冬の名句(1)

                   加藤 秋邨

   木(こ)の葉ふりやまずいそぐなよいそぐなよ

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《私の鑑賞ノート》
 加藤秋邨(かとう・しゅうそん) 明治38年東京生まれ。本名加藤健雄。昭和6年誘われて秋桜子の「馬酔木(あしび)」に投句。昭和14年第1句集『寒雷』を刊行。昭和15年俳誌「寒雷」を創刊、主宰となる。第9句集『まぼろしの鹿』で第12回蛇笏賞、第11句集『怒涛』で第2回詩歌文学館賞を受賞。ほかに第1回現代俳句大賞、紫綬褒章、勲三等瑞宝章、朝日賞受賞。『加藤秋邨全集(全14巻)』ほか、芭蕉の研究など。芸術院会員。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 この句における{木の葉」は冬の季語で、「落ちてしまった葉、あるいは樹上にとどまってまさに落ちんとする枯葉」のことです。この句は平明な句で、説明など必要としないだろうと思います。初冬、木の葉がはらはら降り止まないのです。そのさまを眺めながら加藤秋邨は『いそぐなよいそぐなよ』と思って見ているわけです。「急ぐなよ急ぐなよ」ではない、ひらがな言葉の呼びかけが、実によく秋邨の想いを伝えていると思います。

 О・ヘンリーの感動的な名短編に『最後の一葉』というのがありました。明日をも知れぬ重病の少女・ジョンジーが床に臥せりながら、隣の壁の蔦の枯葉に自分の命を同化させて残り葉を数えます。「あと6枚、5枚、4枚…。最後の一枚が落ちてしまうと、私も逝くんだわ」。しかし何という奇跡か。夜通しの雨嵐にも関わらず最後の一枚だけが落ちずに残っていた。それに勇気づけられたジョンジーは、見る見る元気を回復し死地を脱する…。
 やはり樹木から切り離されるようにして落ちていく木の葉には、「生命」との断絶というようなことを感じさせます。私たちが死ぬということは、肉体から「魂(たま)の緒」(シルバーコード)が切られ、魂(たましい)が静かに離れていくことであるように。

 ところで。私は先月下旬の晴れたある夕方、「木の葉ふりやまず」の情景に立会いました。所用で隣町のI市に行った時のことです。ある社の用事が済んでの帰り、とある住宅地内の道路を通ったのです。すると道路の両側に落葉がいっぱい吹き溜まっています。
 道路に接した小さな児童公園の木々が降らせた木の葉です。その公園はひっそり閑(かん)として人一人いません。時刻は午後4時少し前。眺めれば座れるベンチもありそうなので、私は車を停めて公園の中に入って一服することにしました。

 児童公園は普段あまり人が来ない上に、自治会の掃除も行き届いていないようです。というのも、公園の地面には落葉が一面に積もり放題なのです。周りには5階建てくらいの大きなマンションやら、住宅がびっしり建て混んでいるのにです。
 しかし私のような風変わりな者には、それが幸いしたというべきです。幅15m、奥行き10m強くらいの小公園はさながら、晩秋のすがれた廃園といった趣きなのです。何とはなしに郷愁を感じさせられる森閑としたたたずまいです。園内には桜の木が10本ほど、公孫樹(いちょう)の木が数本ほど一定間隔で植えられています。両木ともまだ十分落ち尽くしていない枝々からは、1枚、2枚、3枚…、ひらひらはらはらと静かに地面に落ちていくのです。誰も手入れをしないものだから、木の周りは桜落葉の赤い色、そして公孫樹落葉の真っ黄色い色が、互いに色分けされて地面を覆い尽くさんばかりです。私が腰掛けた白い色のベンチにも、桜落葉が10枚ほど乗っかっています。

 木が植わっていない公園の真ん中辺りには四角い砂場。その周りをライオン、ラクダ、アザラシ、ウシといった遊具の動物が取り囲んでいます。子供たちがちっとも遊びに来てくれなので、表情はどことなく寂しげで、所在無げにぽつねんとうずくまっている感じです。
 そして公園の東、西、北の際の方に、滑り台、シーソー、ブランコというお決まりの児童公園3点セット。私が座っているベンチにほど近いブランコは、小さいのが四つ並んでいます。なぜかその中の一つだけが、風に少しばかりゆらゆらと。
 木々の見えない所で、時折り小鳥たちが甲高い声でさえずったりしています。座って眺めやる北の方角の青空には、木々の少し上に夕の浮雲が見られました。

 そうしている間にも、木の葉はひらひらはらはらと…。

 (大場光太郎・記)

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秋の名句(4)

                 原 石鼎

   頂上や殊(こと)に野菊の吹かれ居り

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《私の鑑賞ノート》
 原石鼎(はら・せきてい) 略歴につきましては、『模様のちがふ皿二つ』参照のこと。

 11月7日はもう暦の上では「立冬」です。にもかかわらず当日は、ぽかぽか陽気の晴れて暖かな一日でした。でも俳句を少しでもかじっている者ならば、当日のそんな天気は晩秋晴れの良き日ではなく、小春日和の良き日と感じなければならないのでしょう。
 とはいうものの。現実的な季節感からすれば、湘南の海にほど近く海抜さほど高くない当地などは特に、11月いっぱいは晩秋と捉えたくなります。
 というわけで、当ブログでは今しばらく「秋の名句」を味わっていくことにしたいと思います。

 この句では何が季語かと言いますと、「野菊」です。その他に「菊」「残菊」「残る菊」など皆秋の季語となります。野菊は都会ではまず見られないでしょうが、少し地方に行けば今でも野辺などに群生して咲いているのを見かけます。秋もいよいよ深まった晩秋の季語としてふさわしい花のように思います。
   遠い山から 吹いてくる
   こ寒い風に 揺れながら
   気高く清く 匂(にお)う花
   きれいな野菊 うすむらさきよ  (石森延男:作詞『野菊』1番)

 晩秋のさる日原石鼎は、とある山に登ったのです。といっても登山家が命がけで登攀を試みるような高峰ではありません。どこか登るに手ごろな何100mかの里山、あるいはせいぜい1000m強くらいといった感じの山ではないでしょうか?しかしそんな山ではあっても、その頂上に辿り着いた達成感はまた格別です。
 その達成感、感激が、発句の「頂上や」によく現れていると思います。

 そしていざ頂上に立ってみて、石鼎の目に真っ先に飛び込んできたのが野菊です。そのようすをじっくり見てみるに、「殊に野菊の吹かれ居り」。頂上ですから吹きつける風も一段と強いのです。
 山は標高が100m高くなるごとに、およそ1.6℃気温が下がるといいます。里より何100mか高くなると、もうそれだけでかなり寒く感じます。その上強風ですから、体感では余計寒く感じられたはずです。

 いつも里に咲く野菊を目にすることはあっても、山の頂上に咲く野菊の姿を目にしたのはおそらく初めてなのでしょう。「遠い山から吹いてくる こ寒い風に揺れながら」どころか、吹きつのる強風にか細い身をふるわせながら、普段は遠い山として見上げているただ中でさえ野菊は咲いている。その姿の健気さ、いとおしさ。
 原石鼎にとって、それは新しい発見であり感動であったに違いありません。

 (大場光太郎・記)

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秋の名句(3)

                 村上 鬼城

   痩馬(やせうま)のあはれ機嫌や天高し

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《私の鑑賞ノート》
 村上鬼城(むらかみ・きじょう) 1865年(慶応元年)東京生まれ。本名は村上荘太郎。元鳥取藩士の長男として軍人を志すも、18歳で重度の耳疾を病み断念。父の跡を継いで群馬県の高崎裁判所構内で司法代書人となる。
 正岡子規の教えをこい、やがてホトトギス同人となり「境涯の俳人」と呼ばれる。「古今独歩の俳人」(高浜虚子)「明治大正俳壇の第一人者」(大須賀乙字)「当代第一の作家」(飯田蛇笏)と三俳人から高い評価を受けた。『村上鬼城句集』『続村上鬼城句集』などの句集がある。1938年(昭和13年)没。73歳。

 10月下旬ともなると、大気が澄んで空が一段と高く感じられます。その感じを指す秋の季語が「天高し」です。秋の深まりとともに、真夏の地熱も収まり、地面は徐々に冷えてきます。そして大気の状態が安定し、さして強い風も吹かなくなります。また二百十日(9月初旬)前後の台風、その後の秋の長雨の後なので、ちりやごみが立ちにくくもなります。このため今頃の秋空は、一年のうちで一番澄んで高く見えると言われています。

 この句の「天高し」そしてやせ馬の「馬」から連想されるのは、「天高く馬肥ゆる秋」という昔からの成句です。これは我が国では、秋の爽快感や実りの秋の食欲旺盛になるさまを表す慣用句として定着しています。
 
 この慣用句のそもそもの語源は古代中国です。元の漢語は「秋高馬肥」。ただし肥えている馬は漢民族の馬ではなく、北方の匈奴(きょうど)の馬を指しています。『秋風辭』でも述べましたが、漢の武帝の時代領土は漢民族史上最大となりました。しかしそれでも北の辺境では、それ以北の匈奴からたびたび侵攻を受けていたのです。匈奴は北方騎馬民族で騎馬戦にはめっぽう強いのです。夏の間繁茂した牧草をたっぷりと食べさせ、馬が肥え太った秋に南侵してくることが多かったのです。
 司馬遷の史書『史記』の「匈奴列伝」にも、「秋、馬肥ゆ時期は漢民族にとっての大きな脅威の時」と記してあるそうです。

 つまり「秋高馬肥」は、前漢時代から北方の外敵に対する脅威を表わす成句であったわけです。それは後の唐の時代にも受け継がれ、唐の後の時代には脅威が現実のものとなります。すなわち北宋は北方民族の女真(じょしん)族の侵略により、黄河一帯から長江付近にまで押しやられ(南宋)、また次の時代には蒙古民族によって中国全土が侵略され、元(げん)という蒙古人国家が成立してしまったのです。
 また中国最後の王朝である清朝(しんちょう)は、これまた北方満州族の建国によるものです。清の時代北方脅威論は、当時列強国化していたロマノフ王朝のロシアに対して向けられることになり、秋高馬肥の成句を引用してその脅威を唱えた文章も著わされたようです。

 それはともかく。村上鬼城のこの句は、日本語として慣用句化された「天高く馬肥ゆる秋」を踏まえて作られたものと推察されます。
 鬼城は裁判所の訴状の司法代書人(後の司法書士)のかたわら、婦人とともに農作業にいそしむことも多かったようです。ですからこの句の「痩馬」は、農作業のある時目の当たりにした馬の姿の実写だと思われます。
 
 どこまでも抜けるように青い秋空の季節。とある地上の痩馬。上記の慣用句とのアンバランス。
 鬼城の観察眼では、そんな痩馬がなぜかご機嫌なようすに感じられたのです。そのことがかえって哀れを誘います。俳諧味と表裏にある深い哀しみ。といっても、作者にはどうしてやることも出来ず、ただそのようすをじっと見守るのみです。

 「あはれ機嫌や」に、鬼城の痩馬に対するシンパシー(共感)を感じます。それなしに、この句は生まれなかったと思います。いつかまたご紹介する機会があるかもしれませんが、村上鬼城の句には、この句のように「生きとし生けるもの」への暖かいまなざしが感じられる句が多いのです。

 (大場光太郎・記)

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秋の名句(2)

              石田 波郷

   朝顔の紺(こん)の彼方の月日かな

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《私の鑑賞ノート》
 石田波郷(いしだ・はきょう) 略歴は『夜もみどりなる(1)』記事参照のこと。

 略歴では触れられませんでしたが、石田波郷が本格的に俳句を始めるきっかけとなったのは旧制松山中学4年時、同級生からの勧めによるものだそうです。その同級生とは中冨正三、後の俳優・大友柳太朗(1912年~1985年)でした。と言っても今の若い人たちはピンとこないかもしれません。私たち団塊の世代より前の人たちしか知らないかもしれませんが、大友柳太朗は戦後の映画全盛の頃、嵐寛寿郎や片岡知恵蔵などと共に往年の大スターだったのです。
 愛媛県松山市といえば、近代俳句の創始者・正岡子規やその継承者・高浜虚子を生んだ土地柄です。当時地元の才能ある少年の多くが俳句を志したことでしょう。そのような切磋琢磨の中から、後に戦後昭和期を代表する俳人の石田波郷のような俊秀が育っていったものと思われます。

   朝顔の紺の彼方の月日かな
 若い頃の波郷句に共通してみられる叙情性がこの句にも漲っています。朝顔の句といえば今眼前する事象を叙述、叙景した句が圧倒的に多いようです。そんな中でこの句は、朝顔の「紺の彼方」に「月日」を透かし見ているのです。これこそが波郷による新発見であったわけです。
 波郷が眼前の朝顔の彼方に透視した「月日」とは、どんな月日だったのでしょう?来し方の「過去の月日」だったのか。それともまだ見ぬ「未来の月日」だったのか。それをうかがい知るには、この句が作られた頃の時代背景を探ってみる必要がありそうです。

 この句は昭和18年5月刊の句集『風切』に収録されています。ですからこの句が作られたのは前年の昭和17年の秋と考えてよいのでしょう。
 昭和17年6月波郷は結婚し、同句集が発刊された同月に長男が生まれています。波郷30歳頃のことですが、その頃が波郷にとって幸せのピークと言ってよい時期だったと思われます。だからこの句の「月日」は、やがて生まれてくるわが子と共に歩むであろう、遠い未来の月日と捉えられないこともありません。
 しかし当時の時代状況を考えてみますと、必ずしもそうとばかりは言い切れないように思います。既にお分かりかと思いますが、この時期は我が国の歴史始まって以来最大の戦争の真っ最中だったからです。「戦争」という重苦しいものが国民全体の上に覆いかぶさっていたのです。

 昭和16年12月8日真珠湾攻撃で始まった日米戦争は、開戦当初こそ日本軍が勝ち戦を重ねたものの、土台彼我の戦力、国力の差は歴然で、月日を重ねるごとに日本軍の旗色が悪くなる一方でした。
 ちょうど波郷が結婚した昭和17年6月の5日、日本軍の負け初めとなる大きな出来事がありました。ミッドウェー海戦です。同海戦の敗北以後、日本陸海軍は一度も態勢を盛り返せず、ガダルカナル、アッツ島、インパールなどの各戦線で敗退に次ぐ敗退を重ねていくことになるのです。

 何しろ言論統制下の戦時中です。大本営は国民に負け戦を隠し続けました。だからこの句を詠んだと思われる昭和17年秋、波郷が正確に戦局を認識していたかどうかは分かりません。そもそも波郷が戦争をどう捉えていたのか、私は寡聞にして知りません。
 しかしその後の波郷の歩みから推測するに、波郷は同戦争の積極的支持者だったとは考えにくいのです。むしろ、長引くだけでいまだ帰趨の見えない戦争に、どこか厭戦(えんせん)気分があったのではないでしょうか。

 少し回りくどくなりましたが。そんな時局であったことを考えると、この句の「紺の彼方の月日」は、将来展望としての未来の月日ではなく、回想としての「過去の月日」だったのではないだろうかと思われるのです。
 以前ご紹介した、1932年19歳で上京し「プラタナス夜(よ)もみどりなる夏は来ぬ」のみずみずしい句を作った頃の、東京の叙情的なとある路地に咲いていた朝顔。さらにはそれ以前の郷里の村や松山市に咲いていた朝顔…。重苦しい戦時下の彼方の、来し方の懐かしい追憶の月日。

 朝顔には赤や水色など数多(あまた)の色がある中で、「紺色」。その時代の色として、俳人は無意識的にこの色を選び取ったのでしょうか。
 まもなく波郷の身にも戦争の暗い影が襲いかかり、運命が暗転してしまうことになります。それはいずれまた別の句でお伝えできればと思います。

 (大場光太郎・記)

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秋の名句(1)

             富安 風生

   秋晴れの運動会をしてゐるよ

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《私の鑑賞ノート》
 富安風生(とみやす・ふうせい) 明治18年、愛知県金沢村(現宝飯郡一宮町)生まれ。東京帝国大学法学部卒業。通信省に入り通信次官にまで到った。大正7年に俳句を始め、篠原温亭の「土上」に参加、東大俳句会を興し、高浜虚子の指導を受けた。歩を中道にとどめ、騒がず、誤たず、完成させる芸術を求めた俳人。句集に『草の花』『松籟』『村住』『晩涼』『古稀春風』『喜寿以後』『年の花』『齢愛し』などがある。昭和54年没。     (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 上記『現代の俳句』によりますと、この句の初出は昭和30年刊句集『晩涼』に収録されたもので、「北海道縦断、車窓」の前書きがあります。富安風生が老境に入ってからの北海道旅行で、車窓から見た秋の日の一光景だったものと思われます。
 もしかしたら車中の誰かが隣の席の者に、「おい、見ろよ。運動会をしているよ」とでも言ったのかもしれません。作者の風生もついつられて窓外を見てみると、なるほど線路に隣接した学校の校庭では運動会の真っ最中ではないか。そしてきょうはまた「秋晴れ」の絶好の運動会日和の良い天気で。
 そこで俳人の風生は、『その言葉いただき ! 』とばかりに、とっさにこの句を思いついて句帳に書き留めたのではないでしょうか。

 「運動会をしてをれり」というような型どおりではなく、話し言葉の平易な表現であるところが良いと思います。この平易な言葉から、運動会をしているのは多分小学生ではないだろうかという類推も自然に導かれます。
 「運動会をしてゐるよ」という日常会話的な文の前に、「秋晴れの」という季語を持ってくることによって、立派に一句として成立してしまうのです。また秋の明るい日差しの下、夢中でかけっこやら玉入れやら騎馬戦やらをしている児童たちの姿、その元気な声までもがイメージされてきます。

 過日少しふれましたが、多分この句以降のことだと思いますが、運動会は「秋の季語」と定まりました。私などの小学校時代の記憶では、運動会や遠足は共に春と秋の2回ありました。しかし理由は定かではありませんが、どうしてか運動会は秋の、そして遠足は春の季語と決まったのです。(いったんそう決まってしまうと、逆の季節の場合は、それぞれ「春の運動会」「秋の遠足」という表記になります。)

 「てるてる坊主てる坊主、あした天気にしておくれ♪」ではないけれど。運動会は何といっても秋晴れに限ります。これが「秋霖(しゅうりん)の運動会をしてゐるよ」では、陰惨な絵になってしまいシャレになりません。
 もし本当に誰かが「運動会をしているよ」と声を挙げたのであれば、それは気分の良いすっきりした秋晴れの天気がそう言わせたともいえます。そしてそれを聞いた作者風生もそれに感応して、素早く一句をものに出来た。その時風生は、自身の子供時分の運動会の思い出も懐かしく蘇ってきたかもしれません。
 
 「秋晴れ」に触発された、見ず知らずの旅客同士の心と心の触れ合いもまた伝わってくるような秀句です。

 (大場光太郎・記) 

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模様のちがふ皿二つ

             原 石鼎

   秋風や模様のちがふ皿二つ

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《私の鑑賞ノート》
 原石鼎(はら・せきてい) 明治19年島根県塩治村(現出雲市)生まれ。中学時代子規門の教師竹村秋竹に俳句を学び、松江の奈倉梧月の句会に投句。文学との葛藤の末京都医専中退。家業の医者を継がず放浪。深吉野の次兄の診療所を手伝っていた時、俳句開眼。その秀句を虚子に賞賛された。「ホトトギス」編集を手伝ったのち、大正10年「鹿火屋」主宰となる。以後、神経障害などと戦いながら秀作を残し、二宮(現神奈川県中郡二宮町)に隠棲、療養につとめた。生前の句集に『花影』『石鼎句集』などがある。昭和26年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』などより)

 周りを秋風が吹き抜けています。ふと見れば皿が二つあります。その皿の絵柄の模様が違うのです。詠まれているのは、たったこれだけ。『えっ。こんなことでも俳句になるの?』と思ってしまうような単純素朴な句です。
 「秋風」と「皿二つ」がこの句の基本的な構成要素です。原石鼎の視野の中には、種々雑多な物があったことでしょう。しかしそんな中で石鼎はなぜか皿二つにフォーカスしたのです。言ってみればそれは、石鼎によって恣意的に選ばれた対象物です。

 なぜ選んだのでしょう?「なぜだかよく分からないけれど…」というのがその答えなのかもしれません。それは多分に直感的なものであり、それはしばしば表面的な意識の理由づけを拒否する場合があるからです。
 しかし部外者があえて詮索を試みるなら、それは皿が互いに「模様のちがふ」ものだったからではないかと思われます。おそらく石鼎は、「模様のちがふ皿二つ」が深いところで「秋風」とリンクしていると直感したのです。

 これはどんな状況で(屋外なのか屋内なのか)いつ頃作られた句なのだろうか?私は何となく気になって調べてみました。そうしましたら、この句にはやや長めの「前書き」があったのです。
 「父母のあたたかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は、伯州米子に去って仮の宿りをなす」。
 先天的に詩人的だった石鼎には、家業の医者の道は向かなかったのでしょう。それで略歴にあるとおり学校も中退し、その後各地を放浪していたようです。それは遠い先人の松尾芭蕉の「わび、さび」の風(ふう)を慕ったのかもしれないし、直近の漂泊の歌人若山牧水などに憧れたのかもしれません。

 大正2年深吉野(みよしの)を去って、以後山陰の「海近きあたりをさすらへる時代」を送っていたのです。だからこの句は、その頃米子(現鳥取県米子市)に立ち寄った宿屋での一光景だと思われます。
 時に原石鼎27、8歳の頃。さすがに年老いた放浪者としての絶望感などはなかったはずです。しかしなにせ若い身空で一人流離(さすら)っている身、孤独感、悲哀がなかったといえばウソになるでしょう。「自分探し」のための放浪でもあります。それゆえ、未(いま)だ己の人生上のテーマが定まっていない焦燥感もあったことでしょう。

 そのような心境に、「秋風」は実によくフィットしていると思います。そして秋風に対応している「皿二つ」が、これまた「模様のちがふ」もので。その二枚の皿の不揃いさ、アンバランスさは、そのような石鼎の心の憂愁、焦燥、欠落を埋めるどころか、むしろざわつかせ助長させもした…。
 しかしそれが幸いして、このような名句となって結実したのだと思われます。

 (大場光太郎・記)

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芋の露と連山と

                 飯田 蛇笏

   芋の露連山影を正(ただ)しうす

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《私の鑑賞ノート》
 飯田蛇笏(いいだ・だこつ)の略歴については、昨年11月の『魂の映る菊見とは?』で述べました。高浜虚子に次いで近代俳句の発展に大いに寄与した巨匠です。それは、俳句界で最も権威ある賞が「蛇笏賞」であることにも表れています。

 当然ながら蛇笏は、秀句、名句を数多く残しています。それらの一句一句が彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の名品といってよく、そのどれもが彼の代表句といってもよさそうです。その中でもこの句は、代表句の筆頭に挙げられるべき句であるかもしれません。それほど「蛇笏俳句の精髄ここにあり」と思われるほど完成度の高い、近代俳句の一つの頂点を極めたような句であると思います。

 この句の場合、芋と露と季語が二つあります。共に秋の季語です。普通は一句で季語を二つ使うのは「季重なり」といってご法度です。一つ一つの季語は、大きな季節的イメージを背景として有しているため、季語が互いにぶつかり合って一句が壊れてしまうから、というのが主な理由だったかと思います。
 しかしそう厳しく規定されだしたのは近代以降のことで、それまでの俳人はもっと自由に季重なりの句も作っていたようです。それに当時は季語でなかったものが、新しく季語として加えられた例もあります。(例えば「運動会」が秋の季語に、「遠足」が春の季語となったように。)
 この句では発句で「芋の露」と、いきなりの季重なりです。ではそれで一句が壊れてしまっているか、うるさくなっているかというと、この句に限ってはそういうことはまったく感じられず、二句、三句に自然につながっていっている感じがします。だからこの句が作られて以降だと思いますが、「芋の露」を一つの季語として掲げている歳時記もあるようです。

 それはともかく。「芋の露」を発句に持ってきたということは、これがこの句における主眼目であるからに他なりません。またそれは作者の立ち位置をも明示しています。つまり蛇笏はとある芋畑の中の「芋の露」と間近に対面しているのです。
 ところでご年配の方ならどなたもご存知でしょうが、俳句の場合芋とは「里芋」を指しています。改めてこう申し上げますのも、今の子供や若者たちにはそれが分からない、里芋自体どんなものかを知らないことが圧倒的に多いようだからです。
 里芋は夏からちょうど今頃の9月にかけて、茎が太く長く伸び、その上に丸くて大きな葉を広げて畑一面に生(な)っているのが見かけられます。そしてこの葉は、水をはじくのです。はじかれた水は、真ん丸い玉のような大きな露になって、風でも吹いて葉を揺らそうものなら、葉の表面をあっちこっち転げまわっているさまを見かけることがあります。

 さて露には「夜露」と「朝露」がありますが、この句の場合はどちらなのでしょう?それは二句と三句に示されています。「連山影を正しうす」。この句の場合の「影」は、いわゆる一般的な意味での「影(シャドー)」ではありません。蛇笏は「正しくす」ではなく「正しうす」と古雅な表現をしているように、影も古典的解釈が必要です。すなわち我が国古典における影の意味は、第一に姿、第二に光、そして三番目がいわゆるシャドーの意味だったようです。
 ですからこの句にあっては、「連山の姿を」の意味となります。つまり蛇笏の眼に止まった芋の露の中に遠い山並みの姿が映っている、という構図です。夜は真っ暗で連山の姿が夜露に映ることなどあり得ませんから、露は朝露、時刻は朝ということになります。

 露は時に、果敢(はか)ない命やこの世を表わす比喩として使われることもあります。その果敢ない露の玉に、蛇笏の住居(故郷)の山並みである南アルプスの連山が映っている。露と連山の対比は実に見事だと思います。超近景の果敢ない刹那的な露の玉に、遠景の雄大で悠久な連山の姿が整然と映り、納まっているのです。何やら単なる俳句の範疇を超えて、露の玉が曼荼羅(まんだら)世界を胎蔵(たいぞう)している、そんな仏教的世界観に踏み込むような心地すらしてきます。同時に、「全体は一部であり、一部は全体である」という最新のホリスティックな世界把握を先取りしていた句のようでもあります。

 そして「連山影を正しうす」。露の玉に映った、居住まいを正して整然と連なる南アルプスの姿は、また飯田蛇笏自身のピーンと背筋を伸ばしたストイックで潔い生き方の反映でもあるように思われます。他の句からも、蛇笏のそういう生き方がうかがえる句が多いようです。
 芋の露の中に映じた連山のさまを見て、当然のように蛇笏は背後の南アルプスの遠い山並みを振り返ったことでしょう。そして連山は秋の朝の澄み切った大気の中に、実際整然と連なっているのを再確認したことでしょう。

 (大場光太郎・記)

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荒海や

            松尾 芭蕉

   荒海や佐渡に横たふ天の川     
                
  …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 「奥の細道紀行」を続けていた松尾芭蕉は、元禄2年旧暦7月4日(新暦8月23日頃)夜越後の国の出雲崎(いずもざき・現新潟県三島郡出雲崎町)にやってきました。この句は出雲崎で宿をとっていた時に詠まれたものです。

 一読雄大な感にうたれる名句です。夜更けに出雲崎のとある浜辺に立つ芭蕉の姿。荒れて波浪逆巻く日本海。その遥か先に望まれる佐渡が島。そして佐渡と言わず中天を覆わんばかりの天の川の輝きなどが現前されてきそうな句です。
 これほどの大景を詠みきった句は、古今稀なのではないでしょうか。俳句という超短詩形でも時としてこのような大景も詠めてしまうのだ、という証明のような句です。

 それを可能にしているのは、まず何といっても「天の川」という季語です。天の川は、「月」「星月夜」などと並んで秋の季語です。秋冷の候は大気が澄んで、月や星が特にくっきり冴え冴えと輝いて見えることから、ずいぶん昔にそう定められたものと思われます。(念のため申し添えておきますが、昔々は夜間照明などほとんどなかったのです。夜空の星々の輝度はいかばかりだったでしょう。)
 わずか「5、7、5」の17音だけでこれだけ大きな世界を描き出すには、「季語の力」が不可欠です。天の川という季語を一つ置くだけで、多言を要せずとも、万葉集、古今集の昔から日本人が共有してきたイメージが浮かび上がってくるからです。
 次いで「荒海や」と冒頭に、「海」という大自然を持ってきたことも大きいと思います。そして芭蕉の立ち位置から「佐渡」までの遥かな距離感。深遠な「芭蕉的天地観」の表明のような句であると思います。

 実際はどうであれ、一般の日本人にとって、日が昇る太平洋は「陽の海」片や日が沈む日本海は「陰の海」という通念があります。それは昔から、山陽に対する山陰また表日本に対する裏日本などという呼び方にも表われています。
 そして芭蕉は、陽の季節といってもいい春から夏にかけて太平洋沿いを北上し、陰の季節の秋から冬にかけて今度は日本海側を南下しています。それは偶然の巡り合わせだったのでしょうが、芭蕉が今身を置いている場所の風土性、季節、気候などが相俟(あいま)って、このような類稀な名句が生まれたのではと独断ながら考えます。

 ところで後世の読者たる私たちは、この句は上記のように浜辺に実際に立って詠んだものだろうと考えがちです。それほどこの句は「写生的真」に迫っています。しかし実際は違っていたようです。その謂れを少し述べますが、まずは「おくのほそ道」の芭蕉自身の文をー
<越後路>
 酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望(のぞむ)。遥々(えうえう)のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百三十里と聞(きく)。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改(あらため)て、越中の国一ぶりの関に到る。此間(このかん)九日(ここのか)、暑湿の労に神(しん)をなやまし、病(やまい)起こりて事をしるさず。
   文月や六日(むいか)も常の夜には似ず
   荒海や佐渡によこたふ天河

 奥の細道紀行に同行した曽良(そら)の日記(『曽良日記』)によりますと、鼠が関辺りからずっと雨が続いていたようなのです。「暑湿の労」とあるようにそれに残暑も加わり、早や晩年を迎えていた芭蕉には何ともこたえる道中だったようです。そのため「神をなやまし、病おこりて」、普段は筆まめな芭蕉も「事をしるさず」というほどすっかり体調を崩していたようです。
 そしてこれを記している旧7月6日の夜も大雨、我が病重し。そんな中で「あヽあしたの七夕は見られないに違いない」という詠嘆を潜ませた前の句とともに、「荒海や」の句は詠まれたのです。

 そのイマジネーション恐るべし。さすが芭蕉ならではですが、遥か後世の誰かが言った「文学上の真」というようなことをつい考えてしまいます。

 (注記) 冒頭句は、岩波文庫『おくのほそ道』と角川文庫『俳句歳時記・秋の部』を参考に、私独自の表記をしております。ご了承ください。

 (大場光太郎・記)

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閑さや

                松尾芭蕉

   閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 今さら説明するまでもないほど有名な句です。数多(あまた)ある芭蕉の名句の中でも、代表句といってよいのではないでしょうか。というよりも、芭蕉以降作られ続けてきた膨大な俳句の中でも、最も広く日本人に知られた句といっていいかもしれません。

 この句は、元禄2年(1689年)新暦8月上旬最上川沿いの大石田に逗留中、梅雨晴れ間のある日立石寺に足をのばして、その地で詠まれた句です。その何日か後には、最上川を下って
   五月雨をあつめて早し最上川
の名句も完成しました。「最上川の句」といいこの句といい、我が出身県で作られたことは密かな誇りとするところです。

 この句の背景となった立石寺(りっしゃくじ)は、現山形市にある天台宗の寺院です。山寺(やまでら)の通称で知られています。創建は寺伝によると、貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされますが、実際の創立者はその弟子の安慧(あんえ)であるとする説もあるようです。
 鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東祈祷所となり寺は栄えますが、後に兵火によって消失してしまいます。13世紀中頃には幕府の政策により禅宗に改宗となるも、後に斯波兼頼が出羽探題として山形に入部した後、兼頼により再建され天台宗に戻りました。

 大永元年(1521年)またもや兵火により全山焼失しました。現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの、室町時代中期の建物とされています。なお焼き討ちの際、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、再度分燈することとなりましたが、元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ち後の延暦寺の再建には、立石寺側から逆に分燈されることになりました。
 立石寺は、江戸時代の山形城主であった最上家(斯波兼頼を祖とする)と関係が深く、同家の庇護を受けていました。同寺には同家から寺領1,300石が与えられました。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「立石寺」の項より)

 山寺(立石寺)といえば―。私は高校3年生の時、当時のクラスで私が音頭を取って3回ほど「郷土の史跡めぐり」をしました。その締めくくりが山寺でした。といっても夏ではなく、コートを着込まないと寒いくらいの10月の日曜日、クラスの半分くらいが参加しました。
 何しろもう40年以上前のことです。その時のようすは詳しくは覚えていませんが、参道の途中にこの句の古色蒼然たる句碑が建っていたことは記憶にあります。(いずれそのことも含めて、高3の頃の思い出を綴れればと思います。)

 さてこの句の観賞文となると、骨が折れます。とにかく難解なのです。そのゆえんは?やはり何といっても、
   閑さ = 蝉の声
 という不思議な等式の解を得ることの難しさです。

 本当にどういうことなのでしょう?山寺はとにかく鬱蒼たる木立に覆われた山の寺です。木立に紛れ込むように、あっちこっちに塔中が建っているといった趣きです。時は夏真っ盛り。全山を覆わんばかりの蝉の鳴声です。そのかまびすしさといったら、「岩にしみ入る」ほどなのです。
 この第2句は特に秀逸だと思います。山頂の本堂まで、曲がりくねった石畳の上り参道がかなり続きますが、参道沿いといい少し離れた所といい、切り立った崖状の高くて大きな岩が到る所に認められます。その奇岩にしみ入るほどだというのですから、蝉声の凄まじさが想像出来ようというものです。

 なのに、発句に「閑さや」を持ってきている。強い感嘆を表す「や止め」が、森閑、静寂のさまをさらに深めているのです。これが謎の謎たるゆえんです。
 参考まで、この句に至るまでの『奥の細道』のくだり、これも古今名高い名文ですから以下にご紹介します。

 〈立石寺〉
 山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊(こと)に清閑(せいかん)の地也。一見すべきよし、人々のすヽむるに依りて、尾花沢よりとって返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌(いはほ)を重ねて山とし、松柏年旧(しょうはくとしふり)、土石老て苔滑(なめらか)に、岩上の院院扉を閉(とじ)て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這(はひ)て、仏閣を拝し、佳景寂寞(じゃくまく)として心すみ行(ゆく)のみおぼゆ。
  閑さや岩にしみ入(いる)蝉の声
 
 芭蕉は、さしもの蝉の声など全く気にならないほど、全山を領する神気、霊気と深く感応道交していたということなのでしょうか。涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の境地に入らば、あるいはこのような句が詠めるものなのでしょうか。
 俳聖・芭蕉の句境測り難し。凡人は説明し難い解を求めて、ただただ味読するのみです。

 (大場光太郎・記)

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夏の名句(2)

                  水原 秋桜子

   滝落ちて群青(ぐんじょう)世界とどろけり

  …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 水原秋桜子(みずはら。しゅうおうし) 明治25年、東京神田生まれ。東京帝国大学医学部卒業。医学博士となり家業の産婦人科病院を継ぎ、昭和医専教授、宮内省侍医。初め「渋柿」で句作、虚子門に入り、東大俳句会を興す。「ホトトギス」で頭角を現わし、四Sの一人にあげられる。昭和6年「馬酔木(あしび)」独立。芸術性高き主観俳句を追求、石田波郷、加藤楸邨らを育て、綺麗寂びの世界を築く。句集『葛飾』『霜林』『残鐘』『帰心』『余生』など。昭和56年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 暑い夏に、つかの間でも涼(りょう)をと「滝の名句」をご紹介します。
 
 滝は四季を通じて見られますが、しかし夏でも滝壺付近に立つと肌に迫る涼しさを覚えます。そのためなのか、滝は「夏の季語」となりました。ただし滝が季語となったのは近代以降のことです。というよりも、秋桜子のこの句によって夏の季語として定まったもののようです。

 この句は「滝の水が滝壺に落ちて、その音が群青色の世界にとどろいていることよ」というような大意です。この句における滝とは、有名な熊野の那智の滝です。同滝は落差133mもある大滝です。その天辺から落下する滝水のさまを詠んで、実に力強い句であると思います。

 参考まで「那智の滝」とは―。和歌山県那智勝浦町の那智川にかかる滝で、那智四十八滝の一の滝のこと。華厳の滝(栃木県奥日光)、袋田の滝(茨城県久慈郡)と共に「日本三名滝」に数えられる。
 那智山一帯は滝に対する自然信仰の聖地であり、「一の滝」は現在でも飛瀧神社の御神体であり、同社境内に設けられた滝見台からその姿を見ることができる。2004年に、ユネスコの世界遺産『熊野山地の霊場と参詣道』の一部として登録された。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「那智の滝」その他より)

 この句を非凡なものにしているのは、何といっても「群青世界」という表現だと思われます。これは秋桜子による造語だそうです。群青とは、「あざやかで美しい藍色(あいいろ)がかった青色。ウルトラマリン」のことです。大滝の周囲に聳える千古の杉木立、滝壺の水色、滝そのもの、それら滝全体渾然一体のものとして、秋桜子は直観的に「群青世界」と把握したのでしょう。その色彩感覚の鋭さが先ず見事だと思います。

 ところで「世界」は、元々は仏教用語であることをご存知でしょうか。この言葉の元は梵語の「loka(ローカ)」の訳で、「世」は移り流れる意でつまり「時間」を、「界」は東西南北の境衆生が住む国土つまり「空間」を表わす用語です。
 時間と空間が十字交差し、そしてそこに人間たちが存在する場所。この三次元地球世界はその「一世界」に相当するわけです。仏教ではそのような世界が「三千世界」存在すると説きます。仏教における「三千」とは、無数にという意味です。何やら今日の多次元宇宙論を先取りしていたかのような壮大な宇宙観です。

 この句では「群青世界」。那智の滝はそれ自体が御神体です。秋桜子の先輩俳人であった高浜虚子に、
   神にませばまこと美はし那智の滝
という句もあります。神におわせば、滝全体が「一世界」であることも納得出来ます。それも緑陰の中、美しい藍色がかった青で荘厳(しょうごん)された「群青世界」。ただ凡人には、神の滝に突っ立っていくら眺めていても、「群青」も「世界」も思い浮かびはしません。

 この大滝の景観にあっては、「先ず初めに群青世界在りき」という感じがします。それは本来は森閑とした音無き静寂世界のはずなのです。しかし実際は「群青世界とどろけり」。間断なく滝水が落下して、滝壺に音声が轟いている。ただその音声は雑音ではなく、世界を常に創造的かつ活動的に在らしめる、初源的な「音霊(おとだま)」であるように思われます。
 「群青世界とどろけり」と把握した時の秋桜子は、世界をかく在らしめている根源的秘密に限りなく迫っていた。まさに天地のただ中に存在する「無我の人」になっていた、つまり「天地人一体」-主客融合していたのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記)

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