身捨つるほどの祖国はありや

                             寺山 修司

  マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや
 
…… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 私など団塊の世代より、一つ前の世代の人たちにとっては懐かしい短歌なのではないでしょうか?すなわち60年安保で首都東京が騒乱状態になった、昭和35年前後20代だった人たちにとっては。
 同騒乱によって死亡した東大生樺美智子(かんば・みちこ)さん、当時学生運動家たちに好んで歌われたという西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』、「♪ 夜霧の彼方に 別れを告げ 雄々しきますらお出でてゆく …愛しの乙女よ 祖国の灯よ」の『ともしび』などを歌いあった街角の歌声喫茶、そしてこの短歌。
 
 寺山修司は昭和40年代、『書を捨てよ、街へ出よう』などの評論、あるいはアングラ的な実験演劇集団「天井桟敷」を主宰したり、映画『初恋・地獄篇』(‘68年-当時新宿の映画館で観た覚えあり)の脚本など、本来の詩人、歌人というより、当時は私たち若い世代をアジテート(扇動)する前衛活動家といった趣きでした。
 当時私は、山形から高卒で首都圏にやってきたばかり。当地での生活と仕事に慣れるのにおおわらわ、優雅に学生運動をエンジョイしている(?)諸君とは意識の上でかなりの温度差がありました。

 一般労働者たる私たちにとってこの短歌は、もはやさほど注目されるものでもなかったようです。私がこの短歌と出会ったのは、学生運動が挫折して(あるいは国家権力によって強制的に封じ込められて)世の中がすっかりおとなしくなった、昭和50年代前半の頃だったと思います。
 それも『寺山修司詩集』を読んでというような、しかるべき手続きを踏んでのことではありません。まったくの偶然の出会いによって、この短歌が目に飛び込んできたのです。

 私は当時車で外回りをしていました。ある日昼食のため、どこかの町のとある食堂に入ったのです。昼のかき入れ時、中は先客でいっぱいです。何かを注文して、出てくるまで時間がかかりそうです。そこで私は、時間つぶしに備え付けの漫画週刊誌を手に取って読み始めました。と、ある劇画風の漫画がありました。その中に、この短歌がバッチリ大きく書き込まれていたのです。
  「マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」「寺山修司」
 昼食のとんだ予期せぬ添え物と言うべきです。『何てこの時代を突いた歌なんだ ! 』。私はそのカットから目が離せなくなりました。肝心のストーリーなどまるで忘れてしまっています。しかしいかにインパクトを与えたことか。食事を終えて食堂を出る頃には、もうすっかりこの短歌が頭に入っていたのです。

 立ちこめる夜霧とともに、この歌全体に流れる青春の叙情性。そして何より強烈なのが「身捨つるほどの祖国はありや」という問いの終わり方。いわく言いがたい、余韻と言おうか余情と言おうか。おそらくこの短歌を初めて読んだ誰しもが、寺山が投げかけたこの言葉にはズキンと心に響くものがあるのではないでしょうか?

 今改めて調べてみますと、この短歌は昭和33年刊の処女歌集『空には本』の中に収録してあります。当時のことは今、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』などで「古き良き」オールディーズ戦後として見直されています。
 しかし早稲田大学などとっくに中退してしいた若き寺山にとって、その時代既に「祖国喪失」をひしひしと感じていたわけです。この歌で寺山が言いたかったのは、「身を捨てるに値するような祖国?そんなもの、もうとっくの昔にありゃしねえんだよ」ということだったのではないでしょうか?

 なるほど今では、「国」を表わす言葉としては「国家」というのが一般的です。「祖国」などと口走ろうものなら、『こいつ右翼か?』と思われかねず。公の場でも私的な会話でもめったに使われることがなく死語化してしまいました。ちなみに「国家」と「祖国」と、どう違うのでしょう?
 「国家」。①〔易経・繋辞篇下〕くに。②(state;nation)一定の領土とその住民を治める排他的な統治権をもつ政治社会。近代以降では通常、領土・国民・主権がその概念の三要素とされる。
 「祖国」。①祖先以来住んできた国。自分の生まれた国。「ーを捨てる」②国民の生まれた国。 (『広辞苑・第六版』より)
 なるほど「国家」は欧米式の近代法概念に基づく用語。対して「祖国」は読んで字のごとく、「祖(おや)の国」か。 

 独断的解釈では、「国家」からは一定の領土という平面的な空間、そしてそこに住む国民とその主権の主張し合い、せめぎ合い、そして他国とのマキュアベリ的外交戦術などしか感じられません。対して「祖国」からは、今日ただいまこうして身を置いている国の、悠古の祖先からの連続性、つまり三次元的空間に時間軸が一つ加わった四次元的かつスピリチュアルな広がりが感じられます。
 いやもし仮に、私たちの日々の営為を遥か高い所から鳥瞰している宇宙的存在がいるとするなら。連綿と続く血のつながりを断ち切り、エゴ的個体としてただやみくもにあっちにぶつかりこっちにぶつかりして生きている今の私たちの姿は、蟻と同じ二次元上の平面的生物にしか見えないのかもしれません。

 今から半世紀も前、若き寺山修司が感受した祖国喪失。私たちはその間ずっと、喪失状態のまま生きたきたわけです。ますます混迷を深め、凶悪犯罪が増加する一方の世の中。それは深いところで、「祖国喪失」とリンクしているのではないでしょうか?

 (大場光太郎・記)

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君待つと

                                        額田王

 君待つと吾(わ)が戀(こ)ひ居れば吾が屋戸(やど)の簾(すだれ)うごかし秋の風吹く

                                      (万葉集巻4・488)
  …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… 
《私の鑑賞ノート》
 額田王(ぬかたのおおきみ。ぬかたのきみ、とも) 生没年不詳。斉明朝から持統朝にかけて活躍した代表的万葉女流歌人。
 『日本書紀』によると、鏡王(かがみのおおきみ)の娘で、大海人皇子(おおあまとのおうじ)の妃(一説には「采女(うねめ)とも」)として十市皇女(といちのひめみこ)出産後、大海人皇子(後の天武天皇)の兄である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ-後の天智天皇)に寵愛されたという説が根強いが根拠はないようです。

 なお額田王は、小説などでは絶世の美女だったというのが定説になっていますが、額田王に関する記述はごく限られており、その容貌について物語った資料があるわけではありません。彼女の容貌に言及したのは、ずっと後世江戸時代後期の名著『雨月物語』の作者上田秋成(うえだ・あきなり)の『金砂』が最も早いようです。
 また額田王をめぐって、天武天皇と天智天皇との間で三角関係にあったという定説については、やはり江戸時代の国文学者・伴信友(ばん・のぶとも)の『長屋の山風』などの発言などにより定着していったもののようです。 

 ともあれ額田王には、後世の歴史家、文人などの想像をかき立てるミステリー性があるようで、さまざまな形で彼女をヒロインとする物語が作品化されてきました。
 思い返せば1980年(昭和55年)、『額田女王』がテレビドラマ化されました。これは井上靖の同名小説を、朝日放送創立30周年記念番組としてドラマ化され、テレビ朝日系列で放送されたものです。歴史好きの私は、一も二もなく観た覚えがあります。
 今回前原国交相の「羽田空港のハブ化構想」で、ついでに成田国際空港も注目されました。当時私は、成田市内のアパートに先輩と下宿し、そこから成田空港敷地の外れにある工事局で土木系某業務を担当していました。

 同番組はしたがって成田のアパートで観たことになります。ある日の午前中同僚が寄ってきて、「大場さん。ゆうべ額田女王観たでしょ?」と聞いたのです。私は意外な質問にあっけにとられながらも「うん、観たけど…」と言うと、「やっぱりね。大場さんも観てるんだろうなと思いながら、オレも観てたよ」と言うのです。その同僚は、横浜市内の会社から派遣されてきた、岡山県出身で帝京大卒業者、私の2歳年下ながら既婚者でした。
 彼とは歴史の話などした覚えはありませんが、そこは目から鼻に抜ける才人タイプの彼のこと、私の性向などとっくに見抜いていたものとみえます。

 同ドラマは、制作:山内久司、脚本:中島丈博、監修:野村芳太郎など。私の記憶では1回ドラマのはずでしたが、同年3月中旬前編、後編の二夜にわたって放送された大型歴史ドラマだったようです。
 ヒロインの額田王には、当時美人女優の誉れ高かった岩下志麻。気位が高く気性が激しかったとされる額田王を好演したのでしょう、主演の岩下志麻しか記憶にありませんでした。今回調べてみましたら、天智天皇役に近藤正臣、天武天皇役に松平健、蘇我入鹿役に津川雅彦、皇極・斉明天皇役に京マチ子、持統天皇役に樋口可南子、有間皇子役に川崎麻世、大友皇子役に三田村邦彦、曽我赤兄役に藤田まこと、藤原鎌足役に三國連太郎などなかなかの豪華キャストだったようです。

 そのくらいですから、ストーリーなどまったく覚えていないものの、同ドラマでもやはり天智、天武両天皇から愛された女性として描かれていました。井上靖の原作そのものが、戦前ではタブーとされていた古代史最大の内乱である「壬申(じんしん)の乱」(672年)を井上史観を通して描いたものとして注目されたようです。

 さてこの歌は、近江大津宮(おおみのおおつのみや)にあって詠まれた歌とされています。恋歌が多い万葉集の中でもひときわ優れた恋歌だと思います。当時の慣習であった「夜這い」を切に望む王(おおきみ)の心を、簾を動かして吹く「秋の風」が実によく表しています。
 近江京は7世紀後半天智天皇によって造られた都ですから、この歌は定説によると、その時王は天智天皇の想い人であった、したがって待っている「君」は天智天皇を指すということになります。万葉集の解説書として定評のある、斎藤茂吉の『萬葉秀歌・上巻』(岩波新書)でもそういう解釈をしています。

 しかし今日ではその定説があやふやなものとされている以上、必ずしもそうとばかりは言えないことになります。
 かと言って、この歌の切実な響きから単なるフィクションとも思われず。それではこの歌の「君」とは誰だったのか?天智系から天武系へ。皇統を揺るがした壬申の乱というクーデターを経て、額田王の境遇はその後どう変転していったのか?ということも含めて、古代史の新たなミステリーの一つとなりそうです。

 ところで『千の風になって』で一躍有名になった作家の新井満(あらい・まん)は、この歌などに曲をつけた『万葉恋歌 ああ 君待つと』を発表。紅白のド派手な衣装でおなじみの小林幸子が歌い、CDも発売されています。
 「君待つ」恋心は千古の昔から変わることなく、現代人にも訴えかけてくるものがあるということなのでしょう。

 竹久夢二の名曲『宵待草(よいまちぐさ)』もそうでした。「待ちわびる、待ち明かす、待てどくらせど…」、日本語には「待つ」ことをめぐる表現が多くあります。「待つ」ことの切なさ、苦しさ。しかしそれあればこそ、恋なら恋がより深められ、純化、昇華されていく側面があるのではないでしょうか?
 しかしなべてスピード化の便利な今の世、現代人は「待つこと」が苦手になっている、こらえ性がなくなってきているようです。そのことが、現代人の精神生活を貧しいものにしているとは言えないでしょうか?

  君待つと吾が戀ひ居れば……

 (大場光太郎・記)

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秋来ぬと

                                藤原敏行

  秋来(き)ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

                            (『古今集』・169)

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 藤原敏行(ふじわらのとしゆき) 生年不詳~延喜7年(907年)または延喜元年(901年)。平安時代初期の歌人、書家。藤原南家の藤原巨勢麻呂の後裔。陸奥出羽按察使・藤原富士麿の子。従四位上・右兵衛督。三十六歌仙の一人で、家集に『敏行集』がある。
 空海とともに能書家としても名高い。『古今集』に十六首、『後撰書』に四首が採られている。一世代前の歌人と比べて技巧を増しながら繊細流麗、かつ清新な感覚がある。和歌史的には、六歌仙の一人の在原業平(ありわらのなりひら)から紀貫之(きのつらゆき)へ橋渡しをした歌人である。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「藤原敏行」の項などより)

 本歌は『古今集-秋歌』の冒頭に掲げられており、立秋の日に詠んだと言われています。「秋が来たと目にははっきりとは見えないけれど、風の音にハッと秋の気配を気づかされたことよ」というような意味となります。

 この歌が詠まれた背景として、「立秋の日から風は吹き渡るもの」という当時の常識があったようです。それは「生活実感に基づいた常識」というよりは、平安貴族たちの「文学的な常識」です。したがってこの歌もそれを踏まえて詠まれたのであり、実景をそのまま詠んだわけではなく、写生的な要素のまったくない心象風景の歌であるのです。

 さはさりながら、写生さながらの「目にはさやかに見えねども」「風の音にぞおどろかれぬる」。この描写の確かさ、豊かな感性には「驚かされ」ます。視覚と聴覚の対比が実に巧みだと思います。見ても秋は感じられないが、風の音ではじめて秋の気配が感じられたというのです。写実に迫る、あるいは写実を超える「イマジネーションの力」というようなことを考えてしまいます。
 
 赤子が獲得する五感は、視覚よりもまず聴覚だそうです。興味深いことにこの歌は図らずも、赤子の成長のプロセスと符合しているわけです。そこに、ともすると平安貴族という高等遊民の「言葉のお遊び」に堕してしまいがちだった、後代の和歌と一線を画する何かがあるように思います。
 それらの言葉のお遊びとは、イマジネーションの深度が何段階も違うようなのです。それがこの歌を古今有名なものとし、後世多くの類歌、類句が作られたゆえんなのではないでしょうか。

 ところで、ハッと驚かされた「風」とはどんな風だったのでしょう?その風とてもイマジネーションの中の風であるわけです。人のイメージの世界を盗み見ることは不可能です。ですから作者・藤原敏行にしか分からない風です。がしかし、「強い風」だったのか「弱い風」だったのだろうか、という問いかけだけはしたくなります。
 さてどっちだったのでしょう?二百十日前後に吹き荒れる野分(今の台風)のような激しい風だったのだろうか。そうすると確かに「風の音」が現実味を帯びてきます。しかしこの歌が詠まれたのは立秋、それにこの歌の風趣からしてそのような凄まじい風はそぐわないように思われます。
 案外、涼を運んでそよと吹くような微風だったとも考えられるのです。ですから本来は風音など聞こえないはずです。しかし藤原敏行は心の耳でしかと風の音を聞いた、それは秋の気配を感じさせて思わずハッと驚かされる確かな音だった…。

 (大場光太郎・記)

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海の歌二首

                             源 実朝

  箱根路をわれこえくれば伊豆のうみや沖の小島に波の寄る見ゆ

  大海の磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 源実朝(みなもとのさねとも) 建久3年8月9日(1192年9月17日)~建保7年1月27日(1219年2月13日)。鎌倉幕府第三代征夷大将軍。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝の子として生まれ、兄の源頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれて関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に襲われ落命した。子はおらず、源氏の将軍は実朝で絶えた。
 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金塊和歌集』がある。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「源実朝」の項より)

 この2首が同じ旅で詠まれたものなのか、詳しいことは分かりません。がしかし、普段ならば征夷大将軍という最要職にある実朝は、滅多なことで鎌倉を離れ諸国を旅することは適わなかったでしょうから、同じ旅で詠まれたとみてよいと思われます。

 (1) 箱根路をわれこえくれば伊豆のうみや沖の小島に波の寄る見ゆ
 「われこえくれば」から、天下の険・箱根を越えてどうしても伊豆に行きたかった実朝の意思が感じられるようです。伊豆国といえばご存知のとおり、父源頼朝が平治の乱(1159年)以降流人としての日々を送った土地であり、同地の豪族・北条時政(実朝の母政子の父)と同盟して平家討伐の挙兵をしたゆかりの地です。その父頼朝は、実朝が7歳の頃世を去りました。だからこの伊豆の旅は、亡き父を偲ぶという目的もあったのではないでしょうか。

 山路続きの箱根路を越えるとにわかに視界が開けて、眼前に伊豆の海が広がっていた。「伊豆の海や」は、それを目の当たりにした強い感動表現であるように思われます。その伊豆の広々とした海原遠く、沖の小島が見える。なお目をこらすと、波が寄せているさまも見えるではないか。
 おそらく伊豆の海に初めて接したのであろう実朝の、感動、高揚感が伝わってくるような歌です。

 (2) 大海の磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも
 前の歌が伊豆の海の遠景であるとすれば、この歌は間近までやって来てズームアップした海の実景といった趣きです。
 しかしあるいは前の歌と同じ地点にいて、続けて詠んだ歌ということも考えられます。その場合は、遠く離れた小島の磯に寄せる波のさまに、豊かなイマジネーションを働かせて詠み込んだことになります。

 そうも考えられるのは、この歌は万葉集中のある歌が本歌としてあるからです。それは笠女郎(かさのいらつめ)の以下の歌です。
  伊勢の海の磯もとどろに寄する波かしこき人に恋ひわたるかも
 実朝の歌の前段は「伊勢の海の」を「大海の」に置き換えただけの、いわゆる本歌取りそのものです。しかし後段は、笠女郎の歌が恋歌であることが明らかになるのに対して、「寄する波」のたたみかけるような描写になります。

 これは元歌の作者・笠女郎の功に帰すべきなのかもしれませんが、「磯もとどろに寄する波」の「とどろに」が実によく効いていると思います。磯の大岩に波がぶつかった時に発する轟音の表現なのでしょう。この「とどろに」があることによって、「われて砕けて裂けて散るかも」が生きた表現になったと思われます。
 「すべての芸術は模倣から始まる」。「とどろに寄する波」をうまく本歌取りし、かつ後段の生きて躍動するような波の動きを描写した実朝の非凡さはさすがです。

 なお、実朝と万葉集の関わりは大変深いものがあります。実朝はある時同時代の和歌の先達・藤原定家(ふじわらのていか)から万葉集を贈られました。以来自分の血肉にすべく一文字もゆるがせにするまいと、精魂込めて同集を詠み込んだようです。
 そのためなのでしょう。この歌は、古今集から新古今集を経ることによって、「もののあはれ」の無常観やいたずらな虚構の頽廃美に陥りがちな傾向から脱しています。歌柄の大きさ、雄渾さに、万葉集の深い影響が認められるようです。

 青年将軍としての実朝は、鎌倉における権力闘争や、将軍の立場を利用しようとする輩に取り囲まれている我が身の状況を疎ましく感じていたことでしょう。また父頼朝亡き後は、母政子を始めとする北条氏が鎌倉幕府の実権を握りつつあり、自分は単なるお飾り将軍に過ぎない、そんな鬱屈した感情があったかもしれません。
 それが伊豆の大海原、なかんずく磯にとどろに打ち寄せる波のさまを目にして、抑えていた感情が一気に噴出した。その迸り(ほとばしり)として詠まれたのがこの歌であると捉えることも出来ると思います。

 7月20日-海の日に  

 (大場光太郎・記)

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若き日の夢に別れて

                         前田 夕暮

  魂よいづくへ行くや見のこししうら若き日の夢に別れて

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 前田夕暮(まえだ・ゆうぐれ) 明治16年、神奈川県大住郡生まれ。本名洋造(洋三)。尾上柴舟に師事。44年「詩歌」を創刊。自然主義歌人として出発するが、昭和初年代には自由律短歌運動の先頭に立つなど、振幅の大きい作歌人生をおくる。歌集『収穫』『陰影』『生くる日に』『水源地帯』など。昭和26年没。 (講談社学術文庫・高野公彦編『現代の短歌』より)

 先ずもって鮮烈な「青春挽歌」という感じのする短歌です。「見のししうら若き日の夢」。人は「大人」になる過程で、うら若き日に夢を見たこと、その夢を見残したことなどすっかり忘れてしまいます。ですからこのような歌を歌えるのは、「うら若き日」に近接した世代だけです。なるほど調べましたら、この短歌は明治43年刊歌集『収穫』に収められている歌です。ということは少なくとも前田夕暮27歳以前の短歌ということになります。

 この短歌からは清新な「明治の青春」といったものもまた感受されます。平成21年の今日の私たちにとっては既に「昭和は遠くなりにけり」ですが、大正、明治はさらに遠い過去、歴史時代のようになってしまっています。
 だから私たちの観念で捉えている明治は、ずいぶん古ぼけた時代という感覚です。しかしこの歌に見られるように、今の時代以上に真摯でみずみずしい青春性があったのだ、ということは記憶のどこかにとどめておいた方がよさそうです。

 さらにこの短歌からは、前田夕暮の「鎮魂歌」といった哀切な感じが伝わってきます。人は誰でも、「うら若き日の夢」を「見のこし」ます。見残したことに敏感であるからこそ哀切なのです。
 いわゆる鎮魂歌といった場合、西洋音楽では「レクイエム」、つまり死者の魂を慰め安からしめるための音楽を指していいます。
 しかし以前どこかの記事で述べましたように、我が国古神道の行法で「鎮魂」という場合、それは生きて行をしている当人の「御魂鎮め(みたましずめ)」という意味となります。「魂よいずくへ行くや」。通常人の生にあって魂は、とかく浮遊しがちで肉体内にピシッと落ち着くことが少ないのです。そのため人生の焦点はほやけ、真の目的から逸れた人生を送ってしまいがちです。それを鎮め、真の自己を取り戻すための行法が、古神道の「鎮魂法」といわれているものです。

 前田夕暮が、そんな行法の存在を知っていたかどうかは定かではありません。知らなかった可能性の方が高いと思います。しかしそれでもこの短歌は、やはり鎮魂歌であったと思います。そしてこの短歌における御魂鎮めの要(かなめ)となるものは、「うら若き日の夢」ということだろうと思われます。前田夕暮にとって、うら若き日の夢に別れることなしに、ピタッとその夢に寄り添っていることが魂がさ迷わない、つまり彼にとっての「鎮魂」に他ならなかったわけです。

 確か後年『愛と認識との出発』の作者・倉田百三だったかが(断定はできませんが)、述べていたかと思います。
 「汝の夢を清からしめよ。夢を見ることを止めた時青春は終わるのである。」
 だから「うら若き日の夢」=「清き夢」なのです。それはまた「気高い理想」と言い換えることもできます。魂から発せられる、純度100%の混じり気のない理想(ゆめ)。

 ともすれば私たちは、この現実なるものにのめり込み世俗に紛れていくにつれて、理想(ゆめ)は純度を失い、果ては理想そのものさえ忘れ去っていきます。これこそは人生最大の悲劇の一つであるはずなのです。だからある人は言っています。
 「我々は、日常生活に埋没することの恐ろしさを知らなければならない。」

 考えてみますと、今は恐ろしく現実主義的で計算高い世の中です。そんな時代の中、大人ばかりでなく多くの若者にとっても「理想」などということは死語に近く、こんなことを語ろうものなら「ダサい ! 」の一言で片付けられてしまうそうなのです。そうして刹那的な生き方によりいっそう拍車がかかっていくのです。世の中全体が。
 「理想(ゆめ)無き時代」だからこそ、時にはこのような短歌をじっくり味わってみたいものです。

 (大場光太郎・記)

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娘ことごとく売られし村

                            結城 哀草果

  貧しさはきはまりつひに歳(とし)ごろの娘ことごとく売られし村あり

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 結城哀草果(ゆうき・あいそうか) 明治26年山形市生まれ。本名光三郎。黒田家より結城家の養子となる。大正3年「アララギ」に入り、斎藤茂吉に師事。以後、農民生活を歌い、特に昭和10年刊行の『すだま』で東北の凶作を歌い、注目を集める。昭和24年に「山塊」、同30年に「赤光」を創刊、主宰した。歌集『山麓』『群峰』など。随筆集『村里生活記』他数冊。昭和49年没。  (講談社学術文庫『現代の短歌』より)

 山形県出身の歌人・斎藤茂吉は、近代短歌の代表的歌人として広く知られています。しかし茂吉の弟子だった結城哀草果は、活動の中心が地元山形というローカル歌人だったこともあって、よほどの短歌通でなければその名を知らないと思います。
 ちなみに私の出身中学である(山形県)宮内中学校の校歌は、結城哀草果の作詞によるものです。

 略歴にあるとおり今回の短歌は、昭和初期の東北の凶作を歌った歌集『すだま』収録中の一歌です。日本史の教科書に載った「娘売ります」の張り紙を立てた写真の部落が、私の母校があった長井市の一部落だった。このことは、昨年末記事『今は昭和初期と酷似 !?』の中で既に述べました。
 この歌は、解釈の必要がないほど平易な歌ですが、当時の深刻極まりない東北の農村の実情を直視した社会的短歌です。

 歌冒頭の「貧しさきはまり」とは、一体どのような状況だったのでしょう?
 直接の原因は当時東北地方を襲った凶作です。しかしそれと共に、上記記事でもふれました1929年(昭和4年)ニューヨークのウォール街に端を発した、世界恐慌のあおりを受けた「昭和恐慌」の影響も見過ごすことはできません。当時もアメリカ輸出依存だった我が国は、それによって米国への輸出品だった東北産の生糸(きいと)の値段が三分の一にまで落ち込み、また米価も半値以下にまで暴落したからです。
 その結果、当時は(自己所有の田畑を持たない)小作農が多かったわけですが、それによって地主への重い小作料が払えなくなった貧農が東北各村で急増したのです。

 それに、冷害による「昭和大凶作」が追い討ちをかけました。しかも冷害は一度ならず、昭和6年、7年、9年、10年と続けて発生しました。宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」の中の、「サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はオロオロ歩き)」は昭和6年冷害を叙述したものです。昭和6年と同9年の冷害が特に深刻で、両年の米の収穫高は、例年の半分以下だったといわれています。
 昭和6年の大凶作で、例えば青森県では借金を抱える農家が続出し、やむを得ない口減らしの手段として「芸娼妓(げいしょうぎ)」として売られた少女は、県累計7,083人にも上ったといいます(そのうち一部は町場の娘も)。当時山形県内のある女子児童は、「お母さんとお父さんは毎晩どうして暮らそうかと言っております。私がとこ(寝床)に入るとそのことばかり心配で眠れないのです」と作文で述べたそうです。

 上に見られるとおり、東北の娘たちは東京の遊郭に売られていくケースが圧倒的でした。そもそも「娘売り」は、江戸時代から女衒(ぜげん)の手によって行われていましたが、明治以降戦前まで継続されました。
 特に今回問題となる昭和恐慌、大凶作のダブルパンチで、東北地方から売られてきた娘たちと、遊郭の楼主との生々しい証文(契約書面)も多く残っています。(このような契約は、「公序良俗」を厳しく求める戦後の現民法では無効となる契約です。)
 なぜ「娘売り」で「息子売り」ではなかったのか?これには当時の厳格な家父長制も関係しますが、農家の長男は家の跡継ぎ、二男、三男でも当時は軍隊の下級兵になる道がありました。現に旧日本軍の下級兵で、東北出身の二男、三男の占める割合は多かったのです。社会的地位の低かった女子はそうはいきません。そこで一家の人柱となって、何百円(当時)かで売られていくケースがずいぶん多かったのです。

 こうして東北の娘たちは、主に東京の吉原、州崎などの遊郭に売られていきました。東京に行儀見習いに行くといって上京したはずの妹が、実は吉原に売られていた。兄が上京してたまたま吉原で遊女を買ったところ、出てきたのが実の妹だった。二人は抱き合ってワンワン泣いた、というような話が伝わっています。
 東京だけでなく、遠く京都の遊郭にも東北出身の遊女が多くいたようです。さらには国内のみならず、海を越えて旧満州の遊郭や、果ては南は東南アジア、北はシベリアのウラジオストックの娼館に連れていかれた娘たちもいたようです。

 そうして連れていかれた東北農村の娘たちは、甚だ劣悪な環境の下で途中で病に冒された者も多く、よほどの僥倖でもない限り悲惨な生涯を送ったであろうことは想像に難くありません。
 同じ条件にあった東北の農家の全部が全部ではなかったにしても…。近代日本の赫々(かくかく)たる歩みの中で、光に影が寄り添うように、このような哀しい裏面史があったのだ―哀草果のこの歌は、そのことを歌の行間から告発しているようです。

 (大場光太郎・記)

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陸奥をふたわけざまに

                            斎藤 茂吉

  陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

  …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 斎藤茂吉(さいとう・もきち) 明治15年、山形県南村山郡金瓶村の守谷家に生まれ、のち斎藤紀一の養子となる。東京帝国大学卒業。伊東左千夫に師事し、明治41年「アララギ」創刊に参加。大正2年、第一歌集『赤光(しゃっこう)』を刊行。以後、大正・昭和を代表する歌人として活躍。昭和26年文化勲章受賞。歌集に『あらたま』『白き山』など17冊があるほか、多くの歌論集などがある。昭和28年没。 (講談社学術文庫・高野公彦編『現代の短歌』より)

 斎藤茂吉は、山形県が生んだ近代短歌における代表的な歌人の一人です。
 またこの短歌に詠まれている「蔵王」は、奥羽山脈の一部を構成する蔵王連峰のことです。山形県と宮城県の両県南部の県境に位置します。主峰は「熊野岳(1,841m)」であり山形県側に位置します。活火山であり、エメラルドグリーンの水をたたえた御釜(おかま-火口湖)は有名です(御釜は宮城県側)。火山の恩恵である温泉が両県の裾野に数多く存在し、スキー場も多く設置されています。『日本百名山』(深田久弥 1964年)の一つでもあります。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「蔵王連峰」より)

 「陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳えたまふ」。これは、実際に蔵王山頂に立てば実感として分かります。片や宮城県・太平洋側、片や山形県・日本海側。蔵王連峰のほぼ稜線伝いが県境になっているわけですが、歌に詠まれてみれば、なるほどそのとおりなのです。
 
 一読その光景を思い浮かべては、つかの間爽快かつ気宇広大な気分にさせてくれる短歌です。これは蔵王という詠まれている対象の大きさもさることながら、茂吉自身の心の容量(キャパシティ)の大きさでもあるように思われます。
 何ごとも「相応の理(そうおうのり)」というもので、主体である作者の力量に応じて、同じ対象であってもいかようにも変化するものであり、茂吉と同じ景観を見ても凡人にはとてもこのような名歌は詠めるものではありません。
 ともかく、我が郷土の山をこれだけ雄大に詠んでくれた茂吉に、心から敬意を表したいと思います。

 それとこの短歌には、作者のエネルギーが感じられます。とにかく一気呵成に詠み込んでいる感じで、漲る気力のようなものが伝わってくるのです。
 先ず大景の俯瞰、鳥瞰。それから少しずつズームの対象を絞り込んで、終いに「雲の中に立つ」茂吉自身がフォーカスされてくる。何やら、大スペクタクル映画でよく用いられる手法を先取りしていたかのような描写法です。

 蔵王という「自然」の大景の中に立つ「人間」の小ささ、その対比と捉えることも出来ます。蔵王は名前のとおり古来山岳信仰の対象ですから、「聳えたまふ」という恭(うやうや)しい表現となっています。そこからその時の茂吉は、畏怖すべき大いなる自然の一部となって、溶け込んでいたと捉えることも出来ると思います。
 さらにまた「(雲の中に)立つ」という動詞止めから、茂吉の強い意思もしくは気迫のようなものが感じられます。

 「雲の中」であるからには、周りは雲霧状態、あまり良好な眺望ではなかったようです。そんな蔵王山頂に立ちながら茂吉は、自分が今背負っている短歌界さらには近代日本の行く末への責任といったことが脳裏をかすめていたのかもしれません。いかな茂吉といえども、その得体の知れない巨大な荷物に、時には挫けそうになり、また押しつぶされそうな時もあったことでしょう。
 しかし、ふるさとの山はありがたきかな。『なにくそ、負けてたまるか ! 』。郷里の名山と相対しながら、茂吉は改めてそう心に強く言い聞かせていたのかもしれません。

 (大場光太郎・記)

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ふるさとまとめて花いちもんめ

                             寺山修司

  村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ

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《私の観賞ノート》
 寺山修司(てらやま・しゅうじ) 昭和10年青森県三沢市生まれ。29年早稲田大学に入学。同年、第2回短歌研究新人賞受賞。以後、前衛短歌運動の一翼を担う。やがて映画、演劇に進み、次第に短歌から遠ざかるが、その青春性や土俗性に根ざした作品は今も多くのファンを持つ。歌集『空には本』『血と麦』『田園に死す』『テーブルの上の荒野』。昭和58年没。 (講談社学術文庫・高野公彦編『現代の短歌』より)

 この短歌のメンタリティ。ある年代以上の方なら、十分ご理解いただけるものと思います。しかしそれ以降の、「日本列島総都市化」状況で生まれ育った若い世代には、理解しがたいかもしれません。
 上記略歴中の「その青春性や土俗性に根ざした作品」は、さすがに寺山修司の一連の短歌について、大変的確な指摘だと思います。「青春性」と「土俗性」。このアンヴィバレントな二つの要素のせめぎあいにこそ、今なお多くのファンを持つ寺山短歌の魅力が潜んでいるのかもしれません。

 人が生まれ育った風土、環境は、終生影響を及ぼします。(以下私ごとで恐縮ながら)私が山形県内陸部の郷里で過ごしたのは、私の60年の半生において十代までの18年間余。そして首都圏ぎりぎりに位置する当地での生活は、41年間余。当地での生活の方が圧倒的に長いのです。
 昭和50年代半ば頃の数年間、東京都内で仕事をしたこともあります。逆にズーズー弁が使えなくなるほど、東京弁ないしは標準語に慣れきってもしまいました。そのため、たまに人から「大場さんは地元の人?」などと聞かれることがあります。「いえ、東北、山形です」と答えますと、「えっ、ご出身は山形なんですか !?」と驚いた顔をされる方もおられました。
 しかし根っからの都会人やシティボーイになりきれるものでないことは、この私自身が一番よく知っています。たとえ生まれ育ったのがわずか18年であっても。私の体内には、何百年いな何千年にも及ぶ東北人の血が脈々と流れているのですから。これは否定しようがなく、また否定すべきものではないと思っております。

 草深くかつ雪深い東北で育った田舎者が、東京という大都会に出てきて、生き馬の目を抜く激しい競争社会の渦中に飛び込むこと。それは私の体験から申せば、首都圏生活が既に十分長くても、未だ気の休まることがない、内的、外的な緊張と葛藤の連続です。
 何千万人かの首都圏人の中の、名も無い私ごとき者ですらそうなのですから。早稲田入学と共に上京し彗星のごとく短歌界にデビューした寺山修司の場合は、想像を絶する苛烈さだったことでしょう。それはおそらく、青森県出身の先輩作家・太宰治などもそうだったと思いますが、共に背伸びに背伸びをしっぱなしの苦しい日々の連続だったのではないでしょうか。(そのためかどうか、太宰も寺山も短命に終わっています。)

 この短歌がいつどのような状況下で作られたものなのか、私は寡聞にして知りません。しかし思うに、首都での文壇的、歌壇的修羅のただ中に身を置きながら、内心では苦しみ悶えていた時、なぜか「春の村境」そこの「捨て車輪」の思い出がふと甦(よみがえ)ってきた。華やいだ祭りの思い出などではなく。同時に寺山の心の深い基層(東北的土俗性)から、直感的に短歌となって奔り(ほとばしり)出てきたのではないでしょうか。そうでなければ、「ふるさとまとめて花いちもんめ」という表現はとても得られるものではないと思います。
 捨て車輪=二束三文の鉄くず=ふるさと。今大都会のただ中に身を置く都市生活者として、『ふるさとなんて、そこでの生活で身につけたものなんて、しょせん秤(はかり)にかければ一文目の値打ちしかないんだよ』と捨て鉢な表現はしてみても。人一倍望郷の想い強かった、寺山の本心は決してそうではなかったはずです。ふるさとは、いわく言いがたし。

 私はこの短歌に初めて接した時、どうっと涙が溢れてきたことを思い出します。

 (大場光太郎・記)

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やはらかに柳あをめる

         石川啄木

  やはらかに柳あをめる
  北上の岸辺目に見ゆ
  泣けとごとくに

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《私の観賞ノート》
 石川啄木(いしかわ・たくぼく) 1886年~1912年、本名一(はじめ)。岩手県南岩手在の寺の長男として生まれ盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)を中退、明治35年文学を志し上京したが、再び帰郷。「新詩社」の同人となり、詩集『あこがれ』(明治38年)を刊行し、「明星」派の詩人として登場した。その後生活上の行きづまりから北海道に渡り漂泊生活を送ったが、再び上京して東京朝日新聞に校正係として就職し、43年同紙朝日歌壇の選者となり、処女歌集『一握の砂』を出して歌壇にしかるべき地位を確立した。
 この年幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)らの大逆事件に衝撃を受け、社会主義思想に傾き土岐哀果(とき・あいか)らと生活派の短歌を主張して、明治45年『悲しき玩具』を出した。同年肺結核の果て26歳の生涯を終えた。死後大正2年詩集『呼子と口笛』が出版された。 (河出書房版・日本文学全集29『現代詩歌集』解説より)

 この歌が収録されている『一握の砂』は、26歳で世を去った石川啄木が、生前唯一出版した歌集です。同歌集には551首が収められていますが、当初は伝統的形式の一行書きだったものを、出版の過程で三行書きに改め、またタイトルも『仕事の後』から『一握の砂』に変更しました。
 『一握の砂』は、啄木の現実の日常と回想や心象風景を交錯させた、啄木の青春的自画像ともいえる歌集です。それまでの短歌には見られなかった平明で真率な表現さらには「三行分かち書き」という革新的表記法とあいまって、集中の歌を一つも知らないという人がいないほど、近代短歌中最高の読者を得ています。盛岡中学の後輩である宮沢賢治は、同歌集を読んで刺激を受け作歌を始めたといわれています。

 今回の短歌は、『一握の砂』中、「我を愛する歌」の次の「煙(けむり)」というサブタイトルの「二」に収めらています。今さら解釈の必要もないほど、啄木短歌の中でも最もよく知られた作品の一つです。
 遠く岩手山を望む北上河畔には、啄木没後10年を記念して大正11年にこの短歌を刻んだ歌碑が建てられました。その後川の氾濫により、元の位置から50mほど引いた現在地に移されたとのことですが、建立当時は巨大な花崗岩(かこうがん)を、雪の中村中総出で3日がかりで山から運んだのだそうです。碑の裏面には、「無名青年の徒之を建つ」と刻まれているそうです。

 このエピソードに見られるように、没後はその名声全国に知られ、郷里でも敬愛されることとなった啄木でした。しかし生前の啄木にとって、岩手は複雑な心情にならざるを得ない故郷だったようです。
 この歌のすぐ前の歌は―
  石をもて追わるるごとく
  ふるさとを出でしかなしみ
  消ゆる時なし
とあるように、故郷に対する想いは、単なる望郷の念などでは片づけられない、大変複雑なものがあったようです。

 「石をもて追わるるごとく」ふるさとを出ることになった一つの原因は、盛岡中学時代のテストのカンニング発覚、欠席の多さ、成績不振による退学勧告による上京であるようです。あるいはまた父が宗費滞納のため、渋民村宝徳寺を一家で退去せざるを得なかった事態、さらには盛岡中学時代から付き合っていた、堀合節子との結婚にあたっての先方の親戚との軋轢(あつれき)などが重なってのことなのかもしれません。

 啄木の短歌すべてに言えることですが、(どういういきさつでそうしたのか仔細には分かりませんが)「三行分かち書き」にしたことで、短歌というよりはむしろ「三行詩」と形容したくなります。この歌は特にみずみずしい叙情詩といった趣きで、北上川の鮮明な視覚的イメージが喚起されます。
 
 「やはらかに柳あをめる」ですから、東北の遅い春の訪れである、4月下旬から5月上旬頃の北上の情景でしょうか。「北上の岸辺目に見ゆ」から、啄木は直接北上河畔に立ったのではなく、岸辺全体が視野に入るかなり離れた位置にいるようです。例えば仕事を求めて北海道に赴く途中の、汽車の車窓から遠く北上の岸辺を眺めた、というようなシチュエーションが考えられます。
 自身は直接かの岸辺に立つことは出来ない。そしてその景色というのは、遠ざかる列車の中からしばし眺めやっただけ。その一過性と、距離の隔たり。それゆえにこそ、望郷の想いはより切実に啄木の胸に迫ってきます。
 その想いの極みが、「泣けとごとくに」という印象深い劇的な結びの言葉となって迸り(ほとばしり)ました。

 (大場光太郎・記)

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さわらびの萌え出ずる春

                             志貴皇子

  石走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも

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《私の観賞ノート》
 志貴皇子(しきのみこ) 天智天皇7年(668年)~霊亀2年(716年)。飛鳥(あすか)時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。父は天智天皇、母は越道君伊羅都売(こしみちのきみのいらつめ)。壬申(じんしん)の乱―天武天皇元年(672年)に起こった日本古代最大の内乱―後、天武天皇皇統が皇位を継承することとなったため、天智天皇系皇族だった皇子は、皇位継承とはまったく無縁。政治よりも和歌等文化の道に生きた人生だった。薨去後の宝亀元年(770年)、春日宮御宇天皇の追尊を受け、その系統は現在までも続くこととなった。御陵所の奈良市田原「田原西陵」にちなんで田原天皇とも称される。清澄で自然観察に優れた歌人として、万葉集に六首の歌を残している。 (フリー百科事典『ウィキペディア』の「志貴皇子」の項より)

 まずオーソドックスな解釈として―。
 「石(いわ)走る」は「垂水(たるみ)」にかかる枕詞(まくらことば)であるようです。そして垂水とは、「摂津の国(現在の大阪市、神戸市などを含む地域)垂水」という具体的な地名とされています。うららかな春のある日、皇子はかの地に赴き、実際に目にした情景をそのまま詠まれたものと言われています。垂水とは一般的には滝のことで、その地に名滝があったためその名がつけられたとのこと。
 しかしそんな背景を知らない私は、それとは少し違った解釈をしてみたくなります。
 
 雪解(ゆきげ)の頃から、冬中山に降り積もった雪が徐々に溶け始めます。その多くは地表を流下していきますが、一部の雪解水は山肌に沁み込んで伏流水となり春の盛りの頃になっても、山裾の小岩の割れ目などから歓喜のように地表に踊り出してきます。だから、垂水はかの地の名滝でもなく、山は耳成山(みみなしやま)、畝傍山(うねびやま)、天香具山(あめのかぐやま)といった「大和三山」のような名だたる山にあるものでなくてもいい、ごく普通の小山の情景でいいのです。
 私たちもちょうど今頃の季節、そんな小山の山道を散策していると、道上の小岩による小さな窪みから清水が迸(ほとばし)っているのを目の当たりにすることがあります。振り仰ぐと岩の上に、初々しい早蕨(さわらび)がヒョロンと萌え出ている―私自身の郷里での思い出から、そんな情景が思い浮かんでくるのです。また大滝の上よりも、2、3m高いくらいの所に生えているわらびの方が、目視にはちょうどいいように思われます。

 この歌の背景がどこであろうとも。「石走る垂水の上のさわらびの」は、迸る春の清水のように、何のよどみもない滑らかなリズムです。そして「萌え出ずる春になりにけるかも」と、一気に詠み切ってしまいます。
 あたかもさわらびが天に向って一直線に伸びていくように、そこにはおよそ何の屈託も屈折も悲哀の影もありはしません。春を感じさせてくれる事物を目のあたりにした、ただただ単純素朴な感動、感嘆があるのみです。まさに、「春の賛歌」そのものとも言うべき名歌だと思います。
 
 この歌の勢いと漲る清純の気から、皇子の若い時の歌ではないかと推察されます。壬申の乱などという上古最大の騒乱が、人間界に起ころうと起こるまいと。自然の四季のサイクルはきちんきちんと巡り来て、容易なことでは人間たちに順を乱されたりは致しません。(もし大きく乱されているとするならば、よくよく深刻な異常事態だと私たちは気がつかなければなりません。)

 (大場光太郎・記)

 (追記) 今回から当ブログカテゴリーとして『和歌・短歌観賞』を新たに加えることに致しました。万葉集の秀歌から現代の俵万智の短歌あたりまで、例によって私の独断と偏見によります、ピックアップと解釈を試みていきたいと存じます。

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