまわり、お一人で300回以上ご訪問されている方もおられます)に達していたというような具合です。
 ともあれ私如き者のブログに、これほど大勢の方々のアクセスをたまわりましたこと、心より感謝申し上げます。大変ありがとうございました。

 最近は、毎日のようにご訪問される方が10人前後おられます。その方々は毎日の記事更新を楽しみにしておられることと存じますが、ここ何ヶ月かは記事更新無しの日がけっこうあり心苦しく思います。しかしこれは私の諸事、雑事により止むを得ないこととご理解たまわりたいと存じます。

 記事数も既に450を越え、さすがに「書き慣れ感」はあります。しかしだからといって、以前よりさらに皆様の心を打つような優れた文章が書けているのだろうか?と己が胸に問いただしてみますに、必ずしもそうではなく、最近はむしろ安直な文章になっているようにも思います。
 何ごともそうだと思いますが、「初心忘るべからず」という先人の言葉はまこと至言です。皆様のお心に響く文とは、きらりと光る文とは、人様を惹きつける文とは、人様のつかの間の癒しとなるような文とは…?。先ずもって私自身の心のリフレッシュを常に心がけ、日々新生のつもりで日常の出来事に新鮮な気持ちで向き合い、その中から得られたキラッと光るものを逃さず掴んで文章化、記事化していければと思います。
 今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

 (大場光太郎・記)

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梅雨だより(3)

   青梅雨の哲学の道逍遥す   (拙句)

 ここ何日か晴れて暑い日が続きました。それは梅雨のさなかの気まぐれの晴れ間というようなものではなく、まるで梅雨がすっかり明けきって盛夏になってしまった感じでした。
 しかし本日当地は朝から雨となり、久しぶりに梅雨本来の姿を取り戻しました。この雨こそは、何日も続いた晴天により、プチ日照り状態で雨を欲していた青苗やきゅうり、トマトなどの農作物や草や木々にとって、かっこうの慈雨、喜雨となったかもしれません。

 午後外出し、いつもの水路道を通りました。道沿いの木々も草花も息を吹き返したように青々とした生気ある緑になっていました。
 ただその中で一群の赤紫の紫陽花は花の盛りを過ぎて、既に腐(く)たれ気味。せめて本当に梅雨が明けるだろう7月中旬頃までは咲いていてよ、と思わないでもありません。梅雨といえば紫陽花、紫陽花といえば梅雨なのですから。

 当地近郊の田んぼの早苗は、丈を既に20cmくらいまで伸ばしています。神奈川県央の当地では、街を離れると青田が遠くまで連なっている田園風景にも出会います。そんな青田のさまを眺めると何となく心が落ち着いてきます。
 雨に打たれる時はしっかり打たれて、やがて来る炎暑に身をこがされながら、ずしりと重い稲穂になっていくのでしょう。

 冒頭の句は、ある人のブログで画像と文章で「哲学の道」が紹介されており、それに触発されてにわかに詠んだものです。
 「哲学の道」は京都市左京区にある小道です。その昔『善の研究』という名著などで名高い哲学者・西田幾多郎が、この道を散策しながら思索にふけったことからいつしか「思索の小径」と呼ばれました。その後西田の愛弟子だった田辺元や三木清なども好んでこの道を散策するようになり「哲学の道」と名づけられ今日に到っています。
 「日本の道100」にも選ばれている散歩道です。古都京都に憧憬の思いはあっても、私自身はまだ京都の由緒あるスポットを見て回ったことがありません。『いつかは…』と思いつつも、さていつのことやら。そこで往時の京都学派の優れた業績に思いを馳せながら、せめてイメージの中だけでもその道を歩いているつもりになって作ってみました。春は桜、秋は紅葉が見事なら、きょうのような梅雨の風情もまた格別なのではと…。

 …夕方雨は上がりました。この季節は雨雲が垂れ込めた夜7時過ぎでも、外はほんのり明るさをとどめた薄暮の感じです。帰路のため少しの間バス停で待っていますと、思いのほか強い風が街路に吹きつのっています。2、300m先の本厚木駅に続く街路の木々が身もだえのように白っぽい葉裏を見せています。
 住居への道を北に向って歩いていますと、風はいよいよ強い向かい風に思われました。なるほどよく確かめてみますと、この季節にはそぐわない北風なのです。そのせいか風をまともに受けながら進む身には、涼しさをとおり越して幾分肌寒さすら感じられるほどでした。

 (大場光太郎・記) 

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UFO記念日(2)

 我が国では昭和20年代後半既に、「世界人類が平和でありますように」の提唱者・五井昌久先生が、宇宙人の実在を説いていました。奈良時代のアセンデット・マスター「役(えん)の行者」を過去世に持つと思われる、金星の長老からのメッセージをことあるごとに伝えていたのです。
 弟子の一人・村田正雄氏には、『空飛ぶ円盤と超科学』という驚くべき本があります。それによりますと氏は、幽体(ゆうたい)で円盤に乗せられ金星に連れて行かれたそうです。その間の金星人との対話、金星の超科学基地の見学、円盤の詳細な断面図などが掲げてあるのです。(注 金星は地球の姉星にあたり、今後地球が目指すことになる「アセンション」を星全体で既に果しています。三次元に囚われると理解出来ない話しながら…。)
 当時の理解者からは、「先生の宗教のお話はとっても素晴らしい。しかし空飛ぶ円盤や宇宙人のお話だけはいただけない」と言われたそうです。しかし先覚者・五井先生は「私は実際(むこうの)話を聞いて、(こちらも)話をしているんだから」と、宇宙人の実在を取り下げることは決してありませんでした。

 また作家の三島由紀夫も、空飛ぶ円盤や宇宙人にはことの他関心があったようです。三島は昭和30年代半ば過ぎ頃、それをテーマにした『美しい星』という小説を書いています。文明批評的なものも含まれた、なかなかの秀作です。
 さらに三島は生前の昭和40年代前半、当時気鋭の前衛芸術家だった横尾忠則の才能を高く買っていました。その横尾はご存知のとおり、40年代後半から50年代にかけて、UFOが登場するサイケな絵をずいぶん描いています。そして昭和60年代前後のある時、幽体離脱(アストラルトリップ)状態でUFO母船内に招待され、そこで三島と逢ったそうです。三島の立ち居振る舞いの見事さとかっこうよさは、母船内宇宙人の賞賛の的だったとか。
 そこで横尾は三島から、人類の未来の一端を知らされ、また横尾は三島の魂の弟だと告げられたそうです。(これは、当時住んでいた我が家の郵便ポストにたまたま入れられていた、新宗教「世界救世教」機関紙の横尾氏インタビュー記事によるものです。)

 世間一般の話題としては、昭和50年代前半ピンクレディによる『UFO』が大ヒットしました。2人の独特のコスチュームは今思い返しても大変印象的で、当時10代以下の子供たちは競って「ユーフォー ! 」という歌と振り付けを真似していました。
 また世界的には、スティーブン・スピルバーグ監督による1978年の『未知との遭遇』、1982年の『E.T』の世界的ヒットがあげられます。
 これらの大衆芸術的な分野でこれらのテーマが取り上げられたことは、UFOや地球外知的生命体の存在可能性に対して、人類が潜在的に受容していく上で測り知れない影響力を及ぼしたものと思われます。

 しかし問題は常に世界レベル、国家レベルでの統治機構に行き着きます。ここでは詳述出来ませんが、各国政府特にNASA(米国航空宇宙局)を擁するアメリカ政府の姿勢が大問題なのです。UFOやE.Tに関して、相当な重大情報を隠していると見て間違いないものと思われます。自分たちが永続的に、国民や人類をコントロールするためには「不都合な真実」は隠蔽し続けなければいけないのです。
 だがいつまでも隠し続けることは出来ないでしょう。種々の理由により、それは不可能です。

 以上「UFO記念日」ということで、それをテーマとするものを駆け足で述べてまいりました。広島原爆投下以降なぜ急激にUFOの目撃例が増え出したのか、一体何の目的があって現在地球上空にUFOの大群が集結しているのか、UFOはどうやって光速の壁を超えられるのか、といったことにつきましては、いずれ機会があればさらに詳しくご紹介してみたいと思います。  ―  完  ―

 (大場光太郎・記)

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UFO記念日(1)

 だいぶ前の、俵万智の「サラダ記念日」の影響でもないのでしょうが。当今はまあさまざまな「記念日づくし」です。1年365日「何とか記念日」あるいは「何とかの日」で埋め尽くされているような感じもします。5月3日の憲法記念日のようにきちんとした由来があるものもあるかと思えば、中には「二ャー二ャー二ャー」という鳴声にあやかった、2月22日の「猫の日」などというものまであります。
 そんな中で今回取り上げるのは、「空飛ぶ円盤記念日」別名「UFO記念日」です。本日6月24日が、まさにその日にあたるのです。さてその由来は―。

 1947年(と言うことは、現在60歳を迎えた私が生まれた年よりもさらに2年前)の6月24日、実業家のケネス・アーネストが自家用飛行機でワシントン州カスケード山脈上空を飛行中のこと。後にアーネスト自身が語ったところによれば、時速2700Kmという当時も今も驚異的なスピードで急降下急上昇する、9個の円形の奇妙な飛行物体に遭遇したというのです。
 アーネストは航空機にしては尾翼がないので、遭遇当初は『あれっ。新型ロケットかジェット機か?』と思ったそうです。しかしアメリカ空軍は、そのような新型ロケットまたは航空機の存在を否定する公式発表を行いました。

 いずれにしてもその飛行物体は、「受け皿を川で投げ、水切りしたような飛び方」(アーネスト談)から、「Frying Saucer」つまり「空飛ぶ円盤」と名づけられました。そしてアーネストの目撃談が全米中に報道されると同時に、堰を切ったように各地から同様の目撃証言が多数寄せられました。
 事態を重く見た米国空軍は、改めてこの飛行物体を
  UFO(Unidentitied Frying Object)―未確認飛行物体
と命名して、UFOは依然「未確認飛行物体」のまま今日に至っています。

 その後UFOは世界中で目撃例が相次ぎ、それらしき飛行物体が映っている写真や画像が世界各地で膨大に撮られてきました。それらの中には甚だ信憑性に欠け、中には明らかにトリック写真と思われるものがないでもありません。否「これはまさしくUFOだ」と断定出来るのは大変少ないのかも知れません。

 そんな中で、私なりに信頼出来るものとしては、比較的初期(1957年頃)の頃のジョージ・アダムスキー(1891年~1965年)の円盤遭遇、同乗あるいは金星人との会見があげられます。この頃撮影されたと思われる円盤写真は「アダムスキー型」と呼ばれ、その後同型の円盤が多く目撃されることになります。しかしアダムスキーは、この問題のデリケートさを映し出すかのように、今では彼の事跡や情報はおおむね否定的に捉えられているようです。
 アダムスキーには『空飛ぶ円盤同乗記』『金星人会見記』などと共に、『生命の科学』『テレパシー』『宇宙哲学』などの深遠な内容の著作も多く、それらを読むかぎりではアダムスキーはひたむきな「宇宙哲学の求道者」だったのではないだろうか?と私は個人的に思います。

 またUFO情報に関しては、スイスのビリー・マイヤー(1937年~)が、1950年代後半から、プレアデス星系出身の女性宇宙飛行士・セムシャーゼなどからのメッセージを取り次ぎ、また数千枚にも及ぶUFO画像やビデオを公開し世界中の注目を集めました。ただしそのUFO画像は、多くのUFO研究者から捏造とみなされているようです。
 彼のプレアデス星人からのメッセージは、多くが地球の歴史と未来に関するもので、予言的な内容も多く、1991年のソ連邦崩壊などを何十年も前に予言するなど、今でもアメリカではその内容に対する評価は高いようです。そのメッセージを伝達する目的でスイスに「フィグ(Figu)」という団体を設立し、1991年には日本でも「フィグ・ヤーバン」という支社が設立され今日に至っているようです。  (以下次回につづく)
 
 (大場光太郎・記)

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けふは夏至

   夏至遠きメリケン波止場の灯を想ふ   (拙句)

 きょう6月21日(日)は「夏至(げし)」です。多分列島の広い地域でそうだったのかも知れませんが、当地(神奈川県厚木市)ではあいにく朝からの雨となりました。午後から雨は小降りとなり、夕方にはほぼ雨は上がったものの、それでもなお外を歩いていますと、湿っぽい細やかな水滴のようなものが絶えずまとわりついてきます。しかし薄暮の街に涼風が吹き渡り、それすらも心地良い感じがして周りの草花などを眺めて歩きました。
 考えてみますと、毎年この時期はちょうど梅雨にあたるわけで、夏至の日が雨もよいなのは致し方ないのかも知れません。

 夏至は二十四節気の一つで、太陽黄経が90度の時で、この日の太陽は北回帰線上にあるため、北半球では昼が最も長く、夜が最も短くなります。旧暦では五月中にあたります。夏至はまたこの日から小暑までの期間を指すこともあります。
 春分から秋分までの間、北半球では太陽は真東から上りやや北寄りの方角に沈みます。また北回帰線上の観測者から見ると、夏至の日の太陽は正午に天頂を通過します。また夏至の日には、北緯66.6度以北の北極圏全域で白夜となり、南緯66.6度以南の南極圏全域では極夜となります。
 なお1年で日の出の時刻が最も早い日、日の入りの時刻が最も遅い日と、夏至は一致しません。日本では日の出が最も早い日は夏至の一週間前頃、日の入りが最も遅い日は夏至の一週間後頃となります。  (この項、フリー百科事典『ウィキペディア』「夏至」の項を参考にしました。)

 ところで古来から夏至、冬至、春分、秋分などは、1年でも最も「神聖な日」とされてきました。しかし現代人たる私たちは、このような季節の節目に対して大変鈍感になり、夏至が来てもさほど関心をはらうことなくその一日をやり過ごしてしまいがちです。
 以前少し触れたことがありますが、現在「世界共通暦」になっているのはグレゴリオ暦です。これは残念ながら、自然のサイクル、諸天体の運行などとは同調出来ない暦なのです。
 どうしてか?その一端を申し述べれば―。グレゴリオ暦は「1年12ヶ月」表示です。そもそもこれがいけないのです。昔の太陰暦をご存知の方はお分かりかと思いますが、満ち欠けしながら月が1年で巡る回数は「13回」です。よって「1年13ヶ月」表示に戻すことが必要であるようです。

 我が国で「聖(ひじり)」の語源とは、「日知り」すなわち「天文暦数を明らかに知る賢者」を意味していたそうです。私たちは今日、中世キリスト教会が制定した同暦を何の疑問もなく用い、それに合わせた日常生活を送っています。暦は今日の社会全体、私たちの生活全般を深いところから支配していると考えて間違いではないのです。
 肝心要の「暦(こよみ)」から変えなければ、いくら口先で「エコロジー」だ「地球にやさしく」だと唱えてみても、それはしょせん虚言、自然破壊が止むことは決してないと思われます。

 キリスト教会は「13」という神聖数を隠すために、「13番目の使徒(裏切り者・ユダ)」あるいは「13日の金曜日(イエスが処刑されたとされる日)」などを強調することで、13を「忌み嫌うべき数字」という刷り込み(マインドコントロール)をしてきました。
 これはとんでもないことです。「マヤの予言」を今日でも遵守している中南米の先住民、あるいはオーストラリアのアポリジィ二などは「13月の暦」の重要性をよく知っていて、今でもグレゴリオ暦とは違う暦で生活しているのです。
 これだけ世界中で、日本全体で各方面の破綻が目立ち始めている昨今、彼らは遅れている人類、そして私たちは進んでいる人類などと本当に言えるのでしょうか?

 私ははっきり申し上げておきます。近未来グレゴリオ暦は廃止されます。代わって、「マヤ暦」を基本とした「13月の暦」が採用されることになるでしょう。自然や諸天体や銀河と真に同調するためには、それが不可欠であるからです。
 現に世界各地で、ごく少数ながら「13月の暦」に切り替えている人たちが以前から出始めているのです。そしてさらに「心ある人たち」は、夏至や冬至や春分、秋分には、日の出日の入りの太陽を拝し、夜は一人であるいは小グループで瞑想をしている人たちもいるようです。(諸事ずぼらな私はまだそこまでは到っておりません。)

 なお冒頭の拙句は、本夕「二木紘三のうた物語」の『別れのブルース』コメントに掲げたものです。(ハンドルネームは「街の灯」。)

 (大場光太郎・記)

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『大山詣で』復活?

 今回もまた「ココログニュース」で見つけた話題です。前回の『えっ。小栗旬が映画監督 !?』は派手めな話題でしたが、今回はそのような話題ではありません。

 「大山(おおやま)」は、当厚木市西部にひと際高く聳える秀峰です。標高1,250m、その奥と右手に連なる丹沢の山々と並んで「丹沢大山国定公園」に指定されています。
 この大山については、当ブログの季節の便りや当地紹介文の中で、しばしば触れてきました。ですからあまりよくご存知ない方にとっては、『大山は厚木市がメーンの山?』とお思いかもしれません。しかし実際の大山は、神奈川県伊勢原市、厚木市、秦野市の三市と境を接する広大な裾野を有する山なのです。

 私は当地に住んでかなり長いですから、厚木市からのみならず、伊勢原市あるいは秦野市からも大山を眺めてきました。しかし三角形にキリッと尖ったその秀麗さが一番引き立つのはやはり厚木市からの眺めだと思います。
 昭和30年代前半頃、当市出身の農民文学者・和田傳(わだ・でん)原作の『鰯雲(いわしぐも)』が映画化されました。主演は淡島千景。女学校卒業後厚木市在の農家に嫁に入った女と、東京から赴任して来た若い新聞記者とのうたかたの恋を描いた秀作でした。この映画の背景として、厚木市から見られる大山の姿が、当時ののどかな田園風景の後方に映されていました。「変わりゆくもの、変わらぬもの」。変化ただならぬ今の世にあって、大山は以前と少しも変わることなく、当市にあっては今日でもどこからでも眺められる何ともシンボリックな山の姿です。

 大山は別名・阿夫利山(あふりやま)とも言われます。以前述べましたとおり、「雨降り山」からの転化と言われますが、実は大山の頂上には「阿夫利(あふり)神社・本社」が鎮座ましますのです。ですから私たち当地の者がその頂上を振り仰ぐ時は、無意識的にその本社に波長を合わせている具合になるわけです。
 大山は奈良時代に遡ると言われるほど歴史の古い信仰の山でもあったのです。鎌倉幕府3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)は歌人としても有名ですが、次の和歌を阿夫利神社に奉納したと伝わっています。
   時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめたまへ  (源実朝)

 特に江戸中期の宝暦年間の「大山講」以降、江戸を初めとする関東一円の庶民の間で、「大山詣(もう)で」が盛んになりました。信仰、物見遊山、観光と目的は違っても、多い時は年間20万人もが大山詣でに押し寄せたと言われています。『大山詣(まい)り』はまた有名な落語の演題でもあるようです。
 「信仰の山・大山」という観点で捉えますと、(残念ながら)主役は伊勢原市になってしまいます。江戸中期以降各地に大山を目指す「大山道」が出来ました。現在でも神奈川県内には「大山街道」と旧名で呼ぶ道路が残っていますが、それらの行き着く先はすべて伊勢原市内です。そこから下社そして頂上の本社まで登り参拝することが「大山詣り」だったのです。
 
 (以上回りくどい説明になりましたが)今回「ココログニュース」で、 ブーム再来?大山詣り というのは、その大山詣りが再び注目されるイベントが始まったことによるものです。同ニュース記事を以下に紹介致します。

 ―6月6日、歌舞伎の十代目坂東三津五郎さんが大山を訪れ、9月に大山阿夫利神社に奉納する舞踊の成功祈願とお練りを行った。当日は、伊勢原市民と坂東流門弟の女性、ファン、報道陣で参道を埋め尽くし、かつてないほどの賑わいを見せた。
 9月16、17日には、坂東流の家の踊りともいえる『山帰り』を、大山阿夫利神社に奉納する公演のほか、林家正蔵さんによる落語『大山詣り』の奉納公演を予定しており、当日はお練り以上の人々で賑わうことが予想される。

 私は残念ながら下社駐車場で車を停めて、その辺りをぶらぶら散策したくらいなものです。下社すら参拝しておりません。いつか機会がありましたら、当地域に何十年も住まわせていただいてお礼として、山頂の本社はともかく下社くらいはきちんとお参りしたいものと考えております。
 その折りはまた「阿夫利神社参拝記」の一文を記事にしてみたいと思います。と同時に今回のイベントが、本当に『大山詣り』ブーム再来となりますよう心より願っております。

 (大場光太郎・記)

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梅雨だより(2)

   梅雨時は雨降るがよき暮色かな   (拙句)

 当地では本日、朝からどんよりした曇り空の蒸し暑い日でした。空全体に雨雲が低く垂れ込め、くぐもった薄暗さに覆われた街のようすです。
 我が国はいかに行き過ぎた国土開発、乱開発が行われていようと、四季の巡りはめりはりが効き自然豊かな国柄です。少し街中を離れますと、田畑や荒地や小山などがけっこう点在し、緑豊かな木立を方々で目にします。

 このような梅雨曇りの日は日盛りの緑陰というイメージではなく、木立の間には一種陰鬱な感じの闇が広がっています。しかしよく見てみれば、木立に図らずも生じる深い闇こそは、見る者にある深い静けさ、幽玄さを伝えてくれているようです。
 私たち現代人は「明るい生活」になじみ過ぎて、ともすれば「闇」の持つ豊かな側面、深遠な側面を見落としがちです。そう言えば、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛(いんえいらいさん)』が本棚のどこかにありましたっけ。『はて、どんな内容だったのだろう?』。何せ読みかけ、積読(つんどく)こそは我が習い。そのうち(はなかなかこないものながら)じっくり読み直し、出来うれば読了したいものです。

 小山全体を覆わんばかりの深緑の木々の深い下闇に、しばし目を奪われそうになりながら車を走らせます。すると木立のとば口の道伝いに、紫陽花が一群全体に大ぶりな赤紫の色で咲いているのが認められます。その赤紫の色はほの暗い闇の中から鮮烈に私の視覚に訴えかけてきます。『紫陽花は何も、青紫だけではないんです。赤紫の私たちだって、立派な紫陽花の花なんです。色にこだわらずに、紫陽花全体をもっとよく見て味わってくださいね ! 』

 今の季節方々に車を走らせていますと、『おっ。ここにも ! あそこにも ! 』と思われるほど、家々、道々、畑々いたる所で紫陽花の花を見かけます。なるほどよく見ると、青紫系に限らず、赤紫は赤紫でなかなか良い色です。これまで『あじさいは水色、青紫に限るわい』と思っていた私にとって、ささやかながら意外な発見というべきです。

 午後は内外ともに一段と薄暗くなってきました。そして午後4時過ぎ頃から、とうとう雨が降り出しました。10日に気象庁が「梅雨入り」を発表してから、当地では初めての本格的な雨となりました。
 時折り遠雷も聞こえてきます。去年は当ブログ記事で述べましたとおり、強烈な雨と雷で、当居住地は2回も夜の停電に見舞われました。しかし今年は年初以来去年に比べてずっと穏やかな天候で推移していると言うべきで、まだそのような強烈なことにはなっていません。雷自体、ずいぶん久しぶりで聞いた思いがします。

 雨は一旦夕方6時頃には小止みになりました。夏至もほど近い6月中旬とはいえ、午後6時過ぎの街は早や暮色に包まれています。木立や草花は雨にたっぷり打たれて、にわかに生気を取り戻したかのように、生き生きした緑色で夕闇から浮かび上がってきます。
 その中を人々は、傘を指したり折りたたんで手に持ったりしながら、慌しく夕暮れの通りを行き交っていました。
 
 夜8時頃、再び激しい雨となり遠くで夜雷が鳴り出しました。と、そのうち「バリバリ、ドッカーン」という今年初の強烈な雷が轟き、そしてじきに遠雷となりました。ただ雨はその後もしばらく小止みなく降り続きました。

 (大場光太郎・記)

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『天地人』について(12)

 NHK大河ドラマ『天地人』第23回は「愛の兜(かぶと)」でした。
 上杉景勝(北村一輝)は豊臣秀吉(笹野高史)に上洛の約束をしました。秀吉家臣の石田三成(小栗旬)から「上洛急がれよ」との書状も届いています。しかし景勝は突然「上洛を取り止める」と言い出します。
 筆頭家老の直江兼続(妻夫木聡)は対応に苦慮しますが、妻のお船(常盤貴子)の助言により、主君・景勝を故郷である上田庄(うえだのしょう)に誘います。

 2人が幼少の頃共に起居した禅寺・雲洞庵を訪れます。私は前回の予告編で加藤清史郎君の再登板を知って、『一体どんな場面でどんな設定で出るんだ?』と、密かに心待ちにしていました。そうしましたら、何のことはない。雲洞庵での、回想シーンとしてでした。
 景勝は、幼少時の自身・喜平次(溝口琢矢)と与六(加藤清史郎)との回想シーン、また師匠である北高全祝(加藤武)より渡された一枚の書により、ようやく上洛する意思が固まります。一枚の書とは、幼少・喜平次が書いた「第一義」という言葉なのでした。

 結局加藤清史郎君の再登板とは、この回想シーン限定だったわけです。確かに今回新たに取り直されたシーンもありました。しかし、いかにも苦肉の策といった感じがしないでもありません。それならばいっそのこと、兼続とお船の子という設定の方が何回かは登場させられるわけで、そっちの方がよかったのではないだろうか?と思い、兼続の子孫関係を調べました。ところが、男子は早世、養子縁組もうまくいかず、直江家は兼続死後断絶となったようです。それではやはり、ああいう形での再登板しかなかったわけだ、と妙に納得してしまいました。
 ちなみに今回の視聴率は、ここ10余回のうちで最も高い22.0%となりました。「幼少与六効果」てきめんといったところでしょうか。

 参考まで、今回(第23回)以前数回の視聴率を、以下に掲げます。

  第18話「義の戦士たち」 直江兼続誕生というのに、過去最低の16.7%
  第19話「本能寺の変」 さすが久々20%台を回復して20.2%
  第20話「秀吉の罠」 題名効果か、サブリミナル効果か(後述)21.6%
  第21話「三成の涙」 小栗旬の「涙効果」か21.0%
  第22話「真田幸村参上」 人気武将・幸村(城田優)の登場も20.7%

 なお昨年の大河ドラマ『篤姫』の最低視聴率は20.3%、つまり『篤姫』全50話中ただの一度も20%を切ったことはなかったのです。
 『天地人』では第13話「潜入 ! 武田の陣」から第15話「御館落城」までの3回は、いずれも10%台と低迷しました。なるほど今思えば、その頃から「天地人 おもしろくない」検索フレーズでの、過去の当ブログ『天地人』記事へのアクセスがぐんとふえ出しました。それでも第19話「本能寺の変」以降は、20%台を辛うじてキープしています。

 しかし同話放送終了直後から、一部視聴者の間で密かにささやかれ、5月14日の新聞でも大きく取り上げられた問題があるそうです。(新聞非購読者の私は今になって知りました)。それは何か?ズバリ「“本能寺の変”の変」についてです。
 既にご存知の方も多いかも知れませんが、実はその回のあるシーンに、「サブリミナル効果が挿入されたのではないのか?」というのです。

 ここで「サブリミナル効果」とはごく簡単に―。
 「サブリミナル効果は潜在意識と潜在意識の境界領域に刺激を与えることで表れるとされる効果のこと。ただし科学的にはまだ証明されておらず、効果を疑問視する学者も多い。映画やテレビ放送などでは、使用を禁止されている」。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「サブリミナル効果」の項より)
 例えばかつてアメリカでの話として、ある映画のあるシーンにポップコーン画像をこっそり挿入させました。その結果見終わった観客たちが、売店にポップコーン買いに押し寄せたそうです。

 問題のシーンは本能寺が爆発するシーンの直前で、「天、地、人」に対応する三つのシーンが挿入されているというものです。あるサイトでその問題のシーンを掲載していますが、なるほど確かに「天-空」「地-水田」「人-明智光秀」が映り込んでいるのが認められます。このシーンに対して、NHK広報部は「死を目前にした織田信長の気持ちを印象的に伝えたいと考えての演出。(略)サブリミナル技法ではない」と主張しているようです。
 このシーンが果して「サブリミナル効果」に該当するのか否か?門外漢の私には分かりません。NHKは、1995年9月26日(民放に先駆けること4年以上前)サブリミナル的表現方法を禁止することを明文化しているようです。
 クリーンこの上ない、天下のNHKさん。あれは決してサブリミナルなんかじゃ、なかったんですよね。
 (上記映像及び本ドラマ視聴率推移にご興味ある方は、下記URLにて―。)

  http://tv.parallel-world.jp/tenchijin/cat0007/1000000064.html

 (注記) 紙面の都合上、肝心の「愛の兜の義」に触れられませんでした。また次回述べさせていただきます。

 (大場光太郎・記) 

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中津川寸描(4)

   川の面(も)に目を凝らしをり梅雨晴れ間   (拙句)

 11日午後県厚木合庁からもう一つ別の役所に寄り、それから帰路に着きました。中津川側道ルートを通り、久しぶりでいつもの中津川堤防に降りてみました。(午後3時半頃。)

 すぐ下流側の大堰は早春の頃早々とまた堰き止められ、こちら側はさながら湖水のように満々たる水を湛えています。それに最近の雨続きで、水量はことのほか豊かです。去年よく鴨が一羽ずつ蹲(うずくま)っていたテトラポットも、今は再び頭だけ水面に出て、二列で飛び飛びに見えています。残念ながら、本日鴨たちの姿はありません。
 堰の方からはゴーッと大量に流下する水音が絶えず聞こえています。が、それとても自然の音声、さほど気になりません。

 本夕河原を渡る風はそよ吹く風で、コンクリート堤防中ほどの突起に腰を下ろしている私を、爽涼とかすめて吹き過ぎていきます。町場から持ち来たった蒸し暑さが払われます。
 そよそよ風のせいか、きょうの川面(かわも)は少し揺らいではいるものの、いたって穏やかなようすです。私が位置しているより数メートル上からそのままずっと上流に伸びている中州にも、目路(めじ)の限りの対岸にも、葦が繁茂していて一面青葦原といった感じです。その葦群と対岸に飛び飛びにある木々と、さらに川向うの工場の建物なとが、鏡のような水面(みなも)にほぼそのまま逆さに映じています。特に、濃淡の緑の上下対称形は絶妙です。

 空模様はと見上げますと、なるほど梅雨空らしく一面雲で覆われています。しかしそれはおおむね薄い横すじ雲の集まりで、雨雲のたぐいではないようです。それに時たま背後の西の方から日差しが漏れ出し、河原全体を明るく照らしたりしています。

 改めて川に視線を下ろしますと、こちら側(右岸側)の堤防面は、早春の頃はきれいに刈り込まれ丸坊主のように視界良好でしたが、今は雑草がびっしりです。ともすれば、堤防中ほどまでの古いコンクリート護岸の四角い枠の割れ目伝いにさえ、草は根を生やしています。
 まして私のすぐ前に見えている、土を締め固めネットで連結した堤防下部は、それはもう伸び放題です。その中に何という草花なのか、丸い小さな(よく見るとほんの少しうす紫がかった)花がいっぱい咲いています。こんな名もない花でさえ、こうして今まさに花の命を咲いているのかと、健気(けなげ)に思われます。

 その先はもうこちら岸の青葦の連なりです。水際(みぎわ)に葦が浸っているさまは、何ともいい水辺の風情です。
 今月1日から鮎解禁のはずですが、やはりこの辺一帯は禁漁区になったのか、昨年同様ずっと下流の方まで釣り人の姿はまったく見かけられません。そんな中、上流百メートルほど先に一本の釣竿が認められました。白くて細い竿がしなって放射状に上向いています。葦原にうまく隠れて、釣り人の姿はまったく見えません。

 時折り上流の遠くから、ピィーーッ、ピィーーッとやや節の長い鳥の鳴声が聞こえてきます。そちらの方に耳を澄ましていますと、今度はピッピッピッという何鳥かの声。また時折りうぐいすの声まで聞かれます。
 すぐ前の草むらの上を、上流からひらりひらりとモンシロチョウが下流の方に飛んでいきました。と次の瞬間、堰の方から白鷺がゆったりと羽ばたいて川の中ほどの上空を上流に向って飛んでいきます。川面はその優美な白い飛跡をつかの間映し出していました。

 (大場光太郎・記)

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梅雨だより

   紫陽花(あじさい)の夢はつかの間午後の街   (拙句)

 6月10日気象庁は、「関東甲信地方は、梅雨入りしたとみられる」と発表しました。両地方の例年の梅雨入りの平均は6月8日らしいですから、2日ほど遅かったわけです。
 ちなみに昨年は5月29日とだいぶ早い梅雨入りでした。そういえば昨年は、当ブログでしょっちゅう記事にしましたとおり、3月から5月にかけてやたら雨の多い年でした。
 今年は昨年とはうって変わって、3月から5月中旬までは通常の穏やかな気候で、おかげ様で麗しい春の季節を十分堪能できました。しかし先月下旬から空模様が一変し、連日『もう梅雨の走りか?』と思われるようなぐづついた天気が続きました。そのため私は、今年はとうに梅雨入りしていた感じがしていました。

 梅雨入り翌日の本日は、空に雲が多く占めるものの、けっこう薄日が射すまあまあ「晴れ」といってもいいような一日となりました。
 そんな午後2時過ぎ、当厚木市内のある役所に向いました。246号線からそれてすぐの道沿い。右手に二階建ての広いテナントビルがあります。何ヶ月か「テナント募集」のもぬけの空状態だったのです。そのビルの一階で引越しが始まっています。見ると「民主党」ののぼりが建物の何ヶ所かに立てられています。『おっ。いよいよ臨戦体制か?』
 実はこの建物、昨年晩秋頃まで同じ民主党候補の選挙事務所だったのです。しかし自民党秋の総裁選で、「選挙に勝てる顔」として選ばれたはずの麻生太郎が、例によって解散先延ばし戦術で。資金的に苦しくなったのか別の所に移転していて、どう転んでも3ヶ月以内には総選挙が実施される今、同じ所にまた戻ってきたようなのです。

 車が渋滞気味なので、そこのようすを見るともなしに見ていました。建物内外でスタッフが、荷物運びなどで出たり入ったり忙しく立ち働いています。と、候補者のGが隣の車修理工場への挨拶を終え、今度は道の向かい側の某不動産会社に挨拶に行こうと道をまたいでいきます。(同社は私の顧客でもあります。)
 候補者Gは、これまで何度も本厚木駅頭で見かけました。まだ30代、例の郵政選挙の際は直接握手もしましたし、立会い演説も聞きました。名門厚木高校卒業後東大法学部に進み某省出身という割にはインテリっぽくなく、見るからにバイタリティ溢れ「何かやってくれそう」な感じです。

 市内のご年配の某司法書士は厚高出身、ご子息も厚高でGと同級生だったとかで、前回は事務所入り口にポスターを貼っていたりしました。前回はあんな具合で、直前の父の死により自民党から立候補した同世代の世襲議員(3代目)のKに大差で敗れました。
 今度はどうなのか、捲土重来となるのかどうか。もし当選でもしたら、ここの事務所内から各局の選挙特番で、Gの喜びの第一声が全国のお茶の間に流されることになるのでしょう。さて、どうなることやら。

 (途中別の所に立ち寄り)向った役所は、神奈川県の厚木南合同庁舎です。午後3時少し前に同庁舎に着きました。いつもの習慣で、広い玄関手前に車を停めます。本来そこは停車してはいけない場所なのですが、先の駐車場まで行くのが億劫で『どうせ十数分以内には戻ってきますから…』と、ついここに停めてしまうのです。
 停めた車のすぐ際から、庁舎壁面までの1、8mくらいの奥行き(幅3mほど)に、ちょっとした植え込みがあります。そこには「オカメザサ」―と小さな表示プレートがあります―が植えられています。「笹」とはいっても、いたって小ぶりで、葉も竹の葉をもっと小さくしたような感じです。それがせいぜい40cmほどの高さで一面びっしり植え込まれているのです。
 そしてその奥の一角(庁舎壁面際)に、紫陽花(あじさい)の一塊りが見られます。

 ここの紫陽花の花の色が、私にぴったりの色なのです。一言で紫陽花とはいっても、俗に「七変化」とも言われるとおり、植えられた土壌の酸性度の強弱により青紫から赤紫までいかようにでも花の色が変わります。(昨年知ったことには、それまでの私の思い込みとは裏腹に、青紫系の方が酸性度が強い)。私はどちらかというと赤紫よりも、青紫というのか水色というのか、そちらの寒色系の紫陽花を好みます。
 この庁舎内の紫陽花がまさにぴったりその色なのです。こんもり丸い一花も、株全体の花々も、すっきりした青紫(水色)の純色です。そこで私はこの季節にここに来ると、着いて車から降りる時に、一瞥、二瞥(というのも、いつも慌しく庁舎内に駆け込みますので)、庁舎内での所用を終えて車に乗り込んで一服しながら、今度はじっくり見るのを常としています。

 (大場光太郎・記)

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『レッドクリフPartⅡ』を観て

 大いに時期を外してしまいましたが、『レッドクリフPartⅡ』観てきました。
 実は5日夕方『天使と悪魔』を観を終わって、『観られる時に観ておくか』と引き続き観ることにしたのです。以前『観ないつもり』と言っておりましたが、結局気になっていたわけです。
 「ワーナー・マイカル・シネマズ海老名」は、海老名サティというデパートの2階にあります。デパートの買い物客がついでに映画でも…という思惑からか、こういう形式の映画館は全国の地方都市でふえているのかもしれません。これ一つ取ってみても、まさに「大衆娯楽社会」の極みのような良き時代です。

 しかしどこもかしこも「禁煙」なのには、愛煙家の私などは本当に困ってしまいます。映画館内の2時間強の禁煙は致し方ありません。世の中のマナーですから。しかし『天使と悪魔』が終了と同時に、やたら長いエンディング字幕などそこそこに館内を出ました。もっともトイレにも行きたかったもので。外に出て一服して、見ると外はざあざあ雨の本降りで…。その時ふと『このまま帰ってもつまんないな。レッドクリフやっぱり観るか』となったのです。
 決断が少し遅れた分(今度は別のスクリーン)、既に本編に入っていました。どうやら前編のダイジェストを先ず持ってきているようでした。それからタイトルが出て、PartⅡ自体がそこから始まりますからぎりぎりセーフといったところです。
                          *
 『レッドクリフPartⅡ』。全体を通した印象では、中国映画とはいえ監督は中国生まれながら、アメリカで長く映画を作ってきたジョン・ウーですから、ハリウッド映画の手法が随所に見られる映画だなという印象を強く持ちました。
 確かにハリウッド映画仕込みの、迫力あるスピード感溢れるストーリー展開は魅力です。「三国志」をあまりご存知ない観客、特に欧米の観客にとっては、歴史エンターティーメント映画として十分楽しめたかもしれません。

 しかし中学2年以来の「三国志ファン」である私にとって、観るほどに原作をこれだけ改変していいのだろうか?という疑問が湧いてきました。それがすんなりストーリー展開されていれば文句のつけようもないのですが、どうも違和感を感じてならなかったのです。
 原作はたびたび述べますとおり、『三国志演義』です。それまでさまざまに語り継がれてきた三国時代の説話や民間伝承を基に、明代初期羅貫中らによって『演義』という形にまとめられたのです。これ自体が史実とは大きく異なるフィクションです。ですからこれをいかように変えようとも、誰も文句を言えないこともまた事実です。
 しかし『演義』は、千古の歳月を経てきた中国三大奇書中の一書です。それを簡単に変えて果して、原作を超えることが出来るのだろうか?ということなのです。

 『三国志演義』は中国民衆の判官びいきを受けてか、魏・呉・蜀の三国のうち蜀を中心に描かれた物語です。しかしジョン・ウー監督は、広東省広州市(三国時代は呉の領土)生まれで香港育ちのせいか、当初から呉を中心とした『三国志』を作りたかったのではないでしょうか。それには「赤壁(レッドクリフ)」に的を絞るに限る。その意図は分からないでもありません。おおむね蜀と魏の抗争史としての色彩の濃い三国志の中で、唯一呉が精彩を放つのが、「赤壁の戦い」であるからです。
 しかし呉への思い入れが強すぎて、『三国志演義』の骨子を大きく崩してしまったようです。

 呉の中でも中心人物は、大都督・周諭。演じたのは、トニー・レオン。この映画では、「美周郎」と讃えられた美丈夫としてよりも、魏の曹操の大軍襲来に国運を双肩に託された沈着冷静な総司令官としての周諭像を全面に出していたようです。なかなか味のある「周諭ぶり」だったと思います。
 しかし周諭を主人公にしてしまったため、完全に割を食ってしまったのが諸葛孔明です。『演義』では常に周諭を上回る神の如き明察で、周諭は殺意を抱きことあるごとにその殺害を企てます。しかし周諭びいきのジョン・ウーは、それでは困るわけです。ですから、孔明の「神秘力」をそいでしまって、共に魏の大軍に立ち向かう同志(あけすけに言えば「お友だち」か?)にしてしまうわけです。そのため、赤壁というより全三国志中のハイライトの一つである、南屏山に壇を築いて「孔明東南(たつみ)の風を七星壇に祈る」の名場面までカットしてしまったわけです。

 神通力を失った孔明役として、金城武はそれなりによく熱演していたと思います。しかし金城武には悪いけれども、中国電視台制作『三国志』で孔明を演じた唐国強には遠く及ばなかったな、という印象です。
 敵方の曹操は、チャン・フォンイー。いかにも内に狡猾な才知を隠しもっていそうな曹操像で、これも気に入りました。しかしこちらも中国電視台『三国志』の曹操役・鮑国安の勝ち。(なお鮑国安と唐国強は同『三国志』で、共に中国映画界最高賞である金獅子賞を受賞しました。)
 その他主だった配役では。劉備役はいかめしい顔立ちで、もう少し温和な顔立ちの役者の方がよかったのかなという気がします。張飛役の凄いメーキャップには失笑気味です。関羽役は迫力不足に感じました。趙雲役に到っては、終いまで顔が覚えられませんでした。結果として私が思うに、周諭役のトニー・レオン以外は全員中国電視台『三国志』キャストの方が勝っていたということです。

 艶話が何度か出てくる『水滸伝』と違って、『三国志演義』は騒乱に明け暮れる男くさい物語です。それにジョン・ウーはハリウッド的味付けで、印象的な女性二人をけっこう主要な場面で用いています。一人は呉の君主・孫権の妹(架空の人物)役・孫尚香役のヴィッキー・チャオ。兄に内緒で魏軍に単独潜り込み、敵情を偵察する役柄です(以下は省略)。
 もう一人は、周諭の妻・小喬役のリン・チーリン。小喬欲しさに、曹操は南征を決意したと『演義』で述べられている、絶世の美女役をリン・チーリンは良く演じていたと思います。その美貌も小喬に迫るものがあり、何よりも一つ一つの挙措に気品が感じられました。私が知る限り、残念ながら日本の女優にはこのような気品ある女優はいないようです。(匹敵するのは、『宮廷女官・チャングム』のイ・ヨンエくらいなものでしょうか?)

 しかしいくら何でも、この小喬が夫の周諭にも内密で、赤壁大戦直前に単身魏陣営の曹操に面会に行くという設定はいかがなものか?と思います。大変失礼な物言いながら、「ジョン・ウーさん。あなたは中国人でしょ?母国の大切な古典物語を勝手に作り変えて、アンタ一体何様のつもりだ ! 」と言いたくなります。
 ヒロインが果敢に敵陣に立ち向かい、十中八九は首尾よく行くものの、結局は危難に陥る。それをヒーロー(この場合は周諭)が敢然となぐりこみ、危機一髪ヒロイン(小喬)を救い出す。めでたし、めでたし。いわゆるハリウッド映画のワンパターンです。

 赤壁の戦いの戦闘シーンは確かに、大スペクタクルらしい凄い迫力がありました。しかしそういうことが結果として、中国史上名高い「赤壁大戦」を単なるハリウッド映画的アクションシーンに貶めてしまったのではないだろうか?と思われてなりません。
 この映画は誰も彼もがおおむね好意的な感想のようです。そこで天邪鬼な私は、『一人くらい辛口コメントもいいだろう』とばかりに、いささか辛辣な批評をしてみました。

 (大場光太郎・記)

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天地人について(11)

 NHK大河ドラマ『天地人』今回(第22回)は「真田幸村参上」。
 大変申し訳ない物言いながら、特別おもしろかったので記事にするわけではありません。今回タイトルの真田幸村に前々から興味があったため、幸村について述べてみたくなり記事にする次第です。

 真田幸村については、同じNHKでだいぶ前シリーズ化されたドラマがありました。適当なことを述べては失礼ですので、今回そのドラマについて少し調べてみました。タイトルは『真田太平記』。あるいは当時ご覧になった方もおいでかもしれませんが、放映されたのはずいぶん前で、1985年(昭和60年)4月5日~1986年(昭和61年)3月19日。全45話。
 私の記憶からしますと、『えっ。そんな昔だったっけ?』そして『そんなに長かったっけ?』という思いです。まるまる1年ドラマだったわけで、じゃぁ大河ドラマか?というとそうでもなかったようです。当時NHKでは「新大型時代劇」と呼んでいたようですが、そういえば確か日曜の夜ではなく平日の夜だったように記憶しています。

 『真田太平記』。原作:池波正太郎、脚本:金子成人、音楽:林光、殺陣:林邦史朗(以下省略)。今考えると何とも贅沢なスタッフです。そしてキャストがこれまた豪華絢爛なのです。真田幸村:草刈正雄、父の真田昌幸:丹波哲郎、兄の真田信之:渡瀬恒彦はじめ、夏八木勲、榎本孝明、石橋蓮司、佐藤慶、長門裕之、加藤武、岡田茉莉子、遙くらら、今野美紗子、小山明子、津島恵子(以下省略)。
 ともかく私は同ドラマが面白くなり、初めの頃から「大坂夏の陣」で幸村が壮烈な討ち死にをする最終回まで、ほぼ欠かさず夢中で観ていました。何しろそんな前のドラマですから、あらすじなど大方は忘れてしまいましたが、豪華なキャスト陣といい重厚なストーリー展開といい綿密な時代考証といい、まさに今考えても「This is a“時代劇”」といって良いほど戦国時代劇の醍醐味を堪能出来たドラマだったように思います。

 それでなくとも、真田一族といえば「真田十勇士」。多分戦前の立川文庫の名残りだったのでしょうが、私らが子供だった昭和30年代前半にもまだ『少年画報』(月間少年漫画雑誌)だったかで、猿飛佐助や三好青海入道などが大活躍する連載漫画があり、血湧き肉踊らせながら読みふけっていた記憶があります。

 今回の『天地人』で真田幸村が、若い頃上杉藩に人質となっていたこと、初めて知りました。そこで改めて幸村の事跡を調べてみましたが、確かにそれは史実のようです。
 『天地人』でも描かれていたとおり、天正10年(1582年)織田・徳川・北条連合軍によって主家筋の武田家滅亡。それにより信州上田郷の真田家は、織田信長に恭順し所領安堵。しかし本能寺の変により信長が死んだことにより後ろ盾を失い、真田家は所領を守るため上杉・北条・徳川など周辺の諸大名の傘下を渡り歩くこととなりました。
 この際当主・真田昌幸の息子であった幸村(実際の名前は「信繁」。幸村は死後百年くらい経過してから現われた名前)は、人質として諸大名の下を転々としたようです。
 
 上杉家の人質だった期間、真田幸村は具体的にどのように過ごしていたのか、ドラマのように直江兼続とあのように濃密な関係を持ったのか、実際のところは分かりません。しかし後に二人共徳川家康を脅かした軍略の天才として、歴史にその名前をとどめています。その意味で、二人は確かに邂逅していてしかも親交があったとするのは、一つの歴史的ロマンではあります。

 信長(吉川晃司)が死にもうお役御免か?と思われた、女忍びの初音(長澤まさみ)。何と真田幸村(城田優)の妹だったとは ! 口あんぐりの苦笑ものです。
 次回の予告編で、いつかも触れましたとおり、今ではすっかりお茶の間の人気者となった感のある、幼少与六役・加藤清史郎君が再登場するようです。見ると姿かたちは幼少与六とまったく同じ。どういう役どころなのか分かりかねますが、先ずは次回を見てのお楽しみ、といったところでしょうか。
 ここのところ視聴率も下落傾向の同ドラマ。妻夫木聡でも北村一輝でも常盤貴子でも比嘉愛未など誰でもダメで、いよいよ名子役を再登板させなければならない事態ということなのでしょうか?私はかつての『真田太平記』のようなスタイルを見習えば、「視聴率急上昇間違いなし ! 」と思うんですがねぇ。
 (ただし第21回「三成の涙」では、小栗旬人気なのか久々に20%台に戻したようです。)

 (大場光太郎・記)

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日々雑感(3)

 蒸し暑い初夏の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 大懸案だった『イエスとマグダラのマリア』、きのう5回目で何とか完結させることが出来ました。いざ記事にはしてみたものの、最近は『弱ったなあ。これをどうやって完結させようか』とそればかりが気がかりで。当初は例により、2回くらいで終わらせる予定でした。しかしいざ始めてみますと、「歴史的大問題」がそんなに簡単にまとまるはずもなく、書くべきことがどんどん広がって収拾がつかなくなりそうでした。

 今までの長い記事、例えば『万物備乎我』『東京ビッグサイト』『レッドクリフ&三国志』『田母神論文をめぐって』などと同じように、とにかくまとめるのに大変苦労しました。しかし、現時点で私の持てるものを全部投入するつもりで記事にしました。だから私としては、このような記事こそ大勢の皆様にお読みいただきたいのです。
 しかし実際はアクセスが少ないのです。まあこうして一度公開した以上、今後ボチボチのアクセスに期待はしておりますが…。(嬉しいことに、中には繰り返し熱心に読まれている方もおられます。)

 以前述べましたとおり、今は有史以来のありとあらゆる「信念体系」「社会通念」などへの根本的見直しが迫られている時期だと思われます。私たちが日常ごく普通に当然のこととして受け入れていることの中にも、「おかしいこと」「クサイこと」がいっぱいありそうです。
 今とこれからの超変化にスムーズに対応していくためにも、一人一人が『本当にそれで間違いはないのだろうか?』と、その課題に進んで取り組んでいくべきだと思われます。そういうものを後生大事にいっぱい抱え込んでいる分、変化に対応するのが困難になると思われるからです。
 その意味で、今回の記事を含め当ブログ記事の中には、それを読み通していただくことによって、知らず知らず「信念体系」や「固定観念」打破のためのトレーニングになることがあるかもしれません。
                          *
 5月下旬に発生しました「アクセス解析障害」は、当ブログの場合同31日時点で完全に復旧致しました。開設以来のアクセス・訪問者数データもすべて復旧し、その後現時点でのアクセス状況表示も順調です。
 2、3の方が、「ココログ アクセス解析 障害」というような検索フレーズでアクセスしてこられました。やはり同障害は当ブログだけではなかったようです。@nifty ココログのコメントでは「サーバー不良により」とありました。当ブログはここのところ少し急にアクセス数が伸びていました。これと同じようなケースの各ブログに対応出来ず、突然サーバーが何らかのトラブルを起こしてしまったのでしょうか?
                          *
 以前『天使の歌声』でご紹介しました、英国の中年の歌姫、スーザン・ボイルさん(48)。一週間ほど前、デビューと同じオーディション番組「ブリテンズ・ゴット・タレント」の決勝まで進みました。
 決勝戦において彼女は、英国中いな全世界注目の中、デビュー時よりももっと洗練された美しい歌声で『夢やぶれて』を熱唱していました。しかし結果は惜しくも優勝を逃してしまいました。
 彼女を破ったのは、「ダイバーシティー」というダンス集団。メンバーは12~25歳の10人編成で、黒い衣装を着てアップテンポな音楽に合わせて一糸乱れぬストリートダンスを披露。そのユーモラスな動きに、観客は大興奮だったようです。

 「ブリテンズ・ゴット・タレント」での優勝は逃したとはいえ、スーザン・ボイル人気は以前凄まじいようです。世界的な人気に火をつけた動画サイト・You Tubeへのアクセスが、遂に1億件を突破し、それまでの記録を抜き去るのは時間の問題と報じられたのは1ヶ月も前のこと。今では新記録樹立はおろか、2億件にも達しているのではないでしょうか。
 そして実利的な話題として英マスコミによると、彼女は今後CDや書籍販売で12億円以上稼ぐだろうと予想され、また2012年のロンドン五輪にも登場か?とも噂されているそうです。
                          *
 噂の草なぎ剛(34)のテレビ復帰スタートは、先月29日の『笑っていいとも ! 』(フジテレビ系)だったようです。同番組は草薙がレギュラー出演していた番組で、黒いジャケットで登場し、番組冒頭深々と頭を下げ、「一月休んでしまいました。(スタジオの)この空気を毎週感じるのは生活の一部ということが分かりました。よろしくお願いします」と挨拶したそうです。
 また1日夜に放送された『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)にも出演し、平均視聴率が22.0%。同番組の前4週の視聴率は平均12.5%で、2倍近い大幅アップとなったことになります。また2日夜放送の、テレビ朝日系「『ぶっ』すま」でもレギュラー復帰。ともに司会を務めるタレント、ユースケ・サンタマリアに「あれ、剛 !! 」と番組冒頭で驚かれ、草薙は土下座で謝罪して笑いを誘ったようです。しかしこちらの視聴率は12.8%と、前週の13.2%よりやや下降しました。

 同じ芸能界の話題といえば―。以前当ブログ記事『薬物汚染の広がりを憂う』で取り上げた、元タレントの小向美奈子(24)。小向は覚せい剤取締法違反(使用)で有罪判決を受け執行猶予の身ですが、5日からのストリップ劇場「浅草ロック座」にゲスト出演する予定(ただし極端な露出は避けるもよう)だったものの、東京地裁が2日出演禁止の仮処分命令を下しました。
 小向の前の所属事務所との間で、そういうものには出演しない旨の合意書が取り交わされていて、それを盾に前事務所が直前になって地裁に出演停止を申し立て、認められたもののようです。
 しかし小向と浅草ロック座側は出演を強行する構えを崩しておらず、『元アイドルがここまで…』と三面記事的ながら成り行きが注目されます。(そういえば『薬物汚染』記事、いまだ未完でした。)

 (大場光太郎・記)

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6月1日

   あじさいや開港遠き昔にて   (拙句)

 早いもので今年ももう6月です。そしてきょうは月のスタートのついたちです。
 午前中は薄日もさして、先月末何日も続いたぐずついた天気ともおさらばか、と何となくほっとした気分になりました。しかし昼が近づくにつれて、家の中からのぞかれる外は徐々に暗くなり出し、何やらまたもや怪しい雲行きのようです。
 本当に梅雨の走りのような空模様の中、昼過ぎ久しぶりで横浜に向うべく家を出ました。出がけに外を窺(うかが)うと、路面は乾いており全体的に何となく薄ら明るい感じ。それでも長道中何が起きるか分からんぞとばかりに、一応使い古した小さなビニール傘を持って出ました。

 何度も触れました水路道に直交する、その手前の100mほどの砂利道を通ります。右手中ほどに、小潅木が適宜植え込まれ地面にはびっしりと青草で覆われた空地があります。以前空地はもっと多かったものの、今ではそこだけになってしまったのです。その先の民家との境の垣に蔦(つた)が絡まった辺りで、小さな黄色い蝶が一匹ゆらりゆらりと飛び回っているのが認められます。
 
 さらに民家の先右手は舗装道路となり、両脇に住居が奥までびっしり建て込んでいます。と、そちらのやや上空の方から、幾分甲高い鳥の鳴声がしきりに聞こえてきます。
 私は比較的音には鋭敏な性質(たち)らしく、人間同士のでかい話し声をすぐ間近で聞いているうちに、それは凶暴化した音となって神経に直接突き刺さってくるようで、逃げ出したくなったり実際急ぎその場を離れてしまうことがあります。
 しかし小鳥たちの鳴声に対しては、決してそうはなりません。かえって耳そばだてるほどに、心に脳に心地良い音色(ねいろ)なのです。かといって、その場に佇んで聴き入るわけにもいかず。小鳥たちの囀(さえず)りに押されるようにして水路道に入り、いつものとおり左折してその道を通ります。

 毎度述べておりますとおり、その両側に数軒の住宅が並び建つ、わずか20m未満の通路です。しかしこのわずかなスペースこそが、私にとっての当居住地での唯一の緑のオアシスといった感じなのです。(実際はその先の広い道路まで数10m通路は延びていますが、その代わり雑草だけになります。)
 通路の両側に何本かの低い木が植えられており、ムラサキツユクサの一群以外目立った花とてなく、今はほぼ緑一色です。二株ほどのアジサイも、これから本式に咲くべく今はまだつぼみで待機中といったところです。

 この水路道を右左折して300mくらい歩いた、広い通り沿いにバス停はあります。バスを待ちながら周りを見回しますと、街並みはいっそう明るさを増したように感じられ、にわかに手に持っている傘が邪魔なものに思えてきました。もう雨は降りそうもないのに、横浜まで持っていき、また持って帰る。なんだか面倒になってきて、『どうせもうずいぶん使い古したビニール傘だし、無くなってもいいや』と、バス停の目立たない所に寝かせて置いていくことにしました。
 それでも一応、『帰りに取りにくるからな』と心で呟きながら。

 間もなく『大失敗だった』と思いました。バスの途中で、車窓に細い雨筋が何本もかかり始めたのです。本厚木駅に着いた時は、もう本降り状態。電車に乗って、長い陸橋から望む相模川は茫(ぼう)と雨に煙ってよく見えないほど。小田急線から相鉄線に乗り換えるべく海老名駅構内から外を見た時は、何と滝のような豪雨状態、皆あっけにとられたように外を見ていました。
 『横浜に行くのイヤになっちゃったなあ。引き返して明日また手直すか?』。しかしそうも言っておられず、気を取り直して『まあ、なるようになるさ』と相鉄電車に乗り込みました。

 海老名駅構内の頃が雨のピークだったようです。横浜に近づくにつれて少しずつ小降りになり、関内駅に降りた時にはまだ降ってはいるものの、どうしても傘が必要なほどの降りでもなさそうです。
 そこで私は、とにかく走って県庁分庁舎まで向うことにしました。とはいっても、そこまでは2、3キロはあります。走っては歩き、歩いては走りしているうちに、道の半分もしないうち雨は止みました。向かう先の横浜港の方の空の雲間から、青空ものぞき出しました。私はほっとして急に速度を落として歩きます。途端に息がせわしなくなりました。
 急ぎ駆け過ぎたきょうの横浜は、平日で開港150周年の記念イベントもないようで、いつもどおりの平静な街のようす。所用を済ませた夕の街路の一角に、水色のアジサイが株全体見事に咲いているのが印象的でした。

 …帰り、例のバス停に立ち寄りました。傘は寝かせて置いた同じ状態でありました。私はそっと取り上げ、今度は幾分大切に抱えながら、あと少しの我が家までの道を歩きました。
 空を見上げると西の方に上弦の半月がかかっています。そして眼を地上に転ずると、先ほどの空地の反対側の駐車場の隅の草むらに、点々と黄なる月見草の花が淡い月の光と側の家の灯に照らされて浮かびあがっています。
 一風変わった私にとって、そんな小さな花が当地でまだ、月夜に咲いていてくれることがとても嬉しいのです。

 (大場光太郎・記) 

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日々雑感(2)

 全国の広い地域でそうなのかもしれませんが、当地では28日のきのう、そして29日のきょうと2日続けての雨となりました。まるで梅雨の走りのような具合です。
 でもここ最近は晴天続きだっただけに、農作物や木々や草花にとっては恵みの雨なのでしょう。連日の雨ではうっとうしい気分になるというけれど。今は緑の豊かな季節、雨によりいっそう緑が引き立って感じられ、何か清涼感すら感じます。
 街並みもまるで雨に洗われて甦ったよう。遠くの大山や丹沢の峯々も煙って、さながら墨絵ぼかしの水墨画の遠景の風情です。

 ところで、現在当ブログも「アクセス解析障害発生中」です。

 最初に気がついたのは、同記事を一通り完成させいつものとおり『さあ、やっと終わったぞ。公開させるか』と、記事作成画面を「今すぐ公開」にして「保存」クリック、何十秒か待ってココログ、グーグル、ヤフーなどへのデータ送信(ping通知など)。それも無事完了したようなので、記事作成画面から離れようとした時でした。(29日午前1時半すぎ。)
 次の画面で、「問題が発生しました。管理画面トップに戻ってください」という表示が出たのです。以前何度かこの表示が出たことがあります。いずれもやや深刻な問題が生じた時でした。ですから今回も、何となくイヤな予感がしました。

 指示どおり管理画面トップに戻ました。その時点では、特別異常は感じられませんでした。それで2、3度クリックして、通常皆様がご覧になっている当ブログのトップ面まで戻りました。いつものとおり新記事である『イエスとマグダラのマリア(2)』がきちんと公開されているかを確かめ、次に同記事を何度か読み直して、誤字、脱字また修正すべき個所がないかなどをチェックするためです。
 一回で完璧にオーケーということは先ずありません。何かしらの誤りや、修正したい文章などが必ず出てきます。その個所を頭に入れながら、もう一度ログインから記事作成画面に到り、必要個所を直します。それを何度か繰り返し、ようやく皆様に何とかお読みいただけるような体裁の記事となるわけです。(それでもなお誤字などに気づけず、ずっと後になって読み返してそれを発見することもあります。)

 何とか最終チェックが終わったのが、午前2時前後。管理画面の「アクセス解析」をクリックして、『きょうのアクセスの出足はどうかな?』と確かめようとしました。通常は午前零時からのその日のトータルの訪問者数や同アクセス数が表示されます。さらに調べようとすれば、いつの時点でどんなIDの人が、どの記事にアクセスしてこられたのか、また時間ごとの訪問者数、アクセス数などが分かります。
 このアクセス解析をじっくり検討、分析することは、ブロガーとしていろいろな意味で重要なのです。

 ところがこの日に限って、アクセス解析画面が真っ白なのです。『何じゃ、こりゃ?』と一瞬頭が真っ白になったのは、私の方です。こんなことは、ブログ開設以来初めてのことですから。
 最上部に「障害発生」を知らせる一行のコメントがありました。『まさかこうなったのは、ウチのせいじゃないだろうな?』とヒヤッとしました。しかしその後冷静になって調べますと、「ココログフリーの一部に」アクセス障害が発生したのは、午前0:30頃のようです。私が新記事を公開しようとしたのは午前1:30過ぎでしたから、その時は既に障害が発生していたわけだ。と妙に納得、一安堵しました。
 しかしその後じっくり調べてみますと、アクセス解析の非表示はおろか、トップ面の「検索フレーズランキング」や「アクセスカウンター」も消えているし…。まったく困った事態です。

 まる1日経過した30日未明(午前1時前)の段階でも、まだ復旧されていません。ですから、29日午前零時から今現在まで、どれだけの人が訪問され、どんな記事にアクセスされたのかなどまったく把握出来ておりません。それのみか、本来は開設以来の1日当たり、月当たりなどの過去の数字を遡って調べることも出来ますが、それも全部消されている状況です。
 本当に困った事態です ! 大弱りです ! まさか過去のアクセスデータは全部消去されて、復旧されてもその時点からまったく新たにやり直し、などということはないんでしょうね !?それよりも何よりも、その日の訪問者数、アクセス数がまったく分からないというのは、ブロガーとして張り合いないことこの上ありません。

 @nifty ココログ様。少しでも早い復旧、そして過去のデータが復元されていますよう、切にお願い申し上げます。

 (注記) なお今後書く記事につまった時のために、『日々雑感』をシリーズ化することにしました。とりとめもない雑文になろうかと存じますが、なにとぞご了承ください。

 (追記) おかげ様で、上記アクセス解析障害は、5月末日完全に修復致しました。

 (大場光太郎・記)

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日々雑感

 ゴールデンウィークは慌しく過ぎ去り、気がついてみると5月も早や下旬です。今週はまずまずの晴天続きで、先日『初夏だより』でお伝えしましたように我が街はすっかり初夏の装いです。
 そうしましたら、夜半からつい今しがたまで雨が降りました。土砂降りではなく、連日の暑さを少しばかり冷ましてくれそうな、五月の静かな夜雨です。

 話は変わって―。きのう21日から、いよいよ「裁判員制度」がスタートしました。同日朝の某ワイドショー番組で同制度に触れ、その中で毎度おなじみのO弁護士が、「昔々は人を裁けるのは、王様しかいなかった。それがこの制度によって、一般国民が人を裁けることになったのだ。主権在民ならではの画期的な制度だ」と、同制度のアピールにこれ務めていました。法務省直轄組織・日弁連を代表した見解なのでしょう。
 しかしフジテレビが緊急に実施した世論調査では、「あなたは裁判員として参加したいですか?」という質問に対して、「したい 16.2%」「したくない 45.8%」「あまり気が進まないが義務なので仕方がない 37.2%」。消極的理由も含めた否定的な意見が「83%」にも上りました。法務省としては、「国民へのPRがまだまだ足りなかったか」というような数字です。

 私も行政書士という「法律家のはしくれ」として、出来れば当日までに裁判員制度についての拙い所見など、と考えておりました。しかしなまじ法律をかじっているだけに、述べづらいこともあるものです。
 いえこれまで何度か述べてきましたように、私は実は「隠れ法律嫌い」でもあるのです。それでも業務上のメシの種である「民法」なら、これまで第1条から第1044条までつまり終いまで3、4回ほど読み返してきました。しかし「民事訴訟法」や「刑法」となるとまるでお手上げです。ズブの素人と何ら変わりありません。私は東北の農耕民の血筋のゆえなのか、そもそも争いごとが苦手、喧嘩ベタな人間です。それが、刑法学習から遠ざけている大きな要因かもしれません。
 ただ同制度は見直すべき点が多々あるとしても、ともかく制度としてスタートしました。国民すべてが、裁判員となって「死刑か否か」を裁かなければならなくなる可能性があります。いずれ私自身しっかり勉強して、皆様の同制度理解の一助となりますかどうか、ささやかな情報を提供出来ればと思います。

 直前記事『草なぎ剛 手紙』、おかげ様で大好評でした。当日21日、当ブログ史上(笑)どれだけ凄い数字が出たかは、同記事コメントにて触れておきました。そうしましたら、翌22日はもっと凄いことになりました。
 日をまたいでも、同記事へのアクセスは引きも切らず。結果、前日の1日訪問者数131人をこれまたあっさり更新し、「156人」という驚異的な数字をはじき出しました。まあ、今後どんな旬な記事を出そうとも、当分突破出来そうにない数字です。(アクセス数も、きのうの245にわずか及ばない「243」でした。それでもさすがに夕方以降は下火傾向です。)

 ところで『天地人』シリーズも人気記事の一つです。ここのところ、「天地人 おもしろくない」検索でのアクセスが続いています。私もドラマは毎回観ていますが、まあ何とコメントしていいのやら、批評・批判してよいのやら。シリーズも(10)で止まったままです。
 一言だけ申せば―。前々回の「本能寺の変」。ご存知織田信長の死を扱ったものでした。今まで大河ドラマでも、他の民放各局の歴史ドラマでもばしば取り上げられた題材だと思います。推察するに、熱演した信長役の吉川晃司には悪いけれど、これまで一番つまらない本能寺だったのではないだろうか?と思われるのです。あまりに演出が度を越しすぎて、リアリティと迫力を欠いたシーンになってしまったのではないでしょうか?

 本夕所用で、平塚市に向いました。同市内の平塚市役所に向う、片側に工場などが建ち並ぶ通り沿い。途中工場群と反対側に、鬱蒼たる高い木立に囲まれた平塚球場もあります。その通りの、パイロット平塚工場の道路境のフェンス越しに、200~300mバラがズラッと連なっています。ちょうど今を盛りに、色とりどりの見事な大輪が咲き誇っているのです。
 同市では有名なのかどうかは知りませんが、この時期恒例の華麗なバラの花の眺めです。

   くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

 それを見やりながら、正岡子規のこの短歌がふと思い出されました。詠まれているのは、「薔薇の芽」「春雨」と、大輪のバラの花咲く今の季節ではなく、もっと前の若い季節です。
それなのに、なぜこの歌がひょいとよみがえってきたのだろうか?無意識とは奇妙奇天烈ですから分かりません。但し私自身、バラの詩、短歌、俳句などをあまり知らないことも事実です。
 この短歌を知ったのは、中学2年の頃。近代短歌というものに接したそもそもの頃のことでした。『短歌とはこんなに素晴らしいものなのか ! 』。まるでこの短歌の活字が、本から躍り出てくるような感覚に捉えられたことを覚えています。

 (大場光太郎・記)

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草なぎ剛 手紙

 SMAPメンバーの一人である草なぎ剛が、泥酔して深夜裸になり、公然わいせつ罪で逮捕されほどなく釈放されてから、約1ヶ月ほどが経ちます。

 彼の逮捕のニュースに、彼のファンはもとより国民の多くから、「たかが深夜酔っ払って裸になったくらいで、何で逮捕されるわけ?そんなことしょっちゅうあるじゃん」というような疑問の声が多かったようです。確かに冷静に考えてみれば、ハメを外した酔っぱらいに対しては通常取り押さえて補導。一晩留置所に入れておき、翌朝素面(しらふ)に戻ってからきついお咎め、「以後このような不始末は二度と致しません。云々」の念書を取って釈放、そんな次第で済む話なのではないでしょうか?
 やはり警視庁赤坂警察署は、全裸になり大声で喚き散らしている彼の言動から、(当ブログで何ヶ月か前取り上げたように)芸能人にありがちな薬物使用を先ず疑い、取り合えず緊急に「身柄の確保を」となったようです。
 
 逮捕から間を置かずに、都内の草なぎ剛の自宅を家宅捜索したことで、その意図は明瞭でした。しかし捜索の結果は、薬物使用を示す物的証拠は何も出てきませんでした。(唯一の成果?は、彼の住居所在地が公けに明らかになったこと。それまで彼は、SMAPのメンバー特に親友の香取慎吾にさえ住居は秘密にしていたそうです。)
 その時点で、警視庁関係者は、さぞ焦ったことでしょうね。何せ草なぎは、知らない人がいないくらいの超有名人です。そして巷からは、上記のような疑問の声がどっとばかりに押し寄せてくるし。それで逆に人々が「えっ。こんなに早く?」と思うような、「処分保留のまま釈放」という早期決着にせざるを得なかったのでしょう。

 今回の草なぎ逮捕といい、(所轄こそ違え)民主党小沢前代表秘書逮捕といい、行き過ぎた警察権力、検察権力の行使が目立つ昨今です。「素っ裸になって大騒ぎした方が悪いんだ」ということはあるにせよ。それによって草薙自身と、ジャニーズ事務所は測り知れないダメージをこうむり、また小沢問題では民主党にとって大きなイメージダウンになりました。
 戦時中の「特高(とっこう)警察」のように、戦争遂行に都合の悪い人間は片っ端からしょっ引かれた暗くて忌まわしい例もあります。強大な警察国家化はロクなことにはなりません。行過ぎた警察、検察権力の行使に対して、私たち国民はもっと厳しいチェックの目を向けていくべきだと思います。

 ところで当ブログでは、草なぎ逮捕直後『草なぎ剛への(架空の)手紙』を公開しました。おかげ様で大好評でした。事件が一件落着した今でも、毎日のように何人かの方からのアクセスがあります。
 そしてそのアクセスの検索フレーズの多くは、「草なぎ剛 手紙」というものです。当初私は別に気にも止めていませんでした。しかしここ何日か『?』と思うようになったのです。私如き者がたまたま書いた一文だけを目当てに、わざわざ訪ねてくるものなのだろうか?
 そこで今回遅ればせながら、私自身グーグルで「草なぎ剛 手紙」を検索してみました。(同検索での総数162,000項目。そのトップ面の6番目に『今この時&あの日あの時 草なぎ剛への(架空の)手紙』がありました。同検索をした人は、これを見て当ブログの同記事にアクセスしてこられたわけです。)

 同検索から分かったことは―。今月19日発売の『女性自身』によると、草なぎが所属する事務所には、激励の手紙や刑事処分回避のための嘆願書などが事件後大量に届き、その数は3万通にも上るそうです。海外からもメッセージが届いており、韓国からは署名活動の署名簿も届いているそうです。
 手紙は事務所スタッフを通じて謹慎中の草なぎ剛に届けられているようで、律儀にも草なぎ本人が一通一通すべてに目を通しているとのこと。(ということは、私も先の文を出していれば、本人が読んでくれた可能性があったわけか !?)
 当初草なぎ剛は、「一人一人全員に返事を書きたい」と申し出ていたものの、全員にはとても返事が書けなかったため、草なぎが書いた手紙をファンクラブで印刷して返送することになったもようです。

 同誌によるとその内容は、「ファンの皆様。励ましの手紙沢山ありがとう。そして今も尚、僕を心配してくれているファンの皆さんありがとう。僕は大丈夫だよ。皆さんの温かい応援で元気が出て来ます。」とファンにお礼を述べ、続いて「みんなと約束します。弱い自分を克服するのは簡単じゃないけれど、沢山のファンの皆さんが応援してくれているし、SMAPのメンバーも支えてくれているので、必ず乗り越えてみせます」と強い決意のコメントをしているとのこと。(この情報は、『芸能7days』というブログを参考にまとめました。感謝申し上げます。)
 3万通もの激励の手紙といい、その一つ一つに目を通していることといい、草なぎ剛の人柄が伝わってくるようです。

 ところで草なぎ剛は、今月28日の芸能界復帰が決まっているもようです。またトヨタをはじめとする各社の「CM解禁」も間近のようです。(但し、ブチ切れ鳩山大臣の総務省・地デジCMだけは取り止め)。スポンサーサイドとしても、この不況下CMの撮り直しに余分なカネがかかり、草なぎのCMで定着した商品のイメージもあるので、出来るだけ差し替えは避けたい、との思惑があるようです。
 では今後の活動は順調か?というと。あるテレビ局関係者によると、「視聴者としては、テレビで草なぎを見るたび事件を思い出しかねません。この先「全裸」「泥酔」を連想させる演技やセリフは避けなければならず、共演者も選ぶ必要があります。お酒のCMもアウト。使いにくいタレントになったことは間違いありません」。
 
 草なぎ剛君。でもそれくらいは「身から出た錆」で仕方ないよね。とにかく復帰のめどが立ち、おめでとう ! この一件をバネに、君の更なる人間的飛躍に期待しているからね。

 (大場光太郎・記)

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初夏だより

  はつなつの街白々(しらじら)と輝きて   (拙句)

 風雨ともに激しかったきのうとはうって変わって。きょう17日は、朝からすっきりした晴天に恵まれました。気温もぐんぐん上昇し、家の中にいても外に出てもとにかくすぐに汗ばむほど。体感では「夏日」の目安である25℃などとうに通り越して、「真夏日」である30℃に限りなく迫っていそうな勢い。
 そうすると、きのう雨と激しい突風が吹き荒れたのは、季節の変わり目を示すものだったのでしょうか。惜春の想いを大いに残しながらも、『あヽもう夏だなあ』と実感させられた一日でした。

 当市の郊外にある現居住地の家々などの緑はそこそこ豊かです。
 私の持論では「都市の中に点々と緑がある」のではなく、「溢れかえる緑の中に都市がある」のを理想的都市像とします。それからすればまだまだです。が、ニューヨークはマンハッタンの通りのように林立しているのは高い硬質なビル群のみ、木は一本もなし、という状況でない分だけはるかに救われる気分です。

 街並みの木々の緑葉は、いつしか若葉から青葉へと緑の深さを増していきつつあるようです。その分先月は溢れかえるようだった花々の姿はあまり見かけられません。菜の花や連翹(れんぎょう)などのまぶしいくらいの黄色も、道の辺のタンポポも、藤の花もクレマチスも。厚木市の市の花・さつきも今ではすっかりくたれ気味。いつしか、皆ことごとく影をひそめてしまいました。
 そんな中たまにとある家の垣に、バラが今を盛りと咲き誇っているのを目にします。その真紅の鮮やかな色にはハッとさせられます。バラは夏の季語ですから、そんなところにも「今はもう初夏」という徴(しる)しが読み取れそうです。

 午後3時頃お隣の伊勢原市に行きました。例の市内に向う手前の両側田園の道で、正面に眺められる大山と丹沢連峰は、うすく煙ったように霞んでおりました。そのさまは、さながらうららかな春の午後といった感じをとどめていました。

 ある程度予想されたように、新型インフルエンザの国内侵入を水際でくい止めることは出来ず、ついに国内での感染が拡大しているようです。
 『それで街の人のようすは?』と気になってそれとなく、バスの中や通りを行く人々を見てしまいます。外でもない、どれほどの人がマスクをしているかと。しかしこれが意外と少ないのです。そして『あヽ今はまだそれほどマスコミ報道に影響されていないな』と思って安心するのです。
 通り中を、人という人が今流行(はや)りの尖がって白い鴉(からす)のようなマスク姿で、ぞろぞろぞろぞろと…。そんな光景は想像するだに不気味ではないでしょうか?ネガティヴな黙示録的光景のようで、ぞっとします。(なお『黙示録の真義』とは、極めてポジティヴなものです。)

 そのようなマスク姿というものは、「私は花粉症や新型ウィルスというものに、無抵抗な弱い人間なんです」という表明のようです。またそれは同時に、通りを行き交う「他人は皆病原菌の持ち主かもしれない」という疑念それゆえの防御の姿勢でもあり、他人への拒絶姿勢でもあるように思われます。
 いざとなったらせざるを得ないとしても、いざとならないことを祈りつつ、私自身はなるべくぎりぎりまでマスクはしない方針です。「本当の私」はそんな弱い人間ではないはずですし、他人を拒絶も防御もなるべくしたくありませんから。

   みどりのそよ風 いい日だね
   ちょうちょもひらひら 豆の花
   なないろ畑に いもうとの
   つまみ菜つむ手が かわいいな

     (童謡『みどりのそよ風』1番)

 きのうの夕方のもの皆を揺り動かすかのような、凄まじい突風から一転して。きょうのそよ風の何と心地よいこと ! 去年も同じ頃『みどりのそよ風』を記事にしましたが、今のこの季節は本当に「みどりのそよ風」そのままの爽やかな季節です。
 夜は夜で、やはり去年記事の『水田そして田植え』の同じ田んぼに早や満々と水が張られ、ゲロゲロゲロゲロと夜蛙が鳴いていました。

 (童謡『みどりのそよ風』の詞と曲は、「二木紘三のうた物語」にあります。)

 (大場光太郎・記)

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映画『天使と悪魔』(2)

 映画『天使と悪魔』の中で、「イルミナティ」という秘密結社が、重要な意味を持っているようです。映画ではイルミナティは、中世イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイが創始したという設定になっています。
 しかし一般的には、1776年バイエルン王国の大学教授アダム・ヴァイスハウプトが創始したということになっていて、史実とだいぶ違うのではないだろうか?それとも原作者のダン・ブラウンは何か別のしっかりした根拠を持ってそうしたのだろうか?から始まって、映画を離れて有名な秘密結社フリーメーソンとの関わり、イルミナティが現代世界に及ぼしている深刻な影響等々を少し詳しく述べるつもりでした。

 また、映画のタイトルである「天使と悪魔」というネーミングが意味するものとは?そして最後に前作のテーマである「イエスキリストとマグダラのマリアとのただならぬ関係」についての考察なども。

 しかし16日(土)フジテレビ夜9時からの「土曜プレミアム」で、タイミングよく何と前作の『ダ・ヴィンチ・コード』が地上波初というテレビ放映されたではありませんか !
 このようなオカルテックミステリーこそが、私が一番観たい映画なのです。しかし実は私はこれまで前作を観ていませんでした。原作も読んでいません。もちろん大評判になっていたのは知っていましたけれども。
 私としては『イエスとマグダラのマリアのことなんか、とうの昔から知ってるわい』というような、変な自負心が邪魔したのかもしれません。

 今回はテレビででしたが観てみました。結果は評判どおり、「見ごたえあり ! 」の一言です。当然私などが知らない新事実もけっこう明かされており、『天使と悪魔』の誰かの感想ではありませんが、マインドとハートを大いに刺激されました。
 と同時に、本来映画について語るのならば、まずその映画をしっかり観てからにすべきだな、と反省もさせられました。

 ですから『天使と悪魔』も、とにかくじっくり観てから記事にしたいと思います。ただ昨晩『ダ・ヴィンチ・コード』の方はともかくも観たわけです。公開後3年と大変遅ればせながら、そちらの方を先にまとめて近々記事にしていければと思います。

 (大場光太郎・記)

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映画『天使と悪魔』(1)

 きょう5月15日(金)今年最大の注目作との呼び声高い、映画『天使と悪魔』(原題『Angels&Demons』)がアメリカ公開と共に全世界同時公開されました。ご存知の方も多いかと思いますが、ダ・ヴィンチの名画に隠された謎解きで世界的ブームを巻き起こした映画『ダ・ヴィンチ・コード』の続編です。
 前作同様、今回も原作者ダン・ブラウンの大ベストセラー同名小説の映画化で、監督も前作と同じロン・ハワード、その他の主なスタッフも続投。主人公のラングドン教授役も前作と同じトム・ハンクスが演じています。ただヒロインのビクトリア・ベトラ役は、イスラエル人女優のアイェレット・ゾラーが新たに抜擢される形となりました。

 前作『ダ・ヴィンチ・コード』(原題『The Da Vinci Code』)は、ルーヴル美術館の館長が残したメッセージを解読し、事件の鍵となる聖杯と共にキリストの秘密を暴いたハーヴァード大学の宗教象徴学教授ロバート・ラングドンの活躍を描いたものでした。
 ダ・ヴィンチが描いた『最後の晩餐』には、イエス・キリストはマグダラのマリアと結婚しており、磔(はりつけ-十字架刑)にされた時、マグダラのマリアはキリストの子を身ごもっていたという暗号(コード)が含まれていることが明かされるというストーリーでした。
 同映画は、‘06年5月20日全世界同時公開。全世界の興業収益7億5,000万ドル(約700億円)のメガヒットとなりました。
 
 原作者のダン・ブラウンは「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」と述べていますが、特に問題となるキリストの婚姻関係及び子供を残したということについての確証はなく、現在も研究が続いている状態です。これに関してローマ・ヴァチカン教会はキリストを冒涜したものとして、ボイコットを呼びかけていました。(これにつきましては、結論部で私見を述べるつもりです。)

 今回の『天使と悪魔』は、前作よりも時系列的には前の出来事という設定であるようです。主人公のラングドン教授(トム・ハンクス)は、ローマ教皇亡き後に行われるコンクラーベ(新教皇の選挙)の最中に起きた事件解明に奔走します。何者かによって新教皇の候補者(プレフェリーティ)が誘拐、殺害され、ヴァチカンに爆弾が仕掛けられます。ラングドンはさまざまな難題に立ち向かいながら、誘拐犯と仕掛けられた爆弾を追う、というようなストーリーのようです。

 以下は、既に試写を終えた有名人たちの感想です。

 『ダ・ヴィンチ・コード』を越える作品 !  (壇れい 女優)

 こんどの映画はすごい ! ローマが究極の暗号都市だったなんて ! (荒俣宏 作家)

 すごい迫力、休むひまがない ! 悔しいくらいスッキリしました。 (里田まい タレント)

 久しぶりにすごい映画を見た。ヴァチカンを破壊するほどの迫力、どんでん返しの連続。 間違いなく本年最高の面白さだ。 (内田康夫 作家)

 頭脳(マインド)と心臓(ハート)、両方への不敵な刺激 ! ダ・ヴィンチの謎が解けたからと言って あなたは喜んでいられない。 (鏡リュウジ 占星術研究家)

 順不同で紹介しましたが、とにかくいろんな意味で「面白い映画」であることは間違いないようです。それに前作は、理屈的な「謎解き」のシーンが多く退屈だった、という観終った後のコメントも多かったようです。しかし今回の『天使と悪魔』では、エンターティンメント性をいかんなく発揮し、前作を遙かに越えるスケールの作品に仕上がっているようです。
 なお最新情報では、日本におけるTOHOシネマズ日劇の金曜初日の初回(10:00~)の観客動員数で、同じ4月10日(金)の初日に好成績を収めている『レッドクリフpratⅡ』の145%の観客動員数を記録し、大ヒットスタートを切ったそうです。現時点で09年公開作品NO1はほぼ確実で、あとは前作の(国内興業収益)91億円を超えられるかに関心が集まっているようです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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2つのビックな会見(1)

 小室哲哉の会見

 5月11日(月)は、午前と午後にそれぞれビックな会見が行われました。一つは、著作権譲渡をめぐり5億円の詐欺罪に問われた音楽プロデューサー・小室哲哉被告(50)の会見でした。夕方もう一つの会見(民主党小沢代表辞任会見)がなければ、同日の新聞、テレビのトップニュースは間違いなく、この小室会見だったと思います。

 同判決公判が同11日、大阪地裁(杉田宗久裁判長)で開かれ、「懲役3年、執行猶予5年」の有罪判決が言い渡されたことを受けての、小室被告の会見です。実刑を免れた小室被告は、被害者(兵庫県芦屋市会社社長-48)に謝罪、支援者らへの感謝を表すと共に、「一から出直したい」と、今後の活動への意欲を示しました。その姿からは、一世を風靡したかつての栄光の面影はなく、面やつれし憔悴した感じが見てとられました。

 当ブログは昨年11月4日の逮捕時、直後に『小室哲哉逮捕に思うこと』という記事を公開しました。一代の寵児だった小室の逮捕劇とあって、やはり関心が高く、結果当時としては当ブログ過去最高である当日訪問者数120人を記録しました。
 余談ながら。同記事に、その関連でたまたま名前を出した堀江貴文・元ライブドア社長での検索が、小室本人を上回っていたのにはびっくりしました。
 
 以来半年余。判決は、量刑を後回しにし、理由が朗読される異例のものだったようです。その中で杉田裁判長は、小室の放漫な生活を指摘し、「ずる賢く,経緯や動機に酌むべき事情はない」と断罪しました。小室被告は、厳しい言葉に「間違いなく実刑だろうと思った」が、執行猶予が与えられた瞬間思わず涙が流れたそうです。
 実際被害が1億円を超える詐欺事件で、執行猶予が付くのは稀であるようです。検察側の求刑は5年。今回の判決では、エイベックス・グループ・ホールディングスの松浦勝人社長(44)が肩代わりし、利息を含む6億4,800万円を被害者に弁済したことがやはり評価されたようです。
 しかし「懲役3年、執行猶予5年」は、詐欺罪での執行猶予付きの懲役期間としては最長のものであり、裁判所としても同被告の犯罪性をいかに重く見ていたかが伺われる判決となりました。(それ以上の懲役期間となると、もう執行猶予は付けられないということ。)

 ともかくも、執行猶予を勝ち取った現在の小室哲哉は、妻のKEIKO(36)と共に、エイベックスの千葉龍平副社長(45)の自宅に“居候”しているとのこと。小室被告は、松浦氏や千葉氏に深く感謝し、音楽での「恩返し」を誓っていました。
 心底前非を悔い、地に足着いた地道な音楽活動に、今後徹し切れるのか―。会見ではさらに多額の借金があることも認め、「一生懸命誠心誠意返していきたい」と語ったようですが、まだまだ厳しい前途が予想されそうです。

 (大場光太郎・記)

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「母の日」に思うこと

    遠き日のバラ一輪を亡き母に   (拙句)

 きょう5月10日は「母の日」です。今さら申すまでもなく、自分という存在をこの世に産み出してくれた第一の恩人が「母」です。母なくして自分は今こうしてこの世に存在することはあり得なかった―そう思い至る時、母への感謝は何も特定の日に限ったものではなく、常日頃忘れることなく持ち続けるべきものなのだと思います。

 しかし私たちは、ともすれば太陽や空気や水など人間が生きていくのに欠かすことの出来ないものを「あって当然」と思うあまり、それらのありがたさをついつい忘れてしまいがちです。その意味で「母」もまたいてくれて当然の存在とばかりに、日頃は感謝するどころか、ともすればグチをこぼしてみたり不満をぶつけたり八つ当たりしてしまいがちです。
 それゆえ母のありがたさ、偉大さを改めてよく考え感謝する日として、「母の日」を特に設けてあることはその意味でもよいことなのかもしれません。

 かく言う私は、既に度々述べさせていただきましたとおり、平成16年春に母を亡くしました。「母の思い出」につきましては、「二木紘三のうた物語」の『母さんの歌』コメントで少し詳しく述べさせていただきました。その中から抜粋して以下に、ご紹介させていただきます。
                         *
 貧農出身の母は、もって生まれた貧乏性に加えて、出来の悪い息子を持ったがために、70過ぎまで掃除の仕事などを続けました。「もう、やめなよ」と言っても、聞きませんでした。
 長い間の心労がたたったのでしょう。平成9年6月、脳梗塞で倒れました。私が今の業務を開業して、間もなくの頃でした。当時75歳でしたが、本当にしわくちゃの小柄な婆さんになっていました。しかし病気によって心労から解き放たれたのか、入院後の方がしわが取れて、若返ったようでした。
 ある日病院を訪ねると、私を認めるなり、まるで童女のようなあどけない笑顔で、にっこり笑うのです。長い間母と共に暮らしてきましたが、そんな無邪気な笑顔は初めてでした。いかに母の心労が大きかったか。胸が締めつけられる思いでした。
 (その後脳梗塞が再発し、半ば植物人間化してしまいました。)

 母入院後半年余り経った、翌平成10年2月。諸般の都合で、自宅介護をすることにしました。当時はまだ「介護保険法」が施行されておらず、世間一般はまだ自宅介護という通念があまりない頃でした。しかし私は、昔太郎村の家で、母が父を介護していたのを見ていましたから、別に大層なことだとは思いませんでした。
 以来、6年余り続けました。「要介護度5」でしたから、逆にそんなに手のかからない病人でした。母は私が息子であることも分からなくなっていましたから、張り合いはありませんでしたが…。私としては、これ以上ない親不孝のせめてもの償いのつもりでしたが、そんなことぐらいで償いきれるものでも、大恩に報いられるものでもありません。
 ともあれ「悲哀の中に聖地あり(オスカー・ワイルド)」。救いようのない愚か者の私も、この経験から「大切な何か」を少しは学ぶことができました。
 (なお母の介護に当たって、主治医の先生、看護師さん、市役所の方々、ケアマネージャーさん、ヘルパーさん、入浴サービスのスタッフの方々…。実に数十人以上の方々に、その都度我が家に来てサポートしていただきました。これらの方々のお力がなければ、とても私一人では介護を続けることは出来ませんでした。)

 生前も死後も全く世間様に知られることのない、無学な母でした。ですから皆様。申し訳ございませんが、母の名前をここに記させてください。母は「大場ノヱ」と申します。大正の生まれですから、当時の慣習でカタカナですが、漢字では「野枝」でしょう。みちのくの野にひっそりと生えた木か草花かの、一枝。いかにも母にふさわしい名前でした。出来れば、郷里にそのまま住み続けさせてやるべきでした。
 平成16年4月2日。母ノヱ逝去。享年82歳。ごく内輪で葬儀をすませました。4月5日午前。母を荼毘に付すべく向かった、当日は朝から大快晴でした。その年は丁度その頃が桜の満開でした。途中相模川のほとりの道を通りました。数百メートルほど桜並木が続き、特に二百メートルほどは道の両側から全体を覆い、さながら満開の桜のトンネルの趣きです。対岸の海老名市の桜並木も見事でした。
 余りにも報われなかった母には、およそ似つかわしくないほどの「最後の花道」になりました。
 (なお、同年5月下旬帰省し、親族立会いのもと、父が眠る太郎村の当家の墓所に納骨致しました。)
                                                *
 以上のように、私が亡母を語るということは、私の親不孝ぶりとダメ人間さ加減を共に語ることになります。現在お母さんがご存命の皆様は、悔恨を残されぬよう私を悪しき例として、どうぞお母さんを大切にしていただきたいと存じます。

 上記引用の『うた物語』の二木先生が、最近印象的なことを述べておられます。ご紹介しますと―
 「ことしもまた母の日がきます。私は亡き母に、心の中で一輪の草の花を捧げます。ごく幼かったころに、そんな場面があったような気がして。」(『わが母の教えたまいし歌』の“蛇足”より)
 二木先生にならって私も、そうさせていただきます。昨年6月記事の『バラの思い出(2)』の、あのバラを亡き母に。一輪の真紅のバラは、私の心の中で今なおしおれることなく生き生きと咲き続けていますから。

 (大場光太郎・記)                    

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こどもの日に思うこと

  春の夕もういいかあいまあだだよ   (拙句)

 きょう5月5日こどもの日はあいにくの雨となりました。朝から全天を覆ううす曇り。ご存知のとおり、11月3日の文化の日は「晴れの特異日」として知られています。私の中では、『確かこどもの日も晴れが多かったよなあ』という記憶なのです。
 実際どうだったのかは知りません。これは『こどもの日はすっきり晴れてもらいたい』という、私だけの願望なのかも知れません。(なおこどもの日のきょうはまた、去年に引き続き「立夏-暦の上の夏の始まり」でもあります。)

 朝のうす曇りは、晴れに向うのかそれとももっとぐずついて雨になるのか、どちらとも判断しかねる微妙な空模様でした。結果として、午前8時過ぎパラパラと小雨が落ちてきました。もうその時点で、『あヽダメだ』と分かりました。
 小雨は一旦上がったものの、午前10時過ぎ頃から今度は本式の雨が降り出し、そのまま終日止むことのない本降りとなりました。
 先月の記事『送元二使安西(王維)』の詩の中の
    渭城の朝雨軽塵をうるおす
    客舎青青柳色新たなり
が思い出されるような、久しぶりの雨となりました。我が居住地近辺にたまに見られる柳若葉はもとより、街中に溢れる諸木(もろき)の若葉若葉も雨に洗われて、にわかにみずみずしい緑で迫ってきます。普段見慣れた街並みが叙情性を帯びて感じられます。
                         *
 でもやっぱりこどもの日は、鯉のぼりが翩翻(へんぽん)と泳ぐすっきりした五月晴れであってほしいものです。というのも雨の日とあって、街の通りにこの日の主役である子供たちの姿があまり見かけられないからなのです。
 しかし考えてみますと、普段のよく晴れた日でも、外で子供が遊んでいる姿を見かけることが少なくなりました。大勢の子供を見かけるとしたらせいぜい、朝と夕方の登下校時だけです。登下校児童を狙った凶悪事件の多発によって、学校が定めた通学ルートを集団で固まって一直線に―といった感じです。そして通学ルートの要所要所には、年配のボランティアの誘導員や母親たちが立って見送ったり、帰りを待っていたりします。のっぴきならない当世事情とはいえ、『子供のうちから型にはめられて、可哀そうに』。

 「昭和30年代前半の子供」だった私などは、『何という世の中なんだ ! 』と思ってしまいます。登校時はさておき、下校時には各自テンデンバラバラ、互いに何人かの気の合った友だちとペチャクチャおしゃべりしたり、帰路とはまったく別の道に逸れて道草したり、途中友だちの家に上がり込んだり…。とっぷりと日が暮れてから我が家に帰っても、親も誰も何とも言わなかったし、第一それで全校生徒が何かの事件に巻き込まれることなどただの一度もありませんでした。
 そしてそうした寄り道、回り道、道草の積み重ねが、学校の授業では教われない、世の中をのぞき知る格好の課外授業のようなものだったのではないだろうか―と、山形の片田舎町のあの夕焼け空を思い出しながら、つくづくそう思うのです。

 しかし我が郷里の町も、当時とはまるで様変わりしています。何年か前、亡母の年忌の折り帰省し、法要を終えてから懐かしの我が宮内町をレンタカーでグルッと一巡してみたことがあります。結果驚きました。街の中に、人影がほとんど見かけられないのです。
 もちろん道を歩いていたり、通りで遊びまわっている子供など皆無です。『これじゃあまるでゴーストタウンじゃないか』。子供の頃の思い出を呼び覚まそうという試みはもろくも崩れ、郷里の町の今の姿に愕然とさせられたのでした。
                          *
 冒頭の句は、今から10年ほど前のとある春の夕暮れ時、たまたま現住居の中にいて、外から「もういいかーい ! 」「まあだだよー ! 」という元気な男の子、女の子の声が聞こえてきました。昔ながらのかくれんぼに夢中なようです。その間10分ほど。
 『あヽ子供たちは元気でいいなあ。何の思い煩いもなく、ああやって遊べるとは羨ましい』。そんなことを思いながら、私の中の「インナーチャイルド」が、外の子供たちの声と響き合って生まれた句です。

 (大場光太郎・記) 

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憲法記念日に思うこと

 戦争か平和か

 きょう5月3日は「憲法記念日」です。これは、終戦翌年の昭和21年(1946年)11月3日新しい日本国憲法が発布され、翌昭和22年(1947年)5月3日施行されたことを記念して制定された、国民の祝日です。
 以来今年で62年になります。戦後日本にとってのこの長い歳月の中で、既にご存知のとおりその時々で激しい憲法論議が交わされてきました。そして近年改憲論議が特に盛んに問題になっています。

 それは例えば、8年前の9・11に端を発した、当時の米国ブッシュ政権「対テロ戦争」などから、世界に冠たる大国になった我が国の国際社会への真の貢献のあり方というような観点から論じられてきました。1990年代前半の湾岸戦争の時我が国は莫大な戦費を拠出した。けれども、国際的にはあまり評価されなかった。だから9・11以後のアフガン戦争、イラク戦争では、米国政府の「Show the flag」「Show the boots」の要求どおり、遙かインド洋や中東の地まで自衛隊を派遣させることになったわけです。
 
 しかし小泉政権下でそれを決定した際、与野党間で侃々諤々の憲法論議となりました。最終的には、苦しまぎれに国連決議の際どい条項を持ち出して、詭弁のような形で自衛隊派遣が決定、実行されました。
 その苦い教訓から、特に自民党の国会議員が中心になって考えたことには、結局は現憲法第9条がいつも引っかかる、ならばいっそのことこの際第9条も含めて、現憲法自体を根本から見直そうではないか、必要ならば改憲しようではないか、という流れになって今日に至っているようです。

日本国憲法 第2章 戦争の放棄
第9条〔戦争の放棄、戦力、交戦権の否認〕
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 この改憲論議には、最初に発議した自民党や一部の民主党議員ら国会議員のみならず、憲法学者やジャーナリスト、大新聞の論説委員、テレビのニュースキャスターの中にも、「改憲やむなし」とする意見を持つ者が少なからずいるようです。
 各界のリーダー的人々の上記の見解、そして特にどちらかというとマスコミの「改憲ありき報道」により、今や国民の世論調査でも半数前後が「改憲すべし」という考えに傾いているようです。

 しかしここで、改憲を強力に推進している各界リーダーたちの顔ぶれを見てみましょう。例えば政界では、安倍元首相や中川(ヘベレケ)元財務相のように、ほとんどが先の戦争を体験していない、戦後生まれのリーダーたちです。(もっとも今日では、直接戦争を体験した方々は、70代後半より上とかなり高齢化されています。)
 この人たちが(私はそうは思いませんが)いかに優秀だとしても、彼らは「戦争がいかに悲惨であるか」体験として分かっていません。「体験こそ最高の教師なり」という名言がありますが、彼らの主張はしょせん実際体験を欠いた観念論にしか過ぎないのです。
 かかる改憲論者たちがその理由として決まって、「現憲法はアメリカから押しつけられたものだ。だから今こそ真の独立国として、自前の憲法を制定すべきなのだ」と言います。最もな理屈のように思われます。
 
 だがしかし、これは事実に反しています。今から3、4年ほど前の憲法記念日に、故・筑紫哲也のTBS報道番組「ニュース23」で、決してそうではなかったことを総力取材的に特集していました。
 同特集によりますと、GHQ(米国占領軍)の新憲法制定指令に基づき、最初に新憲法草案に着手したのは、憲法学者ら我が国のメンバーでした。そして彼らが一通りまとめてGH