日本育英会奨学金の思い出

 直前の『吉田静さんの「津軽のふるさと」』の中で、公益財団法人ヒロセ国際奨学財団や日本学生支援機構(JASSO)という奨学金制度があることに触れました。

 そのうち日本学生支援機構の方はかつての日本育英会を前身としていますが、そんなことを述べているうち、私自身が日本育英会奨学金のお世話になったことが懐しく蘚ってきました。と言っても、私の場合は高校時の奨学金であり、大学留学生へのそれとはスケールがまるで違います。が、今となっては大変懐しい思い出なので、以下にそのことを述べさせていただきます。

 当ブログ思い出記事などで度々触れてきましたように、父を小学校入学間もなく亡くし、その年の秋、当家は町の母子寮(山形県の宮内町立母子寮)にお世話になることになりました。
 当然家は極度に貧しいわけで、我が家の経済状態では高校進学など思いもよらないものでした。

 実際寮内の先輩たちのほとんどは、中学卒業と同時に、就職のために上京して行きました。唯一の例外は3年先輩のHさんで、この人が寮内で初めて米沢工業高校に進学しました。

 そうこうしているうちに、(その年は東京オリンピックが開催された年でしたが)私は中学3年となり、次の進路を決めなければならなくなりました。一応成績上位の剖類だった私は、先生方に早くから高校進学を勧められていました。

 その年の1学期の終りだったか2学期の初めの頃だったか、定かではありませんが、成績が良くても経済的に厳しく高校進学が困難な生徙たちを対象として、日本育英会の特別奨学金貸与のための試験を受けることになりました。
 そのうちの一人として、私もその試験に臨んだのです。

 日本育英会。この一文をお読みの方の中にはその奨学金制度のお世話になった方もおありかもしれませんが、ここでその概略を見てみたいと思います。

 同育英会は、戦時中の1943年(昭和18年)、大日本育英会と呼称し、「成績優秀だが貧しく修学が困難な学生に奨学金を貸与することを目的として」発足しました。戦後、「日本育英会」と改称して存続しました。
 私の当時の同育英会会長は、学者、社会思想家、教育家で文部大臣も務めた森戸辰男氏だったかと思います。

 もう一つ述べておきますとー。
 高校進学対象の生徙たちに対する奨学金は、特別奨学金(以下「特奨」と略)と一般奨学金の2種類がありました。特奨の方は、上に述べましたように試験合格者が対象となり、当時で月々3,000円が貸与されました。卒業後、そのうちの1,500円だけを返済すればよいシステムでした。
 一方の一般奨学金は、先生の推廌だけでオーケーで月々1,500円が貸与されました。卒業後は1,500円全額の返済を要しました。

 ・・・特奨の試験は、米沢のどこぞの上級学校を会場として行われました。
 通常の学期末などの学力試験と違って、知能テストっぽいというのか、パズルっぽいというのか、かなりユニークな試験だったように記憶しています。これがその時の私にドンピシャリとハマったのです。 
 学校の勉強嫌い、試験嫌いな私なのに、その時ばかりはα波出まくり(多分)、問題という問題がスラスラ解けていったのです。

 今思うに、私の半生の各試験経験の中で、あの試験ほどワクワクしながら取り組んだことはついぞありませんでした。
 それくらいですから、当然結果も良く、2ヶ月ほどして担任の先生から「合格」との通知をもらいました。

 ともかくこれで高校進学のネックとなっていた経済問題がクリアーできたことになります。 しかしここで一悶着起きました。他でもない、当の私が「高校に行きたくない」とゴネ出したのです(苦笑)。

 今思えば、思春期特有の反抗心といったものだったのでしょうか。加えて15歳の少年が、一丁前に、世の中に対する漠たる懐疑も抱きはじめていたのです。
 上に述べましたが、この年は東京オリンピックが開催された年でした。進路に迷っていた頃の10月10日、「世紀の祭典」が開会式を迎えました。(ブログ開設の年『東京オリンピックの思い出』シリーズで既に述べたように)しかし「非国民少年」の私は、開会式も各競技も閉会式もついにテレビ観戦しませんでした。

 「所得倍増」を掲げてスタートした池田勇人内閣-これが後の我が国高度経済成長のきっかけとなったわけですが-に、子供ながらに危うさを感じたのです。
 『日本はおがしな方向に行っちゃうんじゃねえべが』
 子供ですから、「なぜそう思うのか」理詰めで答えることはできませんでしたが、ともかく心の中でくすぶっていたものが、東京オリンピックという大イベントによって一気に表面化したようなのです。

 私の「高校に行きたくない」という意志表示は、つまりは大人たちの敷いたレールの上を進みたくない、さらには「おかしな方向に行こうとしている」世の中に積極的に協力したくない、という含意があったわけです。当時はうまく説明できませんでしたが。

 さあ、困ったのは先生方です。おそらく特奨試験を通りながら「高校に行きたくない」などというのは、私の中学校初まって以来かつてなかったことでしょう。それに今考てみれば、ある中学校で辞退者を出してしまうと、今後その中学校の特奨枠、奨学金枠が減らされるなどのペナルティがあったのかもしれません。

 1年時の担任で今は学年主任のT先生、3年時担任のY先生などから翻意するよう、繰り返し説得されました。
 しかしそれでも私は首を縦に振りません。それどころか、学校に来ていた求人募集を当たり、その中の埼玉県某市のある工場に決めかけていたのです。そこは働きながら夜間高校に通うことができるというのです。一応何がしかの向学心だけはあったようです。

 母子寮の女性寮長先生からもこんこんと説得されました。しかし何より驚いたのは、母が「高校に行け」と言ったことです。あれほど「早く就職して、家を助けでけろ」と言っていたのに、「コタロ。高校に行ってもええがら、高校さ行げ」と言うのです。
 大人たちに完全に包囲された形ですが、母の言葉に折れて高校に進学することにしたのでした。

 高校は、長井市にある山形県立長井高等学校でした。
 3年間の高校生活が可能となったのは、何といっても日本育英会の特奨のお陰です。かれこれ50年近く前の月額3,000円は、今の価値で3~5万円ほどになるのではないでしょうか。

 ちなみに、1ヶ月の授業料は3年間を通して1.300円でした。差し引き1.700円残るわけですが、あとは汽車通学の定期代に充てたり、参考書をどっさり買い込んだり(ウソです。ほんのチョボチョボです・笑)、参考書よりずっと多く文庫本を買ったり、飲食代に使ったり・・・。3年間、夏休みは地元の役場のアルバイトをしましたから、母にほとんど負担をかけずにやっていけたと思います。

 高校進学にあたってゴネて諸先生方にご迷惑をおかけしましたが、多感なりし長井高校の3年間こそは私の人生で最高の思い出です。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『吉田静さんの「津軽のふるさと」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-d54d.html

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懐かしき『西遊記』


 上の絵は、18日のグーグルトップの「変わりロゴ」です。『西遊記』をモチーフにしたものであることは明らかです。
 今回も「グーグル遊び心」満点です。孫悟空のところをクリックすると、悟空はくるっとこちらに向き直り目をギョロつかせて笑うし、(別嬪天女が大勢いる天界の不老長寿の)桃は食われるし、伸縮自在の如意棒はロゴを飛び越えて画面いっぱい予測不能な右回転、左回転をし出すし…。

 で今回は、『西遊記』の作者の「生誕何100周年」ということか、それにしてはいつになく大昔の話だぞ、と不審に思いました。
 と、やはりそんな大昔のことではなく、「万籟鳴 万古蟾 生誕 112周年」ということなのでした。すると今度は「万籟鳴 、万古蟾」なる人物と、『西遊記』との関わりがさっぱり分かりません。

 検索の結果、万籟鳴(ウォン・ライミン)万古蟾(ウォン・グチャン)は双子の兄弟で、1941年長編アニメ映画『西遊記 鉄扇公主の巻』を製作したことが分かりました。
 えっ。1941年とは、日本の年号で言えば昭和16年ですよ。第二次世界大戦の真っ只中で、この年の12月8日の真珠湾攻撃によって日米戦争の火蓋が切って落とされた年でもあります。日中間でも、1937年(昭和12年)以来中国各地で日中戦争が泥沼化していた時代です。

 そんな暗雲垂れ込めた時代に、よくもアニメ映画など作れたものです。やはり製作地はアジアの一大文化都市上海だったのでしょうか。大連、北京、南京そして上海…。ということは、次々に日本軍に蹂躙されつつある中で、祖国愛に燃える万兄弟による大きなレジスタンスの意味合いがあったことでしょう。
 民族の心を奮い立たせるにしても、「中国三大奇書」の『三国志』や『水滸伝』は当時の技術ではアニメ化は難しい。その点、孫悟空のキャラクターから『西遊記』が選ばれたのでしょうか。

 日米開戦前夜の極東の一等国日本には、もうアニメ映画を作る余裕も遊び心もありはしません。その映画がどんな出来ばえだったのか知る由もありませんが、いずれにしてもアジア初の記念碑的アニメーション映画となったのです。
 どんな出来ばえ?手塚治虫は戦後『ぼくの西遊記』を描きましたが、「万兄弟アニメ」から強い影響を受けたほどのものだそうです。

 私にとって最初の『西遊記』は漫画でした。昭和33年頃(私が小学校2、3年頃)当時の少年漫画雑誌に『西遊記』が連載されていたのです。
 当時の少年は誰もそうだったことでしょう。まだテレビもゲーム機などもなかった時代、「漫画」は子どもたちの大きな娯楽でした。私もいっぱしの「漫画少年」で、当時お世話になっていた町の母子寮で、毎月各戸に回ってくる『少年画報』『少年』『冒険王』などの漫画雑誌(月刊)が待ちどおしくてたまりませんでした。

 その中に『西遊記』があったのです。漫画家の名前もはっきり覚えています。「杉浦茂」です。当時子どもたちに最も人気のあった竹内つなよしの『赤胴鈴之助』が正統漫画とすると、こちら『西遊記』は“変てこ”な描き方の漫画なのです。
 それで私より2つほど年上の先輩などは「何だよ、こんな漫画」と吐き捨てていましたが、私には存外面白かったのです。第一主人公の孫悟空からして笑っちゃうキャラクターで、愉快なしぐさで…。

 あゝこんな感じだったんですかねぇ。何せもう半世紀も昔読んだもの、うすらぼんやりとしか覚えていませんし、少し違ったイメージもあったのですが…。ただやっぱり懐かしいですね。

 私は小学校4年生から今度は「本の虫」になり、以後漫画からは遠ざかりました。だからマンガ事情はほとんど分からず、作者の杉浦茂も『あんな変てこ漫画を描いてたくらいだからどうせ三文漫画家だろ』とばかり思っていました。
 しかしなかなかどうして。杉浦茂(1908年~2000年)は手塚治虫などとともに、戦後漫画家を代表する一人だというではありませんか。戦前は『のらくろ上等兵』の田河水泡に師事し、戦後は独特のナンセンスギャグ漫画が熱狂的に支持され、その作風は赤塚不二夫などに受け継がれていったのだそうです。
 代表作は『猿飛佐助』。こちらは私が漫画に熱中した頃既に連載を終えていたようです。『猿飛佐助』も『少年西遊記』もずっと後になってから復刻版が出されています。

 次の記憶は、小学校高学年の時に観たアニメ映画『西遊記』です。調べましたら1960年公開の東映作品だそうです。手塚治虫の『ぼくの孫悟空』をベースに、東映黄金期に若い芸術家たちのエネルギーが結集した娯楽力作だったそうです。国内では文部省選定映画となり、海外での評価も高く「ベニス映画特別大賞」を受賞しています。
 後の「アニメ大国日本」のきっかけとなった映画だったのかもしれません。

西遊記のストーリー画像1

 どこかでも触れましたが、当時の田舎町の小学校では月に一度くらい、午後から町の映画館で映画を観ることもレッキとした授業の一環でした。この映画もそれで観たのです。

 確かこの映画についてだけは、国語の宿題として感想文を出させられました。ある日の夕方外で遊んでいて、そのことがふと頭をよぎり『どうやって書いだらえがんべ』と思ううち、頭の中で映画の中の美しいシーンがパーッと広がり思わずうっとりしてしまいました。
 それは冒頭まもなく、孫悟空や仲間の猿たちが元気に遊び回る、大きな滝つぼのような洞窟のシーンでした。実際映画館で観た時も、そのシーンのあまりの美しさに息を呑んだのでした。

 (大場光太郎・記)

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唱歌『夜汽車』

 

 

 

 

 

                       *
 夜汽車     ドイツ民謡、日本語訳詞:勝承夫

  (著作権法により歌詞表記はできません。)


 元々のドイツ語の歌詞は、夜汽車とはまったく関係のない“恋の歌”であるようです。しかし昭和30年代前半に小学生だった私などは「夜汽車といえばこの歌」です。

 訳詞した勝承夫(かつ・よしお)という人も懐かしいです。当時の小学校の音楽の教科書には、この人の名前がよく載っていました。

 この動画のある人のコメントにもありましが、なかなか見つからずやっと探りあてました。あっという間に終わってしまう短い歌ですが、しみじみ良い歌だと思います。

 以下の一文は、「二木紘三のうた物語」の『夜汽車』のコメント(08年3月)を一部手直しして転載したものです。

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昔懐しいSL夜汽車

                       *

 夜汽車。本当に懐かしいひびきです。

 私にとって夜汽車とは、『故郷を離るる歌』の思い出のように、夜通し走る列車ということです。今は全国的に新幹線網が整備され、日中かなり遠方まで移動できますから、わざわざ夜行列車を走らせることもないのでしょう。

 と気になって、問い合わせてみました。その結果、JR東日本の場合今でも、上野駅から札幌また金沢。東京駅から大分・熊本また高松など、数本は出ているとのことです。しかし、やはり昔に比べて、本数はずっと少なくなったとのことです。

 郷里での少年時代の思い出の一つとしてー。

 当時の我が家は、駅からも線路からも何キロも離れていました。しかし普段ならまず聞こえないはずの夜汽車の音が、ある寝静まった夜更けに、なぜか聞こえてくることがあるのです。
 シュッシュツ、ポォー。……。ポォー、ポォー。……。シュッシュツ、ポォー。……。
 近づいて、大きくなって、やがて遠ざかっていく…。

 それが不思議で、私はそれを題材にした下手くそな詩を書いたことがあります。

 高校1年の時でした。たまたま隣の席だった、米沢から通っていた少しニヒルな感じの級友に、その詩をみせました。私は1、2年の時は丸坊主、彼はカッコウいい長髪でした。一読するなり斜に構えたその級友は、例のニヒルなうすら笑いを浮かべながら、「変な詩だなあ」と一言言ったきりで、突っ返してきました。(その詩は、とうの昔に捨てました。)
 そんな彼とは気の合うところもあって、ある日曜日、他の仲間と共に彼の家に遊びに行ったこともありました。

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山形県立長井高等学校正門

 「夜汽車」とは直接関係ありませんが、私の高校に関する話をさらに一つ紹介させていただきます。

 私が高校時代、汽車通学で利用していた「山形交通フラワー長井線」(私の頃はただの「長井線」)が、数年前のNHKの『小さな旅』という30分番組で紹介されました。夕方たまたま途中から見たもので、全部を見ることはできませんでしたが。

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南長井駅(右手前と奥に見えている建物は私の頃-約50年前-はなかった。同駅付近の住宅も古ぼけていて疎らだった。)

 その中で、私もかつて3年間乗り降りした、懐かしい無人駅の「南長井駅」のプラットホームなどを、私の高校(山形県立長井高等学校)の後輩たちが、ボランティアで掃除している姿が映っていました。
 私の頃は、ただ乗降しっぱなしでしたのに。だいぶ年長の先輩である私も、少し誇らしい気分になりました。
 なお運転手も、30代くらいの後輩が務めておりました。

 夜汽車そして蒸気機関車…。「ユックリズム」。懐かしいですね。 (転載終わり)

 (大場光太郎・記)

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40年前の市議選奮闘記

 きょう7月10日(日)は、当厚木市の市議会議員選挙の投票日でした。4年前もそうでしたが、今回もまた棄権しました。なぜってさほど関心が湧かず、特に入れたい候補も見当たらなかったものですから。
 これだけ腐っても、国政選挙だけは毎回必ず投票します。ただし「菅民主党」及び「民主党B」が続く間は、昨年6月上旬のお約束どおり民主党には絶対投票致しません。(代表選で菅支持だった後藤祐一。この次は覚悟せよ。)

 この1週間朝っぱらから、けたたましい選挙カーからの絶叫の声。そんな選挙モード一色の日々で、私はかれこれ40年前となる当市市議選の思い出が甦ってきました。
 同じく7月某日投票日で、確か例の浅間山荘事件が起きた昭和47年(1972年)の事だったかと記憶しています。
 当市議選はそれから4年ごとに何回もあったのに、なぜその時の市議選だけ鮮烈に思い出されるかといいますと。私たち当時の厚木市の若者グループのリーダー的存在だったSさんが同市議選に打って出たからです。
 そのため選挙の「せの字」も知らない私たちも、こぞって俄か選挙活動家としてSさんの選挙を手伝うことになったのです。

 Sさんはその時確か27歳。23歳だった私とは4歳ほど年上でした。身長は160cmの私より少し低いくらいでしたが、見るからに精気とパワーを感じさせる人でした。
 この人と当時私の勤務先の上司だったMさんとが同じ年で、無二の親友だったのです。二人やその他の仲間たちがSさんと知り合ったのは、彼らの成人式当日だったといいます。何でも式終了後、Sさんが成人式仲間に「今後我らの手で明るい厚木市を創っていこうではないか」というような事を一席ぶって、それに共鳴した男女十数人の仲間がその時出来上がったというのです。
 Sさんは元は東京出身で、親父さんの仕事の関係で、10代終わり頃厚木市に引っ越してきたようです。

 私は当市に来て1年が経過した頃、約1年間隣町の伊勢原市(当時は確か町)でMさんと共同生活をしたことがあります。Mさんは業務上の資格を取得し、私が勤務していた会社の営業所の形で伊勢原に事務所を構えていて、私はその部下として業務を手伝ったのです。
 Sさんはそこを何度か訪問し、ある夜はSさんら同世代の男女7、8人が、私らが寝泊りしている部屋で会合を開いたこともありました。
 私自身はほどなくまた厚木市の本社に戻りました。

 今の「個の時代」からは想像もつかないでしょうが、当時は同世代の若者たちの連帯感が強い時代でした。本厚木駅前のラーメン屋に入り、たまたま同じ年頃の若者と隣同士になったりすると、まるで百年の知己であるかのように意気投合、ラーメンをすすりながら話が盛り上がったりしたものでした。
 東北出身の私はいつも孤独で、ある時たまたま参加した市のコーラスグループの練習で、終了後1歳年上の綺麗なお姉さんにグループ加入を勧められ、ついクラクラとなり、そのまま同グループの一員にもなりました。

 そんな折り厚木の事務所に来ていたMさんから、「Sさんの家で毎土曜の夜飲み会があるから参加しないか」と誘われたのです。仕事が終わればコーラス練習日以外は暇をもてあます身、一も二もなく参加することにしました。
 Sさん宅は、市内郊外を流れやがて相模川に注ぐ小鮎川沿いの、少し坂を下った木造平屋でした。当日夕行ってみますと、既に準備完了で、Sさんも生業とする豆腐製造業の作業場のすぐにある三畳間に、テーブルが並べられ、その上には2、3の卓上コンロと手頃に刻まれた肉や野菜やビールがどっさりありました。中には十人弱ほどの、私より年上の人たちがずらり座っています。
 部屋は肉を焼く煙が立ち込め、もう飲み会は始まっていました。そうして夜が更けるまで飲み食いしながら、Sさんを中心に世間話、各人の出身地や仕事の話、他愛ないエロ話、時事的な話などに興じていくのです。

 私はいつしかその飲み会の常連になっていきました。ある年の夏はこの仲間で、津久井の山奥の山荘に泊まりに行ったこともあります。
 そして問題の昭和47年です。確かこの年Sさんから年賀状をいただき、その文末に「末は博士か大臣か」などと時代がかった文句が記されていました。
 その頃では私が所属しているコーラスグループも含めて、厚木市内のめぼしいグループをSさんは掌握し、いつしかSさんは若者グループの中心的かつカリスマ的存在になっていました。そしてその年の何月だったか、「Sさんが今年の市議選に若者代表として立候補する」という話になったのです。

 選挙参謀は飲み会きっての理論家として誰からも一目置かれていた、佐世保出身で市内工業団地A電機勤務のUさんに決まりました。こうして市議選に向けた準備が着々と進んでいったのです。
 5月頃にはSさん宅から数百メートル離れた、バス通りに面した空き地を選挙事務所として使用することが決まり、仲間内の大工さんが先ず土台、床、柱といった骨組みを作り、周壁のコンパネや屋根張りなどは皆で手伝って作っていきました。そして出来上がったのが、何と八角形という異形の選挙事務所だったのです。
 私はこの拠点に、ロクな手伝いもできないながら、投票日まで毎日のように通いつめました。また仕事で知りあった町の若者何人かを訪問し、「Sさんをよろしく」と頼み込んだりもしました。

 選挙事務所がそうだったように、今思えばその選挙手法は何から何まで異例ずくめだったと思います。
 例えば選挙ポスター。これを担当したのはSさんの元からの仲間で、今で言うイラストレーターの卵のHさん。その撮影に私も同行しましたが、何と時刻は夜、厚木市街を見下ろす高台で、私などがスポットライトを当てる中Sさんがマイクを握ったポーズです。
 仕上がったポスターは、異例の黒い背景にスターのようなSさんの顔がくっきり浮かび上がった、なかなかセンスのいいものでした。

 そうこうしている内に選挙戦に突入しました。飲み会で知り合い、コーラスグループにスカウトし大の親友となった同じ年のТ君をはじめ、主なスタッフはA電機社員が占めていました。選挙カーをデコレートしたのは彼らです。
 これが極めつけだったのです。車はSさん所有の、真っ赤な日産サニークーペ。その屋根にТ君ら考案の、候補者名が大書された円形のポスターが設置されました。それが車の電源によって、走っている最中クルクル回る仕掛けなのです。

 それだけならまだしも。選挙カーから聞こえてくるのは、Sさんが予め録音したものを倍速で拡声して流したのです。一時期大ヒットしたフォーククルセダースの『帰って来たヨッパライ』を真似したものでしょうか。
 町の一角の現場でそれを聞きながら、スタッフの一人ながらさすがに違和感を持ちました。仕事上の1年先輩で皮肉屋の一匹狼的Тさんは、「おい、いくらなんでもありゃやりすぎだぞ。何言ってんのかよくわかんねえし、市民に失礼だろ」と吐き捨てたほどでした。

 とにかく恐いもの知らずの素人集団の選挙戦。おそらく今でもあれと同じ事をしたら、目新しいもの好きのマスコミが注目し大々的に取り上げ、全国的話題となるのではないでしょうか。ある意味Sさんの選挙戦は、それほど斬新だったと言えると思います。

 しかし投票が終わり、開票されてみると無残な結果でした。Sさんはブービーつまり下から2番目で、見事落選だったのです。
 大イベントがそういう結果を迎えてしまうと、それまでの結束がウソのようにバラバラになってしまうものです。「4年後の再挑戦に向けて今から新たに出直すべきだ」という意見もありましたが、大勢には至らず、次々にSさんのもとから去っていきました。私もいつしかSさんとは疎遠になっていきました。

 ここに至る経緯はこれ以外にもさまざまな出来事があり、いつか何回シリーズかで紹介したいと考えていましたが、私の半生で唯一経験した選挙戦、今回取り急ぎかいつまんで振り返ってみました。

 (大場光太郎・記)

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散り際の美学

   敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花   

 春は野山に木の芽がいっせいに芽吹き山笑い、街角や家々の庭先などの草花も色とりどりの花を豊かに咲かせる季節です。この麗しい蘇りの季節、我が国にあって特に注目すべきは何といっても桜です。

 その桜、今年は3月寒い日が続き、全国的に例年より少し遅い開花だったようです。神奈川県県央の当地では開花が4月上旬、10日前後がピークで、先週末にはあらかた散ってしまいました。
 そんな折りの本20日夕、市街地付近の遊歩道を歩いていました。すると染井吉野とは違う桜の木が何本かあり、さすがに盛りは過ぎ葉もちらほら見られるものの、まだ花もけっこう残っていました。

 近寄って見てみますと、枝々から真っ白い花びらが次々に落花しています。それに何ともいえぬ風情を感じ、私は立ち止まりその落花のさまを見ながらそこで一服することにしました。
 本夕は曇り空です。風はほんのそよ風程度、そのためか花はほぼ真下に落ちてくるのです。それもいっせいにということでもなく、一つが地面に降り切ると別の枝からまた一つはらりという具合です。

 今や桜の代名詞のような染井吉野なら、いくら風が強くなくてもこうはいきません。花びらの一片一片ですから、ひらひら流されながら定めなく落ちていくものです。ところがこの桜は花全体、四枚ほどの花弁がそのまま真下にすとんと落花しています。
 そしてさらに驚くことに、皆々きちんきちんと花弁を上にして地面に着地するのです。まるで意思あるもののように、散り際を心得ているような見事な落花です。

 その様を感心して見ているうちに、冒頭の和歌を思い出しました。桜花は、古来日本民族の心の奥深くに刻み込まれてきました。それは爛漫と咲き誇っている桜とともに、このような散り際の風情に得も言われぬ共感を覚えたものなのでしょう。国学者の本居宣長のこの歌も、この花の持つ「散り際の美学」を前提として鑑賞すべきです。

   風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残りをいかにとやせん

 「殿中でござるぞ」で有名な、浅野内匠頭長距の辞世の歌とされるものです。
 時は元禄14年(1701年)3月14日、絢爛と花開いた江戸元禄の世を震撼させた、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの序曲となる江戸城中での刃傷事件が起りました。朝廷の勅使饗応役を仰せつかった浅野内匠頭が同日午前、上役の吉良上野介義央の仕打ちに我慢ならず、松の廊下で吉良に斬りつけるという狼藉を働いたのです。

 同日午後一番で浅野内匠頭は、陸奥一関藩主・田村建顕の江戸藩邸預かりの身となります。預かった田村家は、うすうす事情を察し、いくらご法度行為とはいえ喧嘩両成敗、そんな重い処断は下るまい。浅野内匠頭殿、まあごゆるりと長逗留遊ばされよ、というような見立てだったようです。
 ところが、刃傷事件の報告を受けた時の「お犬様将軍」徳川綱吉が意外にも強硬だったのです。綱吉は尊王の心篤く、勅使をもてなすという朝廷がらみの儀式を台無しにされたことに怒り心頭、「内匠頭は即日切腹、浅野家五万石は取り潰しとせよ」という沙汰が下ったのです。

 内匠頭切腹の場は田村家の庭、夕方5時頃だったとされます。旧3月14日は新暦で4月21日、今より開花が遅かった当時、ちょうど庭先の桜花も散り際を迎えている頃だったのかもしれません。時に内匠頭35歳。
 ただ内匠頭辞世と言われ、ご存知『忠臣蔵』の名場面で詠まれるこの歌、今日ではどうも当人の作ではないとされています。内匠頭の直筆記録が残されていないのです。
 あるのは切腹の場に副検使として立ち合った多聞伝八郎の『多聞筆記』にのみ。そこから多聞が内匠頭の心中を慮(おもんばか)って後に詠んだものが、後々内匠頭自作として伝わったのではないかと言われています。

 話変わって、ずい分昔のことながらー。娯楽に乏しかった昭和30年代前半、『少年画報』『冒険王』『少年』と言った少年漫画月刊誌が全盛でした。小学校3年生くらいだった私は、その頃は漫画大好き少年。当時お世話になっていた母子寮で、毎月定期的に各戸に回ってくるそれらの雑誌が待ちどおしくてたまりませんでした。
 そんなある時『少年画報』か何かのグラビア見開きで、この内匠頭切腹の場面があったのです。それは美麗な絵でした。中央に端座した白装束の美男の内匠頭が、今しも短刀を己の腹に突き刺さんとする場面です。画面の上からは、桜がはらはらと散りこぼれています。

 それを見て私は、ぞくぞくするような妖しいときめきを感じたのです。というより、見てはならない春画をのぞき見ているような後ろめたい興奮すら覚えました。
 今も昔も「その気(ホモっ気)」はないばずですが、いや人間とは得体の知れぬもの。無意識的な心の奥底には、そういう情動が蠢いているのかもしれません。
 私のとんだ「ヰタ・セクスアリス」の一端を披露しての、この一文のお終いです。

 【補記】
 くだんの桜の落花を見やりならが、実はまったく別の事も去来していました。「散り際の甚だよろしくない」御仁のことです。そこでこの一文は当初、桜の散り際を導入として、それとは正反対の“ぶざまな御仁”のことを述べようと考えていました。
 しかしいいでしょう、これは。折角のこの一文が穢れますから。

 (大場光太郎・記)

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童謡『ないしょ話』秘話

 -童謡『ないしょ話』を作詞したのは、宮内町出身の「結城よしを氏」だった !-

 先月再掲載した『成人式の思い出(2)』に、妙理様からコメントをいただきました。妙理様も、私の郷里である宮内町のご出身だというのです。嬉しいことに、先の吉田貞雄様に続いて、二人目の郷里町出身の方からのコメントとなります。
 宮内町内の六角町という所で、そこがお母さんのご実家だそうです。同地区は宮内町でも南端にあたり、もう少し行くと「赤湯温泉」として有名な赤湯町となります。ただし両町は昭和40年代前半合併し、共に現在では南陽市となっています。

 その後妙理様からメールを頂戴しました。それによりますと、妙理様は私より3学年上の女性のようです。お父さんとは戦争で離れ離れだったため、お母さんは戦時中2人のお姉さんを連れて、宮内の実家に疎開のために戻ってこられたようです。
 お父さんは妙理様幼少の頃亡くなられたようです。今でも97歳でご存命というご母堂の、その前後のご苦労のほどが偲ばれます。

 メールの中にさらにびっくりの内容がありました。皆様もご存知かと思いますが、昔の童謡に『ないしょ話』というのがあります。
   ♪ ないしょ ないしょ 
      ないしょの話は あのねのね
で始まる歌です。
 特にご年配の方にとっては、ご幼少のみぎりの懐かしい歌なのではないでしょうか。この歌を作詞したのが、妙理様の叔父さんにあたる人だというのです。『えっ。ホントに?』。ということは、その叔父さんという人も宮内町出身?

 『ないしょ話』を作詞したという、妙理様の叔父さん(お母さんの弟)についてメールには、
    …戦争で体を壊し亡くなりましたが叔父になります。
         今はもう、昔の人ですね。
    駅前に歌詞が書いてあるのを見ると、母がよしをが・・・と嘆いて
         いた事を思い出します。
とありました。

 お母さんが「よしをが…」と嘆かれたという「よしを」とは、戦時中の作詞家・結城よしを(ゆうき・よしお)氏のことです。簡単に略歴をご紹介します(敬称略)。
 結城よしを(本名:結城芳夫)は、大正9年3月30日山形県東置賜郡宮内町(現南陽市宮内)に、歌人・結城建三氏(歌誌『えにしだ』主宰)の長男として生まれました。昭和9年高等小学校卒業後、書店の住み込み店員をしながら童謡を作りはじめました。

 日中戦争が起こった昭和12年頃から、「時雨夜詩夫(しぐれ・よしお)」の筆名で、「詩と歌謡」「歌謡劇場」「山形新聞」「日刊山形」などに童謡・童話・随想・批評を投稿し、同13年9月に童謡誌『おてだま』を創刊しました。代表作『ないしょ話』は同14年、満19歳の時の作品です。
 昭和16年太平洋戦争が始まるとともに召集され、船舶砲兵として北洋、南洋を転戦しました。この間も寸暇を惜しんで手記を書き、童謡を作り続けていたといいます。



 しかし軍務中にパラチフスに感染し、昭和19年9月13日九州の小倉陸軍病院で亡くなりました。24歳という若さでした。
 遺言は、「ぼくの童謡を本にしてください」でした。この遺言により、3年後の同22年に童謡集『野風呂』が、同43年1月には遺稿をまとめた『月と兵隊と童謡 若き詩人の遺稿』(三省堂)が出版されました。
 結城よしをは、こんな言葉を残しています。「神様が、わたしにいいことを教えてくれた。-それは童謡」。 (ここまで、『童謡ベスト10』サイトを参考、引用)

 さぞや無念だったことでしょう。「童謡」に己の天職を見出し、一途に作詞し続け、流星のように駆け抜けた生涯でした。そんな短い生涯の中で、結城よしを氏は50以上もの童謡を残しています。「神に愛された」がゆえでしょうか、実に驚くべき早熟の才能であり迸る創作力です。
 もし病を得ることなく、戦後も童謡を作り続けていたとしたら。きっと名童謡が数多く生まれていたことでしょう。ここにも、戦争の持つ冷酷さを感ぜずにはおられません。

 とここまでさも知った風に、作詞家・結城よしを氏の事跡を紹介してきましたが。またまた大変お恥ずかしい次第ながら、妙理様からのメールでのお知らせがあるまで、結城よしを氏のことをまったく知らなかったのです。
 おそらく、当時の宮内町の子供たちの多くがそうだったのではないでしょうか。地元の小・中学校を通して、先生たちが結城よしを氏のことを教えてくれなかったと思います。

 なぜ教えてくれなかったのか。私の勝手な推測ながらー。
 思えば戦後教育は、太平洋戦争や戦前までの価値観を180度引っくり返すことからスタートしました。『ないしょ話』は小学校低学年頃に教わった童謡です。先生は小さな子供たちに、戦争が原因で亡くなった、結城よしを氏について詳しく語るのを意図的に避けたのかもしれません。

 しかし全国的に「町おこし」が盛んな今日では違います。南陽市としても、『ないしょ話』を同市ホームページで取り上げるなど積極的にピーアールに努めているようです。また近年既述のとおり、宮内町駅前に立派な歌碑が造られました。
 きっと我が宮内小学校でも、先生方が『ないしょ話』の謂れ(いわれ)などをきちんと伝えてくれていることでしょう。

 (大場光太郎・記)

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どこかで春が

         作詞:百田宗治、作曲:草川信

   どこかで春が 
   生まれてる
   どこかで水が 
   流れ出す

   どこかで雲雀(ひばり)が
   鳴いている
   どこかで芽の出る
   音がする

   山の三月
   東風(こち)吹いて
   どこかで春が
   生まれてる

…… * …… * …… * ……
 私のような世代には、何とも懐かしい「春告げ歌」です。昭和も30年代半ば頃まで、昔からの童謡や唱歌を学校でも教え、子供たちも真素直に歌っていました。
 百田宗治の歌詞は子供にでも分かる平易でありながら、詞を支える草川信のメロディとあいまって、「どこかで春が」の頃の雰囲気をあますところなく伝えています。

 今冬は例年にない寒い冬の日々が続きました。クリスマス寒波以来今年の1月までは、東日本も西日本も、連日気温が例年を下回る日々だったようです。
 厳しい寒さの中でも、近所の水路道の入り口の小ぶりな梅の木は、1月半ば過ぎ頃から白い花をチラホラ咲かせはじめていました。また同じ頃から、近くの空き地やとある家の庭には、これも小ぶりな乳白色の「春告げ花」水仙が咲き出しました。
 2月は一度半ば頃低い“谷”があったものの、うって変わって例年を上回る暖かい日が続き、水路道途中の地面からは「春告げ草」フキノトウが可愛らしい小さな芽を出していました。

 こういう何気ないことの一つ一つが、「どこかで春が 生まれてる」徴し(しるし)になるものです。どんな厳冬であろうとも、自然の植物はきちんと「春の時」を感知し、花を咲かせるべき時には花を咲かせ、芽を出すべき時には芽を出させるのです。
 何とも霊妙な自然の摂理よ、と思わずにはおられません。

 私にとって『どこかで春が』を聴いたり口ずさんだりすると、真っ先に郷里の春先の情景を思い浮かべます。この歌を歌っていたのは子供時代、そして当時は郷里に住んでいたからです。
 当時の思い出を、08年4月『二木紘三のうた物語』のこの歌にコメントしたことがあります。以下にその主要部分を転載します。(なお適宜段替え、一部修正をしています。)
                       *
   少年が春の大陸発見す
 
 我が山形(私が子供時代を過ごした山形)で『どこかで春が』といえば、根雪がすっかり解けきった、4月初旬頃の感覚だったでしょうか。それでも、この歌のように3月、雪が方々で解け出して、日を浴びてきらきら輝きながら土の上を流れるさまを見て、『あヽ春が来た』と思ったことがあったような…。

 小学4年の前後のこの歌の感じの頃。ある先輩が、望遠鏡なるものを初めて覗かせてくれました。もちろん本式のものではなく、子供用のものだったとは思いますが。そんな望遠鏡でも、何百メートルか先の、普段見慣れた景色の一点に照準を当てて覗きますと、まったく見たこともない別世界に出会ったようなワクワク感を感じますから、子供とは何とも幸せなものです。

 雪は既に解けていて、春先の淡淡(あわあわ)した草が、やけに鮮明に目に飛び込んできたことを覚えています。
 それは、アメリカ大陸を遂に発見し、遠くの船上から望遠鏡でかの大陸を覗き込んだコロンブスの興奮にも匹敵するものではなかったろうか?そう思って作ったのが冒頭の句です。(かなりオーバーですね。)  (以上転載終わり)
 - ひなまつり(桃の節句)の日に

 (大場光太郎・記)

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【読者とのやりとり】

 吉田貞雄様が、『雪に埋もれし我が故郷』シリーズをお読みになりコメントをお寄せになりました。驚いたことに吉田様は、我が郷里の町「宮内町」ご出身で、しかも宮内中学校の10年ほど先輩にも当たられる方なのです。
 吉田様は私がお世話になりました宮内町母子寮について、私が知らなかった新事実も述べておられます。皆様にとっては“超ローカルな話題”ですが、今回吉田様とのやりとりを掲載させていただくことに致しました。
 ご了承、ご一読いただければ幸いです。 
                       *

大場様の雪に埋もれしわが故郷を拝見いたしました。感激しました。私は宮内中第8回卒71歳茨城県ひたちなか市に住んでおります。
宮内母子寮について①戦後S22年頃まではあの日本信号の工場でした。ところが火災となってしまったのです。母子寮入口に石の門がありましたが昭和20年代までは日本信号の表札が長いことついていました。(内原におばちゃがいたので歩きながらみてました)②別所町に日本信号の社宅があって相原さんというかたで今思えば工場長クラスだったのかなと思います。私は社宅の敷地にもう一軒あった家を借りてすんでました。③昭和23年日本信号と相原さん5人家族は埼玉与野町へ引きあげられました。

投稿: 吉田貞雄 | 2011年2月22日 (火) 22時52分

吉田貞雄様
 貴重なコメント、大変ありがとうございます。
 そうでしたか。宮内町母子寮の前身は、昭和22年までは「日本信号工場」だったのですか。火災があったということですから、母子寮はその後に建てられたわけですね。別の記事にも書いていますが、私たち家族が入寮した昭和31年晩秋には、もうかなり古めかしくなっていました。
 町内から内原へ向かう街道沿いの、石門もよく覚えています。昭和37年春、中学校入学記念に門を背景に写真を撮ってもらいました。私はてっきり元から母子寮の門だとばかり思っていましたが、そうではなかったのですね。

 「別所町」という町名も、久しぶりで聞きました。母子寮とは反対の方向ですが、宮内小学校の時分、学校に近いので、帰り道よく道草をして別所町にも行きました。
 「故郷忘れがたし」で、コメントをいただき、当時のことを改めて懐かしく思い出しました。

 吉田様は宮内中学の先輩にもあたられるわけですが、宮内町出身の人からコメントをいただけるとは、夢にも思っていませんでした。
 ひたちなか市にお住まいとのこと。私は神奈川県厚木市に長いこと居住しています。当初は住みにくいと感じましたが、「住めば都」で、厚木市に関することも多く記事にしています。

 宮内町や母子寮につきましては、当ブログ『思い出』カテゴリーなどでも度々触れています。よろしかったら、そちらの各記事もお読みください。また当ブログ、最近はすっかり「政治ブログ」のようになっていますが、また折りに触れてご訪問たまわり、たまにコメントもいただけば幸いです。
 今後ともよろしくお願い申し上げます。

投稿: 時遊人 | 2011年2月23日 (水) 00時32分

 【補注】大変お恥ずかしい話ですが、私は今まで「日本信号」という会社をまったく知りませんでした。寮長先生、職員の人また寮の大人たち、学校の先生からも聞いた記憶がないのです。もっとも聞いていて、子供だった私が聞き漏らしただけなのかもしれませんが…。

 多くの人はご存知なのかもしれませんが、正式名称は「日本信号(にっぽんしんごう)株式会社」(本社:東京都千代田区丸の内)。同社の歴史は古く、明治政府の鉄道敷設事業に伴う信号機製造を目的として1898年(明治31年)設立の三村工場が前身、1928年(昭和3年)統合により日本信号が設立されたようです。
 また吉田様が触れておられる埼玉県与野工場は1937年(昭和12年)に開設とのこと、宮内町の工場も同時期くらいだったのでしょうか?

 戦後は1949年(昭和24年)東京証券取引所に上場(現在では東証・大証とも一部上場)。同社ホームページによりますと、「コア技術である信号制御の分野から、自動改札機や駐車場機器を始めとした制御機器まで」と最上部にうたってあります。鉄道、道路交通を広くカバーする最先端機器メーカーであるわけです。

 いやあ、人間幾つになっても知らないことが膨大にあるものです。吉田様のコメントにより、また一つ学ばせていただきました。重ねて感謝申し上げます。  (大場光太郎)                      

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昭和の大女優逝く

 -昭和を示す大きな灯りがまた一つ消えてしまって…。何とも寂しい限りです-

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      若き日の高峰秀子さん

 大晦日に思わぬ訃報がもたらされました。「デコちゃん」の愛称で親しまれた「昭和の大女優」高峰秀子さんが、肺がんにより東京都渋谷区の病院で12月28日亡くなっていたというのです。関係者によれば高峰秀子さんは、10月下旬に体調を崩して同病院に入院、一進一退を続けていたものの28日亡くなったとのことです。享年86歳でした。

 葬儀・告別式は29日に近親者のみで済ませたそうです。喪主は夫で映画監督の松山善三氏。二人は1955年に木下恵介監督の勧めにより結婚しました。婚約後会見を開いて発表し、これが芸能人による結婚会見のさきがけとなりました。
 以来55年。松山善三監督(85)は「現在私自身、心身ともに皆様に直接お目にかかることのできる状況ではございません。お察しの上、失礼の段どうぞ寛恕くださいますよう」と、最愛の妻に先立たれた沈痛な胸のうちを語っています。

 高峰秀子(以下敬称略)は1979年に女優引退宣言をして、以後はエッセイストとして活躍、『わたしの渡世日記』(98年)では日本エッセイストクラブ賞も受賞しています。
 ただ引退宣言後は、スクリーンやテレビで見かけることがなくなりました。今の若い人たちは「高峰秀子って誰?」ということかもしれません。しかし昭和30年代子供だった私らの世代には、何とも懐かしい女優さんです。田中絹代や原節子などはそれ以前の銀幕女優、かといって吉永小百合などは、テレビの普及に押されて映画産業が斜陽化しつつあった昭和30年後半以降登場した女優さんです。
 
 日本映画が最も輝いていた時代を代表する女優さんであるだけに、高峰秀子には余計ノスタルジックを感じ、その訃報に接しては『あヽまた一人昭和を感じさせる大きな人がいなくなったな』という感を深くさせられるのです。

 「デコちゃん」の愛称どおり屈託のない明るいキャラクターから、私は今まで関東以西(つまり南の方)出身とばかり思っていました。しかし出身は意外にも北海道函館市だそうです。
 1924年生まれ。5歳の時松竹鎌田に入社し、その年映画『母』で子役デビュー。大人顔負けの演技ぶりに、34年には歌手の故東海林太郎から「養女になってほしい」という申し込みがあったほどだそうです。38年の『綴方教室』の少女役を好演し売れっ子となり、「子役は大成しない」というそれまでのジンクスを覆しました。

 戦後は特に演技派として、日本映画黄金期の作品に数多く出演しました。当時は「所属する会社以外の作品には出演できない」という五社協定があったそうですが、高峰秀子だけは別格で50年からフリーの立場で活躍しました。
 代表的な出演作品は、木下恵介監督の『二十四の瞳』(54年)、成田巳喜男監督の『浮雲』(57年)、木下監督の『慶びも悲しみも幾年月』(57年)など。日本最初のカラー作品(当時の呼称は確か「総天然色映画」)となった木下作品『カルメン故郷に帰る』(51年)にも主演しました。

 そのうち『二十四の瞳』『カルメン故郷に帰る』『喜びも悲しみも幾年月』などは、ずっと後年テレビやビデオで観ました。
 当時印象深かった高峰主演映画を一つ取り上げます。『名もなく貧しく美しく』です。この映画は61年公開で、夫の松山善三氏初の監督作品のようです。テレビが普及していなかった当時映画は数少ない娯楽でした。今では信じられないことでしょうが、当時の小中学校では月一回くらいの割合で、午後から何クラスかまとまって町の映画館で「映画鑑賞」があったのです。これは当時レッキとした授業の一環だったようです。
 もちろん私たちは、教室でシャチコバッて授業を受けなくて済むわけですから、当時これが何よりの楽しみでした。そうして中村錦之助(後の萬屋錦之介)などの時代劇、今村昌平監督作品で若き日の長門裕之主演の『にあんちゃん』、小津安二郎監督の『おはよう』などを観たものでした。

 61年といえば小学校6年生、『名もなく貧しく美しく』もそうして観たのでした。何しろ子供時分ですから、詳細は忘れてしまっています。戦後間もない頃、高峰秀子演じたヒロインは聾唖者です。彼女は同じ境遇の男性と出会い、互いに惹かれ合い二人は結婚します。
 「名もなく貧しく美し」い二人の幸せな日々が続きます。しかしある日急用だったかで外に飛び出した彼女は、近づいてきた車のクラクションが聞こえず、轢かれて死んでしまうのです。そのラストシーンがあまりにも衝撃的で、今でも断片的ながらそのシーンを思い浮かべられるくらいです。

 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 (大場光太郎・記)

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昭和30年代前半は「夜霧の時代」?

 -あの時代“歌声喫茶”で『ともしび』が歌われ、歌謡曲では「夜霧」が用いられた-

 レトロな昭和30年代前半。近年の映画『ALWAYS 三丁目の夕日』などのヒットにより、その時代はノスタルジック戦後として見直されています。
 私と同世代(いわゆる団塊の世代)かそれより年配の人たちにとって、あの時代は各人さまざまな感慨を呼び起こされることでしょう。

 私にとってその時代は小学校に入るか入らないかから、小学校5年生くらいの期間に相当します。まだ「自我」に目覚める前、正真正銘の少年時代の頃です。いわば私の半生の中でその時代は、神話的時代から上古の時代にも相当する、「宝物のような時代」だったと言えると思います。
 何の屈託もなく遊び、好き勝手な夢が想い描けた子供時代なのですから、余計思い入れが深いわけなのです。

 今でもその頃のことは、思い出としてひょいと蘇ってきたりします。ひと時そんな回顧にふけりながら、私は最近『あの時代は「夜霧の時代」だったんじゃないか?』とふと思ったのです。どうしてなのでしょう。

 それは当時流行(はや)っていた歌謡曲に、やたらと「夜霧」という言葉が入っている歌が多いように思われたからです。たとえばその代表例は『夜霧の第二国道』。この歌は、ラジオで流れていたか母が歌っていたかして、小学校2、3年の私も『いい歌だなあ』と思いながら聴いて覚えた歌でした。

 タイトルからして「夜霧」のついているこの歌は、昭和31年発表だそうです。『有楽町で逢いましょう』で大ブレークする前年、フランク永井が歌った名曲です。
  つらい恋なら ネオンの海へ
  捨てて来たのに 忘れてきたに
  バック・ミラーに あの娘(こ)の顔が
  浮かぶ夜霧の ああ 第二国道     (作詞:宮川哲夫、作曲:吉田正 1番)

 歌詞はいちいち紹介しませんが、この歌以外にも「夜霧の歌」のあること、あること。
 『哀愁の街に霧が降る』(31年)『夜霧のデッキ』(33年)『三味線マドロス』(33年)『夜霧に消えたチャコ』(34年)『他国の酒場』(34年)『哀愁波止場』(35年)『あれが岬の灯だ』(35年)などなど。
 当時の時代状況からして、東京など大都市に出てきた人々を慰労するような「望郷モノ」、「波止場」「マドロス」など“船乗りモノ”も流行りましたが、こうしてみると「夜霧モノ」はそれらに負けず劣らず多かったようです。

 そういえば昨年記事にしました『身捨つるほどの祖国はありや』の、寺山修司の
  マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや
という短歌は、昭和33年刊歌集『空には本』収録なのでした。
 この短歌で時刻はいつかというのは分かりません。しかし冒頭の「マッチ擦る」の視覚効果を高めるためには、夜の海でなければならないと思います。
 
 この時代流行歌や短歌などに、どうしてこんなに「夜霧」が多く登場するのでしょう?これはきっと、何かのきっかけがあってのことに違いありません。
 当時は子供だった私がうかつに断定はできないものの、それは昭和20年代後半から東京の街などに出来だした「歌声喫茶」から全国に広まっていった、ある歌の影響なのではないだろうかと思われるのです。
 あの頃はまだ「60年安保」前で、米ソ冷戦が激化しつつあったものの、この国ではまだ社会主義、共産主義思想に共鳴する若者が多くいました。それらの若者を、同思想に引き付ける装置の役割を果たしたのが歌声喫茶の一側面であるようです。

 ですから歌声喫茶で主に歌われたのは、ロシア民謡でした。その中でも『ともしび』と『カチューシャ』は双璧であったようです。同名の歌声喫茶「灯(ともしび)」が昭和31年新宿にオープンしたように、特に『ともしび』は若者の間で好んで歌われました。

  夜霧のかなたへ 別れを告げ
  雄々しきますらお いでてゆく
  窓辺にまたたく ともしびに
  つきせぬ乙女の 愛のかげ    (『ともしび』1番)

 祖国のために前線に赴こうとする若き兵士。それをそっと夜の窓辺で見送る乙女。そこに置かれたともしび。この別れが二人にとって、今生の別れになるのかもしれない。か細くまたたくともしびは、そんな際どい二人の別れの象徴のようです。
 おそらく「愛」がこれほど高まるシチュエーションは他にないことでしょう。見送る乙女にとって、夜霧の彼方に遠ざかっていく恋人の後姿は、逆に身の丈がどんどん大きくなって感じられたのではないでしょうか。

 共産主義国ソ連(ロシア)の民謡というだけではなく、まだ戦後10余年しか経過していない当時の我が国では、この歌に描かれている情景に共鳴し得るメンタリティが十分残っていたものと思われます。
 『ともしび』はダークダックスが歌ったことにより、その後全国に広まりロシア民謡ブームが巻き起こりました。山形の片田舎町の小学校2、3年生だった私も、近所のだいぶ年上の人たちが歌って教えてくれたため、『カチューシャ』などと共にいつしか覚え口ずさんだものでした。

 「身捨つるほどの祖国はありや」という寺山の強烈な問いも、タネを明かせば、案外この『ともしび』全体そして2番の「思い出の姿 今も胸に/いとしの乙女よ 祖国の灯よ」に触発されて生まれたのかもしれないのです。
 このように、当時の詩人や作詞家といったクリエィティヴな人たちが真っ先にこの歌の影響を受けて、当時「夜霧」という言葉が多用された可能性が十分あると思います。

 平成も22年を経てますます「昭和は遠くなりにけり」の今日、昭和30年代前半の時代は「夜霧のかなたに」霞んでおぼろにしか見えないほど遠い昔になってしまいました。
 今や文学作品でもJ-POPなどでも、自然を描くことが少なくなってきています。翻って、夜霧などの自然現象を描くことによって、それがそのまま叙情的な名曲として定着していったあの時代。
 もちろんあの頃とて、社会全体としてさまざまな問題を抱えていたことでしょう。しかしその意味では、『貧しいけど、ホントいい時代だったよなあ』と、しみじみ懐かしく思い返されるのです。

 (大場光太郎・記)

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