【天皇メッセージ】忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!(by辺見庸氏)

-なるほどこういう「天皇メッセージ」のとらえ方もあったのか!と、瞠目の論説を転載する。芥川賞作家・辺見庸(へんみ・よう)氏の一文である。話は違うが10日、近くのスーパーの雑誌コーナーの月刊誌『文藝春秋9月号』をたまたま手にとってみた。表紙上部に「芥川賞発表 受賞作全文掲載」とあったので興味を持ったのだ。そうか、もう今年上期の発表か。受賞したのは若手女流作家らしい村田沙耶香の『コンビニ人間』。夕方で忙しい時間帯でもあり、じっくり立ち読みもしなかった。だいたい昔は文学青少年だったはずの私だが、近年の芥川受賞作を読んだ記憶がないのである。昨年はお笑い芸人の又吉直樹の『火花』が大きな話題となり、さすがに私も気になりくだんのコーナーで立ち読みし始めた。しかし書き出しのわずか数行で嫌になって止めてしまった。文体が私の好みとまるで合わないのである。それを辛抱して読み続ければあるいは『なるほど、これは凄い作品だ』となったのかもしれないが・・・。その点だいぶ前(1991年)、辺見庸受賞作『自動起床装置』は文春発表版で読み、いやはや凄い作家がいたもんだ、と感嘆した。(余談の余談)最近の芥川賞作家でもう一人凄いと思った人物がいる。川上未映子。と言っても、川上の作品は一作も読んではいない。これは以前記事にもしたが、川上は当ブログ開設時(2008年)には同じ@niftyココログで既に有名ブロガーだったのである。というか、それまでミュージシャンだった川上は、ココログブログによって文学的才能を一気に開花させていったらしい。開設当初から拙詩を公開していた私は、ココログ広場の「詩」コーナーをよく訪れた。と、その頃連続してある詩が1位を独占していた。『結ぼれ』というのだが、ある時その詩を読むため当該ブログを訪問したら、川上の長編詩だったのである。いやあ、はじめから終わりまで圧倒され放しだった。どうしてこんな発想が出来るのか、私は正直天才だと思った。川上未映子が『乳と卵』で芥川賞を受賞したのはその年である(残念ながら『結ぼれ』は削除済み)。以上、心にうつりゆくよしなし事を書いているうちに、とんでもない方向に話が行ってしまった。それでは今注目の天皇メッセージについて、辺見庸氏が凡俗の思い及ばない視点からとらえ直した一文を乞う味読。 (大場光太郎・記)-

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天皇陛下の「お気持ち」表明について 辺見庸 阿修羅サイトでは「天皇の人権」を主張する投稿ばかり 政治的堕落はどちらか
http://www.asyura2.com/16/senkyo210/msg/877.html
投稿者 ダイナモ 日時 2016 年 8 月 09 日 23:23:06:
http://yo-hemmi.net/article/440874162.html
辺見庸ブログ 忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!

忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!

慶べ、國軆はけふ、めでたく護持せられたぞ。父、第124代天皇の罪咎はチャラになったぞ。ウルトラ極右政権はいっそう強化せられたぞ。政権支持率はまたアップしたぞ。防衛大臣もやる気マンマンだぞ。共産党も天皇制を支持しておるぞ。バカマスコミは挙げて國軆の精髄と美質を宣伝しまくり、皇室をとことん賛美しておるぞ。野党共闘はハナからインチキだぞ。ボケのトリゴエで勝てるわきゃない。そんなこたあ、みんな先刻承知だったぞ。ヌッポンゼンコクみんなイカサマだぞ。

オキモチなのだ。オキモチとオコトバだぜよ。オキモチって、どう書くか知ってるか。「お肝血」である。戦火でうしなわれたおびただしい「お肝血」を、10分間のオキモチ表明で無化してやったぞ。ざまあみろ!このうえは、誓って國軆の精華を発揚し、世界の進運におくれざらんことを期すべし。汝臣民、それよく朕が意を体せよ。さあ、貧乏人はもっと飢えなさい。重度障がい者はもっとおびえなさい。在日コリアンも毎日ふるえなさい。忠良ナル汝アホ・ヌッポン臣民ドモニ告ク。おまえらは最低のクズ、カス、クソッタレだぜ。御名御璽
(2016/08/08)

忠良なる汝アホ臣民ニ告ク!(二白)

朕のオ・キ・モ・チ発表の真意がアホどもにバレずによかったぜよ。朕のオキモチは「生前退(譲)位」のみにあらず。ましてや「生前廃位」に毫もあらざるは、いまさら言ふまでもなひ。汝アホならびにボケ臣民よ、そしてド貧民どもよ、全文をしかと読んだのか。ポイントは「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」にあるのである。

朕と戦争犯罪追及から必死こいてのがれた、父をふくむ皇祖皇宗はすでにして「いきいきとして社会(または、汝アホ臣民の胸中)に内在し」ておるのだ。かく、いけしゃあしゃあと宣わることのヤバい意味をしっかりと書きえた新聞がどこにあるか?ないやろ。つまりやね、朕は自信をもっておるのじゃ。どや、口腔だか肛門だかさえ判然としないあの独裁首相は「いきいきとして社会に内在し」てるか、どや?

換言すれば、「いきいきとして社会に内在し」ている朕たちは、現行の極右政権よりも共産党をふくむアホンダラ翼賛野党勢力よりも、はるかに〈勁き虚構〉であるがゆえに、ここにめでたく國軆を護持しえて、バカでやみくもに忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し、柄谷行人をして「感銘」させ(笑い)、永遠に汝らボケナス臣民とともにある、すなわち、「天皇制は不滅だぜよ」と、このたびのオキモチをつうじて宣言したわけや。わかったか、ボケ!

汝ら、貧しきものは永久に貧しく、卑賤なるものは永遠に卑賤に!これが皇祖皇宗からの天皇制のモットーである。だいいち、ウンコがわれらとはちがう。汝ら忠良にして貧乏なる臣民のクソは、マックとカップ麺ばっか食ってるから、もはや有機肥料にもつかえない。野菜も枯れる。虫も死ぬ。汝ら忠良にしてド貧乏なる臣民は、文字どおり「生まれることは屁と同じ」(深沢七郎)なのである。朕、それでも、今後ともやさしくよりそってやるさかい、ありがたくおもへ。御名御璽
(2016/08/09)

(以下、阿修羅掲示板投稿以後の辺見氏追加記事)

忠良ナル汝アホ臣民ニ告ク!(補記)

このたびのオキモチ発表は、たんなる偶然にせよ、相模原の障がい者殺傷とあい前後して生じた底昏い「事件」だとおもう。両者にはいかなる関係もないと言えば言えるけれども、殺傷事件の血煙ごしにオキモチを聞き、あるいはオキモチ発表の茫とした不気味さから重度障がい者の殺傷事件を想ってしまうのは、どうにもいたしかたのないことだ。象徴と言われようが天皇制は天皇制なのであり、〈かれらの血〉とわれらとの関係/無関係性をふりかえるとき、あるしゅの怖気と戦きをともなうのはなぜか。

障がい者の施設はいつも〈かれら〉の居住区から遠ざけられた。昭和天皇が各地を「巡幸」したとき、ヒノマルをうちふる子どもたちの前列には、きまって「健康および体格優良」なる児童がたたされた。現在の天皇の旅でも、当局は事前に、精神障がい者や認知症患者らを外出させないよう沿道の地域に直接間接、工作しているといわれる。スメラギにまつわることどもの湿った「襞」には、不可解な精神がうめこまれ、それじたい、しずやかに狂(たぶ)る 波動である。

このクニのゼノフォビア(xenophobia)は、おしなべて、こよなくスメラギを愛する。異様なほどに。スメラギはオキモチ発表にさいし、なぜそのことに言及しなかったのか。〈朝鮮人は死ね、朝鮮人は息するな〉――などと、だんじて言ってはならぬ、皇祖皇宗は半島よりきたやもしれないのだからと。スメラギが「いきいきとして社会に内在し」ているとは、どういうことか。みずから「内在」を言うとは、スメラギよ、とてもおかしい。

スメラギさんよ、あなたは虚構なのだ。虚構にすぎないのだ。卑怯で卑小な、ずるがしこい権力者たちがこしらえた、哀れなフィクションなのだ。そのようなものとして仮構された〈存在〉兼〈非在〉なのだ。われらとおなじ、そして奇しくも、障害者殺傷事件の青年と同様の、霊長目・直鼻猿亜目・真猿亜目・狭鼻下目・ヒト上科・ヒト科・ヒト亜科・ヒト族・ヒト亜族・ヒト属・ヒトであるにもかかわらず、虚構たることを強要されたひとなのだ。

であるなら、オキモチはやはり「お肝血」であるべきであり、スメラギはいつの日かついに、ヒトとして解放されなければならない。したがって「お肝血」発表では、退位ではなく廃位の希望を、すなわち、天皇制廃止の意向を言うべきであった。逆であった。スメラギはスメラギになりきり、権力者の思惑どおり、虚構を現実ととりちがえていた。ヒトであるならば、極右大臣たちへの認証式を欠席すればよかったのだ。「お肝血」とはそういうことだ。

さて、障害者殺傷事件の青年も、スメラギを敬愛していたのではないか。
(2016/08/10)

(以上、転載終わり)


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私の百冊(2)


  真理は汝を自由ならしめん。
  (ヨハネ福音書8-31)


『私の百冊』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-ddaa.html

 前の『私の百冊』では、私がこれまで読んできた百冊を挙げました。便宜上分けた区分によりますと、

  日本文学 27  外国文学33  詩集8  計68冊

となり、「文学書」だけで7割弱になります。

 人によっては思想書が主だったり、宗教書が主だったり、また理工系の人は科学分野の本が主になったりするのかもしれません。しかし私が挙げた国内外の文学書は、どなたも書名はお聞きになった事があるものばかりだと思うのです。特殊な本はほとんどなく、言ってみればどんな分野の仕事に従事していようと(あるいは今後従事しようと)いわば人生のベースになるような基本書だと思われます。

 また年代別区分では

 ○中学・高校時代 47 ◎それ以降から40代 33  ●50代から現在まで 20

となり、中学・高校時代が半数近くになっています。

 実際には、中学生で読んだのは『森鴎外作品』『芥川短編』『志賀直哉短編』『路傍の石』『吉川三国志』くらいなものでしたから、ほとんどが高校生の時に読んだものです。

 以前何かの記事で書きましたが、私の高校時代とは一言で「乱読の季節」と言っていいものでした。高1の秋に早々と「卒業後は就職」と決まり、またその頃所属していた運動部を退部したこともあり、乱読に拍車がかかりました。学校の勉強は元々嫌いな上に大学受験という目標もないわけですから、勉強に意義など見出せなかったのです。

 かと言って勉強もせず部活もせずでただブラブラしているのも嫌で、私独特の負けん気なのか、勢い読書に集中することになったのだと思われます。また『この機会を逃せば本を読む事ができなくなる』という危機感もあったようです。それで以後の2年何ヶ月かはまるで強迫観念に急かされるように本をむさぼり読んだのでした。

 今から考えればずい分荒っぽい読み方をしたものです。

 例えばダンテの『神曲』、これは高1の冬に読んだと記憶していますが、土曜日の半日授業を終えた昼過ぎすぐさま図書館に向かいこの本を借りました。帰りの汽車の中で早速読み出し、家に帰って夜遅くまで読み、翌日曜は終日読みふけり、まだ終わらないとみるや通学汽車の中で読み、さらに終わらず授業中も授業そっちのけで読み続け(苦笑)、ようやく読了。

 放課後また図書館に行き、今度は平日用の岩波文庫か何かの比較的短めの本を借りまた読み始めるのです。
 私の高校生活とは、おおむねそんなサイクルの繰り返しでした。

 今考えればはなはだ危うい読み方ですが、その時は一行も逃さずしっかり読みきったつもりだったのです。もちろんゆったり読後感に浸る余裕などなく、感想も記すことのない読みっぱなし。今回挙げた『赤と黒』『父と子』『罪と罰』『嵐が丘』(挙げなかったディケンズ『二都物語』、モーム『人間の絆』)などの大長編はだいたいその土日月パターンで読んだものです。

 ネット活用世代の割合と一致するということなのかもしれませんが、アクセス集計によりますと当ブログの世代別訪問者は、10代から30代で全体の80%以上を占めるようです。そこでこの世代の方々に言いたいと思います。
「今がチャンスです。良い本は若いうちに読んでおきましょう!」

 またまた私の体験で申し訳ありません。誰しも高校生の頃がもっとも多感な時代だと思いますが、私の場合もそうで、読む名作、名詩、(音楽の授業で)聴く名曲などに沸き立つような感動を覚えました。時には「サマーディ(法悦)」もかくやと思われるような忘我の境に入ったことすらあります。

 やはり私の予感は当たり、高校卒業後は思うように本は読めませんでした。それもあって、あの頃読んだ多くの本はその後ほんとんど読み返していません。その中で『桜の園』『みずうみ』を最近何十年ぶりで読み返し記事にもしました。確かにあの時よりは深い読み方は出来たかもしれません。がしかし、あの頃のような命の底から沸き上るような圧倒的感動は得られませんでした。

 ということで再度繰り返します。
「今がチャンスです。良い本は若いうちに読んでおきましょう!」

 これをお読みの方々に私は「このとおりの本を読みなさい」、また「私のような乱読をしなさい]などというつもりはありません。要はこの『私の百冊』を刺激剤として、お一人お一人に適った方法で読書意欲を掻き立てていただきたいのです。

 今興味のある本ならそれでいいわけです。別に名作・名著にこだわる必要はありません。

 さはさりながらながらさりながら。
 多くの「読書のすすめ」が共通して説いているのは「古典を読め」ということです。

 ある人は「今のベストセラーは読むな。どうしても読みたければ十年後に読め」とまで言っています。ベストセラー本のみならず、今流行しているモノは、あっという間に飽きられ忘れ去られがちです。その点、時という「厳正な審判者」を越えて今に読み継がれている「叡智の書」の価値を忘れないでいただきたいものです。

 私自身読みたい本がまだまだあります。中学生以来気になっていたゲーテの『ファウスト』は去年の晩秋ようやく読了しました。同じく中学生からいつかは読むべき本だったトルストイの『復活』を今読み進めている最中です。

 『古事記』『万葉集』『古今集』『論語』『旧約聖書』『法華経』『唐詩選』などは所々拾い読みしただけで完読していません。『イーリアス』(ホメロス)『マハーバーラタ』(古代インド叙事詩)『老子』『荘子』『孟子』『国家』(プラトン)などはまだ読んでもいません。

 西洋哲学はあまり深入りしたくはありませんが、『パンセ』(パスカル)『孤独な夢想者の散歩』(ルソー)などの基本的名著は読んでみたいものです。

 近代世界文学の最高峰とも言われる『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)はだいぶ前読みかけたまま、このままにしてはおけません。シェイクスピア四大悲劇では『オセロ』だけ読んでいませんから、今年中には何とか読みたいものです。  -完-

 (大場光太郎・記)
 

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私の百冊

  プラトンは懐かし。されど真理はさらに懐かし。


 昨年初秋頃、たまたま訪ねたあるサイトに「和尚ラジニーシの百冊」が紹介されていました。詳しい内容は忘れてしまいましたが、さすがは覚醒者ラジニーシと思うような名だたる宗教書・思想書などの名著に混じって『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』が入っているのが意外でした。

 それはともかく。それに触発されて『オレにとっての百冊はどんなだろう?』とその時考えたのです。ですからこの記事は、本当なら「読書の秋」にふさわしく昨年の秋頃まとめて公開する予定でした。が、諸般の事情によりなかなか取りかかる事が出来ず、まだおとそ気分どっぷりのお正月に公開することになった次第です。

 いずれにしましても、これは私自身の今後の読書意欲をさらに促す試みであり、また大変おこがましい事ながら、これをお読みの読者の方々へのわたし流の「読書のすすめ」でもあります。

 近年は「活字離れ」が問題視されています。これは既に記事にもしましたが、「銀の匙授業」「奇跡の教室」として有名だった灘校の故・橋本武先生は、「国語力が他のすべての学科のベースになる。国語力のあるなしが全体的学力を左右する。国語力とは物事の本質に深く迫っていく力であり、それは「生きる力」と言い換えてもいい」と語っていました。

 私が考えますに、国語力は基本的に「読書」によって養われるのです。

 それでは読書によって養われる能力とは何でしょうか?読解力、推理力、洞察力、想像力、論理的な思考力、判断力、文章力など多面的な力が伸びると考えられます。また読書を積み重ねていけば、特に辞書など引かなくても語彙は自然に豊かになっていくものです。読書によって間違いなく心的世界・心内宇宙は拡大するのです。

 江戸時代から戦前までの知識人は難解な四書五経を必須の教養として軽く読みこなし、戦後も近年まで国民の読書熱は世界水準から見ても高いものがありました。そういう土台に立って国際的に高い児童学力となり、飛躍していえば驚異的な高度経済成長を支えてきたと言っても過言ではないと思います。

 しかし近年国民の活字離れが顕著になってきました。その結果国際的にわが国経済も児童の学力も長期低落傾向です。事態を重く見た教育界は、一部小学校で「読書授業」への取り組みが始まり目覚しい成果を挙げつつあるようです。

 幼時からの英語学習など百害あって一利なし。真っ先に養うべきは国語力であり、読書力なのです。

 能書きをだいぶ長々と述べてしまいました。

 それでは「私の百冊」を始めたいと思います。以下に挙げたのは私が完読したものに限りました。また同じ作家で何作品も読んだケースもありますが、その場合は一番感激、感銘を受けた一冊のみを挙げることにしました(短編など2つ挙げているケースあり)。

 便宜上【日本文学】【外国文学】という具合に項目化しました。
 また参考のため、読んだ年代を大まかに三つに区切り、左端の「まる印」で示しました。○は中学・高校時代、◎はそれ以降から40代、●は50代から現在までです。


私の百冊

【日本文学】

○雨月物語(上田秋成)

○雁・高瀬舟(森鴎外)

○こころ(夏目漱石)

○武蔵野(国木田独歩)

◎高野聖(泉鏡花)

◎遠野物語(柳田國男)

○破戒(島崎藤村)

○城之崎にて他(志賀直哉)

◎生まれ出ずる悩み(有島武郎)

○友情(武者小路実篤)

●銀の匙(中勘助)

◎河童・杜子春他(芥川龍之介)

◎田園の憂鬱(佐藤春夫)

○銀河鉄道の夜(宮沢賢治)

○春琴抄(谷崎潤一郎)

◎美しい村・風立ちぬ(堀辰雄)

○路傍の石(山本有三)

●濹東綺譚(永井荷風)

○三国志(吉川英治)

○李陵・弟子他(中島敦)

○斜陽(太宰治)

◎仮面の告白(三島由紀夫)

◎野火(大岡昇平)

◎砂の女(安部公房)

●ゼロの焦点(松本清張)

◎楢山節考(深沢七郎)

●キッチン(吉本ばなな)


【外国文学】

◎水滸伝(施耐恩)

○神曲(ダンテ)

○ハムレット(シェイクスピア)

○ロビンソン・クルーソー(ダニエル・デフォー)

○若きウェルテルの悩み(ゲーテ)

○赤と黒(スタンダール)

○クリスマス・キャロル(チャールズ・ディケンズ)

○黒猫・他(アラン・ポー)

○モンテ・クリスト伯(アレクサンドル・デュマ)

○嵐が丘(エミリ・ブロンテ)

○みずうみ(シュトルム)

○父と子(ツルゲーネフ)

○罪と罰(ドストエフスキー)

◎不思議の国のアリス・鏡の国のアリス(ルイス・キャロル)

●脂肪の塊(モーパッサン)

●サロメ(オスカー・ワイルド)

●ハックルベリ・フィンの冒険(マーク・トウェイン)

○タイムマシン(H・G・ウェルズ)

●どん底(ゴーリキー)

◎バスカビィル家の犬(コナン・ドイル)

○桜の園(チェーホフ)

●トニオ・クレーゲル(トーマス・マン)

○ジャン・クリストフ(ロマン・ロラン)

●赤毛のアン(L・M・モンゴメリ)

○狭き門(アンドレ・ジイド)

○春の嵐(ヘルマン・ヘッセ)

○変身(フランツ・カフカ)

○阿Q正伝・故郷他(魯迅)

○武器よさらば(ヘミングウェー)

○大地(パール・バック)

○異邦人(アルベール・カミュ)

◎地球幼年期の終わり(A・C・クラーク)

◎賢者の石(コリン・ウィルソン)


【詩集】

○海潮音(上田敏訳詩)

◎世界青春詩集(藤原定編)

○立原道造詩集(立原道造)

◎バイロン詩集(バイロン)

◎シェリー詩集(シェリー)

○草の葉(ホイットマン)

◎リルケ詩集(リルケ)

○タゴール詩集(タゴール)


【思想・宗教】

○ソクラテスの弁明・クリトン(プラトン)

◎新約聖書(-)

◎バガバットギータ(-)

◎聖なる科学(スワミ・スリ・ユクテスワ)

◎あるヨギの自叙伝(パナマハンサ・ヨガナンダ)

○空想から科学へ(エンゲルス)

○人生論(トルストイ)

○愛と認識との出発(倉田百三)

◎生命の実相・7巻(谷口雅春)

◎日本的霊性(鈴木大拙)

◎英知(サティア・サイババ)


【ノンフィクションその他】

○ろうそくの科学(ファラデー)

○さまよえる湖(スウェン・ヘディン)

○キュリー夫人伝(エーヴ・キュリー)

○黄河の水(鳥山 喜一)

◎共同幻想論(吉本隆明)

●思考は現実化する(ナポレオン・ヒル)

●量子の宇宙のアリス(ウィリアム・B・シェインリー編)


【スピリチュアル】

◎大本神諭(出口直伝達)

◎日月神示(岡本天明伝達)

◎火水伝文(我空徳生伝達)

◎エメラルド・タブレット(-)

◎波動の法則(足立育朗)

●プレアデス+かく語りき(バーバラ・マーシニアック)

●プレアデス 銀河の夜明け(バーバラ・ハンド・クロウ)

●バシャール(ダリル・アンカ)

●黄金の約束(ロナ・ハーマン)

●レムリアの真実(オレリア・ルイーズ・ジョーンズ)

●フラワー・オブ・ライフ-古代神聖幾何学の秘密(ドランヴァロ・メルキゼデク)

●ハトホルの書(トム・ケニオン&バージニア・エッセン)

●エイブラハム 引き寄せの法則(エスター&ジェリー・ヒックス)


 以上です。

 この結果について述べてみたいと思いますが、少し長くなりそうなので「続編」とします。

 なお冒頭の「プラトンは懐かし。されど真理はさらに懐かし。」は、中学校の図書館の入り口を入った内壁の扉左横に縦書きの毛筆で掲げてあった言葉です。

 これを書かれたのは、中学1年時の担任だったT先生です。以前の記事で何度か紹介させていただきましたが、この先生は当時30代半ばの女性の国語&数学教師で、博学でかつ達筆な人でした。

 T先生には中学を通してずっと目をかけていただきました。
 思い出の一つは、中一の夏休み直前一冊の文庫本を渡されたことです。見ればヘルマン・ヘッセの『車輪の下』。先生いわく「これを夏休み中に読みきって感想文を書いてきなさい」というのです。

 ということで読み出しましたが、読むほどにぐいぐい引き込まれ比較的短期間で大感激しながら読み終えました。小学高学年時は少年版『シャーロック・ホームズ』『怪盗ルパン』全集をほぼ読破しましたが、本格的西洋文学など興味の外でした。しかしこの本によって西洋文学&文学への目が初めて開かれたのです。

 夏休み明け読書感想文を先生に提出したところ、後日先生の手で朱筆がいっぱい入れられて返され、「このとおり再度書き直して再提出するように」とのこと。結果、大添削された感想文が夏季の学校誌に掲載されたのです。

 今考えれば、それはT先生流の私への文章上達指南だったようです。以後そういう事が何度か繰り返され、中二の頃からは添削無しの私の生の文章が学校誌に載るようになりました。いろいろな面でT先生は私の郷里でのありがたい恩師です。 (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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深沢七郎『風流夢譚』と嶋中事件

 これを書き始めているのは12月23日夜ですが、この日は平成天皇の誕生日でした。そんな日にこんな記事を書いていいものかどうか思案の外です。その判断はこれをお読みになる読者の方におまかせするとし、とにかく書いていくことにします。

                        *
 先頃の『野坂昭如と三島由紀夫』記事の作成過程ではウィキペディアなどをずいぶん参考にしました。特に「三島由紀夫」の項はけっこう長いものの途中までしっかり読みました。

 と、その中に『風流夢譚』が原因で引き起こされた「嶋中事件」と三島の関わりについての記述がありました。

 三島については前半生はあまりよく知らないところもあったので、確認の意味でその箇所までじっくり読んできたわけです。が、その後の後半生はある程度知っているつもりなのでそこで読むのを止め、やおら興味を覚えて「風流夢譚」の項に飛んでみたのです。

12231

 『風流夢譚(ふうりゅうむたん)』は作家・深沢七郎(ふかざわ。しちろう)の短編です。そしてこの作品がらみでかつて何か事件が起きたらしい事は漠然とながら知っていました。今回どういういきさつで事件が起きたのか詳細に知りたくなったのです。

 やはりドエライ事件が起きていたのです。
 1961(昭和36年)年2月1日、『風流夢譚』を出版した中央公論社社長(当時)の都内新宿区市谷にあった嶋中鵬二宅に右翼少年K(当時17歳)が侵入し、社長夫人と家政婦を殺傷して逃亡したのです。これが「嶋中事件」です(「風流夢譚事件」と呼ばれることもある。)

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(事件当時の嶋中鵬二宅)

 犯人の少年は翌日出頭しましたが、その前年の10月21日には日比谷公会堂で演説中の日本社会党委員長・浅沼稲次郎に、やはり17歳だった右翼少年・山口二矢(やまぐち・おとや)が襲いかかり、刃渡り36cmの銃剣で浅沼の胸を二度刺して死亡させたテロ事件が起きました。当時私は小学校5年生でしたが、この浅沼暗殺事件は事件の状況がテレビでも大きく報道されしっかり記憶に残っています。

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 嶋中事件の方は当時まったく知りませんでしたが、山口二矢と少年Kという同じ17歳が犯した重大犯罪から、その頃雑誌か何かが「17歳は危険な年代」というような特集を組んだことを覚えています。

 いずれにせよ嶋中事件の発端となったのは『風流夢譚』だったわけです。その記述が「不敬」にあたると憤慨しての「右翼」少年の犯行だったのですが、それでは『風流夢譚』にはどんな事が描かれていたのでしょうか。

 『風流夢譚』の「夢譚」とは「夢の中のお話」というような意味です。私は今回この夢物語を初めて読んでみましたが、読みたてのほやほや坊主が安直な感想を述べるより、この物語について詳細に述べておられるサイトがありましたので、以下に引用させていただきます。

(引用開始)

 深沢七郎の『風流夢譚』は「中央公論」の1960年12月号に掲載された短編小説である。物語は、ある夜一晩の夢である。夢の中で、日本に革命が起きる。
 自衛隊も革命軍と行動をともにする。
 
 「自衛隊もみんな俺達と行動を同じにしていて、反抗するのは幹部だけで、下ッパはみんな農家の2、3男坊ばかりだから、みんな献身的に努力しているのだ」
 
 革命が起きたという夢の話だけなら、なんのことはない、ありきたりの左翼系の小説だが、次の一節が大問題になった。
 
 皇太子殿下と美智子妃殿下が仰向けに寝かされていて、いま、殺られるところなのである。私が驚いたのは今、首を切ろうとしているそのヒトの振り上げているマサキリは、以前私が薪割りに使っていた見覚えのあるマサキリなのである。私はマサカリは使ったことはなく、マサカリよりハバのせまいマサキリを使っていたので、あれは見覚えのあるマサキリなのだ。(困るなァ、俺のマサキリで首など切ってはキタナクなって)と、私は思ってはいるが、とめようともしないのだ。そうしてマサキリはさーっと振り下ろされて、皇太子殿下の首はスッテンコロコロと音がして、ずーッと向うまで転がっていった。(あのマサキリは、もう、俺は使わないことにしよう、首など切ってしまって、キタナクて、捨てるのも勿体ないから、誰かにやってしまおう)と思いながら私は眺めていた。私が変だと思うのは、首というものは骨と皮と肉と毛で出来ているのに、スッテンコロコロと金属性の音がして転がるのを私は変だとも思わないで眺めているのはどうしたことだろう。それに、(困る困る、俺のマサキリを使っては)と思っているのに、マサキリはまた振り上げられて、こんどは美智子妃殿下の首がスッテンコロコロカラカラカラと金属性の音がして転がっていった。首は人ゴミの中へ転がって行って見えなくなってしまって、あとには首のない金襴の御守殿模様の着物を着た胴体が行儀よく寝ころんでいるのだ。
 
 この部分が、不敬であるとして右翼の17歳の少年が、中央公論社社長の嶋中鵬二宅に押しかけた。少年は当初、作者の深沢七郎を襲うつもりであったのが,住所がわからず、発行元の中央公論社社長である嶋中との面会を求めた。
 しかし、嶋中は不在で、雅子夫人が重傷を負い、止めに入った50歳の家政婦が刺殺された。
 これが「嶋中事件」である。
 
 深沢七郎はその後この作品を封印し、『風流夢譚』は表舞台から姿を消した。
 
 僕はこの小説を、オリジナルの中央公論で読んでいる。回収前に父親が購入していていたのを読んだのだ。  (引用終わり)

引用サイト 『ひまわり博士のウンチク』
深沢七郎『風流夢譚』http://blog.goo.ne.jp/gallap6880/e/f5f865b3919168252f91fe08dc30088a

 引用筆者も述べていますが、斜め文字箇所が「不敬」に相当すると一部右翼勢力にみなされた代表的箇所なわけです。(なお少し後では、昭和天皇ご夫妻は既に首なしになっていたり、急に昭憲皇太后-明治天皇の皇后-が現れて山梨弁で悪態をつく場面も登場する。)

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 皇太子殿下と美智子妃殿下が、私(作中人物)の使っていたマサキリで首を切られ金属音を立てながらコロコロ転がっていったというのです。(今日では冷酷な「裏の顔」が動画アップもされ一部で「ご慈愛仮面」などと皮肉る向きもありますが)何しろ同作品発表の前年の昭和34年、皇太子ご成婚で空前のミッチーブームが起きた直後ですから、読んだ人の中には衝撃とともに大憤慨した人もいたであろうことは想像に難くありません。

 この作品を読み解くには、それとは別の社会背景も念頭に置いておいた方がいいと思います。

 その一つは(今回の戦争法案審議過程であらためてクローズアップされましたが)一審を翻して「在日米軍合憲」とした1959年(昭和34年)12月の最高裁「砂川判決」です。これは時の岸信介政権が米国政府の恫喝に屈した結果でしたが、その帰結が、この作品が発表された1960年6月にピークに達した日米新安保条約をめぐる空前の60年安保闘争です。

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 結果的に新安保条約は締結され、国内大騒乱の責任を取る形で岸内閣は総辞職しました。新安保条約阻止を掲げて戦った学生たちは敗北し、自民党政権はすかさず池田勇人を首相とし、安保・戦争から高度経済成長へと路線を変更したのです。

 しかし学生、市民、国民の間には不満がくすぶり、一部に「革命願望」が伏流していたのだと考えられます。それは極論すれば、「革命」→「共産主義革命」→「天皇制廃止」→「天皇・皇族死刑」という図式です。

 深沢はそういう時代の一つの願望のようなものを鋭い感覚でとらえ、短編小説化したのだと思われます。ただこの作品をよく読めば、「私」(作者の深沢七郎自身?)は左翼を「左慾」と表現しているとおり、必ずしも共産主義革命や左翼思想に共鳴しているとはいえないようです。 

 ここで深沢七郎(1914年(大正3年)1月29日 - 1987年(昭和62年)8月18日)の略歴を簡単に見てみたいと思います。

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 深沢はとにかく異色の作家なのです。山梨県出身で、地元の旧制中学時代からギタリストを目指していたといいます。実際戦前に上京しギタリストとして長く活動し、1954年(昭和29年)、「桃原青二」の芸名で日劇ミュージックホールに出演しています。

 そんな深沢がいつから小説家を志したのかは不明ですが、1956年(昭和31年)に姨捨山をテーマにした『楢山節考』を中央公論新人賞に応募、第1回受賞作となったのです。

 この時審査員を務めていたのが当時35歳の三島由紀夫で、他の委員の反対を押し切って三島が『楢山節考』受賞を強力にバックアップしたのです。これは三島自身が随筆に書いていることですが、自宅で深夜『楢山節考』原稿を一気に読み終え、その晩は一睡も出来ないほどの強い衝撃を受けたというのです。

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 『楢山節考』は後に映画化もされ私は40代の頃原作を読みました。日本各地で実際に古くから行われてきた「姥捨て」という哀しい究極の人減らし習俗を題材にしているわけですが、このような泥くさい土俗性は三島文学とは異質なものです。それを題材に類稀れな小説として昇華させたわけですから、三島にとって大ショックだったことでしょう。

 深沢は「小説はほとんど読んだ事がない」と言っていたということですが、本当ですかねえ。もしそれが本当なら、深沢は「三島以上の天才」です!

 いずれにせよ深沢は、『風流夢譚』では「菊のタブー」に果敢にも挑んだわけです。

 この『風流夢譚』でも三島との関わりがあるのです。またしてもこの作品を三島が推薦したと疑われたのです。これについて三島は推薦云々を否定しましたが、(今となっては珍妙ですが)右翼から脅迫状が届き、一時期警察官が三島の身辺を護衛する事態となったとのことです。

                        *                     
 引用の後段は省略しましたが、引用した人はずっと後年『スキャンダル大戦争』(2002年、鹿砦社発行)という雑誌が無断でそっくりそのまま復刻転載したのを入手して読み直し、「改めて読んでみて、作品としては駄作である。」と切って捨てています。

 一つの作品に対する感想・評価というのは人さまざまで、それでいいわけです。多くの人たちの評価が高い作品が当世こぞって読まれもし、また名作として後々まで読み継がれていくわけです。

 さて私の率直な感想ですが、引用の人とは違って、なかなか面白い、というより優れた幻想短編だと思いました。

 作者の深沢七郎はこの短編の元となる夢を実際見たのかもしれないし、また深沢が本当に描きたかったことを、当時の社会の(あるいは日本というある種異様独特な)風潮からストレートに描いてしまうと相当な猛批判にさらされてしまう、そこで「夢物語」に仮託して綴ったのかもしれません。(「夢物語」にしてさえ、忌まわしい事件が起きてしまうわけです。)

 実際の創作の秘密は本人しか分からないわけですが、全体を読み通せばイマジネーションを自在に駆使した優れた短編だ、と私は率直に評価します。

 直後事件さえ起こらなければ長く読み継がれる作品になっていただろうし、深沢自身もその後長い潜伏生活をしなくても済んだものをと、フィクション(夢譚)に対してすらいきり立つ「日本の宿痾(しゅくあ-癒しがたい病)」を大変残念に思うのです。

 (大場光太郎・記)

参考
『風流夢譚』全文
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E4%B8%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6 

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野坂昭如と三島由紀夫

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 ひとまず「野坂昭如シリーズ」を終わるに当たり、野坂を語る場合欠かせないこの人物との関わりを見ていきたいと思います。

 その人物とは三島由紀夫。ただ野坂にとっての三島は、五木寛之や大島渚などの同志的関係とは大いに異なります。今回はその辺のところを見ていきたいと思います。

 まずはじめに二人の生年月日を確認しておきましょう。
三島由紀夫 1925年(昭和元年)1月14日
野坂昭如   1830年(昭和5年)10月10日 

 昭和が始まった年に生まれ年齢が昭和年号と一致する三島は、「昭和の歩みとともに生きた作家」などと評される事があります。対して野坂は、三島に5年遅れの昭和5年生まれです。二人にはほぼ5歳の差があるわけです。

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 しかしこのわずか5歳の差が二人にとっては思いもかけないほど大きな年の差だったように思われるのです。

 というのは、異常なほど早熟だった三島は、太平洋戦争直前の16歳の時『花ざかりの森』という短編を『文藝文化』に発表し、日本浪漫派同人たちから「天才が現われた」とこれ以上ない賛辞を受けます。また吉本隆明や芥川比呂志らも同短編を読み、「学習院に天才児がいるらしい」と噂になったといいます。

 そして終戦の年、東大法学部在籍中の20歳の三島は「世界の終わり」を予感し遺作のつもりで書いたという短編『岬にての物語』を文芸誌『群像』に発表します。

 私は30代後半の頃、上に挙げた2つの短編を遅まきながら読みましたが、老成さえ感じられ、とにかく20歳またはそれ以前ではとても書けるものではないと思いました。

 それもそのはず、戦争でいつ死ぬかもしれない10代の頃の三島が目標としたのは、フランスの夭折の天才作家レイモン・ラディゲ(1903年6月18日~1923年12月12日)で、ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』は何度も繰り返し読み「少年時代の私の聖書だった」と後に述懐したほどなのです。目標とする対象が常人とは桁違いなのです。

 さて一方の野坂はどうだったでしょうか。
 代表作『火垂るの墓』の清太少年は自身がモデルと言われていますが、15歳で終戦を迎えた頃の野坂は作家の片鱗さえ見せていません。いやそれどころか1950年、20歳になってさえそうだったのです。野坂はその年に早稲田大学に入学し仏文科を専攻していくことになりますが、志望動機はフランス文学研究のためではなく、シャンソン歌手になるためだったといいます。

 しかしそんな野坂にも「物書き願望」はどこかにあったようです。いつの頃か特定できませんが、次のようなエピソードがあります。

 若い頃野坂は東京都下の三鷹市に住んでいた事があったそうです。すぐ前が禅林寺というお寺でした。といってもピンとこないかもしれませんが、この寺には太宰治の墓があるのです。そして太宰墓の向かいには森鴎外の墓もあるといいます。

 野坂は、その寺の様子などを記したファンレターを三島に送っているのです。諸事几帳面だったことで知られる三島はすぐに返事をよこし、そこには「太宰は大嫌いだ。どうぞ毎日鴎外先生の墓にお参りして太宰の墓にお尻を向けてください」と書かれていたといいます。

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 脱線しますが、三島の「太宰嫌い」は有名です。どれだけ嫌いだったのか。

 昭和21年12月、都内のある家で太宰を囲む酒会が催され、先輩作家に誘われた三島は「懐ろに匕首を呑んで出かけるテロリスト的心境」で参加したそうです。太宰の正面に座った三島は、太宰が上機嫌で繰り出す文学談義にじっと耳傾け、頃合いやよしと森鴎外についての意見を尋ねたそうです。

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 太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ」云々とけちょんけちょんにくさし、下戸の三島はしらふのまじめな顔で「(鴎外の)どこがいけないのか」と鋭く斬り込み反論を返します。しかし酔っ払った太宰はまじめに取り合わず、まるで議論はかみ合いません。

 三島の匕首が飛び出したのはその時です。
「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」
 三島はこの会に参加するにあたってそれを言おうと決めていた言葉を発します。
 対して太宰は、虚を衝かれたような表情をし、
「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」
と顔をそむけた後、誰に言うともなく、
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」
と言ったというのです。気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰とのたった一度きりの対決となったのでした。

 野坂もさるもの、三島の太宰嫌いを百も承知で上のようなファンレターを出したのかもしれません。それに関連してずっと後年野坂は、「三島さんは太宰治のことを嫌っていたというけれど、本当に嫌いじゃないと思う。気になっていたんでしょうね」と語っています。

 確かに野坂の指摘どおりだと思います。当時の太宰は文壇の寵児、今でもそうですが当時から青少年に圧倒的人気のあった作家でした。密かに「日本一の作家」を目指していた三島にとって、太宰は乗り越えなければならない大きな壁だったのだろうと思います。

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 ちなみに三島は、戦後文壇デビューのきっかけを作ってくれた恩人の川端康成に、以下のような書簡を送っています。

(引用開始)
 太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます。太宰氏の文学はけつして完璧にならないものなのでございませう。しかし抒事詩は絶対に完璧であらねばなりません。(引用終わり)

 太宰治は1948年(昭和23年)6月13日、「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」という遺書を残して玉川上水で愛人の山崎富栄と入水心中しました。二人の遺体が発見されたのは奇しくも太宰の誕生日の6月19日でした。そして太宰の遺骨は三鷹市の禅林寺に納められたというわけです。なお太宰を師と慕っていた『オリンポスの果実』の作家・田中英光は、太宰の死に衝撃を受け、その墓の前で自殺しています(1949年(昭和24年)11月3日)。

 だいぶ脱線しましたが、野坂の三島へのファンレターの件に戻ります。
 これを出した時期は不明ながら、昭和25年、野坂20歳の年新潟から上京し早稲田大学に入学して以降であることは確かです。

 野坂は早稲田の学友の刺激もあったのか、いつしか「物書き願望」が芽生えていったのだと考えられます。でなければファンレターなど出さないでしょう。思うに、三島の出世作で代表作の一つ『仮面の告白』(昭和24年7月発表)を読み、矢も盾もたまらず、というところだったのではないでしょうか。

 野坂は後年、「僕らの世代には三島さんがいる。だから僕らの世代を代表する小説家は三島さん一人でいいかな、と思った」というようなことを書いています。野坂は、『仮面の告白』を読み、打ちのめされるほどの強い衝撃を受けたのではないだろうか、と私は推察するのです。

 何を隠そう、この私がそうだったからです。東北の田舎文学少年だった私は、高校卒業と同時に首都圏中小都市の当地に“出稼ぎ”でやってきたわけですが、心のどこかに「物書き願望」がくすぶっていました。そんな19歳の時たまたま『仮面の告白』を読んだのです。初めから終いまで圧倒されっ放し、『どう逆立ちしてもこんな凄い才能には適わないわ』と、物書き願望を木っ端微塵に吹き飛ばされたのです。

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 三島に限らず、芥川や太宰などの優れた作品を読んで作家志望を断念した後進者は数多くいたに違いありません。しかしそれはそれでいいことです。才能もないのに自惚れてのめり込むのは人生の浪費以外の何ものでもありませんから。

 しかし中には「なにくそ!」とたとえ打ちのめされても一つの願望を捨てない者がいるものです。だからこそ文学でも美術でも音楽でも連綿と続いているわけですが、他ならぬ野坂がまさにそうだったわけです。「三島さんだけでいいかな」とは思いつつ、反面どこかに「なにくそ、いつか三島なんか乗り越えて先に進んでやるぞ」という気持ちもどこかに持ち続けていたのではないでしょうか。

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 つまるところ「才能」などというものは実にあやふやなものです。東大の学生時代は文章が下手くそだったという志賀直哉が『城の崎にて』などの類稀れな名短編を著わしたように、結果的に大成して後「ああ彼にはやっぱり凄い才能があったんだ」と評価されることもあるわけですから。しょせん水ものの素質どうこうではなく、結局抱いた願望を最後まであきらめないのが「真の才能ではないか」とも思われるのです。

 野坂もその一人だったわけです。昭和31年、三島は話題作『金閣寺』を発表しましたが、それを読んだ26歳の野坂は「確かに凄い作品だが同時に三島さんの限界も感じた」と、後年述べています。何年かで、野坂の物書きとしての素地は確実に進化していたのです。

 それが結実したのが、昭和38年のデビュー作『エロ事師たち』。作家デビューとしては遅い33歳のことでしたが、雑誌『小説中央公論』に連載されたこの作品を激賞してくれたのが誰あろう三島由紀夫その人だったのです。

 (大場光太郎・記)

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シェイクスピア『リチャード三世』

 -虚像を実像のように描き尽くし、後世に定着させたシェイクスピアの力恐るべし-

 シェイクスピア作『リチャード三世』(木下順二訳、岩波文庫)、5月5日こどもの日に読了しました。なるべく早く感想を記事にしようと考えていましたが、片や本作品のテーマはイングランド王の王位を巡る壮大な権力闘争であるのに、片やこちとらは低レベルな一個人の「生存維持のための」闘争に追われ(苦笑)、結局今頃になってしまいました。

 初めは、シェイクスピア四大悲劇のうちまだ読んでない『リヤ王』か『オセロ』を読むつもりが、図書館で当たっているうち『リチャード三世も面白ろそうだぞ』となり、にわかに方向転換したのでした。
 読んだ結果は、期待に違わず面白いものでした。以前も述べましたとおり、最近とみに遅読がちな私にしては比較的短期間で読み終えたのが何よりの証拠です。

 この作品は『ヘンリー六世』第一部から第三部に次ぐ第四作目と、シェクスピア初期の作品です。そして現在までのシェクスピア研究の結果、『ヘンリー六世』三部作は合作説などいろいろ議論があり、その点『リチャード三世』(1592~93年)はシェイクスピア単独作として公認されている作品だそうです。
 だからこの作品は、以後のシェイクスピア劇の嚆矢となったと考えてもよさそうな記念碑的作品であるのです。

 とにかく何が面白いかって、主人公のグロスタ公リチャード(後のリチャード三世)は己の内に巣食うマムシのような王位簒奪の野望のために、とにかく片っ端から人を殺していくことです。リチャード自身が王家の血筋の出自ですから、殺す対象は平民ではなく貴人となるわけです。弁舌と謀略の才によって、片っ端から「貴人殺し」を計画、実行していくのです。
 第一幕から第五幕まであるこの劇は、のっけからリチャードの兄のクラレンス公ジョージを殺すための謀略の独白から始まります。

 ここでこの史劇の時代背景を簡単ご紹介します。
 背景となったのは英国史上名高い「薔薇(ばら)戦争」です。薔薇戦争は、1455年から85年まで30年間、イングランド中世諸侯によって起こされた内乱でした。

 

 集約すれば、白薔薇を紋章とするヨーク家と紅薔薇を紋章とするランカスター家との王位争奪の戦いです。そしてシェイクスピアにおいては、『ヘンリー六世』三部作が同戦争の発端を、そして『リチャード三世』がその終結を描いた作品であるのです。
 さすがは「いいとこ取り」のシェイクスピアさん、実においしいところに目をつけたものです(笑)。

 「薔薇戦争」とはまた美しい命名ですが、歴史上のどんな戦争も美しかったためしなどなく、この戦争も実態は血で血を洗うドロドロの内戦なのでした。そんな終結点にふさわしいと言えばいいのか、ヨーク家最後の王となるリチャード三世は、容貌怪異な恐るべき魔王として描かれています。
 兄殺し、王殺し、妻殺し、諸侯殺し、極めつけはかのロンドン塔に幽閉した年端のいかない甥に当たる幼王殺し。自分が王になるためには手段を選ばぬ、狡猾、残虐非道さです。

 シェクスピアでよく似たモチーフとしては『マクベス』が挙げられます。確かにシェイクスピア後期作品の『マクベス』は「王殺し」という大罪を犯し、その心の内面の葛藤にまで迫る、近代性を先取りしたような優れた心理劇でもあります。
 しかし『リチャード三世』における悪のパワーは桁違いで、11世紀スコットランド王マクベスの罪などまるで児戯のようです。後期の四大悲劇のような円熟味はないものの、登場人物も多彩で、シェイクスピア一流の華麗な比喩の言葉や警句が散りばめられ、ドラマとしての面白みが十分堪能できます。

 なお、この上ない個性的なキャラクターのリチャード三世は、ハムレットと並ぶ演じ甲斐のある役とされてきました。代表例は、(映画『ハムレット』で世界的名声を博した)イギリスの名優サー・ローレンス・オリヴィエです(1955年映画『リチャード三世』)。

 シェイクスピアのこの劇では、サタンの化身かと見まごうばかりのリャチャード三世ですが、史実としてはどうだったのでしょうか?
 (詳しい経歴は省きますが)結論としてリチャード三世は、せむし男だったのは確かなようですが、逆に正義感が強く兄王のエドワード四世思いで、王殺しや甥殺しなどはしていないようなのです。

 ただ悲劇的だったのは、(この劇の終幕となる第五幕でも描かれていますが)1485年8月、ランカスター家のリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー七世)がフランスから侵入し、ボズワースの戦いで決戦となり、リチャード三世は味方の裏切りによって(王としては珍しく)戦死したことです。遺体は当時の習慣にしたがって丸裸にされ、晒されたのです。

 後世に至るまでの希代の奸物としてのリチャード三世像は、実にシェイクスピアのこの『リチャード三世』によって定着したものなのです。
 ヨーク王朝最後の王リチャード三世は、ヘンリー七世が開いたテューダー王朝の敵役です。そしてシェイクスピアの活動期は、テューダー王朝の流れを汲むかの(トカゲの)女王エリザベス一世の治世下だったのです。
 いずれにせよ、「シェイクスピアの力恐るべし」と言うべきです。

 (大場光太郎・記)

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今甦る新美南吉

 -今年は、『赤い鳥』の童話作家だった新美南吉の生誕百年没後七十年らしい-

 当ブログでも何度か取り上げたことがありますが、『日刊ゲンダイ』に「流されゆく日々」という作家・五木寛之氏の最長寿コラムがあります。既に連載9160回余となる同コラムの先週のタイトルは、『新美南吉のまなざし』というものでした。

 多くの方にとっては「新美南吉 Who?」であることでしょう。しかし昨年の『「赤い鳥運動」について』をお読みになられた方ならあるいはご記憶かもしれませんが、新美南吉(にいみ・なんきち)は、大正中期に始まった「赤い鳥運動」を初期・中期・後期に分けた場合昭和に入ってから活躍した赤い鳥後期の童話作家だったのです。

 この新美南吉、1913年(大正2年)に生まれて戦争中の1943年(昭和18年)に亡くなっています。享年29歳ですから夭折の童話作家と言えます。
 彼の生没年にご注目ください。1913年生→1943年没。今年は2013年ですから、今年はちょうど「生誕百年没後七十年」という大変区切りのいい年なのです。
 そこで新美南吉が生まれた知多半島の(愛知県)半田市では、今年初の1月5日の「生誕開幕祭」を皮切りに、12月まで記念行事が目白押しだといいます。

 筆者の五木寛之氏は、地元から「新美南吉に関する話をしてください」との講演依頼を受け、『特に研究家や専門家でない私に?』と首をかしげながらも引き受け、先週ちょうど半田市にやってきているというタイムリーなコラム寄稿だったようです。

 新美南吉は「広辞苑」にも出ているほど著名な作家だそうです。しかし「児童文学者」扱いのため、宮澤賢治や坪田譲治ほどのスペースは割かれていないそうです。

 と、例によっていかにも知った風にここまで新美南吉の概略を紹介してきました。しかし白状しますが、昨年の『「赤い鳥運動」について』記事作成前まではまったく知りませんでした。
 鈴木三重吉の赤い鳥運動に賛同した芥川龍之介は『杜子春』を、有島武郎は『一房の葡萄』を、小川未明は『赤いろうそくと人魚』を童話雑誌『赤い鳥』に寄稿しました。それら今日でも有名な作品に並ぶくらい評価が高いのが、新美が昭和7年に同誌に発表した『ごん狐』だと言うのです。

 俄然興味が湧いてきた私は、記事公開後早速『ごん狐』を読んでみました。今はネット空間を一ッ飛びすれば、『青空文庫』という著作権消滅作家のほとんどの作品を網羅したネット図書館があるので大変便利です。

 山の穴の中で暮らしている「ごん」といういたずら好きな子狐がいました。ある秋の日の兵十というお百姓にしたいたずらを悔いて、ごん狐は兵十の家に毎日栗の実などをこっそり届けるようになります。しかしとうとう兵十に見つかってごん狐は・・・。

 狐は一般的にコずるい動物としてとらえられがちですが、『ごん狐』は人情の機微の分かる狐として描かれています。新美南吉の「あたたかいまなざし」の感じられる、まさしく名童話に値する作品です。
 小川未明の『赤いろうそくと人魚』もそうでしたが、読後ジワーッと余韻が広がります。ごく短い童話なので、まだの方は是非お読みいただきたいと思います。

 ところで五木寛之氏は、ご自身の「新美南吉ベストスリー」を挙げています。それによると、
  1位 手袋を買いに  2位 ごん狐  3位 きつね
 いずれも「狐の童話」ですが、意外なのは『ごん狐』より『手袋を買いに』という作品を高く評価していることです。もちろん未読でしたので『これも読まずばなるまい』と、今回早速読んでみました。

 ある冬の晩、母狐に白銅貨を渡された子狐は町まで自分用の手袋を買いに行くお話です。子狐は母狐から片方の手を人間の手に変えてもらって、「こっちの人間の方の手を出すんですよ。本当の手を見せれば捕まえられてしまいますからね」と念押しさました。にも関わらず子狐は、少し開けた戸の隙間から間違って狐の手を店主に見せてしまいます。
 すぐに「狐だ」と分かった店主はしかし捕らえることをせず、「先にお金を下さい」といい、渡された白銅貨が木の葉などでないことを確かめるとちゃんと手袋を売ってくれたのです。

 この作品に対する五木寛之氏の解題はこうです。
 「・・・店主の優しさの背後に、近代、現代に生きる私たちすべての人間の本質が見え隠れする。それは、金を出せばモノを売る、という本質である。(中略)金を出せば相手が人間だろうと動物だろうと商品を売る。それが資本主義人間の本質である。(中略)新美南吉の無意識の凄さは、現在の資本主義的人間の本質を鋭く映し出している、などと言えば、たぶん失笑を買うだろう。」

 いや実際、五木氏の指摘どおりなのだろうと思います。
 ただそういう観点抜きでも、この作品は全編に詩情漲る優れた童話だと思います。『ごん狐』が土俗的色濃い作品だとすると、『手袋を買いに』は西洋風なメルヘンを感じさせます。いずれにしても新美南吉、ただ者ではありませんでしたね。

 五木寛之氏は、「新美南吉は、児童文学の枠をこえた大した作家なのである。」とこのシリーズを結んでいますが、切りのいい今年をきっかけに、子供たちにも私たち大人たちにももっともっと知られてよい作家だと思います。

 (大場光太郎・記)

参考
「青空文庫」『ごん狐』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/628_14895.html
「青空文庫」『手袋を買いに』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/637_13341.html
関連記事
『「赤い鳥運動」について』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-4908.html

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チェーホフ『桜の園』

-チェーホフなど今は読まれないが世界的戯曲の中でも屈指の名作ではないか?-

 神奈川県県央地区の当地では今が桜の満開です。当地のみならず、関東地方の広い地域は今週末が桜の見頃のピークであるようです。そんな折り、タイムリーなことにチェーホフの名戯曲『桜の園』を読みましたので、その読後感などを綴っていきたいと思います。

 『桜の園』、大変懐かしいです。高校2年生頃初めて読んだのです。その時読み終わって沸き立つような感動、もっと言えば得もいわれぬ至福感を覚えました。
 もっともこのような圧倒的感動体験は、当時何も『桜の園』に限ったことではなく、他の西洋文学で言えばヘルマン・ヘッセ『春の嵐』、アンドレ・ジイド『狭き門』、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』などでも味わいました。

 我が高校時代は、『フォレスタの「花の街」』などでも触れましたが、宗教的法悦(サマーディ)に近似していたと思しき没我状態の感動体験をしばしば味わえたのです。例えば、良い音楽を習った時、良い詩歌や文学作品に触れた時など・・・。
 以来45年以上経過して60も過ぎた今日読み直してみると、あの頃の命の底から沸き上るような感動などはもちろん起きません。では無感動だったかと言えばそうとも言えず、読後ただ静かな感動が訪れた、と言ったところでしょうか。

 『桜の園』は四幕の戯曲(劇)です。舞台は19世紀末のロシアのある地方の「桜の園」と呼ばれて名高い広大な荘園。そこに多くの桜が植えられていたためそう呼ばれたのです。その地主の邸内そして邸近くの野外が舞台です。
 登場人物はラネーフスカヤというこの荘園の女地主、17歳の娘アーニャ、24歳の養女ヴーリャ、兄のガーエフ、商人のロバーヒン、30歳近い万年大学生のトロフィーモフ、その他女家庭教師、邸の執事、小間使い、87歳の老僕、若い従僕など多彩です。

 時あたかも桜の花が満開のロシアの遅い春5月のある朝。長らくパリに滞在していたラネーフスカヤとアーニャらが桜の園に帰ってくるところからこの戯曲は始まります。
 とは言っても、地主一族にとって決して悠長な話ではないのです。先祖伝来のこの広大な所有地を手放さなければならない切迫した事情があるからです。

 以後女地主のラネーフスカヤを中心に、先ほど見た多彩な登場人物を自在に登場させ、かつ自在に語らせながらこの物語は進行していきます。
 ラネーフスカヤも兄のガーエフも事態の深刻さをよく認識していないところがあります。特に40代後半のラネーフスカヤは、金銭にはまるで無頓着な、いまだ夢見る少女のような貴族的気質なのです。

 しかし一度傾いた衰退の流れは誰にも止めることは出来ず、遂に桜の園は競売にかけられてしまいます。そしてこの名の通った由緒ある土地を落札したのは思いもしない登場人物で・・・。

 寒さが兆した同年のロシアの10月のある日、桜の園を明け渡しそれぞれにモスクワやパリや近くの町に散り散りになる旅立ち直前の邸内がラストの四幕です。汽車の時刻に合わせて一同が後にした園には、伐られる桜の木の斧の音が聞こえている・・・。

 あまり詳細に語らない方がいいと思いますが、そこに至るまでを、チェーホフは登場人物の口を借りながら、時に痛烈な諷刺やユーモアを交えながらも、基調は哀切で物悲しい劇として運んでいきます。
 チェーホフには他に、『かもめ』『ヴーニャ伯父さん』『三人姉妹』と合わせて四つの戯曲があります。いずれも世界戯曲史にあって不朽の名作との評価が高いようです。私はそのうち『桜の園』と『かもめ』しか読んでいませんが、中でも『桜の園』は世界文学史に残る屈指の名作なのだろうと思います。

 没落して先祖伝来の名園を手放さざるを得なくなったこの劇の地主一族の運命は、来るべきロシア革命(1914年)によって打倒された、(ピョートル大帝やエカテリーナ女帝が築き上げた)栄光のロマノフ王朝の雛型のようにも思われます。
 帝政ロシア末期の優れた作家チェーホフには、ロマノフ王朝の行く末が見えていたのではないでしょうか。

 病魔に蝕まれ小説執筆を断念したチェーホフは、死の1年前となる1903年、『桜の園』をモスクワ芸術座のために書き上げました。時にチェーホフ43歳。だから『桜の園』はその遺作となる作品なのです。

 今回気がつきましたが、『桜の園』は「-喜劇 四幕-」となっています。えっ、悲哀に満ちたこの戯曲が「喜劇」?それについてチェーホフ自身は何の注釈も残していないようです。だから私があてずっぽうに推察するにー。
 一個人の変転も、一族の没落も、一国の興亡も、この世の出来事はすべて「夢のまた夢」。インドのヴェーダ思想で唱える「幻影(マーヤ)」に過ぎないわけです。だとすると、いかに深刻に見えるような出来事も「神の戯れ(リーラ)」であり、その根っこにはコズミック・ジョークが潜んでいるのです。

 インド思想に直接触れていたかどうかはともかく、死を間近にしたチェーホフにはそんな達観があったのではないでしょうか。
 チェーホフは短編・中篇小説の類い稀な作り手でもありました。こちらは折りに触れて全集中の作品を読んできましたが、あらためてまた読み返してみようと思います。

 (大場光太郎・記)

参考
中央公論社版『世界の文学』「チェーホフ-桜の園」(神西清訳)
関連記事
『フォレスタの「花の街」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-6dd3.html

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『雪女』-美しくも哀しい幻想譚

-泡沫(うたかた)の現世(うつしよ)のつかの間を、雪女と共に暮らした男の物語-

『雪女』(ネット図書館「青空文庫」版)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000258/files/50326_35772.html
 (直前、同本文をそのまま転載公開しました。)

 『雪女』は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン-以下この名を用いることもあり)の、今からほぼ100年前の『KWIDAN』(「怪談」)でも『耳なし芳一』などとともに有名な作品です。

 私は今から20年ほど前、多少なりとも「文章力に覚えのある者」として(?)、それを生かす道(早い話が「カネになる道」)はないかといろいろ探り、『募集ガイド』という雑誌を一定期間講読したことがあります。その中に、冬の時期、東北のある県主催で「雪の幻想小説コンテスト」というような企画があることを知りました。
 咄嗟に『これだ !』と思いました。

 何せ私は毎度言うとおり、雪国山形の出身で、子供の頃嫌というほど雪を見ながら育ったのです。それに加えて、ポーや乱歩など「怪奇幻想譚」は好きな文学ジャンルの一つでもあります。だから「雪の幻想性ならお手のもの」とばかりに、早速私なりの雪物語をあれこれ考えてみました。
 その時真っ先に思い浮かんだのが、ロシアのある作家の、真っ白い雪の中に絶対に人が通らない状況なのになぜかしっかり残されていた足跡を巡る幻想譚、そしてこの『雪女』でした。

 20世紀ロシア作家の短編はタイトルもストーリーの細部も忘れてしまったくらいですから、置いておくとして。『よーし、小泉八雲の「雪女」に迫るくらいの短編を創ってやるぞ』と意気込んだまではいいものの、いくら頭をひねってもそれらしい物語が少しも浮かんでこないのです。
 それで結局その試みは断念せざるを得なかったのでした。

 のっけから脱線してしまいましたがー。
 雪の幻想性を極限まで高めたラフカディオ・ハーンの『雪女』は、世界的に見ても「雪文学」の最高峰に位置すると思われます。これは短編というよりは「短文」といった方がよさそうな短さですが、そこには怪奇性、幻想性のエッセンスが凝縮されています。

 「雪女」というからには、やはり東北か北陸の豪雪地帯が舞台かと思いきや。物語の書き出しで早々と「武蔵の国のある村」と特定されています。しかし昔々の武蔵の国は、国木田独歩の名作『武蔵野』にあるとおり、一帯を「絶類の美」で鳴らした雑木林に覆われ、なおかつ雪も今よりずっと多かったに違いないのです。
 この物語の武蔵の国の村とは、武蔵国西多摩郡調布村(現・東京都青梅市)とされているようです。

 しかし奇妙なことに、最近の研究でも、その近辺には雪女にまつわる伝承や口伝は伝えられていないようです。『怪談』の他の物語がそうであるように、『雪女』も妻の小泉セツが八雲に原話を語り聞かせたものに違いありません。そして他の物語はすべて原典があります。ではセツは一体どこからこの話を仕入れたでしょうか。
 可能性としてー。晩年の八雲は、出雲(島根県)から東京の新宿に移り住みました。その家のお手伝いのうち二人が青梅出身だったといいます。だからセツが二人と世間話をしている時に、どちらかが何気なく語った話だったのかもしれません。

 それをラフカディオ・ハーンは、類い稀な「雪の幻想物語」にまで昇華したのです。
 父親の出身地のアイルランドで育ったハーンは子供時代から霊感が強く、何度も「お化け」を見たといいます。霊感の強さからくる神秘的なものへの畏れと憧れ。加えてアメリカ時代は新聞記者、作家でもあったハーンの文学的素養によって生み出されたのが『雪女』だったように思われます。

 この物語は老若二人の木こりが森に行った帰り途大吹雪に遭い、川の渡し場の小屋で寝泊りするところから始まります。するとこの川は多摩川だったことになります。事実多摩川のその近辺には、当時幾つもの渡し場があったといいます。
 そして「川」こそは、この幻想譚にあって重要な装置であるのです。以前の『川向こう・考』でも見ましたが、川は「この世とあの世を分ける結界」であり、「川向こうは異界」という意味合いがあるのでした。

 なおも好都合なことに、この場所は洪水のたびに流されて(人為的な)橋が架けられていないのでした。おそらく、ひときわ寒くなった深夜に小屋に忍び入ってきた「雪女」は、ずっと向こうの森の方からやってきたものなのでしょう。

 これ以後物語は佳境となるわけですが、それは本文をじっくり味わってお読みいただくとしてー。ここでは一、二点だけ指摘しておきたいと思います。

 雪女は巳之吉の顔をのぞきこんで、「あなたは美少年だから、助けてあげる」と言って、殺しませんでした。もっとも二人とも殺されていたら後の物語は成立しなかったわけですが、これには、両親の不仲でギリシャ人の母と3歳で生き別れたハーンの、「母への思慕や愛情の裏返しである」というハーン研究家の指摘があります。

 その時雪女はまた、「今夜見たことを誰かに云ったら、あなたを殺します」とも言いました。
 しかし巳之吉はずっと後年、ついに美しい妻にその夜のことを話してしまいます。実は雪女だった妻は巳之吉を殺したでしょうか。いいえ。子供たちが不憫だからと、殺さずに雪女は静かに去っていくのです。

 雪女は雪の精であるとともに、妖怪という禍々しさもあわせ持つ存在です。本来あの世的存在との約束は固く守られなければなりません。もしこれが、厳格な西洋契約社会の(「残酷童話」の)グリム童話だったら、雪女は容赦なく男を殺し、子供たちも皆殺しにして平然と去っていったかもしれません。
 しかしハーンの雪女の去っていき方はどうでしょう。ハーン自身が日本の「和の文化」に強く影響されたからなのか、巳之吉や子供たちへの未練をたっぷり残しながらの、余韻、余情が深く残る去り方なのです。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『読売新聞』(2012年10月7日日曜版1、2面-「名言巡礼」)
関連記事
『川向こう・考』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-0d36.html

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小泉八雲『雪女』(本文)

  雪女 (YUKI-ONNA)    小泉八雲

 武蔵の国のある村に茂作、巳之吉と云う二人の木こりがいた。この話のあった時分には、茂作は老人であった。そして、彼の年季奉公人であった巳之吉は、十八の少年であった。毎日、彼等は村から約二里離れた森へ一緒に出かけた。その森へ行く道に、越さねばならない大きな河がある。そして、渡し船がある。渡しのある処にたびたび、橋が架けられたが、その橋は洪水のあるたびごとに流された。河の溢れる時には、普通の橋では、その急流を防ぐ事はできない。

 茂作と巳之吉はある大層寒い晩、帰り途で大吹雪に遇った。渡し場に着いた、渡し守は船を河の向う側に残したままで、帰った事が分った。泳がれるような日ではなかった。それで木こりは渡し守の小屋に避難した――避難処の見つかった事を僥倖に思いながら。小屋には火鉢はなかった。火をたくべき場処もなかった。窓のない一方口の、二畳敷の小屋であった。茂作と巳之吉は戸をしめて、蓑をきて、休息するために横になった。初めのうちはさほど寒いとも感じなかった。そして、嵐はじきに止むと思った。
 老人はじきに眠りについた。しかし、少年巳之吉は長い間、目をさましていて、恐ろしい風や戸にあたる雪のたえない音を聴いていた。河はゴウゴウと鳴っていた。小屋は海上の和船のようにゆれて、ミシミシ音がした。恐ろしい大吹雪であった。空気は一刻一刻、寒くなって来た、そして、巳之吉は蓑の下でふるえていた。しかし、とうとう寒さにも拘らず、彼もまた寝込んだ。
 彼は顔に夕立のように雪がかかるので眼がさめた。小屋の戸は無理押しに開かれていた。そして雪明かりで、部屋のうちに女、――全く白装束の女、――を見た。その女は茂作の上に屈んで、彼に彼女の息をふきかけていた、――そして彼女の息はあかるい白い煙のようであった。ほとんど同時に巳之吉の方へ振り向いて、彼の上に屈んだ。彼は叫ぼうとしたが何の音も発する事ができなかった。白衣の女は、彼の上に段々低く屈んで、しまいに彼女の顔はほとんど彼にふれるようになった、そして彼は――彼女の眼は恐ろしかったが――彼女が大層綺麗である事を見た。しばらく彼女は彼を見続けていた、――それから彼女は微笑した、そしてささやいた、――『私は今ひとりの人のように、あなたをしようかと思った。しかし、あなたを気の毒だと思わずにはいられない、――あなたは若いのだから。……あなたは美少年ね、巳之吉さん、もう私はあなたを害しはしません。しかし、もしあなたが今夜見た事を誰かに――あなたの母さんにでも――云ったら、私に分ります、そして私、あなたを殺します。……覚えていらっしゃい、私の云う事を』
 そう云って、向き直って、彼女は戸口から出て行った。その時、彼は自分の動ける事を知って、飛び起きて、外を見た。しかし、女はどこにも見えなかった。そして、雪は小屋の中へ烈しく吹きつけていた。巳之吉は戸をしめて、それに木の棒をいくつか立てかけてそれを支えた。彼は風が戸を吹きとばしたのかと思ってみた、――彼はただ夢を見ていたかもしれないと思った。それで入口の雪あかりの閃きを、白い女の形と思い違いしたのかもしれないと思った。しかもそれもたしかではなかった。彼は茂作を呼んでみた。そして、老人が返事をしなかったので驚いた。彼は暗がりへ手をやって茂作の顔にさわってみた。そして、それが氷である事が分った。茂作は固くなって死んでいた。……

 あけ方になって吹雪は止んだ。そして日の出の後少ししてから、渡し守がその小屋に戻って来た時、茂作の凍えた死体の側に、巳之吉が知覚を失うて倒れているのを発見した。巳之吉は直ちに介抱された、そして、すぐに正気に帰った、しかし、彼はその恐ろしい夜の寒さの結果、長い間病んでいた。彼はまた老人の死によってひどく驚かされた。しかし、彼は白衣の女の現れた事については何も云わなかった。再び、達者になるとすぐに、彼の職業に帰った、――毎朝、独りで森へ行き、夕方、木の束をもって帰った。彼の母は彼を助けてそれを売った。

 翌年の冬のある晩、家に帰る途中、偶然同じ途を旅している一人の若い女に追いついた。彼女は背の高い、ほっそりした少女で、大層綺麗であった。そして巳之吉の挨拶に答えた彼女の声は歌う鳥の声のように、彼の耳に愉快であった。それから、彼は彼女と並んで歩いた、そして話をし出した。少女は名は「お雪」であると云った。それからこの頃両親共なくなった事、それから江戸へ行くつもりである事、そこに何軒か貧しい親類のある事、その人達は女中としての地位を見つけてくれるだろうと云う事など。巳之吉はすぐにこの知らない少女になつかしさを感じて来た、そして見れば見るほど彼女が一層綺麗に見えた。彼は彼女に約束の夫があるかと聞いた、彼女は笑いながら何の約束もないと答えた。それから、今度は、彼女の方で巳之吉は結婚しているか、あるいは約束があるかと尋ねた、彼は彼女に、養うべき母が一人あるが、お嫁の問題は、まだ自分が若いから、考えに上った事はないと答えた。……こんな打明け話のあとで、彼等は長い間ものを云わないで歩いた、しかし諺にある通り『気があれば眼も口ほどにものを云い』であった。村に着く頃までに、彼等はお互に大層気に入っていた。そして、その時巳之吉はしばらく自分の家で休むようにとお雪に云った。彼女はしばらくはにかんでためらっていたが、彼と共にそこへ行った。そして彼の母は彼女を歓迎して、彼女のために暖かい食事を用意した。お雪の立居振舞は、そんなによかったので、巳之吉の母は急に好きになって、彼女に江戸への旅を延ばすように勧めた。そして自然の成行きとして、お雪は江戸へは遂に行かなかった。彼女は「お嫁」としてその家にとどまった。

 お雪は大層よい嫁である事が分った。巳之吉の母が死ぬようになった時――五年ばかりの後――彼女の最後の言葉は、彼女の嫁に対する愛情と賞賛の言葉であった、――そしてお雪は巳之吉に男女十人の子供を生んだ、――皆綺麗な子供で色が非常に白かった。
 田舎の人々はお雪を、生れつき自分等と違った不思議な人と考えた。大概の農夫の女は早く年を取る、しかしお雪は十人の子供の母となったあとでも、始めて村へ来た日と同じように若くて、みずみずしく見えた。
 ある晩子供等が寝たあとで、お雪は行燈の光で針仕事をしていた。そして巳之吉は彼女を見つめながら云った、――
『お前がそうして顔にあかりを受けて、針仕事をしているのを見ると、わしが十八の少年の時遇った不思議な事が思い出される。わしはその時、今のお前のように綺麗なそして色白な人を見た。全く、その女はお前にそっくりだったよ』……
 仕事から眼を上げないで、お雪は答えた、――
『その人の話をしてちょうだい。……どこでおあいになったの』
 そこで巳之吉は渡し守の小屋で過ごした恐ろしい夜の事を彼女に話した、――そして、にこにこしてささやきながら、自分の上に屈んだ白い女の事、――それから、茂作老人の物も云わずに死んだ事。そして彼は云った、――
『眠っている時にでも起きている時にでも、お前のように綺麗な人を見たのはその時だけだ。もちろんそれは人間じゃなかった。そしてわしはその女が恐ろしかった、――大変恐ろしかった、――がその女は大変白かった。……実際わしが見たのは夢であったかそれとも雪女であったか、分らないでいる』……
 お雪は縫物を投げ捨てて立ち上って巳之吉の坐っている処で、彼の上に屈んで、彼の顔に向って叫んだ、――
『それは私、私、私でした。……それは雪でした。そしてその時あなたが、その事を一言でも云ったら、私はあなたを殺すと云いました。……そこに眠っている子供等がいなかったら、今すぐあなたを殺すのでした。でも今あなたは子供等を大事に大事になさる方がいい、もし子供等があなたに不平を云うべき理由でもあったら、私はそれ相当にあなたを扱うつもりだから』……
 彼女が叫んでいる最中、彼女の声は細くなって行った、風の叫びのように、――それから彼女は輝いた白い霞となって屋根の棟木の方へ上って、それから煙出しの穴を通ってふるえながら出て行った。……もう再び彼女は見られなかった。
 (田部隆次訳)

【注記】以上は、小泉八雲原作、田部隆次訳による『雪女』全文です。続いてこの作品の感想を述べる予定のため、短い作品ですからネット版『青空文庫』より転載しました。(ついでに言えば、この作品は著作権消滅作品でもあります。)

転載元
『青空文庫』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000258/files/50326_35772.html

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