身捨つるほどの祖国はありや

                             寺山 修司

  マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや
 
…… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 私など団塊の世代より、一つ前の世代の人たちにとっては懐かしい短歌なのではないでしょうか?すなわち60年安保で首都東京が騒乱状態になった、昭和35年前後20代だった人たちにとっては。
 同騒乱によって死亡した東大生樺美智子(かんば・みちこ)さん、当時学生運動家たちに好んで歌われたという西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』、「♪ 夜霧の彼方に 別れを告げ 雄々しきますらお出でてゆく …愛しの乙女よ 祖国の灯よ」の『ともしび』などを歌いあった街角の歌声喫茶、そしてこの短歌。
 
 寺山修司は昭和40年代、『書を捨てよ、街へ出よう』などの評論、あるいはアングラ的な実験演劇集団「天井桟敷」を主宰したり、映画『初恋・地獄篇』(‘68年-当時新宿の映画館で観た覚えあり)の脚本など、本来の詩人、歌人というより、当時は私たち若い世代をアジテート(扇動)する前衛活動家といった趣きでした。
 当時私は、山形から高卒で首都圏にやってきたばかり。当地での生活と仕事に慣れるのにおおわらわ、優雅に学生運動をエンジョイしている(?)諸君とは意識の上でかなりの温度差がありました。

 一般労働者たる私たちにとってこの短歌は、もはやさほど注目されるものでもなかったようです。私がこの短歌と出会ったのは、学生運動が挫折して(あるいは国家権力によって強制的に封じ込められて)世の中がすっかりおとなしくなった、昭和50年代前半の頃だったと思います。
 それも『寺山修司詩集』を読んでというような、しかるべき手続きを踏んでのことではありません。まったくの偶然の出会いによって、この短歌が目に飛び込んできたのです。

 私は当時車で外回りをしていました。ある日昼食のため、どこかの町のとある食堂に入ったのです。昼のかき入れ時、中は先客でいっぱいです。何かを注文して、出てくるまで時間がかかりそうです。そこで私は、時間つぶしに備え付けの漫画週刊誌を手に取って読み始めました。と、ある劇画風の漫画がありました。その中に、この短歌がバッチリ大きく書き込まれていたのです。
  「マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」「寺山修司」
 昼食のとんだ予期せぬ添え物と言うべきです。『何てこの時代を突いた歌なんだ ! 』。私はそのカットから目が離せなくなりました。肝心のストーリーなどまるで忘れてしまっています。しかしいかにインパクトを与えたことか。食事を終えて食堂を出る頃には、もうすっかりこの短歌が頭に入っていたのです。

 立ちこめる夜霧とともに、この歌全体に流れる青春の叙情性。そして何より強烈なのが「身捨つるほどの祖国はありや」という問いの終わり方。いわく言いがたい、余韻と言おうか余情と言おうか。おそらくこの短歌を初めて読んだ誰しもが、寺山が投げかけたこの言葉にはズキンと心に響くものがあるのではないでしょうか?

 今改めて調べてみますと、この短歌は昭和33年刊の処女歌集『空には本』の中に収録してあります。当時のことは今、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』などで「古き良き」オールディーズ戦後として見直されています。
 しかし早稲田大学などとっくに中退してしいた若き寺山にとって、その時代既に「祖国喪失」をひしひしと感じていたわけです。この歌で寺山が言いたかったのは、「身を捨てるに値するような祖国?そんなもの、もうとっくの昔にありゃしねえんだよ」ということだったのではないでしょうか?

 なるほど今では、「国」を表わす言葉としては「国家」というのが一般的です。「祖国」などと口走ろうものなら、『こいつ右翼か?』と思われかねず。公の場でも私的な会話でもめったに使われることがなく死語化してしまいました。ちなみに「国家」と「祖国」と、どう違うのでしょう?
 「国家」。①〔易経・繋辞篇下〕くに。②(state;nation)一定の領土とその住民を治める排他的な統治権をもつ政治社会。近代以降では通常、領土・国民・主権がその概念の三要素とされる。
 「祖国」。①祖先以来住んできた国。自分の生まれた国。「ーを捨てる」②国民の生まれた国。 (『広辞苑・第六版』より)
 なるほど「国家」は欧米式の近代法概念に基づく用語。対して「祖国」は読んで字のごとく、「祖(おや)の国」か。 

 独断的解釈では、「国家」からは一定の領土という平面的な空間、そしてそこに住む国民とその主権の主張し合い、せめぎ合い、そして他国とのマキュアベリ的外交戦術などしか感じられません。対して「祖国」からは、今日ただいまこうして身を置いている国の、悠古の祖先からの連続性、つまり三次元的空間に時間軸が一つ加わった四次元的かつスピリチュアルな広がりが感じられます。
 いやもし仮に、私たちの日々の営為を遥か高い所から鳥瞰している宇宙的存在がいるとするなら。連綿と続く血のつながりを断ち切り、エゴ的個体としてただやみくもにあっちにぶつかりこっちにぶつかりして生きている今の私たちの姿は、蟻と同じ二次元上の平面的生物にしか見えないのかもしれません。

 今から半世紀も前、若き寺山修司が感受した祖国喪失。私たちはその間ずっと、喪失状態のまま生きたきたわけです。ますます混迷を深め、凶悪犯罪が増加する一方の世の中。それは深いところで、「祖国喪失」とリンクしているのではないでしょうか?

 (大場光太郎・記)

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天に北斗の光あり 地上に花の香ある

       山形県立長井高等学校校歌 
                 県立長井中学校校友会 作詞
                      山崎藤得      作曲

  1 天(そら)に北斗の光あり 地上に花の香(かおり)ある
    緑の山河友となし 栄華の夢をよそに見て
    早苗ヶ原にそびえ立つ これぞ我らの理想郷

  2 銀河の星に照らされて 山錦繍(きんしゅう)に映(は)ゆるとき
    雄々しき姿白鷹(しらたか)の 強き力を双翼に
    理想の天地前にして 希望に燃ゆる我が健児

 (出来ましたら以下の記事をお読みになる前、同校歌mp3演奏をお聴きください。冒頭のタイトル左クリックで「校歌ページ」が開きます。)

 「人に校歌あり」。すべての人がかつて学び舎で過ごした経験を持ちます。小、中、高、大学と上級学校に多く進んだ人ほど、いくつもの校歌を持っているわけです。皆様にとって一番愛着のある校歌は、何でしょうか?
 私は高卒です。したがって私の場合は、小、中、高校の三つの校歌を持っていることになります。(実際は30代前半、都内新宿区にある工学院大学の専門学校課程の土木科夜間部に2年間通学し、一応卒業しました。しかし私自身はこれを最終学歴に含めないことにしています。)

 我が小学校の宮内小学校(山形県)校歌は、昨年11月記事『菊祭りの思い出』でその一部をご紹介しました。作詞:高野辰之、作曲:梁田貞と、当時の文部省唱歌を数多く手がけた大御所の作った歌であり、それなりの愛着も懐かしさもあります。また我が宮内中学校校歌は、本年7月記事『娘ことごとく売られし村』で取り上げた郷土の歌人結城哀草果の作詞になるもので、これまた捨てがたいものがあります。
 しかし私にとってひときわ愛着が深く懐かしさを感じるのが、今回ご紹介の長井高校校歌なのです。そこには、人生の中で最も多感な時期であった高校時代の校歌だからということもあるのでしょう。しかしそれ以上に、とにかく詞も曲もピカイチの歌だと思われるのです。

 同校歌は、母校ホームページの「校歌紹介」によりますと、<昭和3年10月3日制定>とあります。昨年記事『万物備乎我(2)』でも述べましたが、母校は大正9年に旧制山形県立長井中学校として発足しました。ですから校歌が制定された昭和3年当時は、旧制中学校の校歌であったわけです。いささか手前味噌ながら、このような校歌を持てたことを誇りに思います。

 いきなり「天に北斗の光あり 地上に花の香ある」。北斗は北斗七星。古代中国では、太乙(たいいつ-北極星)と共に、道教などでは特に重要視される星斗でした。私の郷里は北の地方でしたから「北斗」が自然に歌われているわけです。何とも心鼓舞される雄渾な出だしです。
 作詞は長井中学校校友会、作曲は山崎藤得という人。小学校校歌のように名だたる人たちの手によるものではない、おそらく当時の母校関係者による歌なのでしょう。なのにこのスケールと格調の高さ。

 「緑の山河友となし 栄華の夢をよそに見て」。旧制第一高等学校寮歌の『嗚呼玉杯に花受けて』の一節の、「治安の夢に耽(ふけ)りたる 栄華の巷(ちまた)低く見て」などの影響を多分に受けたのではないでしょうか?一般庶民が栄華を求めるのは致し方ない。しかし我々は、そんな泡沫(うたかた)の酔夢を追うことはしないのだ、という選良(エリート)たる青年たちの質実剛健の気概が偲ばれます。当時の社会体制がいかなるものであったにせよ、「理想(ゆめ)」を歌え、語れる世の中は、少なくとも今よりはずっとましだったと言えると思うのです。
 私の頃はぎりぎり「栄華の夢をよそに見」るメンタリティーを理解出来ました。しかし万事豊かになること、経済至上主義があたり前、そのための学歴であり偏差値であるという風潮の今日、母校在校生諸君はこの歌詞をどう捉えて歌っているのでしょうか?

 もっとも昭和40年代前半在籍していた頃の私は、同校歌に今ほど思い入れがあったわけではありません。「万物備乎我」という孟子の成句を、犬養毅(犬養木堂)が揮毫してくれて扁額になっていることすら知らなかったのですから。「意味をじっくり味わって校歌を歌いなさいよ」などと、在校生に言えたものではありません。

 私が「校歌の力」を実感するようになったのは、母校を卒業してずっと経ってからのことです。今でも思い出しては、口ずさむことがあります。年と共に涙もろくなったせいか、一節一節かみしめて歌っていると、熱いものがこみ上げてきます。
 そして気づかされるのです。『オレはホントに、それらしきことを何もしてこなかったよなあ』と。若き日の理想(ゆめ)とそれ以降今日の現実と。その何たる乖離(かいり)よ。いな現実に埋没してしまっているのに、それすらも気がつけない恐ろしさよ。

 だから改めて思うのです。『このまま終わってしまっては、オレの人生ゼロだな。何とかしなきゃあな』と。
 世に歌は星の数ほどあれど、同校歌は私にとって第一の「人生の応援歌」です。校歌はつくづくありがたきかな。   十三夜(後の月)の夜更けにー

 (大場光太郎・記)   

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鰯雲(鱗雲)

   遠き日の故郷の空ようろこ雲   (拙句)

 ここ何日か暖かい日が続いています。きょうも10月下旬にしては、通りを歩いていても思わず日陰を歩きたくなるような強い陽射しで、少し汗ばむくらいの陽気でした。
 午後風はやや強いものの、決して寒さをもよおすような風ではなく、肌に当たればむしろ心地よいほどの風です。しかし季節は争えないもので、真っ青で天まで抜けるような青空には、秋の徴(しる)しの一つである、鰯雲(いわしぐも)またの名を鱗雲(うろこぐも)が中空一面を覆っていました。

 角川文庫版・俳句歳時記「秋の部」によりますと、
 「秋によく見る鰯雲は、巻積雲あるいは高積雲のこと。さざ波にも似た小さな雲片の集まりで、この広がりは小さいことが多いが、一端が地平線まで延びていたり、空に一面に広がっていたりする。魚鱗のように見えることから鱗雲、鯖の背の斑紋(はんもん)のように見えることから鯖雲(さばぐも)などともいう。この雲が出ると鰯が集まるといい、そこからこの名(鰯雲)がついたといわれる」と述べてあります。

 うろこ雲、いわし雲と言うと、やはり北の我が故郷の、遠い少年時代の頃の秋空を思い出します。
   夕空晴れて秋風吹き
   月影落ちて鈴虫鳴く
   思へば遠し故郷の空
   ああ父母いかにおはす   (唱歌『故郷の空』1番)
 侘しさを誘う秋という季節もあいまってか、空にこのうろこ雲を見るとなぜか郷愁に駆られるのです。それは、現実的な郷里への望郷の想いというよりも、遠く過ぎ去った故郷での日々への郷愁の方がより強いようです。
 
 空にその雲を仰ぎ見ながらまた、映画『鰯雲』のことが思い出されました。この映画のことは、去年の『夕焼け小焼け』記事で少し触れましたが、厚木市が生んだ農民文学者の和田傅(わだ・でん)の同名の小説を映画化したものです。
 制作発表は昭和33年。監督は成瀬巳喜男、脚本は橋本忍。当時の厚木付近の農家の、当主、嫁、姑、息子たちの姿を、ある年の早春から初夏にかけての季節を描いた作品です。

  女学校を卒業後、厚木在の農家の嫁になった主役の八重を、淡島千景が演じていました。女優としての華は隠せないもので、農家の嫁にはあるまじき仄かな色香漂う好演が光りました。八重は、厚木通信部に赴任してきた某新聞社の記者・大川(木村功)とふとしたことから知り合い、うたかたの恋に発展するも、大川が東京本社に戻るとともに恋は終わりを告げる。それをメーンテーマに、八重を取り巻く人間模様も随所に描かれていました。
 小林珪樹、中村雁治郎、杉村春子、新珠三千代、加東大介など懐かしい往年のスターたちが、しっかり脇を固めたなかなかの名作でした。

 この映画は、過去にテレビでも何度か放映されており、私は2回ほど観ました。また当市が舞台の映画ですから、厚木市の出先機関である「郷土資料館」の視聴覚ライブラリーにビデオが置いてあり、3年ほど前借りて観たこともあります。
 かれこれ40余年住んでいる私は、厚木市はもう第二の故郷のような感じです。まだ高度経済成長に到る前の昭和30年代前半の、大山の麓の厚木ののどかな農村風景がドラマの展開の合間、合間にふんだんに描かれています。それがこの映画の詩情を一段と高める効果をもたらしており、何となく懐かしささえ感じたものでした。

 原作者の和田傅は、農民文学作家として、農民の土地への執着や農村の変化などを描き続けました。
 1900年(昭和33年)愛甲郡南毛利村(現厚木市南毛利)の恩名(おんな)の生まれ。旧制厚木中学(現厚木高校)を経て、早稲田大学仏文科入学、1923年(大正12年)同大学卒業。その年初めての作品『山の奥へ』を発表しました。
 1937年(昭和12年)『沃土』で第1回新潮文学賞を受賞し、一躍有名になりました。戦後の1954年(昭和29年)日本農民文学会の初代会長となり、翌年神奈川文化賞を受賞しました。1980年(昭和60年)厚木市初の名誉市民となるも、同年10月24日亡くなりました。享年85歳。
 代表作は、『沃土』『門と倉』『大日向村』『日本農人傅』『鰯雲』など。

 私は、生前の和田傅を一度だけお見かけしたことがあります。昭和45年過ぎ頃のことでした。当時は測量の仕事で当市内を回ることが多く、やはり同業務の折り、恩名地区の路上で偶然出会ったのです。
 お宅が近く、散歩の途中ででもあったのでしょうか。和田傅は裏道を悠然と歩いていました。痩せ型の長身で、和服のその姿は「鶴のような」という表現がぴったりのお姿でした。何やらとっくに解脱したような、枯淡で超然とした風貌にお見受けしました。

 (大場光太郎・記)

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続・乞食さんの思い出

                        (2)
 次はキツタロさと同じ頃の女乞食さんの話です。
 その女乞食の名前は、近所のおばさんたちの間では「カモダのカシャババ」と呼ばれていました。我が母子寮の前の通りを三十メートルほど東に行くと木橋があり、それを越えて山坂道をしばらく登って行くと蒲田山という山とそのたもとの部落があります。小学校高学年の頃、秋が深まった時分よくきのこ採りでその山に分け入ったものでした。要はその婆さんはその辺に住んでいるので「蒲田のカシャ婆」というわけです。
 とこう述べますとさも実在して山部落から下りてきて、当時の郷里の街中を歩き回っていた人のように聞こえます。しかし実際はおそらく誰もその姿を見たことがなかったと思うのです。
 
 私が小学校低学年の頃は、何か手に負えない悪さでもすると母や寮内のおばさんたちから、「ええがコタロ。そんなごとすっと、カモダのカシャババにさらわっちぇしまうなだぞ」というようなことを言われたものでした。幼い子供にはその一言が意外に効いたのです。
 しかしその「カモダのカシャババ」なる婆さんは、ついぞ一度も姿を現わしたことはないのでした。
 
 当時の周りの大人たちは乞食だと言ってはいたものの、本当のところはどうだったのかは分かりません。実際そんな婆さんがいたのかもしれず。またはかつていたのかも知れない誰かに尾ひれがついて広まった、都市伝説ならぬ「田舎伝説」の類(たぐい)だったのかもしれず。あるいは民俗学などで言う村落共同体の秩序を脅かす異人(いじん)的存在が投影された虚像だったのかもしれません。
 さらには山部落深く棲むということから、昔話の山姥(やまんば)のイメージが投影されていたのかもしれません。そうなると今では、カモダのカシャババの正式名称は、「蒲田の火車婆?」と思わないでもありません。
                        (3)
 実は乞食さんに類した人は、現居住地である厚木市にもいたのです。それもそう遠くない、つい数年前までの話です。
 
 今から十年余前私が現在の業務に従事するようになり、当市内を車で走っていると、時折りある乞食風の男性が通りをあるいているのに出くわすことがありました。やはり風采が明らかに一般人とは違うのです。その人はかなり年配で70前後くらいに見えました。割と背の高い痩せ型の老人で、白髪、白髯(はくぜん)のその風貌は、どことなく聖者風に見えないこともありませんでした。

 こういう人は一体どこをねぐらにしているものなのでしょう。近年社会問題になっているホームレスは当市でも見かけられます。例えばいつもご報告しております中津川堤の百メートル少し上流の橋の下には、何年か前までホームレスが寝泊りしていた痕跡がありました。(その後撤去)。さらにその数百メートル上流くらいの所は中州が盛り上がった平べったい台地状になっていて、その一部にはしっかりした小屋らしきものが造作されています。いつか散歩でそこの堤防道を歩いていた時などは、その小屋の側には犬小屋までありキャンキャン吠えているのを見たことがあります。
 またいつもの中津川堤を数百メートル下流に行くと大きな橋がありますが、そこいら辺には何人かで共同で生活しているようで、今でも時たま人の姿を見かけることがあります。

 その人は本厚木駅周辺でも見かけられたことから、あるいはもっと下流の相模川のどこかをねぐらにしていたものでしょうか。しかしその人はどうも今風のホームレスというよりは、もっと年季の入ったいわゆる乞食さんといった感じの風体でした。

 今から3、4年前の初冬のある夕方のこと。その人が本厚木駅のすぐ近くの道路際に腰かけているのが認められました。一方通行の道路とビルとの境の幾分高めの縁石の一角に、一人しょんぼり腰かけていたのです。通りをけっこう人が行き来していますが、その人のことなど誰も眼中にありません。
 その姿はどことなく所在なさげで、寂しげで、寒そうで。もちろんたまに車内から見かけたくらいで面識はありませんでした。しかし私は、どうもそのようすが気になって仕方なかったのです。そこで近くに車を停めて降りて、その人に近づいていきました。
 私がすぐ側に立っているのに気がついて、その人は一瞬ぎくっとした表情を見せました。私は「これで何か温かいものでも食べなよ」と千円札を一枚渡しました。その人は型どおりペこんと頭を下げて受取りました。

 しかしそれ以来、その人を見かけることはなくなったのです。その冬は越せなかったのでしょうか。   ー  完  ー

 (大場光太郎・記)

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乞食さんの思い出

 『差別用語・考』で述べましたように、乞食(こじき)とは一般的に、「周りの人たちに物乞いする人」のことをいいます。以下に語る人たちが果たしてそれに該当するものなのかどうか、私には判断がつきません。あるいはもっと別の分類をすべき人たちなのかもしれません。ともかくも私の人生につかの間現れ消えていった、今となっては懐かしい人たちです。
                        (1)
 昭和30年代前半は、我が国が高度経済成長に離陸する前の時代。世の中全体が、映画『ALWAYS 3丁目の夕日』のような貧しいけれどどこか温もりのある時代でした。
 貧しい中でもひときわ貧しい人もいました。どういうわけか住む家がなく、川原のどこかをねぐらにしているような人たちです。私の郷里の山形県東置賜郡宮内町(現南陽市宮内)にもそんな人がいたのです。
 当時私は小学生。再三述べましたように町の母子寮に母らとともにお世話になっていました。母子寮は町の東外れ、二、三十メートル行けば吉野川に出られます。私が幼少を過ごした太郎村の家のすぐ側を流れていた同川も、数キロ下流の町場を流れる頃には川幅も大きくなり、それなりの中小河川の風格も備わります。

 その川を数百メートル上流に行った辺りに、当時頻繁に出没していた人がしました。近所の人たちはその人を「キツタロさ」と呼んでいました。正式に書けば「吉太郎さん」とでもなるのでしょうか。
 その人が私が最初に目にした乞食さんなのです。ずんぐりむっくりした初老の男性でした。いつもうす汚いよれよれのどてらのような着物に腰紐をしめた姿。子供達は乞食とばかり思い込んでいましたが、実はキツタロさが物乞いして歩いている姿を見たことはただの一度もありません。それもそのはず、その人には一応れっきとした仕事があったからです。

 その仕事というのは、「廃物集め」今でいう廃品回収業です。キツタロさの姿が見かけられるのは、決まって吉野川原のその辺ででした。すぐ上の方に古い木橋が架けられていて、山の方に行けるようになっていました。だからキツタロさも、たいがいがそうであるようにその橋の下辺りをねぐらにしていたものなのでしょうか。
 
 当時の子供達特に母子寮暮らしの私には、日々の小遣い銭などめったに与えられるものではありません。しかし寮の道を挟んで対面に駄菓子屋さんがあり、そこに「一粒百メートル」などという殺し文句入りのグリコのキャラメル、小さな袋に入って当たるともう一袋ついてくる甘納豆、舐めていると色が赤や緑にころころ変わる変わり玉などといった、子供の目を幻惑し食欲をそそる品々がどっさり置いてあるのです。

 そこで小学校4、5年の頃小遣い銭欲しさに、学校が終わると近所の仲間と共に、川原辺りに行って空き缶やら鉄くずなどを集めたものでした。まあ「俄か子供廃品回収業」といったところでしょうか。それを袋か何かに詰め込んで、川の土手道をさかのぼってキツタロさの所に持っていくのです。
 今もそうでしょうが、当時も並みの鉄くずよりも「アカ」や「アルミ」の方が値打ちがありました。アカとは銅線のこと、アルミとはアルミニュームのことです。ですからその方が金になるのでアカやアルミ主体に方々を漁るのですが、これがなかなか見つからないのです。
 ともかくそうして集めた廃物を「キツタロさ、これ買ってけろ」と言うと、「ああ、いいよ」とばかりに引き取ってくれたのです。そして廃物を受け取って、磁石で鉄くずとアカやアルミをより分けたキツタロさは、私たちに報酬として30円とか50円とかをくれるわけなのです。
 さあ現金を受け取った私たちは、一目散に件(くだん)の駄菓子屋に走って行ったことはいうまでもありません。

 キツタロさはいたって気のいい人で、まず怒るということのない人でした。それに近所の噂では、頼まれれば自分の下半身を見せてくれるというのです。いたずら盛りの私たちはそれに興味を持って、ある時仲間内で本当かどうか確かめてみることにしました。
 その時は確か廃物は持っていかなかったと思いますが、3人位でキツタロさのいるいつもの川原にそっと近づきました。そしてキツタロさを取り囲みながら、誰かが「キツタロさ。キ○○マ見しぇでけろ」と切り出しました。
 するとキツタロさは私たちの要望に快く応じてくれ、無言で着物の下をベロッとめくってアレを出して見せてくれたのです。それは、キツタロさの背丈のようにずんぐり縮こまったどす黒いものでした。私たちは物珍しげにそれにしばし見入ったのでした。

 しかしキツタロさとはそれが縁の切れ目になりました。私たちには何か見てはいけないものを見てしまったという後ろめたいような気持ちがあり、それからは廃物集めをしなくなりキツタロさとは会わなくなったからです。
 それから2年ほどすると私は中学生になり、その川原の土手道が通学路になりました。しかし朝晩通るにしては、どうしたことかキツタロさの姿を見かけることがなくなりました。  (以下「続」につづく)

 (大場光太郎・記)

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「9・11」とは何だったのか(3)

 「9・11」が起こった2001年の12月、東京都内の小さなグループが隔月で出している、『森のたより』という10ページ強の会報が私のもとに届きました。同会報は通常は時事的なことは扱っていませんでしたが、その時に限って会の代表の文章の中で9・11に触れていました。
 それは米国在住の米国通の邦人ジャーナリストのリポートを紹介したものでした。それによりますと、旅客機に突入され崩壊したWTCにはユダヤ系財閥のロックフェラー系企業も入っており、同社社員だけでも相当の数が同ビルで勤務していたわけです。しかし同社社員に対して、「9月11日は出社せず自宅待機しているように」という通知文が事前に届けられていたというのです。

 これは驚くべき情報です。もしこれが本当なら、犯行グループとされるアルカイダしか知りえないはずの「テロ決行日」を、ロックフェラー系企業幹部が事前にキャッチしていたことになるからです。ロックフェラーといえば時々の米国政府を裏からコントロールしている「陰の政府」的存在で、本当は民主党のゴア候補に負けていた共和党のブッシュに「戦争を起こすこと」を約束させて大統領の座に就かせたとも言われているし…。
 ということは、ブッシュ政権そのものが、当日何が起きるのかを事前に知っていたのではあるまいか?

 ともあれユダヤ系企業ですから、同社に占めるユダヤ人の数も多かったものと推測されます。しかしWTC崩壊による犠牲者数2,752名のうちユダヤ人の死者数はわずかに3名だけです。ちなみに日本人の死者数が24名ですから、その少なさは際立っており、同情報が事実であることを裏づけているのではないでしょうか?

 私は9・11以前から、表の米国史では決して語られることのない、建国以来の「裏面史」を多少知っていましたので、当初から米国政府による公式発表にはどうにも腑に落ちないものを感じていました。同事件以後のブッシュ人気の沸騰ぶり、手際よすぎるアフガン侵攻など、まるで米国に、ブッシュ政権に有利な方向に事が運びすぎている…。
 『なるほど、こういうことだったのか ! 』。私はその会報によって、同事件の真相に迫る大きな手がかりを得た感じがしました。

 その後年が明けて事件が一段落し、世情がようやく落ち着きを取り戻した頃から、書店には9・11の真相を暴いた内容の書籍も出るようになりました。私がパソコンを備えインターネットに接続したのは‘03年頃からでしたが、グーグルで「9・11の真相」などで検索してみますと、関連情報があるわあるわ。
 インターネットもご多分に漏れず、元はと言えば米国の軍事利用の一環として開発が始められたものです。しかしそれは当初の軍事利用目的など遥かに飛び越えて、パソコンの普及と共に世界中をあっという間にネットワーク化し、世界各地の各家庭にまでネット情報がダイレクトに届くことになりました。
 さすがに米国政府も「陰の政府」も、世界中の主要メディアはコントロール出来てもインターネットはもはや規制し切れない状況になっていったのです。

 もちろん中には米国政府発表の筋書きをなぞっただけのサイトもありました。しかしそれに異を唱えるサイトの方が圧倒的に多いことにはびっくりさせられました。米本国はもとより先進諸国の学者、科学者、ジャーナリスト、研究家などからも、「米政府の発表はおかしい」という異論が事件発生当初から上がっていたようなのです。
 例えばー。当初から「旅客機が突入したくらいでWTCがあんなに簡単に崩落するはずがない」と、強く主張していた人がいます。他でもない、わが国の日本鋼管(当時呼称)に所属していた人です。わが国の優秀な鉄鋼技術を見込まれて、1966年の同ビル建造に当たっては同社製の鉄骨部材が使用されたのです。

 実は、高層ビルへの飛行機突入は過去に前例があったのです。1945年7月28日あのエンパイアーステート・ビルの79階にB25爆撃機が衝突し火災が発生、14名の死者が出たという出来事です。当日はニューヨーク全市に濃霧がたちこめ、そのため方向を誤ったがための事故と見られています。
 そういうことが既に教訓としてあり、WTCという超高層(両棟とも110階、最長高411m)の鉄骨部材は、たとえどんな大型機が突入しても崩落しないような強度を持つ部材として設計、製造したもの。だから当時主任の立場だったその人は技術者としてのプライドと同社のブランドに賭けて、「絶対あり得ない」と断言したのです。
 しかしこのような異論、反論が起きても、広く知られることはありませんでした。世界中の主要メディアが無視、封殺して、そのような「不都合な真実」は決して取り上げないからなのです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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「9・11」とは何だったのか(2)

 イラクのフセイン政権はテロ組織アルカイダとつながっている、大量破壊兵器を所有している疑いがあるという名目のもと、やっとこさこじつけた国連第1441条決議あたりを錦の御旗として、アメリカはイギリス、オーストラリアなど多くの同盟国に呼びかけて連合軍を組織し、2004年3月19日イラク侵攻を開始しました。(小泉政権下のわが国もサマワに自衛隊を派遣)。ここでも彼我の戦力の差は歴然で、同年5月には首都バグダットを陥落し、フセイン政権の崩壊に成功しました。
 その後逃亡していたフセイン大統領も見つけ出し逮捕、米国傀儡の新政権を樹立するなど、ここまではブッシュ政権の思惑通りに事が進みました。

 しかしその頃からシナリオが少しずつ狂い始めていきました。大義名分だった大量破壊兵器はいくら捜しても発見出来ず、終いには「もともと存在しなかった」と認めざるを得ず、またアルカイダとのつながりを示す根拠も見つからなかったのです。
 また厄介なことに、イラク正規軍との戦闘には勝利したものの、同軍は地下に潜ってゲリラ化し、他国からテロ組織メンバーも続々入国、民衆の一部も武装化して各地で自爆テロなどが頻発するようになり、イラク国内の治安は悪化の一途をたどりました。
 さらには米軍自体にも、強制収容所におけるイラク人捕虜への虐待が明るみに出て、国際社会の非難を浴びることとなりました。同盟諸国でも同戦争を疑問視する世論が上がり始め、イラクから軍を撤退する国が相次ぎました。

 ここでイラク戦争における「情報操作」の一例をご紹介したいと思います。
 イラク戦争では、「エンベディト・ジャーナリスト」という新しい種類の記者が誕生しました。これは米軍と生活を共にしながら一緒に行動し、戦場にも出かけてそこからリポートするという記者のことを指します。読者や視聴者は、生の情報だからこの新タイプの記者の記事は絶対間違いないと思い込まされたわけです。しかし実際は、軍隊と一緒に行動している記者の動向を軍の司令部は一部始終把握しており、不都合なところは一切取材させなかったのです。
 翻って、米軍と行動を共にしないフリージャーナリストも大勢いました。彼らはどうなったのでしょう。多くのフリーの記者は米軍によって撃ち殺されたのです。それを米軍は、イラクの武装勢力の攻撃による不慮の死として発表しました。彼らはなぜ殺されたのか、理由は明白です。都合の悪い報道をされたくなかったからです。

 もう一つ。同戦争では、当時19歳の可愛らしい女性兵士が奇跡的に救出されたとして、そのようすがマスコミで報道され、彼女は一躍アメリカ中のスーパーヒロインに祭り上げられた出来事がありました。彼女はイラク兵に撃たれて、歩行も出来ないほどボロボロになっていたところを、間一髪米軍に救出されたという感動的ストーリーでした。
 しかし真相は、彼女は一発も撃たれていなかったのです。その怪我は交通事故による大たい骨骨折などだったのです。それを国民向けの美談に仕立て上げたかった米軍は、事故で負傷した彼女がいる病院を徹底的に攻撃する場面を演出、実行しました。だがその病院には敵、つまりイラク兵は一人もいなかったのです。だから彼女を治療していたイラク人医師たちは、突然の米軍の闖入(ちんにゅう)に唖然呆然…。
 なおこの演出を手伝ったのは、『ブラックホーク・ダウン』という戦争映画を撮ったことのあるリドリー・スコットという映画監督だそうです。

 だいぶ「9・11」から逸れて、同事件後イラク戦争までを見てきました。これは他でもありません。9・11以降のブッシュ米国政府のやってきたことが、いかに欺瞞に満ちたものだったかを確認したかったからです。しかし考えて見ますと、一時期全世界が「アメリカ一極支配」状態になったそもそもの原点は、やはり9・11です。
 次回はまた9・11に戻って、同事件における「欺瞞」や「謎」を少し探ってみたいと思います。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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「9・11」とは何だったのか(1)

 9月11日は、「9・11テロ」(アメリカ同時多発テロ事件)が起こった日です。起きたのは2001年でしたから、早いものであれから満8年が経ったわけです。衝撃的な事件であっても、これだけの年月が経過しますと少しずつ事件の記憶も薄められつつあるようです。
 そこで本シリーズでは、今この時点で改めて「9・11とは何だったのか」ということについて考えてみたいと思います。あれだけの世紀的大事件です。本来は私ごとき者が扱える「素材」ではありません。しかし無謀にも敢えて試みようと思います。足らざる点また独断的解釈の段、予めご容赦くださいますようお願い申し上げます。

 同事件は発生とほぼ同時くらいに、CNNなどのメディアを通して、全米中はおろか全世界にその衝撃的な映像が流され続けました。
 私たちはそのようにしてニューヨーク市のWTC(世界貿易センター)のツインタワーの北棟への大型旅客機突入後のようす、続いて南棟への2機目の突入のようす、そしてとどめは両棟が続けざまに丸ごと崩落、崩壊していく衝撃的なようすをリアルタイムで見守ったわけです。それは例えとして不適切かも分かりませんが、まるで『タワーリングインフェルノ』や『ダイハード』といった大カタストロフィー(大破局)タイプのハリウッド映画さながらの“劇場型事件”でもありました。

 事件後しばらくは同事件のことが、イヤというほど連日集中的に報道されました。ですからWTCやペンタゴン(米国国防総省)に突入した、同多発テロ事件のおおよその全貌はどなたもご存知のことと思います。しかし私たちが9・11について知っていることのすべては、米国政府の公式発表、あるいはその大きな規制の下で流された世界中の主要メディアを通してのものです。
 米国政府は「待ってました ! 」とばかりに事件後いち早く、同事件はイスラム過激派「アルカイダ」の犯行と断定しました。WTCに自分が操縦する旅客機もろ共突っ込み自爆した(と言われる)、モハメット・アタ容疑者ら10数名による犯行だったといち早く断定したのです。

 一体何が起こったのか訳が分からない、アメリカの一般国民そして全世界の人々は、当初からメディアが流し続ける米国政府による「プロパガンダ放送」を真に受けました。
 同年1月に就任後、民主党のゴア候補と争った大統領選での不正疑惑などもあり、支持率が30%台という不人気に喘いでいたジョージ・ブッシュでした。しかし事件後は、「テロに屈することなく国民一丸となってこの試練を乗り切ろう」式の訴えをしたことにより、米国民の間にかつてないほどの愛国心、ナショナリズムが醸成され、ブッシュは一躍救国的大統領として何と支持率80%台にまで急上昇したのです。

 そしてご丁寧にも、ブッシュ政権に取って何とも好都合な頃合を見計らって、アルカイダの首魁であるウサマ・ビンラディン容疑者の犯行声明ビデオあるいは同予告ビデオが出てくるはで…。
 「世界が変わった日」である9・11はまた「世界が騙された日」でもある(と私は考えおります)とおり、世界中が丸ごとすっかりその気にさせられてしまいました。
 こうして世界中から「対テロ戦争」という大義名分を得、なおかつ国連決議という天下のお墨付きも得た米国政府は、テロから一ヶ月ほどという短期間で、(実は前のクリントン政権時代から共和党が密かに計画を練り上げていた)アフガニスタン侵攻を開始したのでした。

 「不朽の自由作戦」という、米国民にとっては涙が止まらなかったであろう美しいスローガンの下、アフガン侵攻は断行され、ここが「軍需産業製造の最新兵器の10年分の使い時」とばかりに、クラスター爆弾やバンカーバスターやら何やらアフガンの大地や住宅地に雨あられ。元々米国の比ではないタリバン勢力はあっという間に蹴散らされました。元凶のアルカイダもパキスタン国境の森林地帯に追い詰め、しかしなぜか首魁のビンラディン一味だけはどうしても捕まらない…。
 こうしてまんまと、アタガン領土の実質的統治権と天然資源利権を手に入れることに成功したブッシュ政権は、次に父ブッシュ以来の念願であるイラク侵攻に照準を定めたのでした。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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百合根掘り

   掘り出だす百合根芳(かぐわ)し風の原   (拙句)

 いつもご紹介しております「水路道」は、両側の住居群が尽きると、その先数十mは木々や草花はなくただ雑草だけの道になります。
 6、7月は伸び放題の雑草の中、真ん中のコンクリート部分を歩く感じでした。しかし先月半ば頃、市役所の関係者か近隣の人たちかの手によってきれいに刈り込まれ、今は見通しよく歩きやすい道となっています。

 この道は一直線に数十m続いて、やがて東西に走る車道と直交します。その左側手前に、2階建て×1階あたり4所帯分のアパートが建っています。いわば全国どこででも見られそうなステレオタイプのアパートです。反対側が玄関、水路道に面した側は裏になります。通路際から建物まで約2mくらい。
 同アパートの真ん中くらいの通路に近い所に、一株の大きな百合が植えられています。毎年6月末頃から7月中旬頃までが最盛期で、大きな白百合が咲き誇っています。いわゆる野生の山百合ではありません。多分観賞用として品種改良を重ねたものなのでしょう。高さ80cmくらい、茎は太くてしっかりしています。その上の方に、白い花が集中して次から次へと咲き続けるのです。
 私は、行きは水路道の途中から西に直角に曲がって行きますが、町からの帰りはここを通ることにしています。その季節はいつも、この花を眺めながら通るのが楽しみの一つです。

 観賞用としての百合のみならず、当地では車で少し遠出でもすると山百合を見かけることが出来ます。例えば元は小山だった所を切り通しにして車道にした、その法面(のりめん-傾斜面)の上辺りに、山百合の白い花がしなだれるようにせり出して咲きこぼれているさまに、ハッとすることがあるのです。

 このような百合の花を見ると、少年時代の郷里の百合の思い出が甦ってくることがあります。山百合はもちろん、私が小学校1年の秋から過ごした山形県(旧)宮内町外れの野山にもずいぶん咲いていました。
 しかし思い出すのはなぜか、母の実家で私の生家のある山の中の七軒部落の水林での思い出です。町場の母子寮に越してからも、小学校時代夏休みと冬休みにしばしば寄越されました。そのことは今年1月の『雪に埋もれし我が故郷(1)』記事、あるいは「二木紘三のうた物語」の『花嫁人形』コメントで触れたとおりです。

 小学校5年頃の夏休みもやはり、水林で過ごしました。ある晴れた日の昼下がり。実家の中にいると、そこの叔母(私の母より数歳年長)が、「コタロ。えっしょに外さあえべ。(光太郎。一緒に外に行こう)」と言うので、私はついて行きました。
 といっても、わずか七軒だけの狭い山部落のこと、そんな遠くではありません。行き先は、部落の奥から二軒目の実家からでも、歩いてすぐの部落のたもとに広がる野ッ原でした。それこそ草という草が勢いよく繁茂しています。

 むせかえるような草いきれの中、草をかき分けて叔母に従って野ッ原に入っていきました。丈高い草に混じって、白い山百合が所々に咲いています。叔母は百合が何株か群生して咲いている所で止まりました。そして持ってきた鍬(くわ)かスコップだかで、やおらその根元を掘り出したのです。そうして土を掘り返すと、白くて大きな山百合の球根が現われます。
 周り中に百合根独特の芳しい匂いが漂ってきます。百合根は実は、おおむね食料に乏しい山部落にとっては、貴重な山の幸でもあるのです。これを採ってきては、茹でたりして食べるのです。

 だから叔母は、初めから根っこだけが目的だったのであり、野に咲く百合の花を眺めにきたのではありません。ですからおよそ花には目もくれず、ただ黙々と次々に根っこを掘り出しては、側で私が袋を持って待って立っているもので、その中に一塊りを入れていきます。そうして袋が一杯になるまで、叔母は百合根を片っ端から掘り続けたのでした。
 花はそのままうっちやっかといえば。記憶にはありませんが、その幾花かは仏花として持って帰ったのだったかもしれません。

 (大場光太郎・記) 

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宮里藍、米ツアー初優勝 !

 昨深夜『うるぐす』という日本テレビのスポーツ番組の後の、ニュース番組を見ました。冒頭女性アナウンサーが、「速報が入りました」と言って渡された原稿を読み上げました。それは宮里藍の米ツアー初優勝を告げるものでした。同アナはそれを手短に読み終えると、本来のトップニュースである九州地方を襲った集中豪雨被害に移っていきました。しかし私はその第一報に率直に思ったのです。『ほう、とうとうやったか。それは良かった ! 』。

 宮里藍(24)にとって、米ツアーに参戦して4年目でやっと掴んだ栄冠でした。
 エビアン・マスターズ(フランス、エビアン・マスターズGC)で、プレーオフの末S・グスタフソン(35-スウェーデン)を破り、83試合目で悲願の初優勝を果たしたのです。
 試合後のインタビューで、「大変嬉しい。小さい時からこの瞬間を夢見ていました。それが実現しました」と喜びの声を語っていました。そして「この4年間は自分にとっては貴重なものでした。これまで支えてきてくれた皆さんに感謝し、喜びを分かち合いたいと思います」とも。

 今まで誰しも思ったことでしょうが、米ツアー4年目83試合目での初優勝は、とにかく長かったと思います。米ツアー参戦前の、国内では向うところ敵なしの10代の宮里にとって、米ツアーで結果を出すのにそんなに時間はかからないと思っていたからです。
 しかし国際レベルともなるとその壁は意外にも厚く、宮里は常に飛距離に引け目を感じていたようで、事実昨年は243.2mの101位。相手のドライバーに圧倒され飛距離を欲しがり、力んでフォームを崩し曲げてしまうことが多々ありました。
 それが今年は256.5mで37位と飛躍的にアップしました。お尻の筋力アップのため、オフの間下半身を中心に筋トレに励んだことなどが実を結んだようです。

 加えてスイングをしながら打球音だけを聞く練習も続けたそうです。これが感覚を鋭くし集中力を高めるトレーニングにもなったようです。事実その成果は飛距離だけではなく、ドライバーのフェアウエーキープ率21位(75.2%-昨年は66.9%の91位)にもハッキリ表れています。
 さらにパッティングの打ち方も変えたようです。従来のラインを読み、構えて素振りをしてから打つスタイルから、今は素振りをせずにストロークするようにしたところ、その分迷いなく宮里のリズムが崩れないそうです。
 これらの地道な努力が実を結び、今年は14戦で1回の予選落ちもありませんでした。

 実は私は、(今の男子プロ・石川遼(17)も似たようなものですが)各マスコミから追いかけ回されていた頃の宮里藍は、あまり好きではありませんでした。見るからに小憎らしい小娘という印象だったのです。
 その後ほぼ同世代か少し若い、横峯さくら、上田桃子などの可愛い系が国内で人気急上昇していき、逆に米ツアーで苦しむ宮里はすっかり影が薄くなっていました。女子プロのタレント化の波に私もすっかりはまり、気がついたら「さくら頑張れ ! 」「桃子頑張れ ! 」になっていました(笑)。

 しかし私が密かに宮里藍を見直すことになったのは、図らずも米ツアーでの彼女の不遇時代なのでした。米ツアーに出続け、何度トライしチャレンジしてもその都度分厚い壁に阻まれる。しかし見たところ(内心どうだったかは分かりませんが)宮里はめげたり、くさったりしていないようでした。私はそれを見て『何とも見上げた根性だ ! 』と改めて感心したのです。
 またいくら勝利から見放されても、テレビに映る彼女の目からは強い力を発しているようで、『この娘(こ)は大丈夫。きっといつか望みを遂げるだろう』と思っていました。

 話は変わって。私は30代前半の頃横浜駅近くに営業所のある、小中学生向けの教材の訪問販売営業に飛び込んだことがあります。研修期間「アイス・ブレーク」という有意義な言葉を教えてもらいました。
 私のような営業のズブの素人にとって、初めて「成約(お客との契約成立のこと)」を得ることの難しさを、分厚い氷をぶち破るということで、アイス・ブレイクだと言うのです。いざ強制的に横浜、川崎市街の営業に出されてみて、そのことを実地で痛感させられました。(その営業体験はなかなか思い出深く有意義でした。いつかまた体験記を綴れたらと思います。)

 今回の初優勝は、宮里藍にとってまさに「アイス・ブレイク」だったのではないだろうかと思われるのです。これまで米ツアーで優勝した(国内開催を除く)のは、樋口久子、岡本綾子、小林浩美、福嶋晃子の4人だけだそうです。いずれも錚々たるメンバーです。宮里もこれで5人目として、その仲間に加わったわけです。
 宮里は、今回の優勝で「大きな何か」を掴んだのではないでしょうか。私が思いますに、宮里はこれをきっかけに、米ツアーで優勝を重ねていき、前の4人より凄いツアー実績を残すのではないでしょうか。
 今後とも注目して見続けていきたいと思います。今後とも頑張ってくれ、宮里藍 !

 (大場光太郎・記)

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