落葉
ヴェルレーヌ
秋の日の
ヴオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。
鐘のおとに
胸ふたぎ
色変へて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。
げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。
(上田敏訳詩集『海潮音』より)
…… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
ポール・マリー・ヴェルレーヌ 1844年3月30日~1896年1月8日。フランスの詩人。ステファヌ・マラルメ、アルチュール・ランボーらと共に「象徴派詩人」と呼ばれる。多彩に韻を含んだ約540篇の詩の中、絶唱とされる詩を含みながら、その人生は破滅的であった。その一生には、酒、女、神、祈り、反逆、背徳、悔恨が混在していた。晩年には「デカダンスの教祖」と仰がれたが、初期の作品の方が評価が高い。 (フリー百科事典『ウィキペディア』より)
今手元に一冊の文庫本があります。角川文庫。上田敏訳詩集『海潮音・牧羊神』です。高校2年生の頃、母校のあった長井市内のある書店で求めたもの。もう40年以上前のことです。今思えばずいぶんもったいないことをしたと思いますが、私は後になって懐かしい思い出につながるような、本も含めた品々をこれまで数多く処分したり散失させてきました。どうもそういうものに、あまりこだわらない性質(たち)のようです。
そんな中で、国木田独歩の『武蔵野』や『立原道造詩集』といった当時求めた本と共に、辛うじて残っている何冊かの一冊です。
当時文庫本は今のようにシャレたカバーではなく、半透明のセロファン紙状のカバーがしてあっただけの廉価なものでした。そんなカバーなどとっくの昔にとれて、本体がむき出しの文庫本です。
パラパラとめくるとずいぶん変色してしまっていて、40余年の歳月の長さを偲ばせます。本の奥付(おくづけ)を見ますと、「昭和二十七年一月三十日初版発行 昭和四十年五月三十日二十一版発行」とあり、「定價百圓」とあります。『落葉』以外にも『山のあなた』『花のをとめ』など十篇以上の詩に「レ」を入れています。ある詩には下手くそな字で書き込みも入れてあります。
今はどうか分かりませんが、昭和30年代当時『落葉』は有名な詩で、学校などで教わらずとも中学生の時既に知っていました。
私は東北の片田舎町の出身です。18の時まで郷里で過ごしました。そして現在は神奈川県県央地区にある市に住んでいます。なぜそんなことを持ち出すのかといえば、郷里と当地での、晩秋から初冬にかけての紅葉、落葉のさまがまるで違うからなのです。もちろん東北の郷里での紅葉、落葉の方が段違いに色鮮やかなのです。それは時にハッと胸を衝かれるような鮮やかさです。比べて当地は標高低くめったに雪も降らないことから、郷里よりずっと季節感に乏しく、紅葉などもどこかくすんだ冴えない色です。
これは気温が違うからなのでしょう。秋の深まりと共に、厳しい秋冷の気候が、より鮮やかな色に木々の葉を染め上げるのでしょうか。
そんな郷里のさまでしたから、余計この季節この詩が、深く少年時の私の胸に迫ってきたのでしょう。「ヴオロン(バイオリン)」や「鐘のおと」という西洋的な響きのする詩的言語から、19世紀末の巴里(パリ)の色鮮やかな落葉散り敷く街並みを、当時の私はどれだけイメージ出来ていたものか?
ただ何となく、落葉舞い散る季節にバイオリンの音色はふさわしいと感じていたようです。木立に囲まれたさる洋館から、誰が奏でるのだろう、物悲しい旋律が木立をぬって広がり、落ちて散り敷く落葉をさらに悲愁の色に染め上げていく…。そんなことを漠然とながら感受していたようです。
そしてバイオリンの哀切極まりない旋律が、この詩全体を通して流れているようで…。詩人の境涯を「ここかしこ さだめなく とび散らふ」落葉に仮託しているのならば、聴こえてくるバイオリン曲はどんな曲なのだろう?今の私には、『タイースの瞑想曲』あたりがふさわしいのかなと思うのですが…。
(大場光太郎・記)


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