あのお、私は「後期青年者」のつもりなんですけど。

 年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱(いだ)き得るものは何か。
 曰(いわ)く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰(せいしん)
  その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰(きんぎょう)、
 事に處(しょ)する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探究心、
  人生への歓喜と興味。
   人は信念と共に若く
   疑惑と共に老ゆる。
   人は自信と共に若く
   恐怖と共に老ゆる。
   希望ある限り若く
   失望と共に老い朽ちる。

    (サミュエル・ウルマン、岡田義夫訳の詩『青春』より)

 私は先月のある日、満65歳を迎えました。この国では最近、65歳から75歳未満を「前期高齡者」と呼ぶようにしているようです。ありていに言えば、国として行政としてもろもろの都合上、この年をもってはっきりと「年寄り扱いしますよ」と言うことなのでしょう。その一つの徴(しる)しのように、今回の誕生日を迎えてすぐに当市から「介護保健何たら」という通知が届きました。気色悪いので、中身も見ずにどこかに紛れ込ませてしまいましたが。

 私は年齡という概念を放棄します。「わたし」は年齡のない永遠の存在なのです。 (注 「わたし」とは「聖なる自己」-『アセンションするDNA』より)

 当ブログに『不死の探求』カテゴリーがあるように、私はだいぶ前から「年齡は幻想」という考えを受容してきました。しかしそんなふうに考えるのはごく一部で、世の中全体はいまだ「人間は年とともに老化していくもの」そして「やがて寿命を迎えて死ぬもの」という強固な固定観念を張り巡らせています。

 それこそ「死の観念」はこの社会のすみずみにまで行き渡っています。これは人類の集合無意識層に強固に根を張っている最も厄介な観念体系ですから、一人の人間の力でそれをはね返し、不死を逹成するのは至難の技です。また各個人レベルでも、先祖代々からの「死の観念」をDNAが受け継いでいるのです。

 しかし「今この時」はあらゆる意味でエポックメーキングな時代です。「光の時代」を迎えつつあります。意識(思考)の選択次第で、先祖代々の負のDNAを変えることも出来れば、一人ひとりの「不死の信念」が集合無意識層に風穴を開けることにもなるのです。

 それかあらぬか、世界でも類を見ないようなスピードで超高齡化しつつある我が国では、お年寄りがとにかく元気です。80歳以上でもバリバリ仕事をこなしたり、新たなスポーツにトライしたりと・・・。そして100歳以上の人が何万人といます(ただそのうちの8割以上が寝たきり状態)。

 これを見ると、仏教などが説いている「寿命」などあまり当てにならないことが明らかです。確かに人はこの世に生まれるに当って、ガイド(守護霊)と「どんなコースを歩むか」や「この世から引き上げる時期」など大まかなことを予め取り決めて出てくるようです。しかしその人間が成長・進化すればするほど、生前の取り決めは変更可能のようなのです。生存年数についても自由度がうんと広がるわけです。

 愛する人たちよ。停滞と無力感は死に至る公式です。 (『黄金の約束・下』より)

 ただ注意すべきは、「官主主義日本」にあって、根っこのところですべてを牛耳っている霞ヶ関官僚群です。既に国の借金が1000兆円超なのに(ただしこれは財務省のプロパガンダで、実際はずっと少ないとの説あり)、さらに襲いかかる少子高齡化社会に打つ手なしです。以前の『霞ヶ関官庁街訪問記(3)』でも述べましたが、「今の日本の難題を解決する能力は霞ヶ関官僚群にはない」ということはともかく。介護医療など社会福祉費の増大で、「年寄りはとっとっと死んでくれ」が彼らの本音です。

 さらに米国従属を旨とする霞ヶ関官僚群は、世界を支配するスーパーエリートたちの「世界人口大削減」にも進んで協力しようとしています。出来れば70億人を30億人以下くらいまで減らしたいのではないか?戦争、人工地震、鳥インフルエンザなどの細菌兵器、電磁波、ケムトレイル、食品・食品添加物、飲料水・・・。厚労省が推奬する薬品の服用や各種ワクチンの接種などはよほど慎重にした方がよさそうです。

 TPPによる国民皆保険崩壊や食の安全の問題、新自由主義による貧困層の増大、福島原発汚染の広範な顕在化、戦争の当事国となる可能性・・・。
 世界に誇る「長寿大国日本」は、今がピークなのかもしれません。

 先日の『2極分化しつつあるパラレルワールド地球』において、ポジティブ、ネガティブのどちらを選択するのかと言えば、当然私は「ポジティブ」の方です。ただだからと言って、ネガティブは目をつぶって見ないようにする、ということではありません。
 それでは「愚者の天国」であり、スピリチュアルの批判者たちから「だからお花畑系なんだよ」と笑われかねません。

 現実問題として、ネガティブはネガティブとしてしっかり認識、理解しながら、ポジティブの方向性だけは決して見失わないことが大切なのだろうと思います。

 かようにネガティブ勢力(闇の勢力)は、ありとあらゆる方法で人類全体のアセンションを阻もうとしています。そして多くの人類を死に追いやり、現地球の低位アストラル界(闇の領域)に封じ込めようとしているのです。「光と闇の戦い」ですから、生やさしいことではないのです。「お花畑」という言い種などとんでもないことです。

 「生きよう」とする意志をもった人は決して死ぬことはない。 (出典忘失))

 いかなネガティブ勢力といえども、個人の「生きよう」という強い意志を阻むことはできません。自らの「意志の力」(思考の力)を侮ってはいけません。と言うことで、私自身は「生きよう」という意志を日々更新しているつもりです。

 「新しさ」が生の原理である。 (コリン・ウィルソン『賢者の石』より)

 せっかく生きるのなら、「ポジティブに」「ワクワクしながら」「明るくていい気分で」・・・生きたほうがいいわけです。そしてそのような生き方こそが、「アセンションの流れ」(「本当の幸せの流れ」)に乗っていることになるのです。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『霞ヶ関官庁街訪問記(3)』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-fbb5.html
『2極分化しつつあるパラレルワールド地球』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-9c43.html

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年齢という恐るべき共同幻想

  年齢(加齢)は幻想で美しさが現実なのです。 (高次元存在からのメッセージ)

 直前のフォレスタメンバーの年齢談義を進めていきながら、世間様より少しは進んだ考えをしていると日頃自認している私自身、「年齢という幻想」に囚われていることに気づかされました。
 いい機会ですから、今回はこのテーマについて述べてみたいと思います。

 言うまでもなく「年齢」は人間社会の重要な概念の一つです。「人生80年」の今日、ある人の年齢を知れば人生途上のどの辺にいる人なのか、どのくらいの人生経験を積んできた人なのかが分かります。
 少年、若者、壮年、老年。各年代、年齢によって社会的に、学校、職場、老人クラブなどといった棲み分けが為されます。

 今は端的に「差別社会」「階級社会」化が進行中の社会と言えます。社会的地位、金銭の所有高という差別基準が最たるものですが、年齢もレッキとした差別基準になり得ます。もちろん年が若ければ若いほど優位に立てるわけです。 
 この土台にあるのは、「人間は生まれて、成長・発展して、衰えて、死ぬ」という栄枯盛衰の考え方であり、仏教で説く「生老病死」という四苦のサイクルです。

 これは「考え方」というより、人間世界を取り巻く「動かしがたい法則」と言ってもいいほどのものです。なぜなら身の回りの誰一人として生老病死を免れた人は見当たらず、遅かれ早かれ皆この世からいなくなってしまうのですから。
 しかし古来、この生老病死のサイクルから解脱し、常人では信じられない長命を生きた人はいたのです。もちろん人類総体に比して極めて少数ですし、そういう人はめったに俗界には姿を現しません。

 たとえば昨年ご紹介しました、笹目秀和師を導いた白頭山のリョ・リンライ神仙は当時(大正、昭和初期)二百歳、崑崙山のシュロ神仙に至っては五百歳なのでした。
 不可侵の神山だった20世紀前半頃までのヒマラヤ山中には、三百歳くらいのヨギ(真実のヨガの実践者)が何人も隠棲していました。

 ヨギを束ねるババジ大聖は、アガスティアの指導により千八百年前に完全解脱を果し、以後こちらの世界とあちらの世界の往還が自由自在です。歴史上の人物であるパタンジャリをはじめ近年のパナマハンサ・ヨガナンダなど、古来ババジに会って教示を受けた人は多くいるのです。ババジは、解脱した時の20代の美しい若者の姿を保持していると言います。

 「一人にとって可能なことは万人に可能である」。ごく少数とは言え、このような「奇跡の人」が存在している以上、私たちの「加齢とともに老化し死に至る」というのは間違った社会通念と把えるべきです。
 社会通念というより、強固な固定観念、人類全体の共同幻想と言っていいものです。社会の隅々にまで「死の観念」は潜んでいるからです。
 各個人で言えば、先祖代々遺伝的に受け継がれ、体のすべての細胞、いなDNAにまで刻まれているのです。生半可な理解ではこの呪縛は断ち切れず、老化を止めることは出来ません。

 私は年齢という概念を放棄します。「わたし」は年齢のない永遠の存在なのです。

 これはあるアファーメーション(自己宣言文)の一節です。ここで言う「私」とは肉体を絶えず意識している自己(小我)、「わたし」とは肉体を超えた真実の聖なる自己(大我、真我)と言うことです。
 「不死の達成」にせよ何にせよ、「聖なる自己」(わたし)とのパイプを太くし通りを良くすることがすべての幸福生活実現のキーとなりそうです。

 各種の行法ももちろん大切です。しかしすべての出発点は「思考」です。深い理解と感情を込めた「不死の深層自己説得」は、細胞にも届きDNAすら変えてしまいます。
 こういう不死の信念体系に切り替わった人が増えれば増えるほど、「肉体は死ぬ」という共同幻想、人類全体の悪しき集合意識に風穴を開けることが出来るのです。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『笹目秀和師に託された重要な大本神業』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-c6a2.html
『不死の探求』カテゴリー
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat44226317/index.html

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私たちの不死性

 最近の『「空洞地球」について語る時がきた(10)』で、空洞内部人やテロス人の「不死性」について触れました。ポーソロゴス図書館館長のミコスが、これについてメッセージしています。今回はこの一文をご紹介します。(適宜段替え、行空け、中略などをしています。)

 なお「ポーソロゴス図書館」とは、エーゲ海の真下の、空洞内の“カタリナ”という都市の洞窟内にある大図書館です。地球はおろか宇宙全体の歴史、博物などの記録を最大漏らさず保存している「多次元図書館」だそうです。
 古代において蔵書数70万巻を誇ったエジプトのアレクサンドリア図書館は、焼失したりキリスト教徒による破壊によって、歴史から消失してしまいました。が、大丈夫。ちゃんとすべての記録をポーソロゴス図書館が引き継いでいるそうです。「時至れば」、私たちも同図書館に案内されるといいます。

 同図書館館長の大聖ミコスは、元々は外宇宙から来訪し、地上に住むことなく空洞内部に向かった人だといいます。驚くべきことに年齢は48万3000歳余。にも関わらず、目は澄み切った光で輝き、皮膚は赤子のように柔らかく、身長は4.6m、頑丈で雄牛よりもパワフルだそうです。
 それを可能にしているのは、ミコスが「完璧な霊性」にとどまっていることにあるようです。  (大場光太郎・記)
                       *

私たちは年をとりません
 
 あなた方は、加齢は時間の経過の表れであると考えて、「日」、「時」、「秒」と数えては、それらすべてを自分たちの体の中に記録します。人々が年をとるに応じて、時間は経過します。建物が劣化するに応じて時間は経過します。これは地上における時間であって、それはすべて錯覚です。実際は時間は存在しません。存在し得ないのです。
 私たちが最高の例です。私たちの体は年をとらず、私たちの建物も劣化しません。

 インナーアースでは時間は存在しないのに、なぜ地上にだけ時間は存在するのでしょうか?あなたはそのように思うのではないですか?しかし、あなた方が考える時間が地上でいくら経過しても、私たちの体は若いままであるという事実は、私たちの生活が証明してします。
 あなた方は年をとることで時間を測りますが、私たちは年をとりません。私たちのために「時間が止まっている」のでしょうか?それとも、むしろあなた方がおかしな測定方法を利用しているのでしょうか?

 あなた方が年月を「年をとる」ものとして数えなければ、あなた方の体も年をとらなかったでしょう。もしあなた方が年月を「加齢」ではなく、太陽の周りを旅(回転)することとして数えていれば、30年は、30歳ではなく、30回転の旅となります。「旅(回転)」があなた方に年をとらせることはありませんが、「歳」は年をとらせます。
 もしあなた方が「歳」から「旅(回転)」へとただ言葉を換えれば、あなた方は不死を獲得します。すべてあなた方の信念と言葉にあります。あなた方の言葉と思考がそれをさせるのです。

 空洞地球では、私たちは決して加齢を考えないため、そのようなことはないことを理解しています。私たちは、あなた方が経験するのと同じような時間は存在しないことを理解しているのです。
 というのも、ここのすべてのものは永遠の「若さ」と「新しさ」の状態にあるからです。私たちの体を含めて、すべてのものは創造された時と同じぐらい新しく見えます。私たちは「時間が無い」環境において、聖なる完成状態で存在しています。

 あなた方は時間を止めることができます。瞬間ごとにただ自分自身を感じ始めて、その感覚と、自分自身のその意識を引き延ばしてみるのです。「時間」にとらわれることがなければ、あなた方は実際に自分たちの「時間」を広げ、若さを持続させることができます。もしそれがあなた方から消えれば、あなた方は立ち止まって、その瞬間に己を深く感じる時間を取り戻すことができるのです。それはすべて意識の問題です。
 もしあなたが一日自分を見失えば、人生の一部を失います。しかし、もしあなたが一日自分に気付いていれば、あなたは不死を得ます。なぜなら、あなたは「今」にフォーカスしているからです。

 (以上『空洞地球 ポーソロゴスの図書館ミコスからのメッセージ』より)

                       *
【注記】 健康で、若々しく、エネルギーに満ち溢れて永く生き続けるには、どうすればいいのか?今回のメッセージはかなりのヒントを与えてくれています。
 「不死の探求」は、当ブログの主要テーマの一つとして、今後とも折りに触れて取り上げていきたいと思います。そのため今回、『不死の探求』カテゴリーを新たに設けました。

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不老都市・テロス

 -超変革の今、私たちは「死」という強固な固定観念を打破すべき時期にきている-

 今年3月の『“蛍の光”は1万2千年前の歌?』シリーズの中で、レムリア滅亡を逃れた人たちによって創られたという、米合衆国カリフォルニア州のシャスタ山の地中都市・テロスのことを紹介しました。
 今回は『ついに実現した地下存在との対話』(ダイアン・ケビンス著、ケイ・ミズモリ訳-徳間書店刊)という著書の中から、私たち地上人の最も根深い固定観念を激しく揺さぶられそうな一文を、以下にご紹介します。(一部省略し、便宜上文と文の間をあけたりしました。)

 このメッセージを寄せたのは、1960年代テロスの大使として、地上(アメリカ)に現われたとされるシャルーラ・ダックス女史です。同女史はテロスの王・ラーと王女・ラーナムーの娘といわれ、本文は1990年代前半ある人が伝えられたものの一部です。
 シャルーラ女史はその後、テロスに戻ったようです。  (大場光太郎・記)  

                        *

死なないという思考形態を採用した人は、
テロスでも地上でも、実際年をとらないのです

 
テロスや他の地底都市においては、基本的に、人々は好きなだけ長く生きることができます。
 それは、地上にいる人々の加齢と死に対する認識が誤っていることを示唆しています。
 人類は年をとったり、死ぬことを意図されていません。

 人体の細胞はすべて7年毎に新しいものへと生まれ変わるので、遺伝子の分野で働く人々は、実のところ、人は7歳以上に年をとることはないことを理解しています。(中略)結局のところ、加齢や死に対する答えを見つけ出すためには、肉体を超えたレベルに行かなければならないということです。

 テロスにおいては、人々は老いたり、死ぬことを信じていません。彼らは好きなだけ生きられると知っているのです。学ぶべき教訓が残っていると感じて、再び生まれ変わるか、アセンションの道を選択する際に、肉体から離れるかどうかを選択します。そのいずれかです。
 その決断に600年要する者もいれば、300年で決断する者もおり、また5000年、1万年生きてもまだ決断すべき時ではないという人もいます。要は選択次第ということで、人類にはそれが可能なようにデザインされているのです。
 
 それは、私たちが地上にもたらしたい文化の最も重要な要素の一つです。

 人類はまさに自分たちの人生に何かを行うべき時にきており、すでに機は熟しています。もし加齢や死の思考が消えれば、若さは10年や20年ではなく、自分の選択次第で、数十万年でも維持できることを人々は悟り始めています。

 それはまた、人生における有害な振る舞いの大半を取り除きます。(中略)もし彼らが数百年・数千年、若さを保つことを選択すれば、そのような行動はまったく不必要になり、本当に成長を始めることを悟るでしょう。

 私たちは生物学的に地上の人々とまったく違いはありません。私たちのところには、数百年前にシャスタ山に残されたインディアンの子供たちがいます。彼らは今でも私たちと一緒に暮らしています。彼らは年をとりません。彼らは死にません。なぜなら、彼らは死なないという思考形態を採用したからです。生命・非生命・加齢・回春を生み出すのは思考にあります。将来、何が起こるかは、思考や信念次第です。

 そのことを私自身も体現しています。私は260歳を超えています。実のところ、私は268歳になります。(訳注:シャルーラがこの発言を行った1993年当時の年齢)。268年生きても、身体的には30歳の時と違いはなく、賢明になるだけです。それは、成長のための経験を得る時間を長く持っただけなのです。
 私の両親はさらに年齢を重ねています。テロスにはレムリアとアトランティスの戦争と崩壊を見てきた、3万歳を数える人々さえいます。
  (以上『ついに実現した地下存在との対話』よりの転載終わり)

ついに実現した地下存在との対話―アセンションの超秘密 アガルタ・ネットワーク/地底5次元文明との交信記録 (超知ライブラリー)

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老いない奇跡

 本日9月21日は「敬老の日」です。わが国の国民の祝日のうちの一日です。「国民の祝日に関する法律(祝日法)」では、「多年にわたり社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨とすると定められています。
 2002年までは毎年9月15日を敬老の日としていましたが、前年の祝日法改正(「ハッピーマンデー」制度の適用)により、2003年からは9月第3月曜日となりました。これにより今年のように、土曜日の19日を休日とすることにより、23日の秋分の日まで5連休となり(22日は振替休日)、5月の「ゴールデンウィーク」に対して新しく「シルバーウィーク」と呼ばれる年も出てきます。

 敬老の日のそもそもの始まりは、戦後間もない1947年(昭和22年)兵庫県多可郡野間谷村(現多可町八千代区)の村長らが提唱した「としよりの日」が始まりのようです。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、農閑期にあたり気候もよい9月中旬の15日を「としよりの日」と定め敬老会を開きました。これが1950年(昭和35年)からは兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がったもののようです。
 その後「としより」という表現は良くないということから、1964年(昭和39年)に「老人の日」と改称、1966年(昭和41年)正式に国民の祝日の「敬老の日」となりました。例えば5月の「母の日」はアメリカにならって導入された記念日ですが、敬老の日は日本独自の祝日であり諸外国には例がありません。  (フリー百科事典『ウィキペディア』「敬老の日」より)

 私も今年4月満60歳を迎えました。意識して気にしないようにはしていますが、「老い」という人類普遍の命題はやはり気になります。ご存知のとおりわが国は世界でも1、2位の長寿大国になっております。それは必然的に高齢化社会に突入していることを意味します。年々出生率が減少しているため、正確には「少子高齢化社会」です。わが国がかつて経験したことのないような、逆ピラミッド型の人口構成になりつつあるわけです。これが、就労人口の減少、福祉、医療費の増大など、現下の難しい社会的問題の一つとなっていて、有効な対応を迫られているわけです。


 私がもう一つ気になったのは、それでは「老人とは何歳からをいうの?」ということでした。『60歳はもう「老人」なのか?まさかそんなことはないだろう』。世の中全般が「こうだ」と物事を規定してしまうと、人はいつしかそれに無意識的に従ってしまう傾向があります。『世の中が老人というんだから、やっぱり年寄り然としていなければならない』というように。私は気になって調べてみました。そうしましたら、あくまで人口動態調査、統計上の数字ながら、
   15歳未満が、幼年人口
   15歳~64歳が、生産年齢人口
   65歳以上が、老年人口
というように大別されるようです。つまり「老人」とは一応65歳以上の方々を言うわけです。私は辛うじて後何年かのモラトリアム(猶予)期間があるわけで、少しほっとした気分です。

 でもそれでは65歳過ぎの方々が、皆々お年寄り然としているかというと、最近の高齢者はとてもお若くてお元気のようです。昨日たまたまテレビニュースを見ていましたが、「日韓交流おまつり」というようなイベントが、東京とソウルで同時開催され、東京の会場で新しくファーストレディになった鳩山幸さんがスピーチしていました。幸さんは66歳、れっきとした「老人」(もっと正確にいえば「前期高齢者」)なわけですが、壇上の幸さんの何と若々しいこと ! 容姿はもちろんながら、そのスピーチが歯切れのよい元気な声でとてもそんなお年には見えませんでした。

 どうも高齢になればなるほど、「若い感じ」「老けた感じ」という個人差がどんどん開いてくるように思われます。その差を現しているのは一体何なのでしょう?気力、精神力などといえば堅苦しくなります。簡単にいえば「生きよう」「生きるぞ」「元気で若々しく生きるぞ」という、「意欲」が強いか弱いかの差ではないのかなと思われます。それと難しいことながら、「自分が一番輝いていた若い時の姿」をいつも心のスクリーンに映し出しているかどうかでしょうか。
 かつてない超高齢社会を迎えつつある今日、何より元気で若々しくあることが、ご本人のためにも社会的要請としても今求められていると思います。

 本記事のタイトルは『老いない奇跡』です。実は本記事はこれをタイトルとする本をじっくりご紹介する予定でした。しかしもう紙面的余裕がありません。そこで取り急ぎー。
 この本は、「老いは必然なのか」という問題提起から始まって、「若返りは可能か」「いつまでも元気で若々しくあるためにはどうすべきか」などを、多角的に述べてあります。1993年アメリカで原書が発売された時は、9ヵ月にわたって全米ベストセラーを記録したそうです。

 誰かの言葉に、「体には栄養を、頭には刺激を、心には感動を」というのがあったように記憶しています。この本はまさに、体に栄養をは別として、「頭に刺激を」「心に感動を」十分与えてくれる本です。「意識」「生命」「若返り」の探求はここまで来たのか、と驚かされます。人類にとって不老不死も間近いんじゃないの、とも思わせられます。特に50歳以上の方には是非お奨めしたい本です。

    チョプラ博士の 老いない「奇跡」
     -「意識パワー」で永遠の若さを生きる
        (沢田博+伊藤和子=共訳)
      講談社刊  定価 1,800円(税別)

 (大場光太郎・記)

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