落葉

        ヴェルレーヌ

    秋の日の
    ヴオロンの
    ためいきの
    身にしみて
    ひたぶるに
    うら悲し。

    鐘のおとに
    胸ふたぎ
    色変へて
    涙ぐむ
    過ぎし日の
    おもひでや。

    げにわれは
    うらぶれて
    ここかしこ
    さだめなく
    とび散らふ
    落葉かな。

      (上田敏訳詩集『海潮音』より)
 …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 ポール・マリー・ヴェルレーヌ 1844年3月30日~1896年1月8日。フランスの詩人。ステファヌ・マラルメ、アルチュール・ランボーらと共に「象徴派詩人」と呼ばれる。多彩に韻を含んだ約540篇の詩の中、絶唱とされる詩を含みながら、その人生は破滅的であった。その一生には、酒、女、神、祈り、反逆、背徳、悔恨が混在していた。晩年には「デカダンスの教祖」と仰がれたが、初期の作品の方が評価が高い。  (フリー百科事典『ウィキペディア』より)

 今手元に一冊の文庫本があります。角川文庫。上田敏訳詩集『海潮音・牧羊神』です。高校2年生の頃、母校のあった長井市内のある書店で求めたもの。もう40年以上前のことです。今思えばずいぶんもったいないことをしたと思いますが、私は後になって懐かしい思い出につながるような、本も含めた品々をこれまで数多く処分したり散失させてきました。どうもそういうものに、あまりこだわらない性質(たち)のようです。
 そんな中で、国木田独歩の『武蔵野』や『立原道造詩集』といった当時求めた本と共に、辛うじて残っている何冊かの一冊です。

 当時文庫本は今のようにシャレたカバーではなく、半透明のセロファン紙状のカバーがしてあっただけの廉価なものでした。そんなカバーなどとっくの昔にとれて、本体がむき出しの文庫本です。
 パラパラとめくるとずいぶん変色してしまっていて、40余年の歳月の長さを偲ばせます。本の奥付(おくづけ)を見ますと、「昭和二十七年一月三十日初版発行 昭和四十年五月三十日二十一版発行」とあり、「定價百圓」とあります。『落葉』以外にも『山のあなた』『花のをとめ』など十篇以上の詩に「レ」を入れています。ある詩には下手くそな字で書き込みも入れてあります。

 今はどうか分かりませんが、昭和30年代当時『落葉』は有名な詩で、学校などで教わらずとも中学生の時既に知っていました。
 私は東北の片田舎町の出身です。18の時まで郷里で過ごしました。そして現在は神奈川県県央地区にある市に住んでいます。なぜそんなことを持ち出すのかといえば、郷里と当地での、晩秋から初冬にかけての紅葉、落葉のさまがまるで違うからなのです。もちろん東北の郷里での紅葉、落葉の方が段違いに色鮮やかなのです。それは時にハッと胸を衝かれるような鮮やかさです。比べて当地は標高低くめったに雪も降らないことから、郷里よりずっと季節感に乏しく、紅葉などもどこかくすんだ冴えない色です。
 これは気温が違うからなのでしょう。秋の深まりと共に、厳しい秋冷の気候が、より鮮やかな色に木々の葉を染め上げるのでしょうか。

 そんな郷里のさまでしたから、余計この季節この詩が、深く少年時の私の胸に迫ってきたのでしょう。「ヴオロン(バイオリン)」や「鐘のおと」という西洋的な響きのする詩的言語から、19世紀末の巴里(パリ)の色鮮やかな落葉散り敷く街並みを、当時の私はどれだけイメージ出来ていたものか?
 ただ何となく、落葉舞い散る季節にバイオリンの音色はふさわしいと感じていたようです。木立に囲まれたさる洋館から、誰が奏でるのだろう、物悲しい旋律が木立をぬって広がり、落ちて散り敷く落葉をさらに悲愁の色に染め上げていく…。そんなことを漠然とながら感受していたようです。

 そしてバイオリンの哀切極まりない旋律が、この詩全体を通して流れているようで…。詩人の境涯を「ここかしこ さだめなく とび散らふ」落葉に仮託しているのならば、聴こえてくるバイオリン曲はどんな曲なのだろう?今の私には、『タイースの瞑想曲』あたりがふさわしいのかなと思うのですが…。

 (大場光太郎・記)

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夕星(ゆうずつ)の歌

              サッフォー

  夕星は、
  かがやく朝が(八方に)散らしたものを
  みな(もとへ)連れかへす。
  羊をかへし、
  山羊をかへし、
  幼な子をまた 母の手に
  連れかへす。

             (呉 茂一訳)
 …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 サッフォー(「サッポー」とも) 紀元前7世紀末~紀元前6世紀初めの、レスボス島出身の古代ギリシャの女流詩人。生前から詩人として著名であり、シチリア島のシュラクサイに亡命の時期に彫像が建てられたともいう。
 後世の哲学者・プラトンはサッフォーの詩を高く評価し、サッフォーを「十番目のムーサ(詩の女神)」と讃えたといわれている。

 この詩は、高校2年の時の現代国語の教科書に載っていました。とにかくあの頃は、見る詩文、読む文学、聴く音楽…すべてが私にとって新しい啓示のように、圧倒的な感激をともなって私の心に迫ってくるような時期でした。
 それは今となっては再現しようにも再現しがたい、「青春の不思議な力」としか形容できないような不思議な感動でした。

 後世サッフォーは「女流閨秀詩人」などとも呼ばれ、官能的な詩も残しているようです。その中でこの詩は、今から2,500年以上前のレスボス島の牧歌的夕暮れの情景を、平易に歌い上げています。時代も国もまったく異なりますが、昨年記事にしました中村雨虹作詞の『夕焼け小焼け』にも共通する詩的メンタリティを感じます。

 朝つまり太陽はものを「散らし」、夕星は「連れかへす」。この対比は面白く、さすが詩人的発想だと思います。
 なお「夕星(ゆうずつ)」とは、宵の明星すなわち金星のことを指しています。どなたもご存知のとおり、夕闇迫る頃合、西の空の中ほどに一番星としてひときわ強く輝いているのが見かけられます。地上のさまは大変わりしても、「夕星」は何千年経とうといささかも変わらないわけです。

 ところで「サッフォー」を語る場合、述べておかなければならないことがあります。サッフォーの詩は頽廃(たいはい)的であるとして、古代ローマ時代から非難の的となり、特にキリスト教の隆盛と共に彼女の詩は異教的頽廃の代名詞とされ、その過程で多くの作品が失われたようです。
 非難の中にはサッフォーを貶めるため、彼女を同性愛者とするものもありました。そのため「サッフィズム」という用語が生まれ、女性同性愛者を呼ぶのに用いられました。また今日女性同性愛者を呼ぶ一般的呼称である、「レスビアン」もサッフォーがレスボス島出身であることに由来しています。

 サッフォーは故郷レスボス島にて、ある種の学校を作り、若い娘たちを生徒として文芸、音楽、舞踊をはじめとする教育を行ったようです。彼女の詩の一部はその生徒のために書かれたものもあるようです。
 しかしサッフォーの生涯自体不明な点が多く、「生徒と同性愛の関係にあった」とする説は根拠がありません。上記のようなサッフォー詩排斥の過程で生じた曲解であったようです。

 (注記) 本記事は、「フリー百科事典『ウィキペディア』の「サッポー」の項」を参考にまとめました。なお、岩波文庫『ギリシャ・ローマ抒情詩選』(呉茂一訳)中の同訳詩のタイトルは『夕星』ですが、私の記憶では『夕星の歌』として残っており、今回はそれをタイトルと致しました。

 (大場光太郎・記) 

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原民喜-原爆詩

     コレガ人間ナノデス

  コレガ人間ナノデス
  原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
  肉体ガ恐ロシク膨脹シ
  男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
  オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
  爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
  「助ケテ下サイ」
  ト カ細イ 静カナ言葉
  コレガ コレガ人間ナノデス
  人間ノ顔ナノデス


            水ヲ下サイ

  水ヲ下サイ         天ガ裂ケ
  アア 水ヲ下サイ       街ガ無クナリ
  ノマシテ下サイ       川ガ
  死ンダハウガ マシデ   ナガレテヰル
  死ンダハウガ          オーオーオーオー
  アア               オーオーオーオー
  タスケテ タスケテ      
  水ヲ              夜ガクル
  水ヲ              夜ガクル
  ドウカ             ヒカラビタ眼ニ
  ドナタカ            タダレタ唇ニ
   オーオーオーオー     ヒリヒリ灼レテ
   オーオーオーオー     フラフラノ
                   コノ メチャクチャノ
                   顔ノ
                   ニンゲンノウメキ
                   ニンゲンノ


    火ノナカデ 電柱ハ

  火ノナカデ
  電柱ハ一ツノ芯ノヤウニ
  蝋燭ノヤウニ
  モエアガリ トロケ
  赤イ一ツノ蓋ノヤウニ
  ムカフ岸ノ火ノナカデ
  ケサカラ ツギツギニ
  ニンゲンノ目ノナカヲオドロキガ
  サケンデユク 火ノナカデ
  電柱ハ一ツノ芯ノヤウニ

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 原民喜(はら・たみき) 詩人、小説家。明治38年11月15日~昭和26年3月13日。広島県広島市に生まれる。昭和8年慶應義塾大学英文科を卒業。また同年、評論家・佐々木基一の姉である永井貞恵と結婚した。昭和10年、処女作品集『焔』を自費出版。昭和11年頃より、雑誌『三田文学』を舞台に短編小説を多く発表し始める。昭和17年、千葉県立船橋中学に英語教師として就職。昭和19年、妻が死去。昭和20年、郷里の兄の家に疎開し、8月9日原爆投下にあい被爆。この体験は『夏の花』(昭和22年)『鎮魂歌』(昭和24年)などの作品を生んだ。昭和25年、広島のペンクラブ主催の平和講演会に参加。昭和26年3月13日、吉祥寺西荻窪にて鉄道自殺。享年45歳。代表作は『夏の花』『廃墟から』『壊滅の序曲』『鎮魂歌』『原爆小景』など。

 原民喜の原爆詩3詩をご紹介しました。かくもリアルな極限詩には、何か付け加えるべき説明など不要かと思います。
 
 そこで原民喜本人のことについて少し―。
 多くの人の証言から察するに、原民喜という人は寡黙で孤独を好む人というよりは、人がこの世で生きていく上で必要とされる生活観念が欠如していたような、透明感漂う不思議な人だったようです。本当はこちらの世界に来るべきはずではなかった妖精的な存在が、何かの行き違いで生まれてきてしまった、そんな印象を受けます。

 原民喜は、戦前の青年時代「杞憂」という俳号を持っていたそうです。杞憂とはご存知のとおり、天が崩れ堕ちることに心を痛めた杞国人の憂いという、『列子』という書物の中の故事からきたものです。要はいらざる取り越し苦労の喩えです。
 しかしあの1945年8月6日、原の青年の日の杞憂が実現してしまうことになりました。古代中国の杞国人の荒唐無稽な憂いが、20世紀半ばの日本国・広島で現実のものとなってしまったのです。

 ある人は「原さんが生きるためには、そのいのちをこの世界に結びつけることのできる強いきずなが必要だった」と記しています。昭和19年の妻の死に深く悲しみ、その日から1年後に死のうと決めたそうです。しかし決めた日の1週間前に原爆投下が起こりました。原はなおそれから数年間生きることになったのです。
 何やら原民喜という人は、広島原爆に身をもって立会い、それを証言、告発する目的のためだけにこの世に生きた人だった、そのように思われるのです。

 (大場光太郎・記)

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帰郷

                中原 中也

  柱も庭も乾いてゐる
  今日は好い天気だ
        縁の下では蜘蛛(くも)の巣が
        心細さうに揺れてゐる

  山では枯木も息を吐く
  あヽ今日は好い天気だ
        路傍(みちばた)の草影が
        あどけない愁(かなし)みをする

  これが私の故里(ふるさと)だ
  さはやかに風も吹いてゐる
        心置きなく泣かれよと
        年増婦(としま)の低い声もする

  あヽ おまへはなにをして来たのだと……
  吹き来る風が私に云ふ

 …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 中原中也の略伝については、『サーカス』参照のこと。

 今は旧盆のただ中、あした13日は中日にあたります。全国各地それぞれの故郷に帰省している人もずいぶんおられることでしょう。今回はそんな時期にうってつけの詩として、中原中也のこの詩を取り上げてみました。

 昭和初期、時代を先取りするするかのような、斬新かつシャープな詩を作り続けた青春詩人である中原中也にしては、何やら土俗性すら感じられる詩です。私などはそのことにまず深い共感を覚えます。
 この詩は4聯詩です。出だしの1聯から3聯までは整然とした各聯4行で、中也を暖かく迎え容れてくれる慈母のような故里のさまが、中也独特の表現で描かれています。さながら「故里賛歌」といった趣きです。また中也の故里(山口県現山口市湯田温泉)に寄せる、並々ならぬ想いが伝わってくるようです。

 しかし最終聯である4聯に到って、事態は急変します。それを示すように、この聯のみは、2行とそれまでと比べて破調となっています。
  あヽ おまへはなにをして来たのだと……
  吹き来る風が云ふ
 「おまへはなにをして来たのだ」と叱咤する「吹き来る風」は、もちろん故里に属する五大(地、水、火、風、空)のうちの一要素です。「故里に声なし。風をして言わしむ」といったところでしょうか。とにかくここに到って故里は、それまでの慈母のようなさまから一転閻魔大王のような審判者としての厳しい面を露わにするわけです。

 ところでこの詩は、昭和5年5月中也が当時所属していた、音楽団体の機関誌『スルヤ』に発表されたのが初出のようです。中也23歳頃のことです。
 中也はそもそも大正14年3月18歳の時、早稲田大学受験のため上京しました。4月には、後に昭和を代表する評論家・小林秀雄と知り合います。(但し手続の不備により、早稲田は受験出来ず。)その前の年には、長谷川泰子と同棲もしています。

 余談ながら。以前の『サーカス』に、「中也が愛した女事務局」の方が、2度ほど4月に上演される『中也が愛した女』のPRコメントを寄せられました。この「中也が愛した女」こそが長谷川泰子で、共に上京するもその年の10月、泰子は中也のもとを去り小林秀雄に走りました。私は『機会があれば…』と思っていましたが、結局舞台は観られずじまいでした。同演劇では、中也、泰子、秀雄の微妙な関係を、ドラマチックに上演したものと推測されます。
 なお小林秀雄は、死後(30歳)すっかり世間から忘れられて無名だった中也を、(同じく友人だった大岡昇平と共に)ことあるごとに紹介しました。小林らの尽力がなければ、中也が今ほどメジャーな詩人たり得たか、疑問です。

 翌大正15年日本大学予科に入学するも、同年9月家に無断で退学。昭和3年には父が逝去するも帰郷せず。このように中也の東京生活は、後に無頼派と呼ばれた坂口安吾、太宰治、織田作之助らの走りのような、無頼なものだったのかもしれません。

 第4聯は以上のようなことを踏まえると、より理解出来るかと思います。
 「おまへはなにをして来たのだ」。だからこれは「吹き来る風」に仮託しているものの実はそうではなく、中也自身の自責の念、悔恨の想いが綴らせた言葉だったわけです。
 確かに離郷者に対して、故郷は決して甘いものではありません。久しぶりに帰郷でもすると、離郷の間の生き様を厳しく問い返す側面がある―それを私も痛感したことがあります。
 しかしそれゆえにこそ、故郷は「ありがたきかな」なのです。

 (大場光太郎・記)

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そゞろあるき

           アルチュール・ランボー

  蒼き麦の夜や
  麦の香に酔ひ野草をふみて
  こみちを行かば
  心はゆめみ、我足さはやかに
  わがあらはるる額、
  吹く風に浴み(ゆあみ)すべし。

  われ語らず、われ思はず、
  われたゞ限りなき愛 魂の底に湧き出るを覚ゆべし。
  宿なき人の如く
  いや遠くわれ歩まん。
  恋人と行く如く心うれしく
  「自然」と共にわれは歩まん。

          (永井荷風・訳詩集『珊瑚集』より)

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 アルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud) 1854年10月20日~1891年11月10日。19世紀のフランスの詩人。20世紀の詩人に多大な影響を与えた。主な作品に散文詩集『地獄の季節』、『イリュミナシオン』など。
 永井荷風(ながい・かふう) 1879年(昭和12年)12月3日~1959年(昭和34年)4月30日。小説家。号は断腸亭主人、金阜山人。代表作『つゆのあとさき』『墨東綺譚』など。

 私がこの詩(訳詩)に初めて出会ったのは、高校三年生のちょうどこの詩の季節頃でした。高3の現代国語で学んだ何篇かの詩の一番初めにこの詩があったのです。
 何度も繰返すようですが、私の人生で最も多感な時期で、とにかく詩でも、漢詩でも、訳詩でも、外国歌曲でも『これだ ! 』と思うものは心にびんびん響いてくるような時期でした。 この訳詩も何と鮮烈に私の心を捉えたことか !

 「蒼い麦の夜や」でまずハッとさせられます。私の郷里に麦畑はあまりありませんでしたので、余計「蒼い麦の夜」は新鮮でした。
 しかし後に続く情景は、郷里の情景とさほど変わりません。どんどん感情移入でき、まるで私自身がこの詩の中の「こみち」を歩いているような感覚にとらわれました。爽やかで涼しげな夜の野道を闊歩する感じです。

 この詩はランボー15歳の時の詩だそうです。彼の略伝によりますと、15歳から詩を作り始めピークは19歳だったそうです。何とも恐るべき「早熟の天才」ですが、この詩はそうするとごく初期の詩ということになります。
 「心はゆめみ、我足さはやかに わがあらはなる額、吹く風に浴みすべし」。「われただ限りなき愛 魂の底に湧き出るを覚ゆべし」。今まさに内なる天才が花開かんとする予兆に、心が躍っているようです。

 (ここで話題一変)「宿なき人の如く いよ遠くわれ歩まん」。これは、詩人のその後を予見していたかのような一節です。というのも、間もなくランボーは故郷を捨てパリに出て行くことになるからです。そして年長の詩人・ヴェルレーヌと知り合い、一時深い仲(同性愛)となり、ヴェルレーヌがランボーの左手首を拳銃で撃つという悲劇的結末が訪れます。
 直後代表作『地獄の季節』をまとめ、21歳で詩作を止め、亡くなる直前37歳で病を得て南仏に戻ってくるまで、遠くアラビアにまで赴き、まさに「宿なき人(原詩ではジプシー)」のような人生を送ることになるのです。

 考えてみれば、ランボーの原詩をいっそう光彩あるものにしているのは、永井荷風の訳業のたまものと言えます。荷風自身アメリカやフランスに滞在したこともある、当時の欧米通です。しかし同時に、『墨東綺譚』などに見られる豊かな江戸情緒や、漢文の素養も十分に持ち合わせていました。そのためか、訳詩にままありがちな生煮えのバタくさい感じがまったくありません。我が国の自然風土に無理なく溶け込ませたような、名訳詩だと思います。

 この詩はその後、中原中也をはじめ、フランス文学者なども訳を試みているようです。それらを読み比べてみると、(当時は何の抵抗もありませんでしたが)確かに文語調で幾分古めかしさはあります。しかし私にとってこの詩は、多感な時期に初めて読んだ、荷風の『そゞろあるき』に限ります。

 (大場光太郎・記) 

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絶句

      杜甫

  江碧鳥逾白   江(こう)碧(みどり)にして 鳥逾(いよいよ)白く
  山靑花欲然   山靑くして 花然(も)えんと欲す
  今春看又過   今春看(みすみす)又た過ぐ
  何日是歸年   何(いずれ)の日か 是れ 歸年ならん

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 杜甫(とほ) 712年(先天元年)~770年(大暦5年)。現在の湖南省生まれ。中国盛唐の代表的詩人。字(あざな)は子美。杜少陵、杜工部とも呼ばれる。律詩の表現を大成させた。詩人としての最高位の呼称である「詩聖」と後世の人から讃えられ、同時代の李白と並び称される。
 杜甫の詩の特徴は、社会の現状を直視したリアリズム的な詩が多く、一時交流のあった李白の幻想的で自由闊達な詩風とは反対の詩風をもっていた。特に756年の「安禄山(あんろくざん)の乱」では、杜甫自身壊滅した首都・長安から脱出し一時賊に捕まり幽閉された。それらの体験に基づいた、代表的な詩『春望』などの悲しみに満ちた詩を作っている。
 杜甫は「漂泊の詩人」として、古来我が国の文学作品にも多大な影響を及ぼした。特に松尾芭蕉は、杜甫に深く傾倒していた。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「杜甫」の項より)

 この詩を最初に学んだのは、高校2年頃の漢文の授業だったと思います。私の漢詩の知識はそもそも高校漢文が土台になっています。その後20代後半の頃、岩波文庫版『唐詩選』や岩波新書の吉川幸次郎の『新唐詩選』を、少し読んでみたくらいなものです。ですから決して偉そうなことは言えませんが、私の乏しい漢詩知識の中で杜甫は最も好きな盛唐詩人です。そしてその杜甫詩の中でも、この『絶句』が一番のお気に入りです。

  江碧にして 鳥逾白く
  山靑くして 花然えんと欲す
 最初のこの二句のたった十文字だけで、杜甫が目の当たりにしている春景が完璧に表現されていると思います。極めて視覚に訴えてくる詩です。杜甫とともに、ビジュアルにこの詩の景色がたどれそうです。
 この詩は、安禄山の乱を逃れて、古えの蜀の都・成都に避難していた頃の作といわれています。ですから「江」は一般的に大きな川という意味ですが、この詩では成都を貫流して長江へ注ぎ込む一支流となります。
 第一句の「江碧鳥逾白」と第二句の「山靑花欲然」は、「江の景」と視線を転じた「山の景」の対(つい)になっています。それとともに、第一句はさらに「江碧」と「鳥(逾)白」と句中の対、また第二句の「山靑」と「花然」も句中の対になっており、このような対比の妙により精緻を極めた詩との感を深く致します。

 「碧(みどり)」はあおみどり色、今風な表現ではエメラルドグリーンです。川の水がエメラルドグリーンであることによって、その上を飛び交っている水鳥の白がいっそう引き立っているように思われます。
 「山靑」は、青葉の深緑に覆われた山のさまをイメージすればよいと思います。「花然」は「花燃えん」ですから、花の色はさながら今しも炎をあげて燃えるばかりの赤い色なわけです。ここでも、「青」と「赤」の際立った色彩的コントラストの妙がみてとれます。

 と晩春の大景を余すところなく叙景して。転句である第三句において、一転杜甫自身の内心の吐露となります。
  今春看又た過ぐ
 今年の春もこうしてみすみすやり過ごしてしまったか ! という詠嘆です。歴史的な大詩人の詠嘆とはおよそ比較にならないものの、私もまたこのような嘆きをいっぱい持っている一人です。特に20代の頃は、過ぎて去っていく日々というものに今よりずっと鋭敏だったようです。それが証拠に、毎年惜春の候になると決まってこの詩が思い出され、独り『あぁあ。今春みすみすまた過ぐ…か』などと思っていました。そうして何かしら満たされない想いの残る、青春の一春一春を見送ってきたような気がするのです。

  何の日か 是れ 歸年ならん
 そして結句の言葉です。この感懐は、同じ杜甫の詩の『春望』とどこか共通しているように思われます。安禄山の乱よ早く収まってくれ、私は郷里に戻りたいのだ、という祈りのような心情だったのでしょうか。
 この感懐によって、杜甫は目の当たりにしている美しい江山の景色を、ただ単純に賛美しているのではないことが分かります。美しい詩の言葉の言外に潜ませている哀しみ。これこそが杜甫詩の魅力です。

 (大場光太郎・記)

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春の岬

            三好達治

  春の岬旅のをはりの鴎どり
  浮きつつ遠くなりにけるかも

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 三好達治(みよしたつじ) 1900年8月23日~1964年4月5日。大阪府大阪市出身。詩人。
 初め職業軍人を目指し陸軍士官学校に進むが、脱走事件を起こし退学処分となる。京都三高文科に入学。詩人丸山薫の影響で詩作を始める。やがて東京帝国大学文学部仏文科に進む。大学在学中に梶井基次郎らと共に同人誌『青空』に参加。その後萩原朔太郎と知り合い、詩誌『詩と評論』創刊に携わる。シャルル・ボードレールの散文詩集『巴里と憂鬱』の全訳を手がけた後、処女詩集『測量船』を刊行した。叙情的な作風で人気を博した。
 『艸(くさ)千里』『駱駝の瘤にまたがって』など十数冊の詩集のほか、詩の手引書『詩を読む人のために』や随筆集『路傍の花』などがある。1953年芸術院賞、1963年読売文学賞を受賞。 (フリー百科事典『ウィキペディア』・「三好達治」の項より)

 形式は短歌ですが、詩アンソロジーには「詩」として収録されています。そこで当ブログでも『名詩・名訳詩』カテゴリーでご紹介することに致しました。

 この詩ではまず冒頭に「春の岬」と叙景の言葉を持ってきます。このことにより、読む者に季節は春であること、そして詠まれている場所は「岬」であることを強く刻印させる詩的効果をもたらしているように思われます。
 詩人は旅そのものを克明に叙述することはしません。その代わりにこのような一編の短詩によって、己の心の奥深くに刻み込むのです。

 この詩の舞台である「春の岬」が、具体的にどこなのかは分かりません。「海に突き出た陸地の先端」を岬というのであれば、犬吠岬、三浦岬、足摺岬…海洋国日本の海沿いに数限りなくあります。しかしなぜか私は、この詩を最初に読んだ時から、そのような内陸の岬ではなく、例えば伊豆大島のような孤島の突端としての岬がイメージされてくるのです。
 それはさておき。三好達治は日本のどこかの岬に接した地を旅して、春たけなわのその地を堪能し、かつ深い印象を刻んだのでしょう。そうでなければ、このような優れた抒情詩が生み出されることはなかったでしょうから。

 詩人のデリケートな心情からすれば、旅は自宅に帰りついた時に終わるのではなく、岬から船に乗り込んだことをもって「旅のをはり」と感受されたわけです。そして旅の終わりを感受させた、いわば旅全体を締めくくるような存在が「鴎どり」。
 鴎は、岬にほど近き海の上をただ飛び回っているだけ。詩人を慕って追いかけてくるようなことは、決してありません。早や帰船の人となって、船からその飛翔のさまを眺めている詩人と鴎の距離、つまりその先の岬とさらにその奥の旅してきた土地との距離はどんどん離れ遠くなっていくばかり。
 だからこそ、鴎は旅全体の象徴的意味合いを帯びて、詩人の心に感じられてきたわけです。

 「浮きつつ遠くなりにけるかも」。詩人は、遠ざかりゆく鴎の姿を「飛びつつ」というしっかりした運動とは捉えていないのです。何か現実感覚が抜け落ちたように、ふわりふわりと浮いているかのような鴎たちの姿。
 その先の海辺のまたその奥の旅で出会った様々な事どもや人々は、一体何であったのか?つかの間の夢幻(ゆめまぼろし)ででもあったのだろうか?
 詩人は船上で、しばしそんな奇異な感にうたれていたのかもしれません。

 (大場光太郎・記)  

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毎朝世界は新しく創られる

                   作詩者不詳

  毎日が新しきはじまりである。
  毎朝、毎朝世界は新しく創られる。
  悲しみと罪の重荷に打ちひしがれしあなたよ、
  此処(ここ)にあなたにとっての美しい希望がある。

  過去にありし全ての事物は過去であり、
  すでに終わったのである。
  仕事は終わったし、涙はすでに流されたのである。
  昨日(きのう)の過ちは、昨日にて終わらしめよ。
  血を流して、うずいた昨日の傷は、
  夜のうちに注がれた神の癒しの力で癒されたのだ。

  毎日毎日が新たなるはじまりである。
  聴け、我が魂よ、歓びの今日(きょう)の讃歌を。
  古き悲しみと過去の罪のけがれと、
  及び未来に予想される苦しみを払いのけ、
   今日を勇気をもって起き上がり、再びはじめようではないか。

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《私の観賞ノート》
 作詩者不詳です。おそらく、19世紀後半から20世紀前半頃の米国の誰かの詩と思われます。また訳詩者も不明です。よって著作権は発生していませんので、今回ご紹介することにしました。

 この詩を知ったのは、20数年前のことです。当時30代前半だつた私は、一時期ナポレオン・ヒルの『成功哲学』やジョセフ・マーフィーの『眠りながら成功する』のような分野の本を集中的に読んでみたことがあります。(私の心の奥底には、「成功」の足を引っ張るネガティヴなものがけっこう潜んでいたようで、思うような実際的成果は得られませんでした。しかしさすがに、心を鼓舞され大いに刺激を受けたことは間違いありません。)
 当時我が国でも、謝世輝という台湾出身の東海大学教授が、米国式成功哲学を土台に独自の理論も盛り込んだ本を次々に出版し、ちょっとしたブームになっていました。今となっては忘れましたが、謝世輝の何れかの本の中でこの詩が紹介されておりました。
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 今の季節は春たけなわ、ゴールデンウィークの真っ只中です。一見すると、去年と同じ春を今年もまた繰返しているかのようです。しかし実は、去年の春と今年の春は違うのです。なぜなのでしょう?地球は、去年の今頃と同じ時空にはいないからです。
 
 どなたもご存知のとおり、地球は太陽の周りを1年365日かけて公転しています。しかし実は太陽系全体も、「ある星(中心恒星)」を約26,000年かけて大公転しているのです。そしてその中心星も太陽系も共に約2億2,500万年かけて、銀河系の中心太陽(セントラルサン)を超大公転しています。それだけではありません。私たちが属する銀河系自体がさらに他の無数の銀河と共に、「この宇宙」の大中心太陽(グレートセントラルサン)を、数十億年かけて超々大公転しているのです。
 
 「上のごとく下もかく有り」とは、神秘探求者にとっては古来から知られた有名な定理です。このように、宇宙全体のありとあらゆるものが、時空間を絶えず旋回しながら、よりよい変化のための螺旋(らせん)上昇運動をたゆむことなく続けているのです。
 地球が巨大な「ガイア意識」であるのと同じ原理で、宇宙全体が超巨大な「生命体」であるのです。私たちが属しているのは、「死せる宇宙」ではなく、瞬々に脈動し呼吸し生成発展している「生ける宇宙」なのです。

 ここまで想いを致せば、なぜ「毎日世界は新しく創られる」のか、より深い理解が得られるのではないでしようか?毎日毎瞬、世界はまさに新たに生まれ変わり更新し続けているのです。それゆえどの一日もどの瞬間も、いい加減に手抜きして惰性で過ごしてよい時間というものはないと思われます。
 まさに、「過去の後悔に生きず。未来の不安に生きず」。人生の真の達人がそうであるように、私たちもまた「永遠の中今(なかいま)」である「今この時」にピタッと照準を合わせて、真に実りある日々刻々を生きるべく心がけてゆきたいものです。

 (大場光太郎・記) 

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客舎青青柳色新たなり

    送元二使安西  (元二の安西に使するを送る)

          王維

  渭城朝雨浥軽塵   渭城(いじょう)の朝雨(ちょうう)軽塵(けいじん)をうるおす
  客舎青青柳色新   客舎青々(かくしゃせいせい)柳色(りゅうしょく)新たなり
  勧君更尽一杯酒   君に勧む更に尽くせ一杯の酒
  西出陽関無故人   西のかた陽関(ようかん)を出ずれば故人なからん 

                                  (原詩の一部の漢字を新字体で表記しています)
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《私の観賞ノート》
 王維(おうい) 699年~759年または701年~761年。太原(現在の山西省太原)出身。中国盛唐期の高級官僚にして、盛唐を代表する詩人。同時代の詩人李白は詩仙、杜甫は詩聖と称されるのに対して、王維は詩仏と呼ばれた。(南北朝時代の)南朝以来続く自然詩を大成させた。王維はまた画家、書家、音楽家としても名をはせた。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「王維」の項より)

 桜の花もやっと咲きはじめのこの季節、野山はまだほんの「笑いかけ」で、うすぼんやりとくすんだ緑色にすぎません。そんな中柳の木ばかりは、しだれた枝々にみずみずしい若葉を芽吹かせています。
 ことに、市街地からだいぶ外れた郊外を流れる小河川の堤防沿い。そこに柳の木が連なってでもいようものなら、思わず息を飲むほどの柳若葉の風情です。

 さてこの詩についてです。知人の元二(元家の二男の意)が、公務で安西に使者として旅立つのを見送った時の情景を詠んだ詩です。この詩の季節が春であることは間違いないと思われます。しかし盛春(新緑)なのか晩春(深緑)なのかはハッキリしません。ただ二句の「客舎青青柳色新」から推察するに、どちらかといえば晩春の候だったのかなと考えられます。
 詩全体のおおよその意味は以下のとおりです。
 
 ―渭城に朝降った雨は、舞い上がる塵を潤して(抑えて)いる。安西に旅立つ元二の送別の宴のために入ることとした客舎(旅館)の庭に生えている草木は、朝雨のため青々としていて、分けても柳の緑葉は甦ったように生き生きとした新たな色合いを見せている。
 (転句である三句で、場面は変わって客舎の中の宴)。さあ、元二氏よ。もう一杯飲み乾したまえ。この先西の方の陽関の外に行ってしまえば、もう知り合いは誰もいなくなるのだから。
 この七言絶句は、第一句、第二句が特に絵画的です。わずか十四文字で、客舎周辺のようすがくっきりと視覚的にイメージされてきます。

 渭城とは、渭水のほとりにあった秦、漢の時代の都・咸陽(かんよう)のことで、現在の咸陽市よりやや西にあった都のようです。そこから元二は渭水沿いに西へ向い、やがて現在の蘭州付近で黄河を渡り、河西回廊を通って敦煌に到り、その南の陽関からいよいよ西域(シルクロード)に出てやっと安西にたどり着くルートを経たようです。
 安西には当時、安西都護府という唐の西域の前哨基地が置かれていました。唐の首都・長安から2,500kmという、遙か彼方の辺境の地です。

 結句の言外にひそませている想いとして。送る王維も、送られる元二も別離の情は例えようもなかったと思われます。ことに、これより千里の彼方の砂漠に旅立たなければならない元二にとって「客舎青青柳色新」は、心底目にしみたことでしょう。
 ただ「使い(使者)」であることが、救いといえば救いです。かの地の都護府役所での用向きが済めば、ある程度の滞在期間の後戻れることになるはずだからです。これが「赴任」だったとしたら、そうはいきません。古(いにしえ)の王昭君(おうしょうくん)や李陵(りりょう)のように、かの地に骨を埋める覚悟で旅立たなければなりませんから。
 (注 王昭君は紀元前1世紀頃の前漢の宮女。匈奴の王の妻となるべくかの地に送られた。中国四大美女の一人。 李陵は漢の武帝の時の将軍。匈奴との戦いで善戦するも、敵に寝返ったと誤解され、帰国を果たせずかの地で没した。)

 この詩は、後世中国版『蛍の光』のような別離の歌として、民衆に広く歌い継がれていったようです。現代中国でも、必ず学校で教えるそうです。そういえば私は数年前、厚木市の某出先機関の「ビデオライブラリー」の一つとして、NHK『漢詩紀行』の「王維編」を借りて観たことがあります。その中で初老の男性が、この詩を音吐朗々と吟じていたのがとても印象的でした。
 (大場光太郎・記)

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春暁(しゅんぎょう)

      孟浩然

  春眠不覺暁    春眠暁(あかつき)を覚えず
  處處聞啼鳥    処処啼鳥(ていちょう)を聞く
  夜来風雨聲    夜来風雨の声
  花落知多少    花落ちること知りぬ多少ぞ

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《私の観賞ノート》
 孟浩然(もう・こうねん) 永昌元年(689年)~開元28年(740年)。中国唐の時代の代表的詩人の一人。襄州襄陽(現在の湖北省襄樊市)出身。若い頃から侠気を好み、各地を放浪し人々と交流した。詩の特徴から、王維と孟浩然は「王孟」と並び称された。

 我が国の清少納言に「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎわ、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる」の名文あるとすれば、中国の盛唐詩には「春眠暁を覚えず」の名絶句ありといったところでしょうか。
 この詩は我が国にも早くから伝わり、以来広く愛読されてきました。

 本日22日当地(いや、関東はじめ広い地域で?)朝から突風、強風が吹き荒れた一日でした。しかも外に出てみると、突風には雨も少し混じっていて、横なぐりに道行く私目がけて吹きつけてきました。「夜来風雨聲」ならぬ「終日風雨聲」といった感じを抱きながら、ふとこの詩を思い出しました。
 しかしきょうの風は、悠長に詩など詠めないほどの強風でした。『地域によっては被害が出るんじゃないの?』と思われました。(もっとも夕方には、強風の方はおさまりました。)

 春の季語の一つに、「春疾風(はるはやて)」というのがあります。「春の強風、突風をいう。西または南の風で、雨を伴ったり、長時間砂塵を巻いたりする」(角川文庫版『俳句歳時記・春の部』より)。本日の突風にぴったりの定義です。
 昨21日は、東京の一部の桜(染井吉野)が予報どおり開花したそうです。また春の季語として「花散る」があり、その発展形として「花散らしの風」というのもあります。この場合の「花」とは「桜の花」を指します。古(いにしえ)から人々にとって、「花といえば桜」。桜はそれほど、日本人の美意識に深く浸透している花です。
 「花散らしの風」はしたがって、桜が満開の頃に吹く、突風を伴う強風のことです。桜はきのう開花したばかりですから、本日の風はそれとはまた別の風ということになります。強いてあげれば、春彼岸の頃に吹くとされる、「彼岸西風(ひがんにし)」ということになろうかと思われます。

 『春暁』の詩の解題から大きく逸脱してしまいました。
 しかしこの五言絶句は、古来広く人々に知られた名詩です。改めて注釈を施す必要などないと思います。但し転句・結句の「夜来風雨聲 花落知多少」の「風」は、まだ花々に乏しい今回の風よりも後の「花散らしの風」に近いのかなと推測します。
 もちろんこの詩の中の「花」は桜ではありません。さて盛唐の頃の春の花とはどんな花だつたのでしょう?孟浩然が愛で、長安の深宮の壮麗な庭園にて、玄宗皇帝がそして傾国の美女・楊貴妃が毎春ごと愛でていたであろう花とは。桃の花、牡丹の花はたまた別の花?大変興味深いところです。

 (大場光太郎・記)

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