フォレスタの「カチューシャの唄」

フォレスタ   カチューシャの唄


 ここのところ『フォレスタコーラス』記事すっかりご無沙汰していました。が、最近、(以前フォレスタ記事によくコメントいただいた)東海林太郎様(改め高橋一三様)よりコメントあり、びっくりの情報が寄せられました。何と、中安千晶さんと吉田静さんが女声フォレスタから離れられるというのです。

 東海林太郎様は「また新しい記事を」とそれとなく要請されました。というわけで、またぼちぼち『フォレスタコーラス』記事を再開したいと思います。

 それにしても、昨年の白石佐和子さん、上沼純子さん、内海万里子さんに続いて、今回は中安さん、吉田さんまで活動休止とは。絶句です。お二人は同じ年で気も合う仲のようですが、いわば女声フォレスタの中核メンバーではないですか。

 特に私は数年前、過去何度も述べたとおり、フォレスタ動画がユーチューブに大量アップされた折り、たまたま『フォレスタの「別れのブルース」』を聴き、しびれるほど感激し、速攻で女声フォレスタと独唱した吉田静さんの大ファンになりました。そんな私からすれば(中安千晶さんはもとより)「吉田静さんのいない女声フォレスタなんて」という感を深くします。(フォレスタコーラス最初の記事-『美しすぎる「フォレスタ」』参照)

 本当に今後どうするんですかね、フォレスタは。と、つい要らざる心配をしてしまいます。

 フォレスタファンで、中安さん、吉田さん活動休止をご存知ない方は、以下の『フォレスタ通信』中の「What`s News?」

2018-01-13 「FORESTAフォレスタメンバーについてのお知らせ」
に、お二人の「休止のご挨拶」が出ていますのでそちらをお読みください。

「What`s News?」には別項目で「新女声メンバー募集」があります。中安さん、吉田さん2名の代わりとしてソプラノ、メゾソプラノ(アルト)各1名ということですが、それを読みますと「年間約70本のコンサート活動(地方・都内)、とあります。わぉー!ということは、月5、6回はコンサートということになります。スタジオ録画だけではないわけで、いかに全国からの要望が強いとはいえ、かなりの激務でしょう、これは。休止の5人はどうもこれを敬遠したのかな?と思わないでもありません。

 ともあれ、創設メンバーで唯一残ることになった小笠原優子さん、そして新加入の財木麗子さん、谷原めぐみさん、池田史花さん、加えて募集中で未知のお二人にがんばっていただくしかありませんよね。

                          *
 気を取り直して。フォレスタ記事再開の最初として『カチューシャの唄』を取り上げたいと思います。というのも、いつぞやの『ゴンドラの唄』記事末尾で、「女声フォレスタがまだ「カチューシャの唄」を歌っていないのは女声七不思議の一つです」というふうに、(当時はBS日テレフォレスタ担当の方がフォレスタ記事に訪問されているのを承知で)女声フォレスタが早くこの歌を歌ってくれるよう暗に催促したことがあったからです。(フォレスタの「ゴンドラの唄」参照)

『カチューシャの唄』については、10年余前既に「二木紘三のうた物語」中の『カチューシャの唄』にコメントしました。これは「同うた物語」2度目のコメントでした。そしてこれをきっかけに「同うた物語」各歌コメントに熱中し、引いては当ブログ開設にもつながったことを思えば思い出深いものがあります。以下に同コメントを転載させていただきます。

(転載開始)

 2年ほど前、二木先生の「MIDI歌声喫茶」に初めてアクセスし、曲のカテゴリーを見てためらわずに「戦前歌謡曲」をクリックしました。そしてその中の曲名一覧をたどって心の中で小躍りしながら真っ先に聴いたのが、この「カチューシャの唄」でした。
 私はいわゆる団塊の世代ですから、20代はフォークソング全盛、その後のニューミュージックの流れもだいたい分かっているつもりです。しかし、体内に「古い日本のDNA」を色濃く受け継いでいるのか、それとももう二度と戻ることのない古き良き時代へのノスタルジアなのか、年と共に古い時代の曲に惹かれるようになりました。
 「カチューシャの唄」。掛け値なしに良い歌です。二木先生の演奏も素晴らしいです。
 帝政ロシア末期の悲劇のヒロインが、この曲によって、遠く離れたわが国で、大正ロマン的意味合いをおびながら劇的に「復活」したということでしょうか。
 当時の唱歌など皆そうですが、おそらく作詞、作曲された方々の精神性が高かったのでしょう。日頃の世事、雑事でとかく曇り、汚れがちな心が、聴くたびに浄化されます。
 
 日本歌謡史のさきがけとなった歌に、最初にコメントできる光栄を感じつつ。

投稿: 大場 光太郎 | 2008年1月 5日 (土) 19時07分  (転載終わり)

「二木紘三のうた物語」中の『カチューシャの唄』より 
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/05/post_23d9.html

 実はこの歌の元となったトルストイ『復活』を一昨年読了しました。『復活』を読むのは私の中学時代からの宿題のひとつでしたが、以来55年ぶりくらいでやっと読み終えることが出来ました。そこでせっかくですから、読後感を記事にするつもりが、新潮文庫上下二冊の大作、どうまとめたものかと思案しながら結局記事化せず今日まで来てしまいました。

 『復活』を読むにあたっての最大の関心事は、もちろんこの歌のヒロイン・カチューシャが実際どう描かれているのか、ということでした。
「ウィキペディア」『復活』の項が簡潔にあらすじをまとめていますので、以下に引用してみます。

(引用開始)
 若い貴族ドミートリイ・イワーノヴィチ・ネフリュードフ公爵は殺人事件の裁判に陪審員として出廷するが、被告人の一人である若い女を見て驚く。彼女は、彼がかつて別れ際に100ルーブルを渡すという軽はずみな言動で弄んで捨てた、おじ夫婦の別荘の下女カチューシャその人だったのだ。彼女は彼の子供を産んだあと、そのために娼婦に身を落とし、ついに殺人に関わったのである。
 カチューシャが殺意をもっていなかったことが明らかとなり、本来なら軽い刑罰で済むはずだったのだが、手違いでシベリアへの徒刑が宣告されてしまう。ネフリュードフはここで初めて罪の意識に目覚め、恩赦を求めて奔走し、ついには彼女とともに旅して彼女の更生に人生を捧げる決意をする。 (引用終わり)

 これでもお分かりのとおり、メーンはネフリュードフとカチューシャの愛別離苦ストーリーです。ただそれとは別に、法廷での息づまる攻防の様子、劣悪な刑務所内部の状況、当時の帝政ロシア末期の農奴たちの悲惨な暮らし、それから搾取してぬくぬく贅沢三昧して生活している都会の上流階級の堕落ぶり、高位聖職者を中心とする退廃と信仰の矛盾点、当時勃興しつつあったロシア社会変革の夢に燃える若き社会主義活動家たちの様子、全囚人が徒歩でシベリアまで行く過酷さなどを克明に活写しています。世界的文豪・トルストイの代表作と言われるゆえんです。

 なおこの物語は、知人から聞いた実話を元にトルストイが組み立て直したもののようです。カチューシャのモデルとなった女性は罪を犯し実際シベリア流刑となり、同女に対する若い頃の過ちの贖罪から共にシベリアに行った富裕な男性もいたものの、『復活』とは違って同女はかの地に着いてまもなく病死したようです。

『復活』というタイトルには、イエスキリストが十字架上で死し三日目に蘇った(復活した)という新約聖書の故事を想起させます。トルストイの念頭にそのことがあったのは確実でしょう。十代後半の頃の過ちを悔い改め、久しぶりで意外な場所で邂逅したカチューシャを、法的にも霊的にも救済しようとするネフリュードフ公爵の姿はイエスキリストの小型版のようでもあります。そして今では売春婦に身をやつしその上殺人の嫌疑で裁かれようとしているカチューシャは、新約の中で群集の石打ちの刑で殺されかけた姦通の罪を犯した女とも。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」・・・「誰もあなたを罰しなかったのか。私も罰しない。さああなたも行きなさい。もう二度と罪を犯すことのないように」(『ヨハネ福音書』より)

                          *
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1 カチューシャかわいや わかれのつらさ
  せめて淡雪 とけぬ間と
  神に願いを(ララ)かけましょうか

2 カチューシャかわいや わかれのつらさ
  今宵ひと夜に 降る雪の
  あすは野山の(ララ)路かくせ

3 カチューシャかわいや わかれのつらさ
  つらいわかれの 涙のひまに
  風は野を吹く(ララ)日はくれる

4 カチューシャかわいや わかれのつらさ
  せめて又逢う それまでは
  同じ姿で(ララ)いてたもれ

5 カチューシャかわいや わかれのつらさ
  ひろい野原を とぼとぼと
  独り出て行く(ララ)あすの旅


 1914年(3年)3月、島村抱月率いる劇団芸術座3回目公演として『復活』が舞台化され、その劇中歌として舞台で主演の松井須磨子らが歌ったのが『カチューシャの唄』なのです。

 劇『復活』自体は、トルストイ原作のうち宗教的、社会的テーマはひとまず置いて、カチューシャとネフリュードフの悲恋物語に絞って上演したものです。これは泉鏡花の長編小説『婦系図(おんなけいず)』の内、大衆の圧倒的人気に応えてお蔦・主税(おつた・ちから)の悲恋物語『湯島の白梅』として再戯曲化したケースと類似しています。(フォレスタの「湯島の白梅」参照)

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左から松井須磨子、(前)島村抱月、(後)中山晋平、相馬御風

『カチューシャの唄』。作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。歌詞は上掲載のとおり1番から5番までありますが、1番だけを島村抱月が作り、2番以降は1番をなぞる形で相馬御風が作ったと伝えられています。

 また作曲した中山晋平としては、この作品が作曲家として初めて世に出した作品でした。当時中山は島村家に寄宿しており、島村から「学校の唱歌でもなく、西洋の賛美歌ともならず、誰にでも親しめ日本中がみんな歌えるものを作ってくれ」と指示されます。中山には無理な注文のように思われ、実際なかなか作曲が進まず思い悩んでいました。と、ある時、歌詞の合間に「ララ」という合いの手を入れることを思いつき、これが突破口となりようやく完成させることが出来たといいます。

 こうして生まれた『カチューシャの唄』は劇中で松井須磨子らによって歌われたことは前述しました。劇上演成功により東京はもとより全国主要都市公演を重ねたこともあいまって、やがてこの歌は当時としては驚異的な大ヒットとなりました。この年の8月には松井須磨子吹込みによりレコード化もされました。

 あまりの爆発的ヒットにより、各地の中学校、高等学校、女学校などでは風紀が乱れるなどの理由で、観劇及び歌唱禁止令が出たほどだったといいます。

 まさに私の上コメントどおり、この歌は「日本歌謡史のさきがけとなった歌」なのです。ともあれ、かくも格調高い歌が今日に至るわが国近代歌謡曲のさきがけとなったことに私たちは誇りを持っていいと思います。

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竹久夢二による『カチューシャの唄』楽譜表紙

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 女声フォレスタによる「カチューシャの唄」。

 歌うは6人の女声陣です。(画面左から)白石佐和子さん、内海万里子さん、上沼純子さん、中安千晶さん、吉田静さん、小笠原優子さん。この当時の女声フルメンバーです。

 私は『ゴンドラの唄』でまた、ゴンドラ独唱の小笠原優子さんの独唱で『カチューシャの唄』も聴きたいと、図々しい注文をつけました。さすがにこれはお取り上げいただけませんでしたが、このコーラス編成でオーケー、というよりベリーグッド!です。

 まず一番は6人全員によるコーラス歌唱、息がぴったり合っていていささかの乱れも見せていない見事なコーラスです。

 続く2番は噂の中安千晶さん。こういう純情系叙情歌は中安さん、白石佐和子さんとともにお手の物、さすがはしっとり聴かせてくれます。そして3番は上沼純子さん。上沼さんもどちらかというと純情系が得意分野と思しく、しみじみ味わいながら聴かせていただきました。

 そして4番と5番は再び全員による合唱。さすが全員音大卒らしい完成度の高いかつ大正ロマン髣髴の『カチューシャの唄』を聴かせていただいております。この歌にはうるさい余も満足じゃ、です(笑)。

 既に見てきたとおり、このうちの5人が一時休止とはいえフォレスタを離れ、唯一小笠原優子さんだけが残られることになったわけです。中安さん、吉田さんとも、「フォレスタとして皆様とまたお会いできる日が来るまで」というようにご挨拶では述べておいでです。でも私の予感では、(寂しいことを言うようですが)お二人とももう戻られることはないのではないか、そんな感じがしてならないのです。

「カチューシャ可愛いや 別れのつらさ せめて又逢う それまでは 同じ姿で(ララ)いてたもれ」
 お二人ともお元気で、今後ますます活動の幅を広げていってください。陰ながらいつまでも応援しております。

 (大場光太郎・記)

参考記事
昔新聞・大正時代の記事|芸能 「カチューシャの唄」100年(朝日新聞デジタル)
http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/mukashino/2014040900001.html

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フォレスタの「一月一日」



    一月一日   (作詞:千家尊福、作曲:上眞行)

年の始めの 例(ためし)とて
終(おわり)なき世の めでたさを
松竹(まつたけ)たてて 門ごとに
祝(いお)う今日こそ 楽しけれ

初日のひかり さしいでて
四方(よも)に輝く 今朝のそら
君がみかげに比(たぐ)えつつ
仰ぎ見るこそ 尊(とお)とけれ


新年明けましておめでとうございます。
本年も当ブログよろしくお願い申し上げます。



 元旦ということで、ご存知の小学唱歌『一月一日』を取り上げてみたいと思います。歌うはフォレスタコーラス。こちらも久しぶりの登場となります。

 まず題名の『一月一日』について。
 私たち現代日本人は、つい「いちがつついたち」と読みそうになります。しかし実際には「いちげついちじつ」が正式な読み方です。

 題名からして何やら肩の凝りそうなしゃちこばった読み方ですが、それもそのはず。この歌は、文部省が小学校の祝祭日に行う儀式で歌う曲を選定し、明治26年(1893年)に「祝日大祭日唱歌」として官報で公布した歌の一曲だったのです。

 実際の歌詞となるとさらに格調高く、よくも当時の小学生は歌えたものだなあ、本当に意味が分かっていたのだろうか、と思われるような文語体の難解な内容です。そこで参考まで、分かりやすく現代風に意訳したものを以下に掲げてみます。

【歌の意味】

【一番】
一年の初めに行う決まりごとの風習として
今の天皇陛下の御代が、終わりなく繁栄し続けることを願って
門松を家ごとに門に立て並べて
ご近所みんなでお祝いする今日は とても楽しいことですね

【二番】
初日の出を見ていると、徐々に光が空に差してきます
四方が曇りなく輝く今朝の空模様は元旦に相応しく、めでたいですね
この空の様子と重ねて天皇陛下のお姿を思い浮かべると
このように空を仰ぎ見ることが、天皇陛下を称える尊い気持ちになります


 一月一日(元旦)を祝う歌であると共に、(現憲法のような「国民統合の象徴」としてではない)「国民が伏して拝むべき現人神」としての(明治)天皇を崇め奉る歌でもあったわけです。2番の「君がみかげ」はずばり「大君・おおきみ(天皇)の御真影」ということです。なお、明治天皇がどういう「訳有り」の事情で即位したかなどという近代日本史上最深刻な問題には、(他記事で取り上げましたから)ここでは触れないことにします。

 一月一日という曲はこの他に小山作之助作曲、稲垣千頴作詞によるものもありますが、「年の始めの 例とて・・・」の、千家尊福(せんげ・たかとみ)作詞、上眞行(うえ・さねみち)作曲のこの歌がダントツで有名になりました。

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 ちなみに作詞した千家尊福は出雲大社第80代出雲国造でした。そのため出雲大社神楽殿東側に「一月一日」の歌碑(上画像)が建っています。

 上のような天皇賛歌という側面は別として。この歌は確かに、軽快で、目出度さ上々の元旦気分に浸れる歌だと思います。

 そのせいか、フジテレビ系列で毎年お正月に放送される「新春かくし芸大会」のテーマソングとしても有名です。

参考動画
(2016.01.10) 一月一日/萩原舞   (こちらは綺麗な振袖姿の今時ギャルたちの華やかさ満点の「一月一日」。ただしフジの「新春かくし芸大会」ではないのかも。)
https://www.youtube.com/watch?v=EPy7cAyrxzs

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 フォレスタコーラス記事。気にはなっていました。

 実際、旧年もフォレスタの歌った「あの歌、この歌」が何曲も去来したのです。が、いざ記事にしようとすると中途半端なものにはしたくなく、なかなかまとめきれませんでした。加えて、現下の厳しい経済情勢下「一に業務、二に業務、三四が無くて五にブログ」とせざるを得ない状況でありますこと、フォレスタファンの方々にはご理解賜りたいと存じます。

 今年はもう少し肩の力を抜いて気楽に、短めのフォレスタ記事がいくつか出せれば、と考えています。深刻な政治記事ばかりでは作成している私自身ついネガティブ思考に陥ってしまいがちですから。

 フォレスタが歌っているのはいずれも往年の名曲です。聴いていて本当に心癒されますよね。どれも皆、今後とも末永く歌い継いでいってもらいたい良い歌ばかりです。

 ということで、今回の『一月一日』についてです。

 男声7人、女声6人、合計13人混声による現フォレスタフルメンバーによるコーラスです。 女声では小笠原優子さん、男声では塩入功司さんも加わっています。

 『フォレスタの「流浪の民」』でも触れましたが、フォレスタメンバーは全員が音楽大学(または大学院)卒業です。歌唱力や歌唱理論は完璧、事実一人ひとりがソロを張れる実力者揃いです。

 そんな彼らが、この歌では誰が主役ということではなく、心を一つにしての斉唱です。西洋のキリスト教的終末観とは違う、「終わりなき世のめでたさ」の弥栄(いやさか)を寿ぐ歌が、力強く荘重に歌いあげられていて圧巻です。

 (大場光太郎・記)


引用・参考にさせていただいた記事
一月一日「年の初めの」で始まる歌タイトルの読み方は?意味は? (「闘う嫁のマナーノート」サイト)
http://yomemanners.com/1487.html
一月一日(年の始めの ためしとて) (「世界の民謡・童謡」サイト) (歌詞と途中の画像を拝借しました。)
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/ichi.htm
関連記事
フォレスタの「流浪の民」
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-15bd.html

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フォレスタの「追憶」


 久しぶりの「フォレスタコーラス」記事です。

 今回取り上げるのは『追憶』です。

 「追憶」には「懐かしい過ぎ去った事を回想する」という意味合いがあるかと思いますが、この歌自体が「懐かしい」ですね。これは私だけではなく、これをお読みの多くの方がそうだと思いますが。今はどうか知りませんが、私の場合小学校高学年に音楽の授業で習い『いい歌だなあ』と思った記憶がありますから。

 今回分かりましたが、元々はスペイン民謡とのことです。

 しかし日本では昭和14年(1939年)に邦訳として発表されましたが、その時はアメリカの賛美歌『Flee as a Bird』を元にしたそうです。訳詞者は古関吉雄(こせき・よしお)という人です。この人は1908年福島に生まれ、東京帝国大学国文科卒で明治大学国文科教授だったというくらいしか分かりません(没年不詳)。

 アメリカの賛美歌『Flee as a Bird』は、アメリカの女流詩人、作曲家のメアリー・ダナ(1810~1883)が1841年に発表した曲だそうです。賛美歌である以上聖書的な背景が原詞にはあり、旧約聖書『詩篇第11』を元に作られたのだそうです。

 それはどういう内容かといえば、

  わたしは主に寄り頼む。
  何ゆえ、あなたがたはわたしにむかって言うのか。
  「鳥のように山に逃れよ。(以下略)」 (日本聖書協会口語訳より)

ということのようです。

 『詩篇』の編者とされるダビデ王(紀元前十世紀頃)ですが、ある時、それまで仕えていた初代イスラエル王サウルの妬みにより追われる事態となります。その時友人たちが、ダビデに忠告として言ってくれた言葉だったのです。それに対しダビデは、「ご助言どうもありがとう。しかしわたしはただただ主に寄り頼むのみ」という強い信仰心を示したというのです。

 『知らなかったなあ。この歌にそんな背景があったなんて!』

 以上のような次第なのにどうして今日でも「スペイン民謡」とされているのか、それはよく分からないようです。あるいは新大陸アメリカには歌の分野でもイギリスやヨーロッパ各国からさまざまな歌が持ち込まれ、メアリー・ダナは元々スペイン民謡だった曲に多少のアレンジを加えて賛美歌として作り直したものでしょうか?

 そんな経緯を抜きにしても、掛け値なしに好い歌には違いありません。

 歌詞を紹介できないのが残念ですが、古関吉雄の邦訳は詩的香気も高く、賛美歌を離れて日本的叙情性に溢れた歌詞となっています。習い初(そ)めてから何十年も経ってあらためて聴き直すに、過ぎ去った懐かしい「あの時かの時のさまざまな場面」が思い起こされてきます。

 「過ぎ去りし事ども、皆美しき」
 たとえその時は辛く、苦しく、悲しく、惨めで、罪に感じたような出来事だったとしても 。「澄みゆく心に しのばるる昔 ああ懐かしその日」 この歌が、「すべての経験は必要、必然、ベストだったのだよ」と、やさしく肯定してくれているようです。

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 フォレスタは最近特に、『えっ、フォレスタがまさかこんな歌を歌ってくれたの!?』と、つい嬉しくなってしまうような意外な歌を歌ってくれる事があります。例えば・・・、とつい漏らしちゃいそうになりますが、動画にもアップされていますが、ここでは言わずにおいおい取り上げていきたいと思います。

 もちろん『追憶』もそうです。小学生以来滅多に聴く機会がありませんでしたが、まさかこの歌がフォレスタで聴けるとは思いませんでした。

 歌うは、中安千晶さん、上沼純子さん、内海万里子さんの三女声です。この三人は『蘇州夜曲』『東京行進曲』など、今や女声フォレスタの一バージョンとしてすっかり定着した感がありますね。

 1番は上沼さんの独唱、2番は中安さんの独唱が主体で、後半のフレーズから後の2人の重唱が重なります。

 三人は一くくりに「ソプラノ」ということになりますが、声質や個性の違いがもちろんあるわけです。だから上沼さんと中安さんはおなじ歌でも微妙に違って感受されます。その辺もフォレスタというコーラスグループの歌を聴くときの味わいの一つと言うべきなのでしょう。

 いやあ、とにかく「懐かしい良い歌」を歌っていただきました!

 (大場光太郎・記)

なお、本記事は以下のサイトを参考にまとめました。
『世界の民謡・童謡』
「追憶(星影やさしく またたくみ空)」
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/tsuioku.htm
「Flee as a Bird フリー・アズ・ア・バード」
http://www.worldfolksong.com/hymn/flee-as-a-bird.htm

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フォレスタの「リンゴ追分」

 

 フォレスタコーラス記事、だいぶ間隔が空いてしまいました。

 これは年初以来、世界とわが国を揺るがすような大事件が立て続けに起こり、私の関心がもっぱらそちらに向いがちだったことが第一点です。

 次に、1月半ば頃「on ojisan」さんご提供のYoutube動画で、小笠原優子さん独唱による『リンゴ追分』を見つけ、早速聴いて感激し、予定していた2、3曲を飛ばして記事にしようとしていたところ、あれれれっ、ほどなくon ojisanさんがご自身の都合でアップ動画をすべて削除してしまいました。

 ただ、また同じ人だと思いますが、最近「uta no ojisan」と言う名前でフォレスタ曲などを再度動画アップしてくれています。幸いその中に『リンゴ追分』がありましたので、今回久しぶりのフォレスタ曲としてこの歌を取り上げることにした次第です。

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 まず、『リンゴ追分』についてざっと見ていきたいと思います。

 『リンゴ追分』は『津軽の故郷』と並んで、ラジオ東京(現TBSラジオ)の開局を記念して放送されたラジオドラマ『リンゴ園の少女』(1952年4月)の挿入曲として作られました。同年11月には当時15歳だった美空ひばりの主演によって『リンゴ園の少女』が映画化されましたが、『リンゴ追分』が主題歌として使用されました。

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 日本コロンビアからシングルレコードとして発売されたこの歌は、当時としては戦後最大となる70万枚を売り上げ、最終的に130万枚のミリオンセラーとなりました。これは美空ひばりの全シングル売り上げの歴代5位となります。

 関心がおありの方もおいででしょうから、参考まで「美空ひばりシングル売り上げベストテン」を以下に掲げてみます。

1.柔(1964年)-190万枚 ※第7回日本レコード大賞受賞曲
2.川の流れのように(1989年)-150万枚 ※第31回日本レコード大賞特別栄誉歌手賞受賞曲
3.悲しい酒(1966年)-145万枚
4.真赤な太陽(1967年)-140万枚
5.リンゴ追分(1952年)-130万枚
6.みだれ髪(1987年)
7.港町十三番地(1957年)
8.波止場だよ、お父つぁん(1956年)
9.東京キッド(1950年)
10.悲しき口笛(1949年)  (『ウィキペディア』より)

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 なお歌の元となった「追分」とは、道が二つに分かれる場所をさす言葉です。さらに言えば「牛を追い、分ける場所」を意味していましたが、そこから街道の分岐点も意味するようになり、甲州街道と青梅街道の分岐である新宿追分や、中仙道と北国街道の分岐である信濃追分など、各地に地名として残っています。

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(日永追分-三重県四日市市。右が東海道、左が伊勢街道)

 さらにそこから派生したのが、上の地名を冠したわが国民謡の一種(追分節)の略称として用いられることもあります。(以上『ウィキペディア』より)

 そのような追分節の伝統を踏まえて、歌謡曲のこの歌は作られたわけです。タイトルからして地名ではなく何と『リンゴ追分』。作詞した小沢不二夫の発案なのかどうかは不明ですが、意表をついたグットアイディアだと思います。

 当たり前にこの歌を聴けば、リンゴ園の少女(津軽娘)と若い男との悲しい別れ歌かと思ってしまいます。しかし、今回のフォレスタコーラスにはありませんでしたが、元々この歌には次のようなセリフが挿入されていました。

(セリフの一部-セリフ全体は少し長い)
 おらあ あの頃東京さで死んだお母ちゃんのことを想い出すって

 発表された昭和27年から見て「あの頃」とは、戦争中と考えていいのでしょう。
 元は東京で暮らしていた家族が、戦争が激しさを増すにつれて娘は学童疎開で父か母の実家か親戚筋のリンゴ園に引き取られた。そして運命の昭和20年3月10日の東京大空襲などで母(父は戦死か?)が亡くなってしまった。死に目にも会えなかったお母ちゃん、リンゴの花びらが風に散るのを見てさえ、おらあ悲しいよぉ・・・。

 そんなストーリーが思い浮かびます。これは、当時の国民の多くが「共有できる悲しみ」だったはずで、歌自体のよさに加えて、そのことも爆発的ヒットとなった理由なのではないでしょうか?

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 「♪りんごの花ほころび 川面に霞たち ・・・」(ロシア民謡『カチューシャ』より)

 『リンゴ追分』で詠まれている「リンゴの花」ですが、上の画像どおり、若葉と同時に花を咲かせ、白い中にほんのり紅い色合いがあり、間近でよく見るとハッと息を吞むような美しさがあります。それが「風に散ったよな」の時期の歌なのですから、悲しみもまた格別でしょう。

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 この歌の舞台となったのは青森県弘前市のリンゴ園だったようですが、そこは今は弘前市「リンゴ公園」となっていて、上画像のようにこの歌の歌碑が建てられています。また弘前市では毎年5月に「全日本リンゴ追分コンクール」が開催されているとのことです。

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 小笠原優子さん独唱担当曲として、既に『津軽のふるさと』があり、フォレスタ動画の中でも再生回数が極めて多く根強い人気曲となっています。

 『津軽のふるさと』『リンゴ追分』の両曲とも映画『リンゴ園の少女』で美空ひばりが歌い、ともに津軽(青森県)を舞台とした歌です。そして小笠原さんは青森県出身なわけですから、「この人を差し置いて他に誰がいる」となるわけです。

 両曲を比較した場合、共に米山正夫作曲であり、戦後間もない頃の名歌謡曲であることは言うまでもありませんが、『リンゴ追分』の方は途中に「えええええええ・・・」という節回しが入っているように、多分に民謡調(追分節)を意識した曲となっています。

 (青森県出身の大歌手・淡谷のり子と同じく)東京音楽大学卒業の小笠原さんですが、西洋の音楽理論や歌唱法はみっちり学んだことでしょうが、日本民謡は教程外だったはずで、その面で『リンゴ追分』の方が歌うには難しいのではないでしょうか?

 にも関らず、いとも簡単に歌いきっておられます。これは小笠原さん自身「津軽娘」だったこともあり、あるいは少女時代から慣れ親しんだ歌だったのでしょうか。“ひばり節”とはまた違った、味わい深い「小笠原優子のリンゴ追分」になっていると思います。

 この歌はやはり思い入れの深い歌なのに違いありません。小笠原さんには既に多くの独唱担当曲がありますが、通常はあまり感情を表に出さず淡々と冷静に伸びのある美声で歌っていたかと思います。が、この歌に限っては、歌い進むほどに情感が高ぶってきたか、熱い想いが伝わってきました。珍しいほどの「熱唱」です。

 バックコーラスの中安千晶さん、吉田静さん、内海万里子さん、白石佐和子さん、上沼純子さんの5女声、いささかの和の乱れもない、小笠原さんの独唱を盛りたてる息の合ったコーラスで素晴らしいです!どなたなのか、民謡調のピアノ伴奏もまた良し!

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(1月大手町コンサートにて。画像は小笠原さんブログよりお借りしました。)

 小笠原さん復帰後の女声各メンバー、本来の生き生き、のびのび感を取り戻し、ぐっとコーラスグループとしての安定感が増したように感じられるのは私だけでしょうか?やはり女声フォレスタに小笠原優子さんは欠かせません!

 (大場光太郎・記)

参考
『リンゴ追分』歌詞(セリフ入り)
http://www.uta-net.com/song/13844/
関連記事
『フォレスタの「津軽のふるさと」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-c23c.html

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フォレスタの「東京行進曲」

 
 フォレスタファンの皆様、新年おめでとうございます。今年も当「フォレスタコーラス」記事をよろしくお願い申し上げます。

 当フォレスタコーラス記事は、タイトルが『フォレスタの「○○○○」』と銘打っているとおり、おおむねフォレスタが既に歌った歌について述べていくスタイルです。だいたいの記事構成は、まずその曲の成立年代や作詞者・作曲者・最初歌った人のこと、当時の時代背景などをご紹介し、最後にフォレスタによるコーラスについての私なりの感想を加える、と言うようなパターンです。

 早いもので、2012年1月14日の『美しすぎる「フォレスタ」』以来ほぼ満3年になりますが、当初からいろいろ試行錯誤した結果、少しマンネリ化しているかもしれませんが、現在のような組み立てに落ち着いたものです。

 選曲に当たっては、私自身の“独断と偏見”に基づいて、Youtube動画にアップされている、その時々に気に入ったフォレスタコーラス曲について取り上げているわけですが、まずもって私自身その歌について、もっと深く知りたいと言う欲求があります。

 もちろん知っていた事もありますが、国内、国外を問わず名曲として今に残っている歌には知られざるエピソードがけっこう多くあるもので、作成過程でウィキペディアなどを当たりながら、私自身『へぇ~、そうだったんだ~!』と、「目からウロコ」がしばしばあります。フォレスタファンの皆様にとっても、その歌の背景などを知っていただけたら、そのフォレスタ曲をより深く味わっていただけるのでは?と考えている次第です。

 場合によっては、その歌を私の思い出などに引きつけた話を述べる場合もあります。これは、人一倍「自分大好き人間」で「自分話」が三度の飯よりも好きなためと(笑)、その歌の印象をより強められればなどと考えてのことですが、フォレスタコーラスから逸脱する場合がままあり、反省・自戒しなければなりません。

 ともかく、こういう記述が邪魔くさい方は飛ばしていただき、最後のフォレスタコーラスに関する箇所だけをお読みいただいても一向にかまいません。(冒頭の動画は何度もお聴きください。)

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 と、余計な前口上をつい長々と述べてしまいました。

 
 今年1年のスタートに当たり、パーッと一丁、景気づけに「行進曲」などいかがでせう。と言うことで、『フォレスタの「東京行進曲」』を取り上げてみました(笑)。

 そもそもこの『東京行進曲』、私の好きな歌の一つで、それが証拠に、国民的音楽サイト『二木絋三のうた物語』の前身の『MIDI歌声喫茶』の頃から、『カチューシャの唄』『サーカスの唄』『別れのブルース』『湖畔の宿』などとともによく聴いていました。(それにしても、みんな古い歌ばかり。私も古いねぇ-苦笑)


 『東京行進曲』は昭和4年(1929年)5月ビクターレコードから発売され、25万枚を売り上げる大ヒットとなりました。作詞は西條八十(さいじょう・やそ)、作曲は中山晋平(なかやま・しんぺい)という、(既に当ブログフォレスタコーラスでも西條作品として『花言葉の唄』『かなりや』『蘇州夜曲』、中山作品として『船頭小唄』『雨降りお月さん』『ゴンドラの唄』を取り上げていますが)今からみれば日本近代歌謡史上不朽の二人による作品です。

 この題名は、2年前「ただぼんやりした不安」と謎の言葉を残して自殺した芥川龍之介の衝撃で、暗いムードが漂い出した世の中の雰囲気を変えようと、作詞した西條八十が発案したのかと思いきや。

 実はこの歌は、同名の『東京行進曲』という映画(日活-原作;菊池寛、監督;溝口健二、主演;夏川静江、入江たか子)の主題歌として作られたのです。そしてこの歌がわが国における映画主題歌の第一号となったのでした。
(作家の菊池寛は芥川の親友で、後々語り草となる名弔辞を読んだり「芥川賞」を創設したりしたくらいでしたから、あるいは原作者の菊池にそういう意図があったのでしょうか?)

 歌ったのは佐藤千夜子(さとう・ちやこ)です。
 佐藤は山形県(現)天童市出身です。地元での幼少時代、外国人伝道師に歌の才能を見出され高等小学校卒業とともに上京、やがて東京音楽学校(現・東京藝術大学)を卒業しました。レッキとした声楽家だったわけですが、たぶん同大後輩で主席卒業の藤山一郎と同じ生活上の理由からなのでしょうが、歌謡曲歌手の道に進み日本初のレコード歌手となりました。

 佐藤千夜子の歌としては、『紅屋の娘』(『東京行進曲』B面)『影を慕いて』『黒ゆりの花』などが有名ですが、最大の大ヒットがこの『東京行進曲』で、この歌によって佐藤は全国区のスターになったのでした。

                       *
 これからは『東京行進曲』の歌詞について見ていきたいと思います。

 この歌全体としては、当時流行語となった「モボ・モガ」を活写しています。
 モボ・モガはモダンボーイ、モダンガールの略ですが、大正末期から昭和初期に西洋文化の影響を受けて新風俗や流行スタイルとして現れた当時先端的な若い男女のことです。

 モボ・モガは西條八十より一世代以上若い層ということになりますが、西條は東京府(とは当時呼称)牛込区(現・新宿区)出身で自身がシティボーイでしたから、彼らの生態を知悉し、少し(大いに)誇張して描いているわけです。

「ジャズ」「リキュル」「丸ビル」「ラッシュアワー」「地下鉄」「バス」「シネマ」「小田急」「デパート」・・・。これらが昭和4年の東京を表わす、この歌の歌詞に散りばめられたキーワードです。もう85年以上前なのに、平成今日でも通用するキーワードが幾つもあります。物は試し、当時の東京銀座・浅草のようすが映し出されている佐藤千夜子の『東京行進曲』動画がありますので、興味がおありの方はお聴きください。

https://www.youtube.com/watch?v=gY9u5FPyAis

 西條八十の歌詞は平易で、全体通して聴けば大体の意味はわかるはずです。ここでは特に注釈が必要と思われる二点について、ざっと見ていきたいと思います。

(1) 1番「昔恋しい 銀座の柳」
 と言うことは、この頃の銀座に「柳」は既になかったということです。しかしこの歌の大ヒットにより、昭和12年(1937年)、銀座に再び柳並木が復活しました。それを記念して、この年やはり西條・中山コンビで『銀座の柳』(歌;四家文子)という歌が作られました。ただし『東京行進曲』ほどにはヒットしませんでした。

(2) 4番「いっそ小田急で逃げましょか」
 もうこの頃では、東京では小田急以外にも東急、西武鉄道が私鉄近郊線として走っていました。確か猪瀬直樹の力作『ミカドの肖像』の中でも触れられていたかと思いますが、大正年間既に、戦後今日の大衆消費社会の原型が出来つつあり、その象徴となったのが東京や大阪近郊のベットタウン化を促した私鉄の開通だったのです。

 と言うことはさておき。このフレーズから当時「小田急(おだきゅ)る」と言う言葉がはやったそうです。と、その時、小田急の重役がビクターに「東京行進曲の制作責任者を出せ!」と、えらい剣幕で乗り込んできたそうです。重役さんのお怒りは、当時小田急と言うのは通称で「小田原急行鉄道」が正式名称だったのに略されたことに加え、さらに許せないのは「うちの電車を“駆け落ち電車”とは何事だ!」と言うことだったのです。

 なるほど、お怒りごもっとも。がしかし、その後社名が(今日に続く)小田急電鉄に改称されるや、「会社の宣伝になった」ということで、西條八十は小田急から「永久全線無料パス」を支給されたと言うことです。

 なおこのフレーズ、当初は「長い髪してマルクスボーイ今日も抱える『赤い恋』」だったそうですが、当局を刺激してはまずいと言う配慮から現在の“小田急駆け落ちフレーズ”に改めた経緯があったのだそうです。(※ 昨年特定秘密保護法との比較で問題視された治安維持法は、大正時代成立当初は共産主義者の取り締まり目的だった。)

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『フォレスタの「東京行進曲」』についてです。

 歌うは、上沼純子さん、内海万里子さん、中安千晶さんのソプラノ3女声です。この女声ユニットとしては、私としても記憶に新しい『蘇州夜曲』(新バージョン)がありました。歌う順番も『蘇州夜曲』と同じく、1番は上沼さん、2番は内海さん、3番は中安さんです。ただ『東京行進曲』は4番までありますので、ラストは全員で歌って締めくくっています。

 フォレスタコーラス全般として、なぜこの歌にこの組み合わせ?という選考基準など、私のような部外者には知る由もないわけですが、この歌といい『蘇州夜曲』と言い、なるほど聴くほどに理に適ったメンバー構成に思われ、『このユニット、なかなかいいねぇ』と納得してしまいます。

 この歌では、特に1番独唱で中央のポジションに位置する上沼純子さんに注目してみたいと思います。上沼さんにつきましては、一昨年12月公開の『フォレスタの「星の流れに&東京ブルース』の中で、以下のように寸評しました。

 上沼純子さんの独唱曲、申しわけありませんが今までじっくり聴いてこなかったのでコメントのしようがありません。上沼さんのソプラノの声質は良く言えば華やか、(ごめんなさい)悪く言えば少し尖った感じがします。「さてどんなジャンルがベストか?」と思案中(?)です。ただ『星の流れに』の元歌を歌った菊地章子の声質に何となく似ているところもありそうです。(引用終り)

 大変失礼な物言いだったかもしれませんが、引用の両歌にあって、たとえば『東京ブルース』の吉田静さんの1番ソロ後半の全体コーラスパートで、私は吉田さんの歌声をじっくり聴きたいのに、上沼さんの声が何か自己主張しているように大きく、正直邪魔くさいな、と思ったものですから、つい。

 それと上沼さんについては、その頃アップされていた動画の上沼さんを拝見するに、特に正面アップの時、なんとなく目が吊り上がった“狐顔”の印象があり(またまた大変ごめんなさい!)、『うわぁ、この人はちょっと・・・』と引いてしまったところも正直ありました。しかしこれは今思えば、小笠原優子さん、矢野聡子さんという超人気の両先輩が休止で、両人と入れ替えという、大変なプレッシャーによる緊張感が顔に出ていたせいだったのでしょう。

 最近は“慣れ”と“小笠原さん復帰効果”によるものか、だいぶリラックスしてきたようで、お顔も本来の柔和な美人顔を取り戻され、何よりです。

 つい余計なことを申しましたが―。
 この『東京行進曲』の上沼純子さんの歌唱、私は買いますね。(内海さん、中安さんの歌唱も、もちろんいいですけれども。) こういうアップテンポの曲に、上沼さんの「華やかな」声質が合っているのでしょうか?各番の全体コーラスパートでも、上沼さんの声は以前のようではなくほどよく抑制されていますが、それでいてしっかり効いています。

 それに、上沼さんのこの歌のヘアースタイル、昭和初期流行した(モガにとっての花形の職業)カフェの女給さんの髪形のようです。

 中山晋平のこのメロディは、いわゆる「ヨナ抜き」であるようです。それと、これはどなたなのか、軽快なピアノ演奏を聴いての私の当てずっぽうな感じですが、この行進曲のテンポは、昨年の『美しき天然』で少し触れた「ジンタ」-チンドン屋など市中音楽隊-の「ジンタカタッタ、タッ、タッ、タッタ・・・」という調子のいいリズムを意識的に取り入れたのかな?と思ったりもします。

 この歌のように、軽快にハイカラに、少しは羽目を外すくらいチャレンジもして、この一年の一日一日を明るく前向きに「行進」していきたいものです。

(大場光太郎・記)

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フォレスタの「庭の千草」

小学唱歌集 第三編
作詞 里見義
アイルランド民謡

庭の千草も むしのねも
  かれてさびしく  なりにけり
あゝしらぎく 嗚呼白菊
  ひとりおくれて さきにけり

露にたわむや 菊の花
  しもにおごるや きくの花
あゝあはれあはれ あゝ白菊
人のみさをも かくてこそ


 9月26日、nonnta1944さんが『フォレスタ 庭の千草』をYoutubeにアップしてくれたおかげで、今年の秋は「庭の千草三昧」、ずいぶん視聴させていただきました。

 そこで、菊が旬となる11月中にこの記事をまとめる予定でいました。しかし諸般の事情により延び延びとなり、早やクリスマスどころか「♪もういくつ寝るとお正月・・・」の12月半ば過ぎとなってしまいました。上の『庭の千草』の歌詞どおりいくら寒さに強い菊とは言え、さすがに残菊の風情、ともすればすがれた無残菊の姿となってしまいました。

 しかしこのフォレスタ記事を年内に書いてしまわねば、どうにも年が越せない落ち着かない心持ちなもので、今回こうして取り上げることにした次第です(笑)。

                       *
 『庭の千草』は、日本的な歌のひとつとして長く歌い継がれてきました。しかし既にご存知のとおり、日本で作られた歌ではなく、アイルランド民謡に里見義(さとみ・ただし-1824~1886)が日本語の訳詞をつけたものです。

 1884年(明治17年)6月、文部省音楽取調掛編纂『小学唱歌集 第三編』に掲載されました。

 しかしこれにはもう少し説明が必要です。「アイルランド民謡」と言うことについてです。

 確かに原曲は古くからのアイルランド民謡がベースにあることに違いはありません。が、この歌が世界的に広く歌われるようになったのは、18世紀アイルランドの詩人のトーマス・ムーア(1779~1852)が、エドワード・バンティング(1773~1843)のアイルランド民謡集に収められていた『ブラーニーの木立(The Groves of Blarney)』に自作の詩をつけて発表したことによってでした。

 トーマス・ムーアの詩は、それとは内容がまったく違う、『夏の名残のバラ(The Last Rose of Summer)』です。

 そして彼が作詩のもとにした『ブラーニーの木立』そのものが、『ハイド城(Castle Hyde)』というアイルランドの古い民謡を元にしており、それにリチャード・アルフレッド・ミリキン(1767~1815)が古い民謡を大きく書き換えた旋律をつけたのです。

 少し話がややこしいかもしれませんし、私も元々の『ハイド城』というアイルランド古謡がどんなメロディだったのか知る由もありませんが、いずれにせよ今日世界中で愛唱されている『The Last Rose of Summer(夏の名残のバラ)』は、トーマス・ムーア作詩、そしてリチャード・アルフレッド・ミリキンによる作編曲と言っていいものです。

 なおトーマス・ムーアは、日本でもこれまたよく歌われている名曲『春の日の花と輝く』の作詞者でもあります(原題「Belive Me,if All Those Endearing Young Chams」)。この曲については昨年春に『島田佑子「春の日の花と輝く」』を公開しましたが、その中でトーマス・ムーアについて少し述べましたので、参考に以下に転載・紹介します。

 アイルランドの首都ダブリンの裕福な商家に生まれたトーマス・ムーア(1779年~1852年)は、長じてロンドンで法律学を学び、後にバミューダ統治の責任者にもなりました。
 詩人としてのムーアは、この歌のほかにも日本でも愛唱されている『庭の千草』をはじめ後世に残るアイルランド民謡を次々に書いて文名を高め、バイロンやシェリーといった西洋文学史上の詩人らとも交友を深めました。

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 欧米にならう明治新政府は初等音楽教育の必要に迫られ、かと言って自前の歌もおいそれとは作れず、苦しまぎれに欧米の歌を翻案した日本語訳詞として、この歌を『小学唱歌集 第三編』に載せたものなのでしょう。似たケースとして、この歌より先、日本最初の音楽教科書である『小学唱歌集 第一編』(明治14年)に収めた『蛍の光』(スコットランド民謡)があります。

 それにしても、トーマス・ムーア『夏の名残のバラ』を、日本的に『庭の千草』に翻案した里見義の技量の冴えは見事です。(ただし、『小学唱歌集 第三編』初出のタイトルは「第七十八菊」でした。)

 
 『夏の名残のバラ』では、仲間のバラがみな散ってしまったのにただ一輪残って咲いている赤いバラに得もいわれぬシンパシーを感じ、慈しみながら、つまりはそれから、古い友人・知人たちがみな世を去ってしまったのに我のみ生きて何の生きがいか、赤いバラよ、そなたが散れば我また後を追わん、と言うような人生の哀歓にいたる趣旨の詩です。

 里見義は原詩のモチーフを踏まえつつも、バラを日本的に菊に変え、したがって季節も夏から晩秋に移しているわけです。この移し変えがどんぴしゃりはまっていて見事です。百年以上経った私などはすっかり、このメロディは晩秋にこそふさわしいと思ってしまうほどです。

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 ただ明治期のこれからを背負って立ってもらわなければならない少年少女たちに原詩の後半のような諦観はふさわしくなく、前半の「 ひとりおくれて さきにけり」に絞って謳いあげたわけです。晩秋であるだけによけい、凛として健気に咲く白菊のさまが胸迫ってくるように感じられます。
 それになお言えば、「菊花十六花弁」が天皇家の紋章であるように、菊は明治天皇をいただく明治国家をも連想させますよね。

 なお里見義は、『小学唱歌集』第一編から第三編まで計24曲の作詞をしていますが、中でも『庭の千草』は『埴生の宿』と並ぶ代表作と言えます。

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 さて、『フォレスタの「庭の千草」』についてです。

 これにつきましては、投稿主のnonnta1944さんご自身がコメントしておられますので、以下に転載します。

(引用開始)

フォレスタ元祖女声4名による構成、1番は矢野聡子さんのソロ、2番は矢野さんに、中­安千晶さん、白石佐和子さん、小笠原優子さんが加わり、四重唱になります、清らかに澄­んだ矢野さんのハイソプラノが美しく響きます。  (引用終り)

 
 実に簡潔で的確な短評です。毎度のことながら、この人のコメントにはすっかりお株を奪われてしまいます(汗)。

 nonnta1944さんには以前のフォレスタ記事の幾つかにコメントをいただきました。それによりますと、私などと同じく、2011年夏頃からのお二人(loveforestaさん、newminamiさん)によるYoutubeへの初めての動画アップによってフォレスタを知り、ファンになられた人のようです。

 その当時フォレスタ動画を視聴した人たちにとっては、その時の初代女声フォレスタ+吉田静さんの印象が鮮烈で、どうしてもあの頃の女声メンバーへの郷愁が(私も含めて)強いです。

 nonnta1944さんにとっては、分けても矢野聡子さん、小笠原優子さんのファンのようで、矢野さんがメーンのこの歌と『夕焼け小焼け』『白い色は恋人の色』、小笠原さんがメーンの『津軽の故郷』『ラ・ノビア』『君の名は』の計6本の動画をアップしてくれています。

 私はこの『庭の千草』、nonnta1944さんが今年春頃のあるコメントで絶賛されるまでほとんど聴いていませんでした。が、あらためて聴いてびっくり、この歌の矢野聡子さんの独唱は最高!とその時思わせられたのでした。『庭の千草』は、『浜千鳥』『真夜中のギター』などとともに矢野さんの代表曲のように思われます。

 ピアノ演奏はおそらく南雲彩さんなのでしょうが、矢野さんの独唱を際立たせるためなのか、初めはポ~ン、ポ~ンと単音のみ、1番の後半から徐々に本来の演奏になり、合わせて2番は中­安千晶さん、白石佐和子さん、小笠原優子さんが加わった全体コーラス形式で、この歌の叙情性を最高頂に盛り上げて終ります。

 『小学唱歌集 第三編』には、「第五十六 才女」(作詞者不詳、作曲;J・スコット)がありますが、皆さん白菊のような(華美ではない)白いドレスで、清らかな「歌う才女」の趣きです。

 とにかく、初代女声の童謡、唱歌、叙情歌は本当に素晴らしい!

【追記】
 最近のフォレスタ動画は少しずつ増えてきていますが、初代女声+吉田静さんの頃の動画はまだまだです。どなたか動画アップのお出来になる方、アップをお願いします。

 (大場光太郎・記)

参考
『近代デジタルライブラリー「小学唱歌集 第三編」より「第七十八 菊(庭の千草)」』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992053
(当時の原本の歌詞及び楽譜がごらんいただけます。ただし78番目ですから、上部の「次」ボタンをけっこうめくってください。)
関連動画
『The Last Rose of Summer in Kerkrade』
https://www.youtube.com/watch?v=WceIDpstGFQ
(世界的指揮者兼バイオリニスト、アンドレ・リューによる『庭の千草』です。オランダの炭鉱町カルクレードでのコンサートですが、ステージと観客が一体となって感動的です。)

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(小笠原優子さんの復帰を祝し)フォレスタの「美しき天然」

 
 
 旧聞に属することで大変申し訳ございません。

 ほとんどのフォレスタファンの方々はとうにご存知かと思いますが、結婚・出産・子育てのため長くフォレスタ活動休止中だった小笠原優子さんが、今年遂に復帰されました!『フォレスタ通信』サイトの告知では、「当面は(東京)近郊のコンサートから」とありましたが、コンサートのみならず、上の画像どおり『BS日本・こころの歌』収録にも一部参加されています。

 小笠原優子さんのご復帰。フォレスタファンの一人として、心よりお慶び申し上げます。本当におめでとうございます。

 
 私が、小笠原さんの『BS日本・こころの歌』一部収録参加を知ったのは、「on ojisann」さんの最近の動画投稿によってでした。余談ながら、このようにon ojisannさんを初めとした複数の方により、徐々にフォレスタ動画が増え始めていることを大変嬉しく思います。

 ただどちらかと言うと新メンバーによるコーラス動画が多いようです。欲を言えば、大変厚かましいお願いながら、代表例として『別れのブルース』『みかんの花咲く丘』『月の沙漠』『浜千鳥』『花かげ』など、初代女声+吉田静さんの頃の懐かしい動画も・・・と思います。どなたかアップをお願いできれば幸甚に存じます。

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 『美しき天然(うるわしきてんねん)』は、武島羽衣作詞、田中穂積作曲の唱歌として、1902年(明治35年)に発表されました。

 
 この歌はそもそも、当時私立佐世保女学校の音楽教師だった田中穂積(たなか・ほずみ)がかねてから、同地の北松浦半島西岸に広がる九十九島(くじゅうくしま)の美しい風景を教材にしたいと考えていたことに始まります。そこで折りよく入手した武島羽衣(たけしま・はごろも)の詩に作曲し、この歌は誕生しました。武島の詩は、田中の思い描いていた九十九島にぴったりだったといいます。



 この歌は、女学校の愛唱歌として地元では長らく親しまれてきましたが、広く一般に知れ渡ったのはかなり後のことです。活動写真の伴奏や、サーカスやチンドン屋のジンタ(市中音楽隊の意)として演奏されたことも、この曲が有名になった大きな要因の一つでした。

 
 詞を作った武島羽衣は、東京帝国大学国文科、同大学院を経た後、東京音楽大学(現・東京藝術大学)、日本女子大学、聖心女子大学などで教鞭を執った詩人、国文学者であり、当時超一流の教養人でした。この『美しき天然』の歌詞は、(同じく武島作詞の)滝廉太郎作曲の『花』とともに、武島作品の精華であるように思われます。(ここまで『ウィキペディア』を参照)

 歌詞は1番から4番までありますが、全体を通してひたすらな天然自然賛歌です。それとともに、美しき天然を「かく在らしめている」神への賛歌でもあるようです。

 余計な事ながら―。各番の最後のフレーズで謳われている「神」とは、自然万物を生み為しかつ日々生成化育し給うわが国固有のアニムズム的、汎神論的な自然神としての「産み育む」神であるとともに、明治以来本式にもたらされることになった「神初めに天地を創り給えり」というキリスト教的一神教の「創った」神の両義がありそうです。と言うより、この歌にあっては、その両神が見事に和洋融合しているようでもあります。

 難解な古語や雅語を駆使して歌われているのは、2番や3番に顕著なように、「雪月花」あるいは「青松白砂」といった王朝文化以来伝統的な自然への美意識です。これは武島が国文学者であったことに由来するものなのでしょう。

 この歌の発表(明治35年)の少し前に発刊された(西洋文学の影響による)国木田独歩の名作『武蔵野』(明治31年)の中の、「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもつて絶類の美を鳴らしてゐたやうにいひ伝えてあるが、今の武蔵野は林である」と言うような「雑木林の美」などを賛える歌はまた別の歌に拠らなければなりません。

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BS日本・こころの歌
(BS日テレサイト『BS日本・こころの歌』からお借りしました)

 
 『美しき天然』の楽譜には「ワルツのテンポで」と表示されているそうです。なるほど言われてみれば。「♪そーらにー(3)さえーずる(3)とーリのこえー(3)・・・」、見事な三拍子の歌であるようです。
 武島羽衣の詞がそうであるなら、田中穂積の曲もまた格調高く典雅なメロディです。

 
 確かこの歌は初代女声4人によってすでに歌われていたはずです。その元の女声コーラスもなかなか良かったと記憶していますが、ごらんのとおりこのたび、男声、女声フルメンバーによる新バージョンとして歌い直されました。

 しかもその中に冒頭申し上げたとおり、長期休養中だった小笠原優子さん(ソプラノ)が加わり、また新男声として塩入功司さん(ハイバリトン)が加わりました。男声7人(テノール3人、ハイバリトン1人、バリトン3人)、女声6人(ソプラノ5人、メゾソプラノ1人)、計13人による圧巻、壮観の混声合唱です。

 男声&女声渾然一体となったフルコーラスです。かつての『まほろば』を髣髴してしまいます。フォレスタは、歌によって一人の人がメーンとなって独唱したり、デュエットがあったりと、多彩なコンビネーションがありますが、合唱の基本と思しきこのような全体合唱もいいものですね。

 「かわいいピアニスト」(と、つい余計なフレーズを冠したくなる)吉野翠さんのピアノ演奏も、軽快で流暢で、なかなかいいです。今回も、以前ある歌のある人のコメントにあった「おすまし顔」でピアノに向かっていて、ほほえましい!なお余談ですが、当ブログ検索フレーズで見るかぎり、吉野翠さんは総勢16人のフォレスタメンバーの中でも、(脇役なのに)ベスト5に入るほどの人気ぶりです。

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 人気トップはもちろんこの人、復帰なった小笠原優子さんです。

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5月の「きゅりあんコンサート」終了後に
やっぱり優子さん、美人!(小笠原さんブログ画像より)


 この歌のコーラス全体の印象から、『これでフォレスタ全体が安定してきたな』という感じがします。なんとなくしっくりした調和が感じられるのです。これぞ「小笠原優子復帰効果」です。

 一例として、白石佐和子さんを取り上げます。
 白石さんは、昨年の各歌の動画を拝見するに、なんとなくキツく険しい表情になっていて、大変失礼ながら『この人少し老けたな』と思わせられました。おそらく責任感の強い彼女のこと、小笠原さん、矢野聡子さんという二枚看板が抜けた穴を何とかカバーしようと必死だったのに違いなく、相当の心労があったのではないでしょうか。

 ところが(小笠原さん復帰が決まった)今年の白石さんはどうでしょうか。すっかり表情が和み、のびやかな本来の白石さんに戻っておられます。それに去年より若やいで感じられます。重い肩の荷が下りた感じなのではないでしょうか。

 やはり女声フォレスタにあって、最年長でもあり、肝心の歌唱力も折り紙つき、しかも唯一結婚・子育てを経験しておられる小笠原優子さんの存在は不可欠です。女声にリーダーというポストがあるのかどうか私にはわかりませんが、小笠原さんは女声各メンバーにとって「精神的支柱」であることは間違いないようです。

 男声は(小笠原さんのご主人の?)大野隆さんを中心に、女声は小笠原優子さんを中心に、世の「良い歌を愛する」人たちのために、この『美しき天然』のような素晴らしいコーラスを今後ともどしどし発表していっていただきたいものです。

 (大場光太郎・記)

参考サイト
『EVENT & FROM YUKO』(小笠原優子ブログ)
http://musication.cocolog-nifty.com/blog/
BS日テレ『BS日本・こころの歌』
http://www.bs4.jp/music/guide/kokoro/index.html
関連記事
『フォレスタの「まほろば」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-3d3b.html

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フォレスタの「蘇州夜曲」

         
     
 
 
    (「Foresta 苏州夜曲(旧版本)」(中国-Youke動画)

     http://v.youku.com/v_show/id_XNjM4ODg5MDky_type_99.html?f=441608962#fr.yk.folder.6
                  (フォレスタの蘇州夜曲・新バージョン-YouTube動画)
     https://www.youtube.com/watch?v=vWMvzaBfDYI

 今月7日に亡くなられた山口淑子さんを偲び、直前に『「蘇州夜曲」の李香蘭逝く』記事を出しました。タイトルに「蘇州夜曲」を入れたくらいですから、記事作成中YouTubeで当然『蘇州夜曲』をずい分聴きました。もちろん本家の李香蘭(山口淑子)のも聴きましたし、他の歌手によって歌われたものも聴きました。名曲中の名曲ですから、美空ひばりを筆頭に多くの歌手がカバーしているのです。

 YouTubeでは現在、渡辺はま子(1970年)、雪村いづみ、夏川りみ、田川寿美、一青窈&松浦亜弥、西川郷子、新妻聖子、アン・サリーらの『蘇州夜曲』がアップされています。何と今大問題のASKAまで歌っているではありませんか!(一言で言って、それぞれに歌い方に個性や特徴があって甲乙つけがたし。)

 それらを聴きながら私は、『この歌、フォレスタも歌ってたよなぁ。それも旧新2つあって、それぞれにいい味出してたのに。皆削除されちゃって』などと思っていたのでした。同記事完成後、『そのうち「蘇州夜曲聴き比べ」でも出すか』と思いたったある時、蘇州夜曲→中国の歌→中国版YouTube→Youke→フォレスタ!という連想がパッと閃いたのです。

 そもそもYouke動画のことは、第1次フォレスタ動画削除事件(2012年4月13日)の時の『フォレスタ動画が削除されちゃった』記事へのある人のコメントで知ったのでした。そこに、数は少ないながら、『別れの朝』『琵琶湖周航の歌』『あかとんぼ』などのフォレスタ曲が十数曲アップされています。その中に、本場中国ならでは、初代4女声版『蘇州夜曲』もあったはずなのです。

 矢も盾もたまらず、2年以上“お気に入り”に寝かせておいた「Youkeフォレスタ」を表に引っぱり出して探してみました。するとやっぱりありました!『フォレスタ 蘇州夜曲』が。それで今回こうして取り上げることができたのです、という「風が吹けば桶屋がもうかる」式の回りくどい説明で、どうもあいすみませんでした(笑)。

『Youke版FORESTA』http://www.soku.com/search_video/q_%EF%BC%A6%EF%BC%AF%EF%BC%B2%EF%BC%A5%EF%BC%B3%EF%BC%B4%EF%BC%A1

                       *
 (戦前中国における李香蘭の華麗な足跡のあらましは、直前の『「蘇州夜曲」の李香蘭逝く』記事をお読みいただくとして)満州で高まりつつあった李香蘭(リー・シャンラン)の人気を日本でも盛り上げるため、満映(満州映画協会)は東宝と提携して、李香蘭と当時の人気二枚目俳優だった長谷川一夫との共演映画を企画します。

 そうして昭和14年(1939年)から『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』が制作され、「大陸三部作」としていずれも日本で大ヒットし、「中国美人女優」李香蘭の人気はいやが上にも高まっていったのでした。

 李香蘭は女優としてだけでなく歌手としても絶大な人気を博していくことになります。『白蘭の歌』の「白蘭の歌」「いとしあの星}、『支那の夜』の「支那の夜」「蘇州夜曲」、『熱砂の誓ひ』の「紅い睡蓮」など、各主演映画の主題歌、劇中歌を李香蘭自身が歌いました。奉天(現・遼寧省瀋陽市)での少女時代、帝政ロシアの亡命歌手マダム・ポドレゾフから声楽をみっちり教わった李香蘭の歌唱力はクラシックの専門家の折り紙つきで、各歌ともたちまち大評判となります。

 映画音楽で李香蘭の才能を引き出したのは、作曲家の服部良一でした。『白蘭の歌』を皮切りに、李香蘭主演映画はほとんど服部良一が音楽を担当していますが、特に李香蘭のために書き下した多くの曲は名曲として今日でも歌い継がれています。

 その代表的な曲が『蘇州夜曲』です。この曲は、昭和15年(1940年)6月公開の映画『支那の夜』の劇中歌として李香蘭が歌ったものです。なお『フォレスタ 蘇州夜曲』では、歌ったのは霧島昇/渡辺はま子と表示されていますが、これは内地(日本国内)でのレコード吹き込みがこの二人によって行わたことによるものです。

 『白蘭の歌』から『紅い睡蓮』まで、映画では(中国人)李香蘭が歌い、日本でのレコード化の際は(日本人)渡辺はま子が歌うという決めだったようです。それほど、当時はほとんどの日本人が「李香蘭は中国人」と信じて疑わなかったのです。

 今私の手元には、23日夜当市の中央図書館から借りてきたばかりの『李香蘭 私の半生』(山口淑子/藤原作弥共著、新潮文庫)があります。その中で特に『「蘇州夜曲」のころ』という一章が設けてあり(第7章)、そこに映画『支那の夜』や『蘇州夜曲』にまつわる興味深いエピソードが述べられています。本当はそのすべてを紹介したいところですがそれは出来ない話なので、(関心がおありの方は同書をお読みください)その“さわり”だけ以下に引用してみます。

(引用開始)
『支那の夜』については、単に大入りだったこと以外に、当時の世相や時局を反映した象徴的な作品であることを示すエピソードがたくさんある。とくに私にとっては漢奸(祖国反逆罪)容疑の罪状ともなった映画だけに、無知な時代の自分を見る恥ずかしい思いのする作品だが、いろいろな意味で思い出深い。
    (中略)
 大陸三部作が日本でヒットしたのは、ちょうど高まりつつあった大陸ブームという時代的な背景もあっただろうが、いずれも主題歌が映画におとらずにヒットしたことと無関係ではなかったと思う。いずれもストーリーは陳腐だけれど、背景を流れる音楽がドラマの舞台となった中国の名所旧跡の雰囲気と情感を現実以上にもりあげ、ラブシーンや風光明媚な場面でうたわれる歌が、ロマンチックな興奮をいっそう高める効果をあげていた。
    (中略)
 (服部良一氏の述懐)「上海から帰ってきて、水さん(伏水監督)のためなら、と(『蘇州夜曲』の作曲を)引きうけた。『白蘭の歌』以来、李香蘭の才能を引き出す音楽をいつか作りたいと思っていたこともあってね。西条八十さんの『蘇州夜曲』の詞はもうできていた。私は旅行中に浮かんだ“支那楽”の曲想を下敷きにしてアメリカの甘いラブソング風にまとめ、五線紙に一気にあのメロディーを書きあげた」 (引用終り)

                       *
 「えっ、そうだったんだ!」。今までずっと、この歌は「チャイナメロディーオンリー」で作られたものとばかり思っていたのに。片方では「アメリカの甘いラブソング」を意識していたとは!当時は学問の世界などで、「和魂漢才から和魂洋才へ」と唱えられていたかと思いますが、服部良一はそのどちらも駆使しながら『蘇州夜曲』を作り上げたことになるわけです。そのためなのか、この歌は当時欧米でも評判になったそうです。

 この詞にしてこの曲あり。「詞はもうできていた」という西条八十(さいじょう・やそ)の詞がまた秀逸です。漢詩のように簡潔で、若い二人が見ている「水の蘇州」の宵の情景がくっきりと目に浮びます。

 この歌における西条の作詞のプロセスは分リません。西条も服部同様、蘇州などを旅行して作ったものなのでしょうか?既に『フォレスタの「かなりや」』で西条八十の尋常ならざる想像力を垣間見た私には、彼は現地に行かず、イマジネーションだけでこの類い稀な名詞を書き上げたとしても不思議ではないように思われるのです。

                       *
 冒頭で触れましたが、今回取り上げたのは、矢野聡子さん、中安千晶さん、白石佐和子さん、小笠原優子さん、4人の初代女声による『フォレスタの「蘇州夜曲」』です。

 この曲はこのバージョンのほかに、昨年、中安千晶さん、上沼純子さん、内海万里子さんの3人による新バージョンが公開されました。確か1番が上沼さん、2番が内海さん、3番が中安さんという、3人がそれぞれのパートを独唱し合うスタイルだったかと思います。どちらかと言うと「旧バージョンびいき」の私は、新バージョンについてはつい辛口になりがちです。が、こちらの『蘇州夜曲』も『なかなかいいぞ!』と思っていただけに(動画がなくて)ご紹介出来ないのが残念です。

 さあ、初代4女声による『フォレスタの「蘇州夜曲」』についてです。

 『蘇州夜曲』は、西洋音楽的に表現すれば『蘇州小夜曲』つまり『蘇州セレナーデ』となるのでしょうか?そんな甘美でロマンチックな名曲を、初代4女声はしっとり叙情的に歌い上げています。先に挙げたYouTube動画にアップされている歌手たちの『蘇州夜曲』は、そのほとんどが独唱で、コーラスとしての『蘇州夜曲』は女声フォレスタだけだと思います。その意味で、ユニークで新鮮味のある『フォレスタの「蘇州夜曲」』です。

 そしてそのコーラスもよく聴いてみると、全員音大出身だけあって(どの歌もそうですが)通り一ぺんに歌声を重ねただけのコーラスではなく、たとえば歌そのものも小笠原優子さんの高音パートと白石佐和子さんの低音パートのほど良いバランス、中安千晶さんの聴かせる上ハモなど、随所にプロならではの“隠し技”のうかがえる『フォレスタの「蘇州夜曲」』です。

 それに皆さんチャイナドレスのような黄金色の衣裳に身を包み、さながら(中国風に言えば)4人の「美的姑娘」(美しいクーニャン)という立ち姿です。このコーラスで強いて一人を挙げるとするなら、やはり2番を独唱している矢野聡子さんということになろうかと思います。矢野さん独特の高い声、そして(かつて熱烈な矢野さんファンだった人のコメントを借りれば)「フランス人形のような」可愛らしい顔立ち。矢野さんは中国の人たちにもけっこう“受ける”のではないでしょうか!?

 ヒアノ演奏は南雲彩さんだと思いますが、4女声のコーラスにマッチしたなかなか良い演奏です。ラストなど、寒山寺の鐘の音(ね)を模したか4つの音に続いて水の流れのようなエンディングで大変グッド!です。 

 (大場光太郎・記)

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フォレスタの「坊がつる讃歌」

    (フォレスタの「坊がつる讃歌」YouTube動画)
     http://www.youtube.com/watch?v=2h_sg9y5gDw


 8月初めのフォレスタ動画削除は分けても大々的で、残っている動画はわずかです。そんな中にあって、この『坊がつる讃歌』は辛うじて残った数少ない一曲です。と言うわけで、今回はフォレスタファンの間でも人気の高いこの歌を取り上げたいと思います。

 なお以下は少し余談ですが―。
 以前から当ブログ『フォレスタコーラス』記事をお読みいただいている方々はお分りだろうと思いますが、記事はおおむねフォレスタがかつて歌った歌について記事にしていくスタイルです。その歌自体の感想や歌の背景などを私なりに掘り下げたり、歌にまつわる私に引きつけた事を述べたりしながら、その歌を歌っているフォレスタコーラスの寸評を試るというような形式です。

 これは元々私が国内外の懐しの名曲好きだったことに加えて、ある時から熱心なフォレスタファンになったことによるものです。まあ、やたら長ったらしい、そして少し小難しいかもしれない文章中心で、たまに関連画像を挟むこともありますが、見やすくもビジュアル的でもない、このようなフォレスタコーラス記事にお付き合いいただいている方々の心中お察し申し上げます(笑)。と共に、深く感謝申し上げます。また(これは当ブログ全体に言えることですが)一定以上の知的レベルにないと記事を最後まで読み通すことは出来ないはずで、併せて敬意を表させていただきます。

 余談ついでに脱線までしてしまいました(苦笑)。
 このような形式の『フォレスタコーラス』記事に、いつも冒頭にその歌のYouTube動画URLを掲げてきましたが、これが書き手の私と読者の方々との良い接点になっていると思うのです。私としても共通の土俵があるという安心感があり、記事作成を進めやすいのです。

 しかし今回肝心のフォレスタ動画が削除され、その後新しく投稿される方が現われません。「さあ弱った。どうしようか?」。やはり、(XPでしかもDVD機能他が壊れている)現在のパソコンを取り替えて、フォレスタDVDによって記事を作成していくしかないようです。「それでうまくいかくなぁ」と一抺の不安もありますが、ともかくなるべく早くそう出来れば、と考えます。

                       *
 冒頭触れましたが、女声フォレスタによる『坊がつる讃歌』は特に人気が高く、(今回削除となった)5百数十曲にも上るhskjikさん投稿動画中ベスト3に入るほどの再生回数となっていました。

 何でそんなに人気が高かったのでしょうか?いろいろ考えられますが、以下のような理由が挙げられそうです。
(1)歌そのものが良い歌であること。
(2)女声フォレスタコーラスの良さ。
(3)近年、芹洋子さんによって歌われよく知られた歌であること。

 ただ“昭和30年代少年”の記憶からすれば、別の理由もありそうです。
 (以前から指摘してきたように)フォレスタファンの中核を占めるのは中高年層だとみられます。かく言う私自身その層の一人ですが、『坊がつる讃歌』人気は、この中高年層によるかつての「登山ブーム」のノスタルジーの表われなのではないだろうか?と思われるのです。

 「♪娘さんよく聞けよ 山男にゃ愡れるなよ
   山で吹かれりゃよ 若後家さんだよ
   山で吹かれりゃよ 若後家さんだよ」   (作訶者:不祥)

 ご存知かと思いますが、『山男の歌』(1番)です。この歌を、昭和30年代半ば頃ダークダックスが歌って大ヒットし、当時ラジオからよく流れていました。私はその頃小学校高学年で、歌詞の意味もだいたい分り、とにかくダークダックスの歌声が大変鮮烈だったことを覚えています。

 『山男の歌』が歌われ大ヒットした背景として、当時は今とは比べものにならないくらい登山人口が多かったのだろう、と推察されます。それゆえこの歌のみならず、昭和20年代後半頃から昭和40年代前半頃にかけて、『山のけむり』『山の友に』『岳人の歌』『いつかある日』『穂高よさらば』『雪山に消えたあいつ』などの山の歌が作られ歌われました。中学校の音楽の授業で『雪山讃歌』『シーハイルの歌』を教わりましたし、フォークソングの『小さな日記』ですら「山で死んだ彼」を偲んだ歌なのです。

                       *
 人々の生活が今よりずっと自然と密着していたあの時代、自然の極みとしての穂高や鎗ヶ岳などの高峰を踏破したい、という想いもまた強かったものなのでしょう。そんな登山ブームに支えられて、上に挙げたような「山の歌」の数々の名曲が生まれたわけです。中でも『坊がつる讃歌』は、それら山の歌の先駆けと言っていいほどです。

 『坊がつる讃歌』はそもそも、広島高等師範(現・広島大学)に新たに山岳部が創部された(昭和14年)のをきっかけに作られた『広島高師山岳部第一歌・山男』(昭和15年8月完成-作曲:竹山仙史)が元歌だったようです。

 この原曲に、昭和27年(1957年)の夏、坊ガツルにある山小屋の小屋番をしていた九州大学の学生3人が雨に降り込められ、所在なさに「替え歌を作ろう」となって坊ガツルをテーマとした訶をつけたのが、今日広く知られている『坊がつる讃歌』なのです。(現在登録されている作訶者:神尾明正、松本征夫)
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 坊ガツル(ぼうがつる)は、大分県竹田市にある標高約1,200mの高さに広がる盆地・湿原。九重連山の主峰久住山と大船等に囲まれており、阿蘇くじゅう国立公園に含まれる。坊がつる坊ヶつる坊がツル坊ヶツルなどとも表記する。名称の「坊」とは寺院(久住山信仰の中核である法華院。現在の法華院温泉)、「ツル」は平らな土地の意で、つまり法華院近辺の湿地帯といった意味の地名である。(『ウィキペディア』より)

 こうして作られた『坊がつる讃歌』は、坊ガツルやそこを囲む大船(たいせん)や三俣(みまた)といった山々の四季の情景などを詠み込んだ詩情豊かな歌詞となっています。

 なおこれは余談ですが―。
 九州大学生たちが替え歌を作った昭和27年は、その後山岳文学のバイブルのように読み継がれていくことになる串田孫一の『山のパンセ』が実業之日本社から発刊された年です(現在は岩波文庫)。九大生たちはこの書を既に読んでいて、それに触発されてこの歌の歌詞を作ったのではないだろうか?などと勝手に想像してしまいます。

 この歌が全国的に広く知られるようになったのは、昭和53年(1978年)6月、7月にNHK『みんなのうた』で採り上げられてからでした。歌ったのは芹洋子です。
 そもそも芹洋子がこの歌を歌うきっかけとなったのは、その前年の昭和52年夏の阿蘇山麓の野外コンサートでした。夜、芹が宿舎としたテントにギターを持った若者たちが遊びにきてこの歌を弾き語りして聴かせ、「コンサートで歌ってみたら?」と勧められたことによるもののようです。

                       *
 『坊がつる讃歌』は本来は9番まであります。ただフォレスタコーラスがそうであるように、1番から4番までを歌うのが一般的であるようです。

 『フォレスタの「坊がつる讃歌」』についてですが、実はnonnta様が既に以下のようにコメントしておられます。

 フォレスタの「坊がつる讃歌」は、(旧)フォレスタ女声4名による構成です。

4番まである歌詞を
中安千晶さん(1番)→吉田 静さん(2番)→白石佐和子さん(3番)→矢野聡子さん(4番)と、冒頭部を独唱し後半を合唱して歌い上げます。

4名それぞれの個性あふれる独唱と綺麗な合唱のハーモニーが大変素晴らしく、フォレスタ女声歌唱の中で人気が高いのも頷けます。 (転載終り)

 「以上で『フォレスタの「坊がつる讃歌」』についての一文を終ります。」
と言いたくなるほど適確なコメントで、フォレスタコーラス記者の私(?)は嫌になっちゃいます(笑)。

 このように、各女声が一つずつのパート独唱をしながら順々に歌い継いでそのコーラス曲を完成させるというのが、初代女声以来の女声フォレスタにおける基本スタイルの一つになっています。そうして歌われた歌として、当ブログで記事にした曲を中心に挙げてみれば、『花言葉の唄』『夏は来ぬ』『四季の雨』『搖藍のうた』『この道』『月の沙漠』『蛙の笛』などなど、ずい分あります。

 これは女声フォレスタ独特で、他のコーラスグループにはあまり見られない歌唱スタイルだと思います。上に挙げたどれもが素晴しいコーラスですが、一方ではある特定の人の独唱を中心とした曲も多くあります。この多彩なヴァリエーションは、メンバーすべてが音大卒で確かな歌唱力と声楽理論を身につけているからこそ可能となるわけです。

 (大場光太郎・記)

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またまたフォレスタ動画削除事件発生!

-良い歌がじっくり聴きたくなる秋の夜長を前にして、突然のフォレスタ動画大削除。BS日本テレビさん。いったいどうしてくれるんですか!-

 YouTubeフォレスタ動画がまたもごそっり削除されちゃった!


 私としたことが、つい最近までそのことに気がつきませんでした。諸般の事情により、フォレスタ動画視聴はもとよりこのマイブログさえロクに構っているゆとりがなかったためです。やっとホッと一息つけた今月8日、たまたまyasuko様が『フォレスタの「宵待草」』に

「私も本当にフォレスタの突然の削除には落胆している者でございます。」
ではじまるコメントを寄せられ、それによってその事実を初めて知ったのです。

 「えっ、フォレスタ動画削除?そりゃ大変だ!」とばかりに、早速2、3曲当ったところ、真っ黒けの動画部分に、例によって「この動画はユーザーの都合により削除されました。申し訳ありません。」または「“フォレスタ 〇〇〇”この動画に関連付けられたYouTubeアカウントは、著作権法侵害に関する第三者通報が複数寄せられたため削除されました。申し訳ありません。」との素っ気ない表記があるばかり。

 「またかよぉ~」 その都度記事にしてきましたが、YouTubeフォレスタ動画大削除はこれが3度目になります。1度目は、2012年4月13日、newminamiさんご提供の動画が削除されたこと。そして2度目は、昨2013年4月13日、everstone04さんご提供の動画が削除されたことです。両方とも、奇しくも同月同日だったので私は「魔の4月13日」などと呼びましたが、今年の同月同日は何事もなく過ぎたのでつい油断していました。

 しかし敵さん(?)は削除を断念したわけではなく、私の「魔の4月13日」という表現が効いたわけでもないでしょうが、とにかくその時期をずらした削除の機会を虎視眈々狙いをつけていた(?)ようなのです。

 「削除はいつだったのか?」 気になってアクセス解析をたどったところ、今月の1日か2日だったように思われますが、正確な日付は不明です(注 末尾に掲げるhskjikさんメッセージにより、今月1日と判明)。

 ともあれ削除されてしまったからには元に戻るわけでもなし、あきらめるしかありません。everstone04さんご提供の動画削除直後の『七里ヶ浜の哀歌』に始まって、以後500曲以上も大量かつこまめに動画投稿していただいたhskjikさん、また選り抜きの叙情歌を厳選して投稿していただいたumebosinbさん、大変ありがとうございました。多くの動画ファンになりかわりまして、篤く御礼申し上げます。またhskjikさんには、当ブログフォレスタ記事に何度かコメントいただきましたこと、併せて感謝申し上げます。

 何度も述べたことですが、私が初めてフォレスタコーラスの存在を知ったのは、2012年1月初旬、『「別れのブルース」秘話』という記事を作成中、たまたま吉田静さん独唱による女声フォレスタの『別れのブルース』(loveforestaさん投稿)YouTube動画を聴いたのがキッカケでした。しびれるほど感激し、直後『美しすぎるフォレスタ』として感想などをまとめたのが今日に至る「フォレスタコーラス記事」の初まりとなったのでした。

 キッカケは千差万別でも(私のように)、2011年夏頃からの、loveforestaさん、newminamiさんお二人による、YouTubeフォレスタ動画を聴いたことによってフォレスタファンになったという人が大勢いたのではないでしょうか?もちろんそれよりずっと前からのコアなファンもおられたことでしょうが、本格的な「フォレスタブーム」に、loveforestaさん、newminamiさん以降の投稿者&YouTube動画が果した役割りは大変大きなものがあったように思われるのです。

 
以前のフォレスタ動画へのコメントの中には、米国ロサンゼルス在住の日本の人やブラジル在住の日系の方からのものもありました。インターネット&YouTube動画はグローバルですから、それ以外にも、東南アジアやヨーロッパなど世界の思いがけない地でフォレスタ動画を聴いている人たちがいたとしてもおかしくはないわけです。

 今回の削除についてyasuko様は大いに憤慨しておられます。yasuko様ならずとも、上記のような諸事情を抱えたフォレスタファンの方々にとって、『BS日本・こころの歌』を観ることやコンサート参加はまず無理、DVD入手もかなり困難、YouTube動画視聴が唯一の楽しみと言っていいほどのものだったはずです。落胆、憤慨・・・心中、お察し申し上げます。

 以下は、前回の『第2次フォレスタ動画削除事件に物申す』で踏み込んで述べたことですから、今回はサラッとにしますが―。

 hskjikさんのような篤志の動画投稿者のお陰で、私たち視聴者は存分にフォレスタ動画を楽しませていただきました。しかし少しうがった見方をすれば、フォレスタ動画投稿の最大の受益者はBS日本テレビなのではないだろうか?と思われるのです。何しろ一定期間見て見ぬふりしていれば、広告宣伝費ゼロでこれ以上ないフォレスタPRをしてくれるのですから。

 それがいけない、などと言うつもりは毛頭ありません。むしろ企業戦術として当り前、一定期間が過ぎれば立場上削除要請するのも当然の話です。要は、違法動画投稿とは言え、お互い「win-winの関係」でこそあれ、どこも損などしていないんじゃないの?ということを言いたかっただけなのです。

 思えば、YouTubeのフォレスタ動画投稿は満3年にもなります。たび重なる削除にもかかわらず、何人もの人が前の人の意志を引き継いで今日に至ったのです。こうなると、フォレスタ動画投稿は立派な「伝統」と言ってもいいと思います。伝統は守られるべきで、途切れさせてはなりません。次なる篤志の方が現れることを切に望みたいと思います。


                       *

 切りがありませんので、最後に、今回のような問題の根っこにある著作権法、音楽著作権について少し述べてみたいと思います。本テーマからは離れますので、興味ない方は読み飛ばしていただいてけっこうです。

 (第1次フォレスタ動画削除事件の際の)『フォレスタ動画情報』でも触れたことですが、我が国の著作権法は「世界一厳しい」と言われています。米国著作権法も確かに、著作権保護期間が70年と我が国より20年も長いなど、厳しさでは負けていません。しかし米国には「フェアユース法」という救済法があります。同法は「非商業での利用目的の場合は当該著作物の無断使用を認める」という法律です。当り前と思われる法律なのに、我が国では認められていないばかりか、将来的な見直しの気運もまったくないのです。

 数多(あまた)ある著作権分野の中でも、「音楽著作権」の厳しさは群を抜いています。音楽著作物を管理しているのが、JASRAC(日本音楽著作権協会)です。ここが、何百万点という(翻訳著作物を含む)国内外の音楽著作物を一元管理しているのです。例えば、千年以上前に作られた“読み人知らず”の我が国国歌の『君が代』にすら音楽著作権ナンバーを付しているほどの徹底管理ぶりです。

 JASRACがいかにエゲツないほどの厳しいものか、私の身近なところで実際に起きた出来事を紹介するのが分りやすいでしょう。

 2012年早春、つまり第1次フォレスタ動画削除事件の少し前のことです。『二木紘三のうた物語』の良きコメ友だったYさんが、ご自身のブログに、著作権保護期間中の幾つかの歌の歌詞を無断掲載したカドで、ヤフーブログ(記事数千数百)全体を削除されてしまったのです。

 著作権法に疎かったとはいえ、読者によかれと思って、「非商業での利用目的」でしたことです。常日頃「ブログは私の命です」と言っていたYさんは、そのブログを失った直後、私のブログに何度かコメントを寄せられました。その中で、

「あまりに厳しすぎる著作権法の縛りは、文化の衰退を招くと思います」

と述べておられましたが、まったく同感です。

 そのJASRACを仕切っているのが、文科省や文化庁から天下った元シロアリ投人たちです。彼らは、自分たちの音楽著作権がらみの莫大な利権擁護のために、国民ユーザーをガンジガラメに縛りつけているだけじゃないの?と、つい勘ぐりたくなる構図です。


 (大場光太郎・記)

関連動画、

hskjikさん『フォレスタ動画を削除しました』

http://www.youtube.com/watch?v=rdo57vp2-s4

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