松本清張『ゼロの焦点』

 映画『ゼロの焦点』のあまりの強い印象に、松本清張の原作が読みたくなりました。私にとって逆はあっても、映画を観てから原作をというのは珍しいパターンです。
 映画を観終わって2、3日後から、新潮文庫版『ゼロの焦点』を読み始めました。470ページ以上はあるものの、活字が大きく私のような年配の者には助かります。松本清張の筆力のなせるわざなのか、ぐいぐい物語りに引き込まれ、一気に読み終えました。

 映画を観た後なので、どうしても映画と比べながら読み進めることになりました。『あゝこの箇所は同じだったな。ここは映画ではこう変えたんだな』などと。原作は物語のプロローグから綿密に出来事や状況を積み上げていき、丹念な細部のプロットのすべてが響きあって、驚くべき感動的なラストへと収斂(しゅうれん)されていくような構成です。
 そこには齟齬や破綻がほとんど見当たらず、全編の隅々に及ぶピーンと張りつめたような精緻な構想力を感じます。清張自身「代表作の一つ」と言っていただけあって、清張という作家の創作的エネルギーがピークだったからこそ可能となった作品であるように思われます。

 映画は、原作とは事件の状況そのものすら大きく変えているところがあります。それに映画『ゼロの焦点』記事で述べましたとおり、映画の方は何やら“現代版シェークスピア劇”を観ているような荘重かつ大きなスケールの構成となっており、息詰まるサスペンスで終末の大悲劇、大破局へと向かっていきました。改めて原作を読んでみますと、『こんなに変えちゃっていいの?』と、泉下の清張が苦笑しているのではないかと思われるほど変えているところもあります。
 私のような素人にはよく分かりませんが、映画の場合それが観客を「魅せるための」演出であり、脚本であるということなのでしょうか?

 原作は推理小説でありながら珍しいことに、事件の謎を見事に解明するエルキュール・ポアロや明智小五郎といった名探偵役が登場しません。しかしそれでも最後には、犯人や鵜原憲一の失踪の理由、事件が起こった背景などがちっきり解明されていきます。
 『ゼロの焦点』では、書き出しから登場する鵜原禎子(映画では広末涼子)に名探偵としての役割を与えています。そのため鵜原禎子には、英語が堪能などストーリー上必要なインテリジェスを前もって賦与している上、なおかつ彼女を金沢や能登の断崖絶壁など、北陸各地の事件との関わりが深い場所に向かわせています。
 26歳の新妻の視点から描かれた事件解明のプロセスといった趣向で、これは当時も今も斬新な手法なのではないだろうかと思われます。

 原作は推理小説としての面白さに加えて、当時の世相や一つ一つの場面描写が的確で細密です。それがただ単に表層をなぞるだけではなく、時に深部に食い込んで核心を抉り取るような描き方です。現代推理作家にここまで迫れる者は少ないに違いなく、さすがは「社会派作家」という称号を与えられた清張だけのことはあります。
 またヒロイン鵜原禎子の心の動きも実によく描けていると感心します。苦労人清張の、女性心理の襞にまで及ぶ人間観察の鋭さには脱帽です。

 また映画『ゼロの焦点』記事で触れましたが、「ゼロの焦点」の「ゼロ」とは、戦争、敗戦のことを指しているもののようです。清張自身この作品の中で、タイトル解題をしているわけではありませんから、読み方によっては別の捉え方も出来るかとは思いますが…。私にはプロローグの「ある夫」から最終章の「ゼロの焦点」まで、ひたすら戦争という「ゼロへの告発」を目指して疾駆しているような印象を持ちました。

 「敗戦」という我が国近代史上かつてない深刻な事態が、田沼久子(木村多江)と宝田佐知子(中谷美紀)という2人の女のその後の人生を大きく狂わせてしまった。彼女たちは極端な例かも知れないとしても、昭和30年代前半はまだ、戦争の傷跡を引きずっていた人たちが多くいたのに違いない。そのことを見据えて、清張は犯人を裁いたり責めたりしていません。むしろ書きながら、犯人に憐れみや共感すら感じていたのではないだろうか?そうも思えてきます。
 
 この小説は、定型的な評価ですと「社会派推理小説」と言われています。そしてこの分野は松本清張によって確立され、その後一ジャンルとなっていったわけです。しかし私はこの小説は推理小説という枠を超えて、日本近代文学史に刻まれるべき記念碑的作品の一つなのではないだろうかと考えます。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)

『ヴィヨンの妻』など

 今年は作家の太宰治生誕100年だそうです。太宰は1909年(明治42年)6月19日生まれですから、なるほどちょうどそうなるわけです。
 ちなみに太宰治とまったく同じなのが、松本清張(同年12月21日生まれ)だそうです。しかし2人は個性も作風もまるで違う上、太宰の方は戦前作家、そして清張の方は戦後作家というイメージがあります。それもそのはずで、太宰が愛人山崎富栄とともに玉川に入水心中したのが昭和23年6月13日38歳のこと。その時清張はまだ作家活動はしておらず、ようやく処女作『西郷札』を書き始めたのがその翌年、清張40歳過ぎのことだったからです。

 ともかく節目の今年は、太宰治に関するイベントがけっこう多いようです。その一環として太宰の代表的な作品が、今年相次いで映画化されています。まず手始めは、6月頃に封切られた『斜陽』です。原作『斜陽』は、青森県五所川原市の生家が「斜陽館」(太宰治記念館)として残されているほどの、彼の代表作の一つです。
 高校2、3年の頃、学校の図書館で借りて一気に読み通し1日で読み終わりました。何事にも過敏感激症(裏を返せば過敏落込み症)だったあの頃の私は、心の底まで嬉しくなるような感動を覚えました。しかし漠然とながら作家を夢見ていた私は、同時期読んだ夏目漱石の『こころ』、島崎藤村の『破戒』、志賀直哉の『城の崎にて』、谷崎潤一郎の『春琴抄』などとともに、その完成度の高い作品に圧倒され打ちのめされもしたのでした。

 その時以来、『斜陽』は一度も読んでいません。確か戦後まもなくの頃の、没落華族令嬢がヒロインだったかな?くらいで、詳細なストーリーなどまるで思い出せません。『斜陽』だけではありませんが、あの頃あれほど感動した諸作品を、60歳過ぎた今読み返してみたらどんなだろう?と思うことがあります。案外面白い試みであるかもしれません。

 続いて今映画『ヴィヨンの妻』が公開されています。監督は根岸吉太郎で、主演は松たか子、浅野忠信です。この映画について、先日深夜の民放番組で予告編をやっていました。面白そうなので近いうち観てみようと思います。それに先立って、短編で読みやすいため原作をざっと1回読んでみました。
 そして同時に『パンドラの匣(はこ)』という作品も映画化されているようです。これは監督が冨永昌敬、主演は窪塚洋介。窪塚といえば、数年前横須賀の自宅マンション9階から謎の空中ダイブをし、一時は重体となりましたが、九死に一生を得てその後タレント復帰を果たしました。同事故をめぐっては、「あれは薬物以外考えらんねえぞ」という噂もありますが、さてどうなのでしょう。この映画は観るかどうか決めていません。その時の気分次第ということで。

 さらに来春には『人間失格』が封切られるようです。
 『人間失格』については些細な思い出があります。今から20年以上前のこと、私が本厚木駅目指して歩道を歩いていた人影まばらなある午後のこと。すると駅の方から一人の女性がやって来るのが見えました。見たところ20代後半くらい、やや大柄で太めな感じです。私がその女性に目がいったのは、何と本を読みながら歩いているからです。『今時、女二宮金次郎か?』。ついぞ出くわしたことのない光景に、すれ違いざま何の本なのか確かめたくなりました。読んでいるのは文庫本、そしてちらっとタイトルも分かりました。『人間失格』。
 彼女は知的に見えないこともないけれど、器量はイマイチ、はっきり言って不美人。おそらく電車の中でも読んでいて、止まらなくなったのでしょう。周りのことなどまるで眼中になく、本に釘付けのまま遠ざかっていきました。私は一度後ろを振り返って、『ありゃ、かぶれてるわ』。

 ことほどさように、太宰治の作品は読者をとりこにする魔力のようなものがあるようです。彼の独特な文体や、言葉の魔術師的技巧、思わず蕩(たら)されそうな機微をうがった描写などによるものなのでしょうか?それが証拠にこの『人間失格』は、新潮文庫中漱石の『こころ』と何十年も売上げ累計トップを争っているのだそうです。
 私はその何年も後40代前後の頃、はじめて『人間失格』を読みました。もちろん感受性は鈍磨し、人間世界の垢がずいぶんくっついた身。それなりの面白さは感じたものの、『斜陽』の時のような沸き立つような感動など望むべくもありませんでした。しかしそうは言っても、太宰最晩年の遺作とも自叙伝的とも目されている作品。この映画化は今から楽しみで、その前今度はもう少し丹念に読んでみようと思います。

 最後に『ヴィヨンの妻』を読んだ感想らしきものをー。
 『斜陽』と同時期の昭和22年の作品です。さすが太宰は小説の名手、『うまいなあ』の一言です。大谷というはちゃめちゃな売れない詩人の妻の視点から描かれた短編です。
 最近の文体の流れは、シャープで小気味よい短いセンテンスが主流であるのに、この短編は会話文でも地の文でも、話があっちに飛んでこっちに飛んで、いつ終わるかしれないほどやたら長い文章で、しかしこれも太宰は戦略的にそんな文体にしたのに違いなく、なるほど最後でぴたっと筋道がついて、大谷や大谷に戦前から飲み代を踏み倒されっぱなしで、しまいにはタンスの中の年越しの虎の子の五千円まで盗まれる飲み屋の夫婦のことも、語り手の妻のことも、彼らを取り巻く状況も戦後まもなくの逼迫した世相なども、何もかも判然としてくる仕掛け、この辺が太宰の真骨頂に違いありませんです。

 しかし読みながらタイトルにある「ヴィヨン」とは一体何者、それでタイトルの『ヴィヨンの妻』とは何を暗示しているのかしら、と疑問を感じながら読んでおりましたら、ありましたのです文の途中に、それは「フランソワーズ・ヴィヨン」という詩人として出ていましたので、これはまた太宰創作の架空の人物か、はたまた19世紀末フランスのボードレールのようには売れなかった退嬰的な詩人の名前を拝借したものかと推量し、しかし気になって調べてみましたら、意外なことに実在の人物で、何と15世紀中世フランスのけっこう有名な詩人、貧しい生まれながらパリ大学にも入ったはいいが、生来のアウトサイダー的、破滅型的性格から盗賊団や売春婦と付き合い、身を持ち崩しながらも後世に残るような瑞々しい詩を書き上げ、30歳過ぎた頃忽然と歴史から消え去ったという大変面白い人物で、無頼派の太宰は自分と響きあうヴィヨンを知って、その人物に託して大谷なるデカダンな人物像を作り上げたものなのでございましょう。

 と太宰の文体を少し模倣して述べてみました。作るにも読むにも骨が折れますね。ともあれ、映画『ヴィヨンの妻』は原作をどのように料理しているのか、大谷の妻を松たか子はどのように演じているのか、楽しみです。

 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)

つげ義春『ねじ式』

 時として思いがけない人や物や出来事に出くわすことがあるものです。
 先日のある午後、私は街のコーヒーシップを利用しました。途中トイレで用を済ませ洗面所に立ちながら、ふとそこの際の下に置いてある、丸くて小さなゴミ箱に目がいきました。するとその中にはスポーツ紙らしきものと共に、少し厚めの文庫本が投げ込まれているのが目に止まりました。
 『んっ?』。いくら何でも、本などは滅多に捨ててあることはないはずです。元来本好きな私は『どんな本だろう?』と、誰かが読み終わって捨てたくらいだからどうせつまんない読み物なのに違いないと思いつつ、一応そこから取り出して手に取ってみたのです。

 見ると、それは「ちくま文庫」中の一冊で、題名が『ねじ式/夜を掴む』とあります。左上には「つげ義春コレクション」ともあります。つげ義春の『ねじ式』 !?ちくま書房では、マンガも文庫化しているわけ?ともかく有名なマンガですから、題名は知っています。いつか機会があれば読んでみたいとまでは思っていたかどうか…。
 何となく興味が湧いてきて、中のページをパラパラとめくってみました。ページの所々に、何やらエロチックな画も見られるではありませんか。私が本来的に持っている劣情も刺激されて(笑)、『よしっ。一通り読んでみるとしよう』。そう決めて同本を持って自分の席にて戻ってきたのでした。

 さあそれから予定変更で。早速それを読み始めました。マンガですから「見る」というべきか、いえこれに限っては「読む」といった方がよりふさわしいようです。最初はタイトルの『ねじ式』、次に『ゲンセンカン主人』『夢の散歩』と続き、いずれも短編、全部で10数編くらいありそうです。とりあえず最初の『ねじ式』から始めて、知らず知らずのうちに「つげ義春ワールド」に引き込まれ、あっという間に5編ほどを読み終わりました。
 いくらなんでも業務予定もある身、全部を読み終えるわけにもいかず。本当は一通り読んだら、また元のゴミ箱に返すつもりが、捨てるのが惜しくなってバッグにしまいこんでその店を後にしたのでした。

 家に戻って夕方続きを読み直し、結局全編読み終わりました。どこぞの「マンガ好きの(前)総理」と違って、私がマンガに没頭するなどずいぶん久しぶりです。私が大のマンガ好き少年だったのは小学校4年生頃まで。当時の人気漫画『赤胴鈴之助』『猿飛佐助』『まぼろし探偵』『月光仮面』『鉄腕アトム』などは夢中で読みました。
 しかしその頃「読書の楽しみ」を知ってしまった私は、いつしかマンガはほとんど読まなくなっていったのです。20代、30代の現実対応に大わらわで読書どころではなかった頃も、マンガはあまり読みませんでした。
 今回図らずも「つげ作品」に接して、『やっぱりマンガもバカにしたものではないな』と認識を新たにした次第です。

 つげ義春の代表作とも言われる『ねじ式』は特にそう思います。本の後の解説によると、つげがこの作品を最初に発表したのは、昭和43年のことだそうです。当時「ガロ」という有名な漫画雑誌があり、それまで全く売れなかったつげは、この雑誌の連載でようやく少しずつ読者を獲得していったようです。
 同年6月のガロ臨時増刊号が「つげ義春特集」で、原稿締切り迫る中何も書けずに困っていたつげが、ある時見た夢をモチーフに、「えぃやっ」とばかりに軽い気持ちで描いたものだそうです。

 それにしては、何とも純度の高い「芸術作品」というべきです。漫画というよりは、コクのある文学短編を読んだような、味わい深い作品だと思います。俗に小説などでも、「2度繰り返して読みたくなる作品は良い作品だ」と言われます。私はもちろんその後捨てることはせず、この『ねじ式』はもう10回近く読み返しました。
 これをお読みの方で興味を持たれ、近くの本屋さんで早速立ち読みでもしてみようと思われた人もいることでしょう。ですからストーリーには触れないでおきます。「夢」に題材を取っただけあって、シュールな展開そして絵。全編に流れるユーモアとペーソス…。

 つげ義春は、昭和12年東京葛飾区生まれで5歳で父と死別。以後母子家庭で苦労して育ち、間が悪いことに小学時代がちょうど戦時中。新潟に疎開するも集団生活になじめず、以来成人しても極度の赤面恐怖症に悩まされ続ける。学歴は小学校卒業のみ、メッキ工として就職するも対人恐怖症のため、一人でやっていける仕事として漫画家の道へ。
 漫画家で親交があったのは赤塚不二夫だけ。手塚治虫伝説で有名なトキワ荘にも短期間住んだことがある。全く売れずに錦糸町の下宿代を2年間滞納し、以後8年間便所を改造した一間に幽閉状態になっていたことも。昭和37年には自殺未遂を図り、病院に担ぎ込まれる。
 『ねじ式』など彼の作品には、そんな苦労人のつげの人生が投影されている作品が多いように思われます。

 ところでこの作品が発表された昭和43年といえば、私が山形の高校を卒業して現居住地にやってきた年です。世間知らずの田舎少年が突然火宅の首都圏に投げ込まれたような感じで、まるで生きた心地がしない時期でした。それで当時は、こんな作品が出たことなど全く知りませんでした。

 当時は70安保の学生運動が激しさを増しつつあった頃。ちょうどフォークソングがブームになりかけた頃で、巷ではフォーク・クルセダースの『帰ってきたヨッパライ』、ピンキーとキラーズの『恋の季節』、ザ・タイガースの『花の首飾り』、黛ジュンの『天使の誘惑』、小川知子の『夕べの秘密』などという歌が流行っていました。
 社会的には、2月に暴力団員2名を殺害して静岡県寸又峡温泉の旅館に一週間立てこもり続けた金嬉老の事件、10月の川端康成の日本人初のノーベル文学賞受賞の報、年の瀬の12月に府中市で起きた3億円強奪事件などがあった年でした。
 そんな中今の時代でも通用しそうな、シュールで社会の暗部を抉り取った不条理劇のような漫画作品があったなんて !

 この作品は私が知らなかっただけで、当時の「全共闘世代」の大学生や若者たちから支持され、世間に衝撃を与え、その後の日本漫画界に多大な影響を及ぼしたのだそうです。今回初めて読んでみて、『なるほどねえ』と納得させられるものがあります。当時はこのような手法で描かれた作品は皆無だったはずです。まさに革命的な作品だったのではないでしょうか?
 後の漫画家、例えば長谷邦夫の『バカ式』、赤瀬川原平の『おざ式』、蛭子能収の『さん式』、江口寿史の『わたせのねじ式』などさまざまにパロディ化もされていますし、また映画化もされているようです。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)

老いない奇跡

 本日9月21日は「敬老の日」です。わが国の国民の祝日のうちの一日です。「国民の祝日に関する法律(祝日法)」では、「多年にわたり社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨とすると定められています。
 2002年までは毎年9月15日を敬老の日としていましたが、前年の祝日法改正(「ハッピーマンデー」制度の適用)により、2003年からは9月第3月曜日となりました。これにより今年のように、土曜日の19日を休日とすることにより、23日の秋分の日まで5連休となり(22日は振替休日)、5月の「ゴールデンウィーク」に対して新しく「シルバーウィーク」と呼ばれる年も出てきます。

 敬老の日のそもそもの始まりは、戦後間もない1947年(昭和22年)兵庫県多可郡野間谷村(現多可町八千代区)の村長らが提唱した「としよりの日」が始まりのようです。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、農閑期にあたり気候もよい9月中旬の15日を「としよりの日」と定め敬老会を開きました。これが1950年(昭和35年)からは兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がったもののようです。
 その後「としより」という表現は良くないということから、1964年(昭和39年)に「老人の日」と改称、1966年(昭和41年)正式に国民の祝日の「敬老の日」となりました。例えば5月の「母の日」はアメリカにならって導入された記念日ですが、敬老の日は日本独自の祝日であり諸外国には例がありません。  (フリー百科事典『ウィキペディア』「敬老の日」より)

 私も今年4月満60歳を迎えました。意識して気にしないようにはしていますが、「老い」という人類普遍の命題はやはり気になります。ご存知のとおりわが国は世界でも1、2位の長寿大国になっております。それは必然的に高齢化社会に突入していることを意味します。年々出生率が減少しているため、正確には「少子高齢化社会」です。わが国がかつて経験したことのないような、逆ピラミッド型の人口構成になりつつあるわけです。これが、就労人口の減少、福祉、医療費の増大など、現下の難しい社会的問題の一つとなっていて、有効な対応を迫られているわけです。


 私がもう一つ気になったのは、それでは「老人とは何歳からをいうの?」ということでした。『60歳はもう「老人」なのか?まさかそんなことはないだろう』。世の中全般が「こうだ」と物事を規定してしまうと、人はいつしかそれに無意識的に従ってしまう傾向があります。『世の中が老人というんだから、やっぱり年寄り然としていなければならない』というように。私は気になって調べてみました。そうしましたら、あくまで人口動態調査、統計上の数字ながら、
   15歳未満が、幼年人口
   15歳~64歳が、生産年齢人口
   65歳以上が、老年人口
というように大別されるようです。つまり「老人」とは一応65歳以上の方々を言うわけです。私は辛うじて後何年かのモラトリアム(猶予)期間があるわけで、少しほっとした気分です。

 でもそれでは65歳過ぎの方々が、皆々お年寄り然としているかというと、最近の高齢者はとてもお若くてお元気のようです。昨日たまたまテレビニュースを見ていましたが、「日韓交流おまつり」というようなイベントが、東京とソウルで同時開催され、東京の会場で新しくファーストレディになった鳩山幸さんがスピーチしていました。幸さんは66歳、れっきとした「老人」(もっと正確にいえば「前期高齢者」)なわけですが、壇上の幸さんの何と若々しいこと ! 容姿はもちろんながら、そのスピーチが歯切れのよい元気な声でとてもそんなお年には見えませんでした。

 どうも高齢になればなるほど、「若い感じ」「老けた感じ」という個人差がどんどん開いてくるように思われます。その差を現しているのは一体何なのでしょう?気力、精神力などといえば堅苦しくなります。簡単にいえば「生きよう」「生きるぞ」「元気で若々しく生きるぞ」という、「意欲」が強いか弱いかの差ではないのかなと思われます。それと難しいことながら、「自分が一番輝いていた若い時の姿」をいつも心のスクリーンに映し出しているかどうかでしょうか。
 かつてない超高齢社会を迎えつつある今日、何より元気で若々しくあることが、ご本人のためにも社会的要請としても今求められていると思います。

 本記事のタイトルは『老いない奇跡』です。実は本記事はこれをタイトルとする本をじっくりご紹介する予定でした。しかしもう紙面的余裕がありません。そこで取り急ぎー。
 この本は、「老いは必然なのか」という問題提起から始まって、「若返りは可能か」「いつまでも元気で若々しくあるためにはどうすべきか」などを、多角的に述べてあります。1993年アメリカで原書が発売された時は、9ヵ月にわたって全米ベストセラーを記録したそうです。

 誰かの言葉に、「体には栄養を、頭には刺激を、心には感動を」というのがあったように記憶しています。この本はまさに、体に栄養をは別として、「頭に刺激を」「心に感動を」十分与えてくれる本です。「意識」「生命」「若返り」の探求はここまで来たのか、と驚かされます。人類にとって不老不死も間近いんじゃないの、とも思わせられます。特に50歳以上の方には是非お奨めしたい本です。

    チョプラ博士の 老いない「奇跡」
     -「意識パワー」で永遠の若さを生きる
        (沢田博+伊藤和子=共訳)
      講談社刊  定価 1,800円(税別)

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)

アウシュビッツの聖者・コルベ神父(1)

 8月15日終戦の日を期して、「二木紘三のうた物語」の『長崎の鐘』にコメントすべく、ネットで資料をあたりました。同コメントの中で、長崎と縁が深かったコルベ神父のことにも触れたくなり、少し同神父の事跡について検索してみました。すると本日8月14日が同神父の記念日であることを知りました。
 「アウシュビッツの聖者」と讃えられたコルベ神父は、1941年8月14日同収容所で殉教したのです。それを記念して,カトリック教会においてこの日を同聖人の日と定めたようです。

 コルベ神父については、昨年6月の『バラの思い出(番外編)』において少しご紹介しました。すなわち同神父は、才気煥発、いたずら盛りの幼少時、聖母マリアの示現を受け、聖母より「純潔」と「殉教」を意味する赤白2本のバラ(異説では、赤白2つの冠)を授けられたというエピソードについてでした。
 とにかくコルベ神父は規則に厳格なヴァチカンが、列聖(聖人と認めること)したほどの霊的巨人です。また彼は、もし仮に信仰者の道に進まなかったら、科学者として大きな業績を残しただろうと言われるほどの天才です。だから私たちとは無縁な人だったのだろうか?私は決してそうは思いません。キリスト者という特殊な分野ではあっても、コルベ神父の残した足跡は、人類全体にとっての一つの偉大な道しるべとなるはずです。
 今回は同神父の足跡を簡単に述べてまいりますが、どうぞそのことを踏まえられまして、最後までお読みいただければ幸甚です。
                          *
 マキシミリアン・マリア・コルベ(本名ライムンド・コルベ)は、1894年ポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで生まれました。聖母示現によって信仰に深く目覚めたコルベ少年は、13歳の時当時のガリシア国の首府・ルヴォフにある宣教師養成所であるコンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会し、聖職者としての第一歩を歩み始めます。
 1911年18歳の時、同修道会の上長たちはコルベが卓越した才能に恵まれていることを発見し、ローマのグレゴリアン大学(大神学校)に入学させることに決定します。このローマ留学中の1914年、第一次世界大戦が勃発します。しかし「神を愛する人にとり、すべてが、戦争さえもが有益なのである」。第一次世界大戦はコルベを成長させ、第二次世界大戦は彼に栄光をもたらすことになったのです。

 マキシミリアン修道士(コルベ神父のこと)は、大学の時から「鉄のような論理」に生きており、彼ほど信仰上の幻想から遠い人は稀だったといわれています。明晰な思考、科学者のような緻密な知性こそが彼に備わった特質だったのです。
 彼はあらゆる学科に秀でていましたが、特に数学に優れ、どんな偉い教師をもやり込めることが出来たそうです。当時学長を務めていた神父は、「私の手にゆだねられていた人のうちで、(マキシミリアン修道士は)最も優れた頭脳の持ち主でした。彼は“恐るべき知力”を持っていました」と述懐しています。

 このように稀に見る明晰な頭脳の持ち主だったマキシミリアン修道士は、同大学で優秀な成績を収め、受けるべき試験は「賞賛つきの最高点」で次々にパスしていきます。そして1915年には、21歳の若さで哲学博士の学位を獲得し、4年後には同じ熱意で神学博士の学位も獲得してしまいます。
 しかしそんな輝かしい日々の1917年の夏、突然の喀血続いて激しい出血が彼の体を襲いました。彼は生涯健康に恵まれたことは一度もありませんでしたが、この時は当時不治の病だった結核に冒されてしまったのです。

 だがしかし彼はその後も、自分の病気について語ることはありませんでした。神学生仲間は、彼が重篤な結核に罹患していることを全く知らなかったといいます。その頃から彼は激しい頭痛にも襲われていたそうですが、後の皆の証言では彼は決して苦痛を訴えることはなかったそうです。
 彼は、そんな生死にかかわりかねない病気であっても、まるで気にかけていなかったようなのです。むしろ「この病によって速やかに天国に行ける」と喜んでいたフシすらうかがえます。彼はどんな試練に直面しても、その都度従順かつ英雄的に耐え忍び、その度ごとに大きな「霊性」を獲得していった人のようです。

 そんな苦しい病の中マキシミリアン神父は、大学時代7人の仲間に働きかけて、「M・I(Militia Immaculatae)-無原罪聖母の騎士会」を設立することになるのです。  (以下次回につづく)
 
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)

ベールを脱いだ『IQ84』

 何も記事にするテーマが見つからない時、私はよく管理ページ右欄に表示されている「ココログニュース」見出しをたどってみます。私の心に響いて来ない時は、それまでにしてやり過ごします。
 しかし時にグッと引きつけられる見出しがあり、クリックして「ニュースそのもの」を読む場合があります。その中から私自身がさらにセレクトして、『おっ。このニュースはブログ記事になりそうだぞ』となることもあります。

 この度は『えっ。小栗旬が映画監督 !?』『「大山詣で」復活?』と、ココログニュースから連続して2つも「記事ネタ」を提供してもらいました。大助かりです !
 さらにその上さらに―。
 「ベールを脱いだ『IQ84』」という記事が目に止まりました。

 これは、かの村上春樹の最新作『IQ84』を指すようです。2巻合わせて既に百万部突破という、文芸書としては驚異的な売り上げを記録しているとのこと。最近は浜崎あゆみだって出した歌のシングルをそれだけ売り上げるのは至難なのではないでしょうか?
 なのに若者のみならず日本人全体の「活字離れ」が指摘される中、単行本としてこれだけ売れるとは。一つの奇跡現象と言えるかもしれません。

 今作品のプロモーションでは、完全に事前情報をシャットアウトさせたようです。これが読者、ファン層の渇望を煽り見事に成功したようだと、同ニュース記事では分析しています。(それにしても驚くべき読者層であり、ファン層です。)
 また記憶に新しいところでは、村上は今年2月イスラエルの文学賞「エルサレム賞」を受賞しました。その際村上は現地で英語でスピーチをし、その中の「卵と壁」の譬えが話題となりました。人間個々人を壊れやすい“卵”に、政治や軍事力などのシステムを“高い壁”に―。当時問題となっていたイスラエルによるガザ侵攻に対する批判だと、高く評価されたようです。
 私はその話題性も今回の大ベストセラーの一翼を担ったのかなと考えますが、さてどうでしょうか?

 そんな情報遮断の中、村上本人が某新聞社のインタビューに応じ、次のように答えたとか。「オウム裁判の傍聴に10年以上通い、死刑囚になった元信者の心境を想像し続けた。それが作品の出発点となった」。オウム裁判を10年以上傍聴とは。少し前の記事『山ほととぎすほしいまヽ』の杉田久女もそうでした。テーマを貪欲に追求してやまない姿勢、これが平凡と非凡とを分けるのでしょうか?
 ただ『IQ84』は宗教的な問題のみを扱っているのではなく、社会のさまざまな問題、テーマを重層的に扱っており、村上春樹の代表作になるポテンシャルを秘めた作品だと言うことです。

 と、ここまで紹介してきても、私自身は多分読まないだろうと思います。と申しますのも、最近とみに減ってきている読書量ですが、その中でも「小説」の占める割合はさほど多くないからです。
 村上春樹は『ノルウェーの森』をはじめ、これまでもほとんど読んだことはありません。『風の歌を聴け』を文庫本で途中まで読んだくらいなものです。90年代半ば頃のことですが、その途中までの内容もすっかり忘れてしまっています。それより少し後で読んだ、吉本ばななの『キッチン』。こちらの方は何とかすじもたどれ、印象深い個所なども何となく覚えていそうなのですが…。
 村上春樹ファンの皆様、申し訳ありません。機会がありましたら、先ず手元の『風の歌を聴け』から読み返してみます。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)

呂布と貂蝉(3)

 以上が『三国志演義』に基づいた「美女連環の計」のいきさつです。(特に、かなりの部分を中国電視台が1994年に製作した『三国志』に準拠しています。)
 董卓殺害後、その地位を襲おうとした呂布の企みは失敗し、わずか数百騎のみで首都長安を逃れていきます。しかし丁原、董卓と二人の義父を殺害したことで「親殺し」の悪名をこうむり、群雄たちから疎んじられ、その後諸国を変遷することになります。

 気になるのはヒロインである貂蝉のその後の消息です。『演義』では董卓亡き後呂布の妾となるも子は出来なかったとしています。198年呂布は曹操によって捕らえられ、縛り首の刑で果てますが、それ以降の貂蝉の記述はありません。
 なお、我が国で広い読者を持つ吉川英治の『三国志』では、連環の計が成し遂げられるのを見届けて自害して果てたというように翻案しています。ヒロインの最期としては、こちらの方の訴求力が断然かと思われます。

 西施、王昭君、楊貴妃と共に古代中国四大美女の一人と称えられる貂蝉ですが、史実にその名はなく、架空の人物である可能性が高いと言われています。
 ただモデルとなった女性はいたようです。史書である陳寿の『三国志』には、「呂布が董卓の侍女と密通し、発覚を恐れて王允に相談した。そこで董卓打倒を狙っていた王允は、この際董卓を討つべしと進言し、呂布はそれを実行した」という記述があるそうです。
 そこで、この「董卓の侍女」こそがモデルで、後世の講談や物語において「貂蝉」という架空の名前をつけ、この物語で重要な役割を果たした王允の養女ということにした、というのが真相のようです。だから『演義』において、呂布の最期の時まで妾として連れ添った貂蝉こそは、この侍女だったのかもしれません。
 
 考えてみれば、男でも女でも余程傑出した「何か」がなければ、伝説化され後世さまざまな説話が生まれることはないと思われます。例えば、諸葛亮(孔明)の場合も、「七星壇で風を祈る」や「空城の計」などの『演義』中の名場面は、架空の物語だと言われています。しかしそのような超人的な物語を生み出したくなる「何か」を、諸葛孔明は備えていたということです。
 貂蝉の場合も、この他にさまざまなバリエーションの説話が残ってます。それからすれば、モデルとなったこの侍女は後世中国四大美人と言われたくらいですから、類い稀な美貌の女性だったのではないだろうか?と推測されます。

 ところで西施、王昭君、楊貴妃は、中国史上実在の人物です。その余りの美しさのゆえなのか、それぞれに数奇な運命をたどります。いずれも大変興味深い物語かと思われます。いつの日か、当ブログでも「中国美女列伝」というような形でご紹介できればと思います。
 
 また冒頭に紹介しました、「中国電視台」は中国のNHK的テレビ局です。同局が国家的プロジェクトとして総力を挙げて製作した『三国志』は、『三国志演義』を初めから終わりまで、ほぼそのまま映像化した壮大なスケールの物語です。私は3年ほど前、厚木市の某出先機関からビデオを借りて全巻観ました。その面白さに、ニ、三度繰り返し観たほどです。いささか長いものの、『レッドクリフ』とはまた違った三国志の醍醐味が味わえると思います。
 孔明も曹操も周諭も小喬もそして今回の主役の呂布も貂蝉も、実に良いキャスティングでした。三国志ファンの皆様には、お薦めです。  ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)

呂布と貂蝉(2)

 そんな中、霊帝の時からの忠臣である司徒・王允(おういん)という人物がおりました。王允は、董卓の専横に漢室の将来を深く憂いていました。かといって董卓を除けるほどの良策も思い浮かびません。
 ある晩自邸の廊下で、庭園の闇を見やりながら深く嘆息していると、一人の少女がそっと近づいてきました。「養父さま。夜も遅いのに、何をそんなに嘆いておいでですの?」。王允は一瞬ぎくっとしながら「あヽ貂蝉お前だったか。いや別に何でもないんだ。…遅いからもう寝なさい」。「いえ、養父さまは何か深い悩みを抱えておいでです。私には分かります。隠さずにおっしゃってください。この貂蝉、身寄りのない幼時に養父さまに引き取っていただき、以来16歳の今日まで実の娘以上に大切に育てていだきました。何とかそのご恩に報いたいのです」。類い稀な美しい顔に強い意志をひそませ、なおも貂蝉は引き下がりません。遂に王允も根負けし、「実はのぅ…」と苦しい胸のうちを語り始めます。

 …こうして王允(と貂蝉)による、董卓と呂布を仲違いさせる計である「美女連環の計」が練り上げられ、実行されていくことになります。なお、連環の計には二つあります。その一つは既述のとおり、赤壁の戦いに臨みほう統が曹操に進言した、魏水軍の二千艘の船すべてを互いに鉄鎖、鉄板で連結させる計。それと区別するため、こちらを特に美女連環の計と呼んでおります。

 ある日計略を秘めて王允は呂布に近づきます。「将軍の日頃のご精励をねぎらいたい。ついては今宵拙宅にお越し願えまいか」。名家からの招きとあって、呂布は一も二もなく了承し、宵の口王允の館を訪れます。最上の饗宴にあずかり呂布酩酊の頃、王允は「将軍に余興をお見せします」と、貂蝉と二人の侍女を呼び寄せ呂布の前で舞を舞わせます。
 貂蝉の光り輝く美貌と天女のような見事な舞に、呂布は我を忘れてしまいます。頃合を見計らって王允は、「将軍。真ん中で舞っているのは、娘の貂蝉です。あれも年頃なのでどなたかにと思っておりました。もし気に入っていただけたのでしたら、天下の将軍の妾(しょう・呂布は既婚者)にしていただければこれに勝る名誉はございません」。そう言って貂蝉を、呂布に引き合わせます。
 すっかり貂蝉のとりこになってしまった呂布に否やのあろうはずもなく、その場で輿入れの日にちまで決まりました。呂布は天にも昇る心地で王允の館を後にします。

 王允の計はこれだけにとどまりません。次は最終ターゲットである董卓をこの計に巻き込む番です。王允は同じく董卓を自邸に招き、同じ方法で貂蝉を引き合わせます。そして王允は言います。「天下の相国(しょうこく・董卓の称号)たるあなたに妾としてもらっていただけるのなら、親娘にとってこれ以上の幸せはございません。早速今夜にでも娘をお連れください」。
 こうして貂蝉はその夜のうちに、董卓の大邸宅に輿入れすることになりました。

 呂布は、約束の期日が過ぎても何の連絡もないので、怒って王允を詰問します。王允は、董卓から「呂布を呼んでおきながら、なぜわしを招待せぬ」と言われ仕方なく招待したところ、たまたま給仕に出た貂蝉を見初め強引に連れ帰ったのだと弁明します。ここで呂布に董卓への疑念が芽生えます。
 呂布が董卓の館に赴くと、果して貂蝉がいるではありませんか。貂蝉はさも呂布に想いがあるような秋波を送ってよこします。呂布は怒りと嫉妬で気も狂わんばかりでした。
 董卓不在のある日、呂布は鳳儀亭という美麗な庭園の離れに貂蝉を呼び出し、問いただしました。貂蝉は、「嫌々ながら相国に連れてこられましたが、今も将軍をお慕いしています」と言うなり泣きくずれてしまいます。
 その後董卓不在の折り、二人はここで密会を重ねていきます。

 それはやがて董卓の知るところとなり激怒しますが、腹臣の李儒の進言により、貂蝉を呂布の元に送ることを呂布に伝えます。その経緯を貂蝉に告げると、「乱暴者の呂布の元に送られるくらいなら、この場で死にます」と言われ、董卓は思いとどまります。
 約束を違えた董卓に、呂布は怒り心頭です。王允に相談したところ、この際相国を亡き者にすることで、将軍が変わって天下を掌握できるし貂蝉も得られるし、一挙両得だと奨められ、呂布も董卓殺害を決心するに至ります。

 決行の日取りも決まり、それに加わる若干名の有志への説得も終わりました。時に192年4月、その頃まで病に臥せっていた献帝の病が癒え、その快気祝いが催されました。宮中に参内した董卓は、義子の呂布の手によって殺害されました。
 こうして貂蝉という絶世の美女を巡る争いによって、董卓の恐怖政治は終わりを告げることになったのです。
 その後事態は王允が思い描いたとおりにはならず、首都長安は大混乱に陥り王允自身も命を落とします。「美女連環の計」で最大の恩恵をこうむったのは、三国志中の大スターである曹操でした。董卓という稀代の梟雄が除かれたことで、曹操覇道の条件が整ったのです。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)

呂布と貂蝉(1)

 映画『レッドクリフ』が今月1日に日本で公開されるや、やはり記録的大好評で、既に総入場者数150万人を突破したそうです。これは3、4日前のテレビCMによるものですから、この数は更に増え続けているに違いありません。映画通ならぬ私には分かりませんが、この数字は、過去に我が国で公開された無数の映画の中でも未曾有の数字なのではないでしょうか。
 おかげ様で、当ブログの『レッドクリフ&三国志』シリーズも好評で、「検索フレーズランキング」を御覧になってお分かりのとおり、今でも同記事へのアクセスが引きもきらない状態です。

 その中で、諸葛孔明や周諭と並んで、「呂布(りょふ)」の検索が多かったのには驚きました。確かに呂布は、三国志の前半途中で姿を消してしまうものの、戦乱の後漢末期にあって抜群の武勇を誇り、三国志物語ではあの関羽、張飛、趙雲などを押さえて最強の武将として描かれています。
 190年曹操ら若い群雄が組織した反董卓軍との「虎牢関の戦い」では、希代の名馬・赤兎馬(せきとば)に跨り先ず張飛と互角の打ち合いをし、続いてその加勢に入った関羽、劉備という三国志中の大スターたちに囲まれながら、なお持ちこたえたというのですから、その強さのほどが覗えます。(後世に言う「三英戦呂布」)

 そのような華々しい武勇と共に、智謀には疎く、利によって反覆をくり返した「裏切りの武将」という甚だ人間くさい面も、『三国志演義』を彩る個性として際立った存在感を放っている要因です。
 私はまだ『レッドクリフ』を観ていませんので分かりませんが、その中で呂布と(中国四大美人の一人と讃えられた)貂蝉(ちょうせん)とのロマンスも取り上げられているはずです。そのことも呂布に関心を寄せる人が多い理由なのかもしれません。
 という訳で、今回『レッドクリフ&三国志』の番外編として、『呂布と貂蝉』を載せることと致しました。(映画とはストーリーが違うかもしれませんが、ご了承ください。)
                         *
 呂布(りょふ、ピンインまたはリュイブゥー。生年不詳~198年)は後漢末期の武将にして群雄の一人。字(あざな)は奉先。五原郡九原県(現在の内モンゴル自治区)生まれ。
 『三国志』において呂布は、井州刺史の丁原の側近武将として登場します。189年の霊帝死後の動乱の中、丁原と共に首都洛陽に入りますが、その頃台頭しつつあった董卓の主従離間の計により主であり義父でもあった丁原を殺し、そのまま董卓の側近として仕えます。
 
 董卓は呂布を養子にするほどの信愛を示し、その下で呂布はどんどん栄達し都亭侯に封じられるまでになりました。董卓もまた強大な権力を掌握していきます。
 董卓は西の辺境出身の有能な武将で、親分肌の統率力をそなえた人物でした。一方、農民を皆殺しにしたり、洛陽に入ってから富裕を襲って金品を略奪したり、捕虜の舌を抜き目をえぐった上で熱湯に入れて苦しむさまをみながら平然と酒を呑むなど、残虐な性格でもありました。また一度決まった新帝を廃し陳留王(後の献帝)を帝位に就かせたり、強引に洛陽から長安に遷都したりと、悪政、暴政ぶりが人心の憤りを買っていくことになります。
 しかし董卓を護衛する呂布の存在を恐れて、誰一人意見する者さえいませんでした。
  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)      

| | コメント (2)

レッドクリフ&三国志(7)-赤壁大戦

 その後一日経っても、二日経っても北風の向きが変わる兆候は一向にありません。呉軍大都督周諭は、何度も帷幕の外を覗いながら、『孔明の奴、万一東南風が吹かなかったらどうしてくれるんだ』とヤキモキして、ろくに食事も喉を通らぬほどでした。すると孔明が祈り続けてちょうど三日目の夕方のこと、風向きが変わって待ちに待った東南(たつみ)の風が吹き出したではありませんか!
 
 時は西暦208年初冬旧10月(新11月下旬)。決戦場は、長江流域の水陸複雑に入り組んだ赤壁付近。
 周諭は、周りがとっぷりと暮れ江上に夜霧が立ちこめた頃『ここぞ!』とばかりに、全軍に出撃命令を発します。かねてからの手筈どおり、燃えやすい枯れ草や柴に油を沁み込ませた船に黄蓋が乗り込み、二十艘くらいの快速船を引き連れて先陣を務めます。「それ、黄蓋将軍に続け!」とばかりに、三百余艘と数こそ劣れ、日頃鍛え上げられた呉国水軍は、第一艦隊韓当、第二艦隊周泰など四艦隊に分かれて、皆それぞれに勇躍して長江を魏軍目指して粛々と出撃していきます。

 周諭はまた孔明暗殺の件も抜かりなく、徐盛ら豪の者に指示して、南屏山に向わせます。徐盛らは七星壇を一気に昇って祭壇についてみると、孔明の姿はどこにも見当たりません。とうに周諭の奸計を見破って、風が起こるや壇を下りたのです。そして劉備が差し向けた船に乗り込みます。徐盛らも後を追いますが、孔明は既に船上の人。それに護衛に当たっている者はと見れば、長橋の勇者趙雲ではありませんか。「これはとても太刀打ち出来ぬわ」とばかりに、引き上げます。
 こうして孔明は劉備の待つ夏口に無事帰り着き、休む間もなく魏軍掃討に向けて劉備軍の指揮に当たります。

 呉が思い描いた作戦は、ずばり当たりました。
 今夜黄蓋が投降してくると、呉の快速船より先触れがありました。曹操以下旗艦上でそれを待っております。すると、風向きが急に生温い東南風に変わったではありませんか。するうち遠くの江上を、夜霧をぬって駆けてくる船が確認できます。「あれは黄蓋の船に違いない」。注視していると、どうやらそのようです。しかし参謀の一人が、その船の異変に気がつきました。投降船ならそんなに積荷があろう筈がないのに、その船はずっしりと船体が沈みこんでいたのです。東南の風。燃料物満載の船…?。この時曹操以下誰もの胸中に、只ならぬ嫌な予感が走ります。
 「その船待て。止まれ。停船だ」。しかし向うの船隊は構わず、魏の艦隊目指して突進してきます。今さら小型艇での追撃も適わぬ間近にまで迫っています。

 至近距離まで近づいた黄蓋の船から、そのうち火矢が魏艦隊目がけて雨あられと降りそそいできます。一艘に火がついて燃え出すと、次々に連結した船に延焼し、魏艦隊は瞬く間に一面火の海です。のみならず、後続の呉の艦隊が続々と襲い掛かっては、更に火を放ちます。
 折からの強い東南の風にあおられて、海上のみか陸上の広大な魏陣にも延焼し、各陣所の建物、糧倉、柵門、厩舎などの建造物はたちまち紅蓮の炎に包まれていきます。

 呉軍の仕掛けた火攻めによって、およそ戦闘らしい戦闘もないまま魏の大軍は総崩れの大敗を喫してしまいました。一夜のうちに、百万と豪語していた(実数は二十余万。対して呉と劉備の連合軍は数万)魏軍は、その三分の一以下に減少してしまいます。
 更に魏陣の背後の烏林(うりん)などに回っていた、呉将甘寧や大史慈などに挟撃され、劉備軍もその側方を衝き、いまや魏軍は指揮系統が完全に失われ、敗走に敗走を重ねます。この大戦で生き残った魏兵たちも、逃走中折りからの寒さと飢えと疫病などにより、無事北の故郷に帰還できたのは少数と言われています。

 魏の丞相・曹操もまた燃え盛る旗艦から辛くも脱出し、一面戦火の自陣から張遼や徐晃などの側近の武将に護られ窮地を逃れます。何とか追っ手を振り切り、時には寒さの中氷雨でぬかるんだ山道を辿ったりして、わずか数十人と共にやっとの思いで許都にたどり着きました。
 
 以後曹操は、その存命中二度と南征に赴くことはありませんでした。こうして曹操の大野望は阻まれ、北に魏、南に呉、西に蜀という国が鼎立する三国時代へと、中国史は、白面の青年・諸葛孔明が想い描いた大計通りに進んで行くことになるのです。  ― 完 ―

 (追記)今回の記事をまとめるに当たり、以下の資料を参考にしました。
       吉川英治『三国志』
       フリー百科事典『ウイキぺディア』より「三国時代」「赤壁の戦い」等の項
     なおいずれまた、赤壁以降の三国志をご紹介できればと思います。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)