湖のある村

            秋谷  豊

  村は月夜だった
  高原の潅木に山鳩が啼く
  小さな停車場
  木柵に白い蝶が眠っていた

  こぶしの花を一輪
  吊りランプのようにさげ
  湖を迂回して
  湖水の見えるさびしい宿で
  遠い友へ手紙を書いた

  部屋のランプが
  湖に映って消える
  ぼくの掌には一匹の傷ついた
  蛾があった

…… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《作者略歴》
 秋谷豊(あきたに・ゆたか) 1922年11月2日- 2008年11月18日。日本の詩人。詩誌「地球」の創刊者。埼玉文化功労賞受賞者。 
 詩誌『地球』の同人で、戦後詩人としての通例に洩れず、その叙情の中に、実存的な思念を投影させている。この詩は、彼の作品の中では特に叙情性の勝ったもので、その郷愁に満ちた詩風は『四季』派の詩風と共通し、その影響の跡を物語っている。 (ウィキペディア&『日本の名詩』小海永二編、大和書房刊より)

《私の鑑賞ノート》

 村は月夜だった

 詩人が目指す村の小さな停車場に着いた時、既に月夜だったというのである。よってこの詩全体がこの村における夜の描写である。月のほの明かりに浮かび上がる高原の村そして湖にほど近き宿。全編にリリシズム(叙情性)が漲っているように感じられる。

 こぶしの花を一輪
 吊ランプのようにさげ
 湖を迂回して

 小さな停車場から一夜の宿を求めて、人気(ひとけ)なく灯り(あかり)も乏しい村道を湖の向こうにあるはずの宿を目指して歩いたのである。まるで月の光からさえおすそ分けしてもらいたい心細い気分だったのだろうか。道の途中で手折ったこぶしの白い花の一輪を吊ランプ代わりに提げながら。

 湖水の見えるさびしい宿で
 遠い友へ手紙を書いた

 部屋のランプが
 湖に映って消える

 この聯(れん)は、かつて高峰三枝子が歌った名曲『湖畔の宿』(昭和15年、佐藤惣之助作詞、服部良一作曲)の3番の一節、「♪ ランプ引きよせ ふるさとへ 書いてまた消す 湖畔の便り」を連想させる。「湖水の見えるさびしい宿」「手紙」「ランプ」などの詩句から、秋谷豊にはこの歌のこの一節が念頭にあったのは確実と思われる。

 とはいえ、この詩は秋谷独自の詩となっており、模倣とか盗作には当たらない。先行する優れた詩歌や歌詞などは、後進の表現者に有形無形の影響を及ぼすものなのである。

 昭和15年とこの詩が作られたと思しき昭和20年代後半とは、戦争、敗戦で截然と区分されがちである。が、地方に行けば行くほど人々の暮らしはさほど変わらなかったことを偲ばせる。特にこの詩の舞台のような高原の村では電化生活などお呼びもつかず、ランプ生活が当たり前だったのである。なお、「ランプ」はこの詩全体の叙情的仕掛けとして欠かすことの出来ない要素であるように思われる。

 ぼくの掌には一匹の傷ついた
 蛾があった

 結びのこの聯は秋谷豊自身の実体験だったのだろうか。つまり実際に湖を回ってきた道の途中で傷ついた蛾を見つけ思わず掌(てのひら)にそっと包んで歩いた…。それとも実際の蛾ではなく、詩人が思い描いた想像上の蛾だったのだろうか。

 それはどちらでも構わないのだが。実は「一匹の傷ついた蛾」とは、詩人秋山豊の心の投影なのである。さらに言えば、傷ついた蛾は詩人の分身なのである。かつて大きな戦争に遭遇したこと、厳しい戦後生活での喜怒哀楽。その過程で詩人の心も深く傷ついたのではないだろうか。

「湖のある村」「湖水の見えるさびしい宿」は、そんな詩人の心をつかの間癒してくれたのであろう。だからこのような優れた詩が生まれた。

 (大場光太郎・記)  

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杜甫『吹笛』

  吹 笛      (すいてき) 

      杜甫

吹笛秋山風月淸  笛を吹く 秋山 風月の清きに
誰家功作斷腸聲  誰家(たれ)か功みに作(な)す 断腸の声
風飄律呂相和切  風は律呂(りつりょ)を飄(ひるがえ)して相い和すること切に
月傍關山幾処明  月は関山に傍(そ)うて幾処(いくしょ)か明らかなる
胡騎中宵堪北走  胡騎(こき) 中宵(ちゅうしょう) 北走するに堪(た)えたり
武陵一曲想南征  武陵(ぶりょう)の一曲 南征を想う
故園楊柳今揺落  故園の楊柳(ようりゅう) 今揺落(ようらく)す
何得愁中卻盡生  何ぞ愁中に卻(かえ)って尽(ことごと)く生ずるを得し

…… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……

 杜甫(712-770)。盛唐の詩人で李白と並び称せられ、中国詩史の上での偉大な詩人である。字は子美(しび)。少陵(しょうりょう)または杜陵と号す。洛陽に近い鞏県(きょうけん)の生まれ、7歳より詩を作る。各地を放浪し生活は窮乏を極め、安禄山の乱に賊軍に捕らわれる。律詩に巧みで名作が多い。湖南省潭州(たんしゅう)から岳州に向かう船の中で没す。年59。李白の詩仙に対して、杜甫は詩聖と呼ばれる。

(大意)
 秋の山の風も月も清らかにさえわたる夜、笛の音が聞こえてくる。誰がこれほど巧みに、人の腸(はらわた)をかきむしるように物悲しい音を吹きならすのだろうか。
 風は律呂の響きをひるがえして調和もとれ、月は関山によりそうて、幾つかの峰にさえわたっている。
 このような笛の音を聞けば、晋の劉琨(りゅうこん)の故事のように、手荒い胡の兵も悲しみに堪え切れず、夜中に北方の故郷へ逃げ去ったであろう。また後漢の馬援が武陵に遠征した時、部下の曲に合せて歌った「武陵深行」という曲もこのように悲しいものであったろうか。

 故郷の柳も秋になって葉も落ちつくしたであろう。それなのに今巧みな「折楊柳」の曲をきくと、愁いにふさがる私の胸の中に緑の柳の芽を出させ、その枝を折って別れのなげきをくり返すことが出来ようか。

《私の鑑賞ノート》
 杜甫晩年の作品です。
 以前の『登岳陽楼』で見ましたように、安禄山の乱(755年~)以降唐の国の蓑退にシンクロするように、杜甫の運命も激変します。以来、家族を伴って諸国を放浪する「漂泊の詩人」となるのです。

 定めなき放浪・漂泊の苛酷な人生によって、肺腑を抉るような悲嘆、悲愁の詩が生み出されました。お遊びの戯文調ではない、真実の心の叫びの詩が、杜甫によって切り拓かれたのです。

 杜甫一家は、蜀(しょく)の都・成都でやゝ安住を得、何年かを過ごしました。
 しかし(西暦)765年成都を去り、長江上流域にあたる三峡を下って768年、虁州(きしゅう=現在の奉節県)に移り、この地に滞在しました。その年のある秋の夜、哀れな笛の音を聞いてこの詩を作ったのです。杜甫55歳でした。『唐詩選』にも所収されています。

 漢詩はなべて、今の私たちには難解な語句が散りばめられているものです。この詩も例外ではありませんが、切りがありませんので一つだけ、「律呂(りつりょ)」について注釈します。

 律呂は、当時の音階です。全体を陰陽の二つに分けた十二音階から構成され、陰を呂(六呂)陽を律(六律)としていました。
 誰(た)が吹く笛か知らねども。(「・・今宵名残りの白虎隊」の名調子はこの詩をもとに作られたのでしょう、きっと)断腸の笛の音に合わせて、風さえ「律呂を飄して相い和」して吹き過ぎる、というのです。

 この詩の悲愁が極まると、この地から長江をなお下った岳州(現・湖南省)の洞庭湖畔の岳陽楼で詠んだ最晩年の『登岳陽楼』になるわけです。

 (大場光太郞・記)

関連記事
杜甫『登岳陽楼』
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杜牧『江南春』

    江南春        (江南の春)

        杜牧  

  千里鶯啼緑映紅  千里鶯啼(うぐいすな)いて 緑紅(みどりくれない)に映ず
  水村山郭酒旗風  水村山郭(すいそんさんかく) 酒旗(しゅき)の風
  南朝四百八十寺  南朝(なんちょう)四百八十寺(しひゃくはっしんじ)
  多少楼台烟雨中  多少の楼台 煙雨(えんう)の中

…… * …… * …… * …… * …… * …… * …… 
 杜牧(とぼく)、803年~853年は中国晩唐期の詩人。晩唐の繊細な技巧的風潮を排し、平明で豪放な詩を作った。風流詩と詠史、時事諷詠を得意とし、艶麗と剛健の両面を持つ。七言絶句に優れた作品が多い。杜甫の「老杜」に対し「小杜」と呼ばれ、また同時代の李商隠と共に「晩唐の李杜」とも称される。 (『ウィキペディア』-「杜牧」の項より)

《私の鑑賞ノート》
 この詩の模範的な現代語訳は以下のとおりです。

   見渡すかぎり広々と連なる平野の、あちらからもこちらからも鶯の声が聞こえ
   木々の緑が花の紅と映じあっている
   水辺の村や山ぞいの村の酒屋のめじるしの旗が、春風になびいている
   一方、古都金陵には、南朝以来の寺院がたくさん立ち並び
   その楼台が春雨の中に煙っている
               (石川忠久『漢
詩をよむ・春の詩100選』より)

 この詩は確か高校の漢文教科書で習った記憶があります。春の景色を詠んで、「江南春絶句」(こうなんしゅんぜっく)とも言われ、古来人口に膾炙(かいしゃ)されてきた七言絶句です。
 この詩の題名となった「江南」とは、長江下流の江蘇・安徽・淅江の三省に及ぶ豊かな農耕地帯のことです。

 この絶句をより味わうため、簡単に語句の説明を加えてみます。
 【水村】水際の村。【山郭】山沿いの村。【酒旗】居酒屋ののぼり旗。【南朝】西暦420年~589年の六朝(呉・晋・宋・斉・梁・陳)時代のこと。南京を首都とし仏教が大変栄えた。【四百八十寺】俗にこう称されたくらい古都金陵周辺には南朝以来の仏教寺院が数多くあった。なお平仄の都合上「十」は「シン」と読む。日本でもそう読み慣わしている。

 一詩の中に春の景物を巧みに詠み込んだ、中国江南のみならず、我が国のどの地にも普遍し得る「春絶句」と言えそうです。わずか漢字二十八字のみで、かくも雄大な春景が詠めてしまうとは。
 極めて視覚的、絵画的で、一詩完結の小天地といった感じがします。

 結句に至って、この詩は煙雨の中の景であることが明かされます。「煙雨」とは、やわらかな小雨のことなのでしょう。例えば、この詩とは何の関係もありませんが、
 「月様、雨が…」
 「春雨じゃ、濡れて参ろう」
という雛菊と月形半平太の名台詞の風情の。さらには名唱歌『四季の雨』の、
  降るとも見えじ、春の雨、
  水に輪をかく波なくば、
  けぶるとばかり思はせて。
  降るとも見えじ、春の雨。
という風情の。

 いずれにしても全景春雨の中ということで、発句の「緑紅に映ず」と花の色より緑を強調した意味が了解されてきます。雨の中での新緑は、ひときわ引き立って見えてくるものですから。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『赤壁』(三国志の古戦場を詠んだ、同じく杜牧の七言絶句)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-f9df.html
『フォレスタの「四季の雨」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-e737.html

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易水送別

       駱賓王

  此 地 別 燕 丹    此の地 燕丹(えんたん)に別れしとき
  壯 士 髪 衝 冠    壮士 髪(はつ) 冠(かん)を衝けり
  昔 時 人 已 沒    昔時(せきじ) 人已(すで)に没(ぼっ)し
  今 日 水 猶 寒    今日(こんにち) 水猶(なお)寒し

…… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… 
駱賓王(らくひんのう) (?~684年)
 義烏(浙江省)の人。少年時代から詩の才能を認められたが、素行はおさまらず、博徒と交際していた。皇族道王につかえ、武功・長安の主簿を歴任したが、高宗の末年、政権を握っていた則天武后に上書していれられず、臨海(浙江省)の丞に左遷され、不平を抱いて辞任した。高宗の死後、則天武后が帝位についた光宅元年(684年)、徐敬業が武后打倒の軍をおこしたとき、賓王はその幕下に加わり、檄文を起草した。武后はこの檄を読み、顔色をかえて、賓王を見方にしなかったのは宰相の責任だと言った。敬業の軍が敗れたあと、賓王は消息を絶ったが、伝説によれば杭州の西の霊雲寺に住んでいたという。
 初唐四傑の一人。いま『駱丞集』4巻または『駱臨海集』10巻が残っている。 (岩波文庫版『唐詩選下』より)

《私の鑑賞ノート》
 冒頭の「此の地」とは、易水(えきすい)という川のほとりを指しています。「易水」は、現在の河北省易県付近に源を発する川で、今の大清河の支流にあたります。

 この詩で以下に詠まれているとおり、この辺りは(古代中国)戦国時代に「燕(えん)という国があった所でした。
 戦国末期、燕の太子の丹(たん)は、強大化しつつあった新興国秦(しん)の王である政(せい-のちの始皇帝)に恨みを抱き、荊軻(けいか)という剣客を秦都に送って暗殺させようとしたのです。

 すべての準備が整って、ある日の朝、荊軻は秦都咸陽(かんよう)へと出発することになりました。それで太子丹は臣下とともにこの易水で送別の宴を催すことにしたのです。
 見送る方も見送られる方も、これが死出の旅であることが分かっています。よって丹以下みな喪服である白装束を着ての宴でした。

 そもそも「易水の別れ」は、司馬遷(しばせん)の『史記』の叙述が初出です。中国の歴史書『史記』は本来「列王伝」や「宰相伝」が主体です。しかしなぜか、「刺客列伝」という傍流で描かれている「易水の別れ」が古来最も有名な場面の一つなのです。

 宴たけなわとなり、主役である荊軻がおもむろに立ち上がり歌を歌い始めます。筑(ちく-琴に似た楽器)の名手の演奏に和しながら。

  風蕭蕭兮易水寒     風蕭々(しょうしょう)として易水寒し
  壮士一去兮不復還    壮士一たび去って復(ま)た還らず
     (『史記』原文)

 初めは悲愴調を強調する「変緻(へんち)」という調べで歌い、後で高ぶった感情を表現する「羽声(うせい)」に転じました。
 駱賓王のこの詩では「壮士 髪 冠を衝けり」と荊軻自身の事のように描いています。しかし『史記』の記述では、目を怒らせ「髪 冠を衝けり」となったのは、それを聴いて悲憤慷慨(ひふんこうがい)の極地に達した太子丹以下臣下たちであったのです。

 送別の宴が終わると、荊軻は車に乗り真直ぐに秦地に向かい、二度と振り返ることはしませんでした。
   風蕭々として易水寒し
   壮士一たび去って復た還らず
 これぞ男の究極のダンディズム、その壮烈たるやいわく言い難し。
 秦始皇帝の阿房宮(あぼうきゅう)で何があったか、荊軻がどうなったか、これも多くの方が既にご存知のことでしょう。

 この五言絶句の題は『易水送別』。易水のこの地は戦国の昔から「送別の地」として有名でした。遥か時代が下った唐代初期、駱賓王はこの地でたまたま人を見送ることがあったのです。
 略歴で見たとおり、駱賓王も義侠心に富む人物だったようです。現実のある人の送別から飛躍して、伝説の「義侠の士」荊軻の故事に連想が及んだのもむべなるかな、という気がします。

 (大場光太郎・記)

参考図書
岩波文庫『唐詩選下』(前野直彬注解)
関連記事
『風蕭々として易水寒し(1)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-9217.html
『風蕭々として易水寒し(4)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-334f.html

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夢見るこの天賦の才能

           ロバート・シュラー

  夢見るこの素晴らしい天賦の才能
  あなたは何になりたいのか?
  あなたはどこに行きたいのか?
  あなたは何をやりたいのか?
  あなたが完成したいと願うプロジェクト、
  あなたが達したいゴールー
  これがあってこそ、あなたは真の意味での
  人間になれるのだ。

  生きとし生けるものの中で、
  最も素晴らしい生き物にあなたはなる。
  人間は創造主神の子だ。
  だから、人は神の子として与えられた、
  自分の運命を満たそうとする。

  あなたが美しい夢を見るとき、
  神は、あなたの心の中で働いてくださるのだ。
                  (訳詩者不明)
…… * …… * …… * …… * …… * ……
 先日の『ジォニ・ジェイムス「夢見る頃を過ぎても」』作成の過程で、この詩を思い出しました。

 ロバート・シュラーは1926年アイオワ州生まれの、アメリカにおける著名な宗教指導者の一人です。それよりもシュラーは、ニュー・ソート(新しい考え方)に基づいた「積極的な考え方の力」の提唱者・実践者として、先輩格のノーマン・ピールとともに我が国でもその名を知られています。

 この詩は、30代前半頃に読んだロバート・シュラーの著書の中にあったものです。一読強いインパクトを感じ、すぐさま手帳に書き写しました。その著書は処分してもうありませんが、やはり「積極的考え方の力」を力説し我が国でも好評だった本でした。
 つまりはその本から得た私の唯一の収穫がこの詩だったのです。その後この詩は、何度か手帳に写し替えられ、最終的にここ2年ほど私が座右の一冊にしている『思考は現実化する』(きこ書房刊、ナポレオン・ヒル著、田中孝顕訳)の中ほどの余白に書き込まれ、折りに触れて目を通して今日に至っています。

 特別解釈の必要もないほど、分かりやすい詩です。読むほどに新たな「やる気」が湧いてきます。
 ただし「人間は創造主神の子だ。」というフレーズは、いかにもキリスト教独特の表現で少し抵抗を感じられる方もおられるかもしれません。しかし我が国の神道系新宗教も、たとえば生長の家を代表として「人間神の子、本来無限」と説いています。若い頃その分野を少しかじった私には、「まったくそのとおり !」と違和感なく受け入れられます。

 この詩の中で私が特に注目したいのは、1行目の「夢見るこの素晴らしい天賦の才能」というフレーズです。「夢見ること = 天賦の才能」だというのです。
 この場合の「夢」とは、いまだ現実的には実現していない願望や目標ということです。そういう意味では、人間誰もが「夢見る」ことは出来るわけです。つまりすべての人間は生まれながらに「素晴らしい天賦の才能」を備え持っているのです。

 しかしこの素晴らしい天賦の才能を十二分に発揮するには、強い意志に基づく「夢の結晶化」が必要です。常日頃のすぐに消えてしまう夢まぼろしのような、うたかたの夢ではおよそ「現実化」の役には立ちません。そこでシュラーは言うのです。
  あなたは何になりたいのか?
  あなたはどこに行きたいのか?
  あなたは何をやりたいのか?

 「はっきりした願望や目標を持つこと、(略)これこそがあらゆる成功の出発点である」
とは、ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』(「成功哲学」)の核心でもあります。

 ロバート・シュラー自身が「夢見る素晴らしい天賦の才能」を遺憾なく発揮し、「完成したいと願うプロジェクト」を明確に定め、遂には「達したいゴール」に到達した人だけに、この詩は説得力があります。

 若い駆け出しの牧師だったシュラーは、片田舎町の落ちぶれた小さなオンボロ教会をあてがわれました。雨漏りする屋根を修繕したくても満足に修繕費さえ集まらないような、貧窮教会が彼の出発点だったのです。
 しかし積極的思考の持ち主であるシュラーは、そんな惨めさにもめげず挫けませんでした。

  神は不可能ということをご存知ないのだ。  (ロバート・シュラー)

 シュラーは最悪のところから出発して、次々に教会の規模や人々に与える影響力を拡大していったのです。その結果、シュラーはカリフォルニア州オレンジ郡ガーデングローブに「クリスタル大聖堂」という、全米1、2を争う壮麗な聖堂を創設しました。また『アワー・オブ・パワー』(「力の時」)というテレビ伝道も人気を博しました。

  志(こころざし)を立てるのに遅すぎるということはない。  (出典亡失)
  年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱(いだ)き得るものは何か。
   (サミュエル・ウルマン詩『青春』の一節)

 「志 = 夢」のある人にとって、「夢見る頃を過ぎても」などということは無いということです。例え後悔、失敗だらけの痛恨の過去であったとしても(他ならぬ私自身のこと)、過去は過去、もう過ぎ去り消えてしまったのです。自分が気に病むことさえしなければ、過去のいかなる出来事も現在の自分に影響を及ぼすことはありません。
 「be here now」-「今ここ」こそが、まっさらな未来を築く出発点であり作用点なのです。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『ジォニ・ジェイムス「夢見る頃を過ぎても』
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『成功哲学の詩』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-003b.html
『青春』(サミュエル・ウルマンの詩)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-d1d1.html
『夢の八訓』
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バーンズ『アフトン川の流れ』

-私にとっての大発見 ! 『アフトン川』は「ハイランドのメリー」を讃える歌だった -

   アフトンの流れ (Flow Gently Sweet Afton)

                    ロバート・バーンズ

  静かに流れよ、佳(よ)きアフトンよ、お前の緑なす丘の間を、
  静かに流れよ、私はお前にお前を讃(ほ)めて歌を歌はう。
  私のメーリイは眠ってゐる、お前の呟く流(ながれ)の辺りで。
  静かに流れよ、佳きアフトンよ、彼女の夢を妨(さまた)ぐな。

  其(そ)の反響の谷中(たにじゅう)に響き渡る河原鳩よ、
  彼処(かしこ)なる山櫨(さんざし)の峡谷(たに)に囀(さえず)る
    野の声高き鶫(つぐみ)よ、
  又緑の冠毛(かざり)戴くなべげりよ、お前の叫び声を慎め、
  私は私の眠れる乙女を覚(さま)す勿(なか)れと堅く命ずるのだ。

  何と高い哉(かな)、佳きアフトンよ、お前の隣(とな)れる山々は、
  峰近くまで奇麗な紆(うね)れる小川の川筋に跡付けられ、
  其処(そこ)に日々私は彷徨(さまよ)ふのだ、太陽高く登る頃、
  群とメーリイの住家とを私の眠(ねむり)の下に眺めつつ。

  何と楽しい哉、お前の堤(つつみ)、又その下なる緑の谷は、
  其処に森地の中に桜草は咲き乱れ、
  其処で幾度(いくたび)か穏かな夕暮の草原の上に泣く時、
  香馨(かおりかぐ)はしい樺(かば)の木は
    私のメーリイと私とを覆ふのだ。

  お前の水晶の流(ながれ)は、アフトン、何と愛すべく流るる哉、
  其(そ)は私のメーリイの住む家の傍らで向きを変へる。
  何と夢中にお前の水は彼女の真白の足を洗ふ哉、
  奇麗な花を集めつつ彼女の川を渡る時。

  静かに流れよ、佳きアフトンよ、お前の緑なす丘の間を、
  静かに流れよ、佳き川よ、私の歌の題目よ。
  私のメーリイは眠ってゐる、お前の呟く流の辺りで、
  静かに流れよ、佳きアフトンよ、彼女の夢を妨ぐな。

                       (中村為治訳)
…… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 ロバート・バーンズ(1759年~1796年)については、『ハイランドのメリイ』などで既に述べました。ごく簡単に繰り返せば、バーンズは『蛍の光』(Auld Lang Syne)の原詩者として世界的に知られたスコットランドの国民的詩人です。

 27日夕方当市中央図書館に行き、たまたま見つけた『バーンズ詩集』(岩波文庫)を借りてきました。借りる前ページをめくると、訳詩者・中村為治の序文が昭和3年と、元々はかなり古い訳業だったようです。
 なおパラパラとめくっていると、途中にやはりありました、『ハイランドのメーリイ』が。それだけではありません。ハイランドのメリー関係の詩が、それ以外に数編あったことを知りました。それで俄然『これは借りてじっくり読むべきだ !』となったのです。

 最初の詩は『メーリイ モリソン』、続いて『我が戀人(こいびと)は紅き薔薇(ばら)』、最後が『天上のメーリイ』となっています。
 そして三番目に冒頭に掲げた『アフトンの流れ』があったのです。えっ、アフトン?高校の音楽の時間に習ったあの『アフトン川の流れ』と同じ川?意外なことに、バーンズとアフトン川がつながったわけです。
 しかしこの時はまだ、バーンズのこの詩と歌の『アフトン川の流れ』がダイレクトに結びつくことに気がついていませんでした。

 「♪流れやさしいアフトンの ……」
 『アフトン川の流れ』。タイトルと少しメロディを思い浮かべただけで、懐かしさで涙がこぼれそうになりました。以前『フォレスタの「花の街」』で触れましたように、私の最も多感だった高校時代に教わった歌だからです。
 あの頃は、鈍磨した今の感受性の何倍もの鋭敏さで、美しい歌、美しい詩に感動していましたから。

 『アフトン川の流れ』は、このバーンズの詩に曲がつけられた歌であることを知ったのは、家に帰ってネット検索してからのことでした。(作曲はジョナサン・スピルマン。)
 しかも原詩で詠まれているのは、ハイランドのメリー。こうして今の今まで知らなかったのに、たった何時間かで、ロバート・バーンズ、ハイランドのメリー、アフトン川の流れが一直線につながったのです。

 それにしてもこの原詩そして昔私が習った『アフトン川の流れ』は、若くて美しいメアリー・モリソンを讃える詩であり歌だったとは ! そして既にみたように、この詩のすぐあとの『ハイランドのメーリイ』は、急逝してしまったメアリーを悼む悲痛の詩なのでした。
 『ハイランドのメーリイ』など一連の詩と『アフトン川の流れ』の歌によって、夭折したハイランド(スコットランド高地地方)の、無名に近かった一人の娘の名前は世界中に知られることになったのです。

 その証拠の一つを意外なところで見つけました。
 それは、19世紀後半のアメリカの作家マーク・トウェインの『ハックルベリ・フィンの冒険』の中でです。
 「宿無しハック」(ハックルベリ・フィン)と逃亡黒人奴隷ジムは、筏(いかだ)に乗ってミシシッピ川を下っていきます。途中でジムとはぐれてしまったハックは、同川中流域の土地に上陸し、近くの旧家にしばらく滞在させてもらいます。その旧家の立派な居間の壁に、何と「ハイランドのメリー」の絵がかけられていたのです。

 この小説の時代背景は1830年代頃。まだ電話もラジオもない時代に、ハイランドのメリーの名前はアメリカ深南部にまで達していたのです。「文化の伝播力」というようなことを考えてしまいます。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『バーンズ詩集』(岩波文庫、中村為治訳)
『アフトン川の流れ(Flow Gently Sweet Afton)』(YouTube動画、ロジェ・ワグナー合唱団)
https://www.youtube.com/watch?v=TyDwPMAjJhk
 (寸評:素晴らしい混声合唱です ! さながら賛美歌のようです。ただ歌っている言語は英語ではなくドイツ語?のようです。動画は実際のアフトン川なのかどうか、豊かな自然の中を流れる川の動画です。)
『アフトン川の流れ(Flow Gently Sweet Afton)』(同動画、歌:Jo Stfford)
http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=N8g_NCIdeRE&feature=endscreen
 (寸評:こちらは、ジョー・スタフォードという女性歌手による独唱です。しっとり聴かせる歌唱です。言語はもちろん英語、バーンズの原詩そのままです。)
関連記事
『ハイランドのメリイ』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-bcb5.html
『フォレスタの「花の街」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-6dd3.html
『「ハックルベリ・フィンの冒険」読みました』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-fef7.html


【参考】

 上に紹介したジョー・スタフォード『アフトン川の流れ』動画のコメントで、外国の方がバーンズの原詩(一部)を紹介してくれています。今回参考に以下に掲げます。(2017.10.19)

Nat Webb Nat Webb3 年前

Flow gently, sweet Afton! amang thy green braes,
Flow gently, I'll sing thee a song in thy praise;
My Mary's asleep by thy murmuring stream, Flow gently, sweet Afton, disturb not her dream.

Thou stockdove whose echo resounds thro' the glen,
Ye wild whistling blackbirds in yon thorny den,
Thou green-crested lapwing thy screaming forbear,
I charge you, disturb not my slumbering Fair.

How lofty, sweet Afton, thy neighbouring hills,
Far mark'd with the courses of clear, winding rills;
There daily I wander as noon rises high,
My flocks and my Mary's sweet cot in my eye.

How pleasant thy banks and green valleys below,
Where, wild in the woodlands, the primroses blow;
There oft, as mild Ev'ning weeps over the lea,
The sweet-scented birk shades my Mary and me.

Thy crystal stream, Afton, how lovely it glides,
And winds by the cot where my Mary resides;
How wanton thy waters her snowy feet lave,
As, gathering sweet flowerets, she stems thy clear wave.

Flow gently, sweet Afton, amang thy green braes,
Flow gently, sweet river, the theme of my lays;
My Mary's asleep by thy murmuring stream,
Flow gently, sweet Afton, disturb not her dream.

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杜甫『登岳陽楼』

【注記】
 本記事は2012年10月15日公開でしたが、今回トップ面に再掲載します。

 杜甫の名詩『登岳陽楼』はどなたもご存知のことでしょう。今回のこの機会に味読していただき、さらにこの詩を深く味わっていただければと思います。

 ここまで洞庭湖に関する有名な三詩を再掲載してきましたが、今回は杜甫からも洞庭湖からも中国からも離れ、西洋の湖や水に関する物語について余談的に2、3紹介してみたいと思います。

 仮に「湖文学」というのがあるとするなら、その世界的名作として、19世紀ドイツの作家・シュトルムの『みずうみ』を挙げなければなりません。私は高校時代この名作を読んで深い感動を覚えました。「インメン湖(みつばち湖)」という架空の湖を舞台とした悲恋物語ですが、近年何十年かぶりで読み返し、新たな感動のもと当ブログでその感想文を書きました。

 シューベルトの歌曲集『湖上の美人』中の「エレンの歌 第3番」と聞いてすぐピンと来た人は相当のクラシック音楽通といえましょう。一般的に『シューベルトのアヴェマリア』として世界的に知られている名曲です。そう言われれば、曲を聴くまでもなくメロディが浮かんだことでしょう。この名曲の詳しいことは『フォレスタのアヴェ・マリア(シューベルト)』で述べました。

 エレン・ダグラスというスコットランドはハイランド(高地地方)の若い女性がヒロインです。エレンは父親とともに、城主である王の仇討ちから逃げるためにとある洞穴の近くに身を隠していました。その頃、ロッホ・カトリーン(カトリーン湖)のほとりの聖母像に助けを求めて祈りの言葉を囗ずさんだのが、この歌曲の原詩なのです。

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カトリーン湖に浮かぶ「エレンの小島」


 湖とは直接関係ありませんが。ドイツには『水妖記』(原題:ウンディーネ)という水の妖精ウンディーネをヒロインとする幻想的な悲恋物語もあります。19世紀初期頃のフリードリッヒ・フーケの中編小説ですが、中世以来の古伝承を題材にしており、ゲーテも絶賛したとのことです。妖しい水の精としてはライン川の崖上に佇み、美しい姿で川を上り下りする船人を誘惑して川底に引きずり込む「ローレライ」の歌(原詩:ハインリッヒ・ハイネ)と物語も有名ですね。




  登岳陽楼   (岳陽楼に登る)

       杜甫

  昔聞洞庭水  昔聞く 洞庭の水
  今上岳陽樓  今上る岳陽楼(がくようろう)
  呉楚東南坼  呉楚(ごそ) 東南に坼(さ)け
  乾坤日夜浮  乾坤(けんこん) 日夜浮かぶ
  親朋無一字  親朋(しんぽう) 一字無く
  老病有孤舟  老病(ろうびょう) 孤舟(こしゅう)有り
  戎馬關山北  戎馬(じゅうば) 関山(かんざん)の北
  憑軒涕泗流  軒に憑(よ)れば 涕泗(ていし)流る

…… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… 
《私の鑑賞ノート》

 杜甫の晩年にあたる57歳の時の古今有名な詩です。この詩をより深く味わうには、この地に至るまでのことを簡単に見ておいた方がいいと思います。

 杜甫の運命に激変をもたらしたのは、天宝14年(755年)盛唐を震撼させた「安禄山の乱」の勃発です。これによって首都・長安は大混乱に陥り、玄宗皇帝は都を捨てて蜀(しょく)へと落ちのび、途中民衆の怨嗟の声を静めるため、愛する絶世の美女・楊貴妃に死を与えるという大痛恨事があったのでした。
 仕官して天下国家に尽くす願望の強かった杜甫もまた長安にいました。そのためもろに難を受け、妻子とともに疎開地を求めて放浪する旅が始まったのです。杜甫43歳の時のことです。

 以来岳陽楼に登ったこの時までの十数年、安住の地を求めて、中国中を西に東に、北に南にと放浪し続けます。時に人が踏み入ったことのない山道に分け入ったり、厳冬の高山の麓の道を飢えと寒さに震えながら歩いたり。時には有名な“蜀の桟道”を辿って蜀に入り、成都や蜀中を転々としたり。長江に舟を浮かべて三峡(さんきょう)を下って、今の四川省の各州に短期間滞在したり。
 定まったねぐらを持たない杜甫一家ですから、どこに行ってもそのつど困窮を極めました。

 そのような長期にわたる過酷な放浪生活から、国を憂える気持ち、民衆の困窮に対する同情、自身の悲嘆の想いなどを強め、その迸りが幾多の詩となって結実していくことになります。だから杜甫の詩は、それまでの宮廷詩人のお遊びの詩ではなく、厳しい生の現実に直面した鋭い透徹した社会詩としての方向性を帯びていきます。
 これはまさに古今独歩の、それまでに見られない新たな詩境だったのです。

 長江をまたも舟で下り、洞庭湖の東北岸に当たる岳州に入ったのは大暦4年(769年)旧正月、杜甫57歳の時のことでした。今でいえば75歳過ぎの後期高齢者に相当するような老境とみるべきです。実際その頃の杜甫は、片方の耳は聴こえなくなり、歩行不自由な身になっていたのです。

 洞庭湖東北岸に面した丘の上に岳陽楼はあり、この時杜甫はこの楼に登りました。岳陽楼から望む洞庭湖は、遥か彼方に水と空とが連なり心も遠くなるような眺めです。
 洞庭湖や岳陽楼には古来多くの文人墨客が訪れ、多くの詩文を遺しています。しかし先の孟浩然の『洞庭湖に臨む』と杜甫のこの詩の二つの五言律詩が双璧とされています。

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 この詩の大意は以下のとおりです。

 「洞庭の水を、名にのみ聞いていたのは昔のこと。いま私は、(漂泊の旅のさなかに)岳陽楼にのぼって、目(ま)のあたりその湖を眺めている。東南、呉楚の地方は二つに裂けて、この湖水がたたえられ、はても知らぬ水面は、昼も夜も、全宇宙を浮かべているかと見えるほど。-思えば親しい人たちからは一字のたよりさえなく、老病のわが身につれだつものは、ただ一そうの小舟あるばかり。目を転ずれば境をへだてる山々の北では、軍馬の足音がひびいているとか。楼の手すりによりかかりながら見わたすとき、私の目からは涙があふれ出る。」(岩波文庫『唐詩選(中)』より)

  呉楚東南坼  呉楚 東南に坼け
  乾坤日夜浮  乾坤 日夜浮かぶ

 孟浩然の『臨洞庭湖』も雄大な詩でしたが、杜甫のこの詩はそれよりさらにスケールの大きな詩です。
 「万物乎備我(万物我に備わる)」(孟子)。詩の前半は、放浪生活にさいなまれ、さまざまな病気に苦しめられていたとは思われないほど気宇広大で、老いてなお盛んな詩魂が感じられます。

  親朋無一字  親朋 一字無く
  老病有孤舟  老病 孤舟有り

 雄大な洞庭湖を眺めて、悠久の昔から変わらぬ大きな自然、それに引きかえ小さく不自由なわが身よ、と自(おの)ずから湧き上がった感情からなのか。詩の後半では一転、現在のわが身の不遇を嘆く詩句となっています。
 「国破れて山河在り」の『春望』もそうでしたが、このような心情の吐露こそが杜甫詩の真骨頂と言えるものです。

 この詩全編は、「漂泊の詩人」杜甫が漂泊の果てにたどり着いた詩境の精華といえるかと思います。

 これから2年後の冬、杜甫は舟の中で漂泊の生涯を終えることになるのです。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『唐詩選(中)』(岩波文庫、前野直彬注解)
『杜甫物語-詩と生涯』(社会思想社-現代教養文庫、目加田誠著)
関連記事
『洞庭湖三詩(1)-孟浩然』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-4fa1.html
『洞庭湖三詩(2)-李白』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-f1e5.html
『絶句』(杜甫の詩)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-eb8b.html

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洞庭湖三詩(2)-李白

  陪族叔刑部侍郎皣及中書賈舎人遊洞庭
  (族叔の刑部侍郎皣及び中書賈舎人に陪して洞庭に遊ぶ)

         李白

  洞庭西望楚江分  洞庭 西に望めば楚江(そこう)分(わか)る
  水盡南天不見雲  水尽きて南天 雲を見ず
  日落長沙秋色遠  日は落ちて長沙(ちょうさ) 秋色(しゅうしょく)遠し
  不知何處弔湘君  知らず 何れの処にか湘君(しょうくん)を弔(とむら)わん

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……

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《私の鑑賞ノート》

 本来なら『遊洞庭(「洞庭に遊ぶ」)』という短いタイトルの方がすっきりしてよかったはずですが、さしもの李白(りはく)も縦の人間関係に気をつかったものか、長い注釈つきのタイトルになっています。
 このタイトルを見ていくとこの詩を作ったときの背景が見えてきますので、以下に説明してみます。

 「族叔」とは李白と直系の親族ではないものの、同族であり、世代的に李白の父の弟に当たることを示す言葉です。「皣」とは李皣(りよう)という人物のことで、唐の皇族の子孫だといいます。
 言われてみればなるほど、後に李白自身が宮廷で仕えた玄宗皇帝の名は李隆基。唐は李氏が建てた国なのです。と言うことは、今回初めて知ったことですが、李白自身も唐の皇族に連なる詩人だったのでしょうか。

 李皣の職名である「刑部侍郎」とは、法律・刑罰を管掌する刑部庁次官といった官職です。
 また「中書舎人」とは詔勅などを起草する職名です。その職にあった「賈」とは詩人の賈至(かし)のことで、賈至の詩は『唐詩選』にも採られています。

 この詩は賈至と李皣が洞庭湖に舟を浮かべて遊んだ折り、李白が同行して作ったもので、五首の連作のうち第一首です。年齢も官位も、李白は二人より低かったので、「陪」といったのです。
 この詩の大意は以下のとおりです。

 「洞庭湖から西方を望めば、楚江の流れは幾筋にも分かれている。湖水の尽きるところ、南の空には、一点の雲もない。日は落ちかかり、長沙のかなたまでも、秋の気配ははるかに続く。悲劇の女神、湘君を、どこでとむらうことにしようか。」 (岩波文庫『唐詩選(下)』より)

 ここで「楚江」とは長江(ちょうこう)の洞庭湖付近における別名で、「長沙」とは同湖の南にある町の名です。

 「湘君」とは長沙を通って洞庭湖に流れ入る湘江(しょうこう)の女神で、洞庭湖の女神ともされています。元は、中国開闢の王朝の初代天子の尭(ぎょう)の娘で、次の天子となった舜(しゅん)の妃となりました。あるとき舜が南方を巡察中に死んだのを悲しみ、湘江に身を投げて神となったと伝えられているのです。
 自身も洞庭湖に流入する川である汨羅江(べきらこう)に入水自殺した、戦国時代の憂国の詩人・屈原(くつげん)の『九歌』の中にも、その故事が謳われています。

 七言絶句のこの詩の結句で、「不知何處弔湘君」と詠んだのが、何といっても出色です。現前する広大な洞庭湖に、太古の女神を描いたことでさらに時間的な広がりも与えているようです。

 この詩は、李白による湘君の「魂呼び歌(たまよびうた)」であるようにも思われます。湘君の御霊(みたま)よ、今何処(いずこ)におわすか。
 黄昏(たそがれ)迫る洞庭湖に、秋の気配がいよいよ増し加わるばかりです。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『唐詩選(下)』(岩波文庫、前野直彬注解)
関連記事(李白の詩)
『静夜思』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-755c.html
『蛾眉山月歌』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-33a2.html

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洞庭湖三詩(1)-孟浩然

【注記】
 本記事は2012年10年3日公開でしたが、今回トップ面に再掲載します。
『洞庭湖と鄱陽湖』でも述べました。洞庭湖を詠んだ名詩として李白と杜甫の二詩は同記事作成の時点でいずれ『名詩・名訳詩』で取り上げるつもりでした。が、孟浩然のこの詩を原漢詩と訓読みを一字一字たどって綴っていくうち、『なんと良い詩なんだろう』と感激を新たにしたのです。漢詩に限らず「詩」というもの、今の人たちはひと頃よりは読みません。が、感性を磨き研ぎ澄ますのに詩は欠かせません。ということで、簡略ながら「名詩のすすめ」まで。


   臨洞庭上張丞相  (洞庭に臨み、張丞相に上-たてまつ-る)

                 孟浩然

   八月湖水平   八月 湖水は平らかに
   涵虚混太清   虚を涵(ひた)して太清(たいせい)に混ず
   気蒸雲夢澤   気は蒸す 雲夢(うんぼう)の沢
   波撼岳陽城   波は撼(ゆる)がす 岳陽城 
   欲済無舟楫   済(わた)らんと欲するも舟楫(しゅうしゅう)無し
   端居恥聖明   端居して聖明に恥ず
   座観垂釣者   座(そぞろ)に釣を垂るる者を観て
   徒有羨魚情   徒らに魚を羨むの情あり

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
 孟浩然(もうこうねん) 689年~740年。襄州襄陽の人。字(あざな)も浩然。若い頃は科挙に及第できず、諸国を放浪した末、郷里の鹿門山に隠棲した。40歳のとき都へ出て、名士の屋敷に出入りし、王維らと親交を結んだが、官職は得られなかった。その後、張九齢が荊州長史に流されたとき、浩然を招いて部下に加えたが、まもなく辞任して去り、江南を放浪した末、郷里に帰った。そして隠棲中に王昌齢の訪問を受け、病後にもかかわらず喜んで酒宴を開いたため、病気を悪化させて没した。『孟浩然集』四巻が残っている。(岩波文庫『唐詩選(下)』巻末略伝より)

《私の鑑賞ノート》
 昨年6月の『洞庭湖と鄱陽湖』で、中国史上、洞庭湖が「文の湖」なら鄱陽湖の方は「武の湖」だと述べました。そして同記事では鄱陽湖が、三国志中の呉国の周瑜の指揮のもと呉水軍の修練場であったこと、遥か時代が下って朱元璋が明(ミン)の建国を賭けて陳友諒と大決戦をした「鄱陽湖の戦い」があったことなどを紹介しました。
 翻って洞庭湖の方は、唐の時代など多くの文人墨客が訪れた風光明媚な湖であることを述べ、一例として孟浩然のこの詩を紹介したのでした。

 同記事で、孟浩然のこの詩と李白と杜甫の詩をいずれ取り上げると言いましたが、1年以上経って今回『洞庭湖三詩』として見ていきたいと思います。

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 その前に洞庭湖とは、同記事の説明をそのまま使えば、
 「洞庭湖(どうていこ)は湖北省北東部にある淡水湖で、中国の淡水湖としては鄱陽湖(はようこ)に次いで2番目に大きな湖です。全体的に浅く、長江と連なっており、「湖北省」「湖南省」の省名はこの湖の北と南にあることからつけられたものです。」

 孟浩然のこの『臨洞庭上張丞相』は、杜甫の『登岳陽楼』と並んで、洞庭湖を詠んだ二大名詩として古来人口に膾炙されてきました。詩の大意は以下のとおりです。

 「秋八月、洞庭の水は平らに、どこまでも続き、はるかな水平線では大空をその中にひたして、空と水とが一つにまざりあっている。雲夢の沼沢地から雲霧が立ちのぼり、湖の波は岳陽の町もゆらぐかと思うばかりに打ち寄せる。この湖をわたりたいと思えば、舟は一つもない。だがここにじっとしているだけでは、天子の明らかな徳に対して、申しわけない次第だ。何とかして仕官の道を求め、天子をたすけて太平の政治に参与したい。そう思いながら、ふと湖のふちに釣糸を垂れている人の姿を見ては、私の心にも、むなしい望みではあるが、魚ー仕官を求めようとする気持ちがおこってくる。」(岩波文庫『唐詩選(中)』より)

 少し注釈を加えればー。
 張丞相とは張九齢のことらしく、略歴でみたとおり、作者は一時その部下となったことがありました。この五言律詩は、全体を通して雄大な洞庭湖の叙景詩のようですが、上の大意のように、後半は孟浩然の鬱勃たる士官への想いが吐露されているわけです。
 「秋八月」とは旧暦八月のことで、今の十月頃にあたります。

 孟浩然は盛唐の詩人ですから、約千三百年ほども前の人です。それに本場中国の漢字を用いた詩なのですから、私たち今の日本人には意味が分からない字だらけです。しかし一々注釈を加えていくわけにもいきませんので、ここでは特に解釈が難しいと思われる二句目についてだけ説明しておきます。

  涵虚混太清   虚を涵(ひた)して太清(たいせい)に混ず

 「涵虚」とは虚空を水中に浸すことです。どういうことかと言うと、遥かに広がる湖水の果てが空(太清)に連なり、水と空(太清)の境界が明らかには見定めがたいありさまの形容なのです。

 このように、この詩は一読「雄渾の気」が湧いてくるような詩です。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『唐詩選(中)(下)』(岩波文庫、前野直彬注解)
関連記事
『洞庭湖と鄱陽湖』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-deab.html
『春暁(しゅんぎょう)』(孟浩然の最も有名な詩)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-b234.html

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赤壁

        杜牧

 折戟沈沙鉄未錆  折戟(せつげき)沙(すな)に沈んで鉄未だ錆(しょう)せず
 自将磨洗認前朝  自(みずか)ら磨洗(ません)を将(も)って前朝を認む
 東風不与周郎便  東風(とうふう)周郎の与(た)めに便(よ)からずんば
 銅雀春深鎖二喬  銅雀(どうじゃく)春深くして二喬(にきょう)を鎖(とざ)さん

…* …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …

 杜牧(とぼく)、803年~853年は中国晩唐期の詩人。晩唐の繊細な技巧的風潮を排し、平明で豪放な詩を作った。風流詩と詠史、時事諷詠を得意とし、艶麗と剛健の両面を持つ。七言絶句に優れた作品が多い。杜甫の「老杜」に対し「小杜」と呼ばれ、また同時代の李商隠と共に「晩唐の李杜」とも称される。 (『ウィキペディア』-「杜牧」の項より)

《私の鑑賞ノート》
 作者の杜牧が長江沿いの赤壁を訪れ、三国時代の「赤壁の戦い」に想いを馳せて詠んだ七言絶句です。北宋の文人・蘇東坡(そとうば)の名詩文『前赤壁賦』『後赤壁賦』とともに、古来広く人口に膾炙されてきた詩です。

 杜牧がこの詩を詠んだ晩唐期と、赤壁の戦い(西暦208年旧十月)のあった三国時代とでは、約六百数十年もの隔たりがあります。我が国で言えば、鎌倉幕府滅亡、建武の中興のあった南北朝期の事跡を今日詠むようなものです。
 ただ「赤壁」は古来有名な史実でしたから、時代を超えて伝えられてきた事跡に、杜牧の詩人としての想像力を縦横に飛翔させて、この名詩となったわけです。

 赤壁という名だたる古戦場を訪れ歩いてみるに、折れた戟が砂に埋もれているのが認められた。それは錆びてはいても未だ完全に溶け切ってはいない(そこに何とも言えない哀切さが感じられる)。実際長江のほとりの水でそれを洗ってみるに、確かに魏か呉かいずれかの古(いにし)えの武人のものに違いないようだ。
 と、発句、二句ではたまたま眼前に認められた遺物を詠じています。

 三句で詩はガラっと転じて、遠い赤壁の戦い当時の事に想いを巡らせます。
 深い夜霧に紛れて、呉艦隊が魏の大艦隊を急襲し一斉に火を放ちました。折りからの東風に、予め「連環の計」で艦船同士が互いに鎖で繋がれていたため火は次々に燃え広がり、魏の大艦隊はあっと言う間に大炎上したのです。
 もし戦いの当夜、「(天が)東風を周郎に与えなかったとしたら、戦局はどうなっていたことだろうか?」。この夜たまたま吹き募った「東風」こそは、まこと呉にとって天与の神風のようなものだったのです。
 「周郎」とは、美丈夫で「美周郎」と言われた呉軍大都督(総指令官)の周瑜(しゅうゆ)のことです。

 もし東風吹かずば、周瑜が練りに練った作戦は失敗に終わり、逆に呉・荊州連合軍に数倍する魏軍が勝利していたことでしょう。そこで結句です。
 「銅雀」とは、魏の首都である許都に直前に造営された壮麗な銅雀台という高殿のことです。戦い済んだ翌年の晩春、二喬は囲いものとなって銅雀台に幽閉されたことだろう、というのです。

 「二喬」とは呉の名家・喬家の2人の姉妹を指します。姉の大喬は先王孫策(孫権の兄)の妻となり、妹の小喬は周瑜の妻となりました。いずれも絶世の美女の誉れ高く、それは遠く魏にまで聞こえ、曹操が二喬を欲して南征を試みた、というのが『三国志演義』の通説なのです。
 ついでに。『演義』では、はじめは降伏に傾いていた周瑜に、何としても魏と呉を開戦させたい諸葛孔明が「曹操は二喬を欲しがっておりますぞ」と言い、それを聞いて激怒した周瑜が一気に開戦に傾いたことになっています。
 『レッドクリフ』では、周瑜の妻の小喬を、アジアナンバーワン美姫(これは私個人の評価)のリン・チーリンが演じました。

 ただお断りしておかなければならないのは、杜牧が訪れた赤壁は有名な「偽の赤壁」らしいことです。
 直前の『赤壁は長江の右岸か、左岸か?』で見ましたように、現在実際の古戦場として有力視されているのは、湖北省赤壁市西南の「赤壁山」です。対して杜牧や後代の蘇東坡が訪れたのは、湖北省黄州市西北の長江北岸の「赤鼻山」だったというのです。

 この赤鼻山は実際の古戦場ではなかったものの、杜牧がこの地でこの詩を詠んだために赤壁の古戦場とみなされるようになった、という経緯があるようです。さらに後の蘇東坡の名詩文『赤壁賦』によって、この地は実際の古戦場より有名になり、「東坡赤壁(別名、文赤壁)」と呼ばれるようになりました。

 一説では、杜牧と蘇東坡の両詩人とも、ここが実際の戦場ではなかったことを承知の上でそれぞれの作品を作ったとも言われています。
 しかしいずれも真に迫った赤壁の名描写であり、それこそが優れた詩人の想像力の賜物と言うべきです。

 (大場光太郎・記)

参考
蘇東坡『前赤壁賦』『後赤壁賦』
http://www.geocities.jp/sybrma/115zensekihekinohu.html
関連記事
『「赤壁」は長江の右岸か、左岸か?』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-3ec0.html

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