ガード下の靴みがき

 先月「二木紘三のうた物語」に、『ガード下の靴みがき』が新しくアップされました。二木(ふたつぎ)先生のmp3の名演奏を解説を読みながら最初に聴いた時、とめどなく涙が流れました。推察するに、ご同好の多くの皆様も同様だったのではないでしょうか。解説によりますと、この歌が発表されたのは昭和30年(1955年)8月のことだそうです。(作詞:宮川哲夫、作曲:利根一郎、唄:宮城まり子)
 
 「最早戦後ではない」と言われ出した昭和30年当時。山形の辺鄙(へんぴ)な村で、我が家は父が病に倒れどん底にあったことは、これまで何度も記してきました。ちょうどその頃ある晩、村の集会所で幻燈(げんとう-スライド映写)を母とともに見ました。東京のようすを写したものでした。何やら遠くて現実感の希薄な都だなあと、思ったのか思わなかったか。とにかくぼんやり見ていました。
 そんな東京のど真ん中でもまた、こんな貧しさがあったわけです。この歌の主人公である「おいら」は、戦災孤児。ガード下を通る大人たちの靴を磨かせてもらって、日々を何とかしのいでいたのでしょう。戦後10年経ってもまだ、戦災孤児?
 私の郷里の町の夏祭りと秋祭りを思い出します。立ち並ぶ出店の外れで、片腕か片足かを戦争で無くしたという自称傷痍(しょうい)軍人たちが、白装束姿でアコーディオンをひいたりして寄付を求めていました。昭和30年代半ば頃でもなお、当時の社会は終戦直後のメンタリティを色濃く引きずっていたのです。
 
 「おいら」が、親を亡くして終戦を迎えたのはうんと幼児の時。そして10幾つになった今でも、ガード下の靴みがき。
 ガード下。昭和50年代後半でも、新宿駅界隈のガード下は薄汚く、両壁面には全共闘のビラや右翼のビラが所狭しと貼られはがれ落ちていました。昭和30年当時ならなおのこと。やっと雨風がしのげるだけの、どんよりと澱んだ薄暗い処(ところ)だったことでしょう。
 今も昔も、最底辺の者が救われるのは一番最後です。(但し二木先生の解説の中には、そんな逆境の中から這い上がり立派な社会人になった人の感動秘話も紹介されています。)

 ある種の人たちは、国の誇りとか国家の威信といったことを声高に主張します。そうした言葉自体に問題はなくても、彼らが意図するのは、実は他の国々に対する政治的・軍事的なプレゼンスの強大化です。
 そうしたことを追求していった結果が、多くの人々から愛する者や、楽しかるべき子ども時代を奪うようなものなら、誇りも威信もいりません。三等国・四等国でけっこう。芸術や科学、スポーツで成果を上げれば、ほかの国々から尊敬は得られます。
 (二木先生「蛇足」の結論部より)
 
 「三等国・四等国でけっこう」は、私の心を強く撃ちました。
 この歌が発表されてからの半世紀余とは、一体何だったのだろうか?確かに物は豊かになり衣食住は格段に良くなったけれども。国土の荒廃は進み、共同体的和はズタズタに破壊されてしまった。「勝者など誰もいないよ」と、ただ薄ら寒い殺伐の風が吹き抜けるだけ。こんなことになるんだったら、本当に昭和30年代前半の、あの温もりのある三等国、四等国の方がよっぽどマシだったのではないでしょうか?
 
 現下は、戦後経験したことがないような未曾有の大恐慌の進行過程です。半世紀以上過ぎてなお、この国に新たな最貧者が巷に溢れる可能性があります。
     なんでこの世の 幸福(しあわせ)は
     ああ みんなそっぽを 向くんだろ   (3番より)
 願わくば、この歌詞のような心境の人が出ませんように。
 (大場光太郎・記)

 (この歌の歌詞と曲は、「二木紘三のうた物語」にあります。) 

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早春賦

           作詞:吉丸一昌、作曲:中田 章
 
 1 春は名のみの風の寒さや     3 春と聞かねば知らでありしを
   谷の鶯歌は思えど            聞けば急かるる胸の思いを
   時にあらずと声も立てず         いかにせよとのこの頃か
   時にあらずと声も立てず         いかにせよとのこの頃か

 2 氷解け去り葦(あし)は角(つの)ぐむ
   さては時ぞと思うあやにく
   今日もきのうも雪の空
   今日もきのうも雪の空

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 立春(2月4日)はとうに過ぎたけれども、それは暦の上のことだけで。この時期は、突如暖かくなったかと思えばまた冬に逆戻りの寒い日となり、冬とも春とも決めかねるモラトリアムな季節です。『早春賦』は、そんな今頃のことを歌った歌です。
 立春頃から3月上旬頃まで、ふと何気なくこの歌のワンフレーズを口ずさんでいる―ある一定以上の方なら、そんな経験がどなたもおありなのではないでしょうか?
 ともかく。詞も曲も、早春の雰囲気をあますことなく伝えている、叙情歌の名曲です。

 その歌から現在住んでいる土地(たとえそこがどこであろうとも)、あるいは北または南の故郷のことが懐かしく甦ってくる。そういう普遍性が、叙情歌の名曲にはあるように思います。
 その意味で、早春といえば『早春賦』。その後作られた早春の歌で、この歌の右にでそうな歌は思い浮かばないほど、この季節を代表する名曲です。

 私のこの歌の思い出として―。
 高校2年の3学期、ちょうど今頃か少し先の季節。雪深い山形のこととて、長井市の外れの(校歌にも歌われている)「早苗(さなえ)が原」にある校舎の周りは、まだ一面雪に埋もれていました。
 音楽の最後の授業で、クラス全員一人ひとり前に出て好きな歌を披露することになりました。音楽の先生は当時50代の女性教師で、若い頃は東京で活躍されていたという名物先生でした。前の週、この先生からその旨提案があったのです。

 当時も今も大学進学を目指す場合、高校2、3年は「音楽」という余計な授業など、ないのかもしれません。私の高校も一応進学校でしたが、当時は高2から進学コース5クラスと、就職コース2クラスに振り分けられ、私は後者の方でした。そのおかげで、高校2、3年でも、引き続き音楽の授業を受けられる恩恵を与えられたのです。
 
 余談ながら申せば。高校時代は、人生の中で一番多感な時期です。その中で、たとえ大学進学のためであろうがなかろうが、その期間「音楽教育」を受けないというのは、余りにも大きな損失だと思います。
 『シューベルトのセレナーデ』『モスクワ郊外の夕べ』『別れの曲』『アフトン川の流れ』『ソルベーグの歌』『花の街』等々。多感な情操を豊かに刺激され、その後も長く印象に残ることになる歌の数々は、皆この時期に教わったものです。
 これらの歌は、その年頃に習うから意義があるのであって、30代、40代になってから新たに聴いても、その頃のような沸き立つ情感はまず得られないと思います。

 …男子は特に、当時流行っていた『二人の世界』や『霧の摩周湖』などを歌った者が多かったように思います。そんな中私は、大まじめでこの『早春賦』を歌ったのでした。その頃この歌を、高校で習った記憶はありません。あるいは中学校で既に教わっていたか、自然に覚えたかのどちらかです。
 おそらく。東北の遅い春を待ちわびる気持ちと、当時17歳だった文学少年の心情に、この叙情歌はぴったりフィットする歌だったのだろうと思います。

 (『早春賦』のmp3演奏は、『二木紘三のうた物語』でお聴きになれます。また『シューベルトのセレナーデ』以下『二人の世界』までの曲も同様です。)
 (大場光太郎・記)

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少年時代のトリックスター

 昭和35年、私が小学5年の初秋頃。お世話になっていた母子寮に、一人の男が訪れました。(『北帰行』が一般に広まる前でしたから、確かその年だったと思いますが、あるいは翌年だったかもしれません。)

 東京から来た人ということでした。今思えば、流れの興行師といった人だったでしょうか。40代くらいの中肉中背、ダンディな感じの人だったと記憶しています。その人が、集会室でその夜手品をしてくれるというのです。私たちは、楽しみに待ちました。
 その人が、夕方寮の玄関近くで遊んでいた私たち小学生何人かに、「町内を一回りしてくるけど、一緒に行かないか」と誘ったのです。滅多に乗れない車ですから,一も二もなく乗せてもらいました。途中ある店で停まって、お菓子を買ってもらったりして、帰りました。
 
 その夜寮内のお母さん方、子供たちが集会室に勢ぞろいして、その人が繰り出す手品に熱狂しました。特に度肝を抜かれたのは、探していたトランプが、指名されて立った友人の、あるはずのない、ワイシャツの胸ポケットから出てきた時でした。一同びっくり拍手喝さいでした。

 その人は去っていきました。その後、拍手喝さいした手品のトリックが、ばれてしまいました。友人があっさりばらしたのです。車で町内を回って、途中で車を降りた時、その友人はいくらかの小遣い銭をもらって、ポケットにトランプを忍ばせるのを引き受けたというのです。それ以外にも、寮内のあるお母さんを口説いた…。
 その人が去った後の評判は、あまりいいものではありませんでした。

 しかし、良いものを一つだけ残していってくれました。『北帰行』の歌です。
 手品が終わって子供たちが引き上げてから、その興行師とお母さんたちによる懇親会が催されたそうです。その時、「こういういい歌があるんだが」といって黒板に歌詞を書いて、お母さんたちが覚えるまで、指導してくれた…。
 おかげで、この歌は寮内全部に広まりました。私も、母からか先輩からか教わって、すぐ覚えました。素直に良い歌だと思いました。子供のくせして、「さらば祖国愛しき人よ 明日はいずこの町か」などと口ずさんでおりました。
 だが、これにも裏話があります。その人は、「この歌は、私が作った歌だ」と言ったというのです。これにはまんまと騙されました。私も『違う』と分かったのは、ずっと後になってからのことです。
 その人にしてみれば、『どうせこんなとこ、二度と来ないんだ。その場さえうまく取りつくろえりゃあそれでいいんだ。』てなもんだったのでしょう。
 
 しかし、二木先生の『星影のワルツ』での解説のように、この人も東北の片田舎町を転々とどさ回りしている我が身の境遇を、『北帰行』に重ねて、本当に歌と同化していたのかも知れず。表向きの口八丁、手八丁は世を渡るペルソナ(仮面)で、実は夜宿屋で寂しく独り酒を呑んでこの歌を口ずさんでは、「涙流れてやまず」だったのかも知れず…。

 今改めて聴いてみて、『本当に良い歌だなあ』と再認識致しました。
 私にとって、北は「望郷の方位」です。

 (『北帰行』の歌詞と曲は「二木紘三のうた物語」にあります)
 (大場光太郎・記)

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『湖畔の宿』

 この歌は、ストーリーがくっきりとイメージできます。メロディに旅情をかきたてられます。ヒロインの姿が絵になってます。
余計なことながら、以下に私なりのトレースを試みます。
                        *
 たとえばシュトルムの『みずうみ』など。「湖」は、ロマンチックな叙情や旅愁といったものを連想させます。そんな「山の淋しい湖」に、傷心の若い女性が「ひとり来た」のです。「えっ?」。何かわけありな物語のプロローグです。

 ヒロインは多分、都会に住む女性なのでしょう。女性の「胸の痛み」は失恋に決まってます。それに「耐えかね」ながらも、そんな気持ちにふんぎりをつけるためにやってきました。
 都会で味わった悲痛な恋は、都会の中にい続けては救いがたい袋小路に迷い込むばかり。かといって、本当に帰りたいふるさとには、事情が事情だし…。そこで彼女は、この湖に。

 着いてすぐに、儀式を行います。携えてきた、恋人からの古い手紙を「焚き捨てる」ことです。湖から奥に入った、人目につかない木立の陰で執り行います。斎主自らの恋の未練の「お焚き上げ」です。恋人との、あれほど甘美だった、だが急に暗転してしまった痛ましい思い出が、うすい煙となって立ちのぼり、新緑の梢に消えていきます。

 たそがれ時、静謐を湛えた湖のほとりの林道を散策します。豊かな自然の中を歩くほどに、静かな諦観が訪れ、既に乾いたはずの瞼からまた涙がこぼれ落ちます。しかし、それは浄化の涙です。
   雲は流れてむらさきの  薄きすみれにほろほろと  いつか涙の陽が落ちる
心にくいばかりの、詩的な表現です。

 夜は湖畔の宿で、ふるさとへの便りをしたためます。「ランプ引き寄せ」に時代を感じます。帰れないふるさとに便りを出すことによって、心の中で擬似的にふるさとから都会への再出発の誓いとします。
 再出発の前途はいかに。今度こそ良い恋ができますように。彼女はトランプに託して一人占います。「青い女王(クイーン)」。その象意とは?
 「青」クール、知性。「女王」気高さ、気ぐらい。彼女はクールビューティ?それゆえの「淋しさよ」?

 戻っていった都会の雑踏にまぎれて、ヒロインはその後どのような運命をたどったのでしょう。興味深いところです。

 (『湖畔の宿』の歌詞と曲は「二木紘三のうた物語」にあります)
 (大場光太郎・記)

 (注記) この度、二木先生に特別にお願い申し上げ、以前私が「二木紘三のうた物語」にコメント致しました中から、2曲を当ブログの「名曲―所感、所見カテゴリー」に移させていただきました。2回にわたって公開致します。どうぞご了承ください。 

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『雨に咲く花』

    およばぬことと諦めました
    だけど恋しいあの人よ
    儘(まま)になるなら今一度
    ひと目だけでも逢いたいの   (『雨に咲く花』 1番)

 私がこの歌を知ったのは、井上ひろしがリバイバルで(もちろん当時はそんなことは知りませんでしたが)歌って大流行していた、昭和三十五年(小学校五年生)頃のことです。ちょうどその頃、昭和三十四年四月十日の世紀の「皇太子(現明仁天皇)ご成婚」を経て、さすがに山形の田舎町とはいえ(白黒)テレビがぼちぼち普及し始めた頃でした。
 世の趨勢に町役場の担当者も、「いくら母子寮でも、各戸にもうラジオくらいは置かせてもいいだろう」ということになりました。こうしてラジオ設置の許可が出て、我が家でも母がどこかから中古ラジオを見つけてきてくれました。他に娯楽のない当時、(もともと学校の勉強が大嫌いな)私は夜ともなれば、ラジオから流れる音声に聴き入っておりました。
 多分この歌も、他にはアイ・ジョージの『硝子のジョニー』、三橋美智也の『石狩川エレジー』、坂本九の『上を向いて歩こう』も…。みんないつの間にか、そうやって覚えたのだろうと思います。
                         *
 二木先生の解説によりますと、この歌の初発表は昭和十年のことだそうです。そんな時代背景からしますと。この歌の「あの人」はもちろん、今とはおよそ比べものにならないくらい距離的にも、心理的にも遠い「あの人」であるわけです。それを何とかより近い存在にしようと、出来る限りのことはしたのだけれど…。
 それにしても。「およばぬことと諦め」ざるを得ない事情とは?そして他の歌詞でこの女性が自らを「雨に咲く花」となぞらえざるを得ない事情とは?裏に相当込み入った事情が秘められているんだろうなあと、あらぬ想像をめぐらしてしまいます。

 やはり考えられるのは「不倫の恋」でしょう。戦前の旧民法下での厳しい家制度のもとでは、江戸時代の「姦通罪(かんつうざい)」のように発覚すれば市中引き廻しの上磔・獄門(はりつけ・ごくもん)とまではいかないものの、当時不倫は家制度を根底から崩壊させるものとして、絶対的タブーだったわけです。
 この歌がリバイバルで昭和三十年代半ばに大ヒットしたということは、あの当時の社会でもまだ戦前のタブーの名残りが色濃く残っていたということだとも思われます。それが当今になりますと、以前誰かがテレビで「不倫は文化だ!」と堂々と放言できるまでになりました。もっともこの発言は直後から物議をかもし、言った当人はだいぶ世論のバッシングを受けたようですが。

 ともあれ。この歌には1番の歌詞に入る前に、そんな苦しい恋のストーリーが隠されていそうです。
 ここに、携帯メールでいくらでも互いの想いを「軽いことば」で、いとも簡単に瞬時にやりとり出来てしまう当世恋愛事情との違いを感じます。そんな当今の状況を反映した、軽いノリの今時のラブソングにはみられない、味わい深い切々とした情感もあるのだと思います。
 梅雨しとしと降る中、しみじみ聴いてみたくなる雨の名曲です。
 (大場光太郎・記)

 (『雨に咲く花』の全歌詞と曲は、「二木紘三のうた物語」にあります。)

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『雨』-哀感ただよう童謡

    雨がふります  雨がふる
    遊びに行きたし  傘はなし
    紅緒(べにお)の木履(かっこ)も  緒が切れた

 ご存知の童謡『雨』の一番の歌詞です。
 この歌は、二木先生の解説によれば、北原白秋が詩を『赤い鳥』に発表したのが大正七年。そして広田龍太郎が作曲して発表したのが、大正十年のことだそうです。 北原白秋の「雨の歌」といえば、他に有名な『城ヶ島の雨』があります。こちらはそぼ降る雨に煙る城ヶ島の叙情的な情景を描き、一方この『雨』の方では雨に閉ざされた、昔の日本的な家の中の情景を描いています。
 
 いずれにしても、懐かしい童謡です。「雨がふります 雨がふる」という巧みなリフレインによって、小止みなく降り続く雨の、その雨脚さらにはその一滴一滴さえもが見えてきそうな感じです。そんな雨の中、「遊びに行きたし 傘はなし」なのです。その上「紅緒の木履も 緒が切れた」というのですから。
 それなら仕方ありません。雨が止むまで家にこもっているしかないわけです。

 この歌は引用しました一番から、五番までの歌詞があります。その中に「千代紙折りましょう 畳みましょう」「お人形寝かせど まだ止まぬ」という歌詞がでてきます。ですから、歌の主人公はまだ幼い女の子でしょう。それもどうやらあまり富裕な家庭の子女ではなさそうです。どちらかというと、やや貧困な家庭の子女といえるかも知れません。そのためなのか広田龍太郎の曲調とあいまって、どことなく哀感が感じられます。
 その辺が貧困層が圧倒的に多かった当時の国民に受け入れられ、その後広く愛唱されるに至ったゆえんなのかも知れません。

 なおこの歌における「傘」とは、柄も骨の部分も竹で作られ、それに防水処理した油紙を張った、いわゆる「唐傘」別名「番傘」のことでしょう。昭和三十年代前半の私の小学校低学年までは、もっぱらこの和傘でした。しかも履物といえば、この歌の木履に類似した下駄。それがいつしか、傘は現在のような洋傘に、履物もズックなどのビニール製に変わり…。それゆえ『雨』の歌の雰囲気を何となく理解できる、私たちが最後の世代なのかも知れません。
 
 それはそれとして。このような昔の童謡を、最近では学校でもあまり教えなくなっているようです。理由はいろいろあるでしょう。曰く「今の時代に合わないから」「童謡にしては暗い歌だから」云々。それでは「明るい健全な歌」だけ大人がピックアップして子供に与えて、本当に豊かな情操が養われるのだろうか?
 私個人としては、大変残念です。願わくば、このような歌、今後とも長く歌いついでいって欲しいものだと思います。
 (大場光太郎・記)

 (『雨』の全部の歌詞と曲は、「二木絋三のうた物語」の中にあります。)
 

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「自然観」をめぐって

  二木先生の『千の風になって』の解説、興味深く読ませていただきました。特に、結論部分のキリスト教とアニミズムの対比論、また今日のキリスト教にも、アニミズムは基層として脈々と受け継がれているというお説。
 先生の造詣の深さと慧眼に改めて感服致しました。

 私も、たかだか二千年前以降に布教、入植してきたキリスト教に「数十万年の基層」を持つ「汎神論的アニミズムの精神風土」が、そう簡単に駆逐されることはないのだろうと思います。
 (パリなどの大都市はいざ知らず)現に、ヨーロッパの各地方では、未だにキリスト教とアニミズム的なものが分かちがたく習合しているような伝統行事や習俗があることを、承知しております。
 近年のヨーロッパ発の「エコロジー運動」は、キリスト教によって封殺されたかに見えた、太古の神々による「アニミズム・ルネッサンス」ではあるまいかと、私は考えます。

 先のコメントの中で、キリスト教を一方的に断罪するようなことを述べ、それにご不快を抱かれた方々もおられたかも知れません。その点深くお詫び申し上げます。
 私が同コメントを通して、暗にお伝えしたかったのは、かかるキリスト教の在り方が、今日アメリカがアフガン戦争、イラク戦争を引き起こした要因の一つになっているのではないだろうか、ということでした。

 私自身は、キリスト教の素晴らしさも、ある程度は認識しているつもりです。カトリック、プロテスタントとを問わず、人類の「霊性の進歩」また「文明の発達」にいかに寄与してきたことか(「中世の暗黒時代」はありましたが)。そして、例えば聖フランチェスコから殉教者・聖コルベそしてマザー・テレサまで、優れた霊的巨人をいかに輩出してきたことか。

 但しキリスト教の場合、私がいつもひっかかるのはその「自然観」なのです。
 浅学を弁えずに申せば、キリスト教は「神」「自然」「人間」の三者を、別個対立的に見るきらいがあるのではないでしょうか。極論を申せば、一神なる神の御前(おんまえ)では、時と場合によっては、人間はおろか自然さえも征服(殺戮、破壊)することも許されるのだというような…。

 他の面ではいざ知らず、こと「自然観」に関して申せば、私は仏教の方が優れていると考えます。仏教は「山川草木悉皆成仏」ー御仏の慈悲によって、我々衆生(人間)のみならず、山も野も川も禽獣虫魚も一木一草さえも皆成仏させようというのですから。自然破壊など起こしようがない、汎神論的アニミズムとも通底した思想です。(その分、文明の停滞は否めませんが。)
                        *
 私は先の『枯葉』のコメントを、その冒頭部分だけで止めておこうかなとも考えました。多分その方が、ずっと綺麗ですっきりしたでしょう。しかし私の中の「天邪鬼」が、それを許さないのです。『もっと書け』と。

 多分この『うた物語』の各コメント、今後とも不特定多数の方々のお目にとまると思います。長くも残るでしょう。よって誤解を与えるようなコメントはいけませんから、申し訳ございませんが、「説明責任」の必要を感じましたので特に述べさせていただきました。

 でも皆様。そんなことより、名曲『枯葉』を二木先生の名演奏で、どうぞ心ゆくまでお楽しみください。
 (大場光太郎・記)

 (この小論のそもそものいきさつにつきましては、 「二木絋三のうた物語」の『枯葉』にある私のコメントをお読みください。)
 

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「赤い靴はいてた女の子の像」実見記

「赤い靴はいてた女の子の像」実見記

 4月1日(火)。「赤い靴はいてた女の子の像」を見てまいりました。その時のようすを(一部創作を交えて)以下に記させていただきます。
                        *
 像のある山下公園には、その日の夕方5時少し過ぎ着きました。当日は大快晴。春の彼岸も過ぎ、だいぶ日がのびて、その時間でもまだ十分な明るさです。
 公園の中に入るなり、海が見えてきます。山下公園通りから海まで、公園の奥行きは百数十メートル。(全体がほぼ芝生で覆われ、その中に中央公園や大噴水や花壇そして野外彫刻などがあり、樹木が程よく植え込まれています。)さらに歩を進めて岸壁の方に近づくと、そこから数メートル幅の遊歩道が、岸壁に沿って七、八百メートルほど、氷川丸の先までまっすぐ続いております。
 横浜でも有数の観光スポットで、夕方は特に賑わうのか、大勢の人々が三々五々散策していたり、ベンチに座って海を見ていたりしています。
 岸壁沿いのフェンスまで寄ってみると、海は凪いでいて、青々と少しうねっているのみ。やや強い海風が頬に吹きつけてきます。夕の陽光のもとすべてが明らかに輝き、パノラマのように横浜港が一望に見渡せます。
 左側数百メートルほど先には、赤レンガ倉庫、その更に後方にランドマークタワーのノッポな姿。倉庫の手前右手は、大桟橋埠頭でその建物や港湾施設、小さな船が二、三隻停泊しています。残念ながら本日、カモメが群れ飛ぶ姿は見当たりません。その右手から中央部には、遠く対岸の神奈川区の建物群も認められます。そして更に右手も建物群は続き、図抜けて高い二本の煙突も見えています。その辺は川崎市鶴見区です。その川崎の大黒埠頭とこちら側の本牧埠頭をつないで横浜ベイブリッチが架かっております。(皆様ご存知のとおり、ライトアップされた夜景が見事なようです。)そして右端は、その橋の手前に山下埠頭、さらにその手前に岸壁と直交して氷川丸が置かれております。

 …そうでした。像のことでした。像を探すまで少し手間取りました。公園の端から氷川丸まで歩き、『ん?』。途中二人の人に尋ねて、結局もと来た道を引き返し、やっと像の所にたどり着きました。
 私がすぐに見つけられなかったのも、無理はありません。せめて道の端に案内板くらいあっていいものを、何もなくて。道に接した芝生の一画、直径十メートル弱くらいの石畳のコーナーの中央に、「赤い靴はいてた女の子の像」はありました。

 少女の像は、うす褐色の半円錐形の台座の上に載っております。ブロンズ像で、所々緑青色をしていたり地の銅色が見えていたり。見たところ、5、6歳くらいの、小柄なやさしい顔立ちの女の子といった感じです。長い髪を後ろでポニーテールに束ねています。膝を両手で抱えて、海を見つめながら、ちょこんと座っています。靴は、建立当時(昭和54年)は確かに赤かったのでしょう。残念ながら、今では変色して赤くはなく銅色です。(像の写真は、 こころの居間・Ⅱ:「赤い靴はいてた女の子」の話 にあります。)
 像というものは、たいがい高くそびえ立っていて、観覧者が仰ぎ見るものです。そして高ければ高いほど、偉い人の像でも、仏像、観音像でも、ありがたがって人々が群がります。
 しかし少女の像は、大人の私では少し見下ろすくらいの低さです。思うに、訪れた子供たちの身長、あるいは目線に合うような配慮のもとに設置されたのでしょう。そのため「ありがたい感じ」はだいぶ薄れ、私がそこにいた10分ほどの間、コーナーに接した道を、若いカップルや親子連れなどがけっこう行きかっておりましたが、(私がさっき素通りしてしまったように)皆あらぬ方を向いて通り過ぎるばかりで、誰一人像に関心を示す人はおりません。

 少女よ。汝(な)れは、つぶらな瞳で、ただ通り過ぎる人々を如何に見たるや?
 少女の眼(め)は、肉の眼には非(あら)ずして、実は心眼(しんがん)なのでは?  私たち大人が視えない真実(もの)を、その澄んだ眼でしっかり視ている…。
 自分自身(岩崎きみ)の薄幸だった人生のこと。遠い異国のこと。『赤い靴』が作られた当時のこと。現在のこと。そしてずっと先の横浜港や横浜市の未来の姿を…。すべて幻視している。
 ではでは。今正対しているこの私の、過去、現在、未来をも?そして今の私の心の奥底までも?

 『おにいちゃん。ずいぶん、たましいよごしちゃったね。まわりのくろいくもで、おにいちゃんのかお、よくみえないよ。』 
 『すまない。菊子。でも、この世で生きていくっていうのは、こういうことんなんだ。ある程度自分を汚さなきゃあ、生きちゃあいけないんだよ。』
 『そうよね。わかるわ。わかってあげる。でも、おにいちゃん。こんどは、もっときれいになってからあいにきてね。そうでないと、おにいちゃんとは、ほんとうのおはなしできないもの。』

 そうしていると、60代くらいの、本式なカメラを肩から提げた恰幅のいい人が、像のコーナーに近づいてきました。『また来るよ』。私は静かに像から離れました。
 無意識のうちに、『赤い靴』のメロディを口ずさんでおりました。公園を抜けて、横浜スタジアムに通じる大通りに入りました。ケヤキ並木が通り中、目路の限りに続いております。公園に行く前は眼中になかった、ケヤキ若葉が色鮮やかに眼に飛び込んできました。人々が行き交う横浜市街に、爽やかな夕の浜風が吹き渡り、私は関内駅を目指して黙々と歩き続けました。
     
                          *

   上記一文を、謹んでれいこ様に捧げます。

 (「赤い靴はいてた女の子の像」を見にいった理由については、『二木紘三うた物語』にあります拙文をお読みください。)

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「朧月夜」ー私たちが失ってしまった原風景

菜の花畠に入日薄れ 見わたす山の端霞ふかし…。昔の田園風景が鮮やかに甦ってまいります。懐かしい、懐かしい風景です。さながら、この歌だけで完結している、一つの小天地の趣きです。
 一番は夕景、二番は夜景。主役は春満月です。その月がおぼろがかっています。
 月がおぼろであることによって、なおのこと。暗くなりまさるほどに、霞みつつやわらかな光りに照らし出された下界の皆悉くが、絵画的なものに、詩的なものに異化され、昇華されてゆきます。
 たとえば、田中の小路をたどる、常日頃は平凡な一村人さえも。

 かてて加えて。七五調の文語体とはかくも格調高く、美しいものだったのだろうか。かかる文体に滅多に接する機会のない私たちにとっては、この歌詞のような流麗な文体を目の当りにすると、とうの昔に失ってしまったものへの懐旧の念、愛惜の念をあらためて呼び起こさせてくれます。
 かつては、全国どこにでもあった田園風景。都市部では特にその多くが消失し、残っている所を「原風景」と呼ばなければならない。田園風景に囲まれて育った者にとっては、悲しいことです。

 さらにこの歌には、見逃してはならない大切なポイントがあると思います。
 文語体の歌詞と一体になって溶け込んでいるかのような、見事なメロディの、そのゆったりとしたテンポです。私たちはすっかり忘れておりましたが、これが自然本来のリズムなのではないでしょうか。
 聴いていて、実に心地良いリズムでありテンポです。これこそが、やすらぎの、おおげさにいえば、星と星、星系と星系、銀河と銀河を、音もなく静かに真釣り合わせている「宇宙的律動(リズム)」なのではないでしょうか。

 私たち人間は、疑いようもなく「自然の児」です。したがって、この歌のこのリズムこそが、本来の「人間のリズム」でもあるはずです。私たちのついこの前までの先祖が、当たり前のものとして暮らしていたはずのリズム…。
 私たちは一体いつから、このリズムから大きくはみ出してしまったのだろうか。はみ出して、自然とは別のものを血まなこで求めて、本当に幸せになれたのだろうか。
 「人間のテクノロジーがどんなに進歩しても、自然は決してそれに出し抜かれたりはしない。」ある賢者の言葉です。

 皆様。しばし、一切の世事、雑事を忘れて、二木先生の『朧月夜』の素晴らしい演奏に聴き入りましょう。
 そして、現代人の誰もがそうである「騒ぎすぎる血」を鎮めましょう。 
(大場光太郎・記)

 (『朧月夜』の歌詞と曲は「二木紘三うた物語」にあります。)

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古賀政男の失恋&名曲誕生秘話

 昭和3年夏。宮城県青根温泉。古賀政男がその地で、自殺まで思いつめた理由は,謎とされているようです。生活苦?失恋?あるいはその前年「ただぼんやりした不安」 という言葉を遺して自殺した、芥川龍之介の影響?
 私は、一番大きな原因は、やはり「失恋」だったのではないかと思います。

 古賀政男の失恋の相手は、中島梅子という、年上でバツイチの、芸術的センスに溢れた八頭身美人だったようです。彼女は古賀の音楽上の教え子で、いつしか恋仲になったようです。

 結婚も考えたようですが、生活苦も重くのしかかっているし…。
 悩んだ末彼女との別れを決意した時の古賀青年の心中、察するに余りあります。
 真剣な恋だったがゆえに、苦悩は相当なものだったでしょう。
 それは古賀青年にとって、大きなイニシエーション(通過儀礼)でした。
 それを乗り越えて人間として大きく飛躍するか、自殺してしまうかの、ぎりぎりの。
  
 結局古賀は、自殺を思いとどまりました。
 大イニシエーションのクリアーです。新たに生まれ変わったわけです。
 その成果が、『影を慕いて』という一曲に結実しました。

 ひるがえって中島梅子は、古賀が再生を果たした翌年の、昭和4年の早くに亡くなりました。病死でした。ですから、何度かの手直しを経て今日私たちが聴くことができる、完成形としての『影を慕いて』は、「まぼろしの影」になってしまった彼女への哀切な挽歌だったわけです。(古賀政男は、当時のことをあまり語ろうとしなかったようです。人知れず、十字架を背負っていたのではないでしょうか?)

 そんないきさつを知るとなおのこと。聴くほどに、心の琴線に触れてくる、情感溢れる昭和の名曲だと思います。

                          *

 (注記)「イニシエーション」は、O真理教の教義上の用語だったことにより、すっかり 負のイメージが定着してしまいました。しかし、本来の意味は、人生の節目で迎える「通過儀礼」です。例えば、入学式、入社式、結婚式など。
 またイニシエーションは、人が精神的な危機や試練を乗り越えて、成長する必要がある場合にも用いられます。
(大場光太郎・記)

 (『影を慕いて』の歌詞と曲は「二木紘三うた物語」にあります。なお、この記事をまとめるにあたりましては、「おもいでチューズデー」を参考にさせていただきました。ここに感謝申し上げます。)

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「浜千鳥」ーこの歌の悲しさの源泉とは?

 日常的なるもののうっとうしさ、わずらわしさから逃れたい時など、ふいにこの歌が口をついて出ることがあります。この歌を口ずさんだくらいで、「現実」というこの重苦しい強固なシステムは、いかんともしがたいもの。そのくらい分かっておりつつも。

 『浜千鳥』。歌のすべてが「メルヘン」です。リリカルなやわらかい月の光りに照らし出された、海そして浜辺の詩的幻想世界。大正浪漫の精髄の一端を見る思いが致します。
 思えば私たちは幼少の頃、このようなメルヘンチックな非現実的世界に、当たり前に身を浸しながら生まれ育ったのでした。しかし長ずるに及んで、この社会の声なき声の、『もういい加減、そんな子供じみたことをしているんじゃありません。』との叱咤と促しに、否応なしにその世界から離別することをもって、「大人の世界」への参入の証しとしたのでした。

 この歌の浜千鳥はまるで、「波の国から生まれ出る」と共に、「親を探して鳴く」ことを宿命づけられているかのようなのです。「濡れた翼の銀の色」の、いたいけないひな鳥が…です。
 二木先生のおっしゃっている「寂しさ」「悲しさ」の源泉は、実にここにあると思います。本当に悲しいです。悲し過ぎます。

 時には、「神話」「伝説」「民話」「童話」「童謡」のような一見荒唐無稽と思われるものの方が、薄っぺらなこの現実よりも、物事の「本質」を突いていることがあるものです。
 この現実の世界での浜千鳥の親鳥は、卵から孵ったばかりのひな鳥をすぐに見捨てるようなことは多分ないでしょう。しかし作詞家・鹿島鳴秋は、この歌の詩的世界で、生まれたてのひな鳥に親を探させている。なぜなのでしょう?鳴秋自身の、幼児体験が投影されているのでしょうか?(それは寡聞にして知りません。)
 鳴秋は、「現実的な親子関係」を超えた、もっと「根源的な親子関係」に想いを致していたのではないでしょうか。

 (以下はあくまでも、私流の解釈です。)
 浜千鳥のひな鳥とは、すなわち私たち「人間自身」。そして探させ、求めさせている親鳥は、私たちをこの世で生み育ててくれた肉親よりずっと悠古の初源の、生命そのものの「根源的な生みの親」。つまりこの存在(それを神と呼ぼうが何と呼ぼうが)こそが、私たち人間にとっての「真の親」。
 であるにも関わらず、「夜鳴く鳥」である私たち人間の「悲しさ」は、この真の親を、今の今まで完全に見失ってしまっていたことにあった。
 あまつさえ私たち凡人は、「肉親」の他に「真の親」がいることさえ知らずに、「夜の歴史」の間中ずっと酔生夢死を繰返してきた。「海こえて」「月夜の国へ」、真の親をたずねて行った目覚めた者は、むしろごく少数だった。

 大正のあの時代、鹿島鳴秋自身が「目覚めた者」の一人だったのでしょう。当時の大衆の多くがまだ眠りこけている中にあって、既に目覚めてしまった者の「孤独」。それを多分に感じつつ送った生涯だったのではないでしょうか。
 しかし鳴秋は、彼の心の内なるメッセージをメタファー(暗喩)的に潜ませながら、この『浜千鳥』の詞を、あの時代世に出してくれました。以来この歌が、時代を越えて、私たち日本人の心をどれだけ揺さぶり続けて来たことか。
 『人々よ。汝(なんじ)の真の親に目覚めよ』。鳴秋のこの切実な心の叫びを、無意識の内に受け取りながら。

 作詞した鹿島鳴秋と、作曲した広田竜太郎と、素晴らしい演奏の二木先生に深い敬意を表しつつ、今後とも『浜千鳥』を愛聴していきたいと存じます。 (大場光太郎・記)

 (『浜千鳥』の歌詞と曲は「二木紘三うた物語」にあります。)

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「テネシーワルツ」ー主人公は男性?女性?

 文句なしに良い歌です。お勧めの名曲です。

 子供の頃、江利チエミの歌で知りました。その頃から子供心に、何となくいい歌だなあと思っていました。今では、江利チエミの方の日本語の名訳詞もなかなか…としても、やはりパテイ・ペイジの本場の『テネシーワルツ』の方がいいですね。それにパティ・ペイジは、今でこそご高齢ですが,若い頃はかなりの美人だったようですし。(これは冗談でした。)

 この歌、アメリカでも日本でも女性が歌っているので、女性が「男性の恋人を失った歌」かというと、さにあらず。

 江利チエミの歌では、「別れたあの娘よ」とありますから、こちらの方は明らかに、主人公は「男性」です。 

 問題は、パティ・ペイジが歌った元歌の方です。
 およそ英語の読解力に乏しい人種である私が、冷や汗をかきながら原詞を解読致しますに。歌の一聯目に「I intoduced her loved one」とあって、「私にとって、かけがえのなかった恋人を、彼女に、紹介した」。つまり前行の「old friend」が「her(she)」ですから、「I」は当然「女性」ということになります。この「my friend」が「stole my sweetheart from me」、紹介した「愛しの恋人を奪う」という、痛ましいことをした。 
 私が引っかかったのは、歌の二聯目の「I lost my little darlin`」です。男性の恋人に対して「my little darlin`」という呼称がふさわしいのかどうか。これはむしろ、男性から、女性の恋人への呼称なのではないだろうか。

 数年前NHKが、この歌がどうして作られ、世界的大ヒットになるに至ったかのドキュメント番組を放送していました。
 もう詳細は忘れましたが、この曲が作られた当初は、男性グループが歌う予定だったかと思います。今回少し調べましたところ、その時の歌詞では「her」ではなく「him(彼に)」(彼女を奪われた)。それであれば、「my little darlin`」はまったくおかしくありません。
 それが、パティ・ペイジという才能豊かな女性ボーカリストを見出し、彼女にこの歌を歌わせることにした時に、「him」は「her」に変えたけれども、「my little darlin`」は、他にふさわしい言葉が見つからずにそのまま残した…。

 しかし、もしそうだとしても。この歌は、主人公である女性が、「あの晩」からだいぶ歳月が経ってから、その時の出来事を回顧している内容です。だから今では、恋人だった「当時の彼」を「my little darlin`」と呼称してもおかしくない年齢に達している。そう考えれば、つじつまは合ってきます。(いささか回りくどい話になりましたが)つまり、パティ・ペイジの元歌の主人公は「女性」。
                             *
 彼女は、ある夜窓辺に寄りながら外を見やりつつ,あの晩のことを思い出している。今この時点で振り返っても、あの時失ったものはあまりにも大きい。  
 失ってしまった恋人ー闇の中に浮かびくる遠い回想の中の彼は、当時の「my little darlin`」のまま。…いつしか彼女もあの時のうら若き自分に戻って、痛ましい出来事に出会う前の彼と、麗しのテネシーワルツに合わせて至福のダンスを踊っている。
もし仮に「もう一つ別の現実」というのがあるのならば、誰にも邪魔されず、あのままずっと彼と…。
(以上はあくまでも、私の勝手な推察と想像です。)                   (大場光太郎・記)

 (『テネシーワルツ』の歌詞と曲は「二木紘三のうた物語」にあります)。

 

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「黒髪」はどこへいった

 島村抱月主催の芸術座で主演の松井須磨子が歌った『ゴンドラの唄』(吉井勇作詞、中山晋平作曲)の4番に次のような歌詞があります。

  いのち短し 恋せよ少女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

 また、与謝野晶子の『みだれ髪』のなかに次のような名歌があります。

  その子二十歳(はたち)櫛に流るる黒髪のおごりの春の美しきかな

 これらの歌の内容と「当世少女(ギャル)気質」とは、そうとう食い違うところがあるようです。
 
 その第一は、当世の若い女性で「黒髪」というのは、ほとんどおいでになりません。「茶髪」というのでしょうか、たいがいの女性は髪を染めておいでです。古来より我が国では、「黒髪は女の命」「緑なす黒髪」などと讃えられたとうかがっております。それなのに当世では、「日本女性」であることのアイディンテティが保てなくなった故なのか、何の抵抗もなく、猫も杓子も髪を染めたがります。私などは、たまに黒髪のうら若き女性をお見受けすると、かえってゾクッとするような色香を覚えますのに。(男性も、「日本男性」としてのアイディンテティが保てなくなっているのと、相関関係です。)
 ともかくそのような次第で、この歌の中の「黒髪の色 褪せぬ間に」を「茶髪の色 褪せぬ間に」、あるいは前掲の与謝野晶子の歌の「櫛に流るる黒髪の」を「櫛に流るる茶髪の」に変えたらどうなりますでしょう?その味わいは?およそシャレになりません。それに語呂が悪いし、第一歌の「叙情性」が根底から崩れます。(但し現代詩では、「茶髪OK」なのでしょう。案外その中から、以外な抒情詩が生まれないとも限りませんが。)

 次に。例えば私のような者が、街中(まちなか)でたむろしている今時のギャルたちに、したり顔で「君たち。恋をしなさいよ。出来るのは、若いうちだけだから。」などと話しかけでもしようものなら。「ヤダー。なにこのオジサン。チョーウザイ。いわれなくたって、コイならいっぱいしてますーぅ。!」てなこと言われそうで、おヽ「チョーコワイ!」。

 もう40年も前、三島由紀夫が「今東京では、矮小で安っぽい恋が氾濫している。そんな恋では、互いを高め合い尊敬し合う気持ちは薄れ、また性エネルギーは、その場限りでたやすく費消され、別の変革エネルギーに転化、昇華される余地が無い」と書いているのを読んだ記憶があります。
 当時ですらそうなのですから。あの頃から比べると信じられないくらい、性の解放が進んだ今日では、さらに安手で刹那的な恋が東京どころか、全国津々浦々で繰り広げられ、今や「聖域の堤防」は、決壊寸前なのかもしれません。

 この『ゴンドラの唄』で高らかに謳い上げているのは、そんな「卑小で刹那的な恋」ではないはずです。この歌は、師・島村抱月とやがてその死に殉ずることになる松井須磨子の、それこそ身も世も捨てた、「身の丈の大きな恋」の絶唱だったのではないでしょうか。
 そして抱月、須磨子のみならず、作詞した吉井勇、作曲した中山晋平の…たぎるような熱い想い。この歌は、彼らの「生命の燃焼」から生まれた、当世ではもう古典化してしまった、大正の青春のモニュメント的名曲なのでありましょう。
(大場光太郎・記)

(『ゴンドラの唄』の歌詞と曲は「二木紘三のうた物語」にあります)。

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