冬至あれこれ

   冬至日の小川に鴨の遊びをり   (拙句)

 本日12月22日は冬至です。この日北半球では太陽の南中高度が最も低くなり、一年のうちで昼が一番短く夜が最も長くなる日です。「陰(いん)が極まった日」とでも言えるでしょうか。しかし、
   冬来たりなば春遠からじ    シェリー
 「陰極まれば陽(よう)となる」とは古代中国以来言い習わしてきた言葉です。亡母が「冬至を過ぎっと、畳の目一つ分ずつ日が伸びでいぐなだど」と、よく言っていました。世の中も季節も厳しいものがありますが、「一陽来復」を信じてやがてくる春を落ち着いて待ちたいものです。

 「冬至」は民族の違いを越えて、古代から一年のうちで最も神聖な日とされてきたようです。例えば12月25日にイエスキリストが生まれたというのも、イエスが生まれた月日は正確には分かっておらず、古代エジプトなどの「冬至=復活」という考えを習合的に取り入れて、冬至に近いこの日を、メシア(ギリシャ語、「救世主」「キリスト」の意)としてのイエスの誕生日としたというような説もあるようです。
 また正確な記憶ではありませんが、世界各地の神殿や仏殿の中には、冬至の太陽が御神体や御仏に直接射し込むように造営されたものもあるようです。

 私などはとても真似できませんが、世界中の心がけの良い人たちは、冬至や夏至の太陽が昇った時刻、そして月が昇った時刻に互いに集い合い、祈りや瞑想を捧げることを習慣にしている例もあるそうです。
 おそらく、そういう努力によってはじめて「宇宙的な潮流」とシンクロ出来ると思うのです。誇り高き“現代人”たる私たちは、このような自然的時間の推移を深く思いみることも、ましてや同期、同調しようなどとは夢考えもしません。「本当にそれでいいのだろうか?」、一方で人知れずそのようなご努力をされている方々のことを思うにつけ考えさせられます。

 (注記) 本記事は書きかけです。23日未明完成の予定です。ご了承ください。

 (大場光太郎・記)

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米沢上杉藩物語(2)

 上杉藩米沢移封までの置賜地方の歴史

 和銅5年(712年)置賜地方は、それまでの陸奥国(むつのくに)から出羽国(でわのくに)と変更された国の一地方となりました。また平安末期には奥州藤原氏の支配下に入りました。
 
 ついでですから脱線しますが、奥州藤原氏のことを少しー。奥州藤原氏の遠祖は藤原頼遠(よりとお)とされ、平忠常の乱(長元元年-1028年)において平忠常側についた頼遠が、陸奥国多賀郡(現在の岩手県)の官吏に左遷されたものと推測されています。頼遠の子藤原経清(つねきよ)の時代、陸奥国内に荘園を経営するなどして勢力を拡大していきました。なお奥州藤原氏は、当時の藤原摂関家から係累を認められる家系ではあったようです。
 さて11世紀半ば、陸奥国には安陪氏、出羽国には清原氏という強力な豪族が存在していました。安陪氏、清原氏とも東北地方の先住民系豪族だったようです。

 このうちの安陪氏が陸奥国の国司と争いになり、これに河内源氏の源頼義が介入して足掛け12年にわたって戦われたのが「前九年の役」でした。同役では安陪氏が終始優勢に戦いを進めていたものの、最終局面で清原氏を見方につけた源頼義が安陪氏を滅ぼしました。安陪氏側についた藤原経清も斬首されました。
 しかしこれで、安陪氏、藤原氏の血筋が絶えたわけではありませんでした。殺された安陪頼時の娘の一人が藤原経清に嫁しており、経清死後清原武則の長男・武貞に再嫁することになりますが、この時経清の息子も武貞の養子になったからです。(安陪頼時の外孫でもある)経清の子は長じて、清原清衡(きよはらのきよひら)を名乗りました。

 永保3年(1083年)清原氏の頭領の座を継承していた清原真衡(武貞の子)と清衡そしてその異父弟の清原家衡との間に内紛が発生します。この内紛にまたまた源頼義の子の源頼家が介入してきました。内紛は真衡の死をもっていったんは終息しましたが、源義家の裁定によって清衡、家衡に3郡ずつ分割継承されることを家衡が不服とし、清衡と家衡との間に戦端が開かれることになりました。
 源頼家はこれにも介入し、清衡側について家衡を討ち取ります。この一連の戦いが「後三年の役」と呼ばれるものです。

 こうして清原氏の所領は清衡が継承することになったのです。清衡は実父の姓を再び名乗り、藤原清衡(ふじわらのきよひら)となりました。これが奥州藤原氏の始まりとなります。
 後に藤原氏は清衡の子基衡(もとひら)から秀衡(ひでひら)、泰衡(やすひら)と4代100年にわたって繁栄を極めることになりました。都を平泉に置き平泉文化を開花させ、平安京に次ぐ日本第二の都市と讃えられました。
 平家を滅亡した源頼朝の敵視政策により、源義経を匿(かくま)ったなどの咎(とが)により鎌倉勢の討伐を受け、文治5年(1189年)7月藤原泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅亡しました。

 その後鎌倉幕府の智将・大江広元(おおえ・ひろもと)が置賜地方を支配し、広元の子の時広(ときひろ)が頼朝の命により地頭(じとう)となり、後に時広は長井姓を名乗ることとなりました。この頃から置賜地方は「長井の庄」と呼ばれ、近世には「長井郡」とも呼ばれるようになったのです。
 長井時広から8代143年の間、その拠点であった米沢城は長井氏支配の中心地になっていきました。

 その後天授6年(1381年)伊達氏8代宗遠(むねとお)が長井領を侵犯し、時の領主の長井宗広は追放されてしまいました。
 新しい領主となった伊達氏は、主に高畠(たかはた)地方を根拠地として人心を掌握し、高畠城、米沢城をはじめとして、伊達、信夫(しのぶ)、柴田、伊具(いぐ)の諸地方にわたって各地に居城を構え、戦略上転々と本拠を移し、15代晴宗の時になって米沢城を根拠地にしました。ちなみに後に“独眼龍”と呼ばれることになる、伊達政宗は米沢城で呱々の声を上げたのでした。
 しかし恭順した豊臣秀吉の命によって、政宗は天正19年(1592年)25歳で米沢に名残を惜しみつつ、岩出山(現宮城県大崎市)に移って行きました。天正15年米沢城の西、館山の地に築いた外郭の跡は、今も政宗の雄大な計画の名残りをとどめていると言われます。
 政宗まで伊達氏が置賜を領すること、実に10代212年にも及んだのでした。

 次いで秀吉は、奥州の鎮護を考慮して、知勇兼備の名将・蒲生氏郷(がもう・うじさと)を会津に配し、会津に加えて伊達、信夫、長井三郡を与え、75万石の領主としました。氏郷はその将蒲生郷安(さとやす)を米沢城に配置し、3万8千石の領主としました。郷安は近江国(おうみのくに)松ヶ崎の人なので、米沢城を松ヶ崎と言ったとも伝えられています。
 蒲生氏郷は京都で40歳で世を去り、世継ぎの鶴千代がその後を継承しました。しかし彼が統率の才に乏しいのを見た秀吉は、蒲生氏を宇都宮に移し、越後の上杉景勝を会津に移して120万石を与え、奥州鎮撫の大任を課したのでした。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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師走だより(2)

   真夜更けのかの天狼(シリウス)の光濃し   (拙句)

 先日の『日々雑感(8)』記事などで取り上げましたとおり、今冬は例年のような西高東低の冬型の気圧配置にはなかなかなりにくい、したがってしばらくは暖冬傾向が続くことでしょう、などと悠長なことを述べました。
 まさかその記事が「冬帝(とうてい)」の目に止まったわけでもないでしょうが(笑)、「ならば、これでどうじゃ !」と言わんばかりに、ここ2、3日にわかに日本列島全体に大寒波が襲いかかってきています。

 北海道や東北はもとより、北陸、山陰など日本海側は言うに及ばず、広島県芸北地方など太平洋側、四国山地沿いなど四国西部地方、さらには九州北部から佐賀県にかけてまで、かなりの積雪に見舞われたもようです。
 いったい急にどうしたことなのでしょう?私など素人にはよく分かりませんが、さすが気象予報士の中には先週末既に、今週後半から週末にかけてのこの寒波襲来をきっちり予報していた人もいたようです。とにかく今現在の列島周辺の気象図を見ますと、いつの間にか中国大陸には高気圧がデンと居座り、方や太平洋上には低気圧がこれまたデンと構えています。東西横綱級の両気圧に挟まれた格好の我が日本列島は、なるほど密に何本もの等圧線が南北に走っている典型的な冬型の様相です。これでは北極、シベリア圏からの大寒気団が列島に思うさま吹きつけられもするわけです。

 某テレビ局の報道番組によりますと、17日早朝の北海道のある地域では、何と氷点下25℃にまで気温が下がったそうです。それがどれだけの寒さかと言いますと、リポーターが雪で覆われた外で防寒服を重ね着してリポートしていましたが、それでもなお立っているだけで震えがくる、体中が痛くなるほどの寒さだと言うのです。ためしにシャボン玉を膨らませてみますと、シャボン玉はあっという間にカチカチに凍りついてしまいます。また外で生卵を割ろうとするも、カチンカチンに凍っていて殻をむくことさえできません。屋外全体が天然の“冷凍庫”状態だと言うのです。
 「寒い」とは言ってもたかが知れている関東地方在住の私などには、およそ想像すら出来ない“極寒地獄”のような感じなのではないでしょうか?

 そう言えば思い出しました。私も18歳までの子供時代を、山形県南部の内陸部・置賜地方で過ごした経験があります。今年初めの『雪に埋もれし我が故郷』シリーズでご紹介しましたとおりの豪雪地帯です。一段と冷え込んでくる真冬の夕方など急に寒さが襲ってきて、外で遊んだりしていますと、むき出しの両耳がちぎれるほど痛くなります。まさか-25℃とまではいかなくても、とにかく氷点下であったことは間違いないと思われます。
 そのため羨ましいことにお金持ちの子供などは、予め狐のふさふさした毛皮で作られたような市販の耳隠し(郷里では別の呼び方があったかと思いますが、忘れてしまいました)をしっかりつけていました。もっとも小学校時分に、顔の前面だけ出るようにして、頭から両耳、両頬がすっぽり隠れ、あごの下で両方から紐で結ぶ黒い色の“冬帽子(?)”を被って登校した記憶もあります。

 山形といえば、夜某テレビ局で鶴岡市大網七五三掛地区内の積雪のようすを中継していました。同地区は今年2月頃から部落全域にわたって地すべりが起こっており、ひどい所では2~2.5mもの段差が生じ、とても住める状況ではなく集落全体が自主非難している地区だそうです。えてして災害は限界集落に集中しやすく、同地区も例外ではなかったようです。
 そこにもってきてこの大雪です。50代の男性は、「今の雪質は湿ってっから、とても雪下ろしなど出来ね。今上さ登っと、つるんとすべっから」と、経験に則って話していました。事実同市内の70代の男性が屋根から転落して死亡したことを、同局では直前に伝えていました。
 県では地すべりの原因を、地下25mの地層にある地下水が流れ込んだために起こったものとしています。とにかく地すべりと大雪のダブルパンチです。とんだ難儀なことと心よりご同情申し上げます。

 また本日昼頃には、別のテレビ局が北陸富山湾岸での寒ぶり漁のもようを中継していました。日本海に面した富山湾沿岸一帯は、11月下旬から12月中旬にかけてぶりが湾内に回遊してくるので、“寒ぶり”のかき入れ時だというのです。そしてぶりの到来を知らせるように、同時に陸風が陸上から吹き込む強い南風となって、複雑な気候をもたらし、雷を伴った荒れ模様の天気となるのだそうです。
 「冬の雷」とはこれまた面妖ですが、これが鳴るとぶりがよく獲れることから同地方では昔から、この時期の雷のことを「ぶりおこし(鰤起こし)」と呼び習わしているようです。そう言えば先月読んだ松本清張の『ゼロの焦点』にも、同小説は冬の北陸が舞台とあってぶりおこしのこともさり気なく描かれていました。
 同地方ではまた新婚家庭の場合、新婦の実家から新郎の実家に獲れたての生きのいいぶりを贈る風習があるようです。一つには新郎の無事息災のためと、もう一つはぶりという“出世魚”にあやかって、新郎が仕事で活躍できるようにという願いを込めたものだそうです。

 本18日当地(厚木市)は、雲は四辺の低い空にわずかに認められるばかり。抜けるような青空が広がる冬晴れの一日となりました。空がそんな具合ならば、街のようすもいつになくすっきり、くっきりと見えています。そのさまは、冬帝(冬将軍)に遣わされた無数の見えざる寒兵たちによって、邪気という邪気がきれいさっぱり祓われてしまったかのようです。しかしその分外に出ますと、ピューピュー吹きつける北風が余計身に沁みます。
 関東南部はさすがに雪こそ降らないものの、列島の脊梁山脈を越えてきたカラカラに乾燥した冷たい空っ風(からっかぜ)が吹きつけて来るのです。
 週間天気予報によりますと、この超冬型の気圧配置はあした土曜日くらいがピークかと。それでも来週火曜日の朝頃まではこの冬型が居座り、それ以降は徐々に寒さも緩んでいくでしょう、ということのようです。

 本夕方日が沈んで少し後の大山の姿を見ました。西空の青い色が残る冴えた夕空を背景に、黒か紫かと見まごう常にも増して引き締まったその秀峰を仰ぎ見ることができました。大山の稜線がなだらかに降りていく左側の低い空には、佳人の美しい眉のような眉月(びづき)も認められました。

 (大場光太郎・記)

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米沢上杉藩物語(1)

 はじめに

 今年のNHK大河ドラマ『天地人』は11月22日で終了しました。どなたもご存知のとおり同ドラマの主役は上杉藩の重臣・直江山城守兼続でした。ドラマは兼続の生涯を描きながら、本能寺の変、朝鮮出兵、関が原の戦いなど激動の戦国絵巻を織り交ぜて展開されていきました。
 直江兼続は、終生仕えた主君の上杉景勝と共に、戦国激動のあおりをくって故郷の越後から会津、会津から置賜(米沢)へと転封されていきました。

 私は、最終的に我が郷土置賜地方が舞台となるドラマとあって、珍しいことに『天地人』を第1話から最終回まで欠かさず見続けました。そして時折り辛らつな批判交じりの感想などをシリーズとして記事にもしてきました。
 振り返ってみますと、私が郷里の東置賜郡宮内町(現南陽市宮内)で過ごしたのは18歳までです。そのため肝心の「米沢上杉藩」のことも、直江兼続のこともよく知りませんでした。特に直江兼続については、大変お恥ずかしいことに昨年8月記事『万物備乎我(6)』で、ある人と交わしたコメントによってはじめて知ったくらいのものでした。小、中、高校を通して、上杉藩のことや郷土史などを教わった記憶がほとんどないのです。

 『天地人』終了と共に、大河ドラマファンの関心は早や、今放送中の『坂の上の雲』あるいは来年の大河ドラマ『龍馬伝』の方に移ってしまっていることでしょう。少し時期を逸した感は否めませんが、10代までを郷里で過ごしかつ『天地人』をシリーズで記事にした者として、「米沢上杉藩」をご紹介する義務のようなものを感じます。
 それによって、これまであまりよく知らなかった郷土の歴史や上杉藩のことを、私自身学び直し、再認識していければと思います。

 本シリーズ何回になるか分かりません。多分飛び飛びになろうかと思いますが、ご関心がおありの方ご一読くだされば幸いです。

 置賜地方の地理など

 置賜地方は、山形県内陸南部に位置する一地方です。「おきたま」「おいたま」どちらの読み方でもオーケーです。ただ「おきたま」の方が古い呼び方のようです。
 現在でいえば置賜地方は南東部の米沢市を中心とした「米沢都市圏」、それに北接する南陽市を中心とした「南陽都市圏」、そしてこの両者の西に接する長井市を中心とした「長井都市圏」の三つの地方都市圏に分類されます。「都市圏」とは言ってもしょせん山形県の一地方のこと、人口で見ても米沢都市圏は14万人、長井都市圏は6万人、南陽都市圏は4万人、合計でも24万人に過ぎません。(ちなみに、現在居住しております厚木市は一市だけで22万人以上、お隣の平塚市に至っては26万人以上です。)

 同地方は現在、米沢市、南陽市、長井市、高畠(たかはた)町、川西町、小国(おぐに)町、白鷹(しらたか)町、飯豊(いいで)町の3市5町を含む地域となります。
 かつてその一隅に住んでいた者としては、『けっこう広い地域だったんだなあ』というのが実感です。この広大な一帯をそっくりそのまま、江戸時代を通して上杉藩が領地としていたわけです。

 また置賜地方は四方を奥羽山脈や吾妻山地、飯豊山地などの山並みに囲まれています。別の分類では、山形県庄内地方に河口を持つ最上川の上流部にあたる米沢盆地と、新潟県下越地方に河口を持つ荒川の上流部にあたる小国盆地(小国町)の二つの流域があり、両者は出羽山地の分水嶺で分けられます。
 米沢市、長井市、南陽市の中心部は、内陸盆地の地勢で見通し良く開けた感じがあるものの、同時に(私が小学校1年の秋までを過ごした旧吉野村太郎のような)山間僻地もまた多く、山形県と福島県を隔てる県境の飯豊連峰、吾妻連峰から山形県側の同地方は、途端に豪雪地帯となります。現在では高地を利用した放牧畜産が盛んで、分けても“米沢牛”は名産として知られています。
 とにかく関が原以後、米沢に移封して置賜地方を領地とし、全域の開墾と藩経営に乗り出した、兼続をはじめとする上杉藩士たちのご苦労が偲ばれます。
 
 県庁所在地である山形市を中心とする村山地方は、県政、県経済両面で山形県の中枢部となっていますが、村山地方から東京への陸上交通には、置賜地方を通って福島県に至る山形新幹線と国道13号があります。
 ただ高速道路は村山地方から宮城県に直接入って東北自動車道と繋がる山形自動車道のみであり、置賜地方を通過しないことになります。現在置賜地方を通って福島市で東北自動車道と繋がる東北中央自動車道が建設中です。
 また南側の福島県会津地方との間は、国道121号、西側の新潟県下越地方との間は、米坂線(鉄道)と国道113号で繋がれてします。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

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日々雑感(8)

   曇天に暴発しさうな冬の柿   (拙句)

 おとといは冷たい冬の雨降る一日、かと思ったらきのうは小春日和の暖かな晴れの一日、そしてきょう13日(日)はまたまた鉛色の分厚い雲が垂れ込める肌寒い一日で。まあ師走半ばの空模様はここのところ日替わりでくるくる変わっています。

 既にご存知のように、冬の気圧配置は一般的に「西高東低」と言われます。これを簡単におさらいしてみますとー。
 冬になると西の日本海上や中国大陸辺りに高気圧が、そして東の太平洋上に低気圧が居座る気圧配置のことを指しています。その東西の気圧に挟まれた日本列島に、等圧線が何本も密に南北に走っている特徴的な配置図になるのです。その結果北方のシベリア寒気団(シベリア高気圧)から寒気が吹き込みやすくなり、列島各地に寒さをもたらす北からの風(北風、北西風)が吹きつけることになります。
 そうして北海道や日本海側では大雪となり、関東地方など太平洋側は乾燥した冷たい空っ風が吹きつけることになります。

 ところで今年の気圧配置は今のところ、このお決まりの西高東低の型がびしっと定まっていないようです。出来ても「西高東低くずれ」といった按配で、あっという間に型が崩れてしまうのです。そのため今冬は例年にもまして雪が少なく、そろそろシーズン本番でかき入れ時のはずの苗場、草津、妙高といった各スキー場でも降雪がみられず、仕方なく滑降コースにだけ人口雪をあてがい、その周辺は土の地肌丸見えという状況のようです。(ただしこれは3日ほど前のお天気情報で、今もそうかは分かりません。)
 反面世界に目を転ずると、米合衆国では比較的南部の中西部に位置するコロラド州でしっかり降雪があると言います。このような気象のアンバランスは、赤道ベルトの海温がこの冬例年以上に高く、北極圏からの寒気団が日本列島などに南下出来ないことに大きな原因がありそうです。

 国連気候変動締結国会議(COP15)も良いけれど。先進国と発展途上国とがそれぞれの利害をにじませた議論を重ねるだけで、地球環境にとって真に有効な打開策が見出せないもどかしさを感じます。そうしているうちにも、笑い事では済まされないほどの気候変動がどんどん進行していくわけですから。

 いくら暖冬傾向とは言え、やはり外を歩くと体感では十分寒く感じられます。我が街でも季節は確実に冬本番、落葉樹はもうすっかり木の葉を落とし尽くし、冬枯れた裸木となって茫然と立ち尽くしているかのようです。
 そこで当ブログも『いつまでも落葉模様もないだろう』とばかりに、きょう未明ブログ背景を替えてみました。昨年から引き続きご訪問の方々にはおなじみかと存じますが、『本を開きて』。私自身落ち着いたエレガントな感じが気に入っている上、やはり冬は暖かい系に限ります。

 トップ面の「最近の記事」を見てもお分かりのとおり、ここのところ『薬物汚染の拡がりを憂う』記事が連続しています。これは今月7日の押尾学再逮捕という新しい展開を踏まえたものです。世の中の関心が依然高く、同シリーズを載せますと訪問者が断然伸びるため、私もついついその気になって続けて取り上げてしまいます。
 事件記事は、当ブログ開設当初はおよそ考えもしていませんでした。しかしこれも立派な一つのジャンルと言うべきです。押尾事件も木嶋佳苗事件も、今の社会の「相応の理(り)」として起きている面があります。いずれまた掘り下げる機会があるかもしれませんが、他の事件共々小泉政権以降の自公政権末期に起きたものである、これは大きな問題をはらんでいると思われます。
 事件物ですから、興味本位な内容になるのはある程度致し方ありません。しかしただ単にそれのみで終わるのではなく、そこに隠された本質的な部分にまでいかに踏み込めるか。大変荷の重い難しい課題です。

 押尾事件はとにかく「奥が深い」というか「謎、闇が深い」事件です。次々に新事実や新しい事件の関与者が出てきたりします。押尾からMADAを勧められ「次の逮捕者か?」とも噂される“人気モデル”とは一体誰なのか?当ブログで既に名前を出した女性なのだろうか?近いうちの逮捕は本当にあるのだろうか?
 またジャーナリストの勝谷誠彦氏が関西の某番組で漏らしたという「15日を“Xデー”として大物政治家の逮捕がある」というのは、本当の話だろうか?一説には「大物政治家」ではなく単に「大物」だという話もあるけれど。いずれにしても、間近に迫っているのにそんな気配は微塵も感じられないし…。

 押尾学自身にその自覚はなかったのでしょうが、同事件発覚によって今の社会の「ブラックボックス」さらに言えば「現代のパンドラの匣」を開けてしまった感があります。どうやらこの匣には、政界、官界、財界、芸能界、スポーツ界などのあらゆる災いが潜んでいて、それが現に飛び出していますし、これからもなお飛び出してくる可能性があります。
 この際中途半端に蓋をしてはいけません。この事件に関わる真実(膿)は悉く出し切るべきです。その結果あらゆる災いが飛び出して、同事件で最後に残るのは「希望」だけになるでしょうから。

 (大場光太郎・記)

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『坂の上の雲・第2回』を観て

 6日(日)夜8時(90分間)放送の第2回『坂の上の雲』は「青雲」でした。明治17年(1884年)秋山真之(本木雅弘)が伊予松山から上京して1年目の、故郷とは別世界のような東京での生活から始まりました。
 9月真之と正岡子規(香川照之)は揃って大学予備門に合格。2人から報告を受けた真之の兄の好古(阿部寛)は、座右の銘である福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」を引用し、「今後とも自分を甘やかさず勉学に精進せよ」と諭します。

 それにしても「青雲(せいうん)」、久しぶりで目にする懐かしい言葉です。今ではどこぞのお線香の名前としてしか知られていないと思いますが(笑)、私が高校時代を過ごした昭和40年代初頭くらいまでは、まあ何とか社会の一部では通用する言葉だったと思います。「青雲の志し」ーそこには大きな望みを抱くと共に、安直に経済的栄華のみは求めないという、「精神性」をはっきりと「物質性」の上位に置く、どこか硬派な心意気が込められていたように思います。
 まさに当時の明治の新生日本という国も、そして「太政大臣(今の総理大臣)になって帰ってくるぞ」と言って松山を飛び出した子規も、「太政大臣は升(のぼ)さんに譲るけん」と言って後に続いた真之も。自分たちの未来や国の将来に、そんな大きな夢を抱けたわけです。当時といえども多くの難題はあったことでしょう。しかし「幻(まぼろし-ヴィジョンの意)無き国民(くにたみ)は滅びる」(旧約聖書)。国民誰もが将来にヴィジョンが描ける世の中は、幸せな世の中です。

 「一身独立」。これまた良い言葉です。60歳にもなった者が言うのも何ですが、しかし「六十の手習い」という言葉もありますから言いますが、改めて「座右の銘」の一つにしたいくらいです。孔孟の教えの「修身斉家治国平天下」が想起されます。天下を治めようとする者は、先ずもって自分自身の身を修めなければならない。これを述べた福沢には当然その言葉が念頭にあったことでしょう。
 福沢諭吉は若くして緒方洪庵に師事し、師の適塾で“洋学”の重要性に目を開かれました。しかしその素養の中には当然、儒学や論語的なものも備わっていたものと思われます。(なお『福翁自伝』は自伝文学中の白眉です。)

 ドラマからは離れますが。思えば司馬遼太郎の原作がサラリーマンを中心によく読まれたのは、高度経済成長の真っ只中のことでした。日露戦争に到る明治期と戦後の高度経済成長期は、どこか相似形でシンクロしているようなところがあります。方や明治維新の開国によって方や敗戦下の米国統治によって、国の形の根本からの問い直しに迫られます。そして一方は富国強兵というスローガンの下、西欧列強に「追いつき追い越せ」。他方は経済成長をスローガンに欧米先進諸国に「追いつき追い越せ」。原作が大ベストセラーになったのは、そういう時代的共通性が大きかったのではないだろうかと考えられます。
 その意味で司馬遼太郎の原作は、良くも悪しくも当時の高度経済成長政策を追認し、免罪符を与えた側面があります。

 昭和50年代前半の頃、当時の会社の上司でなかなかの読書家がいました。司馬遼物もけっこう読破していたよし。ある時私は聞きました。「“竜馬がゆく”と“坂の上の雲”、読むとしたらどっちがいいですかねぇ」「そりゃぁ“坂の上の雲”だよ」。その先輩は即答しました。
 それが心の片隅に残っていたのかどうか。私は40代前後「バブル崩壊」の頃、つまり司馬遼ブームはとうに過ぎた頃『坂の上の雲』を読んだのです。文春文庫で7、8冊、一冊がまた分厚くてなかなか読み応えがありました。しかし一旦読み出すと、これが手に汗握る面白さで、苦もなく短期間で読み終えました。重要な箇所には赤線を引きながら。
 しかしその後はついぞ読み返すことなく、何年か後に全部処分してしまいました。ドラマ化された今となっては残念至極ながら、その時の私は「もう用済み」と判断したもののようです。

 話を戻して。この回は「明治の青春」が実によく描かれていたと思います。その格好のサンプルが、我が国で初めてと言っていいくらい早期に「野球」に熱中した正岡子規であり、大学予備門から子規の親友となった塩原金之助(後の夏目漱石)であり、秋山真之であったわけです。後のエゲレス(英国)留学でノイローゼになって帰国する漱石も、この頃は青春を謳歌していたようです。
 バンカラで自由闊達な彼らは、寄席や江ノ島への無銭旅行も敢行します。予備門から東京帝国大学へと進んだ子規と真之は、一時期下宿を共にし切磋琢磨して勉学に励みます。

 しかしそんな中で互いの進路はおのずと決まって行き、それぞれが「一身独立の道」を歩み始めることになります。子規はやがて、太政大臣コースから大きく逸れた「俳句に新風を吹き込むこと」に己(おのれ)の活路を見出します。真之は学者になっても二流にしかなれない自分の限界を悟り、すぱっと東京帝大を中途退学し海軍士官学校へ。そして東京を離れ広島の海軍港江田島へと赴任して行きます。
 秋山好古は、旧松山藩主がフランス留学するに当たって共に行ってくれるよう頼まれ、引き受けます。当時軍事はプロイセン(ドイツ)式が主流でしたから、プロイセンに敗れたフランスに行くことは出世コースから外れることを意味していました。しかし「万事塞翁が馬」というもの、何が幸いするか分かりません。何とフランス騎馬隊はプロイセン騎馬隊を凌いで、世界トップレベルだったのです。それを吸収した好古が組織した日本騎馬隊が後に、当時世界一と言われたロシア騎馬隊を死闘の末撃破することになるのです。

 (大場光太郎・記)

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師走だより(1)

   裏道は風の道なり落葉焚(た)き   (拙句)

 きょう4日はきのうの雨とうって変わって、すっきりした晴れの一日となりました。青い空に時たま白い雲が浮いているだけの快晴といってよい天気です。西の大山の秀麗な姿もくっきりと見てとれます。
   烏啼(からす・な)きて 木に高く
   人は畑(はた)で 麦を踏む
   げに小春日の のどけしや
   かえり咲(ざき)の 花も見ゆ   (文部省唱歌『冬景色』2番)
 昔懐かしい歌が蘇ってきそうですが、「小春日」というには少し風が冷たいようです。この風は、太平洋の遥か北方洋上に発生した低気圧の影響で、そのため北海道から関東地方にまで冷たい風、つまり“北風”が吹きつけてきているためなのだそうです。

 最近は気象衛星からのデータ送信により、日本列島のみならず北極を中心としたユーラシア大陸、北米大陸など北半球全体の冬の予報天気図が示されることがあります。それによりますと現時点で日本列島は、寒気の帯から外れているようです。大寒気団は北極圏からシベリアや中国北部の大陸にずれて伸びているのです。
 それに今度は太平洋の南海上に、この季節には珍しい台風の名残りのような温帯低気圧もあり、それが日本列島への北の寒気団の侵入を阻止している按配のようです。そのため少なくとも年内またはここ何週間は、そう極端な寒さにはならないだろうとみられています。

 もう「木枯らし1号」は吹いたのでしょうか?今年は明らかに木枯らしを思わせるような強風は吹かずじまいだったように思うのですが…。
 ただ12月ともなると、桜並木などはおおむね葉を落とし黒々とした枝の向こうに、きょうの青い空が透けて見えるばかりです。そうして道の端などに吹き溜まった落葉が、風にあおられて舞い上がるさまは、何やら「滅び」の哀れを感じさせます。

 そういえば先月下旬、郷里の2軒の親戚から、ラ・フランスとリンゴがそれぞれ送られて来ました。年末恒例です。リンゴはともかく、ラ・フランスは意外とお思いかもしれませんが、共におらが郷里山形県南陽市の産なのです。
 もっとも私が子供時分は、ラ・フランスなどというシャレたものではなく「洋梨」でした。何となく“子だるま”のような少しユーモラスな形をした梨でした。しかし味は、ラ・フランスと少しも変わりなかったように我が舌は記憶しています。
 ちなみにうちの郷里は、ミカンやバナナやといった南方系の果物こそないものの、桜桃(さくらんぼ)、ブドウ、スイカなど果物類は豊富にありました。他に何も誇るものはありませんが、それら自然の恵みだけは他の地方に負けていなかったと思います。
 郷里では11月初旬文化の日を過ぎたあたり、一度雪が降ったそうです。今はもちろん消えていますが、例年よりも早い初雪で…。電話でそんな故郷の話を聞くことも、年末の贈答の楽しみです。

 午後3時前いつもの中津川堤に降りてみました。近頃居住地近くに246号に接続する道路が開通したため、最近では本厚木方面に行くのにその道を利用し、中津川沿いの裏道はすっかり通らなくなっていました。
 久しぶりで来てみると、中津川はもうすっかり冬ざれた景色です。10月初旬には少し下流の大堰の水門が開けられ、川は幅が10m以下に狭まり細く白々と流れています。東の中空の白い雲の塊りが水面(みなも)に冷え冷えと映っています。川から向こうは、干上がった中州が陸地のように広々と続いています。その砂地の部分に季節外れの青々とした草が生えて広がっていました。

 上流から流れ着いて中州の真ん中辺りで止まって、去年は緑の葉を繁らせていた流木も、今ではすっかり枯れ切っています。水に浸かっていない今は、西日を浴びて何やら悲しげな白い骸(むくろ)のような幹となって横たわっています。
 こちら岸にも中州の上流側にも向こう岸にも、もうすっかり枯れ果てた葦が連なっています。時折り吹きつのる北風にカサコソと音を立てながら揺れるばかり。天辺の穂波がことのほか大きく揺れています。
 時折り川向こうで、カラスの野太い鳴き声が聴かれるかと思えば、どこか知れない所から微かな小鳥のさえずりが聴かれることもあります。

 冒頭の句は、もう7、8年も前に作ったものです。中津川方面に向かう裏道の、今頃の風物を詠みました。ある曇りの午後、その道に車でさしかかると、その道を伝って上手(北)から煙がもくもく流れてきたのです。その辺は昔ながらの旧農家が立ち並んでいます。各屋敷内には樹木がいっぱい繁っており、この季節落葉の手入れも大変なことでしょう。
 だから私はその煙から咄嗟に「落葉焚き」を連想し、あまり苦労なく出来た一句です。これが数年前の「俳句の国三重“風の一句”」で佳作入選したのです。都合20句ほど応募し、私のお気に入りは実は別の句でした。しかし分からないもので、この句が選ばれたわけです。審査員にしてみると、「裏道を伝って流れる“落葉焚き”の煙がよく見える句だ」ということだったのでしょうか。
 なお毎年の「風」「水」「山」「音」「遊」などのテーマごと、角川学芸出版社から一冊の本として発行され、最優秀賞から佳作までの作品が収録されています。当ブログが忙しくなって、去年から応募できずにいます。

 (大場光太郎・記)

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「流行語大賞」に思うこと

 こういう話題を目にし耳にすると、『あヽもう師走か。今年も後わずかで終わりなんだな』と実感させられます。『09ユーキャン話題・流行語大賞』の表彰式が1日都内で行われたというのです。最終的にトップテン入りした中から、今年の流行語大賞に選ばれたのは「政権交代」。
 8月30日の総選挙で、民主党だけでも単独過半数を遥かに超える308議席という大勝利を収め、自公政権から民主党中心の鳩山連立政権へ。政権交代が現実のものとなりました。国民の圧倒的な支持を受けて誕生した新政権だけに、この「政権交代」が流行語大賞になるのは十分予測できました。

 そういえば選挙期間中は、我が街の到る所でも、「政権交代」という4文字を大書したポスターが掲げてあるのが目につきました。それにしても4年前は「郵政民営化、イエスかノーか」そして今回は「政権交代」。“ワンフレーズポリティックス”と揶揄(やゆ)気味に論評されたように、近年はこのような短くて分かりやすい政治用語が「国民受け」する傾向にあるようです。

 そもそも「ワンフレーズポリティックス」を最初に言い出したのは、誰だかご存知でしょうか?他ならぬあのアドルフ・ヒットラーなのです。確かヒットラーの自著『我が闘争』の中でだったかと思いますが、「大衆は難しい理論を訴えても分かりはしない。そこで、耳になじむ簡単な言葉を繰り返し呪文のように訴え続けることが必要なのだ」と説いています。
 それを文字通り実践したのが、ナチスの宣伝相だったヨーゼフ・ゲッペルスです。ゲッペルス演出のヒットラー演説に当時のドイツ民衆がどれだけ熱狂したか、そしてその後どうなっていったかは歴史の示すとおりです。

 小泉元総理の懐刀といわれた飯島勲総理秘書官あたりが、小泉政権を長期化するため『我が闘争』を参考にした形跡があります。その直接的成果が「郵政民営化、イエスかノーか」であり、「政権交代」もその間接的影響下にあったとすれば…。
 私たちは時々の権力者から「愚民」「愚衆」と侮られないためにも、ワンフレーズなコトバの繰り返しは今後とも「要警戒」と考えた方がよさそうです。

 今年の流行語大賞を受賞しましたが、政権交代がなって3ヶ月余経過した今、肝心の鳩山内閣は四苦八苦です。まず鳩山首相自身の偽装献金問題では、次々に新たな疑惑が明るみに出され弁明に大わらわです。野党に転落した自民党はこの時とばかりに、実母から5年間で9億円にも上る資金提供がなされた件を突いて、「まるで偽装こども手当てだ」と攻め立てています。
 それに対して、今や鳩山内閣中最大の名物大臣・亀井静香金融担当相は、「首相は政治献金の問題で辞めることは絶対ない。もしあるとすれば、景気対策を間違えた時だ」と妙な確信をもって断言しました。(ちなみに、早くも一部観測筋からは「鳩山の次は亀井だ」というような話も漏れ伝わってきています。)

 やはり何といっても、現政権にとって焦眉の急なのが「景気対策」です。他にも難問山積ですが、これ一つ取ってみても、ここに来て降って沸いたような「ドバイショック」がまたも全世界を駆け巡り、我が国も80円台前半という超円高、そして株価は1万円台を割り込んでしまって。その上またぞろデフレスパイラルに陥りそうだというし…。
 国民消費者の多くが、「近々二番底が来るんじゃないの?」と不安に怯えて消費を手控えています。新政権発足間もないので致し方ありませんが、(他の分野でもそうですが)とにかく「対応が遅い」気がします。特に景気対策の分野では、スピーディに有効な手を打っていかないと大変な事態も招きかねません。景気の不透明感によって国民消費が落ち込む、景気がますます悪化するという悪循環では困ります。

 時に「内閣不一致」と非難されるほど、各閣僚が自由に発言しています。それはいいとして、それをまとめ意見集約する「司令塔」となる人物が不在のようです。それが内閣としての意思決定が定まらず、もたついた印象を与える大きな要因のように思います。結局は鳩山首相のリーダーシップに帰着することながら…。

 その他流行語のトップテンには「こども店長」「事業仕分け」「新型インフルエンザ」「草食男子」「脱官僚」「派遣切り」「ファストファッション」「ぼやき」「歴女」が選ばれました。
 「こども店長」は、当ブログ記事『天地人シリーズ』でも度々取り上げましたが、直江兼続の幼少時代の与六を演じた加藤清史郎君。「こんな所来とうなかった !」の名ぜりふは全国のお茶の間の喝采と涙を誘い文句なしです。またそれに関連して「歴女」。しかしだからといって、「レキジョ(歴史大好きОL)」におもねって、大河ドラマにイケメン俳優ばかりをずらっと並べてはいけません。ドラマが壊れてしまいます。

 「草食男子」。若い頃から気弱な草食男子系だった私としては、「肉食女子」の恐るべきパワーと逞しさ、骨身にしみて分かっておりますです、ハイ。「脱官僚」。これこそがまさに政権交代の意義の一つでした。「官僚支配」では、世の中どうにも立ち行かなくなっていることはもう自明の理です。しかし政治家vs官僚のバトル、せめぎあいは当分続いていくのでしょう。「ぼやき」。野村克也ファンの私は、元監督の試合後の“名ぼやき”たっぷり聞かせてもらいました。残念なのは私が予想した、野村楽天vs落合中日の日本シリーズがとうとう見られなかったことです。原巨人と梨田日ハムという逆目になってしまって。結果読売巨人軍の7年ぶりの日本一だそうで、一応「おめでとうございます」。しかし漏れ聞くところでは、読売総帥の渡辺恒雄が何かの会で「巨人は“V10”する」とぶち上げたとか。これには「ぼやき」を通り越して「怒り」を覚えます。

 また結果としてトップテン入りはしませんでしたが。年初から『薬物汚染シリーズ』など事件モノを扱ってきた私としては、その関連のコトバも入れてほしかったなと思います。
 例えば「MADA」「事件性なし」「のりピー失踪」「結婚詐欺」「婚活サイト」「睡眠導入剤」「練炭」「市橋ギャル」等々。しかしそれでなくても暗い世相、これ以上暗くなるようなコトバを取り上げるのはマズイ、という高度な判断が働いた結果外されたものなのでしょうか?

 (大場光太郎・記)

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『坂の上の雲』第1回を観て

 NHKが“プロジェクトJAPANスペシャルドラマ”と銘うって、鳴り物入りでスタートした『坂の上の雲』(第1部)第1回目。
 「鳴り物入り」というのも、同ドラマの制作発表は7年も前のこと、撮影期間も既に3年もの長期に及んでいる超大作だからです。そしてロケ地は現在ロシア、中国、イギリスなど海外8ヵ国と国内22都道府県にも及ぶスケールです。それに1話90分当たりの制作費は1億円規模、通常の大河ドラマ1話当たり6千万円を軽く超えています。
 全3部-13話を3年かけて逐次放映していく予定です。ちなみに今年は年末の27日(日)まで<第1部>5回分が放映されます。

 29日(日)夜8時から始まった第1話は、やがては日露戦争へとうねりのように高まっていくこのドラマのプロローグでした。欧米からは「サル」と揶揄されながらも、その欧米列強をおおまじめで見習い、近代国家としてスタートしようとしていた明治新政府。そんな明治期の青春群像のモデルケースとして、伊予松山藩士の3人の子弟たちがこの物語の主人公です。元下級藩士で愛媛県庁のお役人の秋山久敬(伊藤四朗)の長男の秋山好古(阿部寛)と弟の秋山眞之(本木雅弘)。そして少しましな元上士・正岡常尚の長男の正岡子規(香川照之)。

 第1回の「少年の国」は、松山でのまさに少年時代を中心に描かれていました。このドラマは特に秋山真之を中心に進めていくようですが、真之らの破天荒なやんちゃぶりには、我が子供時代も懐かしく思い出され、『オレももっと羽目を外しておけばよかったなあ』と思わせられました。(ただし「少年の国」の本意は、当時の日本は帝国主義の真っ只中の西欧列記という「大人」たちに囲まれた「少年の国」ということのようです。)
 秋山兄弟の父役の伊藤四朗そして母役の竹下景子。なかなか良い味を出していました。それに子規の母(原田美枝子)と妹(菅野美穂)は、後に予期せぬことで共に上京することになります。

 ところで3人の出身県の愛媛県松山市は、同ドラマで大盛り上がりのようです。作品ゆかりの地を巡るツアーが企画され、箱モノ施設「坂の上の雲ミュージアム」は休館返上の大忙し。日銀松山支店は、ドラマ化の経済効果を150億円とはじき出しているそうです。

 この3人、後にいずれも近代日本史に残るような偉業を各人の立場で打ち立てていくことになります。しかし曲がりなりにも「武士」という当時の特権階級の出ではあったものの、どちらかというと下級武士の子せがれたち。そして幕末・明治維新という動乱によってそんな身分保障も吹っ飛んでしまいました。そんな立場の士族の子供たちは、全国的に他にも大勢いたわけです。
 ドラマでは、彼らの暮らしの貧窮ぶりを余すことなく伝えています。彼らだけが予定調和的に「銀のスプーン」をくわえて生まれてきたわけではない。なのになぜ傑出した事業を為すことが出来たのか?伊予松山藩は進取・独立の気風が他藩に勝っていたのだろうか?ドラマの進行と共に探ってみたいところです。

 しかしいくら下級武士の子せがれとはいっても、貧乏町人や百姓の子せがれと決定的に違う点が一つだけあります。彼らには長ずるに及んで「学問」をする機会が与えられていたことです。「学問、知識、情報が“世界”を制す」というもので、後は本人の「向学心の有無」の問題だけで、当時の一般大衆に比してこの差は決定的だったはずです。
 そのとおり、3人とも10代半ば過ぎ次々に故郷松山を後にし東京に上って行きます。好古は大阪師範学校から東京の陸軍士官学校へ。子規と真之は東京帝国大学予備門へ。

 第1回後半は、東京での彼らの生活ぶりに移ります。開化期がやや過ぎた明治20年に少し前の、和洋折衷式の変てこな帝都の姿も垣間見られて興味深いところです。秋山兄弟が下宿しているのは、格式高い旧旗本の佐久間正節家のお屋敷で、後に好古の妻となる深窓の令嬢多美(松たか子)もいます。
 予備校の神田共立学校の英語教師が、何と後の「だるま宰相」高橋是清(西田敏行)で。子規は帝大で後に夏目漱石と無二の親交を結ぶはずで、第2回以降がいよいよ面白くなりそうです。

 なお何でも同じ時間、裏では(逆の立場からすれば『坂の上の雲』こそ裏かもしれない)、「因縁の対決」といわれた内藤大助vs亀田興毅のWBC世界フライ級タイトルマッチが中継されていたようです。今回は派手なパフォーマンスもなく、終始落ち着いた試合運びをした亀田が、12回3-0の判定で、チャンピオンの内藤を破ったとか。亀田にとってはこれでライトフライ級に次いで悲願の2階級制覇を達成したわけで、まずはめでたし、めでたしでしょう。(ただし亀田の真価が問われるのは、次の防衛戦か?)
 同試合があるというのは何となく分かっていました。亀田ファンには大変申し訳ないながら、『あのクソガキが』という思いが強い私はとても見る気がしませんでした。内藤も薬物の噂がちらほらあるし…。しかし世間一般は決してそうではなかったようです。同中継の視聴率が、当節としては驚異的な「43.1%」を記録したとか。『坂の上の雲』などは録画でも再放送でもいつでも観られる、しかしああいう試合はリアルタイムで観てこそのもの。その差だったのでしょう。ここのところ不振にあえぐTBSとしては、「亀田様々」といったところでしょうか。

 最後はとんだ余談になってしまいました。『坂の上の雲』次回が楽しみです。

 (大場光太郎・記)

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かなえの殺人レシピ(11)

 佳苗の生い立ち(1)ー絵に描いたような名家の優良少女

 木嶋佳苗(きじま・かなえ) 1974年(昭和49年)11月27日北海道中標津(なかしべつ)町生まれ(?)。小学校3年時、隣町の別海町(べつかいちょう、べっかいちょう)に移り、以後高校卒業時まで同町で育つ。

 佳苗が小学3年から過ごした別海町は、北海道東部(根室支庁)に位置する人口1万6千人ほどの町です。東の海岸線の向こうには北方領土の一島・国後(くなしり)島が浮かんで見えます。町の西部には、陸上自衛隊北部方面隊第5旅団別海駐屯地(矢臼別演習場)が置かれています。南は根室市、浜中町、厚岸(あっけし)町、西は標茶(しべちゃ)町、北は弟子屈(てしかが)町、中標津町、標津町と接しています。ただし別海町役場から中標津の中心街までは30km以上離れており、他の市町もほぼ同じようなオーダーです。町の西の方向数十kmには釧路湿原、ほぼ同じ距離で北西には摩周湖があります。(「北海道東部地図」
 道内では5番目に大きな市町村で、町の大半は原野を切り開いた丘陵地帯です。写真などで町の遠景を見ますと、町外れには広々とした牧草地が広がり、木立の中に西洋風の瀟洒(しょうしゃ)な家並が連なっている、どこか北欧の町が連想されるようなシャレた町並みです。同町は牛が12万頭もいるような酪農の町でもあるようです。

 別海町を地盤とする父方は、同地方では名家とみなされる家系でした。母方の実家は中標津町ですが、父方のようにはよく分かりません。ただ、そこそこの家柄であろうことは推測できます。
 父方の祖父は同町で長く司法書士事務所を経営しており、町議会議長を3期も務めた名士です。また同氏は今秋急死した元財務相・中川昭一氏の同町の後援会長的立場でもあり、ビザなし北方領土訪問団団長を務めたこともあるといいます。
 同氏は1999年(平成11年)秋の叙勲で、勲五等双光旭日章を受賞。翌年の1月14日にはウェラプラザ別海にて受賞記念祝賀会が催され、町内外から100名が出席、発起人の一人だった当時の町長が祝辞を述べています。

 父親は行政書士。(佳苗の)祖父の業務を補佐するため、それまでの勤務先を退職して中標津から一家で引っ越すことになったものと思われます。母親はピアノ講師。2人の間に長女の佳苗を筆頭に、1男3女4人の子供をもうけました。
 母親はもとより父親もまた料理好きで、佳苗が子供時代は「毎日のように家族中で手の込んだ料理を作ったり、また毎年近所の写真館で家族写真を撮っていた」とは当時を知る近隣住民の話です。

 母親がピアノ講師であったことから、当然子供たちにもピアノは教えたことでしょう。父親もクラシック好きで、父方の祖母も昔は中学校の音楽教師だったといいます。(そのような経歴からか、佳苗は上京後、肩書きの一つとして「ピアノ講師」を名乗っていました。旅行先のホテルで見事なピアノ演奏を披露したこともあったようです。)
 祖父の肩書きといい、家庭内の暮らしぶりといい。まるで絵に描いたような、人も羨む名流家庭ぶりが浮かんでくるようです。

 「しかし」と、ある近隣住民は話します。「家庭内でのしつけは厳格を極めた」と言うのです。(たいがいの名家にありがちですが)特に母親が事のほか教育熱心で、下の弟妹たちが小学校時代にはPTAの役員を務めていたそうです。
 その住民は続けます。「教育熱心なあまり、あの家にはテレビがなかった。子供の小遣いもなし」そのため見かねて「子供が欲しがってるんだから、テレビくらい買ってやんなよ」と父親に言ったこともあったそうです。その甲斐あってか、子供たちはみな成績優秀。特に長女の佳苗は両親にとって「自慢の子」だったようです。

 そんな厳格な家庭の子女として育った佳苗はどんな子だったのでしょう?
 佳苗の当時を知る同級生は、「小学校時代はおとなしくて勉強ばかりしていました。みんなでワイワイ遊んでいても、彼女は隅の方でポツンとしていた」と話しています。しかし佳苗は親の厳しいしつけと勉強の甲斐あって、別海町立中央中学校へ進むと順調に成績を伸ばしていきます。「授業中一人だけ高校のドリルをやっていました。先生も彼女だけは別格扱いだった感じです」とは、中学時代の同級生の話です。
 小学校時代から町の感想文コンクールでたびたび賞を取り、中学2年時は最優秀賞を受賞。町の広報誌に名前が載ったのも一度や二度ではなかったと言います。

 事件発覚後、テレビなどでも中学卒業時の文集の一部が公開されました。同文集には、「特技 ピアノ・食べること・寝ること」「趣味 読書・料理・映画鑑賞」と前書きがあり、続いて長い本文が続きます。とても中学生とは思えない大人びた文章です。一部を以下に引用します。
 
 …中学校生活を振り返ってみると、(略)実にいろいろな事があったものだ。一時は組織の中で部品化しているような大人達に、善人顔して、教育という名の嘘を教えられている様で耐えられなかった。そんな私に「もっと素直になれ、素直になれ、やってみろ」と教えてくれたのが、映画であり、音楽であり、絵画であり、先生達であったのかもしれない。

 この三年間、さまざまな「出逢い」と「別れ」があった。どれもすばらしい、大人へのステップになったと思う。いろいろな人と接するということは、自分が「世間」を広げるために、本当に大切なことだと思う。私の世間というのは、まだ別海町でしかない。でも、だんだん広がっているような気がする。広がれば物の見方が変わってくる。

 人間は決して一人では生きていけない。つくづく考えさせられた。だから、集団生活での決まりというものは必ず守らねばならない。守らないからこそ、大人達はより厳しいきまりをつくる。守っている者にとってこれほど迷惑なことはないし、大人達だっていい気はしないだろう。自分の考えを通すということと、自分勝手とは違う。自分がそこに生存していることを考えて、かつ、位置を見極められる人間にならなければいけないと思う。……。
 (木嶋佳苗『別海中央中学校卒業文集』より←全文が読めます) (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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