宮脇昭博士、「森の防災力」を語る

 -宮脇博士の提言がいかに素晴らしくとも、ゼネコンとズブズブ癒着で箱物志向の政府系復興会議のメンバーに招聘されることはないのだろう-

 『日刊ゲンダイ』(8月31日)が、3面にわたって「災害の国で生きる」という防災特集を組んでいます。今回ご紹介するのはそのうちの『森の力で防災を』(同日号34面)という、「森再生の第一人者」の宮脇昭横浜国大名誉教授の提言です。
 「日本一木を植えた男」として名高い宮脇先生の提言は傾聴に値します。

 なお宮脇先生については、だいぶ前の『寒川神社参拝記(2)』(08年1月)記事で少し触れました。以来宮脇先生の業績について「いずれ詳しく・・・」と考えていましたが、いまだ果たしていませんでしたので、今回ちょうど良い機会となりました。 (大場光太郎・記)

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「災害の国で生きる」 森の力で防災を

 あの3・11東日本大震災から2年半。巨大地震と巨大津波の恐怖を忘れる間もなく、ゲリラ豪雨や土石流、桜島の爆発的噴火などの自然災害の脅威が襲っている。9月1日の「防災の日」は、こうした大自然がもたらす災害から、どうやって自分や家族の命を守るのかを改めて考えてみる節目の日だ。


 2万6000人近い死者と行方不明者を出した東日本大震災の大津波の被害は、従来の防潮堤では役に立たないことを思い知らされた。そんな瓦礫の山がいまだ残されたままの被災地の沿岸に、「いのちを守る森の防潮堤」づくりがボランティアたちの手で進められている。果たして森の防潮堤は、どれだけ津波の被害をくい止めてくれるのか。プロジェクトの発案者である横浜国立大学名誉教授でIGES国際生態学センター長の宮脇昭博士に聞いた。

コンクリートの防波堤だけでは限界がある

「東日本大震災で津波による死者・行方不明者が1000人以上にのぼった釜石では、世界最大水深の防波堤としてギネスにも認定された釜石港湾口防波堤が2009年に完成し、これで防災は完璧だと想われていました。しかし、予想が間違っていたため防波堤は破壊され、津波が市街地へと押し寄せて大きな被害が出てしまった。一定の減災効果があったとされているものの、コンクリートだけ築く防災対策の限界を如実に示しているのではないでしょうか」と、宮脇博士。

 自然災害は複合的なものだ。大地震が発生すれば、津波も起こり、家屋の倒壊や火災も発生する。台風で豪雨が続けば洪水や土砂災害が起こることもある。こうした複合的な自然災害に対して、ハード面だけの一面的な防災対策だけで対応しようとすれば、経済的な負担は天井知らずに膨らんでしまうと宮脇博士は話す。

「しかも、鉄筋コンクリートで構築したものは時間とともに劣化します。塩害にさらされる防潮堤はなおさらです。もちろんハード面の対策も必要ですが、一方で、私たちの命を守る土地本来の“ふるさとの森”づくりを進めていくことも必要なのです。森は、ゆるやかな有機体。森全体がひとつの生き物なので、何千年にもわたって強く生き抜く力を持っています。この森の力を活用することこそ、鎮守の森をつくり、守ってきた日本人の知恵なのです」

“鎮守の森”こそが防災の要になる

 沿岸に鎮守の森をつくることが、防災にどれほど役に立つのだろうか。
 日本の海岸林といえばクロマツやアカマツが防風、防潮、防砂の機能を果たしてきた。が、マツだけの単植林は津波には脆弱な面があり、東日本大震災の津波ではコンクリートの防波堤ともどもマツの海岸林が破壊され、流木化したマツが家屋を倒壊するといった2次的な被害ももたらした。

「マツは土地保水力が小さいため、大きな津波では根こそぎ倒れてしまいます。被災した海岸林には、トベラやマサキといった常緑広葉樹が生き残っており、東北地方の海岸には、タブノキやシラカシなどの常緑広葉樹を中心にした森が残されている。これらの広葉樹は地中にしっかり根を張り、相互に絡み合うので、東日本大震災の津波でも根こそぎ倒れることなく、生き残ったのです。この常緑広葉樹の多層群落の森が波砕効果で津波のエネルギーを激減させる。それに、津波の引き潮時には、人や財産が海に流されるのをくい止めてくれる命を守る森になるのです」

タブノキ1本、消防車1台

 タブノキやシイノキ、カシ類などの常緑広葉樹の森は、津波だけではなく防火にも役立つと宮脇博士は言う。

「タブノキは“火防木(ひふせぎ)”と呼ばれていて、タブノキ1本、消防車1台』といわれるほど防火力が高い。これは歴史的な大火事でも証明されています。例えば、今から四十数年前に起きた酒田市の大火事では、タブノキが火をくい止めたことが現地調査で明らかになっています。また、関東大震災では、陸軍本所被服廠(しょう)跡地に逃げ込んだ約4万人のほとんどが焼死しましたが、わずか2キロしか離れていない旧岩崎邸(現・清澄庭園)に避難した約2万人は焼死者が1人もいなかった。生死を分けたのは、やはり火防木でした。岩崎別邸には、タブノキやシイ、カシ類の常緑広葉樹が敷地を囲むように植えられていて、火災から人々を守ったのです」

 鎮守の森は、大地震に付きものの津波にも火災にも強いのである。

「使えるものは使うという発想が大切」

 宮脇博士は、瓦礫の山となった東日本大震災の被災地を訪れ、まるで地獄絵を見るようなショックを受けると同時に、瓦礫を使って広葉樹の森をつくれば、次に自然災害に襲われても生き延びることができると、生態学者の勘が働いたと言う。

「瓦礫で害のないものは穴を掘って、土と混ぜて埋め、その上に土をかぶせて丘をつくる。そこに、大きくなる力を持った多種多様な常緑広葉樹の苗を混植・密植するのです。瓦礫と土壌の間に空気層が生まれ、根は深く地中に入り込んで瓦礫を抱くように伸びていきますし、土地本来の森(潜在自然樹)の多くの樹種を混ぜて植えれば、管理費不要で自然の森と同じように自然淘汰で枯れたものは肥やしになる。こうすれば、自然の掟にしたがって、20年で20㍍近い防災・環境保全の多彩な力を何百年、何千年も果たし続ける。命と地域経済を守るふるさとの森になるのです」

 4000年も昔から、新しい集落や町づくりに、世界で唯一、日本人だけがつくり、守ってきた鎮守の森は、古来、災害から人々の命と生活を守る、世界に誇る存在だったのだ。 (転載終り)

関連記事
『寒川神社参拝記(2)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-1238.html

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中津川寸描(3)

    川の面(も)に佇(た)つ白鷺の孤影かな   (拙句)

 空の中ほどにうすいすじ雲が少しあるくらいで。すっきり晴れ上がった、気持ちよい、まさに秋日和の一日でした。

 本夕また中津川堤を降りてみました。
 秋分の日から間もなく、少し下流の大堰は開けられて、既報のかつて満々と水を湛えていたその上流側は、すっかり様変わりです。目測でも、1m弱くらいは水位が下がったでしょうか。
 堰からこちら20mほどは川幅いっぱいに浅く広がっていても、それより上流はぐんと中洲の砂地がだいぶ露わになっており、そこからこちら岸までの川幅約20mほど。以前と比べると、川の流れはだいぶ細って見えます。
 天辺に鴨がくつろいでいたテトラポットも、今では突起から数十㎝ほど突き出しており、改めて数えてみるとその数40以上。ずらっと連なっている様は、何となく異様な感じがします。
 一体どこに行ったものか、堰が切られてこの方鴨の姿はついぞ見かけません。

 ご存知の方もおいでかもしれませんが。中津川の最上流は、今から二十年ほど前に完成した、「宮ヶ瀬ダム」です。同ダムは、神奈川県の重要な水源確保の他流域全体の洪水や渇水時の流量調節などの機能を有する、首都圏最大級の多目的ダムです。
 私が立っている中津川岸の地点から、1キロ弱下流で相模川と合流します。毎年3月頃から9月までの約半年間は堰を閉めて満水にし、統計的に雨量が少ない後の半年間は堰を開けて放流する。神奈川県土木事務所や(財)宮ヶ瀬ダム周辺振興財団などが協議して決めたことなのでしょう。
 しかしその結果、鴨の例に見られるように、その都度生態系にそれなりのダメージを与えているかもしれない…などという環境アセスメントなどは、あまり考慮されていないように思われます。

 そんな中だいぶ下に伸びた中洲近くの水面に、白鷺が一羽、上流の方を向いて歩いている姿が認められました(中洲で分断されて、その向うにも小さな流れがあるのです)。しばらくその姿に見惚れていると、更にもう一羽堰の方から真っ白い翼を優美に広げて飛来してきました。向うの仲間の側に行くのかと思いきや、中洲のこちら側の水際にスーッと降り立ちました。中洲を挟んであちらとこちらと。互いに没交渉で、それぞれが上流の方を向いてしばし佇んでいたり、ツツーッと歩き出したり…。

 向こう岸といわず中洲といわずこちらの水際といわず、群生している葦が白い穂をつけて連なっています。この夕べ風はさほど無く、穂はピタリとも揺れません。
 私が座っているコンクリート堤防から直ぐ先は自然のままの堤防で、雑草が伸び放題です。悪名高いセイダカアワダチ草の黄色い花も、所々に見られます。そんな雑草に紛れて、私の直ぐ前に、幾株かのコスモスが十幾つかのやわらかいピンクの花を咲かせています。確か去年まではこの辺にはなかったはずです。堤防道沿いに咲いているコスモス群の種が、風に飛んで運ばれてきたのでしょう。

 と、夕方5時を告げる例の「夕焼け小焼け」のメロディが、北の方角のどこか遠くから、天来の楽の音(ね)のようにワンフレーズ流れて、プツンと消えました。
 当厚木市は湘南海岸からそう遠くなく、相模川右岸の沖積平野の一角です。標高せいぜい何十m。街中にいては、「秋」を感受するのは容易ではありません。しかしここ中津川は、しみじみ秋思のできる数少ないスポットです。
 下流の南の空を望めば、まだ東寄りの冴えた秋空に、半月に少しふっくらした白い夕月。十三夜(後の月)までは、後2、3日でしょうか。
 (大場光太郎・記)

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中津川寸描(2)

   株下落ただ静かなり秋の川   (拙句)

 夕方5時過ぎ、例の中津川に立ち寄りました。広々とした川に夕闇迫りつつある頃合です。日は大山の峰に既に入ってしまったのだろうか。山の上はうっすら雲に包まれていて、確かめようがありません。
 いつもの所から降りてみますと。下流に30mくらいの大堰からこちらは、例によってちょっとした湖のように満々と水を湛えています。本夕川面は穏やかで、対岸の木立や工場の建物などをくっきりと水面に映し出しています。こちら岸にびっしり繁茂した草の陰のあちこちからは、涼しい夕虫の声がしきりに聞こえています。幾分秋冷の気を含んだ風が、川原に吹き渡ります。

 堤防の中ほどの踊り段の上でぐるっと川を眺めまわしますと、もうそんな季節なのでしょう。先ず目に飛び込んできたのが、夥しい鴨(かも)の群です。いるわ、いるわ。どこから集まってきたのか、川全体で数十羽ほどはいそうです。
 堰のこちら側に、十幾つもの円形テトラポット(波消しブロック)が、Φ30㎝くらいの天辺だけ水面から突き出して二列に並んで続いています。そこに一羽ずつがちょこんと乗って、羽をたたんで休んでいます。そこを確保し損ね近くを泳いでいるのを含めて、ざっと二十羽ほどはいそうです。
 降り口から下流に行った、いつもの堤防突起の指定席に座りたいのだけれど。そこまで行けば一番近いテトラまでは5mほどで、近づき過ぎです。一羽が川中に逃げてしまうと、「我も我も」と皆逃げて行ってしまいます。それを何度も経験済みなので、降りてすぐの踊り段の所に立って川のようすを眺めることにしました。(その付近は草ぼうぼうで座れません。)

 鴨はこちら岸ばかりではなく、川の中ほどにもそして対岸にもそれぞれ十数羽ずつ群をなしております。一ヶ所にじっとしていたり、あるいは後ろに少し白い水脈(みお)を曳いて気持ち良さ気に泳いでいたり。
 時折りその中で、対岸べりの浅瀬で水面から立ち上がり周りに波紋を広げながら羽ばたきするもの、遠くで「グワァー、グワァー」とけたたましい鳴声をあげるもの、突然飛沫(しぶき)を上げて水面すれすれに滑空したかとみれば群から離れて大堰の更に下流までバタバタと飛び去っていくもの…。

 めんめめんめの実に百鴨百態のさまを、十数分ほど見飽きずに眺めておりました。
 (大場光太郎・記)

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中津川寸描

   白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ  (若山牧水)

 本日夕方厚木市内で所用を済ませた帰り道、例の中津川沿いの道を通りました。そしてこれもいつものことで、その堤防を下りてみました。
 堤防道の反対の町側には、三階建ての県営住宅が建ち並び、西日はその陰に隠れて見えません。それでこちら岸は日陰。ただ、川の向こう側半分くらいを明るく照らしております。例の二、三十メートル下流の堰で蓄えられた水は湖水のように満々と湛(たた)え、水面(みなも)が青く、下流からの南の風に少し逆波(さかなみ)立って見えております。
 きょうはやや風が強い一日でした。分けても川風は、街風よりも一段と強く吹き渡るもので、川のエリア内は十分に涼風(すずかぜ)ゾーンです。ただ堤防に座っているだけで、本当に爽快な気分です。

 腰を下ろし川を見渡して真っ先に目に飛び込んできたのが、一羽の白鷺(しらさぎ)の姿でした。私のいる位置より上流十メートルくらいの川中です。その更に上流に、もう去年の枯れ葦をほぼ覆いつくすように青々と伸びた葦が、びっしり繁茂している中州があります。その州伝いの浅瀬に、白鷺が立っているのです。白鷺は下流を向きながら、長い脚の下部を水に浸(つ)けて、じっと佇んでおります。赤々とした返照(へんじょう)を一身に浴びた、真っ白い姿です。みごとなほどに純白で、実に絵になる姿です。

 その姿を見つめながら私は、あることをふと思い出しました。
 つい三ヶ月弱前の四月二十八日。私は「二木紘三のうた物語」への(いささか大げさながら)「辞世」のつもりで、「白鳥の歌」コメントを発表致しました。『おそらくあんな文は当分は書けないだろうなあ。またコメントすることが分っていたら、取っておくんだったなあ』。牧水の歌の白鳥(しらとり)と、今見ている白鷺がダブって感受されたのです。

 忘れておりました。私が堤防を下りた途端、こちらの丈の長い草が生い茂る水際からツツーッと一羽の鴨(かも)が、川の方に泳ぎ去っていきました。この中津川で鴨は常連の鳥です。特に秋も深まった頃から春先にかけては、時に数十羽ほどの大群を見かけることもあります。
 人の気配にとても敏感で、『そんなに慌てて逃げていかないでよ』と思っても、いつも決まってそうなのです。さてどこへ行くのかな?と思ってみていると。何と白鷺のいる方へスイスイ…と。そしてそのすぐ側でようやく落ち着きました。何といっても種類こそ違え、同じ鳥類ですからねえ。
 互いにつかず離れず。白鷺は側近くの鴨のことなどまるで知らんぷりで、依然下流をじっと見つめたまま。孤高な純白の立ち姿を守っておりました。
 (大場光太郎・記)

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中津川のこと

 きょうは霧雨が降っているようないないような。外に出てみても傘がいるのやら、いらないのやら。道行く人は?と見ると、やはり傘をさしていたりいなかったり。
 午後三時過ぎともかく霧雨もスッカリ上がり、雲間を通して薄日がほんのり射してきました。

 書く題材が何もない時の「身辺雑記」。分けても「中津川のようす」。そのさまを眺めていると、書く素材が一つ、二つたいがい見つかります。とにかく。私にとって中津川は、身近な所で本式な自然が残されている唯一といっていい場所です。
 いずれデジカメでもそろえて(まだ持っていないのです)、当ブログへの画像の取り込み法をしっかりマスターした暁には、「中津川の四季」という年間シリーズを予定しております。(気長くお待ちください。)

 自然は、本当に時々折々にさまざまな表情を見せてくれます。この中津川も何年も前からしょっちゅう行っていますが、それこそ四季によって、日によって、行く時間帯によって微妙に違っており、同じ表情は無いといってもいいほどです。それはそうですよね。日の高さ、雲の具合、風や雨のさま、登場する生き物…すべて違うわけですから。

 本日は夕方六時過ぎ立ち寄りました。堤防を下りて、いつもの突起の指定席に腰をおろします。先ほどまでの雨で少し湿っています。
 座っている所から二、三十メートル下流の所に、こちら岸から向う岸まで、幅七、八十メートルくらいの堰が設けられています。一キロ弱先の相模川への流量調節が目的だと思われます。きのうから降り続いた雨で、堰のこちら側は満々と水を湛えています。
 それにしては意外なほど流れは穏やかで、水面(みなも)がわずかに揺らいでいる程度。まるで水鏡(みずかがみ)のように、対岸や中洲の繁茂した青葦、対岸堤防上の木立が川面に鮮やかに映っています。

 時に何鳥なのか、小さな鳥が下流から上流へ「チチチチッ チチチチッ」と、鳴きながら飛び去っていきます。堰の方からは、勢いよく流れ下る川の水音が絶え間なく聞こえています。時折り、すぐ近くの川辺の葦群から「グァッ グァッ グァッ」という、野太い夕蛙の鳴き声…。
 「自然の音声(おんじょう)」に耳をそばだてるのは、本当に良いそうです。右脳と左脳のバランスが取れてくるそうです。とかく現代人は「左脳偏重」で、大変困った状況にあるわけですから…。

 立ち上がって帰り際、一羽の青鷺(あおさぎ)が悠然と羽ばたき、対岸のこんもりした木立の根元に隠れていきました。
 午後六時半。曇り。自然はいたってゆったりとそして穏やかです。
 (大場光太郎・記) 

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水路道(3)―八重桜の切り株

 この水路道で悲しいことが起こりました。
 数軒並んでいる家並みの、私の住居側からこの道に入るとすぐの家の八重桜のことです。その家の狭い裏庭の、この道と境界ぎりぎりの所から八重桜が道に大きく張り出しておりました。幹もけっこう太くて、枝をあちこちに広げて水路道に覆いかぶさっており、他の木を圧倒する存在感でした。
 染井吉野(いわゆる普通の桜)が散って一、二週間ほどするとこの八重桜の出番で、ぽったりした大ぶりなピンクの花を絢爛(けんらん)と咲かせては、この道を通る人の目を楽しませてくれておりました。そして咲き終わると、道の中央のコンクリート上や土の所一面に落花したものでした。それはまるで、最期を心得た美しい貴婦人のように、たいがいはきちんと花びらが上向きで。私は通りながらそれらを踏みつけないように、花が落ちていない所を探しながら通ったものでした。
 真夏のかんかん照りの日などには、その存分に繁った葉群(はむら)が木下闇(こしたやみ)をつくり、格好の日除けになってくれておりました。

 それが昨年のちょうど今頃、その八重桜が十分に咲ききって、すっかり散ってしまった頃合。私は所用を済ませて帰宅するため、午後二時過ぎ水路道を通りました。
 するとその家のご主人が脚立にのぼって、剪定ばさみでくだんの八重桜の枝をバッサバッサと切り落としているではありませんか。道のコンクリート上には、切られて落ちた枝々が無残にも散らばっておりました。
 「どうもすみませんねえ」とご主人。
 「いいえ」と私は言いながら、落ちた枝をよけながら通り抜けました。
 そのご主人はもうそうとうなお年です。とうに七十歳は越えているでしょう。
 『お年寄りが、桜の木の手入れか。まあ大変なこと。それにしてもよくもまあ、派手に剪定しているものだこと。もう少し手加減できないの?』

 翌日の昼過ぎ出かけるのに、またこの道を通りました。
 何と剪定どころか、八重桜そのものが消えてなくなっているではありませんか !
 『エーッ。何でや !』
 私は単なる驚きを通り越して、動悸が一気に激しくなるほどの強いショックを覚えました。見ると枝々は1、5mくらいの長さに切りそろえられ、人が抱えられるほどのいくつかの束になって、その家の土の領分の所に置かれています。幹も根元から1mくらいの所で伐られて、同じようにごろんごろんと…。
 『こんなことがあっていいのか !』
 たかが一本の八重桜の木のことながら。私は何かの悪夢あるいはおよそ起こりえない不条理劇を見たようなやるせなさと怒りがこみ上げてきて。思わず、かの「ムンクの叫び」のような叫びを発したい衝動にかられました。

 …しかしそれは、その家のご主人が熟慮の結果下した結論だったのでしょう。
 『オレが元気で動けるうちに、あの木を何とか始末しなければなあ。後々あの木の世話をしてくれそうな者もいないし…』。
 おそらくご主人は、その八重桜の木に、私などよりはるかに愛着があったはずです。何しろ長年月その木と接してきたのでしょうから。花が咲き誇る一時期だけではなく、春夏秋冬毎日…。ご主人はどんな思いで幹にのこぎりを入れ、かつ引いていたのだろうか?それを思うと、そのご主人を責める気にはとてもなれません。

 しかし私はその後しばらくそこを通るたびに、ついつい八重桜の切り株に目がいきました。根元から1mくらい、直径30cm弱ほどの生々しい切り口。私の分身の一部が切られたような心の痛みと、それを失ってしまった悲しみの感情に襲われました。

 今年はもうその切り株は、ずっと昔からそうであったような古株になってしまいました。それでも、かつてはかなり広く枝々を伸ばして道に覆いかぶさるように繁っていたのに…。その空間がすっぽり空いてしまっている不在感、空虚感を感じながら、今でも水路道を通っております。                              ― 完 ―

 (大場光太郎・記)

 

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水路道(2)―狭まりゆく自然

    夜の蛙(よのかわず)遠き故郷を曳きて鳴く   (拙句)

 当地の厚木市は、小田急で新宿までほぼ一時間くらいと、首都圏ぎりぎりに位置する一地方都市です。それゆえご多分に漏れず、都心のベットタウンとして、私の居住地付近も昭和40年代後半頃からにわかに、「都市開発」の波に容赦なくのみ込まれることになりました。

 厚木市の郊外部である当地は、市街化区域としてそれ以降は住宅建設ラッシュ。それまでの見渡す限りの田畑は、どんどん宅地に転用されていきました。まず縦横に広い道路が敷設され、その中に戸建住宅、工場や会社施設、スーパー、コンビニ…。
 わずかに残された周りの空き地も、次々にアパート、マンション、駐車場などに姿を変えつつあります。つい何ヶ月か前も、すぐ目の前の空き地に、Rパレス21の2階建アパートや何軒かの豪壮な戸建住宅が建ちました。この空き地はそれまで広々とした草地になっていて、よく子供たちがキャッチボールなどをして遊んでいた所です。

 そういえば、数年前まではその時期になると、私の居宅の回り中で、うるさいほど「夜蛙(よかわず)」の鳴く声がしたものです。そのたびに、私は『郷里の山形でもこんなぐあいだったなあ』と、懐旧の感を深くしたものでした。しかしその声も年々細っていき、今では雨の夜などにたまに聞かれるくらいになってしまいました。

 そのようなわけで。周りから目に見えて身近な自然がどんどん狭められていく現状では、この水路道はなるべく通りたい道なのです。
 それは釣り上げられた魚が、口をパクパクさせて必死で水を求めるように。私はわずかな長さのこの小径を通りながら、そのつどつかの間、「自然の気」をいただくわけなのです。私の心はかくも、「自然なるもの」を切実に求めているのです。
                                      (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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水路道(1)―よく通る小径

 私の住居のすぐ近くに、私が勝手に「水路道」と名づけている通路があります。私は出歩く時よくこの通路を通ります。
 この通路は、昔は付近一帯が田んぼで、それぞれの田に水を引き込むための堀川だったようです。それがこの地域全体が住宅化すると共に、昭和50年代その堀川を埋めて、コンクリート暗渠(あんきょ)とし周りを盛り土して、人が通り抜けできる通路としたもののようです。

 この水路道(通路)は総幅員4m強くらい。中央部の1.2mほどはコンクリートで被覆されています。このコンクリート上を歩いて人が行き来できる通路としたわけです。その両側は共に2m幅ほどで、土や小砂利で覆われています。
 広い通りから通りまで、水路道の総延長はおよそ300mくらいでしょうか。
 私はいつも住宅が建ち並ぶ中の道から、直交してこの水路道に入り、30m弱ほど通って、また反対側の住宅地の中の道を通って…広い道路に出ていきます。私にとって水路道は、便利な近道なのです。

 しかしいつもこの道を通るのには、もう一つ別の理由があります。
 私が通り抜ける水路道の当該箇所の両側には、数軒の人家が建ち並んでおります。その家々の住人たちが各々道に接した土(または小砂利)の所に、梅の木やら柿の木やら何かの木やらの手頃な高さの木々を育てています。
 そのため、そのわずか30m弱の空間が、そこだけこんもりした葉が覆いかぶさり、さながらちょっとした自然の小径(こみち)のような趣きになっております。それが何ともたまらずに、つい通ってしまうのです。

 今の時期、バラの潅木が、幾つもの紅いバラの大輪を咲かせています。地面には、繁殖力の強い花大根の紫の花が少し広い範囲に広がって咲いています。またムラサキツユクサが一塊りで、可憐な青紫の花を咲かせています。背丈の低い連翹の黄なる花の色が、目に飛びこんできます。時折り小鳥たちも訪れ、チチッというような可愛らしいさえずりが聴かれます。
 先の連休の前後には、藤の花が垂れ下がりうす紫の花が見事でした。2.3株こんもりしたアジサイもありますから、今から梅雨時が楽しみです。
 今年の冬は厳冬といわれた中、2月10日にここで、大きく芽吹いた2、3個のふきのとうを見つけた時の嬉しさときたら !  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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