【14日の満月】70年ぶりで大騒ぎ 超スーパームーンは大地震の前兆か?

-今夜(14日夜)は当地は雨、残念ながら「超スーパームーン」を見ることはできなかった。何でも今回のスーパームーンは“並みのもの”ではなく、68年ぶりとなる稀有なものだという。通常私たちは地球を回る衛星である月の軌道は完全円だと思いがちだが、実際は少し楕円軌道になっているらしい。そこで地球と月の距離に微妙な遠近ができ、今回月は地球に最接近するため超スーパームーンとなるわけである。13日も気になって深夜月を眺めてみた。雲がちだったが、幸い月は雲間を出てしっかり認められた。かさをかぶっているものの普通と変らない満月に近い月だと思った。しかし今夜見られたかもしれない満月は通常より14%も大きく、30%も輝きを強くしていたはずだという。今回関心を集めているのはもちろんそんなことではない。超スーパームーンと地震の関連性においてである。というのも過去、スーパームーン前後に大地震が起きた例が多いというのである。例えば、阪神淡路大震災(1995年1月17日)、スマトラ沖地震(2004年12月26日)、東日本大震災(2011年3月11日)などもスーパームーンの前後に起きたという。日刊ゲンダイ転載記事にあるとおり、東大地震研が「巨大地震と月の引力の関係」について英科学誌『ネイチャー』に発表したというが、月は海の潮の満ち干きを起こしそれが人の誕生や死に微妙に影響を与えると言われているとおり、最も身近な星である月の影響には大きなものがあると考えられる。実際、日本ではないが、ニュージーランド南島で14日午前0時2分(日本時間13日午後8時2分)ごろ、マグニチュード(M)7.8の地震があった。被害の全貌は不明だがかつての関東大震災よりも大規模だとみられるという。遠いよその国の地震だから、と安心はできない。というのも、下の画像どおり、ニュージーランドと日本列島は「地震の弧」のように連動しているからである。「地震列島」であるわが国は何かあるとすぐ巨大地震を結びつけがちで、最近「11月には何かが起きる」というネット記事で、日本を中心に世界を「M15」という想像を絶する超巨大地震が襲う、というようなものもあった。11月23日あたりに、フォッサマグナ(中央地溝帯)から列島が真っ二つに分断され、350メートルくらいの巨大津波が襲うというのである。それこそ当地で言えば、箱根の仙石原(標高約500メートル)にでも避難しなければとうてい助からない。そんな事態は人知・人力を超えており、もうどうしようもない。運を天に任せるしかない。で、今夜の超スーパームーンだが、雨天で見えなかった。ということは、今回関東を中心とした広い地域で地震に見舞われることはない、というシグナルなのではないだろうか、と勝手に解釈しているのである。 (大場光太郎・記)-

【ニュージーランド南島地震関係】

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【地震速報】ニュージーランドでM7.8の巨大地震発生!M6クラスの余震も頻発!津波も発生、壊滅的な被害に!
http://www.asyura2.com/15/jisin21/msg/694.html





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70年ぶりで大騒ぎ 超スーパームーンは大地震の前兆か?(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/15/jisin21/msg/692.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 11 月 12 日 10:44:05
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/193676
2016年11月12日 日刊ゲンダイ

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不気味…(15年9月のスーパームーン)/(C)日刊ゲンダイ

 今月14日に約70年ぶりとなる超巨大「スーパームーン」が現れる。次は18年後ということもあり、すでに「スーパームーン観賞ツアー」が組まれるなど大盛り上がりだが、一方で、「大地震が起きる」と、ネット上では大騒ぎになっている。

 スーパームーンは月が地球に最も近づいた時に満月や新月を迎える現象。今回は通常よりも14%大きく、30%明るい。今世紀最大ともいわれているが、ネット住民が恐れるのにもワケがある。

 過去にスーパームーンがあった直後、「スマトラ沖地震」や「東日本大震災」などの大地震が発生しているからだ。前回の巨大スーパームーンが出た1948年1月の前日にもフィリピン・パナイ島近くを震源とするM8・2の巨大地震が起きている。

■月の引力で地球が引っ張られると地震が?

 しかも、今年9月には東大の地震科学研究グループの井出哲教授らが、「巨大地震は、月の引力が強くはたらく時に発生しやすくなる」という研究結果を英科学誌「ネイチャー」に発表している。ネット住民が騒ぎ立てるのも無理はない。やっぱり11月14日の前後に地震が発生するのか。

「月が地球に近づくと、その引力で地球が引っ張られ、地震が起きると考える学者もいます。その説を当てはめると、月が地球に最も近づく今回は巨大地震を引き起こす可能性が高いわけです」(武蔵野学院大特任教授・島村英紀氏=地震学)

 今年は熊本や鳥取などで大きな地震が頻発。いずれも予想外な場所で起きているだけに心配だ。

「引力の強さから普段から地震が多い場所で巨大な揺れが起こる可能性が高いでしょう。活断層が2000もある日本では全国どこで地震が起きても不思議ではありません」(島村英紀氏)

 今週末に最低限の備えはしておいた方がいいかもしれない。

(ネットの反応省略)

(阿修羅投稿記事へのコメントより)

1.    2016年11月12日 14:12:38 : 3E76uVCkj6 : nVgKMnZYopg[410]

今回は 何も起こらないだろう 2020年 2030年 2050年 が 日本での危険な年だ

2.    2016年11月13日 22:31:35 : C4nhwMcfAc : pXB8iz5IT_Y[60]
先ほどニュージーランド南島で、巨大な地震があった。以下はRadio New Zealand Internationalの情報です。

21:48

ここには再び津波警告があり、それにはクライストチャーチ、ウェリントン、チャタム諸島が含まれます。

民生用防衛省(MCDEM)は、チャタム諸島を含む南北の東海岸に津波警報を発した。まもなく、北島の東海岸に到着する可能性があります。内陸または高地に直ちに移動する。津波は起きます。第一波は小さいでしょう。この警報が取り消されるまで、津波活動は数時間継続し、脅威は現実とみなされなければなりません。

MCDEMは依然として脅威を評価しており、1時間以内に詳細情報を提供します。一方、沿岸地域の人々は、次のことをすべきです。

1.水中(ボート活動を含む海、河川、河口)の人たち。
2.ビーチや海岸地帯から退去すること。
3.観光を中止して下さい。
4.この情報を家族、隣人、友人に伝えること。
5.ラジオやテレビを見て、最新情報を入手すること。
6.地方自治体の防衛当局の指示に従うこと。

22:12

マクナマラ氏によると、ブレンハイム周辺の州の高速道路には橋が壊れているという報告があるという。

22:21

マグニチュード7.5。震源の深さは15kmと修正発表がありました。当初はマグニチュード6.6でしたが。

22:27

津波警報が出ています。南島、北島どちらもです。

3.    2016年11月13日 22:35:31 : tMvugMZYbs : XyMMZHeiODs[3]
地震 NZ南島でM7.8
毎日新聞2016年11月13日 21時02分(最終更新 11月13日 22時24分)

 【ジャカルタ支局】米地質調査所(USGS)によると、ニュージーランド南島で14日午前0時2分(日本時間13日午後8時2分)ごろ、マグニチュード(M)7.8の地震があった。震源はクライストチャーチから北約93キロの地点で、震源の深さは約23キロ。当局が被害状況を確認している。

 ニュージーランド当局は「津波が起こる可能性がある」として沿岸地域に警報を出し、避難を呼びかけた。一方、米ハワイの太平洋津波警報センターは「津波の恐れはない」とし、日本の気象庁も「日本への津波の影響はない」と発表した。

 クライストチャーチでは2011年2月にM6.3の地震があり、留学生ら日本人28人を含む185人が死亡した。

http://mainichi.jp/articles/20161114/k00/00m/030/047000c

4.    2016年11月13日 23:01:46 : 3E76uVCkj6 : nVgKMnZYopg[420]

 あ~~ 訂正

 何も起こらないのは 日本の周辺の話   別のどこかでは起きるかもね~~

(以上、転載終わり)


関連記事
ニュージーランドでM7.8の地震、2人死亡 M6.3の余震も 68年ぶりの「スーパームーン」を巡る“大きな誤解” 
http://www.asyura2.com/15/jisin21/msg/695.html

 

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晩秋の箱根路紀行(1)

 つい大げさなタイトルをつけてしまったが、27日(木)午後、箱根町仙石原に行って来た。とはいっても観光ではない。仕事でである。しかし同じ神奈川県内とはいえ滅多に行けない箱根の自然に触れつついつしか観光気分にもなったし、少しばかり旅人のような感も味わえたのである。
 そこでこれは、我がリトル・ジャーニーの忘備録としてブログ(ウェブ・ログ)に記しておくことにしたものである。

 その何日か前、先月営業をかけ見積書も送っていた仙石原(せんごくはら、せんごくばら)の建設会社社長さんから「例の建設業許可申請をお願いしたい」旨の電話があった。『多分ダメだろう』とあきらめていたし、何かと出費の多い月末だけにありがたい連絡だった。

 そのときの電話のやり取りで、27日午後3時位の先方への訪問を決めたのだった。そのあと、初めてうかがう所なので住所からネット地図で場所などを丹念に確認し、そこまでの交通手段等を調べた。関係交通機関の担当営業所に電話で聞きもした。その結果、いつものとおり小田原までは小田急で、それから先は(小田急電鉄関連の)箱根登山電車で終点の強羅(ごうら)駅まで行き、そこから箱根登山バスに乗って仙石原に行くのが、もっとも「安(やすい)、近(ちかい)、短(早くつく)」であると結論づけた。

 とは言っても、具体的料金は言わないが、県内の他のどの地域に行くよりも交通費が高い。元を取るためにも、ますます観光気分を一緒に味わってやろうという想いが強くなった。

 当日の少し前の週間天気予報では雨だったが、昼少し前曇り空ではあるが雨は降らないと判断し、傘を持たずに外出した。

 余談だが、当該許可申請書には営業所写真の添付が必要で、元来アナログ人間の私は今までは使い捨てカメラで対応していた。が、最近その現像機を置いている店が少なくなり、やむなくつい最近、数年前の型式の某社デジカメを安く手に入れたばかりだった。もちろんそれはしっかり持ってきて、業務上の写真以外に「箱根の旅」途中の印象深い風景を撮るつもりだった。

 小田原駅に着いて、登山電車に乗り換えてすぐくだんのデジカメを取り出し、いつ撮影してもいい態勢にしようと思った。がしかし、裏の液晶画面の右上に赤いのがチカチカ点滅し、早速そこの風景を撮ろうというのに撮れないのである。電池の充電が切れたのである。アッチャー、これだからメカに弱い人間は困るのだ。ということで、つい先日某社のサービスセンターに電話して、画像をパソコンに取り込む方法も教えてもらい、撮った画像を本記事にアップするつもりだったが、残念ながらそれができなくなってしまった。その代わり、既にネット上にアップしてあるどなたかの画像を以下で借用した。

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箱根湯本駅

 旅行気分は箱根湯本駅に着く少し前から始まった。車窓越しに同駅周辺のホテル群が目に飛び込んできたが、若い頃行った熱海や鬼怒川などに何となく感じが似ていると思った。温泉街にはやはり共通した独特の雰囲気があるものらしい。

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 駅の場内アナウンスで、別の登山電車に乗り換える必要があるのを知った。指定の3番ホームに行ってみると上の大いに“くたびれ感”のある電車が二両止まっていた。近年「あじさい電車」として有名になった電車である。

 私は手前側となる、後ろの赤色の電車に乗り込んだ。さあこれから40分ほどの登山電車の旅が始まるのである。平日なのに中は人でいっぱいである。何とか最前列のホーム側の座席に座る事ができた。対面には4人ほどの70代半ばくらいと思しき年配女性がずらっと座っていた。あとで話しているのを聞いたところでは、何回も登山電車に乗った事がある常連さんらしい。

 午後2時半少し前出発した。多くは観光客なのだろう。乗客は仲間や若いカップルなどである。中にはアメリカ人らしい3人の若者グループやカップルもいる。そんな中私はただ一人、いつだって一人である。ふと「♪幸せそうな人々たちと 岬を回るひとりで僕は」 山本コータローの往年のフォークソングの名曲『岬めぐり』のこのフレーズが思い浮かんだ。

 私も同じ「コータロー」とあって、あの頃は「ほら、走れコータロー!」などと茶化されたりもしたが、この歌は好きでかつてカラオケでよく歌ったものである。調子が取りやすく、これを一番先に歌うとその後が乗っていけたのである。ということはともかく。人一倍感受性が強かった若い頃なら、こういう場面では、この歌のようなたまらない孤独感、寂寥感に襲われたかもしれない。

 「真理は汝を自由ならしめん」とはイエスの言葉であるが、その後スピリチュアルの名著を読み込んだことにより、少しは孤独に対する耐性がついてきた。それより最終目的は建設会社への訪問であり、そこで仕事上の取引を順調にまとめ何がしかの着手金をいただいて帰ることである。センチメンタリズムに浸っている余裕などないのである。

 というわけで、私は乗った谷側の座席から下の景色を覗き込み、忙しく意識を走らせた。登山電車はひたすらノロノロと登り続けながら、いよいよ箱根の秋を色濃くしていった。ところどころに赤く色づいた木が見られた。またずっと下の方に鮮烈な水の流れる渓流が垣間見えた。川のすぐ側に車道があり車やバスが走っているのも小さく認められた。

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大平台駅

 塔ノ沢駅を過ぎ、大平台という駅を過ぎたあたりで、電車はやおら後ろ向きに走り出した。今後は後ろだと思っていた私の乗った車両が先に走る格好になったのだ。そうか、昔式のスイッチバック方式だ。思い出した。何十年か前、山形県と福島県の県境にある板谷峠(旧・奥羽本線)がこの方式だった。今から60年近い前となる小学校1年生の秋、(父の葬式が終わって郡山市の農家の親戚に強引にもらわれていった)3歳の下の妹がはやり病で死に、その葬式のため母と汽車に乗ってスイッチバックを経験したことは『父と妹の死の頃』に書いた。

 軌道を変えて後ろ向きに走りながら、徐々に山道を走っていくのである。今どきこんな懐かしい電車があるとは。そして次は逆に元の方向に向きを変え、少し行ったらまた逆向きに。そんな運行を繰り返しながら、宮の下という駅に着いた。谷側の下の方にぽつんぽつんと人家が見られた。

 車内アナウンスがあったが、この駅を過ぎたあたりから線路のすぐ側にあじさいの木が連なっていた。沿道には何万本ものあじさいがあるとのことで、6月の開花時期はさぞ見事だろうと、花好きな私はその様を一瞬想像してみた。

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 登山電車はなおも小涌谷、彫刻の森と二つの駅を通過した。高く登って来た分眺望が開け、遠くの山々の連なりが見渡せた。車内アナウンスによるとこれらの山々は箱根外輪山の一部なのだそうである。幾つかの山の名前も告げていたが残念ながら忘れてしまった。

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小涌谷駅

 宮の下もそうであるが、小涌谷も有名な温泉地である。そういえば思い出した。私が当市にきて最初に就職したのが測量事務所だったが、ある時、小涌谷の某温泉旅館からの依頼で、社長と先輩と私の3人で測量しにきたことがあった。もう45年以上前のことである。その旅館に一泊したことは覚えているが、さてどの土地をどういうふうに測量したのかなどまるで記憶にないのであるが。

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箱根彫刻の森美術館

 線路沿いはひたすら木立が続くばかりで、もちろん温泉旅館も彫刻の森美術館も見る事はできない。遠くの山々などの紅葉は少し増してきたが、最盛期にはまだ程遠いのだろう。ここまで登ってきても線路伝いの潅木の林の葉はまだほとんど青いままなのである。  (以下次回に続く)

 (大場光太郎・記)


関連動画
岬めぐり 山本コウタローとウィークエンド 1996
https://www.youtube.com/watch?v=pTLj-b_ggX4
 

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【感動秘話】昏睡状態の猫がいきなり立ち上がって日本語をしゃべった!?

昏睡状態の猫がいきなり立ち上がって喋った感動秘話 



獣医師としゃべる猫
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/2006067.html
大摩邇(おおまに) 20:28
日本や世界や宇宙の動向さんのサイトより
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51993293.html

<転載開始>
世の中にはしゃべる猫がいるものです。猫が簡単な言葉をしゃべることはあるようですが、人間と同じようにしゃべることもあるんですねえ。。。多分、猫と波長が合ったときにコミュニケーションができるのでしょう。
それにしても、猫は人間をよ~~~く観察しているものです。
うちのてっちゃんも私をよく観察しています。そして、てっちゃんなりの思いや考えがあるのがわかります。いつか喋らないかなあ。。。てっちゃんは時に謎の行動をしますが。。。いつかはそれを理解しなくては。

犬も猫も他の動物もそうですが。。。彼等は姿形は違えど人間と全く同じです。
殺処分ゼロのドイツではペットを人間と同じように扱っています。
日本も早くペットを人間と同じように扱えるような社会になってもらいたいものです。

以下のビデオをご覧ください。
なんだかとても感動しました。
https://www.youtube.com/watch?v=KEMnQEayKUY


<転載終了>

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@niftyココログ提供画像「日替わりにゃんこ」より


【私のコメント】

 いやあ、ビックリしました。猫がしゃべったというのですから。終いには感動で涙ぽろぽろでした。

 実話なんでしょうね、きっと。猫好きな私は『ありえるぞ』と、この話を実際にあった話だと信じたいと思います。

 以前我が家でも、クマ、ゴンスケ、ミー、ズンズなど八匹ほど飼いましたし、今は都合十匹ほどの野良猫の世話をしているので分かりますが、猫はとてもテレパシックな生き物です。

 例えば世話している野良猫のいつもの場所に行くと、姿は見えないはずなのに、どこからともなくちゃんとわかって走り寄ってきます。ミケニャン、アク、コクロ、アッチャカ、チャカチャカ、フルチャカ・・・、どの猫も皆そうです。(余談ですが、メメクロは半年ほど前から姿を見せなくなりました。)

 私固有の波動(バイブレーション)をちゃんと覚えていて、会って2回目で多くの猫が「ニャ~」と鳴いて歓迎してくれました。この生き物(つまり人間)は親切か親切でないか、安全か危害を加えそうか、ちゃんと一瞬にして波動を読み取っているのです。

「私たちの想念は光であり、私たちの内部から発せられる宇宙語、生きた光の言葉である」 (空洞地球内のボーソロゴス図書館の大聖ミコスメッセージより)

「宇宙語」「生きた光の言葉」を発しているのは何も人間だけではありません。動物、植物、そして鉱物さえ発しているのです。無音の森羅万象・宇宙の共通語なのです。「言葉」に頼り切りで、エゴまみれ・欲まみれの人間が知らないだけで。

 私が野良猫との交流を大切にしているのは、野良ちゃんたちのピュアな心に接するためでもあります。ともすれば修羅闘諍(しゅらとうじょう)の巷で見失い、濁り曇りがちな心を取り戻すためのかけがえのない「波長合わせ」の時間でもあるのです。

 例えばアクと戯れている私などそ知らぬ気に、「こっちはそれどころじゃないわい」と、多くの人たちは足早に遊歩道を通り過ぎてしまいますが。

 猫の都合というものがあり、ミケニャン、アク、コクロなどどの猫も2、3日またはそれ以上姿を見せず、また何食わぬ顔してひょっこり姿を現わすことがあります。そんな時は、「お前今まで何してたんだ。ええ、コクロ。心配してたんだぞ。“猫クギ流”でいいから、そのボッコ手(とは私の郷里の言葉で「不器用な手」のこと)でレポート用紙にでも書いて見せてみろ」と言ったり、「書けなかったら、ちゃんと分かるようにしゃべってみろ」と言って聞かせたりしています。向こうは「なにいってんだニャ~」とばかりに、大あくびをかましたりしていますけれども(大笑い)。

 こんなことを大まじめで猫に語りかける六十半ば過ぎの人はまずいませんよ。我ながら、とてもまともじゃありません(苦笑)。

 ということはさておき。しかしさすがの私も今回の話には驚きました。

 私が思うに猫が日本語を話したのではなく、獣医師なり立てのこの女性が(終いの方にも出てきますが)業務上で相当神経が張り詰め深いテレパシック状態になっていた結果、猫の想い、つまり「宇宙共通語」をこの人が理解したのだと考えます。猫の想念を日本語に置き換えて理解した、一種のチャネリングだったのではないでしょうか。

 それにしても齢19歳だったという「喋る」老猫、その言葉はまるで哲人の言葉のようです。年古りて世間知を身につけた「マスター猫」の貫禄です。

「犬や猫などの動物の方が今のあなた方人間よりずっと豊かな知恵を持っています。黄道十二宮にどうして動物たちが配置されているか、その意味を考えたことがありますか」というような一節が『プレアデス+ 地球30万年の夜明け』にあったかと思います。

 犬や猫その他の生き物、樹木や草木などを決しておろそかにしてはいけません。

【追記】
 そういえば思い出しました。つい何日か前、猫がしゃべる夢を見たのでした。夢の中で『あれっ、猫もしゃべるんだ』と不思議に思っていました。しかし目が覚めた途端、どんな猫だったか、何をしゃべったのかまるで思い出せなかったのが残念です。

 (大場光太郎・記)


感動猫動画特集
【感動実話】この猫が、この後・・・・   
https://www.youtube.com/watch?v=oKXbvIhzIY0
【泣ける動画】自らの命を捧げ、飼い主の命を救った猫   
https://www.youtube.com/watch?v=q2k3lJ55SpA
【感動】子どもの頃に助けた猫が恩返ししに来た
https://www.youtube.com/watch?v=eIDPkbZrd5E
【涙腺崩壊】瀕死の母猫が我が子の為にした事とは・・・   
https://www.youtube.com/watch?v=3vq3MW94ZGM
【感動実話】2つの顔を持つ猫『フランクとルイ』奇跡の15年間
https://www.youtube.com/watch?v=PFztmT2r1c0
【感動 実話】ゴミ捨て場で見つかったのは…瀕死状態の子ネコ。少女が助け、懸命に愛情を注ぐ
https://www.youtube.com/watch?v=uJ79srMqhxE 

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【1万回到達!】五木寛之氏連載コラム(日刊ゲンダイ)『流されゆく日々』

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1932年福岡県生まれ。早稲田大学露文科中退。66年「さらばモスクワ愚連隊」で第6回小説現代新人賞、67年「蒼ざめた馬を見よ」で第56回直木賞。76年「青春の門 筑豊篇」ほかで第10回吉川英治文学賞を受賞。2002年には第50回菊池寛賞を受賞。NHKラジオ深夜便「歌の旅人」、BSフジ「五木寛之『風のcafe』」放送中。日刊ゲンダイ本紙連載「流されゆく日々」はギネス記録を更新中で、16年9月5日に連載10000回を迎えた。著書に「風の王国」「大河の一滴」「他力」ほか、「親鸞」三部作など多数。 (日刊ゲンダイより)


 5日夜、タバコを買うため当市駅近くのコンビニに入った。帰り際、入り口付近の新聞スタンドが目に入った。『きょうの日刊ゲンダイはどんなか?』と気になり、近寄って同紙一面を眺めてみた。上部大見出しの「北方領土 中国が占拠」のデッカイ活字に『オバカ安倍が対ロ交渉にエラク前のめりだが、これはどういうこっちゃ?』と、俄然興味が湧いてきた。そしてすぐ下の、それよりはずっと小さいが赤字で目立つ「坂口杏里AVデビュー」に『坂口杏里って誰?』とも。

 実は私はここ2、3ヶ月ほど日刊ゲンダイを買っていない。現下の厳しい経済情勢にあって諸費節約せざるを得ないことと、いつぞやの記事で触れたとおり、最近は同紙の主だった記事は間を置かず阿修羅掲示板に投稿されるので、購読しなくともおおむねカバーできた気分になれるためである。

 しかしこの時は上の二つの記事読みたさに、つい衝動買いに走ってしまった(笑)。

 「北方領土 中国が占拠」の方は、国後、択捉両島についてはロシアが近年軍事基地化を急速に進めており、とても返還など期待できそうにないこと、問題は(どこぞのオバカ担当相が「はぼ・・・なんだっけ?」とやらかした歯舞島の奥にある)色丹島であるが、ここは以前から水産加工が盛んな島であるが最近ロシアの加工施設が経営破綻し、代わって中国資本が入ってきて中国人らが増えつつあるというのだ。仮に歯舞、色丹の二島返還で合意できたとしてもこの問題でかなりこじれるだろうというのである。

色丹島で幅を利かせる中国資本…知られざる北方領土の今
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/189233

 次は「坂口杏里AVデビュー」である。知らなかったが坂口杏里(25)は女優で、あの坂口良子の娘だという。さらに知らなかったが、坂口良子はかつてまぶしい女優さんだったが、2013年に亡くなったという。その娘がねぇ・・・。記事詳細は以下で、

ホスト通いの果て…坂口杏里AVデビューの裏に“借金苦”か
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geinox/189237

 以上前置きが長くなってしまったが、本題はここから。

 偶然にしては出来過ぎている感がしないでもない。たまたま買った5日号で、五木寛之の大長寿コラム『流されゆく日々』が、何とちょうど連載10000回に達したというのだ。そういえば後で分かったことだが、1面大見出しの「中国占拠」の上の最上段にちゃんとその見出しがあったではないか。

 未購読期間、五木寛之の同コラムだけは気になっていた。だいぶ前の予告では確か7月か8月に1万回到達予定となっていたから、てっきり既にそれを超えたとばかり思っていた。
 その時は1万回を区切りに、年齢的なこともありそれで打ち切りにするか、続けるかその時点で、というようなことだったが。

 さすがに1万回到達号らしく、中ほどの8面~10面の三面はその大特集である。見開き8、9両面の最初(右端)に日刊ゲンダイ社長・寺田俊治氏の「滔々と流されゆくコラムにますますのご愛読をお願いします」の挨拶コラムがあり、反対の左端は1万回を迎えた「流されゆく日々」本文である。

 間に1970年代、1980年代の代表的秀逸な過去記事5本が再録されている。最下段は三面ともこれまた五木の著書の広告で占められ、とにかく五木寛之大特集の趣きである。

(以下、寺田社長あいさつ文)

【ギネス更新中】 五木寛之氏のコラム「流されゆく日々」が連載1万回を迎えました

■滔々と流されゆくコラムにますますのご愛読をお願いします
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/info/189275

1975年の創刊と同時に始まった五木寛之先生の連載コラム、「流されゆく日々」が本日、1万回を迎えました。この連載は新聞の長期連載としてギネスブックにも登録されていますから、「大台突破」「記録更新」ということになるのですが、五木先生はというと、ひょうひょうとされている。1万回で騒ぐこともなく、いやむしろ、騒ぐことに冷ややかで、なるほど、これこそが、このコラムの凄みであり、魅力なのだなと、改めて噛みしめています。

 世のメディアはすぐ、何周年などと騒ぎますが、手前味噌な話です。まして、これは滔々と続く連載「流されゆく日々」なのです。移ろう日々に流されながら、時代のクロニクルとして、時代と事象を語り続ける。「流されゆく日々というタイトルは五木先生の人生観だろう」とは、日刊ゲンダイの創刊編集長で、この連載をお願いした川鍋孝文が残した言葉ですが、まさにその通りだと思いますし、だとしたら、そこには通過点も節目もない。

 ついつい騒ぎたくなる習性を恥じつつ、同時に、今後のご活躍がますます、楽しみになってきている次第です。
 読者の方には1万回、40年間という時代の流れを振り返っていただきたく、今日から5日間にわたって、担当編集者が「もう一度読んでほしい」と思ったコラムを厳選して、再録いたします。

 今年6月3日の金曜日にモハメド・アリが亡くなりました。すると週明けの6日から、「流されゆく日々」で「モハメッド・アリ追想」が始まりました。その日、たまたま五木先生と打ち合わせの機会があり、ホテルで夕飯をご馳走になりましたが、2時間にも及んだ会食が終わると、先生は当たり前のことのように「これからアリの原稿を書きますから」とお部屋に戻られた。こうして書き続けられている「流されゆく日々」になお一層のご支援とご愛読をお願いします。

 日刊現代社長 寺田俊治

(続いて五木寛之1万回本文)

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ギネスブックにも登録(C)日刊ゲンダイ


連載10000回 流れ流されて四〇年 <1>
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/189256

 きょうのこの原稿で、どうやら連載10000回になるらしい。あらためて、よく続いたものだと思う。
 ある日、講談社を中退した川鍋(孝文)さんが、相談があるとやってきたのが、きっかけだ。話をきけば、こんど新しい新聞を出すという。
「日刊ゲンダイという夕刊誌です。『紙』じゃなくて『誌』ね。毎日発行する雑誌という感覚なんだけど」
 そこにコラムの連載をやってほしいという依頼だった。
「毎日の連載ってのは気が重いなあ。週一回でどうですか」
「いや、いや、なんでもいいから、勝手に書きなぐってりゃいいんです。どうせ3カ月か半年でツブれますから」
 川鍋さんは週刊現代の編集長時代に散々お世話になった恩人である。早稲田の仏文卒とは思えないハチャメチャな編集者だった。大出版社を横に出て、型破りの夕刊新聞を出すとなれば手伝わないわけにはいかないではないか。
「原稿料は、これで。よろしく」
 と、片手をヒラヒラと振って風のごとくに消え去った。それが40年以上も昔のことだった。その川鍋さんも今は故人となった。日刊ゲンダイのほうは、しぶとく生き残っている。
 創刊時の連載のお仲間は、松本清張、柴田錬三郎、富島健夫、などの各氏が記憶に残っている。みんな故人である。40年という歳月は、音もなく流れ去っていくのである。
 当時の日刊ゲンダイは、野武士、浪人の集団だった。トップがトップなら、社員も曲者ぞろい。その頃、よく右翼が押しかけてきていたが、そのときの社員たちの応待が変っていた。ふつうは一応ビビったりするものだが、ゲンダイは全然ちがう。
「オレがいく」
「いや、オレにいかせろ」
 と、競いあって飛びだしていく。そんな新聞だから、やたら向う気がつよいのだ。全共闘の猛者などももぐり込んでいたから、当然かもしれない。まあ、梁山泊みたいなものである。
 そんななかで、〈しゃべくり年代記(クロニクル)〉というサブタイトルをつけて連載がスタートした。ふつうの文章ではなく、饒舌体のラフな文体でいくつもりだった。最初のころから、できるだけストックをしない、ギリギリで原稿を入れる、というのが初心である。担当編集者はさぞかし大変だったにちがいない。
(この項つづく)  (転載終わり)

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 連載開始時はもとより、日刊ゲンダイ創刊時の息吹が行間から伝わってくるようである。松本清張、柴田錬三郎、富島健夫など今は鬼籍に入って久しい懐かしい名前が続々出てくる。そういえば、以前記事にした『野坂昭如と五木寛之』もそうだったが、この五木コラムではかつて親交を交わした人たちが皆次々と故人となり、一人後に残される寂しさを綴った記事内容もずい分あった。

 それにしても、頼む方も頼まれる方も、「どうせ3カ月か半年したら潰れるから」という気安さだったんだねぇ。それが2013年の8000回で世界的長寿コラムとしてギネスブック認定となるとは。

 私が初めて日刊ゲンダイを購読したのは、私の東京職業生活が始まって間もなくの昭和53年(1978年)秋のことだった。同紙1、2面の反権力的ラジカルさに惹かれたからだったが、もちろんその時から五木寛之コラムはあった。現在83歳の五木は、当時はまだ46歳頃で十分意気盛んで、けっこうエロいことやラジカルなことも綴っていたような記憶がある。

 今回の1万回到達は、出版界、マスコミ界にとっての大トピックスであり大偉業と言っていいと思う。またコラム過去記事は、当時の世相を知る上での貴重な文献と言っていいかもしれない。

 最近の同コラムでは、「老い」に関することなども折りに触れて書いておられるが、五木寛之は旺盛な執筆活動を続けている現役の作家である。執筆作業は若い頃からもっぱら深夜らしいが、その日の執筆を終えて明け方眠りに就く前は必ず枕元で読書をするそうである。つい熱中して何時間も読み続けることもあるという。

 コラムでも時折り読んだ本の紹介もしているが、パソコンもスマホもやらないという五木の読書量はとにかく半端ではない。体調面もあるだろうが、知的好奇心、知的探究心が涸れない限り、五木寛之の現役はまだまだ続くものと推察する。最近「最大の年金は仕事」という良い言葉を知ったが、人間幾つであろうと没頭できる仕事のある人は幸せである。

 これをきっかけに、五木コラム読みたさにまた日刊ゲンダイ購読を再開したい。五木寛之氏には、是非このコラムをまだまだ続けていってもらいたいものである。

 (大場光太郎・記)

当ブログ五木寛之関連記事
「下山の時代」について考える
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-2cd5.html
今甦る新美南吉
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-c442.html
野坂昭如と五木寛之
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-92f5.html
野坂昭如と五木寛之(2)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-c081-1.html

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時の話題(13)

-私自身すっかり忘れていたが、3年ぶりの「時の話題」シリーズ再開である。多分これをお読みの人たちの中で今回の転載記事で紹介されているような立場にある人はいないと思うが、東京の一等地に広大な敷地と豪邸を持っている人たちについての特集記事なのである。そりゃスゲエやと人もうらやむ雲上人かと思いきや。年間の固定資産税ウン千万円、樹木の手入れに数百万円というように、代々受け継いだ広大な家屋敷を維持していくのに大変な思いをしているというのである。昔「相続が3代続くと身上(しんしょう)潰す」と聞いた事があるが、逆進性が強く悪魔の税制と言われる消費税とは別に、これを読むと、相続税を払うために土地の半分を失うような税制度も確かに問題だわなと思えてくる。そういえば今は個人情報保護法の関係で公表されなくなったが、以前は全国や各県単位で納税額による長者番付が毎年発表されていた。それによるとバブル崩壊以前は不動産売買で巨利を得た人たちが決まって上位にランクされていた。しかし2年ほど前の日刊ゲンダイ3面にたまたまどういうわけか、年収100位ランキングが掲載されたことがあったが、それによると新自由主義・市場原理主義の導入による経営陣の権限強化により年収1億円以上がざらで、1位から100位まですべてが「何々会社のCEO(最高経営責任者)」が独占していたのである。対してバブル崩壊以後地価横ばい・下落傾向が長く続いた結果、不動産関係は姿を消したのだった。そして今回転載記事のように、逆に広大な家屋敷所有者はデメリットに四苦八苦している姿が浮かび上がってもいるわけである。住居に対する考えは百人百様、中流層を破壊された格差社会の現在の資産状況も千差万別、「これで決まり」というモデルケースはないのだろう。まあ一般ピープルは身の丈にあったほどほどの住居で十分、ということなのではないだろうか。 (大場光太郎・記)-

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実は大変なんです……東京都内で600坪以上の大豪邸に住む人たちの「暮らし」と「苦悩」 豪邸生活の意外な現実(週刊現代)
http://www.asyura2.com/16/hasan110/msg/755.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 7 月 13 日 10:19:40
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49130
2016年07月13日(水) 週刊現代 :現代ビジネス


森林のような2000m2の敷地——
庭の手入れだけで月100万円以上かかり、
防犯費用も莫大、最大の悩みは相続と税金対策

23区内の高級住宅地を歩いていると、たまに出くわす森のような豪邸。いったい誰が住んでいるのか、どんな金持ちなのか、どんな生活をしているのか。豪邸の主たちが赤裸々な「本音」を語り明かす。

■税金のために借金をする

東京都内でも屈指の高級住宅街として知られる世田谷。そんな住宅街を歩いていると、一帯が森のような木々に覆われる異様な一角が目に入る。

木々の陰からにわかに敷地内の豪邸が垣間見えるが、広すぎて中の詳細はうかがい知れない。「超」がつくほどの高級住宅街にあって、優に600坪は超える大豪邸であることは間違いない。

「この地は江戸時代に幕府直轄の天領となり、私の一族は代々この地を受け継いできました。近くの寺に置く過去帳で遡れる限り、私は17代目の当主になります。敷地面積ですか? よそ様に貸している分も含めれば、だいたい2400坪というところでしょうか」

そう言って敷地内に迎え入れてくれた当主は、「匿名」を条件に取材に応じてくれた。

「どうぞこちらへ」と玄関を通されると、豪邸内はまず20畳近くある和室が広がる。和室には「特注」だという大きなガラス窓が設けられていて、外から新緑がまぶしいほどに目に飛び込んできた。森林を切り開いたように作られた日本庭園は圧巻で、樹齢を重ねた松の木に、この日は梅雨時とあってアジサイの花が彩りを添えていた。

「松の木などは放っておくとすぐにダメになってしまうので、手入れは怠れません。年に2回ほどは5名ほどの庭師さんに来ていただき、数日かけて大規模に整備してもらっているんです」

もちろん、費用はばかにならず、「年間維持費で3ケタはかかっている」と当主は苦笑いを浮かべた。専門業者によれば、この規模であれば年間維持費で500万円はかかるという。

本誌記者がその額に驚いている様子を見ると、当主はポツリと「胸中」を語り出した。

「みなさん、われわれのように大きな敷地を都内で持っているものを見て、『うらやましい』などと思うでしょう。でも、実はそんなことはないんです。一族はこの土地を守り、維持しようと苦悩し続けてきたんです」

最初の苦難は戦後すぐのことで、農地改革と資産課税で所有地をごっそり召し上げられた。

「当時、私は中学生でしたが、制服も買ってもらえないので国民服を着ていかざるを得ず、同級生にバカにされました。

1970年代、先代が亡くなった際の相続もきつい体験でした。この土地の当時の路線価は坪8万円ほどだったのですが、相続税評価額は3倍ほどの25万円。しかも、当時は税率が70%でしたから、土地を売って納税する以外にありませんでした。これで土地の半分を失いました」

それでもまだ2400坪の土地が残っているというのも凄いが、苦悩はそれで終わらなかった。当主は「'80年代のバブル時にも苦労した」と言う。

「'80年代の不動産バブルにのって、この土地も地価が坪500万円ほどまで急上昇しました。周囲からは『儲かって仕方ないでしょう』などと羨ましがられたのですが、とんでもない。土地を守ろうとするわれわれにとっては、固定資産税がうなぎ上りに上がっていく地獄の日々だったんです。

この時期、周囲では『相続対策』のために銀行から億単位で借金をして、地方の安い土地を大量に購入する人がたくさんいました。相続税評価額を下げる狙いですが、バブル崩壊とともに地方の土地がタダ同然になり、残ったのは莫大な借金だけ。そのために、先祖代々の土地を手放した人がたくさん出ました。

幸い、私は仕事が忙しくて相続対策などしている暇がなかったので土地を維持できたというのは、皮肉なことです。こういう経験をして結局、相続対策なんてしてもまったく意味がないと気づかされました」

■固定資産税が1000万円超

もちろん、現在も固定資産税は重くのしかかり、試算すると年間約3000万円と超巨額に及ぶ。

「土地の一部を貸し出して地代収入を得ていますが、固定資産税の支払いに消えていくので、手元には残らない。地代収入で現金や金融資産がたんまり増えていくなんてことではないんです。

だから、私は贅沢なんてまったくしたことがない。酒もタバコもやらないし、遊びも一切やらない。海外旅行にも行かずに、ひたすらこの土地の維持に人生を捧げてきました。唯一、贅沢をしたと言えば、築70年以上経てさすがに住みづらくなってきた木造の自宅を建て替えたくらいです。

そんなに苦しいなら土地を切り売りすればいいじゃないかとよく言われますが、そこは理屈ではないんです。ご先祖様を想うと、私の代で土地を失うわけにはいかないという強烈な使命感が湧いてくるんです。

先日も、孫に『夢はなんだ』と聞くと、『ない』と言うんです。理由を聞くと、『だって、私は後を継がなきゃいけないでしょ』と。この言葉には愕然としました。この家で生まれ育つことの宿命を感じずにはいられませんでした」

庶民にはけっしてうかがい知ることはできない「豪邸の苦悩」。

同じくその苦しみに頭を抱えているのが、酒井信二氏(60代、仮名)である。小田急線沿線でも屈指の人気エリアで、有名マンションなども建つ一角。瀟洒な邸宅が建ち並ぶ中を歩いていると、忽然と広大な林に覆われた豪邸に出くわす。敷地はなんと1000坪を超えるという。

「江戸初期から判明しているだけで私で15代、この土地を受け継いできました。この家は4代前が宮大工に建ててもらったもので、関東大震災でも先年の東日本大震災でもビクともしなかったんですから丈夫なものです。ただ、この家は以前は倍くらいの大きさがあったんです。実は固定資産税が高くて払えなかったので、半分壊したんです。

いまでも、固定資産税は年間1000万円近い額を支払っています。私は納税に苦しむ親を見てきたから、小さい頃から稼げる専門職になろうと心に決めて、医者になりました。多くの人の命を助けたいと思って医師を志す人は多いと思いますが、私は固定資産税を支払うために医師になったようなものです」

酒井氏は現在60歳を超えているが、「重税」の支払いのためにいまも週に数回はアルバイトとして病院に働きに出ている。また、数年前には敷地内に賃貸用アパートを建てて、家賃収入を税金の支払いの足しにしてもいる。

「もっと大きなマンションを建てればいいと勧めてくる人もいますが、私は数々の『失敗』を見てきています。同じように都内で土地を受け継いだ親戚は、子供が困らないようにと大規模マンションを建てました。が、10億円の相続税を支払う時にマンションが売れなくて、結局土地を手放すことになりました。

株などの資産運用を試みた親戚もいましたが、バブル崩壊、リーマン・ショックでやられて、みな『没落』していきましたよ。資産というのは、困った時に案外役に立たないんです」

酒井氏の収入はほとんどすべて、土地の維持とローン支払いと税金に消えてなくなるので、貯金は増えない。贅沢もできないが、「それでもこの土地が維持できればいい。そういう人生ですから」と酒井氏は言う。

「税務署っていうのは恐ろしいですよ。私が職員の名前を知らなくても、彼らは私の名前と顔をしっかりと覚えている。税務署に行くと一度もお話ししたことがない方から、『こんにちは、酒井さん』と声をかけられるんですから。まるで、あなたのことはいつも見張っていますよ、と言われているようなものです。

土地の管理は本当に大変です。草むしりひとつとっても、抜いても抜いても生えてきますから。アルバイトもして、草むしりもしてという生活ですから、時間はいくらあっても足りない」

最後に、いま欲しいものは、と聞くと意外な答えが返ってきた。

「犬ですね。いま玄関で犬を1匹飼っていますが、番犬用に土地の東西にもあと1匹ずつ欲しい。土地が広すぎて、侵入者にも気づけないんです。私の娘なんて、この敷地内で変質者に追いかけられたことがあるほどです」

■悪質業者が次々に来る

このように、豪邸に住む人たちの悩みは深くて広いが、多くが共通して悲鳴を上げるのは高額に及ぶ「税金」である。

しかも、国税による監視の目は年々厳しくなっていると、彼らは一様に口を揃える。

「最近、税務署の方が頻繁にうちに来るようになったんです」

そう語るのは、都内南西部の高級住宅エリアで、700坪を超える広大な敷地に住む岡本由美氏(50代、仮名)である。

道路沿いに白壁が100mを超えて続く敷地はまさに圧巻。岡本氏はこの地で8代にわたって住み続けてきた。「絶対匿名」を条件に、税務署への怒りをぶちまけてくれた。

「そもそも固定資産税だけでも毎月サラリーマンの月収くらいの金額を取られるのだから、たまったものではありません。うちの親はこないだ、『その税金を無駄使いした舛添は、絶対に許さない』などと激怒していました。でも、税務署に目をつけられたらなにをされるかわからないので、目立たないように静かに過ごしてきました。

それが、消費増税の先送りが決まった頃から、税務署が頻繁に来るようになったんです。この前も都税事務所から何の連絡もなく2人の担当者が来て、『敷地はどこまでが宅地ですか』などと聞いてきました」

税収のあてにしていた消費税分がなくなったので、ほかから税金を取ろうとして、「豪邸の主」が目をつけられていると岡本氏は憤る。

「私たちはきちんと税金を支払っているのに、『取れるところから取る』ということですよ。われわれがバカ高い税金を払っているから金持ちだと勘違いしているんです。

周囲からもどうせ税金対策しているんでしょうという目でも見られますが、そんなものはうまくいくものではない。うちも以前に一部の土地を駐車場にしましたが、30台分のうち半分も埋まらなかった。税金対策でアパートや戸建てを建てても、最近は転売やまた貸しをする悪質業者がいて、得体のしれない外国人を入居させたりするから危なっかしい」

岡本氏の怒りの矛先は、「税金対策」を持ち込む業者にも向かう。

「土地を持っていると、朝から晩まで不動産業者から電話がかかってきて、『土地を売ってくれ』とやってきます。この前は夜の9時に、ある業者の営業マンがうちに来て、『相続対策に土地を売って建物を建てさせてください。カネは全部弊社が出します』と。あまりに非常識な時間帯に来たもんだから、怒って追い払いましたが、こういう業者は後を絶たない。

私はまだ若いので、『売ってくれるまで動きません』とか居座る営業マンを追い出せます。が、年を取った高齢の地主の方の中には、うまく入り込まれて、いいように土地を奪われてしまう人もいます。最近、広い土地が細切れにされて、小さい分譲戸建てにされているのをよく見ますが、あの景色を見ると切ない気持ちになるんです」

■「文化財貧乏」という悲劇

先祖代々の土地を残したい一心で「税金対策」をしたところ、余計にひどい目にあう。「業者に騙された」などと嘆いても仕方なく、気づいた時には後の祭り。「相続増税」が実施された昨年以降、大切な土地を失う被害者が急増しているという。

山手線沿線で700坪超の敷地に住む宮下健二氏(70代、仮名)もそんな危機に瀕している一人。宮下氏の場合はさらに特殊なケースで、みずからを「文化財貧乏」と呼ぶ。どういう意味か。

「うちは江戸時代にこの地の名主を務め、一帯の敷地を代々継いできました。世間様からはそれでお金持ちと思われるかもしれませんが、代々の相続税や固定資産税で苦しい家計を余儀なくされてきました。

そうした中、相続の借金も膨らみ、いよいよ生活もままならないとなった時、自宅を文化財に登録してはどうかと勧められました。土地にかかる固定資産税が減免になるうえ、指定物の改修費については8割が公的負担になるという話でした」

さっそく宮下氏はこの話に乗り、文化財の指定を受けたが、それが「文化財貧乏」の始まりだった。

「ある時に自宅があまりに古くて冬は寒すぎるので改修したいと思ったのですが、文化財指定を受けたがために改修は規制されてしまった。家には住めないけれど、売るにも売れない。しかも、維持費だけがかかるという事態に陥ったんです。

不定期に母屋などを修繕しますが、その費用は2割が自己負担。植木の手入れなどはすべて自己負担で、年間100万円近くかかってしまう。

おまけに、自分の住む家を別の敷地内に建てなければいけなくなったのですが、その新しい家の土地部分はしっかり固定資産税を取られる。つまり、私は普通の生活を営みながら、それとは別に文化財を維持し続けないといけなくなったんです」

税金対策のつもりが余計に出費が増えてしまうのだから、本末転倒だ。

「まったくおカネは貯まりません。いまは文化財指定されたこの自宅を国や東京都に引き取ってもらえないか検討しているところです」

このように、豪邸に住む人たちは、一般人には計り知れない悩みを抱えていることが多い。

一方で、都内で悠々の「豪邸ライフ」を送っている人もいる。

小田急線沿線の低層マンションなどが建ち並ぶ高級住宅街。敷地内に入る門扉は来るものを歓待するように大きく開け広げられ、門をくぐると手入れされた木々が迎え入れる。その木立を抜けた先、やっと豪邸が目の前に立ち現れる。門から家が見えないほどの敷地は、1000坪近い。

これほど広大な土地を維持するため、税制などで苦労していないか――。そう尋ねると、

「うちは全然大丈夫です」

この家の男性主人は笑って、語り出した。

「こんなに広い土地があるから税金が苦しいでしょうとよく心配されますが、そんなことはありません。実はうちの場合は、生産緑地の指定を受けているので、土地の課税評価が農地としての評価になるんです。都内ですが農業をしっかりやって、生活できていますよ」

■車は普通の国産です

東京都主税局によれば、生産緑地の評価額は都内であればどこでも1m2あたり220円(1坪あたり約720円)。仮にここが普通の宅地であった場合、評価額は1坪約200万円なので、実に3000倍近くも固定資産税が違う計算になる。

「生産緑地の場合、相続時も農地評価できる。もちろん、営農しているという条件付きですが。だから、一番神経を使うのは子どもとの関係です。子どもが農家を継ぎたくないと言ったら、この農地が宅地扱いになって、とてもじゃないが支払えない巨額の税金支払いが振りかかってくるわけです。いまのところ子どもは継ぐ気を見せていますが」

では、都内の広大な土地で農家を営む人はみな「安泰」なのかといえば、そんなこともない。練馬で2000坪あまりの土地を受け継ぎ、農園を営んでいる和久井淳氏(50代、仮名)が嘆く。

「確かに農地のおかげで税金は低く抑えられているけれど、私の場合は農園が儲かっていないからきついんです。では、農業をやめればいいじゃないかと思うかもしれませんが、そうしたら今度は高額の納税を迫られる。儲からないけど農業は続けなければいけないので、生活は楽ではありません。見ての通り、車も普通の国産に乗っています」

和久井氏は子どもには同じ思いをさせたくないので、土地の一部を使ってマンションを建てることも考えたが、それもあきらめたという。

「この一帯は建ぺい率がかなり低く抑えられているんです。デベロッパーも進出してこない。開発すらできない『儲からない土地』なんです。だからもう、粛々と農業をやっていく運命なのだとあきらめました。

うちの敷地には、行政に指定された保安林もありますが、これも手入れが面倒でね。落ち葉が敷地外に出ると、近隣からクレームが来るから、剪定と掃除にカネがかかって仕方がない。よくお宅は広くて、自然に囲まれていいですね、なんて言われるけど、この広大な土地に住むがゆえの気苦労は、誰にもわかってもらえないんです」

実は大変なことが多くて、税金に追い回され、それほど贅沢もできない。それが豪邸生活の意外な現実だった。

「週刊現代」2016年7月16日号より

(転載終わり)

参考記事
世田谷区の地価公示・土地価格・坪単価
http://www.tochidai.info/tokyo/setagaya/
公示地価とは?基準地価や路線価との違いと合わせて解説
http://www.tochikatsuyou.net/column/kouji-chika/

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【納涼・ホタルの夕べ】幻想的な空間を作り出す日本のホタルのあまりにも美しい光

-嫌なことばかり続く政治記事を取り上げることに倦み疲れ、1回更新休みにするつもりだった。が、何日かぶりで『大摩邇』サイトをのぞいたらハッとするいい投稿があった。題材は「ホタル」。「蛍」は俳句でも代表的な夏の季語で、『俳句鑑賞』カテゴリーでは以前「ほうたるの窓辺に寄れば君も寄る」(黛まどか)を取り上げたことがある。がしかし残念ながら、私が当地(神奈川県厚木市)に来てもう50年近くなる(ただし一時成田や所沢に居住したことあり)が、蛍を見た記憶がまるでないのである。ずっと町場暮らしだったせいもあると思うが、年々市街化・宅地化が進む当地にあって、そういえば蛙の鳴き声もだんだん聞かれなくなっていった。私が蛍の光をふんだんに目にしたのは、やはり18までを過ごした山形県の郷里でだった。特に小学校1年の秋までを過ごした太郎部落の蛍は圧巻だった。同部落は吉野川を挟んで家が点在する山あいの村落だった。その頃の当家は同川の川側にあり、対面の淵辺りに日中は村中の子供たちが集まっては水遊びなどに興じ、夜ともなるとその辺を蛍が乱舞していた。蛍だけではない。村にはカブトムシもイモリもヘビもサワガニもわんさかいた。夏に山道を歩いていると、泉鏡花の『高野聖』ではないけれど、こんもり繁った木立からヒルが降ってきて首筋にベタッと吸い付かれ、慌てて払い落とすこともあった。豊穣な自然世界だったのである。秋もたけた頃には、イナゴが草むらでいっぱい飛び跳ねていた。ある早朝、母に連れられて川向こうの畑に行った。畑に着くと母はやおら草むらに持参の南京袋の口を当てた。すると袋の中にイナゴが次々に飛び込んできた。ものの十分ほどで袋はイナゴで満杯になった。6歳頃だったかと思うが、父は既に病に臥せりきりで家は極度に困窮、そんな中イナゴは滋養分溢れた貴重な食料だったのである。蛍からあらぬ方に話が行ってしまったが、以上幼い頃の宝物のような懐かしい思い出の一こまとして。 (大場光太郎・記)-

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アニメ映画『火垂るの墓』より

幻想的な空間を作り出す日本のホタルのあまりにも美しい光
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1999539.html#more
大摩邇 19:32  カテゴリ地球の記録
http://earthreview.net/wonderful-fireflies-lights-in-japan/

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私はですね、北海道生まれで東京育ち、現埼玉在住ということで、基本的にホタルを見たことがないのです。

最近、海外のサイトで、「日本のホテルの飛ぶ様子の素晴らしさ」を紹介しているものを見まして、それがまた素晴らしいこと。

71095
365March

多くが、日本人の方々が SNS に投稿したもので、海外のサイトでは「まるで魔法のよう」と表現されていましたが、本当にそんな感じです。

何枚かそれらの写真をご紹介したいと思います。

ホタルの求愛行動(長野県上伊那郡辰野町)


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1soranopa




ヒメボタルの乱舞


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miyu~♪




鹿児島県より


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Hiroyuki Shinohara




夏の夜

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きくちやすし




ヒメボタルが舞う小路

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fumial




やはり、1度、ホタルを見ておくのも大事なことかもなあと思いました。



(転載終わり)

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永六輔さん逝去

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 最近体調不良とは風の噂で聞いていましたが、永六輔さんが今月7日逝去しました。享年83でした。

 告別式は11日、都内台東区の最尊寺で近親者だけでしめやかに営まれたということです。そしてこのお寺、実は永さんの実家だというのです。永家は代々同寺の住職を務めてきた家柄で、(同家の家伝によると)永家の遠祖は徳川時代初期の頃、中国から渡ってきた学僧だったということです。

「上を向いて歩こう」 (昭和36年 歌:坂本九、作詞:永六輔、作曲:中村八大)


 私が永六輔(以下敬称略)の名前を知ったのは、この歌が大ヒットしていた昭和36年頃だったと記憶しています。『上を向いて歩こう』。歌ったのは坂本九。そして作詞が永六輔で作曲が中村八大。その後この三人組は『明日があるさ』『遠くへ行きたい』などのヒット曲を飛ばし「六八九トリオ」と呼ばれることになります。

 『上を向いて歩こう』当時、私は郷里町の小学校6年生でした。ある時から、夕方になると当時お世話になっていた(山形県東置賜郡宮内町立)母子寮の廊下天井部に備え付けられたスピーカーから毎日のようにこの歌が流れていました。

 今改めて聴き直して「オールディーズ昭和」ノスタルジーにしみじみ浸っていますが、当時もとにかく鮮烈でした。以前「フォレスタコーラス」でも述べたことですが、学校の勉強は飲み込みが悪いくせに(苦笑)、最新流行歌は小学校低学年の頃からスラスラ頭に入りました。2、3度聞けば歌詞もメロディも覚え、口ずさめたのです。

 だからこの歌も「♪うえをむ~いて、ああるこおおお~、なみだが~こぼれないようううに~」と、軽快なテンポと坂本九独特の裏声までしっかりまねたつもりで口ずさみ、一人悦にいっていました(笑)。



 作詞家、永六輔を一躍有名にしたのは、この歌よりさらに2年前(1959年)の『黒い花びら』。当時新人歌手だった水原弘が歌ったこの歌は、この年から始まった『日本レコード大賞』(第1回)を受賞しました(作曲は中村八大)。

 もちろん永六輔は作詞家というだけではありません。その他にもラジオ番組パーソナリティ、タレント、随筆家、元放送作家などマルチで多彩な才能を持った人でした。

 特にラジオには終生強いこだわりを見せました。戦後焼け跡時代の早稲田高校生の頃、永はラジオそのものに興味を持ち、焼け跡の金属拾いで換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオ(これも何と懐かしい名前だこと!)を組み立てるグループを作ったといいます。そしてそのグループのリーダーが「寅さんシリーズ」でおなじみの渥美清だったというのです。

 単なるラジオ作りだけでは飽き足らず、この頃からNHKラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになったといいます。以前の『野坂昭如と五木寛之』記事中で見たとおり、永六輔は1952年、早稲田大学第二文学部に入学しますが、同学年時『日曜娯楽版』発案者の三木鶏郎にスカウトされ、放送作家また司会としてデビュー、大学生活などバカバカしくなって(←多分)この年で同大学を中退しています。

 私が永六輔に親近感を覚えるようになったのは、20代後半頃からTBSラジオの『六輔七転八倒九十分』を聞いていたからです。当時は車で外回りの仕事をしていて、この番組はよく耳に入ってきました。永のウィットに富んだ、時に辛らつな語り口に魅了されたのです。

フォレスタの「見上げてごらん夜の星を」 (昭和38年 作詞:永六輔、作曲:いずみたく)


 (何かというとすぐ「私自身」の事を引き合いに出しますが、元々当ブログタイトルの『今この時&あの日あの時』は「私にとっての“今この時&あの日あの時”」というつもりだったので、どうぞ辛抱願います。)

 私はずっと昔、意外な場所で永六輔さんとばったり出くわしたことがあります。
 
 その場所とは渋谷駅近くの歩道橋上。時は昭和53年か翌年の冬の昼過ぎ頃。私の3年ほどの東京“職業”生活が始まったばかりの頃のことです。で、何で渋谷駅界隈をうろちょろしていたかというと、あのう、あまり大きな声では言えないのですが、「渋谷の場外馬券場に行くために」。

 30歳少し前なのに改めて土木設計技師を目指していた私は、米国大使館対面にある共同通信社ビル内にある某国際空港公団に潜り込まされました(イヤだったのに強制的に出向を命じられた)。私より1歳年上の先輩がチーフです。この人はM大卒の一級建築士、以前О建設という名の通ったところに勤務していただけあって仕事はバリバリ出来る人でした。

 こちとらは東京生活初めて、しかも仕事はズブの素人、ドギマギする事が多くありましたが、陰に日向にうまくフォローしてくれました。そして田舎者の私の気をほぐすためか、やれ株をやれと奨めたり、マージャンに誘われてはしっかりカモられたり、競馬を仕込んでくれたりした「ありがた迷惑な人」だったのです(笑)。

 株はやりませんでしたが、マージャンと競馬にははまりました。仕事が休みの土日でも渋谷の場外馬券場に馬券を買いに行くほどのめり込んでいたのです。それは土曜日だったかと記憶していますが、そんな折り、渋谷駅すぐ近くの歩道橋上でばったり永六輔さんと出くわしたというわけです。

 橋上には永さんと私の2人だけ。永さんは例の眼光でしっかり私を見ました。『上を向いて歩こう』などの作詞家であることも知っていましたし、かつてラジオ番組もしっかり聴いて敬愛する人だったわけですから、「こんにちは」の挨拶くらいすべきでした。しかし諸事物怖じするのが習い性だった当時の私は、すっかりどきまぎして無言のまま通り過ぎました。あるいは、これから向かう所への後ろめたい気持ちが心のどこかにあったのでしょうか。

フォレスタの「遠くへ行きたい」 (昭和37年 作詞:永六輔、作曲:中村八大)


 永六輔は日本各地への旅行を趣味の一つにしていたと言います。そういえば『六輔七転八倒』でもしょっちゅう「この前どこそこに旅に行き、かくかくの体験をしてきました」というような旅行談がけっこうありました。見知らぬ土地への旅から新たな気づきを与えられ、普段の日常では得られないシンクロニシティ現象が起こりやすいと言います。旅こそ、永さんの新しいインスピレーションの源泉だったのかもしれません。

 また特記しておきたいこととして、1974年(昭和49年)、永六輔は野坂昭如、小沢昭一と共に「中年御三家」を結成し日本武道館でコンサートを行い、ビートルズ来日以来の大盛況だったと言います。この3人はいずれもかつて早稲田大学在籍者でした。『野坂昭如と五木寛之』記事中の同大学出身者リストから、野坂より1歳年上の小沢は外しましたが、3人のうちでまともに卒業したのは小沢昭一ひとり(第二文学部仏文科)なのです。

 この3人だけでも、当時の早稲田の自由闊達、バンカラ、反骨精神漲る気風・校風のようなものが伝わってきます(ただし今はどうか分かりません)。なおこの3人は2003年、NHKホールで「帰ってきた中年御三家」として再結成を試みるも、野坂は病気で参加できなかったようです。

 永六輔自身もその後パーキンソン病を患い、歩行困難となり顔がゆがみロレツが回らなくなるなど、苦しい闘病生活が続くことになりました。しかし1967年から40年以上続けてきた『六輔七転八倒九十分』は病室からのゲスト参加、収録という形で続けてきました。亡くなるまで同ラジオ番組を止めるつもりはなかったようです。

 上に挙げた人たちの中で、つい先ほど野坂昭如が世を去り、坂本九も中村八大もとうに亡く、このたび永六輔が亡くなり、かつて「輝きの戦後日本」にひときわ異彩を放った人々が次々にいなくなってしまいました。

「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように」

 そんなこといわれても、永さん。こぼすまいと思っても涙がついこぼれてしまいますよ。でも、あの頃から50余年たってずい分変てこな世の中になってしまいましたが、つとめて「上を向いて歩いて」いくようにしますね。

 永六輔さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 (大場光太郎・記)

参考
ウィキペディア「永六輔」の項など
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%85%AD%E8%BC%94
関連記事
永六輔が自民の改憲草案を「ちゃんちゃらおかしい」と痛烈批判していた!“総理が改憲と言い出すのは憲法違反”とも(リテラ)
http://www.asyura2.com/16/senkyo209/msg/408.html

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【不滅のチャンピオン 】モハメド・アリ死去+「キンシャサの奇跡」でアリに敗れた後のジョージ・フォアマンの感動の軌跡

モハメド・アリさん死去 元ヘビー級王者 差別とも戦う
http://www.asahi.com/articles/ASJ643CTKJ64UHBI00M.html
朝日新聞デジタル ダラス=中井大助 2016年6月4日21時19分

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モハメド・アリさん=サン・テレフォト提供

 プロボクシングの元ヘビー級王者、モハメド・アリさんが3日、米アリゾナ州の病院で死去した。74歳だった。家族の代理人が「32年間にわたる、パーキンソン病との闘いの末に亡くなった」と明らかにした。アリさんは世界王者に3度なっただけでなく、リングの外でもベトナム戦争への反対や人種差別、信仰の自由をめぐる言動で注目を集めた、20世紀の米社会を代表する人物の一人だった。

 死去を米メディアはトップニュースで伝えた。オバマ米大統領は、困難な時にも信念を貫いた姿勢や、闘病中にも平和のメッセージを伝えた点をたたえ、「モハメド・アリは世界を揺るがした。そして、それによって世界はより良い場所になった」と追悼する声明を出した。

 1942年、米ケンタッキー州ルイビルで生まれ、旧名はカシアス・クレイ。12歳からボクシングを始めた。60年のローマ五輪でライトヘビー級の金メダルを獲得したが、自伝では米国へ帰国後に黒人であることを理由にレストランで食事の提供を拒まれ、メダルを川に投げ捨てたとしている。

 プロ転向後の64年にヘビー級王者に挑戦。前評判では不利とされたが、「チョウのように舞い、ハチのように刺す」という言葉通りにソニー・リストンを破り、世界王者となった。同じころ、黒人指導者のマルコムXらの影響を受けてイスラム教に改宗し、名前をモハメド・アリに改めた。

 プロとして無敗のままだった67年、信仰とベトナム戦争への反対を理由に米軍への入隊を拒否。王座を剝奪(はくだつ)されたが、「私とベトコンの間に争いはない」との言葉が有名となるなど、世論に影響を与えた。

 70年にリングに復帰し、74年に当時無敗の世界王者だったジョージ・フォアマンに勝利し、7年ぶりに王者に返り咲いた。78年にレオン・スピンクスに敗れたが、同年の再対決で勝ち、3度目の王者となった。

 81年の引退後は人道的活動に力を入れ、国連の「平和大使」にも指名されたが、パーキンソン病を発症し、次第に活動が難しくなった。96年のアトランタ五輪では、病気の影響で手が震えながらも、聖火点灯の大役を果たした。近年は体調が優れず、入院を繰り返していた。(ダラス=中井大助

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【私のコメント】
 私らの世代からすればモハメド・アリは真に「偉大なるチャンピオン」である。

 実際のリング上での戦いはもちろんのこと、「反ベトナム戦争」の立場から断固兵役拒否を貫き、そのためヘビー級チャンピオンタイトルを剥奪された。わが国でも全共闘運動盛んなりし当時反ベトナム戦争に共鳴するところがあったから、そういう事すべてを含めてモハメド・アリは私らにとって偉大なチャンピオンだったのだ。

 率直に申せば、プロボクシングにはあまり興味のなかった20代の私には、強大な国家からの不当な兵役押し付けをはねのけたアリの強い信念の方にむしろ共感を覚えたのだ。

 リング上では無敵で、時に「ほら吹きアリ」とも言われたほどの大口たたきのモハメド・アリだった。その後しばらく彼の消息を聞かないなと思っていたが、長いことパーキンソン病を患っていたとの事。

 そしてこのたびは思いもかけずアリの訃報を聞く事となった。我が青春のヒーローがまた一人世を去ってしまった哀しさを感じる。

 さて何のシンクロニシティか、先月たまたまある自己啓発の本を読んでいると、そこに「キンシャサの奇跡」後の感動秘話が紹介されていた。深い感銘を覚え、折りをみて当ブログで紹介しようと考えていたのだった。

 キンシャサの奇跡とは、1974年10月30日、チャンピオンベルトを剥奪された後の32歳のアリが、当時のヘビー級チャンピオンだった若きジョージ・フォアマンに挑戦した試合である。戦前のフォアマン断然有利の予想を覆して、8ラウンドにアリのパンチが炸裂し、フォアマンをノックアウトしたのだった。



 この勝利がモハメド・アリの名声を不動のものにした。後々伝説化される事になるこの試合結果を私は、テレビ中継を観た当時の友達が身振り手振りで興奮しながら話してくれた事によって知ったのだった。

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 その時の敗者ジョージ・フォアマンのその後の消息はまるで知らなかった。しかしこの本ではむしろ忘れ去られたフォアマンにスポットライトを当てているのである。

(以下、当該部分転載)

『自分経営力の磨き方』(服部英彦著、KKロングセラーズ刊)より
(※ 画像は別)

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 ボクシングの歴史に名を輝かせる、世界ヘビー級チャンピオンだったジョージ・フォアマンの話をしよう。
 フォアマンが最初にチャンピオン・ベルトを巻いたのは26歳のときだった。45戦して一度も負けなかったのだから、史上最強と賞されたのも頷ける。彼の天下が長く続くことを、疑う者など1人もいなかった。
 しかし、そのフォアマンに挑戦状を突きつけた男がいた。モハメッド・アリである。
 アリはかつてカシアス・クレイと呼ばれ、世界ヘビー級チャンピオンだった。ベトナム戦争の徴兵を忌避したことでタイトルを剥奪され、奴隷名を捨て人間の尊厳を取り戻すために改名したのだが、ボクサーとしての最盛期を政治の力で封じ込められていた。
 ベトナム戦争も終わり、アリがリングに戻ったときには、すでにチャンピオンの座にはフォアマンが君臨していた。絶頂期の26歳のチャンピオンに対して、栄光の座を追われた32歳のチャレンジャーが挑むのだ。誰の目にも勝負の行く末は見えたかと思われた。
 試合は前評判通りに、フォアマンが一方的に攻め続けた。アリは常にロープを背にして、サンドバックのように打たれ続けた。2ラウンドか3ラウンドには決着がつくだろう。観客のそうした予想を裏切って、打たれても打たれても、アリはリングに沈まなかった。
 試合が動いたのは第8ラウンドだった。ラッシュを繰り返すフォアマンの一瞬の隙を見逃さず、アリのパンチが顔面に炸裂した。誰もが予想できなかった場面が、壮絶な戦いの中で現実に生まれたのだ。
 後日インタビューに答えたフォアマンは、
 「アリには、あのとき耐えるだけの理由があった。リングで死ぬだけの理由があった」
 と、語った。 同じ試合について一方のアリは、
 「自分が負けることは、全世界の虐げられている人が負けるに等しいことであり、絶対に負けるわけにはいかなかった」
 と、語っている。その言葉がどれだけ妥当であるかは別として、信念を胸に秘めている者の強さは実証された。最盛期を過ぎたアリが勝ったのだ。

 敗れたフォアマンは人知れずリングを去り、家庭生活も破綻して死んだ日々を送るようになった。流浪の果てに彼を救ったのは信仰だった。教会の牧師として、新しい人生を歩み始めたのだ。神に祈りを捧げながら、アリに砕かれた自我を、一つひとつ拾い集めた。世間がフォアマンとアリの死闘をすっかり忘れた頃に、彼はボクサーとしてカムバックすることを決意する。すでに38歳を迎え、誰もが無謀な冒険だと考えた。
 しかしフォアマンは真剣だった。地味なトレーニングを積み重ね、静かにチャンスを待ち続けた。彼が世界戦のリングに昇ったとき、実に45歳になってしまっていた。
 チャンピオンのマイケル・モーラーは26歳、奇しくもフォアマンがベルトを奪われた年齢だ。アリとフォアマンの試合の再現のように、フォアマンはサンドバックになって打たれ続け、奇跡はもう起こらないと思われた。
 運命の第10ラウンド、ドーベルマンのように牙をむくチャンピオンの顎を、フォアマンの20年の思いが打ち砕いた。たった一発のパンチが、世界を変えた瞬間だった。

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 「目的があれば人はどんな苦しみにも耐えられる。人間の持久力とはそういうものだ」
 かつてアリに贈った言葉が、今はフォアマンに向けられた。どんなに努力しても埋まらなかった心の空洞を、フォアマンは20年の歳月をかけて、自分自身の手で取り戻したのだ。どんなに打たれてもリングの中央に立ち、いつ死んでも良いと覚悟していたのだ。
(以下省略)  (転載終わり)

 今こうして文字起こしをしてみても新たな感動が沸き起こってくる。

 モハメド・アリは偉大なり。アリに打ち砕かれた自尊心を20年かけて、負けたアリを師として取り戻したジョージ・フォアマンも偉大なり。二人は世界ヘビー級プロボクシング史上「不滅の偉大なチャンピオン」と言っていいと思われる。

 モハメド・アリさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 (大場光太郎・記)

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ブログ開設満8年

 本日29日は、2008年の当ブログ開設から満8年となります。

 「満7年の方が区切りとしてはいい」と、本当は昨年出すつもりでしたが諸般の都合で出せませんでしたので、今回と致しました。と申しましても、何も改まった事を述べようと言うのではありません。この8年間を振り返って、兼好法師のように「つれづれなるままに、日暮しパソコンに向かいて、心にうつりゆくよしなしごとを、思いつくままに書きつくれば・・・」と言うわけにも参りませんが(笑)、思いつくまま雑文的な感想などを以下に述べさせていただきたいと存じます。

 こういう記事の場合決まって言うことでまた繰り返しますが、諸事飽きっぽい私がよくもまあ8年も続けてこられたものよ、です。これは考えますに、私は元々文章を作るのがそんなに苦にならない、むしろ好きな方であると言う事がまず挙げられるかと思います。特に開設当初は、『自分が生きてきた証しのような何かを残しておきたい』と言う思いが強かったように思います。

 実際は開設以前、私自身は「マイブログを持つ」などということはまったく考えておらず、ある人のお勧めに従って開設したような次第でしたが・・・。

 次に、この8年間の時々に「これはぜひとも書いておかなければならない」と思われるような何がしかの素材が常に存在し続けた、と言う事が挙げられます。

 とは申しましても、率直に言って「どんな事を記事として取り上げようか?」と思い悩んだ事が過去もけっこうありました。ブログ記事更新目的で、日常生活の中で、アンテナを普通の人よりは鋭敏に張り巡らしているつもりですが。

 以前ある人が「このブログはジャンルがビックリするほど広い」と嬉しいコメントをされました。それはプロフィールにもありますとおり「森羅万象探求者」としての私の真骨頂でもあるのですが(笑)、多彩なジャンルは一面では、一つのジャンルに固定してしまうと公開すべき記事が途絶えてしまうかもしれない、というリスク回避の予防策でもあったのです。

 それでも時として題材が思い浮かばない事がままありました。そんな時は悪戦苦闘して何時間もかけて記事作成したり、まったく記事に出来ずに更新を投げてしまったこともありました。

 記事作成に伴うワクワク感と、その裏にある格闘感の積み重ね、あるいはせめぎ合いが、今現在で2,300余という記事数です。

 過去記事はよほどでないと読み返す余裕はありませんが、たまに読み返しますと、『え~、こんな事を書いてたんだ。昔の方が内容としてしっかりしていて良かったじゃん』と思うことしきりです。

 これもずい分述べてきた事の繰り返しですが、開設当初はもっぱら、身辺雑記文、気象観察文、季節報告文のような純エッセイ風の記事でした。それにおいおい俳句、和歌&短歌、名詩・名訳詩、名曲の鑑賞文などを加えていったのです。

 ネットの世界はどんな見識の高い人が訪れないとも限らないわけですから、「恥ずかしくないように」と下書きもし、それこそ「一記事入魂」のつもりで一字、一句にまで神経を配りながらの作成でした。(今では慣れてズブくなりぶっつけ本番です。)

 当初はそれらで通すつもりだったのです。そのためか、開設直後は訪問数は少なく「1日訪問者10人」にも満たない日々が1ヵ月半も続きました。『折角いい記事書いてんのになぁ』と心底落ち込み、お勧めになった人に相談もしました。その人からは「大場さんのブログはしっかりした内容です。記事が増えていけば読者数も増えていきますから、大丈夫です」と言うような励ましをいただきました。

 「ある人」とは、有名音楽サイトを主宰しておられる二木紘三(ふたつぎ・こうぞう)氏です。開設半年ほど前から同サイトの歌にコメントを投稿し、それが二木先生のお目に止まり「開設の勧め」となった次第です。なお二木先生は、早稲田大学政経学部卒業後フリージャーナリストとして活躍され、英語会話、ビジネス心得、パソコン入門といった著書数十冊を出しておられる人です。

 昭和30年代ブームとなった「歌声喫茶運動」に魅せられた人のようで、趣味と、好い歌を後々まで残したいというお考えで『二木紘三のうた物語』を始められたもののようです。先生演奏(?)のmp4音楽は素晴らしく、同サイトにたまたまのご縁で数々のコメントをした事が当ブログ開設につながったのです。

 なおブログ開設時、同サイトの長文コメントの幾つかを当ブログに移していただきました。コピー→貼り付けなどはまったく知らない素人でしたから、パソコン通の二木先生が裏技で当ブログに直接送ってくださったのです。

 その末尾に(大場光太郎・記)と記してありました。ネット投稿初心者だった私は「ハンドルネーム」など知る由もなく、二木先生サイトの各歌へのコメントは本名で通していましたので、そういう署名を加えられたわけです。
 ご訪問の方々には賛否両論あろうかと思いますが、各記事末尾への「(大場光太郎・記)」を開設以来踏襲して今日に至っている次第です。

 私自身は同署名を二つの意味にとらえています。一つは、無名な一生活者にとって「格好の売名」になること(笑)。もう一つは、新聞などの論説・解説記事ではないですが、作成・公開した記事内容に私自身が責任を持つことです。
 というわけで、末尾署名は今後とも続けていきたいと思いますので、ご了承いただきたいと存じます。

 最近はすっかり「政治ブログ」に特化しているような状況です。
 例の小沢一郎陸山会事件以降そうなってしまいました。その直前の押尾学薬物事件が押尾一人の逮捕で巨大ブラックボックスに蓋をされてしまった時から、『これは政官財の闇に斬り込まなければダメだぞ』と思っていた矢先の小沢事件により、一気に政治ブログ化していったような次第です。

 政治の世界は日々いろいろな出来事が起こり、題材に困ることはあまりないのです。しかも最近は阿修羅掲示板などの投稿記事転載主体で、冒頭に私の前説コメントを置いただけの安直さです。自前の文章をしっかり作成していた以前記事を考えると内心忸怩たる思いです。しかし年々厳しさを増す自営環境から「日々の生活防衛が第一」とせざるをえず、やむをえない仕儀とご理解賜りたいと存じます。

 安倍政権または安倍首相に代わる自公政権が今後も続く可能性を考えますと、あまりに辛らつな政権批判は控えた方がいいのかな?とも考えます。というのは、大手メディアをほぼ制圧した自公政権は、いよいよ「ネット規制」に本格的に乗り出す構えだからです。反政府的なブログなどに対して、警察権力が無断でそのパソコンに入り込み調査する段階に至っているとも言われています。

 「ブログあっての物種」です。今後当ブログの方向性をどうすべきか、じっくり考えていきたいと思います。政治記事主流から以前のように各ジャンルを網羅した、自前の記事がベストですが、それには、今よりずっと生活にゆとりがなければなりません。ということで、「豊かさの追及&確立」こそが今後の私の大きな目標!という事が図らずも浮かび上がってきたわけです(苦笑)。

 (大場光太郎・記)

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ご機嫌な『宇宙ダンス!』(妖怪ウォッチ)を聴きながら今年を見送ろうw

 直前記事でも見ましたが、今年は安倍暴政によって日本のあらゆる分野で破壊がどんどん進んだ、一般国民にとっては踏んだり蹴ったりの受難の年でした。

 しかしそんなことにはとんと頓着せず、ならば思い切って国境飛び越え、宇宙に飛び出し、宇宙中友だち、

♪火星に住みたい1万人、ダンスをしたい5万人、ダンゴを食べたい2万人、餅つき好きな4万人・・・

というような、ブッ飛んだご機嫌な歌、それが『宇宙ダンス!』です。

 まあ言ってみれば、幕末ならぬ平成版『ええじゃないか』世直し踊り唄とでも言うのでしょうか。

 坂本“マセソン”龍馬ではないが「日本が地球がダメなら宇宙があるぜよ」と、お先真っ暗でヤケクソの果てを突き抜けた究極のオプティミズムとでも言えるのではないでしょうか。現に聴いてみると、頭か心かのモヤモヤがスッと晴れてしまう「あらっ、摩訶不思議」なカタルシスのある唄ではあります。

 本当にこの地球世界がガイアアセンションに向かいつつあるのか、バシャールが言うようにパラレルワールド化しているのかどうか仔細には分かりませんが、物事のスピードが加速しているのは間違いありません。スピード化はつまりこの地球次元の精妙化ととらえてもよいものです。

 この1年、実際国内外政治情勢や社会全体でも私個人の周りでもめまぐるしい変化が起き続けました。これをお読みのすべての方がそのことを身をもって実感されているのではないでしょうか。

 もし本当にこの世界が今後ますます精妙な高波動物質世界に向かいつつあるのだとしたら、その精妙さにそぐわないものはどんどん淘汰されていくわけです。

 それはまた、「自分自身の世界の創造主」である私たちの中の不純・不精妙なものがどんどん表に出されて浄化されているプロセスなのかもしれません。それは禊(みそぎ)であり命のクリーニングでありカルマ(業)の清算過程と見ることもできるわけです。

「逆境の中にはそれと同じかそれ以上の利益の種子(たね)が含まれている」

 これはナポレオン・ヒル成功哲学(『思考は現実化する』)の重要なポイントの一つだそうですが、悪的現象が現れても決してネガティブにとらえず、積極的にポジティブにとらえたほうがよさそうです。

「ポジティブな解決法を探そうとする努力は、その人たちにとって精神的な成長と進化につながるのです」(バシャール)

【おまけ】ようかい体操第一(14年日本有線大賞版) 


 と、ここまで抽象的、観念的かつ高遠(?)なことを述べてきましたので、ここからはグッと身近すぎることについて述べてみたいと思います。

 上に掲げた動画の「妖怪ウオッチ」とは「猫妖怪」の事だと思いますが、何を隠そう私は無類の猫好きです。長期訪問者の方は『折り折りの短歌』でその時々の消息を詠んでいるのでご存知でしょうが、ここに2年余、当市内の野良猫たちの世話を続けています。変化変滅激しいこの1年でしたが、全猫ちゃんがつつがなく年が越せそうなのでホッと一安堵しているところです。

 四日ぶりコクロひょっこり現れて「何だ心配して損したニャ~」

 昨年2月の大雪時のコクロの事を『フォレスタの「冬の星座」』で紹介しましたが、私一番のお気に入り猫がコクロです。もっとも、小ぶりで可愛くて人懐こくおとなしいので、遊歩道を通る人にもファンが多い人気の「地域猫」のようです。

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(コクロはこんな感じ。実際は全体にもっと黒く縞模様も多い)

 当初からの事情を知っている人の話ですと、どうもコクロ、ミケニャン、アクニャンの3匹は3年前ほど前、元々飼い猫だったのを何かの事情で幼猫のうちに捨てられたもののようです。道理でみな、野良猫にしておくのがもったいないほど可愛いわけです(笑)。

 さてコクロ、瓜二つだった姉妹猫のオオクロが昨年6月の2日続いた大雨以降いなくなり、それ以来急に食が細くなりました。敏感で繊細なところがある猫ちゃんなのです。そこで他の猫たちの世話を済ませて後、こ の子だけ少し離れた秘密の遊び場まで連れて行きダマシダマシ餌を食べさせているような次第です。

 このコクロが26日から28日の3日間姿を見せなかったのです。いれば「ニャ~」と鳴いて植え込みブッシュなどから飛び出してくるのですが、どこを探しても見つからず。『そういえば鼻グスグスさせてだいぶ寒そうだったからなあ。今年の冬も乗り切ってあったかい春を迎えようなコクロって言ってたのに、ダメだったかあ』とあきらめかけていました。

 そんな29日の夜、いつものとおり(コクロのいる遊歩道の反対の)ミケニャンのいる薄暗い所で私主催の“お食事会”を催していました(笑)。一昨年9月末、初めて“知り合った”のがミケニャンなので、真っ先にそこで行うのが慣わしなのです。参加猫はミケニャン、アクニャン、メメクロの3匹。

 3匹とも猫缶や固形餌などを夢中で食べている様子を見守っていると、脇からコクロが何食わぬ顔でひょっこり現れたではありませんか。いつものように広い車道をサッと走って渡ってきたのです。それが上に掲げた拙歌というわけです。

 昔の童謡に「♪猫はこたつで丸くなる」とあり、「猫は寒がり」というのが通説です。しかし都合3回の冬の野良猫ちゃんたちのようすを間近で見てきた私の実感では、どうしてどうして「猫は寒さにけっこう強い」です。

 この場所以外にも家のすぐ近くから駅周辺まで、都合5ヵ所計10匹ほど。ただでさえエンゲル係数の高い我が家ですが、その上猫の餌代がかさんで、「高エンゲル係数日本一」確定です(笑&苦笑)。

 たまにどこかで私が餌を上げているのを見咎めて、「野良猫に餌をあげないでください。近所迷惑です。テレビでも言ってたでしょ」と目を吊り上げてお叱りになるおばさんなどがいます。『そんなこと言われても、こちとらテレビなんか見てないんだから。じゃあ何ですかい、テレビで安倍ちゃんか誰かが「死ね」と言えばオタクさん死ぬんですかい?』と反論したくなりますが、こんな人とトラブル起こしてもつまらないので、「ああそうですか、分かりました」と素直に引き下がります。

 でも義務感からやっているのではなく、野良猫ちゃんたちとの交流をかけがえのない大切な時間と思っている私ですから、誰が何と言おうと「決して止めるもんですか!」

【おまけのおまけ】ようかい体操第二


 長々と猫々談義をしてしまいました。肝心の当ブログの1年を振り返っての感想などを述べるつもりでしたが、あまり長くなっても何なのでー。

 かいつまんで申せば、最近は阿修羅掲示板などの記事を転載し、冒頭私のコメントを付す、というパターンに落ち着いています。本当なら始めから終りまで私自身の言葉で綴りたいのですが、諸般の事情でなかなかそうもいかず内心忸怩たる思いです。なにとぞご了承いただきたいと存じます。

 それと政治記事が中心で、中には別の分野の記事を所望の方もおいでだったかと思います。これは今現在の私の関心がどうしても政治分野に向きがちで、特に今年は戦争法案問題で国内が沸騰したことも背景にありました。こちらもイルミナティ、レプティリアンからフォレスタ、文学系記事まで幅広く取り上げていければ、と考えます。

 以上取りとめのない「私の今年を振り返って」でした。
 来年も当ブログをよろしくお願い申し上げます。

 それでは皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。

 (大場光太郎・記)

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