雪の原の犬

          川端 茅舎

  雪の原犬沈没し躍り出づ

…… * …… * …… * …… * ……
川端茅舎(かわばた・ぼうしゃ) 明治33年東京日本橋生まれ。独逸協会中学卒。洋画家を志し、藤島武二絵画研究所に入り、のち岸田劉生に師事した。病弱のため画業を断念、少年の頃からたしなむ俳句に専念することとなった。大震災後京都の寺に住んだこともあり、仏典に親しみ、仏語を多用して、茅舎浄土をえがいた。池上本門寺裏がその終の棲家であった。兄は川端龍子。句集に『川端茅舎句集』『華厳』『白痴』。昭和16年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

《私の鑑賞ノート》
 俳句は、ごくありふれた日常的な場面を切り取って詠む文芸です。第一、政治的、社会的な出来事を大上段に振りかぶって描くことなど、わずか5・7・5の十七音のみの俳句に出来るわけがありません。
 しかしだからと言って、ごくありふれた日常の一こまを、ごくありふれた言葉で綴ってもいけません。それでは単なる忘備的なメモ書きとさほど変わらないではありませんか。

 俳句は詩型の一種なのです。それゆえごくありふれた日常の、ハッとする場面、感動的場面を鋭くキャッチして詠んだものでなければなりません。
 と、要らざる講釈をしたところで川端茅舎の句についてです。

  雪の原犬沈没し躍り出づ

 まずもって発句に「雪の原」と置いたことによって、この句の構図がスパッと決まっています。全景一面の雪に覆われた野原のイメージが読み手にも伝わってきます。

 とある雪の原に、今一匹の犬がいます。さてこの犬はどんな犬か。和犬かはたまた大型の洋犬か。黒犬か白犬か赤茶けた色の犬なのか。そういう詳細な情報は何もなしに、いわゆる動物種としての「犬」。
 俳句という短詩型では一々の細密な描写は不可能ということもありますが、この句にあっては不必要ですらあります。

 この句で詠まれているのは、何色の何種の犬であろうとも、犬が雪の原にいれば共通して見せるであろう面白い行動についてだからです。
 その行動とは何か。
 「犬沈没し躍り出づ」、これです。

 昔の童謡『雪』でも歌われているではありませんか。   

   雪やこんこ 霰やこんこ。
   降つても降っても まだ降りやまぬ。
   犬は喜び 庭駈(か)けまはり、
   猫は火燵(こたつ)で丸くなる。  (2番)

 犬は寒がりな猫と違って、むしろ雪の中でも平気で遊び回るもののようです。その特性をこの句はしっかりと捉えてうまく表現しています。これこそ先ほど述べた、ありふれた日常における決定的な「俳句的場面」を捉えた、格好の例句といえそうです。

 一旦は雪の中に「めろんと」(とは私の郷里の方言で、「まるごと」「すっぽりと」の意)姿が見えなくなるまで埋まり、『あれれれっ』と思った次の瞬間、犬は辺りに雪片をまき散らながら躍り上がってきたのです。
 その活き活きとした躍動感。そのようすをデジカメででも連写したら、きっと面白いスナップショットが出来たことでしょう。

 略歴にあるとおり、川端茅舎は若い頃岸田劉生の下で絵画修業をしたといいます。そのためか、この句全体が極めて絵画的で映像的です。これは良い句の大切な要素の一つであると思われます。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『名句鑑賞』カテゴリー
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat32263708/index.html

| | コメント (0)
|

街灯は何のためにある?

              渡辺 白泉

  街灯は夜露にぬれるためにある

…… * …… * …… * …… * ……
 渡辺白泉(わたなべ・はくせん) 大正2年、東京赤坂生まれ。慶大経済学部卒。学生時代「馬酔木」「句と評論」に投句。鋭峰をあらわすが、「京大俳句」「天香」に加わり、新興俳句弾圧に巻き込まれ検挙された。当時三省堂に勤務、「俳句叢刊」編集中であった。以後執筆を禁じられたが、戦後も俳壇に関わりをもたず、中学、高校の教師として過ごした。諷刺と批評性をもつ俳詩人だった。『白泉句集』『全句集』がある。昭和44年没。 (講談社学芸文庫、平井照敏編『現代の俳句』より)

《私の鑑賞ノート》
 最初にお断りしておきますが、街灯は「夜露にぬれるためにある」ものではありません。今のセチ辛い世の中、そんな理由で高いお金を出して街灯を設置する酔狂人などおりません。
 では、街灯は何のためにあるのでしょう。ずばり、
 「街灯は夜道を照らすためにある」
のです。

 真っ暗闇の夜道を照らし出し、通行人が安全に歩けるよう、また痴漢防止など防犯上の面から、街灯は設置されるのです。それでは、
 「街灯は夜道を照らすためにある」
は、何の言葉でしょう。もっと街灯設置を呼びかけるための標語でしょうか。いや、あまりにも常識的で、陳腐すぎて標語にすらなりそうにありません。

 もちろん詩の言葉でもありません。
 土台、この世の常識に密着した言葉を並べただけでは、「詩」にはなり得ないのです。そういう一般常識、社会通念、固定観念の位相を、少しばかり(大いに)ずらしたところに「詩」は生まれるものです。

  街灯は夜露にぬれるためにある

 そうするとこういう句ができるわけです。一見するとまるでナンセンスなギャグのようです。しかし俳句は元々は「俳諧(はいかい)」。諧謔味(かいぎゃくみ)、面白み、つまり今で言う「ギャグっぽさ」を含むものなのです。

 なお「夜露」は、秋に出来やすいことをもって、秋の季語となっています。夜露が発生するメカニズムを調べてみるのも面白いかもしれませんが、ここでは「風のない晴れた夜に発生する」(角川文庫『俳句歳時記 秋の部』)とだけしておきます。

 「窓は夜露に濡れて 都すでに遠のく …」 (『北帰行』より)
 諧謔味とともに、この句にはそんなストーリーにも発展しそうな叙情味もまたありそうです。

 一般常識、社会通念、固定観念…。がちがちの管理社会では、使う言葉の意味すら厳しく規制され、制限されてしまいがちです。「言葉の自由度」がなくなるのです。(典型的なのが官庁通達文や法律文書。)
 「自由」こそ私たちが求める根源的欲求ですから、がんじがらめの不自由な社会は「生き苦しい(息苦しい)社会」です。

 渡辺白泉のこの句の真意がなへんにあるのか、作者ならぬ身には分かりません。しかしこの句には、そんな社会へのアンチテーゼ、そんな社会を笑い飛ばす視点が潜んでいるようです。
 
 (大場光太郎・記)

関連記事
『名句鑑賞』カテゴリー
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat32263708/index.html

| | コメント (0)
|

秋の字に永久に棲む火

                  三橋 敏雄

  秋の字に永久(とわ)に棲む火やきのこぐも

…… * …… * …… * …… * …… * ……

 三橋敏雄(みつはし・としお) 大正9年、八王子市生まれ。実践商業学校卒。昭和10年、当時の新興俳句運動に共鳴して作句開始。渡辺白泉、西東三鬼に師事し、当初より無季俳句を推進。「風」を経て「京大俳句」に参加、弾圧に遭う。戦後「断崖」「天狼」「面」「俳句評論」同人。42年第14回現代俳句協会賞、平成元年飯田蛇笏賞受賞。『三橋敏雄全句集』(平成3年刊)がある。平成13年12月1日没。 (講談社学術文庫、平井照敏編『現代の俳句』など)

《私の鑑賞ノート》
 つい最近、余った時間に『角川版-季語・用語必携』をパラパラめくって拾い読みしていました。この本の両端に先人たちの秀句が載っています。それらを見るともなしに見ていて、ハッとなった句がこの句です。

 「秋の字に永久に棲む火や」。意表を衝いた表現です。というより、初めは何を意味しているのかピンと来ないほどでした。
 二、三度たどってみて、なるほど「秋」という字の右は紛れもなく「火」であるわけです。私たちが秋という漢字を使い続けるかぎり、火もついて回ります。
 しかし、今の今まで気がつかなかったなぁ。

 意外な盲点というべきかもしれません。秋といえば「秋色」「秋思」など、物思うロマンチックな連想が働き、「秋の字にある火」などつい見逃しがちです。
 それにしても。炎帝(夏の季語)が領する燃えるような夏には火がなく、なぜ秋にはあるのか。春夏秋冬などの漢字を生み出したのは古代中国です。漢字は表意文字ですから、ほとんどの漢字には深い謂れがあるものです。だから「秋に永久に棲む火」にも、しかるべき根拠があったのでしょうが…。

 そして結句の「きのこぐも」。
 その時私の頭はよほどボンヤリしていたようです。『きのこぐもって何だっけ?』と思ってしまったのです。秋の雲としてはうろこ雲、すじ雲くらいは知っていたけれど、「きのこぐも」なんてあったか?あまり聞かない雲の名だぞ。

 私の関心はすぐに別のところに向かい、ほどなくこの句からもこの本からも離れました。しかし妙にひっかかる句ではあったようです。
 次の日の昼頃、ある所で広く開けた南の空を眺めていました。晴れてはいても雲が多く、うろこ雲くずれのような雲がいっぱい広がっています。とっさに「きのこぐも」のことが思い浮かび、『あっ、そうだった !』と、ようやく思い出したのです。

 きのこぐもとは、「原子爆弾による雲」のことではないですか。もちろんそれを思い出したからには、広島原爆の際のあのきのこ雲も、現前にしている南空の雲に重なるように、まざまざとイメージとして脳裏に蘇えってきました。
 
 「きのこぐも」が分かったことによって、「秋の字に永久に棲む火や」で三橋敏雄が言わんとしているものも何となく分かってきました。この火は原子爆弾の暗喩なのではないでしょうか。昨年6月の『「プロメテウスの火」と原子力』でみたとおり、「原子爆弾は火」に違いないのですから。

 広島への原爆投下は昭和20年8月6日、暦の上でのちょうど立秋にあたります。また続く長崎への投下は同年8月9日。両方とも暦の上の初秋の候にあたり、「広島原爆忌」「長崎原爆忌」はいずれも秋の季語なのです。

 広島、長崎への原爆投下は、原子爆弾の人類初の使用となりました。原爆がいかに恐ろしい破壊力を有するものか。広島、長崎の町が広範囲に壊滅し、一瞬にして数万人もの人が亡くなるほどの凄まじさです。その後、白血病などの後遺症に苦しみながら亡くなった人も数知れません。

 原子爆弾、核兵器こそは、人類が作り出した究極の「業(ごう)兵器」です。「秋の字に永久に棲む火」のように、「ヒロシマ、ナガサキ」は人類最大の業行為の行われた地として永遠に残り続けることでしょう。
 「きのこぐも」の忌まわしい姿を忘れ去り風化させてはいけない、とこの句をとおして三橋敏雄は訴えているようです。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『「プロメテウスの火」と原子力』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat30301552/index.html

| | コメント (0)
|

ものの種

             日野 草城

  ものの種にぎればいのちひしめける

…… * …… * …… * …… * ……
 日野草城(ひの・そうじょう) 明治34年、東京上野生まれ。京大法科卒。二十歳で「ホトトギス」巻頭、課題句選者になるが、新興俳句運動を推進、「ホトトギス」同人を除籍された。俳句を中断。戦後、病床にあり俳句再開。昭和24年「青玄」を創刊主宰。才気ある感覚的な前期の句風と、重厚真摯な後期の句風とが接続する。句集に『花氷』『青芝』『昨日の花』『転轍手』『旦暮』『人生の午後』『銀』など。昭和31年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

《私の鑑賞ノート》
 「ものの種」「物種」「種物」などは春の季語です。春は五穀・野菜・草花の種まきの季節であるためそう決められたようです。

  ものの種にぎればいのちひしめける
 この句にあって「種」以外はすべて平がなです。そのため種がより強調されている効果が感じられます。詠まれていることはいたって平易です。
 「ものの種を手で握りしめてみた。すると、手の中で種の中の命がひしめきあっている気配が伝わってきた」というのです。

 もしそのことを本当に実感したのなら、日野草城は種の中に宿る生命すら感じられる稀れなエスパーということになるでしょう。しかしそんなことではなく、草城が「いのちひしめける」と感じたのは想像(イマジネーション)の中でのことだったと推察されます。
 そこが日野草城という俳人の非凡なところです。凡人が朝顔の種でも何でもいいから“ものの種”を手で握ってみても、黒っぽい小さなただの塊りとしか感じられません。「いのち」の片鱗すら思い浮かんでは来ないものです。

 何の変哲もない殻に覆われた小さな一粒の種。それでも実際その種を地に蒔けば、米や麦などの小さな双葉が生え出て、茎を伸ばし花を咲かせ、たくさんの実を結ばせるのです。さらにはその実を刈り取っていただくことにより、人の命を支えてくれるのです。

 かつて我が国の古い暦には「一粒万倍日」というのがありました。地に蒔いた一粒の種が万倍もの実を実らせるように、この日たった一つの善行でもすれば、それがやがて複利がついて万倍にもなって天がご褒美を返してくれるのだよ、という庶民への善行の勧めのようなものだったのでしょうか。
 これなどは、私たちの先祖が今よりずっと大地や農耕と密着していた時代だからこそのように思われます。

 一見すると種は、死んだように動かない小さなかけらのような物体にすぎません。しかし種は日野草城が観照したように、その中に玄妙不可思議な「いのちのひしめき」を宿しているわけです。ものの種は、真言密教で説くところの「胎蔵界曼荼羅」を蔵(ぞう)しているミクロコスモス(少宇宙)と言っていいのかもしれません。

 もし今後ものの種に接する機会があれば、私たちもそれをまざまざと見、手で握りしめてみて「いのちひしめける」さまをイメージし得るようでありたいものです。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

寒や母


                 秋元 不死男

  寒(さむ)や母地のアセチレン風に欷(な)き

…… * …… * …… * …… * …… * ……

 秋元不死男(あきもと・ふじお) 本名 秋元不二雄
 明治34年横浜市生まれ。東 京三とも名乗った。横浜海上火災に入社、俳句を知り、「渋柿」「土上」「天香」に加わる。新興俳句運動の先頭に立ち、リアリズム俳句を唱えたが検挙され、獄に入る。戦後「天狼」創刊に参加。昭和24年「氷海」創刊主宰。俳句もの説を唱えた。蛇笏賞受賞。句集に『街』『瘤』『万座』『甘露集』、評論集に『現代俳句の出発』『俳句入門』などがある。昭和52年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

《私の鑑賞ノート》

 秋元不死男の句を取り上げるのは初めてです。しかし秋元が戦後著した『俳句入門』については、『鶏頭の句-名句?凡句?』『冬の水』などでその一部を参考にしました。同著は秋元自身の「入門とは言っても、安易に妥協したものは書きたくない」という表明どおり、高度な俳論であり、プロ俳人が読み返しても多くの示唆が得られるのではないかと思われる名著です。
 
  寒や母地のアセチレン風に欷き

 この句は、秋元不死男の少年時の体験を回想して詠んだ句です。秋元の代表句となっています。背景となった体験とはー。
 秋元不死男が幼少の頃、父親は横浜市で輸出業を手広く営んでいました。しかし後に事業に失敗し、大正14年姉、弟二人、妹を残して父は死去してしまいます。
 輸出業失敗の後秋元家は零落し、最後は洋品店を営みましたが、その商品の残りを荷車に積んで夜店を出したというのです。

 夜店行商に父親とともに、長男である不死男も行くことになったのです。不死男14歳の時のことです。今で言えば中学2年生に相当します。まあまあ裕福だった幼少期から急転直下の境遇ですから、不死男少年にしてみれば過酷な体験だったことでしょう。
 そのため忘れがたい強烈な記憶として刻まれ、後年それを回顧した名句として結実したわけです。

 言うまでもなくこの句の季語は「寒(さむ)」で、冬の季語です。
 零落した家の子供であってみれば、防寒着など十分に着込めず路地に立たなければならなかったのかもしれません。大正時代の横浜のとある街の一隅での夜店。浜の方から強く吹きつける夜風が、ことのほか冷たく感じられたのではないでしょうか。

 「寒や母」。その時不死男少年が全身で体感したものが、この発句で極めて簡潔に表現されています。詩的な表現に昇華されていますが、その時の実感では「寒いよぅ、お母さ~ん」「寒いよぅ、かあちゃ~ん」というようなことだったのでしょう。
 ちなみに母親という人は、実家が横浜で名字帯刀を許された名主の出だそうです。それに“明治女”の気骨も加わり、しつけには厳格な人だったのかもしれません。

 この発句には、『何でこんな寒い夜にオレをこんな処に立たせんだよ』という、父親へなのか、母親へなのか、世の中へなのか、誰に向けていいのか分からない漠たる“怨み節”が込められていそうな気配も感じられます。

 「地のアセチレン風に欷き」
 何とも見事な表現です。この描写こそが「寒や母」の具体的実景となるものです。
 照明としてなのかどうか仔細には分かりませんが、地面にアセチレンガスの容器(ボンベ)が置いてあるのです。(おそらく傘状の金属板で保護された)上部のノズルから迸るガスの炎が折からの風に煽られて、ヒュー、ヒュー音を立てていて、そのさまはまるで欷いているようだというのです。
 この場合の「欷き」は、「すすり泣き」というニュアンスです。それがその場の凄愴な感じをより一層際立たせているようです。

 容赦ない寒風にさらされながら不死男少年は、家が零落することの悲哀を骨身に沁みて痛感したのではないでしょうか。

 秋元不死男は略歴にあるとおり、後に俳句を志し、時に官憲に睨まれ監獄にも入れられ、戦後も骨太の俳句を作り続けました。そんな秋元にとって、この時の体験は、厳しくも尊い、その後のバックボーンとなる原体験だったといえるのかもしれません。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『鶏頭の句-名句?凡句?』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-55d4.html
『冬の水』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-10cf.html

| | コメント (2)
|

秋の夜汽車は…

              中村 汀女

  目をとぢて秋の夜汽車はすれちがふ

…… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 中村汀女(なかむら・ていじょ) 略歴は『触るるばかりに春の月』参照のこと。

 同略歴の中で、「1920年(大正9年)に大蔵官僚の中村重喜と結婚。以後、夫の転勤とともに東京、横浜、仙台、名古屋など国内各地を転々とし、後に東京に定住した」とありました。
 今回の句は、そのうち昭和12年10月末、仙台から東京の下北澤(現北沢1丁目)に引っ越すことになった時に乗った夜汽車での事を詠んだ句であるようです。

 句そのものは至極平易です。「秋の夜に汽車に乗っていて、目を閉じていたら別の列車とすれ違った」という、ただそれだけのことを詠んだ句です。
 しかし表面的な平易さとは別に、句の奥に込められた余情はなかなか深いものがありそうです。

 「目をとぢて」とは、もう少し字数が許されていれば「目をとぢていて」ということです。どちらかというと「瞑目」さらに言えば「瞑想」の感じに近かったのかもしれません。
 仙台で暮らした過ぎし日々の回想、これから暮らすことになる東京での生活のこと。諸々の想いが去来し、浮かんでは消え、消えては浮かびしていた…。
 とそれらの想いが、高い轟音で突如破られることになります。思わず目を開けると、反対方面から列車がやってきてすれ違って行ったのです。

 汀女はこの瞬間を「俳句的場面」ととらえ、この句として成立させたわけです。汀女にとって極めて印象深い瞬間だったからです。

 どうしてなのか?それを考えるには、当時の「夜汽車」を想像してみる必要がありそうです。今でも「東京駅発-各地方行き」などの夜行列車は走っているそうです。しかし当時と今日の新幹線とは決定的な違いがあります。それは「スピード」です。
 昭和12年といえば戦前、今から70年以上も昔になります。だから夜汽車とは石炭をくべて走る蒸気機関車。今とは比べのにならないくらいのろのろだったことでしょう。

 この句のように他の列車と「すれ違ふ」場合、スピードの違いは決定的だと思われます。ゆっくりのろのろ走る汽車の場合、「すれ違ふ」ことによって、そこに余情が生まれる余地があると思うのです。あっと思う間もなく通り過ぎてしまう新幹線では、余情は生まれようがありません。
 
 それに「秋の夜汽車」です。10月末の「秋の夜」の持つ侘しさの気配がこの句にはまずあります。それに転勤という事情も加わって、汀女にはことのほか「旅情」が深かったかもしれません。

 そんな中での別の列車とのすれ違い。作者が乗っている汽車とは真反対方向に、その汽車は走り去っていったのです。その方向とは、たとえ何年間ではあっても汀女たちが過ごしてきた方向でもあります。
 作者の連想はなおも広がったことでしょう。向うの汽車にも多くの乗客がいる。仔細には知り得なくても、一人ひとりの乗客にはそれまでの固有の人生があり、固有の乗車の理由があり、固有の目的地がある…。

 「人生そのものが旅」。汀女の人生途上の秋の夜汽車でのつかの間のすれ違い。作者はそこに妙(たえ)なる「一期一会(いちごいちえ)」を感受したとしてもおかしくはないと思います。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

「夜店の句」三句

  父の背が記憶のはじめ夜店の灯     黒崎かずこ

  少年の時間の余る夜店かな        山根真矢

  さみしさに夜店見てゆくひとつひとつ   篠崎圭介

… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 「夜店」は花火などと共に夏の夜ならではの風物詩です。誰にでも夜店の懐かしい思い出があるのではないでしょうか。
 普段は何もない神社参道の道端などに、明るい電球に照らされたカラフルな夜店がズラッと立ち並ぶのです。それはありふれた日常的空間に突如出現した、「ハレ」の非日常的空間と言えそうです。子供ならずとも大人でさえもが、その猥雑で怪し気でありながらある種の呪術性を秘めた空間には思わず惹きつけられてしまいます。
 今回はそんな「夜店の句」を、時系列的に三句並べてみました。

 父の背が記憶のはじめ夜店の灯
 この句の作者にとって、物心つくかつかないかの幼少時の記憶の始まりが、父の背に負ぶさって見て回った夜店だと言いうのです。
 それは具体的光景などではなく、記憶全体を覆って彼方の世界に隠してしまうような煌(こう)たる「夜店の灯」。
 そしてこの世の初めのあえかな記憶を呼び起こすよすがとなるのが、がっしりした感触の残る「父の背」です。そんな父の背は、うんと幼い子供にとって、生きるための確かな安全保障のように頼りがいのあるものだったのかもしれません。
 この句からは、既に物故した父への追慕の情も感じられるようです。

 少年の時間の余る夜店かな
 少年期には少しずつ「この世のピント」が合ってきます。そうすると今度は、目にする珍しいものに次々と「何で?」「どうして?」と疑問を抱くようになります。作者はその傾向が人一倍強い少年だったのかもしれません。
 金魚すくいの店や綿菓子屋など、一つの店でジッとしておられず、次から次へと好奇心に急かされて見て回り、気がついた時にはもう夜店全体を見終わって、時間が余ってしまったというのです。

 ならばもう一度振り出しに戻って、今度は一つ一つ店内のようすや独特の口上で客の気を引く店主のようすなど、じっくり見て回ればいいものを。まだ年端のゆかない少年時の回想なのか、その時の山根少年には、「もう一度」などという賢(さか)しらなルールなどはないのです。
 この句で提示されている「少年の時間」とはどんなものだったのか。もう忘れてしまいましたけれども、「大人の時間」とは違う尺度を持っていたことだけは間違いありません。

 さみしさに夜店見てゆくひとつひとつ
 この句は、知恵分別が十分過ぎるほど身に備わった大人の夜店の句です。
 もはや少年時代の見るもの、聞くものすべてへのワクワク感、期待感といったものは奥に引っ込んでしまい、代わって「さみしさ」というまったく別な要素が新たに加わっています。
 人が脱少年期としての自我の形成を経るに従って、社会人としての「行動の拡大」は必然となります。「個」が「別の個」と触れ合う機会が多くなれば、そこに「さみしさ」が加わるのは避けがたいのです。

 この句の背景として考えられるのは、一人旅の途中でたまたま見て回った異郷の夜店といったところでしょうか。事情はどうであれ、作者は独りで夜店を見て回っています。
 「さみしさに」とはなるほど確かに。夜店に限らず夜祭、花火など周りは人混みでごった返す中、“独り”であることはひときわ「群衆の中の孤独」を感じるものです。
 旅情と隣り合わせにある寂寥感。この句はその感じをよく表わしているように思われます。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

武蔵野を傾け呑まむ

            三橋 敏雄

   武蔵野を傾け呑まむ夏の雨

… * …… * …… * …… * …
 三橋敏雄(みつはし・としお) 大正9年、八王子市生まれ。実践商業学校卒。昭和10年、当時の新興俳句に共鳴して作句開始。渡辺白泉、西東三鬼に師事し、当初より無季俳句を推進。「風」を経て「京大俳句」に参加、弾圧に遭う。戦後「断崖」「天狼」「面」「俳句評論」同人。昭和42年第14回現代俳句協会賞、平成元年第23回蛇笏賞受賞。『三橋敏雄全句集』(平成2年刊)がある。平成13年12月1日没。 (講談社学術文庫・平井敏照編『現代の俳句』より)

 《私の鑑賞ノート》
 私は長い間この句を、「武蔵野を傾け呑まむ夕立(ゆだち)かな」と記憶していました。今回取り上げるにあたり確かめたところ、「夕立」ではなく「夏の雨」とあり少し驚いてしまいました。
 なぜそのような記憶違いをしていたのでしょう。思い当たるのは『角川文庫版「俳句歳時記・夏」』の「夕立(ゆうだち)」の項の、以下の記述です。
 「武蔵野の夕立は馬の背を分けるといわれ、激しいことで知られている。」
 これによっていつしか私の中で、「武蔵野に降る雨 = 夕立」という事になっていったのかもしれません。

 対して「夏の雨」について同書では、
 「夏に降る雨のことで、明るさを背景に感じさせる。新緑のころに降る雨は緑雨(りょくう)という。」とあります。
 「夕立」が盛夏の夕方突然襲ってくる豪雨とすれば、「夏の雨」は季節的には初夏の頃、突発的ではなく終日降り続くしめかな雨ということのようです。

 しかし三橋敏雄のこの句に限っては、しとしと降る穏やかな雨ではなさそうです。そう感じさせるのは「武蔵野を傾け呑まむ」です。通常のそぼ降る雨では、こういう表現にはならないはずです。
 ここで降っている雨は、上から真っ直ぐに降りてくる穏やかな雨ではないのです。斜め方向から吹きつけ地面にたたきつけるような土砂降りです。だからこそ、作者が目の当たりにしている武蔵野の全景が「斜めに傾いているのか?」と錯覚されるほどだというのです。

 「昔の武蔵野は萱原(かやはら)のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らして居たように伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といっても宜(よ)い。」 (国木田独歩『武蔵野』より)
 武蔵野における林とは、楢の木などの雑木林です。「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡に残れり」で始まる、自然描写の名作『武蔵野』の発刊は明治34年。三橋敏雄のこの句がいつ頃作られたのか正確にはわからないものの、戦後であるのは間違いなく、「武蔵野の俤」はかなり消失していたであろうことは想像に難くありません。

 ただこの句を味わう場合、どこと地域は特定できないまでも(あるいは出身地の八王子市近辺か?)、武蔵野台地上の丘陵地帯の一角、そして背景はもちろん武蔵野特有の雑木林でなければなりません。ビルや家屋など人工的建造物は邪魔ですから無い方がいいでしょう。
 武蔵野の大景に、斜めからたたきつけるような土砂降りの夏の雨。青葉繁れる雑木林の全景が霞み、呑み込まれてしまうほど凄まじい雨が降り続いているのです。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

真清水の音のあはれを

               黒田 杏子

   真清水の音のあはれを汲みて去る

…… * …… * …… * …… * ……
 黒田杏子(くろだ・ももこ) 昭和13年、東京本郷生まれ。旧姓斉藤。疎開以後宇都宮女子高卒業まで栃木県で生活。東京女子大学心理学科卒。在学中より山口青邨の指導を受ける。夏艸賞受賞。第一句集『木の椅子』にて現代俳句女流賞、俳人協会新人賞。平成2年10月、俳誌「藍生」(あおい)創刊主宰。著書に句集のほか、『花鳥俳句歳時記全4冊』『あなたの俳句づくり』『今日からはじめる俳句』など。  (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

《私の鑑賞ノート》
 この句における季語は「真清水(ましみず)」です。純粋な混じりっ気のない清水という意味になるのでしょうか。清水はもちろん一年中見られる現象ですが、夏の季語と定まっているのです。どうしてなのでしょう。『角川文庫版「俳句歳時記 夏』には「清水」についてこうあります。
 「天然に湧き流れ出している清冽(せいれつ)な水はいかにも涼しげである」

 暑い夏にあって「涼しさ」を催させるがゆえに夏の季語となったのです。その関連で言えば「涼しさ」や「泉」なども夏の季語です。

 「清水」には他に「山清水」「岩清水」「苔清水」「草清水」などがあります。一々述べるまでもなく、これらは清水が湧き出ている場所や情景をくっきり思い浮かべることができます。

 ただ今回の句は真清水とあるのみなので、上記のように場所や情景がさほど特定できません。それでかえって、読み手が「思い出の清水」に置き換えて読む自由度を与えられていると言えるのかもしれません。

 作者の主題は別のところにあります。「(真清水の)音のあはれ」こそが、この句の主眼点であるのです。真清水の「音」に着目し、かつその音を「あはれ」と捉えたところが、この句を秀逸なものにしています。

 実際には「清水を汲んで去って行った」という現実的行為を、
   真清水の音のあはれを汲みて去る
と一句成立させたことにより詩的に昇華しているのです。
 黒田杏子という俳人の感覚の鋭さを感じます。

 「音のあはれ」にはさまざまに考えさせられます。どうやら平安朝の人々の「もののあはれ」にも通じるところがありそうです。

 多分想像するにこの句は、黒田杏子がどこか旅に出た折りの出来事を詠んだものらしく思われますが、清水を汲んだその場所あるいは清水そのものとの「一期一会(いちごいちえ)」の通い合いのようなものが感じられます。

 おそらく「真清水の音」は、幽けき(かそけき)音だったのでしょう。
 作者の「音を汲みて去る」という行為は、何やら「御水音(おみずおと)遷(うつ)し替え」というような聖なる儀式のようにも思われてくるのです。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

六月を綺麗な風の

            正岡 子規

   六月を綺麗な風の吹くことよ

…… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 この俳句については、08年6月の身辺雑記風な『六月の綺麗な風』記事でも一度取り上げています。よろしかったら併せてお読みください。

50428_2          正岡子規 (1867年10月14日~1902年9月19日)

 「六月」は梅雨を迎える、暗くてうっとうしい季節とついイメージされがちです。しかし正岡子規の今回の句のように、「綺麗な風」が実感される日が本当にあるものです。

 それは梅雨入り後の梅雨晴れ間の一日でしょうか。私はむしろ、梅雨前の六月初旬の良く晴れた一日の感じだと思います。が、鬱陶しい梅雨の晴れ間の一日の方が、「綺麗な風」がより実感できるかもしれません。

 「六月を綺麗な風」がこの句の生命線です。もちろん風は無色透明であり、何色などということがあろうはずがありません。しかし子規は、この時の風を「綺麗な風」と把えたのです。これが実に秀逸です。

 「綺麗な風」は一月でも三月でも九月でもない、「六月」でなければならないのです。六月初夏のキラキラ輝いているような景色を吹き渡る風。「六月を綺麗な風」とは、まさに子規による発見です。

 この句が作られたのは子規何歳頃なのでしょう。これについては、それについて触れ、感想を述べた前記事の一文をそのまま引用して、今回の鑑賞文の結びとします。

 この句は、結核による大喀血の後に作られた句だそうです。しかしこの句からは、そんな病苦への恨み言や悲嘆などは微塵も感じられません。「体病むとも心は病まず」。おそらく三十歳前後であったろう子規の、澄み切った心境、諦観、見事な死生観がうかがわれる、すがすがしい名句です。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (2)
|

より以前の記事一覧