『水滸伝』原典翻訳版を読み返して(その1)
中国中央電視台版ドラマ『水滸伝』より
こういう記事は、年末年始のように時間的余裕のある時でないとまとめられないので-。
昨年秋頃、原典翻訳版(平凡社版完訳・駒田信二訳)『水滸伝』の三回目を読了した。こちらは『水滸伝』百二十回本の完訳本である。それ以外に同伝百回本(講談社学術文庫版・井波律子訳)もあるが、こちらは一昨年読了した。平凡社版『水滸伝』は二十代後半の頃初読したので都合4回読んだことになる。なお百二十回本と百回本の違いは、後半部、梁山泊軍が宋朝の招安(しょうあん)を受け帰順してから、河北の田虎討伐、准西の王慶討伐があるかないかの違いである。
日本・海外の文学でこんなに身を入れて読んだ作品は他に例がない。読んだとしても、芥川龍之介『蜘蛛の糸』『杜子春』、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』『セロ弾きのゴーシュ』、志賀直哉『城之崎にて』『小僧の神様』、横光利一『春は馬車に乗って』、梶井基次郎『檸檬』『桜の樹の下には』、三島由紀夫『仮面の告白』『金閣寺』など。海外文学ではシェイクスピア『ハムレット』、スタンダール『赤と黒』、アラン・ポー『モルグ街の殺人』『黒猫』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、チェーホフ『桜の園』『谷間』、魯迅『阿Q正伝』『故郷』『藤野先生』などを2、3度読み返したくらいである。
私がそもそも『水滸伝』に縁したきっかけは、中学2年に進級するすぐ前の春休み、学校の図書館で岩波少年文庫版『水滸伝』(全三冊)を借りて読み耽ったことである。昭和38年(1963年)春だから、今から五十数年以上前のことになる。以来、『水滸伝』の隠れファンになったというか、そのとりこになったのである。岩波少年版は確か、梁山泊に百八人の英雄、好漢が大集合したところで終わりになっていたかと思う。その後官軍の3度に渡る梁山泊討伐に完勝し、余裕で宋朝の求めに応じて帰順することになった梁山泊軍は、最後の江南の方臘(ほうろう) 討伐にあたり、三分の二以上の義兄弟たちが非業の戦死を遂げる。そのことが少年たちにはふさわしくないとの判断からか、岩波少年文庫版では招安以降、遼討伐や方臘討伐は省かれていた。ということは、同文庫版は、(清朝初期から同朝を打倒した孫文主導の辛亥革命(1911年)あたりまで長期に渡って読み継がれたという)七十回本を底本としたのかもしれない。
ちなみに一方の中国古典『三国志』を知ったのは中学2年の夏休み、吉川英治著『三国志』によってである。当時、六興出版社が全26巻本を出していてそれを読んだのだが、こちらもたちまちその魅力に没頭しあっという間に全巻読了した。が、『三国志演義』の方はまだ原典完訳版を読んだことがない。今後機会があれば是非こちらも読了してみたいものである。
以来、今日まで並みの人様以上には国内・国外の文学作品中心に本は人一倍読んできたつもりである。が、あの時の少年版『水滸伝』吉川版『三国志』の血湧き肉踊るような読書体験はついぞしたことがない。夏目漱石『こころ』、島崎藤村『破戒』、武者小路実篤『青春』、太宰治『斜陽』、アレクサンドル・デュマ『モンテ・クリスト伯』、ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』『春の嵐』、アンドレ・ジイド『狭き門』、サマセット・モーム『月と六ペンス』など読後深い感動を覚えた作品はずい分あったのだが・・・。
『水滸伝』は、百八人好漢たちが本格始動する宋(北宋)末期の50年ほど前にプロローグが始まる。仁宗皇帝の世のある年、宋の国には疫病が蔓延し、手の施しようもない状態だった。それを重く見た朝廷は、協議の上、江西は信州の竜虎山に庵を結ぶ徳高く霊験あらたかな大導師に都(開封東京府)に来てもらい祈祷をしてもらうことにする。使者として赴いたのは洪大尉である。洪大尉は麓の道院から竜虎山に単独行を試みるも、守備果たせず途中で引き返す。道院で懇ろにもてなされての一泊後、道院内を案内されて回る。が、外れにある建物だけは見せない。不審に思った洪大尉は、止めるのもきかず自らそちらに歩いていく。見れば「伏魔之殿」とあるではないか。いよいよ興味を覚えた洪大尉は、扉に幾重にも封印がしてあり大きな鍵もかかっているのに、道院責任者に「いいから中に入らせろ」と言ってきかない。仕方なく封印を破り鍵を壊して何百年かではじめて中に入ると、そこは漆黒の闇。何人かが松明をかざして真ん中に進むと、でんと大きな石碑がありその一角に「洪遭而開」(洪に遭いて開く)と刻まれているではないか。「ほら見ろ」とばかりに、ついでに石碑を倒させ、地中まで掘り起こさせるとそれから下は石板でしっかりガードしてある。「いいからそれも掘り返せ」との洪大尉の叱咤にやむなく掘り返してみると、ゴーッという大音響とともに奈落の底から凄まじい妖気が立ち上ってくる。それは建物の屋根を突き破り、空を暗くしながら百以上の光の玉となって四方八方に飛び散っていく。腰を抜かさんばかりに驚いた洪大尉は、道院の者にも共の者にもかん口令を敷いて都に帰ってみると、大導師は既に儀式を済ませてお山に帰った後なのだった。
北宋末期(同朝最後の徽宗皇帝の代)、世の中は乱れに乱れ、『水滸伝』中最大の敵役・高俅や蔡京、童貫のような奸臣たちがはびこり、役人たちの賄賂せびりは日常茶飯事だった。そんな世相に嫌気を差した宋江を頭領とする三十六人の主だった者が宋朝に反旗を翻す。それに呼応して多くの農民らが兵となって加わったのである。宋江らは各地で善戦し、官軍もほとほと困り果てたらしい。その様を見て当時の歴史家は「宋江は衆に優れた知恵の持ち主なるべし」と記したという。がある時の海浜での官軍戦で破れ、官軍側の張淑夜(ちょうしゅくや)の投降勧告に従い、宋江らは帰順する。なお張淑夜は、招安を仲立ちした斉州太守として『水滸伝』にも登場する。これは史実であるが、帰順後の宋江らの足跡ははっきりしていない。方臘討伐に触れた歴史書に宋江の名前が記されているというが、後世に書き加えられたという説もあり定かではない。
この宋江の乱は当時の民衆に大きなインパクトを与えたらしい。同乱平定直後から、宋江たちの活躍は語り継がれていくのである。その中で頭領の宋江が類い稀な人徳者と讃えられたように、民衆から同乱は好意的に受け止められていたということである。民への略奪などは行わず、立ち向かったのは腐敗しきった官軍のみ。その「世直し反乱」が民衆の共感を呼び、街の辻で講釈師が『水滸伝』原型となる物語を語り出すと拍手大喝采だったという。
こうして物語には尾ひれがつき、三十六人はその昔伏魔殿から飛び出した百八魔星の生まれ変わり、天罡星(てんこうせい)三十六人、地煞星(ちさつせい)七十二人、合計百八人の英雄、豪傑大活躍の物語ということになっていくのである。『水滸伝』説話は各地で語られ、聞き手である民衆の反応具合によって、ある特定の人物に特化した講釈師も現れ、こうして林冲、魯智深、武松、李逵、燕青などを得意として語る講釈師によって話はさらにどんどん膨らんでいき、遂には中国古典中最大の分量の物語へと発展していったのである。
こうして南宋、元、明と長い歳月をかけて民衆たちが紡ぎ出してきたに等しい物語を、集大成して『水滸伝』全巻としてまとめたのが明朝初期の施耐庵(したいあん)といわれている。施耐庵は江南の人で、江南の方臘討伐の地名の位置などは正確であるものの、河北、山東などの地名の位置取りに誤りがあるのはそのためと言われている。なお施耐庵自身、若い頃ある反乱軍に加わった経験があり、それが水滸伝の戦闘シーンの描写に大いに役立ったのではないか、と見る研究者もいる。
『水滸伝』の由来は、四方を広大な湖に囲まれた梁山泊を宋江以下の百八人好漢たちが拠点としたからである。実際反乱を起こした宋江たちが梁山泊を拠点としたという根拠はないから、これはフィクションなのである。しかし官軍が大挙して攻撃して来ても容易には落とせない難攻不落の湖の中の島要塞とは、宋の国の中の独立国のようなものであり、人々のロマンを掻き立てるに十分な設定ではある。
「梁山泊」は千年近い前実在した地名だという。ご存知のとおり中国には北の「黄河」と南の「長江」という二大河川があり、それに挟まれた広大な地域こそ「中華」なのであり、洛陽、許都(魏の曹操によって建てられた都)、長安、東京開放府など古来の王朝は主にそのどこかを首都として栄えてきたのである。ところで両川は、黄河はたびたび氾濫を起こす暴れ川、対して長江は常に穏やかに流れる川として知られている。黄河上流域は乾燥しきった砂漠地帯だから、上流で雨でも降れば砂混じりの土砂がドッと流れ込み現代のような護岸技術のなかった昔は下流域でしばしば氾濫に見舞われたということなのだろう。梁山泊もそうした氾濫によって形成されたらしいのである。たまたま北宋末期にはそれがいい具合の湖になっており(その後二百年くらいで湖は消えたらしい)、中ほどに取り残された一つの山がまるで孤島のように残っていた。それを『水滸伝』の格好の舞台として、民衆語り部たちは見逃さなかったということなのだろう。 (以下次回に続く)
(大場光太郎・記)
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