秋の名句(4)

                 原 石鼎

   頂上や殊(こと)に野菊の吹かれ居り

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 原石鼎(はら・せきてい) 略歴につきましては、『模様のちがふ皿二つ』参照のこと。

 11月7日はもう暦の上では「立冬」です。にもかかわらず当日は、ぽかぽか陽気の晴れて暖かな一日でした。でも俳句を少しでもかじっている者ならば、当日のそんな天気は晩秋晴れの良き日ではなく、小春日和の良き日と感じなければならないのでしょう。
 とはいうものの。現実的な季節感からすれば、湘南の海にほど近く海抜さほど高くない当地などは特に、11月いっぱいは晩秋と捉えたくなります。
 というわけで、当ブログでは今しばらく「秋の名句」を味わっていくことにしたいと思います。

 この句では何が季語かと言いますと、「野菊」です。その他に「菊」「残菊」「残る菊」など皆秋の季語となります。野菊は都会ではまず見られないでしょうが、少し地方に行けば今でも野辺などに群生して咲いているのを見かけます。秋もいよいよ深まった晩秋の季語としてふさわしい花のように思います。
   遠い山から 吹いてくる
   こ寒い風に 揺れながら
   気高く清く 匂(にお)う花
   きれいな野菊 うすむらさきよ  (石森延男:作詞『野菊』1番)

 晩秋のさる日原石鼎は、とある山に登ったのです。といっても登山家が命がけで登攀を試みるような高峰ではありません。どこか登るに手ごろな何100mかの里山、あるいはせいぜい1000m強くらいといった感じの山ではないでしょうか?しかしそんな山ではあっても、その頂上に辿り着いた達成感はまた格別です。
 その達成感、感激が、発句の「頂上や」によく現れていると思います。

 そしていざ頂上に立ってみて、石鼎の目に真っ先に飛び込んできたのが野菊です。そのようすをじっくり見てみるに、「殊に野菊の吹かれ居り」。頂上ですから吹きつける風も一段と強いのです。
 山は標高が100m高くなるごとに、およそ1.6℃気温が下がるといいます。里より何100mか高くなると、もうそれだけでかなり寒く感じます。その上強風ですから、体感では余計寒く感じられたはずです。

 いつも里に咲く野菊を目にすることはあっても、山の頂上に咲く野菊の姿を目にしたのはおそらく初めてなのでしょう。「遠い山から吹いてくる こ寒い風に揺れながら」どころか、吹きつのる強風にか細い身をふるわせながら、普段は遠い山として見上げているただ中でさえ野菊は咲いている。その姿の健気さ、いとおしさ。
 原石鼎にとって、それは新しい発見であり感動であったに違いありません。

 (大場光太郎・記)

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秋の名句(3)

                 村上 鬼城

   痩馬(やせうま)のあはれ機嫌や天高し

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《私の鑑賞ノート》
 村上鬼城(むらかみ・きじょう) 1865年(慶応元年)東京生まれ。本名は村上荘太郎。元鳥取藩士の長男として軍人を志すも、18歳で重度の耳疾を病み断念。父の跡を継いで群馬県の高崎裁判所構内で司法代書人となる。
 正岡子規の教えをこい、やがてホトトギス同人となり「境涯の俳人」と呼ばれる。「古今独歩の俳人」(高浜虚子)「明治大正俳壇の第一人者」(大須賀乙字)「当代第一の作家」(飯田蛇笏)と三俳人から高い評価を受けた。『村上鬼城句集』『続村上鬼城句集』などの句集がある。1938年(昭和13年)没。73歳。

 10月下旬ともなると、大気が澄んで空が一段と高く感じられます。その感じを指す秋の季語が「天高し」です。秋の深まりとともに、真夏の地熱も収まり、地面は徐々に冷えてきます。そして大気の状態が安定し、さして強い風も吹かなくなります。また二百十日(9月初旬)前後の台風、その後の秋の長雨の後なので、ちりやごみが立ちにくくもなります。このため今頃の秋空は、一年のうちで一番澄んで高く見えると言われています。

 この句の「天高し」そしてやせ馬の「馬」から連想されるのは、「天高く馬肥ゆる秋」という昔からの成句です。これは我が国では、秋の爽快感や実りの秋の食欲旺盛になるさまを表す慣用句として定着しています。
 
 この慣用句のそもそもの語源は古代中国です。元の漢語は「秋高馬肥」。ただし肥えている馬は漢民族の馬ではなく、北方の匈奴(きょうど)の馬を指しています。『秋風辭』でも述べましたが、漢の武帝の時代領土は漢民族史上最大となりました。しかしそれでも北の辺境では、それ以北の匈奴からたびたび侵攻を受けていたのです。匈奴は北方騎馬民族で騎馬戦にはめっぽう強いのです。夏の間繁茂した牧草をたっぷりと食べさせ、馬が肥え太った秋に南侵してくることが多かったのです。
 司馬遷の史書『史記』の「匈奴列伝」にも、「秋、馬肥ゆ時期は漢民族にとっての大きな脅威の時」と記してあるそうです。

 つまり「秋高馬肥」は、前漢時代から北方の外敵に対する脅威を表わす成句であったわけです。それは後の唐の時代にも受け継がれ、唐の後の時代には脅威が現実のものとなります。すなわち北宋は北方民族の女真(じょしん)族の侵略により、黄河一帯から長江付近にまで押しやられ(南宋)、また次の時代には蒙古民族によって中国全土が侵略され、元(げん)という蒙古人国家が成立してしまったのです。
 また中国最後の王朝である清朝(しんちょう)は、これまた北方満州族の建国によるものです。清の時代北方脅威論は、当時列強国化していたロマノフ王朝のロシアに対して向けられることになり、秋高馬肥の成句を引用してその脅威を唱えた文章も著わされたようです。

 それはともかく。村上鬼城のこの句は、日本語として慣用句化された「天高く馬肥ゆる秋」を踏まえて作られたものと推察されます。
 鬼城は裁判所の訴状の司法代書人(後の司法書士)のかたわら、婦人とともに農作業にいそしむことも多かったようです。ですからこの句の「痩馬」は、農作業のある時目の当たりにした馬の姿の実写だと思われます。
 
 どこまでも抜けるように青い秋空の季節。とある地上の痩馬。上記の慣用句とのアンバランス。
 鬼城の観察眼では、そんな痩馬がなぜかご機嫌なようすに感じられたのです。そのことがかえって哀れを誘います。俳諧味と表裏にある深い哀しみ。といっても、作者にはどうしてやることも出来ず、ただそのようすをじっと見守るのみです。

 「あはれ機嫌や」に、鬼城の痩馬に対するシンパシー(共感)を感じます。それなしに、この句は生まれなかったと思います。いつかまたご紹介する機会があるかもしれませんが、村上鬼城の句には、この句のように「生きとし生けるもの」への暖かいまなざしが感じられる句が多いのです。

 (大場光太郎・記)

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秋の名句(2)

              石田 波郷

   朝顔の紺(こん)の彼方の月日かな

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《私の鑑賞ノート》
 石田波郷(いしだ・はきょう) 略歴は『夜もみどりなる(1)』記事参照のこと。

 略歴では触れられませんでしたが、石田波郷が本格的に俳句を始めるきっかけとなったのは旧制松山中学4年時、同級生からの勧めによるものだそうです。その同級生とは中冨正三、後の俳優・大友柳太朗(1912年~1985年)でした。と言っても今の若い人たちはピンとこないかもしれません。私たち団塊の世代より前の人たちしか知らないかもしれませんが、大友柳太朗は戦後の映画全盛の頃、嵐寛寿郎や片岡知恵蔵などと共に往年の大スターだったのです。
 愛媛県松山市といえば、近代俳句の創始者・正岡子規やその継承者・高浜虚子を生んだ土地柄です。当時地元の才能ある少年の多くが俳句を志したことでしょう。そのような切磋琢磨の中から、後に戦後昭和期を代表する俳人の石田波郷のような俊秀が育っていったものと思われます。

   朝顔の紺の彼方の月日かな
 若い頃の波郷句に共通してみられる叙情性がこの句にも漲っています。朝顔の句といえば今眼前する事象を叙述、叙景した句が圧倒的に多いようです。そんな中でこの句は、朝顔の「紺の彼方」に「月日」を透かし見ているのです。これこそが波郷による新発見であったわけです。
 波郷が眼前の朝顔の彼方に透視した「月日」とは、どんな月日だったのでしょう?来し方の「過去の月日」だったのか。それともまだ見ぬ「未来の月日」だったのか。それをうかがい知るには、この句が作られた頃の時代背景を探ってみる必要がありそうです。

 この句は昭和18年5月刊の句集『風切』に収録されています。ですからこの句が作られたのは前年の昭和17年の秋と考えてよいのでしょう。
 昭和17年6月波郷は結婚し、同句集が発刊された同月に長男が生まれています。波郷30歳頃のことですが、その頃が波郷にとって幸せのピークと言ってよい時期だったと思われます。だからこの句の「月日」は、やがて生まれてくるわが子と共に歩むであろう、遠い未来の月日と捉えられないこともありません。
 しかし当時の時代状況を考えてみますと、必ずしもそうとばかりは言い切れないように思います。既にお分かりかと思いますが、この時期は我が国の歴史始まって以来最大の戦争の真っ最中だったからです。「戦争」という重苦しいものが国民全体の上に覆いかぶさっていたのです。

 昭和16年12月8日真珠湾攻撃で始まった日米戦争は、開戦当初こそ日本軍が勝ち戦を重ねたものの、土台彼我の戦力、国力の差は歴然で、月日を重ねるごとに日本軍の旗色が悪くなる一方でした。
 ちょうど波郷が結婚した昭和17年6月の5日、日本軍の負け初めとなる大きな出来事がありました。ミッドウェー海戦です。同海戦の敗北以後、日本陸海軍は一度も態勢を盛り返せず、ガダルカナル、アッツ島、インパールなどの各戦線で敗退に次ぐ敗退を重ねていくことになるのです。

 何しろ言論統制下の戦時中です。大本営は国民に負け戦を隠し続けました。だからこの句を詠んだと思われる昭和17年秋、波郷が正確に戦局を認識していたかどうかは分かりません。そもそも波郷が戦争をどう捉えていたのか、私は寡聞にして知りません。
 しかしその後の波郷の歩みから推測するに、波郷は同戦争の積極的支持者だったとは考えにくいのです。むしろ、長引くだけでいまだ帰趨の見えない戦争に、どこか厭戦(えんせん)気分があったのではないでしょうか。

 少し回りくどくなりましたが。そんな時局であったことを考えると、この句の「紺の彼方の月日」は、将来展望としての未来の月日ではなく、回想としての「過去の月日」だったのではないだろうかと思われるのです。
 以前ご紹介した、1932年19歳で上京し「プラタナス夜(よ)もみどりなる夏は来ぬ」のみずみずしい句を作った頃の、東京の叙情的なとある路地に咲いていた朝顔。さらにはそれ以前の郷里の村や松山市に咲いていた朝顔…。重苦しい戦時下の彼方の、来し方の懐かしい追憶の月日。

 朝顔には赤や水色など数多(あまた)の色がある中で、「紺色」。その時代の色として、俳人は無意識的にこの色を選び取ったのでしょうか。
 まもなく波郷の身にも戦争の暗い影が襲いかかり、運命が暗転してしまうことになります。それはいずれまた別の句でお伝えできればと思います。

 (大場光太郎・記)

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秋の名句(1)

             富安 風生

   秋晴れの運動会をしてゐるよ

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《私の鑑賞ノート》
 富安風生(とみやす・ふうせい) 明治18年、愛知県金沢村(現宝飯郡一宮町)生まれ。東京帝国大学法学部卒業。通信省に入り通信次官にまで到った。大正7年に俳句を始め、篠原温亭の「土上」に参加、東大俳句会を興し、高浜虚子の指導を受けた。歩を中道にとどめ、騒がず、誤たず、完成させる芸術を求めた俳人。句集に『草の花』『松籟』『村住』『晩涼』『古稀春風』『喜寿以後』『年の花』『齢愛し』などがある。昭和54年没。     (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 上記『現代の俳句』によりますと、この句の初出は昭和30年刊句集『晩涼』に収録されたもので、「北海道縦断、車窓」の前書きがあります。富安風生が老境に入ってからの北海道旅行で、車窓から見た秋の日の一光景だったものと思われます。
 もしかしたら車中の誰かが隣の席の者に、「おい、見ろよ。運動会をしているよ」とでも言ったのかもしれません。作者の風生もついつられて窓外を見てみると、なるほど線路に隣接した学校の校庭では運動会の真っ最中ではないか。そしてきょうはまた「秋晴れ」の絶好の運動会日和の良い天気で。
 そこで俳人の風生は、『その言葉いただき ! 』とばかりに、とっさにこの句を思いついて句帳に書き留めたのではないでしょうか。

 「運動会をしてをれり」というような型どおりではなく、話し言葉の平易な表現であるところが良いと思います。この平易な言葉から、運動会をしているのは多分小学生ではないだろうかという類推も自然に導かれます。
 「運動会をしてゐるよ」という日常会話的な文の前に、「秋晴れの」という季語を持ってくることによって、立派に一句として成立してしまうのです。また秋の明るい日差しの下、夢中でかけっこやら玉入れやら騎馬戦やらをしている児童たちの姿、その元気な声までもがイメージされてきます。

 過日少しふれましたが、多分この句以降のことだと思いますが、運動会は「秋の季語」と定まりました。私などの小学校時代の記憶では、運動会や遠足は共に春と秋の2回ありました。しかし理由は定かではありませんが、どうしてか運動会は秋の、そして遠足は春の季語と決まったのです。(いったんそう決まってしまうと、逆の季節の場合は、それぞれ「春の運動会」「秋の遠足」という表記になります。)

 「てるてる坊主てる坊主、あした天気にしておくれ♪」ではないけれど。運動会は何といっても秋晴れに限ります。これが「秋霖(しゅうりん)の運動会をしてゐるよ」では、陰惨な絵になってしまいシャレになりません。
 もし本当に誰かが「運動会をしているよ」と声を挙げたのであれば、それは気分の良いすっきりした秋晴れの天気がそう言わせたともいえます。そしてそれを聞いた作者風生もそれに感応して、素早く一句をものに出来た。その時風生は、自身の子供時分の運動会の思い出も懐かしく蘇ってきたかもしれません。
 
 「秋晴れ」に触発された、見ず知らずの旅客同士の心と心の触れ合いもまた伝わってくるような秀句です。

 (大場光太郎・記) 

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模様のちがふ皿二つ

             原 石鼎

   秋風や模様のちがふ皿二つ

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《私の鑑賞ノート》
 原石鼎(はら・せきてい) 明治19年島根県塩治村(現出雲市)生まれ。中学時代子規門の教師竹村秋竹に俳句を学び、松江の奈倉梧月の句会に投句。文学との葛藤の末京都医専中退。家業の医者を継がず放浪。深吉野の次兄の診療所を手伝っていた時、俳句開眼。その秀句を虚子に賞賛された。「ホトトギス」編集を手伝ったのち、大正10年「鹿火屋」主宰となる。以後、神経障害などと戦いながら秀作を残し、二宮(現神奈川県中郡二宮町)に隠棲、療養につとめた。生前の句集に『花影』『石鼎句集』などがある。昭和26年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』などより)

 周りを秋風が吹き抜けています。ふと見れば皿が二つあります。その皿の絵柄の模様が違うのです。詠まれているのは、たったこれだけ。『えっ。こんなことでも俳句になるの?』と思ってしまうような単純素朴な句です。
 「秋風」と「皿二つ」がこの句の基本的な構成要素です。原石鼎の視野の中には、種々雑多な物があったことでしょう。しかしそんな中で石鼎はなぜか皿二つにフォーカスしたのです。言ってみればそれは、石鼎によって恣意的に選ばれた対象物です。

 なぜ選んだのでしょう?「なぜだかよく分からないけれど…」というのがその答えなのかもしれません。それは多分に直感的なものであり、それはしばしば表面的な意識の理由づけを拒否する場合があるからです。
 しかし部外者があえて詮索を試みるなら、それは皿が互いに「模様のちがふ」ものだったからではないかと思われます。おそらく石鼎は、「模様のちがふ皿二つ」が深いところで「秋風」とリンクしていると直感したのです。

 これはどんな状況で(屋外なのか屋内なのか)いつ頃作られた句なのだろうか?私は何となく気になって調べてみました。そうしましたら、この句にはやや長めの「前書き」があったのです。
 「父母のあたたかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は、伯州米子に去って仮の宿りをなす」。
 先天的に詩人的だった石鼎には、家業の医者の道は向かなかったのでしょう。それで略歴にあるとおり学校も中退し、その後各地を放浪していたようです。それは遠い先人の松尾芭蕉の「わび、さび」の風(ふう)を慕ったのかもしれないし、直近の漂泊の歌人若山牧水などに憧れたのかもしれません。

 大正2年深吉野(みよしの)を去って、以後山陰の「海近きあたりをさすらへる時代」を送っていたのです。だからこの句は、その頃米子(現鳥取県米子市)に立ち寄った宿屋での一光景だと思われます。
 時に原石鼎27、8歳の頃。さすがに年老いた放浪者としての絶望感などはなかったはずです。しかしなにせ若い身空で一人流離(さすら)っている身、孤独感、悲哀がなかったといえばウソになるでしょう。「自分探し」のための放浪でもあります。それゆえ、未(いま)だ己の人生上のテーマが定まっていない焦燥感もあったことでしょう。

 そのような心境に、「秋風」は実によくフィットしていると思います。そして秋風に対応している「皿二つ」が、これまた「模様のちがふ」もので。その二枚の皿の不揃いさ、アンバランスさは、そのような石鼎の心の憂愁、焦燥、欠落を埋めるどころか、むしろざわつかせ助長させもした…。
 しかしそれが幸いして、このような名句となって結実したのだと思われます。

 (大場光太郎・記)

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芋の露と連山と

                 飯田 蛇笏

   芋の露連山影を正(ただ)しうす

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《私の鑑賞ノート》
 飯田蛇笏(いいだ・だこつ)の略歴については、昨年11月の『魂の映る菊見とは?』で述べました。高浜虚子に次いで近代俳句の発展に大いに寄与した巨匠です。それは、俳句界で最も権威ある賞が「蛇笏賞」であることにも表れています。

 当然ながら蛇笏は、秀句、名句を数多く残しています。それらの一句一句が彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の名品といってよく、そのどれもが彼の代表句といってもよさそうです。その中でもこの句は、代表句の筆頭に挙げられるべき句であるかもしれません。それほど「蛇笏俳句の精髄ここにあり」と思われるほど完成度の高い、近代俳句の一つの頂点を極めたような句であると思います。

 この句の場合、芋と露と季語が二つあります。共に秋の季語です。普通は一句で季語を二つ使うのは「季重なり」といってご法度です。一つ一つの季語は、大きな季節的イメージを背景として有しているため、季語が互いにぶつかり合って一句が壊れてしまうから、というのが主な理由だったかと思います。
 しかしそう厳しく規定されだしたのは近代以降のことで、それまでの俳人はもっと自由に季重なりの句も作っていたようです。それに当時は季語でなかったものが、新しく季語として加えられた例もあります。(例えば「運動会」が秋の季語に、「遠足」が春の季語となったように。)
 この句では発句で「芋の露」と、いきなりの季重なりです。ではそれで一句が壊れてしまっているか、うるさくなっているかというと、この句に限ってはそういうことはまったく感じられず、二句、三句に自然につながっていっている感じがします。だからこの句が作られて以降だと思いますが、「芋の露」を一つの季語として掲げている歳時記もあるようです。

 それはともかく。「芋の露」を発句に持ってきたということは、これがこの句における主眼目であるからに他なりません。またそれは作者の立ち位置をも明示しています。つまり蛇笏はとある芋畑の中の「芋の露」と間近に対面しているのです。
 ところでご年配の方ならどなたもご存知でしょうが、俳句の場合芋とは「里芋」を指しています。改めてこう申し上げますのも、今の子供や若者たちにはそれが分からない、里芋自体どんなものかを知らないことが圧倒的に多いようだからです。
 里芋は夏からちょうど今頃の9月にかけて、茎が太く長く伸び、その上に丸くて大きな葉を広げて畑一面に生(な)っているのが見かけられます。そしてこの葉は、水をはじくのです。はじかれた水は、真ん丸い玉のような大きな露になって、風でも吹いて葉を揺らそうものなら、葉の表面をあっちこっち転げまわっているさまを見かけることがあります。

 さて露には「夜露」と「朝露」がありますが、この句の場合はどちらなのでしょう?それは二句と三句に示されています。「連山影を正しうす」。この句の場合の「影」は、いわゆる一般的な意味での「影(シャドー)」ではありません。蛇笏は「正しくす」ではなく「正しうす」と古雅な表現をしているように、影も古典的解釈が必要です。すなわち我が国古典における影の意味は、第一に姿、第二に光、そして三番目がいわゆるシャドーの意味だったようです。
 ですからこの句にあっては、「連山の姿を」の意味となります。つまり蛇笏の眼に止まった芋の露の中に遠い山並みの姿が映っている、という構図です。夜は真っ暗で連山の姿が夜露に映ることなどあり得ませんから、露は朝露、時刻は朝ということになります。

 露は時に、果敢(はか)ない命やこの世を表わす比喩として使われることもあります。その果敢ない露の玉に、蛇笏の住居(故郷)の山並みである南アルプスの連山が映っている。露と連山の対比は実に見事だと思います。超近景の果敢ない刹那的な露の玉に、遠景の雄大で悠久な連山の姿が整然と映り、納まっているのです。何やら単なる俳句の範疇を超えて、露の玉が曼荼羅(まんだら)世界を胎蔵(たいぞう)している、そんな仏教的世界観に踏み込むような心地すらしてきます。同時に、「全体は一部であり、一部は全体である」という最新のホリスティックな世界把握を先取りしていた句のようでもあります。

 そして「連山影を正しうす」。露の玉に映った、居住まいを正して整然と連なる南アルプスの姿は、また飯田蛇笏自身のピーンと背筋を伸ばしたストイックで潔い生き方の反映でもあるように思われます。他の句からも、蛇笏のそういう生き方がうかがえる句が多いようです。
 芋の露の中に映じた連山のさまを見て、当然のように蛇笏は背後の南アルプスの遠い山並みを振り返ったことでしょう。そして連山は秋の朝の澄み切った大気の中に、実際整然と連なっているのを再確認したことでしょう。

 (大場光太郎・記)

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荒海や

            松尾 芭蕉

   荒海や佐渡に横たふ天の川     
                
  …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 「奥の細道紀行」を続けていた松尾芭蕉は、元禄2年旧暦7月4日(新暦8月23日頃)夜越後の国の出雲崎(いずもざき・現新潟県三島郡出雲崎町)にやってきました。この句は出雲崎で宿をとっていた時に詠まれたものです。

 一読雄大な感にうたれる名句です。夜更けに出雲崎のとある浜辺に立つ芭蕉の姿。荒れて波浪逆巻く日本海。その遥か先に望まれる佐渡が島。そして佐渡と言わず中天を覆わんばかりの天の川の輝きなどが現前されてきそうな句です。
 これほどの大景を詠みきった句は、古今稀なのではないでしょうか。俳句という超短詩形でも時としてこのような大景も詠めてしまうのだ、という証明のような句です。

 それを可能にしているのは、まず何といっても「天の川」という季語です。天の川は、「月」「星月夜」などと並んで秋の季語です。秋冷の候は大気が澄んで、月や星が特にくっきり冴え冴えと輝いて見えることから、ずいぶん昔にそう定められたものと思われます。(念のため申し添えておきますが、昔々は夜間照明などほとんどなかったのです。夜空の星々の輝度はいかばかりだったでしょう。)
 わずか「5、7、5」の17音だけでこれだけ大きな世界を描き出すには、「季語の力」が不可欠です。天の川という季語を一つ置くだけで、多言を要せずとも、万葉集、古今集の昔から日本人が共有してきたイメージが浮かび上がってくるからです。
 次いで「荒海や」と冒頭に、「海」という大自然を持ってきたことも大きいと思います。そして芭蕉の立ち位置から「佐渡」までの遥かな距離感。深遠な「芭蕉的天地観」の表明のような句であると思います。

 実際はどうであれ、一般の日本人にとって、日が昇る太平洋は「陽の海」片や日が沈む日本海は「陰の海」という通念があります。それは昔から、山陽に対する山陰また表日本に対する裏日本などという呼び方にも表われています。
 そして芭蕉は、陽の季節といってもいい春から夏にかけて太平洋沿いを北上し、陰の季節の秋から冬にかけて今度は日本海側を南下しています。それは偶然の巡り合わせだったのでしょうが、芭蕉が今身を置いている場所の風土性、季節、気候などが相俟(あいま)って、このような類稀な名句が生まれたのではと独断ながら考えます。

 ところで後世の読者たる私たちは、この句は上記のように浜辺に実際に立って詠んだものだろうと考えがちです。それほどこの句は「写生的真」に迫っています。しかし実際は違っていたようです。その謂れを少し述べますが、まずは「おくのほそ道」の芭蕉自身の文をー
<越後路>
 酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望(のぞむ)。遥々(えうえう)のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百三十里と聞(きく)。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改(あらため)て、越中の国一ぶりの関に到る。此間(このかん)九日(ここのか)、暑湿の労に神(しん)をなやまし、病(やまい)起こりて事をしるさず。
   文月や六日(むいか)も常の夜には似ず
   荒海や佐渡によこたふ天河

 奥の細道紀行に同行した曽良(そら)の日記(『曽良日記』)によりますと、鼠が関辺りからずっと雨が続いていたようなのです。「暑湿の労」とあるようにそれに残暑も加わり、早や晩年を迎えていた芭蕉には何ともこたえる道中だったようです。そのため「神をなやまし、病おこりて」、普段は筆まめな芭蕉も「事をしるさず」というほどすっかり体調を崩していたようです。
 そしてこれを記している旧7月6日の夜も大雨、我が病重し。そんな中で「あヽあしたの七夕は見られないに違いない」という詠嘆を潜ませた前の句とともに、「荒海や」の句は詠まれたのです。

 そのイマジネーション恐るべし。さすが芭蕉ならではですが、遥か後世の誰かが言った「文学上の真」というようなことをつい考えてしまいます。

 (注記) 冒頭句は、岩波文庫『おくのほそ道』と角川文庫『俳句歳時記・秋の部』を参考に、私独自の表記をしております。ご了承ください。

 (大場光太郎・記)

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閑さや

                松尾芭蕉

   閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 今さら説明するまでもないほど有名な句です。数多(あまた)ある芭蕉の名句の中でも、代表句といってよいのではないでしょうか。というよりも、芭蕉以降作られ続けてきた膨大な俳句の中でも、最も広く日本人に知られた句といっていいかもしれません。

 この句は、元禄2年(1689年)新暦8月上旬最上川沿いの大石田に逗留中、梅雨晴れ間のある日立石寺に足をのばして、その地で詠まれた句です。その何日か後には、最上川を下って
   五月雨をあつめて早し最上川
の名句も完成しました。「最上川の句」といいこの句といい、我が出身県で作られたことは密かな誇りとするところです。

 この句の背景となった立石寺(りっしゃくじ)は、現山形市にある天台宗の寺院です。山寺(やまでら)の通称で知られています。創建は寺伝によると、貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされますが、実際の創立者はその弟子の安慧(あんえ)であるとする説もあるようです。
 鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東祈祷所となり寺は栄えますが、後に兵火によって消失してしまいます。13世紀中頃には幕府の政策により禅宗に改宗となるも、後に斯波兼頼が出羽探題として山形に入部した後、兼頼により再建され天台宗に戻りました。

 大永元年(1521年)またもや兵火により全山焼失しました。現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの、室町時代中期の建物とされています。なお焼き討ちの際、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、再度分燈することとなりましたが、元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ち後の延暦寺の再建には、立石寺側から逆に分燈されることになりました。
 立石寺は、江戸時代の山形城主であった最上家(斯波兼頼を祖とする)と関係が深く、同家の庇護を受けていました。同寺には同家から寺領1,300石が与えられました。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「立石寺」の項より)

 山寺(立石寺)といえば―。私は高校3年生の時、当時のクラスで私が音頭を取って3回ほど「郷土の史跡めぐり」をしました。その締めくくりが山寺でした。といっても夏ではなく、コートを着込まないと寒いくらいの10月の日曜日、クラスの半分くらいが参加しました。
 何しろもう40年以上前のことです。その時のようすは詳しくは覚えていませんが、参道の途中にこの句の古色蒼然たる句碑が建っていたことは記憶にあります。(いずれそのことも含めて、高3の頃の思い出を綴れればと思います。)

 さてこの句の観賞文となると、骨が折れます。とにかく難解なのです。そのゆえんは?やはり何といっても、
   閑さ = 蝉の声
 という不思議な等式の解を得ることの難しさです。

 本当にどういうことなのでしょう?山寺はとにかく鬱蒼たる木立に覆われた山の寺です。木立に紛れ込むように、あっちこっちに塔中が建っているといった趣きです。時は夏真っ盛り。全山を覆わんばかりの蝉の鳴声です。そのかまびすしさといったら、「岩にしみ入る」ほどなのです。
 この第2句は特に秀逸だと思います。山頂の本堂まで、曲がりくねった石畳の上り参道がかなり続きますが、参道沿いといい少し離れた所といい、切り立った崖状の高くて大きな岩が到る所に認められます。その奇岩にしみ入るほどだというのですから、蝉声の凄まじさが想像出来ようというものです。

 なのに、発句に「閑さや」を持ってきている。強い感嘆を表す「や止め」が、森閑、静寂のさまをさらに深めているのです。これが謎の謎たるゆえんです。
 参考まで、この句に至るまでの『奥の細道』のくだり、これも古今名高い名文ですから以下にご紹介します。

 〈立石寺〉
 山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊(こと)に清閑(せいかん)の地也。一見すべきよし、人々のすヽむるに依りて、尾花沢よりとって返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌(いはほ)を重ねて山とし、松柏年旧(しょうはくとしふり)、土石老て苔滑(なめらか)に、岩上の院院扉を閉(とじ)て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這(はひ)て、仏閣を拝し、佳景寂寞(じゃくまく)として心すみ行(ゆく)のみおぼゆ。
  閑さや岩にしみ入(いる)蝉の声
 
 芭蕉は、さしもの蝉の声など全く気にならないほど、全山を領する神気、霊気と深く感応道交していたということなのでしょうか。涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の境地に入らば、あるいはこのような句が詠めるものなのでしょうか。
 俳聖・芭蕉の句境測り難し。凡人は説明し難い解を求めて、ただただ味読するのみです。

 (大場光太郎・記)

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夏の名句(2)

                  水原 秋桜子

   滝落ちて群青(ぐんじょう)世界とどろけり

  …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 水原秋桜子(みずはら。しゅうおうし) 明治25年、東京神田生まれ。東京帝国大学医学部卒業。医学博士となり家業の産婦人科病院を継ぎ、昭和医専教授、宮内省侍医。初め「渋柿」で句作、虚子門に入り、東大俳句会を興す。「ホトトギス」で頭角を現わし、四Sの一人にあげられる。昭和6年「馬酔木(あしび)」独立。芸術性高き主観俳句を追求、石田波郷、加藤楸邨らを育て、綺麗寂びの世界を築く。句集『葛飾』『霜林』『残鐘』『帰心』『余生』など。昭和56年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 暑い夏に、つかの間でも涼(りょう)をと「滝の名句」をご紹介します。
 
 滝は四季を通じて見られますが、しかし夏でも滝壺付近に立つと肌に迫る涼しさを覚えます。そのためなのか、滝は「夏の季語」となりました。ただし滝が季語となったのは近代以降のことです。というよりも、秋桜子のこの句によって夏の季語として定まったもののようです。

 この句は「滝の水が滝壺に落ちて、その音が群青色の世界にとどろいていることよ」というような大意です。この句における滝とは、有名な熊野の那智の滝です。同滝は落差133mもある大滝です。その天辺から落下する滝水のさまを詠んで、実に力強い句であると思います。

 参考まで「那智の滝」とは―。和歌山県那智勝浦町の那智川にかかる滝で、那智四十八滝の一の滝のこと。華厳の滝(栃木県奥日光)、袋田の滝(茨城県久慈郡)と共に「日本三名滝」に数えられる。
 那智山一帯は滝に対する自然信仰の聖地であり、「一の滝」は現在でも飛瀧神社の御神体であり、同社境内に設けられた滝見台からその姿を見ることができる。2004年に、ユネスコの世界遺産『熊野山地の霊場と参詣道』の一部として登録された。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「那智の滝」その他より)

 この句を非凡なものにしているのは、何といっても「群青世界」という表現だと思われます。これは秋桜子による造語だそうです。群青とは、「あざやかで美しい藍色(あいいろ)がかった青色。ウルトラマリン」のことです。大滝の周囲に聳える千古の杉木立、滝壺の水色、滝そのもの、それら滝全体渾然一体のものとして、秋桜子は直観的に「群青世界」と把握したのでしょう。その色彩感覚の鋭さが先ず見事だと思います。

 ところで「世界」は、元々は仏教用語であることをご存知でしょうか。この言葉の元は梵語の「loka(ローカ)」の訳で、「世」は移り流れる意でつまり「時間」を、「界」は東西南北の境衆生が住む国土つまり「空間」を表わす用語です。
 時間と空間が十字交差し、そしてそこに人間たちが存在する場所。この三次元地球世界はその「一世界」に相当するわけです。仏教ではそのような世界が「三千世界」存在すると説きます。仏教における「三千」とは、無数にという意味です。何やら今日の多次元宇宙論を先取りしていたかのような壮大な宇宙観です。

 この句では「群青世界」。那智の滝はそれ自体が御神体です。秋桜子の先輩俳人であった高浜虚子に、
   神にませばまこと美はし那智の滝
という句もあります。神におわせば、滝全体が「一世界」であることも納得出来ます。それも緑陰の中、美しい藍色がかった青で荘厳(しょうごん)された「群青世界」。ただ凡人には、神の滝に突っ立っていくら眺めていても、「群青」も「世界」も思い浮かびはしません。

 この大滝の景観にあっては、「先ず初めに群青世界在りき」という感じがします。それは本来は森閑とした音無き静寂世界のはずなのです。しかし実際は「群青世界とどろけり」。間断なく滝水が落下して、滝壺に音声が轟いている。ただその音声は雑音ではなく、世界を常に創造的かつ活動的に在らしめる、初源的な「音霊(おとだま)」であるように思われます。
 「群青世界とどろけり」と把握した時の秋桜子は、世界をかく在らしめている根源的秘密に限りなく迫っていた。まさに天地のただ中に存在する「無我の人」になっていた、つまり「天地人一体」-主客融合していたのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記)

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夏の名句(1)

                            山口 青邨

  祖母山(そぼさん)も傾山(かたむくさん)も夕立(ゆだち)かな

  …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 山口青邨(やまぐち・せいそん) 明治25年、盛岡市生まれ。東京帝国大学工科採鉱学科卒。古河鉱業、農商務省を経て東京帝大工学部教官となり、教授、名誉教授となった。大正11年虚子門に入り、東大俳句会を興す。四S時代の提唱者。昭和4年、「夏草」創刊。6年、杉並に家を定め、雑草園と称した。東大ホトトギス会を興す。句集に『雑草園』『雪国』『花宰相』『庭にて』『粗饗』『寒竹風松』などがある。昭和63年没。  (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 たびたび引用しております『現代の俳句』中、「山口青邨」でこの句を見出した時、何となくユーモラスで面白い句だなあと思いました。青邨には他に秀句がずいぶんありますが、その一つとして初めから印象深い句だったのです。

 この句の大意としては「まあ、祖母山も傾山も夕立のただ中にあることよ」という、ただそれだけの夕立の一情景を詠んだ句です。そんな単純素朴な句になぜ惹かれるのだろうか?考えてみますと、やはり何といっても「祖母山も傾山も」という固有名詞の組み合わせの妙にあるのではないかと思われます。

 私は当初祖母山も傾山も、山口青邨の想像から生まれた山とばかり思っていました。しかしだいぶ前の某俳句雑誌の夏の号にこの句が取り上げられており、そこで両山とも実在の山であることを知りました。フリー百科事典『ウィキペディア』から、両山のことを少しご紹介してみます。

 祖母山(そぼさん)は、大分県(豊後大野市、竹田市)と宮崎県(西臼杵郡高千穂町)にまたがる標高1,756mの山であり、宮崎県の最高峰である。日本百名山の一つ。祖母山連山は熊本県、大分県、宮崎県と3県にまたがる。火山活動によって形成された山であるため巨大な岩石が随所にみられ、登山ルートは整備されたものから獣道(けものみち)まで多種多様である。祖母山周辺は鉱物資源が豊富で、江戸時代から昭和中期まで採掘が行われていた。
 傾山(かたむきやま)は大分県と宮崎県にある祖母山系の山。山頂は大分県豊後大野市緒方町に位置し、標高1,605m。祖母傾国定公園に指定されている。山頂は3つの岩峰からなり、南から後傾、本傾、前傾と呼ばれる。

 こうしてみると私が知らなかっただけで、両山とも名だたる名峰であったわけです。
 ところで傾山の正式な呼び方は「かたむきやま」のようです。しかしこの句が載っていた『現代の俳句』ではわざわざ「かたむくさん」とルビがふってありました。おそらく作者の山口青邨自身もこのように読ませたかったのではないだろうか?と推測されます。
 「かたむき」と「かたむく」、わずかに「き」と「く」の違い。「かたむき」の場合は、悠久な造山活動によって自然と傾いて現在の形になったというニュアンスです。しかし一方「かたむく」となると、山それ自体の意志によって傾いたと捉えられます。もちろん、山は祖母山を慕ってそちらの方に傾いたというわけです。
 なお同山を「やま」ではなく「さん」としたのは、祖母山(そぼさん)との句調を整えるためだったと考えられます。

 我が国では昔から「おばあちゃんっ子」という呼び方があります。孫がなぜか祖母にすっかりなついてしまって、実の父母以上に事あるごとに「おばあちゃん。おばあちゃん」。しかし今日では、これは昔懐かしい日本の家族関係になりつつあるのではないでしょうか。
 特に都市部では核家族化が進み、祖父母-父母-子供という三世代同居の大家族が少なくなってきています。かつては父母と子供の他に祖父母がいて、親子に何か難しい緊張関係が生じた場合、祖父母がクッションのような役割を果たしていました。そのようにして、家族関係のバランスがうまく取れていた側面があったように思われるのです。
 
 またお年寄りが日常身近な所にいることによって、年長者を敬う気持ち、もっと言えば「敬神崇祖(けいしんすうそ)」という日本的美風が涵養される土台にもなっていたと思うのです。
 以前の社会では、今日問題となっているような親子の断絶、さらにはその行き着く果ての子殺し、親殺しなどという悲惨な出来事はまずありませんでした。

   祖母山も傾山も夕立かな
 昔懐かしい家族形態が「破壊された」と言ってよい今日の世の中。この激しすぎる驟雨(夕立)のような現社会システムによって、「祖母山も傾山も」すっかりその姿がかき消されてしまっているようです。
 
 (大場光太郎・記)

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赤き鉄鎖

                山口 誓子

   夏の河赤き鉄鎖のはし浸(ひた)る

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 山口誓子(やまぐち・せいし) 明治34年、京都市岡崎町生まれ。東京帝国大学法学部卒業。在学中高浜虚子の指導を受ける。大阪の住友本社に就職。「ホトトギス」に、東の秋桜子・素十、西の青畝と共に4S時代を展開する。病気にて住友を退社。昭和23年「天狼」を創刊。新興俳句運動の指導者的存在となる。句集は『凍港』に始まって『紅日』まで16冊。平成6年没。 (講談社芸術文庫・平井照敏編『現代の俳句』等より)

 私も時によって使い分けることがありますが、「河と川」。河と表記する場合は、現在の河川区分でいえば一級河川のような大河が連想されます。
 この句における「夏の河」が、具体的に何川なのかは分かりません。しかしそれだけ大きな河川ともなると、上流から下流まで川はさまざまな側面を垣間見せてくれます。
 小学校4年生頃の社会科の教科書で、「川の一生」というのを習いました。山の渓流に源を発し、上流の山あいの集落を下り、中下流域の住居、商店、工場などが建ち並ぶ町場の側を流れ、やがて海に注ぎ込む。そのさまを図解入りで説明してありました。私はその絵に、子供ながらにわかに「神の眼」を獲得したようなワクワク感で、あかず眺めていたことを覚えています。

 この句は、河川という本来は自然なものに人間たちがより密接に関わってくる、比較的下流域の町場を流れる川の一光景を切り取ったものでしょう。
   夏の河赤き鉄鎖のはし浸る
 一読すると『えっ。だから何なの?』と思うような、取り立ててどうということもない川の一寸景です。しかし近代俳句の代表的俳人の一人である山口誓子にこう詠まれてしまうと、別にどうということのないはずの「赤き鉄鎖」が、にわかに実存主義的な存在物のように感じられてくるから不思議です。

 この句における「赤き鉄鎖」は、不心得な輩(やから)がその場所に今で言う不法投棄していったものなのか。あるいは別の理由で持ち込まれたものなのか…。詳細は不明です。
 いずれにしても、それが山口誓子の心を強く捉えたのです。鉄鎖の「赤」は夏という季節にあっては取分け強烈な色のように思います。おそらく真っ赤ではなく使い古されて、塗装された赤い色も褪色してしまっているような長い鉄の鎖の、端だけが川水に浸かっている。通常なら見逃しかねない光景を、誓子は独特の俳人的嗅覚で捉えたわけです。

 端が水に浸かっていることにより、冷気が何か毛細管現象のように赤い鉄鎖の暖色をじわじわ浸食しつつある。そんなふうに思われてきます。

 人間という奇妙な存在がいなければ、川という自然にあって「赤き鉄鎖」はおよそ有り得ない物のはずです。その有り得ない「オーパーツ」(場違いな存在物)のような物が、誓子の心をざわつかせ、何となく不安にもさせた。その結果生まれた句なのではないでしょうか。
 楕円形の赤い鉄の輪の連鎖はまた、背後にある近代文明の得体の知れない不気味な連鎖-自然界の巧まざる連鎖とは明らかに異質な連鎖-をも連想させます。そんな黙示的な句であるように思われます。

 (大場光太郎・記) 

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白い夏野

              高屋 窓秋

   頭の中で白い夏野になってゐる

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 高屋窓秋(たかや・そうしゅう) 略歴は『名句観賞』中の『桜の名句(4)』参照のこと。

 以前取り上げました「ちるさくら海あをければ海にちる」もそうでした。高屋窓秋は、一貫して口語調の秀句を作り続けた俳人です。ついつい気取って、「頭の中で白い夏野になりゐたり」あるいは「頭の中で白い夏野でありしかな」と読みたくなるところです。そこをあえて「白い夏野になってゐる」。通常の口語文のような平明さです。
 この句が出来たのは昭和7年(窓秋22歳)の頃のようです。そういう時代背景を考えれば、それだけでこの句は十分に革新的だったのではないでしょうか。

 ところでこの句の場合問題となるのは、発句の「頭の中で」の読み方です。この俳句を取り上げている中には、「頭(づ)の中に」とわざわざルビをふっているものもあります。そう読むと五・七・五の定型となり、確かにスムーズです。しかし一方では『はあっ。頭を“づ”とはどういうことだ』という違和感もまたあります。
 ですから私は以前から「頭(あたま)の中で」と読んでいました。そうすると七・七・五となり破調句ではあるものの、何となく納得して読めるのです。
 今回この句を取り上げるにあたって、それについて少し調べてみました。そうしたら窓秋自身『百句自註』の中で、「普通、五・七・五に則って読めば“ヅ”であるが、作者のぼくの中では“アタマ”としていた」と述べています。やっぱり ! ここはだいぶ字余りではあっても、素直にそう読んでいいのではないだろうかと思います。

 この句の革新性は、破調句であること、口語調であること以上に、二句目の「白い夏野」にあると思います。言うまでもなくこの句の季語は「夏野」です。歳時記・夏をひも解かれればお分かりかと思いますが、夏野はまた「青野」でも置き換えがききます。あらゆる草木が青々と繁茂する夏の野なのですから、当然といえば当然です。
 しかし高屋窓秋は「青い夏野」などと陳腐な詠み方はしません。通例に背くように「白い夏野になってゐる」。これが22歳だったという青年俳人のシャープな感性であり、類い稀な革新性だったと思われます。
 当時の俳壇はさぞ驚いたことでしょう。大変な衝撃だったかもしれません。私が知る限り、夏野をこのように詠んだのは後にも先にも窓秋ただ一人です。

 しかしよく考えてみますと、現実の夏野(あるいは真夏の街でも)を目の当たりにすると、何となく白っぽく感じることがあるものです。あまりに強い夏の日差しが、野原全体の草木の深緑色さえ漂白したように感じられるからなのでしょうか?
 さらに考えれば「頭の中で」と言うからには、窓秋は現前している夏野を詠んでいるのではないのかもしれません。それは遠い記憶の中の少年時代の夏野。確かに、遠い記憶の中の夏の景色ほど、なぜか白っぽい景色となって思い出されてくるようです。

 (大場光太郎・記) 

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梅雨の名句(4)

                桂 信子

   ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 桂信子(かつら・のぶこ) 大正3年、大阪市生まれ。本名、丹羽信子。大手前高女卒。昭和13年、日野草城門に入る。45年「草苑」を創刊、主宰。52年、第1回現代俳句女流賞受賞。平成4年、第26回蛇笏賞受賞。句集に『月光抄』『女身』『晩春』『新緑』『初夏』『緑夜』などがあり、ほかに『草花集』『信子十二か月』のエッセイ集がある。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 これは女性ならではの句です。「ふところに乳房ある」ことがどうして「憂さ」となるのか、世の男どもには皆目分かりませんから。そして世の女性すべてがそのように感じるものなのか、それともそれは桂信子という俳人独特の感覚だったのか?それすらも分かりません。

 俳句のみならず「詩」というものは、作る者の独特な感性、ものの見方で捉えた事象を、独自の詩的世界として描き出すものです。その詩がそれまで使い古された月並みな表現を脱して、独創性を発揮しているほど、読み手は面白く感じるわけです。
 その意味でこの句などは、女性特有の感覚を俳句として詠みこんだ点で大変ユニークな句であるといえます。(そのため今回こうして取り上げたわけです。)

 しかしいくらユニークであっても、その俳句の中に普遍性がなければ、幅広い読者の共感を得ることはできません。この句は昭和30年刊句集『女身』に収録され、以来広く読み継がれてきた句ですから、やはり何らかの普遍性がありそうです。
 
 じとじとと湿気の多いうっとうしい梅雨時、特にふところに汗がにじみ、にわかに乳房が意識され物憂く感じられてきた。そのような表面的な大意ばかりではなく、この句は「乳房を有する性」「我が子に授乳させる性」つまり女性であることの、根源的なメランコリー(それこそが普遍性)にもつながっていると思われます。
 しかしそのメランコリーは、少なくとも昭和30年以前に桂信子が感じたもの。以来半世紀以上が経過して、その間「女性の意識」は大きく変化しました。だから同じようなことを、今日の女性も感じるものなのか?これまた世の男どもにとっては謎というものです。

 ともかくも、「梅雨」という季語が、「憂さ」を表わすのに実によく効いていると思います。

 (大場光太郎・記)

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梅雨の名句(3)

                  鷹羽 狩行

   黴(かび)の世の黴も生きとし生けるもの

  …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 鷹羽狩行(たかは・しゅぎょう) 1930年(昭和5年)山形県新庄市生まれ。父親の仕事でその後幼少を広島県尾道市で過ごす。本名、高橋行雄。中央大学法学部卒業。1946年俳句を始め、山口誓子、秋元不死男に師事。1978年から俳誌「狩」を主宰。
 1965年句集『誕生』で俳人協会賞、1974年句集『平遠』で芸術選奨新人賞、2002年句集『翼灯集』『十三星』で毎日芸術院賞、2008年句集『十五峯』で詩歌文学館賞、蛇笏賞をそれぞれ受賞。俳人協会会長、日本文学者協会理事。十数冊の句集のほか、評論集『古典と現代』『俳句の魔力』、入門書『俳句のたのしさ』『俳句を味わう』その他がある。
 俳句表現における言葉の選択を重視する。鋭い感覚、奔放で大胆な表現が特色。
 (フリー百科事典『ウィキペディア』「鷹羽狩行」の項などを参照)

 着想が実にユニークで面白いと思います。
 黴はどなたもご存知のとおり、食物、衣類、住居などに生える青かび、黒かびなどがあります。特に梅雨の今頃の湿度と温度により発生しやすい菌類の一種です。各季節の万般に関わる事物を広く網羅して詠む俳句ならではですが、黴も立派な「夏の季語」なのです。ですから黴を題材に詠んだ句は、他にたくさんあると思います。歳時記などにも「黴の例句」が並んでいます。

 しかしこの句がそれら例句の中でもひときわ抜きん出ているのは、発句においてこの世界を「黴の世」と、ドーンといきなり規定していることです。
 これには思わずハッとさせられます。まるで不意打ちを食らったような、意表を衝いた表現です。でも後で冷静に考えてみますと、『なるほどそうも言えるよなあ』と思わせられる説得力がある句だと思います。
 鷹羽狩行による「新しい世界観の樹立」と言ってもいいような、斬新かつ独創的な表現です。

 お偉いさんがわんさかひしめく「人の世」に対して、どちらかといえばその人々から嫌われがちな「黴の世」。確かに、中には人間にとって毒になる黴もないではないが…。
 1940年初めての抗生物質・ペニシリンは、アオカビの分泌物から抽出されたのではなかったですか。また日本酒、焼酎、醤油、味噌という我が国の食文化に欠かせない基本的なものは、皆々コウジカビのお世話になっていますし。ブルーチーズはアオカビで、カマンベールはシロカビで…。
 高尚で優雅な花鳥諷詠も素晴らしいけれど。普段人間様がとんと眼中にないこのような素材に着目して詠むこと、これこそまさに俳諧味の本領発揮であるわけです。

 続く2句、結句の「黴も生きとし生けるもの」。思わずウーンとうならされます。鷹羽狩行という人の、「生きとし生けるもの」への暖かい眼差しが感じられるからです。
 普段私たちが気にとめもしない黴がもしそうであるならば。他の生きとし生けるもの、例えば牛、豚、猿、犬、猫、鰐(わに)、蛇、鳥、魚、蟻(あり)、蜘蛛(くも)、草、花、苔(こけ)……。まさに生物連鎖、無限に広がっていきそうです。
 このうちどれか一つでも欠けてしまえば、もうその時点で生物連鎖は途切れてしまうわけです。自然界のかくも見事な連鎖をもうこれ以上途切れさせないためにも、私たちはこれらの一つ一つを大切に思い、もっともっと関心と愛情を注ぐ必要がありそうです。
 私たちの「人の世」はもちろん大切です。同時に「黴の世」も「牛の世」も「蟻の世」…も、皆々それと等価値で大切だと思うのです。

 (大場光太郎・記)

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梅雨の名句(2)

               与謝蕪村

   さみだれや大河を前に家二軒

  …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 与謝蕪村(よさぶそん、よさのぶそん) 享保元年(1716)~天明3年(1784)は江戸時代中期の俳人、画家。摂津の国(現大阪市)の生まれ。20歳の頃江戸に出て俳諧を学ぶ。27歳の頃松尾芭蕉に憧れ、その足跡をたどり東北地方を周遊した。42歳の頃京都に居を構え、この頃から与謝を名乗るようになった。以後京都で生涯を過ごし68歳で没した。
 松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖と言われる。また俳画の創始者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰(芭蕉に帰れ)」を唱え、絵画用語である「離俗論」を句に適用し、天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。  (フリー百科事典『ウィキペディア』「与謝蕪村」の項より)

 芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」を取り上げた以上、蕪村のこの句も取り上げざるを得ません。それくらいこの2句は昔から「五月雨の句」の代表句として、必ずと言っていいほどどの歳時記にも掲載されている有名な句です。
 二大巨匠の同一テーマの句の、それぞれの句風の違いなどを読み比べてみるのも面白いかもしれません。

 なお「梅雨の名句」と銘うった割には、私自身がピンと来る「梅雨」という季語の句があまり見つからず、そこで「五月雨の句」を多く取り上げることになるかもしれません。どうぞご了承ください。

 さてこの句です。「さみだれが降り続く中、川には水が溢れている。勢い大河になってしまった川の前に家が二軒ある」というような大意かと思います。
 略歴にもありますとおり、優れた画家でもあった蕪村は、風景を絵画的に描いた句が得意な俳人だったようです。この句はまさにそのとおりで、極めて絵画的です。と同時に芭蕉の最上川の句同様、どんどん水かさを増していく大河の臨場感が伝わってきます。そしてその真ん前の二軒の家はどうなってしまうのだろうという、スリルとサスペンス的要素も感じられます。こういう情景こそは「俳句的場面」というべきです。

 この句の「二軒」という家の数に関しては、昔から「二軒というのが絶妙なのだ」というのが定説になっています。いわく、一軒だけでは極めて危うい感じで、読み手は『ああだダメだ。こりゃあ、家は間違いなく流される』と感受される。また三軒では安定性が増してしまい、先ほどのスリル、サスペンスな面白味がそがれてしまうというのです。
 私もなるほど言い得て妙だと思います。

 そこで気になるのは、この二軒の家はこの先どうなったのだろう?ということです。蕪村はただ現前する情景を絵画的に叙景するのみ。「二軒の家は、その後かくかくしかじかになったのですよ」というような、事後報告的な次の句は詠まないのです。前にも述べましたが、そういうことはすべて読者の想像に委ねられているところが、俳句という超短詩形の味わいの一つだと思います。

 だから私も独断と偏見により考えて見ますに―。芭蕉の最上川の句の場合は、「五月雨」と漢字表記で、荒々しい男梅雨を想像させます。最上川の水かさを増した急流、激流を表現するにはそれが最もふさわしかったわけです。
 対して蕪村のこの句では「さみだれや」とかな表記にしています。そこから、穏やかに降り続ける女梅雨が連想されます。そうしますと、さみだれは静かに降りたいだけ降ってしまえば止んでしまう。(増水して川幅が膨れ上がった)大河の前の二軒の家は、結局大事には到らなかったのではあるまいか?と思われるのです。
 皆様の捉え方はいかがなものでしょうか?

 (大場光太郎・記)

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梅雨の名句(1)

              松尾芭蕉

   五月雨をあつめて早し最上川

  …… * …… * …… * …… 
《私の観賞ノート》

 松尾芭蕉の『奥の細道』紀行中に詠まれた名句中の一句です。「何日も降り続いた五月雨を集めて水かさを増した最上川の、何と流れの急なさまよ」という大意となりましょうか。
 ここで先ず述べたいことは、「五月雨(さみだれ)」という季語についてです。五月雨だから現新暦5月に降る雨、というとさに非ず。

 (五月雨)は旧暦五月に降る長雨で、古くから和歌にも詠まれてきた。五月(さつき)の「さ」と(雨を表わす)水垂れの「みだれ」を結んだ意といわれている。梅雨がその時期のことも含むのに対して、五月雨は雨のみをいう。 (角川文庫版『俳句歳時記・夏』「五月雨」より)
 つまり五月雨は、今の梅雨時に降る雨そのものを指す季語であるわけです。

 ところで松尾芭蕉は、大石田(現山形県北村山郡大石田町)を訪れた際、最上川の船着場の家で地元の俳句同好家たちと句会を催しました。その会での芭蕉の句は以下のとおりでした。
   さみだれをあつめてすずしもがみがわ
 句会が開かれたのは今の暦(新暦)で7月末頃のこと。梅雨晴れ間ともいうべきかなり暑い日だったようです。ただ最上川から吹き渡ってくる川風は涼しく、暑気を和らげてくれる心地良い風なのでした。「すずし」の語感といいすべてかな表記であることといい、最上川のやさしく爽やかな気候のさまが読み取れます。この句は、最上川を川辺から眺めている、一幅の静止画的最上川といったところでしょうか?

 その数日後(山寺・立石寺に立ち寄った後)、また戻り梅雨が続いた中芭蕉は次の目的地である新庄宿に向けて、舟で最上川を下って行くことになります。ということは既に新暦8月に入っていたわけで、私たちの感覚からすれば梅雨はとうに明けて盛夏の真っ只中のような気もしますが、その年の何らかの気候事情により梅雨はまだ継続中だったことになります。
 
 ここで最上川について簡単に―。
 最上川は、山形県を流れる一級河川最上川(一級)水系の本川です。(同水系上流には、当ブログでたびたび触れました「吉野川」も含まれます)。同川は山形県と福島県の県境に位置する吾妻山(あづまやま)付近に源を発し、山形県中央部を北に流れ下り、新庄市付近で向きを西に変えて酒田市で日本海に注ぎます。
 富士川と球磨川と共に、日本三大急流の一つに数えられています。また同一県のみを流れる河川としては、229kmの最上川は国内全河川中最長となっています。

 最上川を一躍有名にしたのは、何と言っても20数年前のNHK朝の連続テレビ小説『おしん』によってだったのではないでしょうか。あの中で、7歳のおしん(小林綾子)がある冬の日の朝、大石田に隣接する尾花沢から、最上川の筏(いかだ)舟に乗せられて奉公に出て行くシーンがありました。それを川岸で両親(でしたか?)がじっと黙って立っている。蓑笠を着せられた筏上の小さなおしんが、両親(もしそうだったら、父親は伊東四朗、母親は泉ピン子)に必死で呼びかける。両親はじっとこらえて見送っている。筏はどんどん流れ去って行く。雪は小止みなく降り続いている…。
 視聴率60%以上と驚異的な数字。とにかく日本中が感動の涙にむせんだ名場面の一つでした(かくいう私は、後にダイジェスト版で観ただけでしたが)。
 
 「五月雨をあつめて」最上川は水かさをぐんと増し、流れも急に早くなっていたようです。芭蕉はその乗船のようすを『奥の細道』で、「水みなぎって舟危うし」と述べているほどです。その時の上舟体験から、芭蕉は句会での句を、
   五月雨をあつめて早し最上川
 と改めました。すべてがかな表記から、固有名詞を漢字に変えたこと。そして何より重要なのは、「すずし」を「早し」に変えたことです。それによって五月雨による増水、激流の生の臨場感、スピード感が段違いに加わることとなりました。

 私の個人的な見解ながら、もしこの句が「早し」に改まっていなかったとしたら、名句として今日に至るまで広く人口に膾炙されることがあっただろうか?おそらく無理だったのではないだろうか?と考えます。
 
 (大場光太郎・記) 

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山ほととぎすほしいまヽ

                  杉田久女

   谺(こだま)して山ほととぎすほしいまヽ

  …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 杉田久女(すぎた・ひさじょ)の略伝は、『朝顔や』を参照のこと。

 この句における季語は「ほととぎす」です。夏の季語となります。時鳥、子規、不如帰などとも表記されます。
 ほととぎすは、日本で繁殖するホトトギス科の鳥中最も小型で、背面は暗灰色、風切羽はやや褐色、尾羽には黒色の地に白斑がある。5月中旬ごろに南から渡ってきて、低山帯から山地などに棲息し飛び回る。卵を鶯(うぐいす)などの巣に托(たく)す習性(托卵)がある。昼夜の別なく一種気迫のある鳴き方をし、「てっぺんかけたか」「本尊かけたか」「特許許可局」その他いろいろに聞き倣(な)す。 (角川文庫版『俳句歳時記・夏』より)

 「ほととぎす」は近代俳句にとっても、おなじみの名称です。先ずその先駆者だった正岡子規(本名・正岡升-のぼる)の「子規」という雅号(俳号)は、結核の病で喀血した自分を、血を吐くまで鳴くと言われるほととぎすに喩えたものです。
 また子規が創刊した俳句雑誌(俳誌)の名称も『ホトトギス』で、それは郷里の後進俳人・高浜虚子に受け継がれました。虚子は一時、それを俳誌のみならず総合文芸誌に発展させ、夏目漱石の『我輩は猫である』や伊藤左千夫の『野菊の墓』などは同誌に発表されたものです。

 『ホトトギス』はその後再び俳誌の形式に戻り、現在も続いています。同誌同人が増え出した昭和初期には、同誌への句の掲載は狭き門となり、掲載された人は大喜びで赤飯を炊いてお祝いしたものだそうです。
 そんな中久女の句は同誌にたびたび掲載され、天才的でひときわ光輝き同人たちの注目を浴びる存在でした。

 この句は、杉田久女の代表句とも言われる句です。その成句に到るまでのエピソードが残されています。
 この句は、久女が教師である夫の赴任先福岡で詠まれたものです。「山ほととぎす」の山とは、「英彦山(ひこさん)」。福岡県南部の大分県との県境に位置する標高1,200mの山で、古くから修験者たちが修行したそうです。深緑の季節久女はこの英彦山に登ったのです。少し険しい谷伝いの山道を登っていますと、突然谷間から大きな鳥の鳴声が聞こえてきました。
 久女の随筆によりますとその時のようすは、「行者堂の清水を汲んで、絶頂近く杉の木立をたどる時、突然何ともいえぬ美しい響きをもった大きな声が、木立の向うかの谷間から聞こえてきました。それは、単なる声というよりも、英彦山そのものの山の精でした。短いながら妙なる抑揚をもって切々と私の魂を深く強くうちゆるがして、いく度もいく度も谺しつつ声は次第に遠ざかって、ばったり絶えてしまいました。時鳥 ! 時鳥 ! とこう(宿の)子供たちは口々に申します。」

 「谺して山ほととぎす」の上五中七は、その時すぐに思い浮かんだそうです。しかし下五の結びの言葉がどうしても思いつきません。山頂で、山を降りる途中で、山から戻った宿で…。一心に思案しても、今一つピンとくる結句がどうしても得られないのです。
 そこで久女は、もう一度英彦山に登ることにしました。今度はただ一人で。再び足下の谷間からほととぎすの鳴き音が聞こえてきました。久女は「ほととぎすは惜しみなく、ほしいままに、谷から谷へと鳴いています。実に、自由に。高らかに谺して」と書いています。
 たった5文字を得るために何という執念か、と思ってしまいます。でもそうして、再び実際の自然の景の中にわが身を置くことによって、久女はほととぎすの鳴声の「真の写生」に超入出来たのではないでしょうか?その結果、「生の実相」をそのまま「写す」言葉である、「ほしいまヽ」という下五の結句が得られたと思うのです。

 昭和5年、大坂日日新聞と東京日日新聞が共催で「日本新名勝俳句」を募集し、久女はこの句を投句。約10万句の中から、高浜虚子選で「帝国風景院賞」を受賞しました。
 思えば久女の天才性は、常にこの「ほしいまヽ」の自由を欲していたのかも知れません。しかし当時の社会はがちがちの男性優位社会です。女性が一定の枠を越えて「ほしいまヽ」に振舞うと、必ず厳しい制裁が待ち受けていたのです。
 師である虚子も確かに昭和初期「台所俳句」を提唱し、女性が日常ありふれた場面で俳句を作ることを奨励しました。しかし昭和7年久女が、女性だけの俳誌『花衣』を創刊するに及んでは看過出来ません。同誌は5号で廃刊、昭和11年に久女は『ホトトギス』同人を除籍されてしまいます。
 久女は戦後間もない昭和21年、失意のうちに大宰府の筑紫保養院で没しました。

 杉田久女はこれまで何度か、テレビや舞台でその生涯を取り上げられたことがあるようです。俳人としては異例のことと言えます。また十数年前『B面の夏』で鮮烈デビューした黛まどかは、久女から強い影響を受け俳句の道を志したのだそうです。彼女もまた女性だけの俳誌『オードリー』を創刊しましたが、やはり途中で廃刊になりました。
 なお英彦山には、久女の筆になるこの句の句碑が建っているそうです。
 
 (大場光太郎・記)

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君なら蝶に

              折笠美秋

  ひかり野へ君なら蝶に乗れるだらう

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》 
 折笠美秋(おりがさ・びしゅう) 昭和9年、横須賀市生まれ。早稲田大学文学部卒業。東京新聞に勤めた。「早大俳句」「早稲田俳句」「新暦」「領事館」「俳句評論」の同人・編集にたずさわった。高柳重信に師事、行を共にしていたが、筋萎縮性側索硬化症という難病にかかり、全身不随の状態で句作を続け、感動を呼び、テレビドラマにもなった。「騎」同人。現代俳句協会賞を受賞。句集に『虎嘯記』『君なら蝶に』などがある。平成2年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 この句をより深くご理解いただくために、筋萎縮性側索硬化症(ALS)について簡単にご説明致します。ALSとは、筋肉を動かす運動神経が死んでいくことにより、筋肉がやせて萎縮し徐々に身体を動かせなくなる難病です。そして病気の進行とともに、顔面、のど、舌の筋力が低下して言語障害を起こし、さらに呼吸筋が衰えて呼吸困難になると、気管切開をして人工呼吸器を装着すると話が出来なくなります。
 折笠美秋は、昭和56年頃このALSを発症し、ほぼ9年の闘病の末平成2年に逝去。享年55歳でした。
 今回の句を代表句とする句集『君なら蝶に』は、ALS発症後入院先で、目と口の動きから彼の言葉を夫人が読み取って編まれた句集です。当時彼の闘病ドキュメントや夫人の手記をもとにしたドラマがテレビ放映され、広く世間にALSを認知させるきっかけともなりました。

 さてこの句は、俳句という形式をとった「憧れの詩」「祈りの詩」という感を深くします。それにしても何という鮮烈な憧れ、切実な希求であることでしょう。
 重篤な難病のために、己が身をわずかに動かすことや書くこと、さらには言葉を発することすらままならず、四六時中ベットにじっと臥せっていなければならない。不自由極まりない今の我が身。その極度の不自由さがかえって、まるでいっぺんに何かがはじけ飛んでしまった結果生まれたかのような、自由飛翔の名句です。

 この句における「君」とは、難病の折笠美秋を献身的に介護し、各句の代筆までしてくれている彼の夫人を指すのでしよう。いくら長く連れ添った伴侶とはいえ、とんだ難病にとことん付き合せてしまっている妻への、贖罪(しょくざい)と感謝の想いが溢れて、この一句となって迸ったのでしょうか。
 また日々植物人間化しつつあるわが身と引き換え、かいがいしく身の回りの世話をしてくれる健常な妻を、心底自由自在な存在として感受し、思わず知らずこの句が躍り出たのかもしれません。

 しかしそれとともに、この句は折笠美秋自身の、『出来得れば私自身が蝶に乗って、ひかり野へ今すぐ飛んで行きたい』という、強い願望、希求があったのではないでしょうか?その意味で「君」とは、夫人であるとともに、彼の分身でもあるとみることも出来ると思います。

 ALSは運動神経のみが侵され、感覚神経や自律神経系は障害を受けないため、知能や意識は正常に働くのだそうです。これは想像するにかなり辛いことです。聡明な彼のこと、自身の難病がどれほどのものなのかよく自覚していたと思われます。そのため時に、この病気は「不治の病い」であること、それゆえその先に待ち受けている「死」への恐怖などに襲われ、さいなまれることがあったかもしれません。
 しかしこの句では、そのような邪念、妄念はすべて吹き払われています。並みの健常者よりも、遙かに健康的な詩精神の結実です。
 
 「蝶に乗れる」とは、とにかく凄い発想です。普段ずしりと澱んだ「重い思考生活」を送りがちな健常者にはとても思い浮かばない飛躍であり発想です。まさにこの句を詠んだ時の折笠美秋の心は、いかなる限界や制約をも受けていないかのようです。
 自分=(病める)肉体という桎梏から、みごとに解き放たれています。その時もはや、自己を客観視しているなどというレベルではなく、「悟境」のような高い境地にあったのではないだろうかと推察されます。
 
 (大場光太郎・記)

 (追記) 本記事におけるALSの記述は、天野小石著『折笠美秋論・蝶が超えた時代』というサイトをほぼそのまま使用させていただきました。なお同論文は、大変優れた折笠論、俳句論、詩論です。ご興味をお持ちの方は、是非ご一読をお勧め致します。

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桜の名句(4)

               高屋 窓秋

    ちるさくら海あをければ海にちる

  …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 高屋窓秋(たかや・そうしゅう) 明治43年,名古屋市生まれ。法政大学卒業。昭和初年頃より俳句を始め、水原秋桜子(しゅうおうし)に師事。昭和8年「馬酔木(あしび)」の第一期同人となる。同10年、一旦俳句から離れる。12年に再開、いわゆる新興俳句の道を歩む。戦時中は満州に在住、戦後内地に帰還後は、しばしば中断を繰り返しながらも作句に携わり、今日に至る。句集『白い夏野』『河』『石の門』その他。平成11年没。  (講談社学芸文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 今さら何の注釈も必要ないような、極めて絵画的な落花の叙景句です。この句で描かれているのは、海のすぐ側の桜が盛りを過ぎて、花びらが海の方へ海の方へと散っている、ただそれだけです。
 海は具体的にどんなようすなのか、そこから桜の木まではどのくらいの距離なのか、そもそも桜の木はどんな状況でどんな具合に立っているのか、などということはすべて省略されています。俳句という世界一短い短詩においては、もともとそのような細かいことは叙述できないのです。ですからそれらのことについてはすべて、読み手のイマジネーションに委ねられているわけです。
 私は初めてこの句を読んだ時、海に接して切り立った崖の上に立つ桜の木がイメージされました。崖上の桜から落花花びらが止めどもなく崖下の青い海にはらはら散っている…。
 
 この句にあっては、二句目、三句目の「海あをければ海にちる」という発見が何と言っても秀逸です。そのさまはまるで、ピンク色をした落花のひとひらひとひらが、海の青さを恋い慕って寄っていくようなのです。この叙情性こそが、この句の生命線であるように思います。
 しかしこれは物理的、現実的法則には全く反した表現です。実際には、桜の花びらが海の方向に向って散っているのは、たまたま海風が凪いでいて逆に海の方に向って吹く陸風によるものに過ぎないからです。
 にも関わらず「海あをければ海にちる」は、立派な「真実」なのです。一体何の真実なのでしょう?それは「詩的真実」と言うべきものです。対して、陸の方から海へ向う風のため桜花びらは海の方に流されていただけなのだ、というのは「物理的真実」です。

 これまでこの社会で圧倒的優位を占めていたのが、物理的真実の方でした。この世では、この物理的真実による物事の捉え方が各分野で要求されてきたのであり、一方の詩的真実の方はそのためともすれば軽んじられ、時に異端視され、侮蔑、嘲笑されてきました。詩人、音楽家、画家といった特殊な人々によってのみ、辛うじて命脈を保ってきたのです。
 考えてもみてください。通常の経済活動におけるビジネスの真っ最中に「海あをければ海にちる」式のことを口走ろうものならどうなるかを。いっぺんで商談はご破算、そして言った当人は以後変人、狂人扱いされ、たちまち経済活動からスポイルされてしまうことでしょう。

 しかし今、多くの人々にとって生きる上での至上命題だった経済活動が、この未曾有の金融危機の中で瀕死の状態です。これは一体何を意味するのでしょう?「物理的真実」のみを追い求めて突っ走ると、必ずのっぴきならない大きな壁、限界にぶち当たるということなのではないでしょうか?かといって「詩的真実」追及オンリーだけでも、どんどん現実から遊離した、根無し草のような耽美的傾向に向うであろうことは明らかです。
 私たちは今、「物理的真実」と「詩的真実」とを絶妙にバランスさせながら生きる方途を、求められているのではないでしょうか?

 (大場光太郎・記)

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桜の名句(3)

                  野澤 節子

    さきみちてさくらあおざめゐたるかな

  …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 野澤節子。大正9年、横浜市生まれ。フェリス女学校在学中に脊椎カリエスを病み、療養生活に入る。昭和17年、臼田亜浪門に入り、21年、大野林火主宰「濱」の創刊に参加。46年「」を創刊、主宰。第一句集『』により第4回現代俳句協会賞、第4句集『鳳蝶』により第22回読売文学賞受賞。俳句協会名誉会員。ほかに句集『雪しろ』『花季』『飛泉』『存身』『八朶集』、随筆集『耐えひらく心』など。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 この句はすべて平仮名で表記されています。さながら平安貴族女性のたおやかな詩文のようです。作者・野澤節子の「さくら」のイメージとして、そのような王朝的みやびの世界から連綿として引き継がれてきた、美意識を構成する欠かせないものという観念があったのかもしれません。
 
 さて発句の「さきみちて(咲き満ちて)」ならば、多くの人が詠むかもしれません。しかし続けて「さくらあおざめゐたるかな」と詠める人は滅多にいないのではないでしようか。これをそう詠みきったところが、野澤節子という女流俳人の非凡なところだと思います。
 一般人にとって、桜の花は「白い」もしくは「ほの紅い白さ」としか見えないものです。無理もありません。肉の眼にはそのようにしか映らないのですから。だが実は、見えるものを見たまま文章に移し換えただけでは詩文にはなりません。俳句に限らず優れた詩として昇華させるためには、見えたそのままのものを何段階か飛躍、深化させなければならないのです。

 その精神的行程をあるいは、通常意識から変性意識への変換と言うことが出来るかもしれません。この場合通常意識は、肉体的な五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)としっかり結びついた意識状態、さらに言えば五感にがんじがらめに呪縛されているような状態です。このような低い意識レベルでは、名句、名詩などはおよそ生まれ得ないだろうことはご理解 いただけるものと思います。
 対してひとたび変性意識(普遍意識)に入れば、その時五感の呪縛から自由になります。すなわち心は小さな個我意識から解き放たれ、自由に羽ばたけるのです。また詩として詠むべき対象との分離、対立は消え去り、彼我の融合感が得られます。そういう時は、肉の眼ではなく「心の透徹した眼」でさくらならさくらを見つめている状態になります。
 
 そうするとこの句のように、満開に咲いてしまって後はただ散るのを待つしかない、「あおざめゐたる」桜の心模様が詠めてくるわけです。
 
 (大場光太郎・記)

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桜の名句(2)

             林芙美子

    花のいのちは短くて
    苦しきことのみ多かりき

  …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 林芙美子(はやし・ふみこ) 1903年(明治36年)から1951年(昭和26年)。昭和初期の流行作家。自らの貧困に苦しんだ生い立ち、放浪の経験などをもとにした、生々しい実感を伴う表現や人物描写が特徴。代表作『放浪記』『晩菊』(女流文学者賞受賞)『浮雲』など。

 今回の一文がはたして俳句というものに該当するのかどうか、大いに疑問です。第一俳句の決まりの一つである「5、7、5(17音)」の韻律から大きくはみ出した「7、5、8、5(25音)」という大破調句です。ただもう一つの決まりである「季語」は、「花(桜のこと)」があることによって一応句として成立しています。
 以上から、今回はとりあえずこの一文を俳句とみなして観賞してみることにしました。

 この句は一般には林芙美子の作として知られています。事実芙美子自身、かなり早い時期から色紙などにこれを書いていたようです。しかし一説では元々の出典は他にあり、芙美子自身が作ったものではないとも言われていますが詳細は不明です。
 しかし今日では、この句は芙美子作で通ってしまっています。芙美子の生い立ちなどと照らし合わせる時、確かにこのような心境になるのもむべなるかな、と思わせられるところもあります。よってここでは、この句は林芙美子自身の作品として捉えていきたいと思います。

  花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき
 この場合の「花のいのち」は実際の桜などの開花時期の短さとともに、それにオーバーラップさせるように、はや過ぎてしまった、芙美子自身の花の盛りだった若い身空の短さ、そしてその時期のいわく言いがたい苦しさばかりが思い起こされてくる、ということだろうと思います。
 
 林芙美子は九州(現在の福岡県北九州市)で行商人の婚外子(非嫡出子)として生まれました。その後母・林キクが夫と離別、他の男と再婚すると家族3人で行商しながら、九州各地や四国地方を転々とする生活を送ります。最終的に当時活気のあった港町・広島県尾道市に落ちつくことになりました。
 その地で尋常小学校を卒業、恩師の勧めにより尾道高等女学校に進学、学資を得るため夜は帆布工場で働き、夏には神戸に出稼ぎと、文字通りの苦学生活でした。そして尾道高女時代から次第に文学の道を志すようになり、「秋沼陽子」の筆名で『山陽日日新聞』などに投稿を始めていきます。

 尾道高女卒業後芙美子は、『放浪記』のモデルとなる岡野軍一を頼って上京するもやがて破局。その後職を転々としながら、友人と共に詩誌『二人』を創刊。またこの時期俳優の田辺若男や詩人の野村吉哉と同棲。彼らとの別れの後、1926年(昭和元年)画家の手塚緑敏(てづか・りょくびん)と同棲を始めました。
 1928年(昭和3年)から長谷川時雨主宰の雑誌『女流芸術』に、芙美子の19歳から23歳頃までを綴った私小説『放浪記』を連載し、1930年(昭和5年)に単行本として出版され当時のベストセラーとなりました。(その後『放浪記』は三部作として完結。)
 
 林芙美子は、この句をかなり早い時期から書き始めていたということですが、その時期はいつだったのかハッキリとはわかりません。ただ「苦しきことのみ多かりき」は多分その頃の事を言うのだろうなという推定のもとに、芙美子若き日の足跡をざっと見てきました。
 林芙美子が文壇デビューを果たすまでの昭和初期は、旧民法下での強固な家父長制におけるガチガチの男優位社会です。厳しい制約の中で、時に同棲などという掟破りを繰返しながら、女だてらに小説家を目指した芙美子にとって、「苦しきこと」は今の私たちの想像を絶するものがあったに違いありません。この句は、芙美子自身の「魂の叫び」「心の呻き」だったのかもしれません。

 ところでこの句には、ずっと後年そのパロディが作られました。

    花の命はけっこう長い。 (かがやく瞳は女のあかし 笑顔と智恵で乗り切るワ 花の命はけっこう長い…… ♪)
 
 ご記憶の方もおいででしょう。ハッキリ記憶しているわけではありませんが、バブル全盛期頃の某生命保険のCMソングだったと思います。
 戦後間もなく新日本国憲法ならびに新民法により、「男女同権」が謳われ出しました。以来そこから男も女も「ヨーイ、ドン ! 」でスタートしてみれば、並みの男どもより女の方がよっぽど強くて逞しいぞと、世の男どもはタジタジしながら目をみはり続けた歳月で。「花の命はけっこう長い」と自信漲る女性代表のように、当時大人気だったタカラジェンヌの大地真央が画面いっぱい歌い踊っていた姿が印象的でした。

 なお『放浪記』は、林芙美子の没後舞台化されました。(菊田一夫脚本、芸術座公演)。初演の1961年(昭和36年)以来、森光子が林芙美子役を熱演してきました。森の代表作として、現在まで1950回以上という最長不倒の公演回数を重ねていることはどなたもご存知のことと思います。

 (追記) 本記事は、フリー百科事典『ウィキペディア』の「林芙美子」の項などを参考にまとめました。
 (大場光太郎・記)

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桜の名句(1)

               松尾 芭蕉

    さまざまのこと思い出す桜かな

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 桜のシーズンのこの季節。「桜の名句」を私の独断と偏見で何句かご紹介していきたいと思います。
 俗に「富士山の句に名句なし」と言われるように、桜の名句もなかなか生まれづらいと思います。桜は富士山がそうであるように、共通の日本人の心情あるいはイメージが共有され過ぎていることによるものと思われます。
 そうとうユニークで斬新な視点から「桜」を詠まない限り、先人の誰かの句の模倣の域を出ないばかりか、日本人誰しもが共有している桜のイメージすら超えることが出来ないからです。といっても、奇をてらった句では、よけい変な句になってしまいます。そう考えますと、『桜を詠むのはホントに難しいよな』と思ってしまいます。
                        *
 松尾芭蕉は、誰も文句のつけようのない完成度の極めて高い名句を数多く残しました。そんな芭蕉にしては、何の技巧もなく単純素朴に「桜」を詠んだ句です。その意味でこの句なども、「名句か、凡句か?」と論議を呼びそうです。

 この句は元禄元年(1688年)芭蕉が奥の細道の旅に出る1年前、故郷の伊賀の国(現在の三重県伊賀市)に帰省した時に詠まれた句です。その地で、思い出の桜を実際目の当たりにして詠んだものと思われます。
 「思い出の桜」とは、芭蕉がまだ武士だった若い頃、主君だった藤堂良忠の花見の宴に招かれ、その時藤堂家の庭に咲いていた桜のことです。だからこの句の「さまざまのこと思い出す」とは、その桜の木が触媒のように作用して、良忠の近習として使えていた若かりし頃の自分自身あるいは今は亡き主君のことなどが、フラッシュバックのように次々に思い返されてきたということなのかもしれません。

 主君・藤堂良忠はその花見の宴の後、25歳で急逝してしまいました。そしてその時23歳だった若き日の芭蕉(本名・松尾宗房)は、主君の野辺の送りが終わった後、武士の身分を捨てて「俳諧の道」で生きていく決心をするのです。
 もし主君の死に直面しなかったなら、その後松尾宗房は生涯武士のままだったかもしれず…。そうすると我が国の歴史は松尾芭蕉という俳聖を持つこともなく、私たちが数々の名句に接することもなく、今日に至る俳句というものもまたなかったかもしれません。

 ともかく芭蕉は一俳諧師となるため、当時の厳しい封建社会にあってあえて脱藩の罪を犯して、故郷の伊賀を後にしたのでした。自分よりわずか年上の主君の若すぎる死に、世の無常を痛感したものか、それ以前から俳諧の道への止みがたい希求があったものなのか。
 芭蕉は、「風雅の道」の先人である西行法師(1118年~1190年)を生涯敬愛していました。その西行も20代前半まで、鳥羽院を警護する北面の武士(俗名・佐藤義清)でした。西行はやはり23歳の時意を決して武士を捨て、出家しその後の人生を僧侶、歌人として諸国を放浪しながら生きていくことになるのです。

  願わくば花の下にて春死なむその如月(きさらぎ)の望月(もちづき)の頃
                                     (西行法師)
 歌人と俳人の違いはあっても、共に「風雅」を極めんとの志は同じ。芭蕉は西行が出家したいきさつなども既に知っていて、敬愛する先人の跡を慕おうとしたものなのでしょうか?

 芭蕉ではないけれど。桜花というものは、確かに「さまざまのことを思い出」させる作用があります。私自身もそうです。郷里での子供の頃、山に咲いていた山桜や校庭の桜のこと。当地に来てから何度も見てきた桜、それにまつわる思い出。特に数年前母を荼毘に付すべく向う途中、相模川沿いの桜並木が満開で「母の最後の花道」のようだったこと…。
 そういう意味で、桜の持つこの不可思議な「思い出喚起作用」をズバリ言い当てている点、この句は平凡な句のようでありながら『なかなかどうして』と思います。
 (大場光太郎・記)      

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去年今年

    去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの   高浜虚子

  …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 
 新年明けましておめでとうございます。
 平成21年(2009年)がスタートしました。皆様新年をいかがお迎えになられましたでしょうか。今年は現下の大不況のもと、世界的にも国内的にも激動が予測されますが、そんな荒波を乗り越えて、この1年を実りある良い年にしたいものです。

 さて今回の虚子の句についてです。
 私たちは午前0時の時報と共に、『さあ、まっさらな新年を迎えたぞ !』という気分になります。またそういう気分になろうとつとめます。年の大きな「Change」なのですから、当然です。
 なのに虚子は「去年今年貫く棒の如きもの」と詠むのです。まるで、上の通念に対してのアンチテーゼの句のようです。つまり年はあらたまっても、実は「時間」というものは、過去、現在、未来と連続したもので切断されるものではないのだ、ということを言いたかったのでしょう。

 考えてみれば確かに、例えば財産などは増えもせず(但し銀行預金などは、当節微少の金利はついています)減りもせずに、新年にそのまま引き継がれていきます。同様に負債も、またそのとおりです。財産はともかく負債の方は、金銭的なものでも心理的なものでも、そっくりそのまま去年に置いて来れれば何と好都合なのでしょう。しかしどっこい、そうはまいりません。
 だからこの句は、「後悔とか負い目を負うような生き方はしなさんなよ」ということを言外に匂わせているのかもしれません。(私などは、大いに耳が痛い話ですけれども。)

 「貫く棒」という形容は凄いですよね。過去・現在・未来という「時間の連続性」というものはかくも確かなものなのであり、ともすれば切れやすい糸のようなか細いものではないわけです。
 新年にあたり、常平生の心構え、生き方について考えさせられます。そして、思わず粛然とさせられるような句だと思います。
 (大場光太郎・記) 

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流れ行く大根の葉

    流れ行く大根の葉の早さかな   高浜虚子

 …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 大根は「冬の季語」です。葱と同じく年中穫り入れはできるものの、旬が冬なのでそう決まったようです。そういえば、11月頃からスーパーでも、丸々と大きな大根がこの物価高の割には一本100円で、よく特売されているのを目にします。
 また市内を車で回っていると、とある旧家の軒先に白い大根がズラッと並んで吊るされて干してあるのを目にしたりします。

 この句は、中学2、3年の国語の授業で習いました。そしてこの句は、ごくありふれた日常の一場面を切り取った句、まさに俳句ならではの「生活句」です。

 しかしこの句は凡百の生活句と違って、まさにこれ以上ない絶妙なタイミングで「俳句的場面」を捉えています。
 一枚の大根の葉の、青々とした色がくっきりと浮かんできます。上流のどこかのたもとで、大根を冷たい川水に浸して手も水に浸かりながら、ジャブジャブ洗っている人の姿まで思い浮かびます。
 極めて絵画的な句です。そして何よりも、生きたリアルさが伝わってきます。この句は虚子がどこかの冬の川―多分それほど大きくはない川―の土手に実際に立って詠んだものでしょう。そうでなければ、これほどのリアルな句は生まれません。

 この句のリアルさを引き立たせている最大のものは、流れ行く大根の葉の「早さ」を捉えたことにあると思います。まさにこれです。「早さ」の発見こそが、この句の生命線です。これこそが、生々流転してやまない自然万物の、「今この時」の生の実相の発見のように思われます。

 おそらく、上流から『何か青い葉っぱのようなものが「流れ来る」ぞ』という段階では、まだ「早さ」はさほど実感していなかったはずです。それが虚子の立ち位置の間近まで来た時初めて、『あっ、大根の葉だ』と気がついた。とその瞬間、虚子は『これは、俳句的題材そのものだ』と直感した。そこで虚子はもっと仔細にその葉を見つめたくなった。『待て、待ってくれ。その葉っぱ』。しかし大根の葉は無情にも、そんな虚子の思惑など委細構わず、下流にあっという間に「流れ行く」。虚子はその時「早さ」を実感、把握したのだろうと思います。
 この「早さ」は、見ている対象物への深い関心、あるいは深い愛情がないと、なかなか発見出来るものではないと思います。
 (大場光太郎・記) 

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玉の如き小春日和

    玉の如き小春日和を授かりし   松本たかし

  …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 松本たかし。明治39年東京神田の生まれ。幕府所属室生流座付能役者の家に生まれた。父長(ながし)は名人といわれた人。たかしも9歳で初舞台をつとめるが、病弱のため能を断念。大正10年頃から俳句を始め、虚子に師事。昭和21年「笛」を創刊主宰。物心一如、只管写生し、自然の深く蔵する秘密に触れようと唱えた。読売文学賞受賞。句集に『松本たかし句集』『鷹』『野守』『石魂』『火明』。昭和31年没。(講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 よく世間一般に子供が生まれた時、「玉のような子を授かった」と言って五体満足でコロコロした赤子の誕生を喜び合います。それを句として詠めば(季語の無い「無季句」となり厳密には俳句とは言えませんが)、「玉の如きすこやかな子を授かりし」というようになるのでしょう。
 松本たかしはそのような慣用的言い回しを十分承知の上で、冒頭の句を詠んだものと思われます。
 小春日和は、立冬を過ぎてからの春のように暖かに晴れた日のこと(角川文庫版『角川歳時記・冬の部』より)。第二句目を「小春日和を」と言い換えただけで、『なるほど小春日和とはそんな感じだよなあ』と納得させられてしまいます。

 これは一種の換骨奪取の句であり、口さがない一部の批評家から手厳しい批判の対象にされる句かもしれません。しかし俳句はもともと「俳諧」、つまり諧謔味、おかしさをいかんなく発揮させる文芸です。よって私は、このようなちょっとした言い換えもまた、それはそれで「新しい発見の句」としてOKなのではないだろうかと考えます。
 それに本来「赤子」であるべきところを「小春日和」と言い換えたのであれば、たまたま授かった玉のような良い日を、余計いとおしむ心持ちが溢れている句だとも思います。

 ともあれ。今後とも身近な自然に出来る限りの目くばせをし、季節的事物の移り変わりに敏感でありたいものです。私たち人間は、いかに文明化、都市化されても結局「自然の児(こ)」であることは変えられない事実です。「自然」という、地球の大きな系(スキーム)の中で生かされている身であることを常に心に留め、自然万物への感謝の心を忘れないようでありたいものです。
 (大場光太郎・記)

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魂の映る菊見とは?

    たましひのしずかにうつる菊見かな   飯田蛇笏

   …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 飯田蛇笏(いいだ・だこつ)。明治18年、山梨県五成村(現境川村)生まれ。早稲田大学英文科中退。大学時代、詩や小説に熱中し「俳壇散心」に参加する。虚子の俳壇復帰とともに「ホトトギス」に投句。大正6年、俳誌「キララ」を「雲母」と改称主宰、虚子に次ぐ俳壇の巨匠となり、西島麦南、中川宋源などの俊秀を育てた。『山響集』『雪峡』『家郷の霧』『椿花集』などの句集がある。評論、随筆も多い。昭和37年没。没後制定された「蛇笏賞」は、俳句における最高の賞である。(平井照敏編・講談社学芸文庫『現代の俳句』略歴より)

 先日2回に渡り私の郷里の「菊祭り」の思い出そして現在のようすなどをご紹介致しました。それをまとめている過程でふと浮かんだのが、この句です。
 同記事で述べましたとおり、我が小学校の校庭が菊花展の会場となり、そのつど出展者が丹精込めて育てた大輪の菊花を、子供ながらに驚きながら見て回ったこともお伝え致しました。
 しかし私のような凡人は、その時も今この年になっても、それがいくら美しく見事であってもやはり菊は外見どおりの菊です。そして菊を見て作る句はといえば、だいぶ前に作った、
    携帯を耳に当てつつ菊見かな   (拙句)
くらいなものです。

 それに比べて(いえ本当は次元が違いすぎて比べることなど出来ないのです)、蛇笏の例句の見事さは何ということでしょう。菊を見て「たましひのしずかにうつる」とは、恐るべき慧眼です。(本当に申し訳ありませんが)引用の拙句は、ただの状況説明的な「外観」の凡句。翻って蛇笏の句は、菊の外形の奥に在るものを深く透かし見た「真の写生句」ないしは「内観」の名句です。

 我が国古神道(こしんとう)の伝統的行法に、「鎮魂法」という秘伝があるそうです。いわゆる「御魂鎮め(みたましずめ)の法」です。特にこのような一子相伝的行法が秘密裏に伝えられていたということは、常人、凡人の心はそれこそ「コロコロ」と絶えず落ち着きなく動き回り、それを静めるのがいかに困難であるかということだと思われます。
 しかしこの句を詠んだ時の蛇笏は、鎮魂法に見られるような、まさに明鏡止水の心境だったのではないでしょうか?
 (大場光太郎・記) 

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桐一葉

    桐一葉日当たりながら落ちにけり   高浜虚子

  …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 「桐一葉落ちにけり」というごくありふれた秋の情景に、「日当たりながら」という第二句を得たことで、秀逸な句になりました。それによって、秋の日を浴びながらゆらゆら落ちつつある桐の一葉の、侘しくも哀しいさまが絵画的、視覚的に浮かび上がってきます。秋日差しがちょうどスポットライトの働きをして、桐の葉が枝から離れて地面に落ちるまでが、まるでスローモーションのようにたどれそうです。

 毎度申しますが、詩なかんずくわずか十七音の俳句にあっては、「日当たりながら」のような発見が絶えず求められます。そうでなければ、世界一の短詩ゆえ、作る俳句が皆々前の誰かの類句や模倣句になってしまう危険性を常にはらんでいるのです。
 それには、詠みつつある季節的事物に向けられた、研ぎ澄まされた観察力、鋭敏な感性、豊かな想像力が俳人には必要ということなのでしょう。逆にその資質さえあれば、この句のようにごく日常的な場面から、俳句という「詩の真実」はいくらでも無尽蔵に汲み取れるということです。

 さてそれでは子規や虚子といった、近代文学でも名だたる俳人たちが詠んだ句のすべてが、新鮮でみずみずしい発見の句ばかりだったのだろうか?そうなるといささか疑問です。
 例えば例句の作者・高浜虚子は、若い頃正岡子規に師事してから没するまで、生涯25万句くらいの句を残しています。その句数たるや古今の俳人の中でも、ダントツでしょう。ではその膨大な句のすべてが秀句かというと、私は正直そうは思えません。虚子は自身が作った膨大な句の中から、「五百句」「千句」というように自選の句を選んでいます。私などが大先人のその自選句を読んでさえ、今一つピンとこない句があるくらいです。

 また私が中学3年の頃、郷里の町立図書館に、「子規全集」という全部で二十巻くらいの全集が揃っていて、その何巻かを試しにパラパラとめくってみたことがあります。俳句、短歌、評論、随筆などに分かれていました。俳句だけでも何巻にも及び、子規が生涯に作った俳句はほぼすべて網羅しているようでした。そのうち例えば「へちま」を題材にした句だけでも、ズラッと百も二百も続くのです。
 中には子規自身が「近代俳句」を創始するに当たって、試作的、実験的に作ったような句もあったでしょう。その結果大半は、俳句の「はの字」も知らない当時の私でさえ、『何だ、この句は』というようなものでした。

 俳句の巨匠たちですらそうなのです。これは裏を返せば、日常「俳句的な場面」に出会うことがいかに難しいかということです。また仮に出会ったとしても、それを瞬間的に捉える心構えなり感性なりが、その時の俳人にあったかどうかという問題にもなります。
 こうしてみると、一つの秀句、名句が生まれるためには、数多くの捨て駒のような凡句がなければならないということかもしれません。私などとても真似出来ませんが、とにかく「うまずたゆまず句作する人」こそが、真の名句を生み出せる人なのではないでしょうか。
 (大場光太郎・記)

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秋深き

    秋深き隣は何をする人ぞ   松尾芭蕉

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《私の鑑賞ノート》  
 松尾芭蕉(まつお・ばしょう)。寛永21年(1644年)~元禄7年(1694年)。現在の三重県伊勢市出身の江戸時代前期の俳諧師。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、「俳聖」と呼ばれた。しばしば旅に出て、『野ざらし紀行』『鹿島紀行』『笈の小文』『更科紀行』などの紀行文を残した。また元禄2年(1689年)、弟子の河合曽良を伴いみちのくの旅に出て(元禄4年江戸に戻る)、有名な『奥の細道』を著した。
 最期も旅の途中であり、大阪御堂筋の旅館で客死した。享年50歳。生前の「墓は義仲殿の隣に」という遺言により、大津膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)の木曾義仲の墓の隣に葬られた。 (フリー百科事典『ウィキペディア』の「松尾芭蕉」の項より)
                        *
 俳句はわずか「十七音」の極めて短い詩形式です。それゆえ余分な説明や叙述は一切出来ません。この句において、芭蕉が独居しているのはどこだったのか、そこを包む周囲の状況は?などはすべて省かれております。(それらは、読み手の想像に委ねられているわけです。)
 そして描かれているのは「秋深き」時期であること、それに「隣は何をする人ぞ」という問いかけだけです。 しかしそれだけで、晩秋の持つもの淋しさ、侘しさが十分伝わってきます。それに今から300年以上前の、(耳に聴こえずとも電磁音が世界隈なく覆い尽くしている)現代人がもはや味わうことが出来ない「本当の沈黙」も。果ては、人間存在の持つ根源的な孤独さ、それを越えようとする見えない隣人との命の連帯感までもが、読み手に印象されてきます。

 俳句は例句のように、一面では「沈黙の文学」です。詠み手の主張、思想信条、理屈などは先ず述べられません。それらを句として表わせばもちろんのこと、言外ににおわせただけでも途端につまらない句になってしまいます。このように俳句は、「言挙げ(ことあげ)せざる文学」という、世界でも類を見ない詩形式なのです。
 この日本精神のエッセンスとも言える俳句が、「HAIKU」として「ZEN(禅)」などと共に、多くの国々で受け入れられ愛好者を増やしていることは、まことに慶ばしいことです。

 世界一短い文学ということは、言ってみれば「世界一不利な文学」でもあります。しかしだからこそ同時に、読み手の感性、想像力などを「世界一要求する文学」でもあると申せましょう。
 私たちは加齢と共に、感性、想像力などが硬直してうまく働かなくなりがちです。すると当然一句の持つ、広がりや奥行きが感受、イメージ出来ず、ただ字面だけを追って「面白くない、つまらない」となりがちです。
 
 今若い人の間でも俳句への関心は高いものがあります。彼らにとって俳句は、魅力的な自己表現の一形式なのでしょう。一例としてだいぶ前から、選抜された学校単位による「俳句甲子園」が毎年開催されております。人生の中で一番豊かな感性とイマジネーションに溢れた彼らの俳句に接すると、本当にハッとさせられます。

 俳句が芸術であるのかないのか、学の無い私には分かりません(俳句が芸術でないのなら、他の文学形式―和歌、短歌、詩、フランス文学など―も、皆々芸術ではないのでしょう)。また家元俳句(家元政治、家元宗教、家元学問…)、そんなことも我々末端の俳句愛好家にとっては、どうでも良いことです。
 「言挙げ(主張や争論や理屈づけ)」せず、自身の感性や想像力を枯渇させないためにも、今後とも「俳句への言挙げ」には沈黙を守り、真摯に俳句に向き合っていきたいと存じます。
 (大場光太郎・記) 

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鶏頭の句―名句?凡句?

                               正岡 子規

   
     鶏頭の十四五本もありぬべし    

 …… * …… * …… * …… * …… * ……

《私の鑑賞ノート》
 (正岡子規の略歴紹介は別の機会にということで、今回は省略します。)
 この句が作られたのは明治33年、子規が亡くなる2年前です。この年の8月13日、子規は病床で喀血しています。その疲労は甚だしく長く続いたようです。
 鶏頭の花はご存知かと思います。東南アジア原産とされるヒユ科の一年草で、9月上旬頃から鶏冠状の紅、赤、黄、白などの花を咲かせます。仏花や生け花用として広く親しまれている花です。従いまして、レッキとした「秋の季語」の花の一つです。(角川文庫版「角川歳時記・秋の部」より)

 子規は明治27年から、昔から文人墨客が多く住んでいた、東京は根岸の里に越してきます。ここに郷里の松山から母と妹を呼び寄せ、病気の看病などをしてもらいながらの日々を送ります。そしてそこは、当時から「根岸庵(後の「子規庵」)」と呼ばれ、夏目漱石、森鴎外、高浜虚子、与謝野鉄幹、島崎藤村など多くの友人、門弟などが訪れ、近代文学の原点の一つとなりました。
 その家の庭に面した部屋で、子規は病の床に臥せっています。まさに『病しょう六尺』状態です。この句の鶏頭は、先年母か妹かが庭に植えたもの、それが今を盛りと咲いているわけです。もどかしいことに、起き上がって側に寄って、しげしげと見ることも適いません。『俺は余命いくばくもない。やらねばならないことは山ほどあるのに…』。そんな中で、この句が生まれました。

 この句には、先人の優れた鑑賞文があります。少し長い引用ながら、先ずそれをご紹介したいと思います。
 「鶏頭が立ってゐる。群がって立ってゐる。十四五本に見える。あはれ、鶏頭は十四五本もあるであらうか―鶏頭を、さう捉へた瞬間子規は鶏頭をあらしめてゐる空間の、その根源にあるものに触れたのである。自己の「生の深処」に触れたのである。
 子規はそれを純粋に、直接に「鶏頭の十四五本もありぬべし」と表現した。かく表現された鶏頭は、鶏頭にちがひないが、同時にそれは「子規の鶏頭」となり、子規が鶏頭となって立ってゐると云ってもいいのである。
 鶏頭は「十四五本もありぬべし」という独自の意味を持って、その空間に立ってゐる。……最早それ以上の何ものをも必要とせぬ。鶏頭として立ってゐて、ただそれだけで、人を動かし、第一級の句となってゐるのである。」(山口誓子「子規の一句」より)

 子規はご存知のとおり、俳句の理想的あり方として「写生」を唱えました。写生とは文字どおり、「生(自然万物)をそのまま写す」ということです。更に申せば、子規の写生とは、「生の実相に迫る」あるいは「写す、迫る」などを通り越して、「生そのものと融合し一体化する」という境地を目指していたものと思われます。
 上の誓子の文は、さすが先人の秀句・名句を数多く読みこなし、かつ自分でも多くの秀句・名句を作ってきた人の文です。そのことを、余すところなく述べていると思われます。(「権威」の力を借りるかたちになりましたが、それだけ誓子の評論がずば抜けているということです。)

 この句は、本当に簡潔にして単純な句です。凛とした気品さえ感じられます。おそらくこれ以上の簡潔さを求めるとすれば、それはもうただ「ああ」という言葉に行き着いてしまうのでしょう。そしてこの「ああ」は、詠嘆であり、感嘆であり、喜びであり、呻きであり、哀しみであり、嘆きであり…。とにかく、「生の根源」から発せられる声なき音声(おんじょう)のように思われます。
 「あ」は、そもそも「言霊(ことたま)」の初発の音に他なりません。「あいうえお……」が、ただ無秩序に並べられているなどと、ゆめ思うなかれ。これは実は、「天地剖判(天地創造)」のプロセスそのものでもあるのです。
 実に子規は、この句において、「ああ」という「生の根源」に限りなく迫っていたのです。

 甚だ僭越ながら。この句を、「面白くない、つまらない、だから一体何なの?」と思われる方に申し上げます。( 「それでは貴方にとって、面白くてつまらなくない句って何ですか?」という問いは別として。)
 その方は、以上の「ああ」の分からないお方です。そしてこの「ああ」こそは、俳句のみならず、和歌、詩(ポエム)、絵画、音楽…すべての芸術の根底にあるものですから、つまりその方は、「芸術の本質」の味わえないお方ということになろうかと思われます。
 「言葉」だけが、ただ物事の表層を上滑りしているだけ…にならぬよう。先ずもって私自身が、自戒していかなければなりません。

 (大場光太郎・記) 

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コスモスなど

    コスモスなどやさしく咲けば死ねないよ    鈴木しづ子

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《私の鑑賞ノート》
 鈴木しづ子。大正8年(1919年)東京生まれ。昭和15年専修製図学校卒業。工作機械工場に勤める。社内の俳句部に入り、句作を始める。この会を通して松村巨秋を知り師事。主宰誌「樹海」に属する。戦後『春雷』『指輪』の二句集を刊行。

 今そしてこれからは「コスモスの季節」です。当ブログでは「コスモス」については気の早いことに、5月から記事にしておりました。特に今年は、地植えのコスモスが梅雨頃からぼちぼち咲き始めました。以来それとなく注意して見て歩くと、一ヶ所だけではなく方々のコスモスがそうなのです。 『当地だけ?』と思っていたら、関東北部にお住まいと思われるある人から、「うちの地方でも咲いてます!」というコメントが寄せられました。
 本来ならば、秋冷至る中秋から初冬にかけて咲く「秋桜(コスモス)」が、夏本番前から咲いている。これは一種異様な光景でもありました。
 
 そうしてコスモスは、本来の季節を迎えて何ごともなかったかのように、今を盛りとあちこちでいっぱい可憐な花を咲かせています。(どうも以上の文は私の認識不足で、コスモスは「夏本番頃から咲き始める花」のようです。当記事の「仙人様コメント」をお読み下さい。)
                        *
 さて今回は、そのコスモスの名句のご紹介です。
 「第二芸術論」によって、かつて近代俳句をコテンパンにこきおろした、フランス文学の「権威」であらせられる桑原武夫大先生などがこの句を読んだとしたら、「フフン。何だ、こんなの。コスモスがやさしく咲けば死ねないよ、だ?それがどうした」と、せせら笑うことでしょう。
 しかし私は、この句に初めて出会った7年ほど前、強い衝撃を覚えました。そして『あヽ心に訴えかけてくるいい句だなあ』と、素直に思いました。各自がある句に接して、『あヽいい句だ』と思ったとしたら、それはその人にとっての「名句」なのです。「ここがこうで、ああしてこうして…したがって名句だ」式の、変な小理屈など必要ありません。 (桑原大先生への反論などは、近いうちに一文として公開の予定です。)

 鑑賞の参考に、この句の背景つまり作句者のことを少しご紹介したいと思います。
 鈴木しづ子は、婚約者を戦死で失っています(生年から推定して、終戦時26歳くらい)。昭和21年2月紙不足を極めていた中、『春雷』という新鮮でナイーヴな感覚の句を散りばめた小冊子句集を出版し、当時の俳壇の絶賛を浴びました。
 しかし彼女の人生の歯車は、既に狂い始めています。やがて名曲『星の流れに』のように身を持ち崩すことになり、東京から岐阜の現・各務原市(かがみがはらし)に移り住みます。そこの米軍キャンプの米兵と深い関係になります。が、その米兵は1950年に始まった朝鮮戦争に派兵され、麻薬中毒で変わり果てた姿となり佐世保に帰還。本国に帰ってその後病死したことを、彼女は翌年の賀状に紛れていた米兵の母親からのポストカードで知ります。
 彼女の人生はまさに、「戦争」に翻弄され続けた人生との感を深くします。

 冒頭の句は、その年の秋に詠まれたものといわれています。この一句に、しづ子はどれだけの想いを込めたのだろうか?もうこれ以上説明は不要でしょう。
 鈴木しづ子、これ以降消息不明。その後彼女は「娼婦俳人」などと呼ばれ、ある意味伝説的な女流俳人となっていきます。

 私たちは「俳句」を読んだり評したりする時、この極めて短い詩形式に、時に精魂を込め時に血の滲むような想いで句作した、多くの先人がいたことを決して忘れてはなりません。
(大場光太郎・記)

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朝顔や

    朝顔や濁り初めたる市の空     杉田久女

    …… * …… * …… * …… * …… * ……

《私の鑑賞ノート》
 杉田久女(すぎた・ひさじょ)。明治23年鹿児島県生まれ。東京女史師範附属お茶ノ水高女(現・お茶の水女子大学)卒業。小倉中学教師杉田宇内と結婚。小説を志したのち、「ホトトギス」雑詠に投句、注目を浴びる。天才的で特に光り輝いていたと言われる。昭和7年、女性だけの俳誌「花衣」を創刊、5号で廃刊することになった。昭和11年「ホトトギス」同人を除籍され、昭和21年大宰府の筑紫保養所で没した。 (平井照敏編『現代の俳句』講談社学術文庫より)
                         *
 朝顔のことは、記事としていつか取り上げようと思っておりました。少し時期を外したかもしれません。しかし、朝顔は秋の季語です。以前ご紹介致しました近所の「水路道」には、通路の両側に青紫や紺や赤などの色とりどりの朝顔が今でも咲いていて、道行く人の目を楽しませてくれています。
 確か例年、10月半ば頃までは平気な顔で咲いているようです。

    朝顔につるべ取られてもらい水  
 朝顔の秀句はそれこそたくさんあることでしょう。そんな中で皆様よくご存知のとおり、加賀千代女(かがのちよじょ・江戸中期の女流俳人)のこの句が特に有名です。
 朝水を汲むとて井戸に寄ってみると、何とまあ。つるべにまで伸びてからまった蔓や葉のさま、朝顔の花の形や色、更にはそれを取り巻く周りの景色までもがくっきりと浮かび上がってきます。そして千代女の心根の優しさが伝わってくる秀逸な句です。対して、
    朝顔や濁り初めたる市(まち)の空
 近代俳句界の才女・杉田久女にかかると、同じ女性の朝顔の句でありながら、詠み方捉える視点がガラッと変わってしまいます。

 「朝顔や」と発句(ほっく)にドーンと主役を据えるのは同じとしても。「や」という感嘆を表わす終助詞を用いたことにより、久女が目の当たりにしている朝顔が、より強調されて読み手に迫ってきます。
 続いて第二句、第三句の「濁り初めたる市の空」と、情景は遠景に急にパッと切り換ります。この「一句二章」の近景の朝顔、遠景の市の空のコントラストは絶妙です。

 この句が作られたのは、昭和2、3年頃、北九州は小倉在住の時だそうです。小倉市は当時から、工業地帯として発展途上の町だったようです。この句について久女は後に、「(小倉)市街の空気は煤煙で濁り初め、海上の汽笛にあはせて、所々の工場の笛がなりつづける」とエッセイの中で書いています。ここにおいて、この句の背景がより一層分かってきます。
 しばしば実感されることですが、夜明けから早朝の時間帯は、ピカピカの一日が真新しく創造されるような、何かしら神聖で霊妙な感覚におそわれることがあります。しかしそのような霊気も、日が昇るにつれて久女が述べているようなこと共によって打ち破られ、人間の慌しい諸活動が始まります。

 それを「濁り初めたる」と捉えた。これこそが、近代的知性を十分に身につけていた、杉田久女の真骨頂のように思われます。
 「濁り初めたる市の空」と感受した久女の云いようのない哀しみ。同時に『さあきょうも一日が動き出したぞ』という頼もしさの感じ。このあい矛盾した感情が、その時の久女の中にはあったのだろうと思います。
 しかし独り朝顔は、そんな人間界の「濁り」に決して汚されることなく、清らかに咲いている…。
 (大場光太郎・記)

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秋の蔭

    もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭(かげ)

                    (高浜 虚子)
  
  …… *  …… * …… * …… * …… * ……
 
《私の鑑賞ノート》
 高浜虚子(たかはま・きょし)。本名 高濱清。明治7年(1874年)~昭和34年(1959年)。愛媛県松山市生まれ。明治21年京都第三高等学校入学。1歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。明治24年子規より「虚子」の号を受ける。
 明治30年松山で創刊された俳誌「ほとヽぎす」に参加。翌年虚子がこれを引き継ぎ、東京に移転し俳句だけでなく、和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発。夏目漱石なども寄稿し、『我輩は猫である』『野分』『坊ちゃん』などは、このほとヽぎすへの連載が初発表。その他では伊藤左千夫の『野菊の墓』や寺田寅彦の『竜舌蘭』など。
 「ほとヽぎす」からは、飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男、川端茅舎などを輩出している。
 高浜虚子は、「ほとヽぎす」の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱した。
      (以上参考資料・フリー百科事典『ウィキペディア』―「高浜虚子」の項)
                         *
 高浜虚子は正岡子規と共に、近代俳句の創始者ともいえる俳人です。そのため略歴も少し長くなりました。
    もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭
 他の詩形でなら先ず扱わないような、日常的なありふれた事象での、季節感の発見の句です。俳句は、生活の中の文芸としての側面があるかと思いますが、そのお手本のような作品です。

 考えてみれば、どこかに何か「もの」を置けば、そこに蔭が生まれるのは当たり前のことです。あまりにも当たり前すぎて、誰もそんなことなど気にも止めようとしません。
 しかしニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て、「万有引力」を発見したと言われるように。虚子はさすが非凡です。その時そこに「秋の蔭」を発見したのです。

 このように当たり前すぎて誰も気にも止めない事象にこそ、新しい発見につながる「何か」が潜んでいるのではないでしょうか。そう考えれば、俳句のみならず、各人のいろいろな分野のアイディアの素材は、案外日常の中にごろごろ転がっているものなのかもしれません。後は研ぎ澄まされた感性で、それをいかにキャッチ出来るかという私たちの側の問題で…。

 また留意すべきは、この句は「秋の蔭」であってこその名句だということです。これが「春の蔭」や「夏の蔭」であったら、句のニュアンスは全く違ってきます。
 秋と蔭がダイレクトに結びつくことによって、物の光りの当たらない部分の物悲しさ侘しさの気配が、そこはかとなく読む者に伝わってきます。
 (なお、高浜虚子の代表句は下記サイトで読むことが出来ます。)
        「高浜虚子を読む」
 (大場光太郎・記) 

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夜もみどりなる(2)

 実は私も、ある時「夜もみどりなる」を鮮烈に感じたことがあります。

 前に『都会の片隅のあざみ花(2)』で触れましたが、私は昭和五十年代半ばの何年間かを、都内は明治通り沿いにあった某社に勤めておりました。(話せば長くなりますが、今で言う「契約社員」のような立場でした。)
 連日仕事に追われ、山手線から小田急線に乗り継いで地元の本厚木駅に着くのは、決まって深夜十二時前後。日によってはそれから深夜バスに間に合ったり、間に合わずにタクシーで帰ったり…。

 とある夏の日。その夜はバスに間に合わず、タクシーで帰ることにしました。私は本厚木駅北口のタクシー乗り場で、同じくタクシー待ちの人たちと共に並んで待っておりました。連日追いまくられる仕事の疲れ、更に通勤疲れが重なって、およそ思考力なくただほんやりしながら。
 
 その時間でも待ち客は多く、なかなか順番はきません。私は仕方なく、焦点も定まらないまま見るともなしに周りを見渡しました。タクシー乗り場のすぐ近くに、幹の黒いそこそこの太さの欅(ケヤキ)の木が目に入りました。見れば高さ十メートルをゆうに越えていそうな、堂々たるケヤキです。
 そしてその木に接して高さ四メートルほどの街灯があります。もちろん乗り場付近を煌々と照らすために設置されたものです。本厚木駅はその頃既に、小田急沿線駅でも有数の駅ビルに生まれ変わっておりました。同駅北口はけっこう広い駅前広場ですから、それに伴ってなかなかシャレた立派な街灯です。

 同時に街灯は、別のものもくっきりと浮かびあがらせておりました。高さ四メートルほどの灯り本体間近の、豊かなケヤキの葉群(はむら)です。
 私はぼんやり目を上げながら、思わず息をのみました。そうして闇の中にくっきりと浮かび上がった葉群のなんと鮮やかなこと。日中ごく当たり前に見られる木々のみどり葉とは、およそ異質なみどりがそこにありました。ひどい疲れで、その時の私は一種の「変性意識」状態だったのだろうか。何かこの世ならぬ神秘的なみどりにさえ思われ、私はしばし呆然とその美しさに見入っておりました。

 …その頃の私は、郷里での中学、高校の頃の「文学への夢」などどこへやら。そんな淡い掴みどころのない夢は、首都圏の苦(にが)く厳しい強固な現実の前に、木っ端微塵に打ち砕かれ。そんな夢など、とうの昔に忘れ果てていたのでした。
 ですから、石田波郷とほぼ近似した貴重な詩的場面に出会っても、その時の私はおよそ思い浮かぶ詩的言語とてなく、その神秘的な「夜のみどり」を、言葉を失ってただ呆然と見続けるのみだったのです。            ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

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夜もみどりなる(1)

    プラタナス夜(よ)もみどりなる夏は来ぬ   (石田波郷)

 石田波郷(1913年~1969年)は、愛媛県出身の昭和の代表的俳人の一人です。愛媛県といえば、近代俳句の父と母的存在である正岡子規と高浜虚子(きょし)の出身県でもあります。波郷は1932年単身上京し、水原秋桜子(しゅうおうし)、久保田万太郎らに師事。1937年句誌『鶴』を創刊し、その主宰になりました。波郷二十四歳のことです。
 その後波郷は、韻文精神に立脚した人間諷詠の道をたどり、中村草田男(くさたお)、加藤秋邨(しゅうとん)らと共に「人間探求派」と呼ばれ、戦後俳壇を主導した俳人の一人でもあります。

 石田波郷の若い頃の句には、この句のような叙情的でみずみずしい感性の句が多くあります。波郷は、私の好きな俳人の一人です。

 この句が作られたのはいつの頃なのか、仔細には分かりません。しかし、戦前の東京のどこかの街並みを思い浮かべるのが妥当なところでしょう。皆様お分かりでしょうが、夜の真っ暗闇では木立は深い闇に包まれてただ黒々と不気味に迫ってくるばかり。とても「みどり」には見えません。
 木立が夜でも「みどり」であるには、それを照らし出す何かがが必要です。そこでこの句の舞台は、私たちにとっては、ノスタルジックな戦前の東京のさる大通りです。先ずそのことを念頭においておきましょう。
 
 その通りには、プラタナスが街路樹として、ずっと通り中先まで続いています。その通りを、郷里から出てきて日も浅い、若き日の波郷が歩いています。ふり仰ぐと、一本のプラタナスのすぐ間近に街灯があり、その昭和十年代の灯りに、プラタナスの豊かで大ぶりな繁り葉が鮮やかなみどりとなって浮かびあがっている。
 その光景は多分愛媛県でも他の何県でも、当時の田舎では先ずお目にかかれない、都会の夜ならではの、叙情的でかつ幻想的でもある光景です。
 
 それを見て、「夜もみどりなる」と捉えた。これこそが、波郷の新発見です。
 先ず詩的場面を的確に見出せることが、そもそもの大前提。そしてその上さらに、その詩的場面の「核心」を、このようにスパッと一言で捉えられるか否か。これこそが、優れた詩人、俳人であるか、あるいは単なる凡百の愛好家で終わるかを分ける生命線であると思います。                            (以下次回につづく) 
 (大場光太郎・記)

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