断層面の・・・草に流るる晩夏のひかり

                      前田 夕暮

  
壁立(へきりつ)せる断層面の暗緑の草に流るる晩夏のひかり 

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……

  前田夕暮(まえだ・ゆうぐれ) 略歴については『若き日の夢に別れて』参照のこと。

 前田夕暮は印象的な短歌を多く残しており、私としては、心惹かれる近代歌人の一人です。彼の短歌の持つ「青春性」「斬新さ」「革新性」に惹かれるのです。

  壁立せる断層面の暗緑の草に流るる晩夏のひかり 

 今回のこの短歌は、そのうちの「斬新さ」「革新性」において際立っています。

 この短歌に初めて接した時、つい現代的な短歌が連想されました。が、この短歌は大正元年(1912年)刊の歌集『陰影』に収録されている作品です。かれこれ100年以上も前の作品なのに、今読んでも“新しさ”を感じます。 

 「壁立せる断層面」 
 出だしのこの表現が出色です。なるほど確かに、我が国は太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレートに挟み込まれ隆起して出来た列島です。それゆえ中央構造線や糸魚川静岡構造線などの大断層はもとより、全国には小さな断層が数多くあることでしょう。しかしこのような素材は、ひたすら自然美を歌う伝統的な和歌では無論のこと、正岡子規による「短歌革新運動」以降の近代短歌でも取り上げられたことのないものです。 

 自然の美しさとはズレた位相の、ともすればそれまでの短歌ではスポイルされて来たような素材をあえて取り上げたところに、前田夕暮の新しさ、革新性があるのです。 

 「断層面」とは、地形として断層を示しているその表面ということです。高さは5メートルいや10メートル以上あるのでしょうか。それが壁のように真っ直に突き立っているのです。イメージするだに、ある種の圧迫感、不安感を覚えてしまいます。しかしそんな所にもしぶとく、逞しく雑草が生えていて、夏の終りの陽の光りがやわらかくそそがれている、というのです。歌号とこの短歌の内容から、私はとある晩夏の夕暮時をイメージしていましたが、時間までは述べられていませんから、陽が出ているどの時刻でもいいのでしょう。 

 実際に見た風景なのか、あるいは想像上の風景だったのかは知る由もありません。前田夕暮自身は、ありのままのその実景をとにかく詠みたかっただけなのかもしれません。しかし「壁立せる断層面」をいきなり持って来られると、そう詠んだ彼の深層心理を覗き込んでみたくなります。 

 (大場光太郎・記) 

関連記事
『若き日の夢に別れて』
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くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽の

                             正岡 子規

  くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る

…… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 中学2年生の頃たまたま手にした詩歌の本で、初めてこの短歌を知ったのだったと記憶しています。もちろん深い意味など分からず、この中で歌われている情景を私なりにイメージし、清新な感動を覚えたのでした。

 この短歌を鑑賞する場合、まずは詠まれた背景を知っておいた方がいいかもしれません。
 正岡子規晩年の明治33年(1900年)4月21日の作です。もうこの頃は脊髄カリエスの病状がかなり進行し、弟子たちが名づけた東京根岸の子規庵(しきあん)の一室で臥せりきりの日々なのでした。

 子規が臥せっている部屋に面して小さな庭がありました。「病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)」の身には、したがってこの庭だけが唯一の外界であり自然であったわけです。体から膿がドロドロ流れ、時に激痛が襲う状態にも関わらず、子規の創作力は衰えることなく、子規庵の庭の四季の移ろい、草花のさまなどを俳句・短歌として多く詠んでいます。
 この歌は、その中でも代表的な短歌と言ってよさそうです。

 中学2年時の私は早合点して「くれないのバラの花」をイメージし、それでつい嬉しくなったのだったかもしれません。がしかし、それは間違った読み方です。
 子規が詠んだのは「くれなゐの薔薇の芽」であり、薔薇の花ではありません。


                      薔薇の芽

 子規の眼にはまず、二尺(約60cm)ほどに伸びたくれない(紅色)の薔薇の新芽に向けられます。その鋭い観察眼はその先の小さな針(トゲ)をも見逃しません。
 そして次に薔薇の木全体に視線を移します。見れば、薔薇の木、新芽を包むように、しっとりと春雨が降っているのです。

 俳句及び短歌の革新として「写生」を唱えた正岡子規の面目躍如たる写実的な短歌と言えそうです。しかしたとえば「やはらかに」という表現が、薔薇の芽の針と春雨の二つの事物に掛かっているように、単なる無味乾燥な写生歌ではない、繊細な叙情味が醸し出されているように思われます。

 正岡子規の凄いところは、凄まじい闘病の身でありながら、作品にはそれが微塵も感じられないことです。いなむしろ爽やかな清涼感すら覚えるのです。

 子規はこの歌を詠んだ4ヶ月後に大喀血し、2年後の明治35年(1902年)9月19日に亡くなりました。享年34歳。

  くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る

 (大場光太郎・記)

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『六月を綺麗な風の』
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黄金の翅の元朝の風

                      与謝野 晶子

  わたつみの波の上より渡りきぬ黄金の翅の元朝の風

  (読み方)
  わたつみの/なみのうえより/わたりきぬ/こがねのはねの/がんちょうのかぜ
 …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……* ……* …… 
 与謝野晶子(よさの・あきこ) 明治11年、大阪堺市生まれ。旧姓鳳(ほう)、本名志よう。堺女学校卒。明治33年、新詩社に加入し、鉄幹に師事。明治34年鉄幹と結婚。第一歌集『みだれ髪』により世の注目を集め、以後、浪漫派の旗手として活躍。歌集に『舞姫』『夢之花』『常夏』『佐保姫』『春泥集』『青海波』『白桜集』などがある。昭和17年没。 (講談社学術文庫・高野公彦編『現代の短歌』より)

《私の鑑賞ノート》

 明けましておめでとうございます。
 新年にふさわしい短歌として、与謝野晶子のこの歌を取り上げてみました。

 さすがは「みだれ髪の歌人」与謝野晶子です。雅(みやび)で絢爛に元朝の海の情景を詠みきっています。
 「わたつみ」とは、万葉集以来用いられている古語で、「わた」は海の意、「つ」は「の」に当る雅語の助詞、「み」は海を支配する神の意、総じて「海原」ということです。

 「元朝」(がんちょう)とは元日の朝ということで、元旦と同じ意味となります。ただ今日では滅多に使われなくなった言葉でもあります。その意味では少し古めかしい言葉ですが、それがかえって新鮮に感じられます。
 「神初めに天地を創り給へり」(『創世記』冒頭)。「元朝」は、この世界が初めて創られた「元初(げんしょ)の朝」のような感覚にさせられる言葉でもあります。

 であるからには、この1月1日の朝は、何もかもがまっさらに真新しい朝なのです。眼前に目にする景色の何もかもが新鮮で美しく輝いている。
 それを見ている人間のみ古い、などということがどうしてありましょうや。もちろん人間だって新しいのです。人体を構成する原子も分子も細胞も絶えず更新され、生命は常にみずみずしく若々しいはずなのです。

 この歌を詠んだ時の与謝野晶子は、そういう感覚、視点に立っているように思われます。
    
 多分太平洋岸のどこかの海辺なのでしょう。海の向こうから初日が昇ってきています。さすがに詩心(しごころ)のない人でも、厳かな気分にはなる場面です。
 この場面に臨んで与謝野晶子は、一気呵成にこの歌を詠んだのです。

 初日の日矢を放つ海から吹き渡る潮風に対して、「黄金の翅の(元朝の)風」とは何とも卓抜な表現です。浪漫的な「与謝野晶子ワールド」出現といった感じがします。

 (大場光太郎・記)

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采女の袖吹きかへす明日香風

                          志貴皇子

  采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたずらに吹く

                       (『万葉集』1-51)
 (読み方)
  うねめの/そでふきかえす/あすかかぜ/みやこをとおみ/いたずらにふく

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》

 先月下旬のある晴れた午後、私は当市街地の国道沿いの舗道を歩いていました。先ほどの信号の所から、何メートルか先を名門厚木高校の女生徒4人が歩いています。
 見るともなしに見ていると、互いに他愛もない話をし合っているようです。そよ吹く心地良い風に、彼女らの長い髪が少しなびいたりしています。もちろんチャカチャカ茶髪などではなく、皆艶々(つやつや)しい黒髪です。

 彼女らは信号から数十メートル先を左折していきましたが、その姿を見ながら私は「采女らの袖吹きかえす…」と、ふと口をついて出たのです。

 「采女」とは、上古の時代の“宮廷女官”の官名です。当時の地方豪族が天皇へ恭順の意を示すため、その娘または姉妹を天皇に献上したのです。一種の人質ですが、これには幾つかの“審査基準”がありました。13歳以上から30歳以下であること、一定以上の教養があること、そして何よりも容姿端麗であること。
 高偏差値の厚高女生徒の後姿から、古えの高貴な身分の女官の姿がつい連想されたのでした。

  采女(ら)の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたずらに吹く

 「采女らの…」とつい口ずさんだように、私がかつて読んだ歌人斎藤茂吉の名著『万葉秀歌上』中のこの歌では、上のように「(ら)」を入れた読み方が示されていました。
 ただし冒頭に掲げたように、志貴皇子(しきのみこ)の元々の歌は「采女の」であるようです。そうすると采女は単数形であり、「さて誰なのか」となりそうです。

 皇子の“想い人”だったということも考えられますが、一説では、皇子の母の越道君娘(こしのみちのきみのいらつめ)も采女だったと言われ、美しかった母を偲んで詠んだのではないか、と言われています。
 それはそれとして。やはり「ら」を加えて伝統的な五七五七七の形に整えた方が、音読にはなじみます。それに「ら」を入れた複数形だったからこその、あの時の4人の女子高生からのこの歌の連想だったわけです。

 この歌前半の「采女の袖吹きかへす明日香風」と、後半の「都を遠みいたずらに吹く(風)」は、どちらも志貴皇子自身にも吹いた風であるとしても、時制的にも場所的にも違う風です。
 「明日香風」は追憶の中の風、そして「いたずらに吹く風」は今現在吹いている風ということになります。

 「明日香風」は「明日の香りを運ぶ風」とも解釈できそうな詩的な名の風ですが、思うに志貴皇子の造語なのではないでしょうか。後の世の何人もの歌人が「明日香風」を詠んでいます。
 ここで明日香は「飛鳥」の意であり、672年から694年まで飛鳥の地に「飛鳥宮(あすかのみや)」(「明日香宮」とも)が置かれていたのです。

 672年と言えば、古代日本を揺るがした「壬申(じんしん)の乱」が起きた年です。それまでの天智天皇系政権に対して、クーデターでこの乱に勝利した大海人皇子が、天智天皇造営のそれまでの近江大津宮から飛鳥に都を戻すべくこの宮を造営しました。
 翌673年に大海人は、この都で天武天皇として即位します。その後飛鳥宮は妃の持統天皇に引き継がれ、20年以上にわたってこの宮で律令国家の基礎を築く事業が進められたのです。

 上古に燦(さん)たる飛鳥宮も、持統八年(694年)十二月に藤原宮に遷都され廃都となってしまいました。この歌には「明日香の宮より藤原の宮に遷居せし後に、志貴皇子の作らす歌」との前詞があります。

 志貴皇子(生年未詳~716年)は天智天皇の第七皇子(第三皇子とも)です。ですから壬申の乱以後は肩身の狭い思いもしたことでしょう。しかし飛鳥宮から藤原宮まで、一貫して天武・持統天皇に仕えています。
 柿本人麻呂、額田王、山部赤人らとともに万葉集を代表する歌人です。推察するに、皇子にはあまり政治的野心はなかったのではないでしょうか。それが幸いしたのか、身辺にさしたる波風が立つこともなく順調に官位を上っていきました。

 この歌の「二つの風」は同じ季節の風なのか、違うのか、どの季節なのか、よくは分かりません。しかし「采女の袖吹きかへす明日香風」の方は、受ける印象から、初夏の頃の風がふさわしいのではないかと思われるのです。
 明日香宮を背景に、爽やかな薫風に吹かれながら立っている飛鳥美人の姿が目に浮かぶようです。

 (大場光太郎・記)

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『さわらびの萌えいずる春』(志貴皇子の最も有名な歌)
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『全国高校偏差値ランキングから』(厚木高校紹介あり)
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雲雀の短歌三首

                      寺山 修司

  空は本それをめくらんためにのみ雲雀もにがき心を通る
                      (昭和33年『空には本』所収)

                      藤井 常世

  よぢれつつのぼる心のかたちかと見るまに消えし一羽の雲雀
                      (昭和51年『紫苑幻野』所収)

                      高野 公彦

  ふかぶかとあげひばり容れ淡青(たんじょう)の空は暗きまで光の器
                      (昭和57年『淡青』所収)

… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……* …
《私の鑑賞ノート》

 春の鳥としての「雲雀(ひばり)」の近代短歌を三首並べてみました。
 このうち寺山修司(てらやま・しゅうじ)の短歌については、昨年4月の『空は本』で既に取り上げました。なのに再びこれを掲げたのには訳があります。これに続く二人の短歌は、寺山の短歌を意識したものだと思われるからです。

 そもそも和歌の世界で「本歌取り」は、古今集の昔から当たり前の手法として用いられてきました。敬愛する先人によって詠まれた新しいモチーフの優れた歌を、後の歌人たちがそれにならって類似の歌を詠もうとするのは至極当然のことです。
 ただその場合、元の歌人の単なる二番煎じ、三番煎じではつまりません。元の歌を超えないまでも、何かしら新鮮味を加えることが要求されるわけです。
 寺山の後の二人はどうでしょうか。その辺を見ていきたいと思います。

  よぢれつつのぼる心のかたちかと見るまに消えし一羽の雲雀

 藤井常世(ふじい・とこよ)のこの歌にも「心」が出てきますから、寺山短歌の影響は明らかです。
 しかし藤井短歌の新しい発見は、雲雀の「心のかたち」を捉えたことです。捕まえどころのない心に果たして「かたち」があるのかどうか、仔細には知らねども。藤井はこの短歌で「心にかたちがある」と表現しているのです。

 さてそれでは、それはどんなかたちか。空の高みを目指して「よぢれつつのぼる」雲雀の姿こそ、まさにその象徴なのだと言うのです。
 藤井の短歌では、寺山短歌の「にがき心」は露わにはなっていません。けれども、確かに空の高みを目指す雲雀はにがき心を抱いているに違いない、それは「よぢれつつ」のぼっていくことに暗示されていると思われるのです。
 そしてその心のかたちは、寺山の場合と同じく、実は作者自身の心のかたちに他ならないのです。

  ふかぶかとあげひばり容れ淡青の空は暗きまで光の器

 寺山修司の短歌が「起」であるとするなら、前の藤井常世の短歌はそれを受けた「承」ということになるのでしょう。
 対して高野公彦(たかの・きみひこ)のこの短歌は、寺山、藤井という先人どおりに「雲雀がのぼる姿」を踏襲していません。どう詠んだか。雲雀が既に空の高みにのぼりきったさまを詠んだのです。三首の中でこれは「転」にあたると思われます。
 この短歌にある「淡青」を歌集のタイトルにしているところを見ると、高野にとってこれは会心の作品だったことでしょう。

 この短歌の秀逸さは、後半の「淡青の空は暗きまで光の器」にあると思われます。
  淡青の空 = 暗きまで光の器
という図式です。しかし通常の数式では、こんな等式が成立することはありません。ただ単純に、
  淡青の空 = 光の器
なら、あるいは成立するかもしれませんが。そこに「暗きまで」というファクターが入り込んでいることによって、不等式とみなさざるを得ないのです。

 そもそも「淡青(ライトブルー)の空」が「暗きまで」ということがあるのだろうか。とてもあり得なさそうですが、高野公彦にとってはあり得るのです。
 作者の深い意図は分かりかねますが、「声はすれども姿は見えず」で、雲雀の姿を深々と隠し去った空を「暗きまで」と形容したのではないだろうか、と推察されます。さらには、淡青の奥に広がる宇宙の闇にまで想いが至っていたのかもしれません。

 だとすると、この短歌のこの部分は、物理世界の数式では不成立でも、詩的世界の数式としては見事に成立していることが了解されてくるのです。

 (大場光太郎・記)

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『空は本』
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白菜がうっふんうっふん

                        俵 万智

  白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふん肩を並べる

…… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》

 『サラダ記念日』で述べましたように、短歌界に新風を吹き込んだ俵万智の、これもその好例と言えそうな作品です。

 白菜は大根などとともに「冬菜」です。初冬の今頃、スーパーなどで丸々と太った白菜がうず高く積まれているのを目にします。
 そういえば思い出しました。一昔前まではこの季節、街の八百屋さんの一番前に、この短歌のように、真ん中に幅広の赤帯をしめた白菜たちがどんと立ち並んで売られていました。

 もっとも最近では少子化、核家族化の当今、保存に余るせいか、半分、四分の一、さらにはもっと小さく切って、ラップにくるまれ、赤帯に代わって幅狭の紺色のテープを巻かれてバラ売りされることが多いようです。
 それに今では大型店舗の進出によって、街の八百屋さんはどんどん姿を消してしまいました。だからこの短歌は、それ以前の街の寸景としてある種の懐かしさすら覚えます。

 この作品は俵万智の、日常に密着した「生活目線」がしっかり貫かれています。女性ならではの視点で捉えた、生活感溢れる作品といってよさそうです。

 それまでの短歌でも生活を詠むことは当然ありました。がそれは、生活の中で突如起った特異な出来事を切り取って歌にする、ということが主眼だったように思われます。確かにそういう日常が垣間見せる非日常的で非凡な断面を詠むことも、短歌の大きな役割の一つではあります。

 対して俵万智は、「生活」「日常」を詠み切ることに徹しているのです。短歌をぐいと身近な生活レベルに引きつけたといってよさそうです。

 一般的に現実の生活上の事柄をそのまま短歌に詠み、なおかつそれが作品として高い評価を得るというのは至難の技のように思われます。
 なぜならこの例のように「白菜」というありふれた素材を使って、一篇の上質な短歌に仕上げるのは意外と難しいだろうからです。
 短歌の本質は「詩」です。詩であるからには、日常の単なる生活報告文であってはいけないわけです。

 「白菜」という素材を前にして、それをいかにまともな短歌に昇華させるか。俵万智はその困難な課題を、後半部でいとも簡単にやってのけています。
  うっふんうっふん肩を並べる
 白菜をそう擬人化してみせたのです。いや店先に立ち並ぶ白菜たちを間近に見て、俵は実際そう連想し、自分でもおかしくなってつい『ウフフフフッ』と含み笑いをしたかもしれません。

 それほどこの擬人化はリアルてす。真ん中に赤帯しめた、まん丸く太った白菜たちの上部に腕白坊主な顔があって、互いに押し合いへし合いして「うっふんうっふん」肩をそびやかしているようすが目に浮かんできます。

 生活感覚をしっかり踏まえながら、日常生活というもののありふれた位相を少しずらしてみる。しかしあまりずらしすぎると、現実から遊離してしまってかえってつまらなくなる。だから、生活感と非現実との微妙なさじ加減こそが必要ということなのでしょう。
 それに成功すると、かくもユーモラスな生き生きとした作品が生まれるわけです。

 (大場光太郎・記)

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『サラダ記念日』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-9525.html

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啄木歌 秋の風二首

          石川 啄木

  鈴懸にポプラ並木に秋の風
  吹くが悲しと
  日記(にき)に残れり

  我が抱く思想は常に
  金無きに因する如し
  秋の風吹く

 …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》

 石川啄木の代表的歌集『一握の砂』には、「秋の風」を詠んだ短歌が幾つもあります。今回はそのうち私の印象に特に強く残っている歌二首を取り上げてみました。ただしこの二つの短歌は傾向が大きく異なります。

  鈴懸にポプラ並木に秋の風/吹くが悲しと/日記に残れり

 「鈴懸」そして「ポプラ」並木とくれば、札幌の大通りが思い浮かびます。事実啄木は、北海道放浪時代札幌にも短期間(明治40年9月)住んでいましたから、おそらく「吹くが悲し」と日記に残した、鈴懸とポプラ並木に吹き渡る秋風とはそこでのこととみて間違いないと思われます。

 鈴懸もポプラも、当時の我が国の他の都市ではあまり見られなかったであろう、西洋のどこかの街並みを彷彿とさせる街路樹です。
 そのことがこの短歌にモダンな叙情性をもたらしています。

 そんな西洋風の通りを歩いている啄木はというと、街並みに目をやりながら、詩人らしい秋思にとらわれて歩いています。結果、無色透明な秋の風を「吹くが悲し」と感じているのです。
 
 そのことを書き残していた日記を読み返しながら、その時の回想、追体験をしながら詠んだのがこの歌です。
 短歌の中では時刻が何時だったかまではふれていません。昼過ぎいな午前中だったこと考えられます。が私はずっと以前から何となく、夕闇迫る頃合の街並みをイメージしながら読んできました。

   我が抱く思想は常に/金無きに因する如し/秋の風吹く

 一首目の叙情性は陰をひそめ、代わって思想性が全面に出てきている短歌です。この歌を詠んだところは明らかです。東京です。啄木は失意のうちに北海道生活にピリオドを打ち、二度目の東京生活を決意し、妻の節子、老母、幼い子供を連れて東京にやってきたのです。
 募る創作活動への憧れからまたぞろ首都にやってきたものの、歌人として広く名が売れ飯が食えるほど甘くはなく、家族を抱えてすぐに厳しい生活苦に陥ります。

 この頃の啄木には有名な逸話が残されています。啄木は「借金の天才」だったというものです。とにかく家族を養っていくためにやむなく、友人・知人から金を借りまくったようです。
 最大の被害者(援助者)は、盛岡中学校の先輩で国語学者、アイヌ語学者の金田一京助でした。子息で同じく国語学者の金田一春彦は、子供の頃家財を売ってまで啄木に金の工面をしている父の姿を見て、「石川啄木は石川五右衛門の子孫ではないか」と本気で思っていたといいます。

 そういう過酷な生活苦の中で啄木は、幸徳秋水が起こした大逆事件(明治43年)に並々ならぬ関心を寄せたり、社会主義思想に共鳴していくことになります。
 この短歌はそのような時期に作られたものです。啄木が常日頃抱いている思想というのは、「短歌や詩や文学とは何ぞや」というような高踏的なものなどではない。「金欠」という極めて現実的なことに起因するのだというのです。その切迫した事情の前には、最早叙情性の入り込む余地などないわけです。

 この歌における首都の秋の風は、啄木にとって事のほか骨身に沁みる風だったといえます。明治45年4月13日27歳という若さでの死は、「金無き」心痛が大きな要因だったのかもしれません。

 (大場光太郎・記)

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言葉とは断念のためにあるものを

                          佐佐木 幸綱

  言葉とは断念のためにあるものを月下の水のきらら否定詞

… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …

 佐佐木幸綱(ささき・ゆきつな) 昭和13年、東京生まれ。近代短歌の先駆者の一人・佐佐木信綱は祖父。早稲田大学時代に父(佐佐木治綱)の死に遭い、「心の花」「早稲田短歌」に拠って作歌を始める。歌集に『群黎』(現代歌人協会賞)『金色の獅子』(日本詩歌文学館賞)他。評論集に『柿本人麻呂ノート』『佐佐木信綱』『作歌の現場』『東歌』など。歌誌「心の花」編集長。現代歌人協会理事。「朝日新聞」歌壇、「東京新聞」歌壇選者。早稲田大学名誉教授。 (講談社学術文庫・高野公彦編『現代の短歌』などより)

《私の鑑賞ノート》
 「いやあ、参りました」と言いたくなるような見事な名短歌です。時としてこういう珠玉に出会えるから、詩文漁りは止められません。
 まさに戦後歌人の面目躍如といった趣きです。寺山修司もそうでしたが、それ以前の歌人たちには見られない新しさがあります。『サラダ記念日』の略歴で触れましたとおり、俵万智は早稲田大学在学中に佐佐木幸綱と出会い作歌を始めるなど、後進の歌人にも強い影響を及ぼしました。

 それにしても、「言葉」こそが唯一の武器であるはずの歌人が、「言葉とは断念のためにあるものを」などと詠んじゃっていいのでしょうか。
 大乗仏典の各経文も、キリスト聖書の神の言葉も、シェイクスピアやゲーテなどの大文学も、バイロンやワーズワースなどの類い稀なる詩も、柿本人麻呂や松尾芭蕉の和歌も俳句も…。すべてが「断念のための言葉」だと言うのでしょうか。

 しかし佐佐木幸綱にとって、その言葉はゆえ無くして出てきたものではなかったのです。先ず略歴にあるとおり、早稲田大学在学中の父・佐佐木治綱(歌人)の死があります。加えて佐佐木幸綱に大きな影響を及ぼした社会的出来事がありました。昭和35年の「60年安保闘争」です。幸綱が作歌を始めたのは60年安保の渦中で、しかも幸綱自身が同運動に関わっていたというのです。

 60年安保闘争については、当ブログでも昨年6月『「60年安保」から半世紀(1)~(4)』シリーズとしてまとめました。結果として60年安保闘争の学生運動家たちは挫折し、敗北したのです。同運動にひたすら打ち込んでいた者たちにとってその傷がどれだけ深いものだったか、余人が測り知ることは出来ません。
 佐佐木幸綱にとっても、そのことがその後の歌人としての活動に深いところで影響を及ぼしていたと考えられるのです。

 一時は国民をも巻き込んだ全国的安保反対運動だったにも関わらず、日米新安保条約は発効してしまう、当時の日本を取り巻く得体の知れない国家間力学。このような巨大な力を前にしては、「言葉がいかに無力か」と思い知らされ、「言葉とは断念のためにあるもの」と心底実感させられたに違いありません。
 これは何も我が国の60年安保闘争に限ったことではなく、第一次、第二次世界大戦を経てきた世界全体が直面していた問題だと思われます。従前ならば絶対視されていた「言葉」が、世界的に相対化され無化されつつあったのです。

 「言葉の断念」という絶望感が心のどこかにある限り、その言葉を最も尖鋭的な形で構築する「歌人」としては、常に危機を抱えていることになります。
 この歌が収められているのは、佐佐木幸綱の第3歌集『夏の鏡』(昭和51年刊)です。この短歌がその直前に作られたのか、ずっと以前に作られたのかはわかりません。しかしこの短歌の前半には、60年安保時の挫折感による「言葉の無力」という想いが底流にありそうです。

 しかしそれは後半に大きな転調を来たしています。
 「月下の水のきらら否定詞」
 前半は作者の心の吐露だったものが、一転作者が身を置いている状況が詠まれています。肝心要の「言葉の断念」の想いに囚われながら月夜に戸外をさ迷っていると、ふと月の光を浴びてきらきら輝いて流れる水にハッとさせられたのです。
 だが転調とはそれだけを言うのではありません。その鍵は「否定詞」という体言止めにあります。

 この「否定詞」の解釈は少し難解です。一読すると前半を受けた「言葉に対するさらなる否定」という意味のようです。しかしどうやら違うようです。ややっこしくなりますが、「言葉の断念」に対する「否定詞」という構造なのです。平たく言えば「言葉を断念しなくてもいいんだよ」、つまり「言葉への肯定」ということです。
 その逆転をもたらしたものこそ、「月下の水のきらら」に流れるさまです。この後半部こそがこの短歌全体の叙情性を担保しています。
 政治状況、社会状況がどうあれ、日米関係がどうあれ、月夜に流れる水は月の光を浴びてきらきら輝きながらただ流れ下るのみなのです。
 
 一般化してこの人間世界の営為がどう移り変われど、決して変わらない自然の「不易の実相」に、この時の佐佐木幸綱は触れたのです。
 突如として開示された自然界の秘密の一端。その時月下を流れる水の精は、佐佐木幸綱にそっと告げたのです。「言葉を断念する必要などないですよ。その言葉を使って、お月様の光を浴びながらこうして喜んで流れている私の姿を活写してくださいね」。

 (大場光太郎・記)

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馬鈴薯の花 二首

           石川 啄木

   馬鈴薯のうす紫の花に降る
   雨を思へり
   都の雨に

   馬鈴薯の花咲く頃と
   なれりけり
   君もこの花を好きたまふらむ 

     (歌集『一握の砂』所収)

… * …… * …… * …… * … 
《私の鑑賞ノート》   
 中学1年の時の担任のТ先生が国語と数学の先生で、入学して間もなくの頃の国語の授業で、(当時を偲ばせる)ガリ版刷りしたわら半紙何枚かが、クラス全員に配られました。
 そこにはТ先生の達筆な字で、石川啄木の『一握の砂』から採られた代表的な短歌がずらりと並べられていました。その中に、今回の一首目の短歌があったのです。一読して気に入り、その後今日まで忘れられない啄木歌の一つとなりました。

 Т先生は啄木以外にも、室生犀星や李白などの名詩、徳富蘆花の『自然と人生』の幾つかの名文なども、このようにして私たちに教示してくださいました。また2年生の秋まで、国語の授業中クラス全員に同じ文庫本を配り、『ビルマの竪琴』『二十四の瞳』『次郎物語』『野菊の墓』などを、最初から最後まで読んでくださいました。

 当今の小うるさい文科省指導要領、各教育委員会などからすれば、とんでない「問題教師」の烙印を押されることでしょう。しかし今にして思えば、何という懐かしくも鮮烈な思い出であることでしょう。
 少なくともこの私は、それによって豊かな情操が育てられ、先生によって「文学」への目が開かれたことは間違いありません。「じゃあ聞くけど、文学とやら、アンタのその後の飯のタネに何か役に立ったの?」と問われれば、返す言葉もありませんし、近年では文学そのものすら疎遠になってしまっていますが…。


         馬鈴薯の花

  馬鈴薯のうす紫の花に降る 雨を思へり 都の雨に

 「馬鈴薯の花」、ぶっちゃけて言えば「ジャガイモの花」ということです。ジャガイモ自体は何とも無骨な根菜ですが、その花は本当にうす紫で可憐と言ってもいいような花なのです。私は子供の頃、郷里(山形県)の畑で目にしていたのでよく覚えています。

 この歌は『一握の砂』の「煙 二」に収録されています。「煙」には故郷の岩手県での追憶の歌が主に収められています。ですからこの歌のうす紫の花は、啄木が幼少を過ごした渋民村かどこかの畑で見慣れた馬鈴薯の花であることでしょう。

 啄木の第一歌集である同歌集の初版刊行は、1910年(明治43年)12月です。
 「はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり…」という、若すぎる晩年の悲哀の(二度目の)東京生活。都会にそぼ降る雨の中で、故郷の馬鈴薯畑の花に降る雨を連想して詠んだ、切ない望郷歌です。
 その死まで後2年ほど。啄木は何を想っていたのでしょうか。

  馬鈴薯の花咲く頃と なれりけり 君もこの花を好きたまふらむ
 
 この歌は、同歌集の「忘れがたき人々 二」に収録されています。「忘れがたき人々」には、1907年(明治40年)5月から翌年3月までの、北海道放浪生活中に出会った人や事物が詠まれています(『さいはて-千鳥-冬の月』参照)。ですから、この歌の馬鈴薯の花は、北海道の広大な畑に咲いている花を詠んだものです。

 この歌を読み解く鍵となるのは、歌の中の「君」です。
 啄木の北海道での最初の地は函館でした。その地で啄木は弥生尋常小学校の代用教員を務めました。そこで橘智恵子という女性を知り、淡い恋心を抱いたのです。しかしこの恋はやがて相手の女性の結婚によって、はかなく消えてしまいます。
 啄木自身は節子と既に妻帯していますから、横恋慕ということになります。

 しかし恋は恋。啄木自身の中で、異郷で巡り合った彼女の面影は消しがたく、ずっと引きずっていたのです。その後の札幌、小樽、釧路での生活とは、啄木にとって「センチメンタル・ジャーニー(傷心旅行)」をしただけだったのかもしれません。
 だからやること為すことうまくいかず、再び東京行きを決意した…。

 そうするとこの歌は、橘智恵子が結婚した後、北海道のどこかの地で作られたということになりそうです。この歌には、彼女の面影が馬鈴薯の花に投影されているわけです。

 (大場光太郎・記)

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春の鳥な鳴きそ鳴きそ

                                  北原 白秋

  春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外(と)の面(も)の草に日の入る夕べ

…… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 北原白秋(きたはら・はくしゅう) 略歴は『出臍の小児笛を吹く』を参照のこと。

 若き日の北原白秋の詩歌(しいか)には、今読んでもハッとするような斬新な作品がけっこうあります。近代日本文学において、幻想文学の先駆者であった泉鏡花が「言霊(ことだま)使い」なら、詩人の北原白秋は「言葉の魔術師」と評されました。
 この短歌は、白秋の天分がいかんなく発揮された作品と言えます。

 「春の鳥な鳴きそ鳴きそ」
 意味としては「春の鳥よ。そんなに鳴かないでおくれ」ということです。その裏には、「それ以上鳴かれると、私の心まで哀しくなってしまうから」という含意があるわけです。
 それにしても何という表現なのでしょう。古雅でありながら、逆にかえって瑞々(みずみず)しい表現として印象されてくるようです。

 「あかあかと外の面の草に(当っている)日の入る夕べ」
 小鳥のなおも鳴き止まない声を聴きつつ。ちょうどその頃、白秋が佇んで眺めている草原(くさはら)を赤々と返照させている夕日が、今しも西の方の小高い丘か小山かに沈もうといています。
 北原白秋という鋭敏な詩人の心は、その情景に言い知れぬ「哀しさ」を感受したのです。そうであるがゆえの「春の鳥な鳴きそ鳴きそ」です。したがってこの場合の春の鳥の「もの哀しい」鳴き声は、白秋自身の心の投影に他なりません。

 「短さ」を生命線とする詩歌にあって、言葉は決定的に重要です。優れた詩人、歌人、俳人であればあるほどそのこと骨身に沁みて分かっていて、一つ一つの言葉に命を吹き込むようにして、詩や短歌や俳句を作ってきたのです。
 そのようにして刻み込まれた「詩的言語」は、もはや単なる言葉にとどまらず、幾重にも重層的な意味を帯び、その短い作品に奥深さと広がりを与えます。

 北原白秋のこの短歌などはまさにその好例のようです。
 普段見慣れたある春の夕暮れの景色が、いっぺんにその様相を変じて、常ならぬイメージをまとった北原白秋的物語世界が現出されてくるのです。

 (大場光太郎・記)

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