【これは驚いた】今年のノーベル文学賞は反戦メッセージソング「風に吹かれて」のボブ・ディラン氏に!もちろん音楽家としては初

-いやあ、ビックリのニュースである。今年のノーベル文学賞受賞者は、米国のシンガーソングライターのボブ・ディラン(75)(敬称略)だというのだ。詩人としてはタゴール(インド)やエリオット(イギリス)など何人もの受賞者がいるが、音楽家としては初めてだという。今なお新たな創造性に基づいた歌作りを続けているというボブ・ディランの歌詞の文学的水準の高さが決め手となったようだ。私にとってなんと言っても印象に強いのは、彼の代表曲『風に吹かれて』(1968年)である。いや実際、往年の西部劇不朽の名作『シェーン』主演のアラン・ラッドは他の映画にも出ているが「シェーン役としてのアラン・ラッド」であるように、ボブ・ディランといえば「風に吹かれて」。私としてはこの一曲で十分なのである。この歌は多分、アメリカがいよいよのめり込み始めたベトナム戦争へのレジスタンスソング、プロテストソングで、それが当時の全米中の若者たちの熱狂的支持になったのだろう。不確かな私の記憶では、この歌は数年ほど遅れた1968年頃からわが国で歌われ出したのではなかったかと思う。ちょうど私が山形から当市にやってきたばかりの頃だったので、その意味でもこの歌は鮮烈なのだ。以下に原詩と日本語訳を掲げるが、この歌などがわが国のフォークソングブームに火をつけたといって過言ではないと思う。末尾にこの歌と共に日本でも歌われた米国フォークソングの名曲を並べてみた。あれから50年近くになるが、久しぶり聴いてみると懐かしさで涙がこぼれそうだ。なおボブ・ディランが受賞したのなら、わが「青春のデュオ」サイモン&ガーファンクルのポール・サイモンもいつか受賞してもらいたいものである。ポール・サイモンも文学性と深みのある名歌詞を数多く残しているのだから。テレビなどの商業ベースに乗ってヒットしていったわが国フォークソングは歌の深みにおいて、ボブ・ディランやポール・サイモンの歌とは残念ながら段違いだと思う。ところで毎年この次期になると恒例となっている「文学賞ノミネーター」(笑)の村上春樹。今年は特に英国ブックメーカーの予想では1位となるなどいつにも増して期待されたが、蓋を開けてビックリの意外な人物にまたしても受賞をさらわれた感じだ。村上作品は申し訳ないながらまだ一冊も読んでいないので「村上文学」の評価のしようがないのだが、今年に限って言えば『ノルウェーの森』などの大部の作品群が、ボブ・ディランの詩業に完敗したということなのだろうか。まあこれだけ毎年下馬評に上っていて村上文学が真に世界水準にあるのであれば、スウェーデン・アカデミーも「そのうちムラカミに」と思ってはいると思うのだが・・・。 (大場光太郎・記)-

Blowin'The Wind  ボブ・ディラン 風に吹かれて   


Blowin' In The Wind : Bob Dylan

  How many roads must a man walk down
  Before you call him a man?
  Yes, 'n' how many seas must a white dove sail
  Before she sleeps in the sand?
  Yes, 'n' how many times must the cannon balls fly
  Before they're forever banned?
  The answer, my friend, is blowin' in the wind,
  The answer is blowin' in the wind.

  How many years can a mountain exist
  Before it's washed to the sea?
  Yes, 'n' how many years can some people exist
  Before they're allowed to be free?
  Yes, 'n' how many times can a man turn his head,
  Pretending he just doesn't see?
  The answer, my friend, is blowin' in the wind,
  The answer is blowin' in the wind.

  How many times must a man look up
  Before he can see the sky?
  Yes, 'n' how many ears must one man have
  Before he can hear people cry?
  Yes, 'n' how many deaths will it take till he knows
  That too many people have died?
  The answer, my friend, is blowin' in the wind,
  The answer is blowin' in the wind.


ボブ・ディラン Bob Dylanの曲「風に吹かれて」 Blowin' In The Wind
(壺齋散人による歌詞の日本語訳)

  どれほどの道を歩かねばならぬのか
  男と呼ばれるために
  どれほど鳩は飛び続けねばならぬのか
  砂の上で安らげるために
  どれほどの弾がうたれねばならぬのか
  殺戮をやめさせるために
  その答えは 風に吹かれて
  誰にもつかめない

  どれほど悠久の世紀が流れるのか
  山が海となるには
  どれほど人は生きねばならぬのか
  ほんとに自由になれるために
  どれほど首をかしげねばならぬのか
  何もみてないというために
  その答えは 風に吹かれて
  誰にもつかめない

  どれほど人は見上げねばならぬのか
  ほんとの空をみるために
  どれほど多くの耳を持たねばならぬのか
  他人の叫びを聞けるために
  どれほど多くの人が死なねばならぬのか
  死が無益だと知るために
  その答えは 風に吹かれて
  誰にもつかめない


      ボブ・ディランを象徴する曲で、プロテストソングの名作として今でも歌われている。1963年にリリースされ、アルバム "Free Wheelin' に収録された。

http://beatles.hix05.com/Bob-Dylan/dylan01.blowin.html より

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「風に吹かれて」を歌っていた頃のボブ・ディラン


ボブ・ディラン氏にノーベル文学賞=「風に吹かれて」の米歌手-詩の表現、高く評価
https://news.nifty.com/article/world/worldall/12145-2016101300821/
2016年10月13日 23時43分 時事通信

ボブ・ディラン氏にノーベル文学賞=「風に吹かれて」の米歌手-詩の表現、高く評価

米シンガー・ソングライターのボブ・ディラン氏=2011年4月、豪ニューサウスウェールズ州(AFP=時事)

 【ロンドン時事】スウェーデン・アカデミーは13日、2016年のノーベル文学賞を「風に吹かれて」などのヒット曲で知られる米シンガー・ソングライターのボブ・ディラン氏(75)に授与すると発表した。授賞理由として「米国の楽曲の偉大な伝統の中で新たな詩の表現を創造してきた」点を挙げた。村上春樹さんは受賞を逃した。
 スウェーデン・アカデミーのサラ・ダニウス事務局長は13日、授賞発表に際し「彼は偉大な詩人だ。(デビューから)50年以上経てなお、新たな自己を発見し続けている」と絶賛した。
 「時代は変る」「ライク・ア・ローリング・ストーン」など、半世紀にわたり創作してきた楽曲歌詞の文学性を高く評価されての栄誉で、ミュージシャンのノーベル文学賞受賞は初めて。米国からの受賞は1993年の黒人女性作家トニ・モリスンさん以来23年ぶりとなる。
 41年、中西部ミネソタ州生まれ。フォークシンガーとして62年にレコードデビュー。生ギターの弾き語りによるプロテストソングを数多く作り、公民権運動の盛り上がりの中で「時代の代弁者」として脚光を浴びた。さらにベトナム戦争の時代を通じ、米国内外にファンを広げた。
 65年前後からビートルズらの英国ロックに刺激を受け、エレクトリックサウンドを導入するなど、新しい試みにも挑戦した。ただ「ロックの詩人」として新しいファン層を獲得する一方で、伝統的フォークファンからは批判も受けた。
 66年にはバイク事故をきっかけに半隠遁(いんとん)生活に入るなどしながらも演奏活動を続け、米グラミー賞やアカデミー賞を受賞し続けた。ロックの殿堂入りも果たした。
 ランボーら象徴派詩人に影響を受け、ギンズバーグらビート派詩人らとも交流したディラン氏は、歌詞などを集めた詩集も刊行。2008年にはピューリツァー賞特別賞を受賞するなど、その文学性は高く評価されてきた。
 賞金は800万スウェーデンクローナ(約9500万円)。授賞式は12月10日にストックホルムで行われる。

(転載終わり)

関連動画
Joan Baez ~ Donna, Donna 


Joan Baez ~ 500 Miles 


花はどこへ行った(Where Have All The Flowers Gone?) Peter,Paul&Mary 1962


ピーター・ポール&マリー(PPM)/虹と共に消えた恋(Gone The Rainbow)   


七つの水仙   Seven Daffodils   Brothers Four         


サイモン&ガーファンクル『明日に架ける橋』   

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カルメン・マキ「戦争は知らない」


  『戦争は知らない』 いやあ、懐かしい歌が動画アップされたものです。
 アップしてくれたのは「enka no ojisan」さん。この人は別に「uta no ojisan」さんとも名乗っておられますが、いずれも「フォレスタ動画」をけっこうアップしてくれており、その関係でよく存じている人です。

「enka no ojisan」というくらいですから、ずい分な数の演歌曲をアップしています。しかし今の私の関心はこの人のアップしてくれているフォレスタコーラス曲を聴くことであり、演歌は申し訳ないながらほとんどスルー状態でした。

 しかしたまたまこの歌がアップされているのを見つけ、『おっ!』となって思わず聴いてしまいました。

 この歌が最初に歌われたのは1969年(昭和44年)だったようですが、当時私はちょうど20歳。あの頃は若者たちが中心となった「フォークソング」が爆発的な大ブームになりつつあった時代でした。

 ちなみにこの年ヒットしたフォークソングには、『時には母のない子のように』(カルメン・マキ)『フランシーヌの場合』(新谷のり子)『白いサンゴ礁』(ズー・ニー・ヴー)『真夜中のギター』(千賀かほる)『白いブランコ』(ビリー・バンバン)『風』(はしだのりひことシューベルツ)『或る日突然』(トワ・エ・モア)などがあります。

 今振り返ってみれば、「フォークソング大収穫の年」といってもいいような壮観さです。その中で『戦争は知らない』はこれらの歌ほどにはヒットしなかったようです。が、私自身は結構“お気に入り”で当時よく口ずさんでいました。

 そういう懐かしさもあり、およそ四十数年ぶりに聴いたこともあり、聴くほどにジーンとなり不覚にも涙がこぼれてしまいました。

 野に咲く花の 名前は知らない
 だけども野に咲く 花が好き ・・・・・・

 著作権法の関係で残念ながら全部の紹介はできませんが、まずもって詩がいいです。それもそのはず。当時は知りませんでしたが、作詞したのは寺山修司なのです(作曲:加藤ヒロシ)。

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 当時寺山は、単に俳人、歌人、詩人であることから何歩も踏み出し、評論『書を捨てよ、町へ出よう』(後に演劇や映画化もされた)、アングラ映画『初恋地獄編』の脚本(監督:羽仁進)、アングラ劇団『天井桟敷』結成&活動など、当時の若者へのアジテーターとしての面目躍如たるものがありました。ちなみに『初恋地獄編』、今となってはどんな内容だったか皆目覚えていませんが、封切り当時新宿に観に行きました。

 上に列挙したフォークソングの中には甘ったるいラブソングが無きにしも非ずです。その点『戦争は知らない』は、そもそも日本でのブームのきっかけとなった、『風に吹かれて』(ボブ・ディラン)『花はどこへ行った』(ジョーン・バエズ)などアメリカの骨太のベトナム反戦フォーク直伝のようなしっかりしたメッセージ性を感じます。

 当時は世間知らずな洟を垂らした青二才の私でしたが、そういう事を直感的に感じてよく口ずさんでいたのかもしれません。

 なお寺山修司自身歌が好きだったようです。当時売れていたカッパブックスだったかと思いますが、『私の好きな歌』というような本を出しました。私も一冊買いましたが、開いた2ページに一曲で、右に寺山のコメント、左に楽譜と歌詞が載っており、わが国の懐かしの歌謡曲・唱歌・童謡、昭和30年から「歌声喫茶」などでよく歌われたロシア民謡、アメリカ民謡などが取り上げてありました。とうに処分してしまい、大変残念です。

 これは余談ですがー。

 同じようなテーマでジローズの『戦争を知らない子供たち』というも歌ありました。
 こちらは作詞:北山修、作曲:杉田二郎で、『戦争は知らない』より少し遅い1971年(昭和46年)の歌です。タイトルからして『戦争は知らない』に触発されて作ったのだと思われますが、結果的にこちらの方が大ヒットとなり、「戦争を知らない子供たち」は、以後私ら“団塊の世代”を形容するキーワードの一つにもなりました。

 さてこの『戦争は知らない』を歌っているカルメン・マキについても触れないわけにいきません。この歌がそうだったように、カルメン・マキの名前を聞くのも久しぶりなのです。

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 上の昭和44年フォークソングにも出ていた『時には母のない子のように』で一躍注目されました。長い髪にエキゾチックな顔立ちの少女、それもそのはずで(アイルランドとユダヤの血を引く)アメリカ人の父と日本人の母とのハーフなのです。そして何より驚かされたのは、暗く沈んだ感じのこの歌を切々と歌い上げているその歌唱力です。

 今回知ったことには、この歌も寺山修司の作詞だったのです(作曲:田中未知)。たまたま天井桟敷舞台を見に行き、感激して即入団ということから寺山との縁が出来、カルメン・マキが初舞台の『書を捨てよ町へ出よう』の中で歌っているところをCBSソニーの人に認められ歌手デビューに至った、という事のようです。

 たまにその名を思い出すことはあっても、その後の消息は知らず、もうとっくに歌手活動はやめたのかな?と思っていました。が、どっこい現在でも全国のライブハウスを精力的に回っているとの事です。

 カルメン・マキにとって恩師といってもいい、故・寺山修司が作詞した『戦争は知らない』をとあるライブハウスで歌ったのが今回の動画だと思われます。
 私ごときが言うのも何ですが、『時には母のない子のように』の当時もなかなか歌唱力があるなと思っていましたが、年輪を重ねてさらに歌唱に磨きがかかり、歌が格段にうまくなっていると感じられます。

 元々この歌を歌ったのはわが国フォークソングの草分け的グループであるフォーク・クルセダースでしたが、今回のカルメン・マキの歌唱は説得力があり、しっとり、しんみり聴かせてくれます。

 申し遅れましたが、加藤ヒロシ作曲のこの歌のメロディも素晴らしく、心にしみとおる名曲だと思います。

 (大場光太郎・記)

関連動画
カルメン・マキ『時には母のない子のように』
https://www.youtube.com/watch?v=uHCxfTtUrXE

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今も心にしっかり届く、かつて「フォークの神様」と呼ばれた岡林信康のメッセージソング

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 たまたま『大摩邇』に、岡林信康の歌の動画が紹介されていました。今の若い人たちは知らないかもしれませんが、岡林信康は昭和40年半ばのフォークソング全盛期「フォークの神様」と呼ばれ、当時の若者たちから熱狂的に支持されていた存在です。

 当時20歳の洟垂れ小僧だった私も、岡林のメッセージ性の強い歌からは少なからぬ影響を受けました。

 岡林信康(1946年7月22日~)はそもそもプロテスタント牧師を父に持ち、岡林自身同志社大神学部に入るなど熱心なクリスチャンだったようです。しかしのちに信仰に懐疑を持ち同大神学部を中退、社会主義思想に傾注し、その過程でレジスタンスとしてのフォークソングと出会う事になったようです。

 そういう精神的苦闘の結果、メッセージ性の強い歌作りとなり、最初に作詞・作曲し大ヒットした『山谷ブルース』発表になったわけです。

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 また当時の岡林は「商業主義に乗った音楽は堕落する」とばかりに、テレビ出演を頑として拒んでいました。ずっと後年はレコード会社にも所属し、テレビ出演もしたようですが、そういうポリシーが、カリスマ的に根強く支持された大きな理由だったと思われます。

 今回は、当時私自身好きだった『友よ』と『私たちの望むものは』の2曲を取り上げてみたいと思います。



 いやあ、懐かしい!我が青春ソングの一曲で、今でも心が折れそうになった何かの時に、この歌の一節がふいに口をついて出てくる事があります。

 それにしても。
 「友よ 夜明け前の闇の中で 友よ 戦いの炎を燃やせ」

 島崎藤村に『夜明け前』という大長編小説があります。これは木曽馬籠宿の主人だった藤村の父をモデルに、幕末から明治に至る大動乱を描いた物語です。そして昭和45年頃のこの歌でも「夜明けは近い」。さらにその頃より一段も二段も混迷を深める今日にあっても「今は夜明け前で一番暗い時だ」とよく言われます。というより、私自身がそう捉え、当ブログで何度かそう述べた事があります。

 つまり幕末の頃から平成の今日まで、私たちはずっと「夜明け前」「夜明けは近い」といい続けてきたことになります。いささか皮肉を言うようですが、これは日本人の一種の「夜明け前信仰」のようなものなのでしょうか。
 「素晴らしい夜明けが来るぞよ。夜明けが来るぞよ。汝はそれを信じるか」というような。

 しかしこれはひとり日本人のみならず、人類全体がそうなのかもしれません。なにしろ、かのパンドラの匣(はこ)からありとあらゆる災厄が飛び出し、匣の中には最後に希望だけが残ったというのですから。

 と少し茶化し気味のコメントになりましたが、つまりは人間にとって「夜明け願望」はかように普遍的であるということです。

 岡林のこの歌は、掛け値なしによい歌です。この歌の心は今の時代、今の若者たちの心にもダイレクトに響くのではないかと思います。

 なお一緒に歌っている高石友也も当時大変な人気でした。そもそも岡林がフォークソングを始めるきっかけは高石と知り合ったことだったようです。当時、『山谷ブルース』は高石友也の持ち歌として知られていました。



 大摩邇に転載されていた動画とは違います。が、こちらはどこかの野外ライブ版で、よりリアルな岡林信康が伝わってきますので、こちらに差換えました。

 バックは、これも懐かしい「はっぴーえんど」の面々。といっても今の若い人たちは知らないでしょうが、細野晴臣、大瀧詠一らもメンバーだった、といえば「あゝそうだったんだ」となるかもしれません。

 このライブは1970年との事です。今から45年前。そういえばこういう野外ライブが各地で行われ、多くの若者が集まっていたように記憶しています。この動画では、集まった若者たちの表情も撮られていますが、皆真剣で、いい顔をしていましたね。

 70年といえば、全共闘による70年安保闘争がピークの年で、よど号が過激派にハイジャックされ乗客を乗せたままピョンヤンに飛び立ったり、三島由紀夫による自衛隊市谷駐屯地総監室占拠、バルコニー演説後割腹自決など、世の中が物情騒然としていた年だった感じがします。

 最初の『友よ』もこの『私たちの望むものは』も、当時は当時で閉塞感を感じていた若者たちへの強烈なメッセージ性に満ちています。そしてそれを聴く者たちは、今ほど斜めに構えてはおらず、岡林の発するメッセージを真正面からストレートに受け止めていたように思われるのです。

 「この閉塞感の先にはきっとより良き未来がある。それを我々自身の手で切り開いてみせるんだ」。ライブ会場に集まった若者たちの顔にはそんな真摯さが感じられます。

 それにしても。
 「私たちの望むものは あなたを殺すことなのだ」
 いやあ過激です。

 殺す「あなた」とは誰なのでしょう。もちろん当時の政治や大企業などのトップに君臨し、社会の苦渋など感じもせずにのうのうと支配し暮らしているろくでもない大人連中、その代表例が当時総理大臣だった佐藤栄作ということなのでしょう。

 奇しくも佐藤栄作は現総理の安部晋三の叔父で、日本憲政史上最長政権を築き、アメリカへの従属忠勤ぶりが評価され、(当時の若い私がビックリ仰天した)ノーベル平和賞までもらいました。

 それはともかく。今に置き換えれば、安部ら現政権幹部、中央省庁の高級官僚、財界トップ連中、ついでにナベツネなどのマスコミトップなどなどということになるのでしょうか。

 こんな危険な歌、テレビでは絶対歌えませんよ。電通やテレビ局幹部が先ず出させません。去年の紅白でちょび髭パフォーマンスを演じた桑田圭佑どうした。その後戦争法案たけなわのプロセスではダンマリ・沈黙ではないか。吉田拓郎、井上陽水、谷村信司、さだまさしetcその他の歌手など押して知るべし。

 だからテレビに出演してはダメなのです。出続けるとしょせん「カネだけ、今だけ、自分だけ」になっちゃうんだから。

 「孤高のフォークの神様」岡林信康を今もって敬愛するゆえんです。

 (大場光太郎・記)

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今『昭和維新の歌(青年日本の歌)』を聴き直す

 

昭和維新の歌(青年日本の歌)

作詞・作曲:三上 卓
著作権:無信託

一、
汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ
巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ
混濁(こんだく)の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く
二、
権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷(しゃしょく)を思う心なし

三、
ああ人栄え国亡ぶ
盲(めしい)たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり

四、
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫(ますらお)が
胸裡(きょうり)百万兵足りて
散るや万朶(ばんだ)の桜花

五、
古びし死骸(むくろ)乗り越えて
雲漂揺(ひょうよう)の身は一つ
国を憂いて立つからは
丈夫の歌なからめや

六、
天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫(えいごう)の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ

七、
見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫(おたけ)びて
革新の機(とき)到りぬと
吹くや日本の夕嵐

八、
ああうらぶれし天地(あめつち)の
迷いの道を人はゆく
栄華を誇る塵の世に
誰(た)が高楼の眺めぞや

九、
功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう

十、
やめよ離騒(りそう)の一悲曲
悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ
われらが剣(つるぎ)今こそは
廓清(かくせい)の血に躍るかな

(昭和五年)   

 ……作詞者の三上卓は海軍少尉で、昭和5年5月24才の時佐世保でこの歌を発表した。以来、昭和7年の5.15事件、昭和11年の2.26事件に連座した青年将校などが歌い継いだ。
 紀元前3~4世紀頃、中国は戦国時代にあった。当時揚子江流域一体を領土としていた楚に、屈原という人物がいた。詩人であり政治家でもあった屈原は、王への進言をことごとく側近に邪魔され、遂には失脚させられて追放される。しかし屈原は他の国に仕えることをせず、祖国の滅亡の危機を憂いながら洞庭湖畔汨羅の川に身を投げた。楚はやがて秦に滅ぼされ、以来屈原は「不運の愛国者」の代名詞となった。
 この歌はこの故事を冒頭に引いている。ちなみに、端午の節句の「ちまき」は彼に由来する。

(歌詞及び文)http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/seinen.html


 本日は戦前昭和の世を震撼させた「226事件」(1936年-昭和11年2月26日)が起きた日です。冒頭動画は、だいぶ前私もテレビ放映で観た映画『2・26』のダイジェストに乗せて歌われている『昭和維新の歌』(青年日本の歌)です。

 今日にあっては大変誤解を生みやすい歌ですし、以前『フォレスタの「海行かば」』で述べたとおり私は原則軍歌は聴かない主義ですが、この歌が糾弾し謳いあげている状況が平成今日そのままパラレルだと思えるところもあり、特に今回は取り上げてみました。

 いつものとおり、この歌で歌われていること、226やそこに至る時代的背景など少し掘り下げて見てみたいところですが、今その余裕がありませんので、それは別の機会に譲るとして今回は割愛させていただきます。

 ただ、この歌が作られた昭和5年(1930年)は世界大恐慌と東北地方の冷害が重なり、日本は深刻な大不況に見舞われたことが、この歌が作られた背景としてあったのではないかと考えられます。

 とかく後の世の私たちは、その後に起きた大クーデターとこの歌を結びつけがちですが、この歌が作られた時点ではまだ(犬飼毅首相が暗殺された)515事件や(高橋是清蔵相や斎藤實内大臣など政府要人が多数暗殺された)226事件は起きていなかったわけです。その意味では、本来の『青年日本の歌』と言う題名が正解なのかもしれません。

 作詞・作曲は上掲文にあるように、海軍少尉でこの時24歳だったという三上卓という人物です。ただ、あるサイトによりますと、明治の詩人・土井晩翠の(諸葛亮の生涯を謳った叙事詩)『星落秋風五丈原』や大川周明の『即天行地歌』の見事なまでのパクリだそうです。

 しかし世の中には、後の寺山修司がその代表例だったと思いますが、時に本歌に勝るとも劣らない作品に作り変える「剽窃の天才」がいるものです。あるいは三上卓もその一人だったのかもしれません。故に功は両先人に帰すべきなのかもしれませんが、三上は当時の世相に合致した実に見事な一編の歌詞として昇華させていると思います。

「天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ」 (六番)

 私は、今の政界・官界・財界の「権門」らがいくら傲り高ぶっていようとも、彼らを討つためのクーデターをアジるつもりなど毛頭ありませんし、第一すっかり骨抜きで子羊のように従順になってしまっている私たち今の国民に、かつての青年将校たちのような命がけの世直しパワーがあるとも思えません。

 そこで時に、権門最早腐り切って腐臭を放っている平成今日の世に照らし合わせて、85年前の悲憤慷慨の叫びのこの歌の意味を、心の内で一言一句噛みしめて味わって反芻してみてもいいように思われるのです。

(大場光太郎・記)

参考
土井晩翠『星落秋風五丈原』
http://gunka.sakura.ne.jp/nihon/hoshiotu.htm
大川周明『即天行地歌』
http://gunka.sakura.ne.jp/nihon/hoshiotu.htm

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ユリア・フィシャー演奏によるビバルディ(「四季」より)『冬』

 

 毎日寒い日が続いています。

 冬になる前、気象庁は「今年の冬は暖冬傾向か」などと長期予報を出しましたので、早速、私がここ一年余世話している本厚木駅近くの野良猫たちに、「今年の冬はそんなに寒くならないようだぞ。良かったニャ~」と言ってやっていたところでした。

 こんな“安心理論”(?)を野良ちゃんたちに言って聞かせるのも、昨年2月、2度の大雪に見舞われ、どの猫もエラく難儀した姿を目の当たりにしたトラウマが私自身にあるからなのです。何もしてやれないけれど、“にわか飼い主”としてのせめてもの“親心”のつもりです。

 しかし、あにかはらんや(弟知らんや?)、なあに、ふたを開けてみればいつもの年と変らない寒い冬ではないですか。それに今年の冬は11月下旬からやけに雨が多いこと。

「♪聞くだに寒き 冬の雨~」と、唱歌『四季の雨』にもあり、ついこの前も2日続けて夜雨が降りましたが、とにかく冬の雨はグンと冷え込みます。寒さを防ごうにも野良猫は自分の体毛一枚だけなわけで、そのせいか、小黒縞(コクロシマ)などはしょっちゅう鼻をグスグスさせたり、激しく咳き込んだりして見ていて本当に可哀想です。

 聞くところでは、この子たち(現在3匹グループ)は元々飼い猫だったのが、うんと小さい時にまとめて棄てられたようで、道理でみななつこいし毛並みもいいわけですが、だからこそ寒さは余計こたえるところがあるようです。

「ちゃむい、ちゃむい、ちゃちゃむいニャ~。あと1ヵ月ちょっとで、少しずつ暖ったかくなるからなぁ。もうちょっとのしんぼうだぞ。今年は雪が降らなければいいニャ~」などと言っては、つかの間でも暖かくと、手袋した両手で両側を包んでやったりしているのであります(ホントにこんなふうに言っているんです。アホッ!-笑)。

「野良猫談義」はこの辺で止めるつもりでしたが、ロシアから野良猫関連の「かなり良い話」が飛び込んできましたので、以下にご紹介します。

氷点下、野良猫が赤ん坊を温めて救う ロシア
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150116-00000014-jij-int
時事通信 1月16日(金)5時39分配信

 【モスクワAFP=時事】ロシア南西部カルーガ州オブニンスクで、アパートの廊下に置き去りにされた赤ん坊を野良猫が温め、凍死の危機から救う出来事があった。地元テレビが15日報じた。
 アパートの住人が10日、「苦しんでいるような猫の鳴き声」を聞いてドアを開けたところ、赤ん坊が置き去りにされ、そばに寄り添った猫がなめたり、温めたりしているのを見つけた。
 その日の気温は氷点下。赤ん坊は数時間にわたり放置されていたらしく、住人らは、猫が世話をしなければ助からなかっただろうと話している。駆け付けた救急隊員が赤ん坊を搬送する際、猫は心配そうな様子でついていったという。
 赤ん坊は生後2~3カ月とみられ、健康に問題はなかった。警察が親の行方を捜している。猫は「マーシャ」と名付けられ、玄関ホールの段ボール箱に住むことが認められた。 (転載終り)

【一言】接してみればわかりますが、野良猫は本当にピュアです。そして赤ちゃんもまた純度100%ピュアです。種(しゅ)は違い互いに言葉など話せなくても、ピュアなもの同士、命の深いレベルでちゃんとコミニュケーションのやり取りをしている、ということなのでしょう。

                       *
 クラシック音楽の導入部にはまったく関係ない前置きが長くなりました。

 こういう季節にふさわしい曲として、今回はビバルディのバイオリン協奏曲集「四季」より『冬』を取り上げてみました。

 ビバルディの「四季」と言えば『春』が突出して有名で、私ももう50年余前となった中学2年か3年かの音楽の授業で習ってえらく感激した記憶があります。しかし『夏』も『秋』も『冬』も、それぞれ捨てがたい良さがあります。昨年晩秋頃、何気なく訪れた某音楽紹介サイトにこのビバルディ『冬』動画が掲げられてあり、これも何の気なしに聴いてみたところ、なかなか良い演奏ですぐさま“お気に入り”に入れたのでした。

 以後、季節柄繰り返して聴いてきたこともあって、『冬』は『春』以上に好きな一曲になりました。
 それには、この曲のバイオリン主パートを独奏しているユリア・フィシャー以下の弦楽合奏団メンバーの演奏の妙によるところが大きいのかもしれません。

 ユリア・フィシャー(Julia Fischer)というバイオリニスト、今回初めて知りましたが、なかなかどうして凄い経歴の持ち主のようです。
 彼女は1983年6月15日、ミュンヘンで生まれたドイツのバイオリニスト、ピアニストです。4歳からバイオリンとピアノを始め、十代前半にして8つの国際音楽コンクールのすべてで優勝(うち3つはピアノでの優勝)、2007年7月には23歳の若さで、フランクフルト音楽・舞台芸術大学の教授に就任(ドイツ史上最年少記録)という、キラキラまぶしい天才音楽家なのです。

 なお、2002年9月初来日以降3度来日し演奏していますが、2009年6月4度目の来日予定でしたが、自身の妊娠により来日中止となりました。

 動画ではユリア・フィシャーのバイオリンさばきがじっくり見られますが、とにかく自在な演奏ぶりで、この曲の隅から隅までをきっちり掌握し、水の流れのように緩急自在、自家薬籠中のものとしているようです。またビバルディの『四季』全部を、ユリア・フィシャー以下同じメンバーで演奏していますが、他のメンバーの演奏もなかなか魅力的です。

 これはビバルディの作曲家としての冴えなのでしょうが、『冬』は特に技巧の冴えが感じられます(それをユリア・フィシャー以下は難なくこなしているわけです)。(『四季』の他の曲もそうですが)、この曲は第3楽章までありますが、たとえば第1楽章のユリア・フィシャー独奏の細かい刻みの重音からバイオリン合奏全体の重音でクライマックスに至るパート、この辺の演奏の見事さには唸らされます。

 この重音部は、寒さの中で身震いしながら足の冷たさをほぐすため歩き回っているが、辛さから歯がガチガチ鳴る、それを表現したのだそうです。なお『このパート、以前なんかの洋画のシーンだったかで使われてたぞ』と思いました。『オーメンか?』、このパートに差し込まれた陰惨な空模様を背景とした黒い木立の画像からそう思ったのかもしれませんが、実際はダイハツ・ムーヴのテレビCMだったようです。

 ついでに、第2楽章では打って変わって、聴くだに暖かい感じに変調していますが、これは外は大雨ながら、家の中の暖炉の側で満足気に寛いでいる平和なさまを表わしているのだそうです。

 第3楽章は、また屋外。それも氷上、つまずいて倒れないように慎重に歩くも、突如滑って転倒し氷にたたきつけられた上、氷が裂けて割れ水中に入り込み、ほうほうの体で脱出すると北風ピューピュー、と散々な目に遭うも、春はもうすぐそこまでやってきている、と言う内容のようです。

 それにしても。(イタリアはベェネチア生まれのバロック後期の音楽家)アントニオ・ビバルディ(1678-1741)、こういう曲を聴いてみると、あらためて偉大な作曲家だったことを再認識させられます。ビバルディの少し後に生まれた「音楽の父」ヨハン・セバスチァン・バッハも、密かに彼の楽譜の書写を取り寄せ研究していたほどだそうです。

『冬』とはいっても、(寒さはもちろん強調しながらも)厳寒一辺倒ではなく、「冬来たりなば春遠からじ」(シェリー)というような、何とも言えない暖かい希望の曲調が全体を通して流れているように感じられるのです。

 (大場光太郎・記)

関連動画
『Antonio Vivaldi - The Four Seasons - Julia Fischer - Performance Edit (Full HD 1080p)』
https://www.youtube.com/watch?v=kS-W3lfcVvY
(ユリア・フィシャー演奏による『四季』全部が視聴できます。)

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(賛美歌312番)慈しみ深き友なるイエスは

 

(賛美歌312番)慈しみ深きともなるイエスは
   (What a Friend We Have in Jesus)

いつくしみ深き 友なるイェスは
罪科(つみとが)憂いを 取り去り給う
心の嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を

いつくしみ深き 友なるイェスは
我らの弱きを 知りて憐れむ
悩み悲しみに 沈めるときも
祈りに応えて 慰め給わん

いつくしみ深き 友なるイェスは
変わらぬ愛もて 導き給う
世の友我らを 捨て去るときも
祈りに応えて 労(いたわ)り給わん


 おととし暮れの『クリスマスの起源はサタンの祭り !?(1)~(3)』で、「クリスマスはイエスの誕生を祝うものではない」と言うことを考えてみました。イエス生誕が真冬と言うのは福音書の記述からして決定的におかしいのです。では一体誰の、何のためのお祭りなのか?などと言うことは同シリーズをお読みいただくとして・・・。

 今回はそういうことには一応目をつぶって、この時期よく歌われる『(賛美歌312番)慈しみ深き友なるイエスは』を、「名曲-所感・所見」カテゴリーとして取り上げてみたいと思います。

                       *
 この歌を作詞したのはアイルランド人ジョセフ・スクライヴェン (1819~1886)です 。スクライヴェンはアイルランドのシーパトリックに生まれ、首都ダブリンのトリニティ・カレッジを卒業して、25歳の時にカナダに移住し、オンタリオの学校で教鞭を取りました。彼は、プリマス・ブレズレン派に属して、一生を不幸な人や貧しい人への奉仕活動に捧げましたが、1886年にライス・レイクで溺死しました。この歌は闘病生活をしていた母親を慰めるため、自らの婚約者を事故、病気で2度も失った絶望の中でもイエスを信頼する気持ちを綴った詩と言われています。

 またこの歌は、『Hasting,Social Hymns,1865』に匿名で収録され、その後福音唱歌系の歌集に転載され、その後一般の礼拝用歌集に必ず収録されるようになっていきました。1920年に彼が溺死した場所に記念碑が建てられました。

 作曲したのは、チャールズ・クローザット・コンヴァース(1832~1918)です。コンヴァースはアメリカ合衆国の弁護士でしたが、ドイツ留学時代に音楽理論と作曲を修めたアマチュアの作曲家でもありました。

 わが国においてこの曲は、明治43年(1910)に文部省唱歌となった『星の界(よ)』(杉谷代水作詞)、また『星の世界』(川路柳虹作詞)にも用いられました。(以上『ウィキペディア』より)。

                       *
 たぶんどなたもそうでしょうが、私がこの曲を知ったのは、唱歌『星の界』としてです。

月なきみ空に、きらめく光、
嗚呼(ああ)その星影、希望のすがた。
人智(じんち)は果(はて)なし、
無窮(むきゅう)の遠(おち)に、
いざ其の星影、きわめも行かん。

雲なきみ空に、横とう光、
ああ洋々たる、銀河の流れ。
仰ぎて眺むる、万里(ばんり)のあなた、
いざ棹(さお)させよや、窮理(きゅうり)の船に。  

 原詞とはまったく違うものの、杉谷代水(すぎたに・だいすい-1874~1915)のこの歌詞もいいですよね。

 確か小学五年生の冬に音楽で習ったと記憶しています。(これは開設年の『星の界への憧れ』シリーズで述べたことですが)この学年の時、後にずっと離れた山形市内の山形東高校付属中学校へ特待生として通うことになった町の裕福な家の二人の級友と「天文クラブ」を作ったくらいでしたから、天体への憧れが強くあり、この歌を教わった時、深遠な星の世界を歌った厳粛な感じが当時からしていました。

 この歌がそもそも賛美歌『慈しみ深き友なるイエスは』であると知ったのは、22歳頃だったかと思います。

 当時私は当厚木市の市民コーラスグループに所属していました。その年のクリスマスに米軍厚木基地内でクリスマスソングを披露する、ということになりました。その曲目の中に、おなじみの『聖しこの夜』『諸人こぞりて』などとともに、この『慈しみ深き友なるイエスは』と『ああベツレヘムよ』があったのです。

 素人に毛が生えた程度の同世代の男女十数人に、当時当市にあった昭和音楽大学(2007年、川崎市麻生区に移転)で指揮学を専攻していたKさんが指導に当たるという陣容でした。なにせ聞かせる相手は「泣く児も黙る」米軍将兵たちですから、こりゃ大変だとばかりに、いつにもまして何週間か前から(週2回の練習日に)みっちり練習しました。

 
 厚木基地はご存知の方がおられるかもしれませんが、「厚木」という名ではあっても少し離れた綾瀬市と大和市にまたがった地域にあります。当夜、我々はマイクロバスに乗って同基地正門をくぐってすぐ右手の集会用の建物に入りました。その1階が会場でちゃんとステージもありました。会場いっぱいに詰めかけた米軍将兵及びその家族の前で、Kさん指揮の下へたくそなりに一生懸命歌いました。

 もう四十年以上前のことなのでその時の様子はあまりよく覚えていませんが、特段ミスもなく無事全曲歌い終えたと思います。終わった後は会場内で米兵たちの(今で言う)立食パーティーに混じって、私たちも用意された食べ物を一緒に食べさせてもらいました。もっとも英語がからきしダメな私などは、少し居心地の悪さを感じていたようですが・・・。

                       *
 その後一年ほどして同コーラスグループをやめ、したがってこの歌のこともすっかり忘れていました。

 人並みに人生上の悩みをあれこれ抱えだした32歳の頃、これも当ブログでたびたび述べたことですが、スピリチュアル探求(当時は「精神世界」と言われていた)に踏み込むことになりました。そのしょっぱなの頃、新約聖書を生まれて初めて初めから終りまで読んだのです。

「こころの貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものである」「あなたがたは地の塩である。・・・世の光である」「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に宝を蓄えなさい」「何を食べようか、何を飲もうかと自分のからだのことで思いわずらうな。・・・空の鳥を見るがよい。・・・野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい」・・・

 マタイによる福音書の有名な「山上の垂訓」を読んだときは、とめどなく涙が溢れてきました。今思えば、これぞ「慈しみ深き友なるイエスは」のエッセンスのような教えのように思われます。


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 それ以来かつて覚えた『慈しみ深き友なるイエスは』を、私個人の「悩み悲しみに 沈める」辛酸のとき、「世の友我らを 捨て去るときも」と感じた孤独と寂寥感に襲われた折々などに思い出し、口ずさみ、涙し、励まされてきました。

 冒頭掲げましたこの歌の動画ですが、「この歌はこのように歌ってほしい」と言う希望どおりで、非の打ち所のない混声合唱です。厳かなパイプオルガンの音の演奏であることから、国内のどこぞの教会所属の合唱隊なのでしょうか?とにかく素晴らしく心に沁みとおります!

 この歌、今後とも大切にしていきたいと思います。

【追記】
 すぐ上に掲げた「イエス画像」ですが、日頃西洋風のキリスト画像を見慣れた方は違和感をお持ちになったかもしれません。しかし近年この画像こそ、「本当のイエスの顔」と言われているものです。その謂れなどは、末尾URLからの『イエス・キリストの本当の顔』記事をお読みください。

 (大場光太郎・記)

参考
『星の世界』(川路柳虹作詞)
http://www.kget.jp/lyric/161259/%E6%98%9F%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C_%E4%B8%89%E5%96%84%E6%99%83
関連記事
『クリスマスの起源はサタンの祭り !?(3)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-de35.html
『星の界への憧れ(2)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-7f3a.html
『空の鳥、野の花(1)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-1561.html
『イエス・キリストの本当の顔』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-a2f9.html

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ジリオラ・チンクエッティ「夢見る想い」

-伊語のこの歌、しかし日本的感性に訴えるものがあり我が国での大ヒットに?-

    (ジリオラ・チンクエッティ「夢見る想い」YouTube動画)
     http://www.youtube.com/watch?v=PtbW7zYmYfM


 最近の『フォレスタの「ラ・ノビア」』の中で、昭和30年代後半『ラ・ノビア』が大ヒットするきっかけの一つとして、当時の我が国は空前のカンツォーネブームだったことを挙げました。種明かしをしますが、これは『ウィキペディア』の記述をそのまま借用しただけなのでした。

 中学生だった私は、当時そうだったことなど知る由もありません。しかしそう書きながら『たとえばどんな歌が流行っていたのかなぁ・・・』と思い返したところ、今回取り上げる『夢見る想い』が真っ先に思い浮かびました。と言うより、後にも先にもこの一曲しか浮かばなかったのです(苦笑)。

 こう記しながら、今思い出しました。中学2年の1学期に音楽の授業で習った『オー・ソレ・ミオ』や『帰れソレントへ』もカンツォーネかぁ。ならば知ってた、知ってた(笑)。

 この歌が日本で大ヒットしたのは昭和39年(1964年)頃。いやあ、もう50年近く前の歌ということになるのか。我が家にあったラジオからもよく流れていました。
 私は中学3年生でしたが、ジリオラ・チンクエッティのこの歌、とにかく鮮烈でした。スローテンポの美しいメロディで、「私に」じかに語りかけ、訴えかけるようで。

 「ノノレタ ノノレタ デラマルチ ノノレタ ・・・」
 勉強嫌いな私は、学業としてしっかり勉強すべき英語ですら、お恥ずかしいことに、中学1年の2学期くらいには基本構文が理解出来ず落ちこぼれた口でした。いわんやイタリア語なんて。チンクエッティの原語が何を意味しているのかさっぱり分からないながら、聴こえるままそんな風に口ずさんでいたものでした。

 ここでジリオラ・チンクエッティについて簡単に見ていきたいと思います。
 ジリオラ・チンクエッティは、1947年12月20日、イタリア・ヴェローナに生まれました。15歳の1963年、カストロカーロ新人コンテストで優勝し、16歳の時にこの『夢見る想い』でサンレモ音楽祭優勝、同年この曲でユーロビジョン・ソング・コンテストに臨み、イタリアの出場者として初めて優勝したことにより一躍有名になりました。

 若干15歳、16歳で有名音楽祭総なめ、と言った感じです。恐るべき早熟の才と言うべきです。このカンツォーネの超新星を当時カンツォーネブームの日本が放っておくはすがなく、我が国では本国イタリアを凌ぐ人気となりました。(そう言えば、彼女が歌う日本語版『夢見る想い』も聴いた記憶があります。)
 こうして早熟の「その字」もない私めは、口をポカンと開けながら彼女の歌声を聴いていたのでした。

 確かテレビで歌う姿も何度か見ました。私より(日本の学年で言えば)2学年上、実年齢では1歳半ほど年上のチンクエッティの姿にうっとり見惚れていたのでした。
 年上かつ外国の歌い手ながら、どこかシャイで清純そうな「美少女の姿」をそこに見たのでした。私のみならず、彼女の歌声と容姿に、私ぐらいか少し上の年代-いっそ「団塊の世代」と一くくりに言ってしまおう-の男子で、密かに(今の言葉で言えば)「胸キュン」となった人も多かったのではないでしょうか?

 この歌の歌詞について、あるサイトに優れた考察があります(末尾にURLを掲げました)。一部要約してご紹介します。

 タイトルにもなっている Non ho l'età は英語に直訳すれば I have no age  日本語にすれば「私には年がない」となるようです。ただこれでは何のことか意味が分かりません。そこでこの「Non ho l'età」、イタリア語の熟語にはなく、別の用例から類推した結果、
 non ho l'età per amarti (私はあなたを愛する年になっていない)
となり、「当時16歳のジリオラ・チンクウエッティが歌うにはぴったりの歌ということがわかりました」と言うことです。

 なお今回冒頭掲示したのは、1964年からほどない頃のコンサート録画だと思われますが、この動画から新しい発見がありました。
 この歌の最後のパートで、歌声を追うようにセリフが入っています。それもこの歌の特徴の一つですが、当時私は、チンクエッティ自らが歌ってセリフも語っているものとばかり思っていました。

 実際録音はそうだった可能性がありますが、コンサートでは一人二役は出来ず、別の女性がセリフを語っているようすがしっかり録画されています。
 なお国際級の歌は動画再生回数も凄く、現在400万回弱となっています。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『夢見る想い ジリオラ・チンクエッティ 歌詞・訳詞』
http://www.eigo21.com/03/pops/ze20.htm
『ウィキペディア』「ジリオラ・チンクエッティ」の項
関連記事
『フォレスタの「ラ・ノビア』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e40b.html

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川田孝子「ばあやたずねて」

-メルヘン調でありながら日本の心忘れず。詞曲とも、この歌本当に「なつかしいよ」 !-


    (「ばあやたずねて (童謡) 川田孝子」YouTube動画)
     http://www.youtube.com/watch?v=Ib5yWrg0N3U


 『里の秋』『蛙の笛』などとともに、この歌も作詞;斎藤信夫、作曲;海沼実のコンビによる童謡です。

 私がこの歌を知ったのはほんの数年前のことでした。当時頻繁に訪れていた音楽サイト『二木紘三のうた物語』で初めて聴いたのです。
 『うた物語』は二木先生制作によるmp3演奏ですから、冒頭に掲げられている歌詞は流し読み、まずメロディとして聴いたのだったかと記憶しています。何となく郷愁を感じさせる曲調に惹き込まれ、歌詞をあらためて読み直したのでした。

 斎藤信夫(1911年~1987年)がこの童謡の詞を作ったのは、教員をしていた昭和16年(1941年)だったようです。しかし戦争に向かいつつあったこの時代、特に昭和8年頃から名童話雑誌『赤い鳥』が廃刊に追い込まれるなど、童話・童謡受難の時代でした。
 特にこの詞を作った昭和16年は12月に日米戦争が始まってしまい、なおなお童謡どころの騒ぎではなくなるわけです。そんな中、斎藤は子供たちに皇国史観を教えはしましたが、同時に童謡の詞も密かに作っていたのです。

 これは作曲した海沼実にも言えることです。
 長野県出身の海沼実(1909年~1971年)は、同郷の先輩作曲家の草川信に憧れて、25歳のとき音楽家を夢見て上京してきたのでした。生活困窮の中、東京音楽学校(現東京音楽大学)で苦学中に見つかった薄給の仕事は子供たちへの音楽指導。

 それを基に誕生したのが日本で最も長い歴史を持つ児童合唱団「音羽ゆりかご会」(一時「コロンビアゆりかご会」とも)。後にこの歌を歌うことになる(そして継子でもある)川田正子、川田孝子姉妹も、この合唱団で育ったのでした。

 海沼は「音羽小国民合唱團」(戦時中呼称)を通して、戦争中も童謡の灯を消さぬよう必死の努力をしています。
 童謡抑圧の暗い戦争から解放された終戦と同時に、海沼実、斎藤信夫という二人の優れた童謡作家が結びつきます。すなわち、コンビの不朽の名童謡『里の秋』『蛙の笛』『ばあやたずねて』などが、堰を切ったように立て続けに発表されたのです。

 『ばあやたずねて』は、昭和21年(1946年)発表のようです。
 当初歌ったのは、『里の秋』や『みかんの花咲く丘』(作詞は加藤省吾)で一世を風靡した姉の川田正子でしたが、現在YouTube動画としてあるのは妹の川田孝子(+コロンビアゆりかご会)の歌ったもので、しかも秀逸なので今回採用しました。

 ここで、 ばあや【婆や】とは、「年とった女の召し使いや乳母(うば)。 また、その人を親しんで呼ぶ語。⇔じいや.」という意味です。平安朝の皇族・貴族から後代の武家、戦前までの比較的豊かな家庭に至るまで、老女の召使い(ばあや)を雇い子女の養育を手伝ってもらう習慣がこの国にはあったのです。

 この歌を作詞した斎藤信夫は、千葉県山武郡南郷町五木田(現・成東町)の出身ですが、16歳にして千葉師範学校(現・千葉大学)に進んでいるくらいですから、比較的裕福な家庭に育ったのでしょう。
 だからこの歌詞は、斎藤自身の幼時(大正時代)の懐かしい思い出を元にして作られたと見て差し支えないのではないでしょうか。

 栗の花の香る6月のある夕暮れ時、ばあやの里を訪ねたのです。「森かげの 白い道」の向こうのばあやの里は、いかにもメルヘンチックです。しかし実際の里は貧しい一山村、ばあやの家は藁葺き屋根のそれこそ粗末な農家造りだったに違いありません。
 しかし後に優れた作詞家になるべき少年の純粋な心は、貧しさも粗末さも見ずに、ただただメルヘンに彩られた美しい桃源郷として心の奥深くに刻み込まれたのです。

 実際は斎藤自身の幼児体験によるとしても、歌詞全体の柔らかい感じから、やはりこの歌は、女の子がばあやの里を訪ねた、というシチュエーションの方が合いそうです。
 それからして、川田孝子とコロンビアゆりかご会(音羽ゆりかご会)のこの歌声は何とも絶品なのです。

 (仔細には分かりませんが)1番は、コロンビアゆりかご会の少女合唱でしょうか。同会は、後にウィーン少年合唱団来日の折り一緒に合唱したり、児童合唱団としては日本ではじめてNYのカーネギーホールでのコンサートをしたほどの実力があるといいます。
 さすがに良い少女コーラスです。ウィーン少年合唱団に負けないほどの「天使の歌声」です。

 2番は川田孝子の独唱です。少女合唱よりは年長の感じで、彼女20代頃の歌声でしょうか。
 偉大なりし姉の陰に隠れがちですが、どっこい歌唱力はなかなかのものです。それもそのはずで、当時川田孝子は他の童謡歌手よりも非常に声量豊かであった、と評されていたそうです。姉の正子のような変声期もなく、NHK紅白歌合戦にも2度出場したそうです。
 
 3番は、川田孝子+コロンビアゆりかご会による合唱です。とにかく良いコーラスで、何度でも繰り返し聴きたくなります。

 私の率直な感想として、『蛙の笛』やこの『ばあやたずねて』などは、童謡が不調だった昭和前期を吹っ飛ばして、優れた大正期童謡群に直結すると思います。斎藤信夫も海沼実も、童謡の原点として、大正期の『赤い鳥』などから生まれた数々の名童謡を絶えずお手本にしていた跡が認められるように思われるのです。

 その時代が良い時代か、悪い時代か。見分け方は実に簡単です。童謡が盛んに作られ歌われる時代は良い時代。童謡が奮わず抑圧される時代は悪い時代。

 (大場光太郎・記)

関連動画
『N85.ばあやたずねて-川田正子.mp4』
http://www.youtube.com/watch?v=B1zVdd6SIx8
関連記事
『フォレスタの「蛙の笛」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-beb8.html
『フォレスタの「みかんの花咲く丘」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-7a36.html
『フォレスタの「揺籃のうた」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-5cf9.html

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童謡「背くらべ」

 -この懐かしい童謡を述べながら、後半はつい余計な深読みをしてしまいました-

    (「せいくらべ」YouTube動画-独唱している女性歌手名は不明)
     http://www.youtube.com/watch?v=v9tMRD25aGE


     背(せい)くらべ

        作詞:海野厚、作曲:中山晋平

  柱のきずは おととしの
  五月五日の 背くらべ
  粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
  計ってくれた 背のたけ
  きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
  やっと羽織の 紐(ひも)のたけ

  柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
  遠いお山も 背くらべ
  雲の上まで 顔だして
  てんでに背伸(せのび) していても
  雪の帽子を ぬいでさえ
  一はやっぱり 富士の山


 『背くらべ』は、『鯉のぼり』とともに「こどもの日」の代表的な童謡です。
 何年か前のこどもの日に車で少し遠出してある所に立ち寄った際、ふとこの歌が思い出されました。
 「柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ ・・・」
 『思えば遠くに来たもんだ』、いろんな意味で・・・。口ずさみながら、涙がこみ上げそうになりました。

 『背くらべ』を作詞した海野 厚(うんの あつし/1896年-1925年)は、静岡県豊田村曲金(現・静岡市駿河区)の裕福な農家の出身(ただし後に没落)で、7人兄弟の長兄です。旧制静岡中学卒業後、早稲田大学に入学するため地元の静岡を離れ一人上京しました。
 童話雑誌「赤い鳥」に投稿した作品が北原白秋に認められ、海野は童謡作家となりました。

 この歌の背景にもなりますが、実家には3人の妹と3人の弟がいました。中でも17歳年下の春樹は、海野にとって特別に可愛い存在だったといいます。しばらく帰っていない地元で暮らす可愛い弟。もう2年も帰省していないが、弟は大きくなっているだろうか?元気に暮らしているだろうか?そんな切ない思いが、童謡『背くらべ』の歌詞には込められているというのです。

 この作品は兄に背の高さを測ってもらった弟の視点で書かれています。しかし実際の海野厚はこの歌の兄の立場(7人兄弟の長兄)でした。柱の傷が去年のものではなく一昨年なのは、この頃東京に出ていた(早稲田大学在学中)厚が帰省できなかった時のことを弟の気持ちになって書いたからだといわれています。
 都会の生活にも慣れ、俳句や童謡の世界に没頭した海野は、病弱だったこともあり、1919年を最後に地元の静岡には帰郷していなかったのです。

 中山晋平らとともに『子供達の歌』を出版し、雑誌『海国少年』の編集長も務めた海野でしたが、1925年5月20日、結核のため28歳の若さで亡くなっています。
 才能を十全に開花させることなくして夭折した海野厚は、作品自体少なく、『背くらべ』は代表作といってよさそうです。

 『背くらべ』は1919年(大正8年)、雑誌『少女号』に詩が掲載され、曲(中山晋平作曲)としては1923年(大正12年)に発売された『子供達の歌 第3集』が初出です。2007年(平成19年)、「日本の歌百選」に選ばれました。

 と以上見ましたとおり、この歌は、年の離れた弟春樹への想いから発した真情を童謡にしたものであることは疑う余地もありません。
 ただこの童謡が作られた当時の日本の置かれた立場を視野に入れると、無意識的だったにもせよ別の「背くらべ」が見えてきそうです。以下はそれに基づいた私流の深読みです。

 『背くらべ』が発表された大正時代中期は、明治期からの「脱亜入欧」「欧米列強に追いつき、追い越せ」という掛け声とともに、殖産興業、富国強兵に邁進し日本が精一杯「背伸」していた時期でした。
 この童謡2番に、その辺の事情が暗に示されていると思われるのです。
 「富士の山」は日本人の心の拠りどころ、シンボリックな山ですから、「日本」を表わしています。対して「てんでに背伸 していても」、富士の山にはとても適わない遠い山々を「欧米列強」に比定してみると面白いと思います。

 ところで明治維新から昭和20年(1945年)の敗戦までと、それから平成今日までの戦後日本の歩みは、不思議にパラレルで、どこかシンクロしているところがあります。

 かつての欧米列強式の帝国植民地主義は、今日では「グローバリズム」「新自由主義」「市場原理主義」などの美名に装いを変えています。が、根っこは同じ、「弱肉強食」の獣的な「競争原理」なのです。
 この「獣的競争原理」を標榜する(ユダ金・イルミナティ主導の)米国にひれ伏し猿真似しているのが、おらが国の「政官業」リーダーたちです。

 学業、ビジネス、スポーツ、芸事、習い事・・・。あらゆる分野で適度な競争は必要です。その意味で「良きライバル」の存在は、眠っていた潜在能力を引き出し、向上させてくれる尊い磨き石といえます。
 しかし「力づくで」「他を蹴落として」「ブラフをかけて」「他が持っているものを強奪して」の、獣的競争原理はいかがなものか。少なくとも、そんな行き方は日本の行き方ではありませんよ。魔違えてはいけません。

 今から20年近く前、船井総研創業者の船井幸雄氏が、資本主義の終焉を予告し、これからの人類のあり方として「エゴからエヴァへ」と提言したことがありました。「エゴ」とは我欲の競争原理、「エヴァ」とは互恵の共生原理です。
 実際もう、米国流の獣的競争原理の「強欲資本主義」では立ち行かない土壇場まで来ているのです。これは別に論ずべきことですが、日本は世界に先駆けて「エヴァ(大調和)の型」を出すべき聖使命の国なのです。魔違えてはいけません。

 「幼な児たち(の遊び)は天国の型」
 まこと子供たちが無邪気かつ天真爛漫に遊びに興じている姿こそ、天使そのものの姿ではありませんか。そこには当然ながらお金も、変な差別や規制やコントロールも何もないのですもの。なのに子供たちは自分たちが決めたルールでうまく、元気一杯遊び回り、「今ここ」(be-here-now)に生きる喜びを全身で真素直に表現しているのですから。

 さて今日の大人社会は「何の型」なのでしょうか?こどもの日のきょう、私たち大人も童心に帰って、子供たちの遊び興じるさまを身をかがめて学び直したいものです。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『背くらべ 童謡・唱歌 歌詞と試聴 - 世界の民謡・童謡』(+『ウィキペディア』)
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/seikurabe.htm

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島田祐子「春の日の花と輝く」

 -こういう歌あればこそ、人類の霊性は向上して来られたのではあるまいか-


    (『k17 4月春の日の花と輝く 島田祐子』YouTube動画)
     http://www.youtube.com/watch?v=umXoQIl70xM


 ゴールデンウィークに向けて今が春の真っ盛りです。うららかに日は照り、木々の新緑がまぶしいほどです。分けても花々の何と豊かなこと。チューリップ、パンジー、マーガレット、クレマチス、藤の花、皐月。珍しいところでは鈴蘭、芍薬、ラナンキュロス・・・。方々で色とりどりの花が咲き誇っています。
 一年中で花が最も豊かなこの麗しい季節。ある日ふと、その名もズバリ『春の日の花と輝く』が聴きたくなりました。

 そこで2週間ほど前この歌のYouTube動画を当たり、2、3聴いてみました。その結果しびれるほど素晴らしかったのが、今回ご紹介する『島田祐子「春の日の花と輝く」』です。

 まずは『春の日の花と輝く』の歌そのものについて述べてみたいと思います。
 この歌は古くからのアイルランド民謡だったようです。それに18世紀のアイルランドの詩人トーマス・ムーアが詩をつけたのが今日世界的に歌われている『春の日の花と輝く』です(原題「Belive Me,if All Those Endearing Young Chams」)。

 アイルランドの首都ダブリンの裕福な商家に生まれたトーマス・ムーア(1779年~1852年)は、長じてロンドンで法律学を学び、後にバミューダ統治の責任者にもなりました。
 詩人としてのムーアは、この歌のほかにも日本でも愛唱されている『庭の千草』をはじめ後世に残るアイルランド民謡を次々に書いて文名を高め、バイロンやシェリーといった西洋文学史上の詩人らとも交友を深めました。

 トーマス・ムーアの原詩を邦訳したのが、堀内敬三(ほりうち・けいぞう)です。
 堀内敬三(1897年~1983年)は、私など“昭和30年代少年”にとっては音楽の教科書でよく目にした懐かしい名前です。小学校高学年時なら『灯台守』や『夜汽車』の勝承夫(かつ・よしお)、そして中学校時は堀内敬三。

 堀内敬三の訳詞は非の打ちどころのない格調高い名訳詞です。上田敏(うえだ・びん)の『山のあなた』(カール・ブッセ)や『落葉』(ヴェルレーヌ)は原詩を超えた名訳業との誉れがありますが、この歌の堀口訳詞もあるいはそうなのかもしれません。
 本当はその訳詞も掲げたいところです。がしかし、翻訳著作権存続期間内であるためそれはできません。

 この動画は美しい花々の図柄をバックに、1番、2番の堀内訳詞が表示されています。この歌を視聴される方は是非、訳詞もじっくり味わっていただきたいと思います。

 と言うことで、島田祐子さんの『春の日の花と輝く』についてです。
 この歌をこれだけ美しく声量豊かに歌われてしまうと、「いやあ、素晴らしい !」の一言です。歌うべき人が歌ってこそ、その歌の良さが倍加されるというもの。誰が歌ったとしてもこれ以上完璧に歌えるはずはなく、ただただ脱帽です。
 
 島田祐子さんは20年以上前テレビで歌っている姿をよく見ました。やはり流行女性演歌歌手とは違った印象があり、当時の国民的歌手といった風格がありました。その後その地位は鮫島有美子さんあたりが引き継いだのかもしれませんが、現在ポスト鮫島としての国民的歌手が見当たらないようで残念です。
 なお島田祐子さんの名唱として、もう一つ『花かげ』を挙げておきたいと思います。

 この歌は、今まさに「春の日の花と輝く」麗しのフィアンセへの賛歌から始まります。これだけで十分聴く者の心を惹きつけます。が、この歌の真骨頂はそれに続くフレーズにこそあるように思われるのです。
 「・・・たとえ世の冬が来て、君が容色衰えるとも、我が愛は永久(とわ)に変らじ」
 (いささか皮肉を込めて言えば)仮面夫婦、熟年離婚、定年離婚などというイヤな“現代基礎用語”が飛び交う現ニッポンの愛の形と何と違うのでしょう。

 この歌全体にスピリチュアルな気高さが感じられます。「こんなの理想論だよ」と笑うなかれ。こういう「永遠の愛」を謳い上げた歌や詩あればこそ、人類は一歩一歩霊性の向上進化を続けて来られたのではないでしょうか。
 その意味で『春の日の花と輝く』は「不朽の愛の賛歌」と言うべき名曲です。

 (大場光太郎・記)

関連動画
『花かげ - 島田祐子』
http://www.youtube.com/watch?v=E60x2zpK1rU

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