石川民話『雉も鳴かずば撃たれまい』

-直前の『「雉も鳴かずば撃たれまい」安倍晋三は、イスラム国の敵であるとアピールする必要はなかった』は阿修羅掲示板投稿記事の転載でしたが、同記事の「01コメント氏」が「雉も鳴かずば撃たれまい」と言う故事の元となった民話を紹介してくれています。感慨深いお話なので、こちらも本『遠野物語・昔話・民話』カテゴリに転載させていただきます。-
同記事URL http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/876.html


雉も鳴かずば撃たれまい

(実は大変悲しいストーリー)

むかしむかし、犀川(さいがわ)のほとりに、小さな村がありました。
 この村では毎年、秋の雨の季節になると犀川がはんらんして多くの死人が出るため、村人たちは大変困っていました。

 さてこの村には、弥平(やへい)という父親と、お千代(おちよ)という小さい娘が住んでいました。
 お千代の母親は、この前の大雨に流されて死んでしまいました。
 二人の暮らしはとても貧しかったのですが、それでも父と子は毎日仲良く幸せに暮らしていました。
 そしてまた、今年も雨の季節がやってきました。
 そのころ、お千代は重い病気にかかっていましたが、弥平は貧乏だったので医者を呼んでやることも出来ません。
「お千代、早く元気になれよ。さあ、アワのかゆでも食って元気を出せよ」
 弥平がお千代に食べさせようとしても、お千代は首を横に振るばかりです。
「ううん、わたし、もう、かゆはいらねえ。わたし、あずきまんまが、食べたい」
 あずきまんまとは赤飯の事で、お千代の母親が生きていたころに、たった一度だけ食べた事があるごちそうです。
 ですが今の弥平には、あずきどころか米の一粒もありません。
 弥平は寝ているお千代の顔をジッと見つめていましたが、やがて決心すると立ちあがりました。
「地主(じぬし)さまの倉(くら)になら、米もあずきもあるはずだ」
 こうして弥平は可愛いお千代のために、生まれてはじめて泥棒をしたのです。
 地主の倉から一すくいの米とあずきを盗んだ弥平は、お千代にあずきまんまを食べさせてやりました。
「さあ、お千代、あずきまんまじゃ」
「ありがとう。おとう、あずきまんまは、おいしいなあ」
「おお、そうかそうか。いっぱい食べて、元気になるんじゃぞ」
 こうして食べさせたあずきまんまのおかげか、お千代の病気はだんだんとよくなり、やがて起きられるようになりました。

 さて、地主の家では米とあずきが盗まれた事に、すぐに気がつきました。
 お金持ちの地主にとっては犬のエサほどの量で、たいした物ではありませんでしたが、一応、役人へ届けました。
 やがて元気になったお千代は家の外に出ていくと楽しそうに歌いながら、マリつきをはじめました。
♪トントントン
♪おらんちじゃ、おいしいまんま食べたでな
♪あずきの入った、あずきまんまを
♪トントントン
 お千代の歌を、近くの畑にいた百姓(ひゃくしょう)が聞いていました。
「変じゃなあ、弥平の家は貧乏で、あずきまんまを食べられるはずがないのだが。・・・まあ、いいか」
 そのとき百姓は、大して気にもとめませんでした。

 やがてまた大雨が降り出して、犀川の水は今にもあふれださんばかりになりました。
「このままじゃ、また村は流されてしまうぞ」
 村人たちは、村長の家に集まって相談しました。
 すると、村人の一人が言いました。
「人柱を立てたら、どうじゃろう?」
 人柱とは、災害などで苦しんでいる人々が生きた人間をそのまま土の中にうめて、神さまに無事をお願いするという、むかしの恐ろしい習慣です。
 その生きながらに土の中にうめられるのは、たいていが何か悪い事をした人だったそうです。
「そういえば、この村にも悪人がおったな」
と、言ったのは、お千代の手マリ歌を聞いた百姓でした。
「なに? 悪人がおるじゃと? それは誰じゃ?」
「うむ。実はな」
 百姓はみんなに、自分の聞いた手マリ歌の事を話しました。

 その夜、弥平とお千代が食事をしていると、
 ドンドン! ドンドン!
 だれかが、戸をはげしくたたきます。
「弥平! 弥平はおるか!」
「へい、どなたで?」
「弥平、おぬしは先日、地主さまの倉から米とあずきを盗んだであろう。娘が歌った手マリ歌が証拠(しょうこ)じゃ」
 お千代はハッとして、弥平の顔を見ました。
「おとう!」
 泣き出すお千代に、弥平はやさしく言いました。
「おとうは、すぐに帰ってくるから、心配せずに待っていなさい」
「おとう! おとう!」
 泣き叫ぶお千代を残して弥平は村人に連れて行かれ、そしてそのまま帰っては来ませんでした。
 犀川の大水を防ぐために、人柱として生きたままうめられてしまったのです。
「しかし、たった一すくいの米とあずきを盗んだだけで、人柱とはな」
と、同情(どうじょう)する村人もいましたが、下手な事を言うと今度は自分が人柱にされるかもしれません。
 そういう時代だったのです。

 さて、村人からお父さんが人柱にされた事を聞いたお千代は、声をかぎりに泣きました。
「おとう! おとう! おらが歌を歌ったばかりに」
 お千代は何日も何日も、泣き続けました。
 やがてある日、お千代は泣くのをやめると、それからは一言も口をきかなくなってしまいました。
 何年かたち、お千代は大きくなりましたが、やっぱり口をききません。
 村人たちはお父さんが殺されたショックで、口がきけなくなったと思いました。

 ある年の事、一人の猟師(りょうし)がキジを撃ちに山へ入りました。
 そしてキジの鳴き声を聞きつけて、鉄砲の引き金を引きました。
 ズドーン!
 見事に仕留めたキジを探しに、猟師は草むらをかきわけていってハッと足をとめました。
 撃たれたキジを抱いて、お千代が立っていたのです。
 お千代は死んでしまったキジに向かって、悲しそうに言いました。
「キジよ、お前も鳴かなければ、撃たれないですんだものを」
「お千代、おめえ、口がきけたのか?」
 お千代は猟師には何も答えず、冷たくなったキジを抱いたまま、どこかに行ってしまいました。
 それから、お千代の姿を見た者はいません。
「キジよ、お前も鳴かずば撃たれまいに」
 お千代の残した最後の一言が、いつまでも村人のあいだに語りつたえられ、それからその土地では人柱という恐ろしい事は行われなくなったという事です。

日本昔話『石川の民話より』 (転載終り)

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親鸞の時代、墓に葬られる者は極めて稀だった

  私は葬式を、葬儀場を、墓場を放棄します。 (『アセンションするDNA』-「聖なる自己」より)

 本日13日はお盆(旧盆)の中日です。ご存知のとおり、お盆はインド仏教の盂蘭盆が起源ですが、日本的に止揚された、「死者たちを偲ぶ事によって生の意味を見つめ直す」優れた文化装置であるように思われます。そんなお盆にちなんで、以前見つけておいた、興味深い阿修羅掲示板投稿記事を以下に転載します。

                       *
親鸞の時代は、墓に葬られる者は極めて稀っであった。西の鳥部野、東の蓮台野といえば、そこは死体を遺棄するための場所なのだった。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/256.html
投稿者 TORA 日時 2011 年 3 月 02 日 14:46:36

◆無縁 2月12日 今様つれづれ草
http://blogs.yahoo.co.jp/namoamidabutsu18/61658503.html#61666692

最近、テレビや新聞で“無縁”という言葉に出会う。
特に「無縁社会」という言葉が巷を駈け巡っているように思える。

そもそも「無縁」という言葉は、紛れもない仏教語である。
即ち、「仏法を聞く縁のない者」という意味で「無縁」という言葉が用いられたが、
それが転じて、「無縁仏」や「無縁墓」といった、
後見が存在しない亡者に関する意味へと変わっていった。

それが今、社会を席巻する言葉となっている。
孤独死、独居老人、社会に順応できない若者…それが「無縁」という社会の実相なのか。

或いは、他人に対する過剰な“無関心”が、そうした現実を生んでいるのかも知れない。
天下の悪法と思しき「個人情報保護法」も、
結果として国家が「無縁社会」の蔓延に拍車をかけているのではないか…。
果たして、こういう社会状況にあって、誰しもが「無縁社会」の中に入り込んでもおかしくない。

名古屋には独居老人の生活をサポートするNPO法人があり、
全国から反響が寄せられているそうで、中にはちゃんと親族が存在する人ですら、
サポートを受けるべく名前を登録しているというのだ。

親子や夫婦関係ならば、まだお互いを見守ることも可能であろう。
(もっとも、そんな間柄であっても希薄な状況は否めないが…)
ところが、親戚関係になってくると、余程の利害関係でもない限りは、最早他人同然のようだ。

拙寺へ葬儀の依頼に来る家庭にも、そういうケースがままある。
荼毘に付した後の遺骨の引き取り手がないとか、
親族がいるにも関わらず、後見がないという理由で墓地を撤去するなど…である。

結局は人間関係を保つのが煩わしく思う時、それが「無縁社会」の出発点なのかも知れない。

ところで、「無縁社会」という言葉の対極が「ムラ社会」であろう。
こと、私が浄土真宗のお育てに与った“真宗地帯”は、典型的な「ムラ社会」である。

稲刈りが一段落すると「御取り越し」という、
在家の仏壇で宗祖親鸞の忌日(報恩講)を勤める習慣が、ほぼ全国の真宗の多い農村では存在する。

滋賀県辺りなどは、いついつ誰それの家で報恩講が勤まるというと、
向こう三軒両隣は言うに及ばず、通り沿いの半径50メートル圏内の家々から人が集まる。
八畳二間ぶち抜きの仏間は、それこそご近所さんで“満堂”ななる訳だ。

そこへ僧侶が来て装束を改めて仏壇の前に座れば、
全員で『正信偈・和讃』を唱和して、引き続いて僧侶の説教を聴聞する。
終わって、全員に供物が配られ解散となるのだが、家によっては参加者に酒の接待もする。
浄土真宗の仏事を通して、地域の繋がりを確かめ合うのが江州辺りの「御取り越し」である。

しかし、こうした繋がりも世代交代を重ねる内に、煩わしさが目立つようになり、
衰退の一途をたどっているのかも知れない。

確かに、現代人からすれば何と前近代的な集いと思われるかも知れない。
付き合いとはいえ、時間を割いてその家へ参詣に行くのも煩わしければ、
特に受け入れる側は物心ともに大変だ。
参詣者に配るお供物も用意しないといけないし、仏間の大掃除も念入りにしないといけない。
「無縁社会」の対極が「ムラ社会」であるならば、「ムラ社会」の人間関係とはそういうものである。(後略)

◆続・無縁 2月13日 今様つれづれ草
http://blogs.yahoo.co.jp/namoamidabutsu18/61666577.html

その記事中の一節は圧巻であった。
少しく引用しておきたい。

   なんでも、孤独死し身寄りのないものが沢山増えているそうな。
   それがどうした?と言いたい。
   そんなことを大上段に「無縁社会」などという頭を疑う。
   NHKというメディアが賞をもらって調子に乗っているそうな。
   島田某という似非宗教学者がさっそく商売をしているもんな。

   要するにそのことは、
   ①死体の処理に困るということ
   ②それにともなって後始末に公共のコストがかかるということ
   ③モノのように処理されていく「死」に対して何らかの畏れを感じている、
    ということではないのか?

   ①~③のことは、本人以外がかかわることになるから「問題」になってきたのでしょう。
   なら、ちっとも「無縁」じゃないじゃないか・有縁だ。

ややもすれば痛烈な内容ではあるが、完全“無縁”はあり得ないのは確かなようだ。
それこそ、“無縁”は何も現代社会だけの病理では決してない。

時代小説の主人公“木枯らし紋次郎”は上州新田郡三日月村出身の無宿者だ。
無宿者とは人別帳(現代でいう戸籍)に記載されない者のことである。
彼はひたすらに「あっしには、かかわりのねェことで…」を繰り返し、
積極的な人との繋がりを持とうとはしない。
ただひたすら、目的のない旅から旅への渡世人生である。

親鸞の時代に至っては、墓に葬られる者は極めて稀であった。
今も京都に地名として残る、西の鳥部野、東の蓮台野といえば、
そこは死体を遺棄するための場所なのだった。
蓮台野を通る千本通という広い道路の名前の由来は、
“無縁仏”の卒塔婆が千本立っていたという故実にちなむ。
近世・中世の人々は、我々の想像を遙かに超えた社会で暮らしていた。

もっとも紋次郎の“無縁”は、孤独としての無縁に加えて、
権力からの垣根を越えたところに存在する“無縁”でもあろう。 (転載終り)

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火車婆・考

 -「カシャババ」は我が郷里だけかと思っていたが、「火車婆」は全国区らしい-

 当ブログのアクセス検索フレーズの中には、ハッとさせられるフレーズに時折りぶつかります。今回の記事もそういう検索フレーズに基づいて作成するものです。
 今月上旬のある日、期せずして2人の方が以前の『続・乞食さんの思い出』記事に、ある共通の検索フレーズでアクセスしてこられました。一人の方は「カシャ婆」もう一人の方は「カシャ婆さん」です。

 『続・乞食さんの思い出』の中で、私の郷里町である山形県東置賜郡宮内町(現・南陽市宮内)での思い出として、近所で時折り噂になる「カモダのカシャババ(婆)」について触れたのでした。
 ですから私はてっきり、このお2人は郷里の人か、その名前を知っている郷里出身の人かと思いました。

 それにしても、超ローカルな地方でだけ語られている「カモダのカシャ婆」について、2人同時にアクセスしてくるものだろうか?奇妙といえば奇妙です。そこで私は「物は試し」と、「カシャ婆」についてネット検索してみることにしました。すると驚いたことに『ウィキペディア』をはじめとして「火車」「火車婆」がズラッとあるではありませんか。
 私は同記事の末尾で、「カモダのカシャババは、蒲生田の火車婆か?」とイメージからあてづっぽうな表記をしましたが、ズバリそのとおりだったわけです。

 中でも『ウィキペディア』が一番よくまとめられています。そこで「火車(妖怪)」の項を、以下にざっと紹介してみたいと思います。

火車化車(かしゃ)は、悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる日本の妖怪。葬式や墓場から死体を奪う妖怪とされ、伝承地は特定されておらず、全国に事例がある。正体は猫の妖怪とされることが多く、年老いた猫がこの妖怪に変化するとも言われ、猫又(注 これも老猫の妖怪)が正体だともいう。

日本古来では猫は魔性の持ち主とされ、「猫を死人に近づけてはならない」「棺桶の上を猫が飛び越えると、棺桶の中の亡骸が起き上がる」といった伝承がある。また中世日本の説話物語集『宇治拾遺物語』では、獄卒(地獄で亡者を責める悪鬼)が燃え盛る火の車を引き、罪人の亡骸、もしくは生きている罪人を奪い去ることが語られている。火車の伝承は、これらのような猫と死人に関する伝承、罪人を奪う火の車の伝承が組み合わさった結果、生まれたものとされる。

 このように「火車」は全国的に分布している伝承で、その正体は老いた猫で、死んだ者の亡骸(なきがら)を奪う恐ろしい妖怪だったのです。
 ただ、昔話「猫檀家」などでも火車の話があり、播磨国(現・兵庫県)でも山崎町(現・宍粟市)牧谷の「火車婆」に類話があるといいます。これなどは、この昔話が各地に伝播していく過程で、老猫が人間の老婆に変化した可能性が考えられます。

 火車と同種のもの、または火車の別名と考えられているものに、以下のものがあります。

 「民話の宝庫」岩手県遠野では「キャシャ」といって、上閉伊郡綾織村から宮守村(二つとも現・遠野市)に続く峠の傍らの山に前帯に巾着を着けた女の姿をしたものが住んでおり、葬式の棺桶から死体を奪い、墓場から死体を掘りこして食べてしまうといわれました。
 長野県南御牧村(現・佐久市)でもキャシャといい、やはり葬列から死体を奪うとされました。

 私の出身県である山形県にも「火車の話」があります。
 同県では昔、ある裕福な男が死んだときにカシャ猫(火車)が現れて亡骸を奪おうとしたが、清源寺の和尚により追い払われたと伝えられています。そのとき残された尻尾とされるものが魔除けとして長谷観音堂に奉納されており、毎年正月に公開される、というものです。

 ここまで『ウィキペディア』をかなり引用しながら記してきました。しかしここにきて『何となく聞いたことがあるけど、長谷観音堂ってどこにあるんだ?』と思ったのです。そこでこれもネット検索で調べることにしました。
 すると驚いたことに、「長谷観音堂」とは何と私の郷里町である宮内にあるお堂ではありませんか ! おらが郷里町の観音様のお堂に、カシャ猫の尻尾が奉納されている?(なお「清源寺」は、山形市大字長谷堂地内にあるお寺のようです。地名が「長谷堂」、宮内町の観音堂が本家だったということなのでしょうか?)

 いやいや、「カシャ婆」一つに興味をもって調べていくうちに、思いがけない他の興味ある事につながっていくものです。
 そう言えば思い出しました。私が通った小学校に隣接して熊野神社があり、境内沿いの道を北の方向に真直ぐ行くと野道になり、しばらく行ったその先に同観音堂があったのです。小学校4年生の頃、その近くで同学年による秋の「芋煮会」をしたことを覚えています。
 懐かしいあの芋煮汁の旨い味。その時亡母が持たしてくれた弁当のおかずは、醤油で煮たイナゴでした。

 私は今回初めて知りましたが、長谷観音堂境内には、近代俳句の創始者の一人である俳人・高浜虚子の
   雪の暮花の朝の観世音
の句碑が建っているというのです。
 さらには『夏は来ぬ』の作詞者で歌人の佐佐木信綱の
   国のため玉と砕けし
   ますらをとはに守りませ 長谷のミ仏
の歌碑もあるのです。

 そろそろ「カシャ婆」のまとめに入りたいと思います。

 私は『続・乞食さんの思い出』で、近隣で噂されていた「カモダのカシャ婆」を女乞食になぞらえました。しかしこれはとんでもない誤りだったことになります。何かあるとその名を聞くだけで、子供だった私は興味半分に一度その姿を見たいものだと思っていましたが、ついぞ見たことはありませんでした。
 それもそのはずです。相手は妖怪なのですから、そうやすやすと姿を現わすはずがないのです。また私は同記事で「あるいは山姥(やまんば)のたぐいか?」とも述べましたが、そちらの方がイメージとしては近かったことになります。

 蒲生田(カモダ)は、町の東外れを流れる吉野川(最上川の上流の一つ)の川向こうの、ずっと先にある蒲生田山のたもとの集落です。あるいは昔、その辺にある種の凄味を持った老婆が実在していて、先ほどの長谷観音堂の「カシャ猫の尻尾」の言い伝えと習合して「カモダのカシャ婆」と呼ばれるようになったのかもしれません。

 「カモダの」というからには、そう呼んだのは町場の人たちだったのに違いありません。宮内町の西北には、「日本三熊野の一つ」とされる熊野神社(現・熊野大社)があります。そうでありながら、その反対の東南方向にカモダのカシャ婆をこしらえてしまう。大変面白い庶民の精神構造というべきです。
 今回記してきて気がつきましたが、「カモダのカシャ婆」は我が郷里のレッキとした「民話」の一つであると思います。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『ウィキペディア』「火車(妖怪)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%BB%8A_(%E5%A6%96%E6%80%AA)
『山形県南陽市/赤湯温泉協同組合』公式サイト「高浜虚子 句碑(長谷観音堂内)」
http://samidare.jp/akayu/lavo?p=log&lid=46175
同サイト「佐佐木信綱 歌碑(長谷観音堂」)
http://samidare.jp/akayu/note.php?p=log&lid=46174
関連記事
『続・乞食さんの思い出』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-013b.html
『秋の蔭』(高浜虚子句鑑賞)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-5e92.html
『フォレスタの「夏は来ぬ」』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-efdc.html
『川向こう・考』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-0d36.html

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『遠野物語』第27話-若き女から託された手紙

 -池の端先代主人に手紙を託し、受け取った二人の「若き女の正体」とは?-

 先日の『「遠野物語」第22話-有り得ざる怪異譚』に、お二人の方が期せずして「遠野物語 27話」という検索フレーズでアクセスしてこられました。興味を覚えた私は、早速『遠野物語』のその話を開いて読んでみました。

 第27話。あゝこの説話なら私もよく知っています。第8話、第22話などとともに、この話の冒頭の「二七」の数字を丸で囲み、その上しっかりと赤く塗りつぶしてします。これは『遠野物語』全説話中でも、特に「お気に入りの説話である」という私なりの印(しるし)なのです。
 これもなかなか面白い説話です。それで今回一記事設けることにしました。例によってまず、第27話原文、少し長めですが以下に転載します。

二七 早池峯(はやちね)より出(い)でて東北の方宮古の海に流れ入る川を閉伊川(へいがわ)という。その流域はすなわち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池の端(いけのはた)という家の先代の主人、宮古に行きての帰るさ、この川の原台の淵(はらだいのふち)というあたりを通りしに、若き女ありて一枚の手紙を託す。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行き、手を叩けば宛名(あてな)の人いて来(く)べしとなり。この人請け合いはしたれども路々(みちみち)心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部(ろくぶ)に行き逢えり。この手紙を開きよみて曰(いわ)く、これを持ち行かば汝(なんじ)の身に大なる災(わざわい)あるべし。書き換えて取らすべしとて更に別の手紙を与えたり。これを持ちて沼に行き教えのごとく手を叩きしに、果して若き女いでて手紙を受け取り、その礼なりとてきわめて小さな石臼(しいうす)をくれたり。米を一粒入れて回せば下より黄金出ず。この宝物の力にてその家やや富有になりしに、妻なる者慾(よく)深くして一度にたくさんの米をつかみ入れしかば、石臼はしきりに自ら回りて、ついには朝ごとに主人がこの石臼に供えたりし水の、小さき窪(くぼ)みの中に溜(たま)りてありし中へ滑り入りて見えずなりたり。その水溜りはのちに小さき池となりて、今も家の旁(かたわら)にあり。家の名を池の端というもその為(ため)なりという。
 ○この話に似たる物語西洋にもあり。偶合にや。  (引用終わり)(岩波文庫『遠野物語・山の人生』より)

 99話の「福二の亡妻との遭遇」や22話の「亡くなりし老女の有り得ざる出現」などと趣きは少し違いますが、この話もやはり「怪異譚」に分類していいのでしょう。そんなことを言えば、『遠野物語』のほとんどすべての説話は何がしかの怪異性を帯びているものですが…。

 私がこの物語の岩波文庫版を読んだのは30代後半の頃ですが、この説話の余白に次のような書き込みをしています。
 「岩波文庫『日本の昔話(Ⅱ)』中の「沼の主のつかい」は岩手県江刺郡の話だが、良く似ている。若き女とは「原台の主」の化身か?」
 今手元に『日本の昔話(Ⅱ)』が見つからないのが残念ですが、そういえば『沼の主のつかい』の話ボンヤリと覚えています。「沼の主」の正体は確か大蛇だったのではないでしょうか。水神系としての蛇や龍は、日本のみならず中国など世界各地に広く見られる伝承です。

 この説話には二人の「若き女」が登場します。一人目が池の端の先代の主人に手紙を託した「原台の淵の若き女」、そして二人目は同人からその手紙を受け取った「物見山の中腹の沼の若き女」。
 この二人の女は、距離は離れていても、以心伝心的に通じ合っていると見るべきです。「手を叩けば」宛名の人現れんというのは、いかにも呪術的です。そしてこの女たちは、二人目の女がお礼にと言って黄金を生む小さな石臼をくれたように、以前の私が書き記したとおり「淵や沼の主の化身」のようなただならぬ霊力の持ち主です。

 二人の若き女の間に割って入った形の存在が「六部」です。六部は『ウィキペディア』では次のように説明されています。

 「六部とは、六十六部の略で、六十六回写経した法華経を持って六十六箇所の霊場をめぐり、一部ずつ奉納して回る巡礼僧のこと。六部ではなく修験者や托鉢僧、あるいは単なる旅人とされている場合もある。」

 この説話での六部は、先の原台の淵の若き女の「手紙を受け取り次第、男は食べておしまい」というような邪悪な意図を見抜き、その先代主人の災いを「幸変え(さちがえ)」するほどの法力のある巡礼僧ということになりそうです。

 「石臼からもっと黄金を出そう」とした欲深妻は、昔話の花咲か爺さん、こぶとり爺さんなどに登場する性悪爺さんと同工異曲であるように思われます。
 以上見たとおり、この説話はこれまで紹介した各説話と違って実話そのままではなく、昔話的な要素が多分に加味されていそうです。長い歳月の伝承によって練り上げられ、話としてもしっかりしたストーリー性が感じられます。

【追記】
 『遠野物語』関連記事、決して多くはありませんが、嬉しいことにコンスタントにアクセスがあります。同物語では「座敷わらし」「オシラサマ」「馬に恋した美女」「河童」などは“定番”ですが、まだ取り上げていません。
 そこで今回『遠野物語・昔話・民話』カテゴリーを新たに設け、同物語を中心としたテーマを今後とも取り上げていくことにしました。このカテゴリーを機縁として、『遠野物語』や民俗学に興味を持たれる方が少しでも増えていただければ幸いです。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『遠野物語・昔話・民話』カテゴリー
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat51045525/index.html

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『遠野物語』第22話-「有り得ざる怪異譚」

 -死者がこの世に出てくるのはいい。しかし物を動かしたりしてはいけないのに…-

 2009年8月13日の『寒戸の婆』以来、柳田國男の『遠野物語』を何度か取り上げました。昨年10月には『鎮魂の物語の成立』で、民俗学者で東日本大震災復興会議のメンバーでもある赤坂憲雄の含蓄に富む一文も紹介しました。
 同文のメーンは、大震災の被災地となった「田の浜」を舞台とした第99話なのでした。この話は、先年妻を大津波で亡くした福二という漁師が、ある晩浜の方から男とともに歩いてくる亡き妻と遭遇した怪異譚なのでした。(連れの男は以前海の遭難で亡くなった、妻のかつての想い人。)

 今回取り上げるのは、数多くある『遠野物語』の説話の中でも、「寒戸の婆」の第8話などとともに、私が取り分け好きな説話の一つである「第22話」です。この話もまた怪異譚です。まずはその原文を以下に掲載します。

二二 佐々木氏の曾祖母年よりて死去せし時、棺に取り納め親族集まりてきてその夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心のため離縁せられたる婦人もまたその中にありき。喪の間は火の気を絶やすことを忌むがところの風(ふう)なれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裏の両側に座り、母人(ははびと)は旁(かたわら)に炭籠を置き、おりおり炭を継ぎてありしに、ふと裏口より足音してくる者あるを見れば、亡くなりし老女なり。平生腰かがみて衣物(きもの)の裾を引きずるを、三角に取り上げて前に縫いつけてありしが、まざまざとその通りにて、縞目にも見覚えあり。あなやと思う間もなく、二人の女の座れる炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取(すみとり)にさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり。母人は気丈の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打ち臥したる座敷の方へ近より行くと思うほどに、かの狂女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。その余の人々はこの声に睡(ねむり)を覚ましただ打ち驚くばかりなりしといえり。
 
○マーテルリンクの『侵入者』を想い起こさしむ。 (岩波文庫『遠野物語・山の人生』より)

 冒頭「佐々木氏」とあるのは、岩手県遠野郷出身の民話収集家・研究家の佐々木喜善(佐々木鏡石)のことです。柳田國男は、佐々木喜善から遠野地方に伝わる伝承、民話、説話を聞き書きしたことにより、名著『遠野物語』が生まれたのです。

 この話は、佐々木喜善自身がその晩実際その家にいた一人だったのか、あるいは佐々木が生まれる前の話だったのか。いずれにせよ、第99話もそうでしたがずっと以前の昔話ではなく、この名著が上梓された明治43年(1910年)に近接した頃の話で、登場人物の多くは実在した人物です。そこが他の民話、伝承とは違う『遠野物語』の持つ実話的リアリティです。
 死者の娘で乱心のため実家に帰されていた狂女が、この話の怪異効果を高めるのに一役かっています。

 『遠野物語』が発刊された当初、泉鏡花や芥川龍之介といった才能溢れる気鋭の作家が高い評価を寄せたことは『「遠野物語」発刊100周年』で触れました。まだ我が国で「民俗学」という分野が確立されていなかった当時ですから、泉鏡花も芥川も文学作品として高く評価したのです。(注 この『遠野物語』によって日本民俗学がスタートした。)

 ずっと後年(戦後)のことになりますが、三島由紀夫がこの第22話を激賞しています。三島の場合も文学的側面としての評価でしょうが、戦前の日本浪漫派から出発した耽美主義的な三島が「土俗的なこの話をなぜ?」と思ってしまいます。
 ただ三島自身の20代の代表作の一つに、『近代能楽集』という未だに海外で高い評価を得ている作品があります。「能」は死者と生者の交流が大きなテーマです。この作品の中の『卒塔婆小町(そとばこまち)』では、現代に巧みに設定を変えながら、99歳の老いさらばえた小野小町を登場させています。

 そんな三島が(三島一流の逆説で)「この話はいけません」というのです。どこがいけないのでしょうか?
 「死んだはずの老女が出てくるのはまあいい」、許容範囲である。しかし「裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり」という、「ここがいけない」というのです。
 確かに幽霊となってこの世に現れることはままあることです。しかしいくら何でも、死者は不文律的に、生者たちの物質を動かしたりしてはいけないのです。
 もしそうでなければ、この世とあの世の截然(せつぜん)と区分された秩序が根底から揺らぐことになるではありませんか。

 しかし、およそ有り得ざる怪異が当然のように語られるのが『遠野物語』の大きな魅力の一つです。この話でも、亡くなった老女は顕界、幽界の秩序など何のその、そんな結界などいとも簡単に踏み破り、親族たちへの何のメッセージなのか炭取をくるくる回し、平然と去って行ってしまうのです。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『寒戸の婆』
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『「遠野物語」発刊100周年』
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『鎮魂の物語の成立』
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鎮魂の物語の成立

 赤坂憲雄(あかさか・のりお)氏。何とも懐かしいお名前です。今から20年以上前、民俗学や文化人類学などの分野に興味を抱き、少し関係図書を読んだ中にこの人の著書も混じっていたのです。
 今でも書棚のどこかに、赤坂氏の『異人論』や『境界の発生』など読みかけの本がそのまま眠っているはずです。そもそも同氏に関心をもったのは、何かの専門雑誌の中の同氏の一文をたまたま読んだことでした。『この人は何と頭の良い人なんだろう』。その明晰な論旨の展開に驚嘆してしまったのです。

 赤坂憲雄(以下敬称略)は1953年東京都生まれの民俗学者です。近年すっかりそういう分野から遠ざかってしまったことにより同氏の消息も忘れていましたが、現在は青山学院大学教授、福島県立博物館長というお立場のようです。また多数の著書により幾つもの学術賞を受賞し、東日本大震災復興構想会議委員でもあるようです。
 今回久しぶりに赤坂憲雄の名前を目にしたのは、有隣堂の広報紙『有鄰』第516号の2面に同氏の一文が掲載されていたからです。

 赤坂は4月のなかば、3・11大震災で被災した岩手県太平洋沿岸の各地を訪れ、被害状況を『鎮魂の物語の成立』という一文として掲載しているのです。
 少し長い文なので前半の被災地ルポの部分は割愛させていただき、同氏の真骨頂である『遠野物語』に関係した後半部のみ今回転載させていただきます。
 なお既にお読みいただいた方もおありかと存じますが、当ブログでも昨年8月『寒戸の婆』『続・寒戸の婆』『「遠野物語」発刊100周年』の『遠野物語』関連記事を公開しています。 (大場光太郎・記)
 
                       *

鎮魂の物語の成立 今もとめられる、聞き書きの旅   赤坂憲雄

 (前半省略)

大津波に流された妻の幽霊と田ノ浜で遭遇する『遠野物語』

 それから、田ノ浜へと向かった。船越に隣接する地区だ。ここもまた、甚大な被害を受けた。じつは、この田ノ浜は『遠野物語』の第九十九話に、とても印象深いかたちで登場してくる。主人公は福二という、『遠野物語』ではだれもがそうであるように、実在の人物である。この人は遠野から、縁あって田ノ浜へと婿に行った。そして、先年、つまり明治二十九年に大津波に遭って、妻と子とを失い、生き残った二人の子どもとともに、元の屋敷地に小屋を掛けて暮らしていたらしい。一年ばかりが過ぎた頃に、福二はこんな不思議な体験をしたのである。
 ここからは、『遠野物語』を引きながら、わたしの呟きを添えてゆく。

 夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遥々と船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。

 幽霊との遭遇譚である。舞台は、夏の初めの月夜、まちがいなく旧暦のお盆の時期であった。死者たちが還ってくる季節だ。満月か、それに近い月が、波が寄せては返す渚を照らしている。この渚は民俗学的には、海のかなたより寄り物が漂着する、この世/あの世が重なり合う境界領域であった。まさしく、海に流された妻との再会の舞台としては、これ以外ありえない場所だった。船越村とのあいだには小さな崎があり、そこには洞がある。こうした海辺の洞穴にはしばしば、地蔵が祀られて、サイの河原などが見いだされる。ここで、ついに福二は妻の名を呼ぶのである。妻は振り返って、にこと笑った。しかし、妻のかたわらにはだれか、男がいる。

 男はと見れば此も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互に深く心を通わせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてありと云ふに、子供は可愛くは無いかと云へば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。

 まことに残酷な展開だ。男と女の二人連れが近づいてくる。女が妻であることには、すぐに気づいた。名を呼ぶと、妻は振り返った。同時に、連れの男も振り返ったにちがいない。よく見知った同じ里の男だ。津波で死んだ。福二が婿入りする前に、妻はその男と深く心を通わせあっていた、と聞いていた。噂か、いや、里のだれもが知る事実だったにちがいない。福二はずっと、子どもが何人も生まれた後になっても、そのことを気にしていた。妻の心はずっと、あの男の元にあるのかもしれぬ、と疑っていたのである。だから、妻は答える、今はこの人と夫婦になっている、と。思わず未練の言葉が口をつく。子どもはかわいくはないのか。禁句だった。そんな文句にすがったら、この男には惨めな敗北しか残らない。妻を泣かしたところで、心を引き戻すことはできない。

 死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明けまで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。

 死者と物言うとは思われず、しかし、ふと死者なりしと心付くと、もはや追いすがることはできない。福二は夜が明けるまで、道中に立ち尽くし、堂々巡りを考えあぐねる。その後、久しく病気になった、という。作家の三浦しをんさんが、遠野で対談したとき、この第九十九話には小説のすべてがありますね、と話していたことを思いだす。

たくさんの福二と妻の物語を記録に書き留める新たな聞き書きを

 この田ノ浜はこのたび、明治二十九年と昭和八年に続く大津波によって、またしても深刻な被害をこうむった。被災の状況が高台/低地のあいだで、くっきり分かれている。低地は土台しか残っていない。火災が起ったらしい。高台の一部も延焼でやられている。背後に広がる杉林のなかにも、点々と焼け焦げた跡が残り、さぞや怖ろしい一夜であったことだろう、と思う。ここでも、少し高台にある神社が生き残っていた。八幡様が祀られていた。拝殿のわきからは、木の間越しに海が見えた。あの静かな海が盛り上がって、どす黒い壁となって押し寄せてくる姿を思い描くことは、とうていできない。
 たくさんの福二と妻の物語がそこかしこにある。それらを聞き書きし、記録に留めねばならない。生き延びた者たちだけが物語りをすることができる。死者たちのゆくえに眼を凝らし、消息に耳を傾けながら。鎮魂のために。寄り添い続けるためにこそ、そんな聞き書きの旅が求められている。  (転載終わり)

 引用 有隣堂『有鄰』第516号2面より

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続・寒戸の婆

  盆荒れのたびに山姥現わるる   (拙句)

 先日『遠野物語』中の神隠し譚の代表例として、「寒戸の婆」を取り上げました。そうしましたら、ある人が「寒戸の婆」という検索フレーズでアクセスしてこられました。『えっ?』。まさかこんな一説話中のマイナーな(と思われる)名前で?と意外でした。
 そこで興味を持ち、グーグルからのようでしたので、私もそれをたどってみることにしました。

 その結果グーグルでの「寒戸の婆」、何と7万項目以上もあったのです。普段人名検索をしている人ならご存知でしょうが、今をときめく著名人でもこの数字を越えることはそう多くはありません。「寒戸の婆」はかくも“有名人”だったのです。
 また同検索項目のトップ面の何番目かに、早くも当ブログ『寒戸の婆』が載っていました。それを知った私は、『こりゃ大変だ』と思いました。前回記事は世間にあまり知られていないことを前提に、よく調べもせずに私の勝手な推測で書いてしまったからです。

 グーグル同項目トップ面には、『寒戸の婆-Wikipedia』というものまであります。寒戸の婆さまは、かのウィキペディアでも取り上げるほどメジャーな名前だったとは。
 そこで遅ればせながらウィキペディアや他の2、3のサイトをのぞいて読んでみました。その結果『これは少し補足しておく必要があるな』と思い、今回『続・寒戸の婆』として再度取り上げることにしました。

 今回は紙面の関係で、『ウィキペディア』による解説のみ参考に述べていきます。
 いきなりですが、遠野地方に「寒戸(さむと)」という地名は存在しないそうです。その代わり「登戸(のぼと)」という地名ならあり、柳田國男に元ネタを提供した遠野出身の民話蒐集家の佐々木喜善は、当初から「登戸」と柳田に伝えていた可能性があります。
 というのも、佐々木自身が後に著した『東奥異聞』にこれと酷似した話を載せ、そこでは「ノボト」という地名を用いているからです。参考までその一文を以下にご紹介します。前回の『寒戸の婆』で掲げた『遠野物語』中の一文と比較してみてください。

<松崎村のノボトの茂助という家の娘が、梨の木の下に草履を残して消息を絶った。何年か経った嵐の日に娘が帰ってきたが、その姿は山姥(やまんば)のように奇怪な老婆に成り果てていた。老婆はその夜は村に一泊したのみだが、それから毎年やって来て、そのたびに暴風雨が起きた。村人たちは困り果て、老婆が来ないように巫女(みこ)や山伏に頼み、村境を封じる石塔を建てたことで、老婆は来なくなったという。>

 「ノボト(登戸)」という地名が上閉伊郡松崎村に実在することから、こちらの話が原話だったと考えられます。この話を聞いた柳田國男の聞き違いか、あるいは別の意図があって「寒戸」に変えたものと思われます。
 また実際登戸のある旧家では、明治初期に茂助という当主の娘が消息を絶ち、数十年後に山姥のような姿に成り果てて村に現われたと伝えられており、これが伝説のモデルといわれているようです。

 実際この伝説により現地では「モンスケ婆」と恐れられ、強風が吹く日などは「モンスケ婆が村に姿を現わす」といわれたり、上閉伊郡土淵村(現・遠野市)では泣き喚く子供を「モンスケ婆様来るぞ」といって叱りつけたりもしていたそうです。
 ですから本来ならば「登戸(ノボト)の婆」または「モンスケ婆」であるべきですが、『遠野物語』が有名になったことにより、「寒戸の婆」の名で遠野の伝承として定着していったもののようです。

 読み比べてみますと、『遠野物語』と『東奥異聞』の二つの文には、それ以外にも違っているところがあります。
 大きな違いは、『遠野物語』では消息を絶った女は、「風の烈しく吹く日」に30余年ぶりで一度村に帰ってきただけです。ところが『東奥異聞』では女は、「嵐の日」に帰ってきてその日は村に一泊したことになっています。それのみか、毎年のようにやってきたというのです。
 これは老婆出現の劇的効果を高めるために、柳田國男が「一度きり」ということに改変したのだと考えられます。ただ佐々木喜善の、老婆はその後も毎年のようにやってきてそのたびに決まって暴風雨が起きた、困った村人たちは祈祷を頼み、村境を封じる石塔を建てたことで老婆はやって来なくなったという話には、より土俗的な物語性が感じられ、こちらもなかなか捨てがたいように思われます。

 その他何十年かぶりで現われた老婆を、『遠野物語』では「きわめて老いさらぼえて」としているのに対して、『東奥異聞』ではズバリ「山姥のように奇怪な老婆」としています。先の村人たちの伝承などからも、こちらの方が現われた老婆のよりリアルな表現だったのでしょうか。
 「山姥」は多義なとらえ方のできる存在です。またいずれ『山姥考』といった一文をと考えますが、いずれにしても山の奥に棲むことに変わりありません。その点で、「山人にさらわれた」という私の推測もあながち間違いではないようです。

 すべて一つのエポックメーキングな出来事というものは、「核(コア)」の部分はそのまま残るとしても、当事者や目撃者、その聞き取り、伝聞の過程で尾ひれがついて流布され、さまざまなヴァリアントを持つ伝承、伝説、説話となって伝播されていくのだろうと思わせられます。
 そしてそれらを読み比べることもまた、昔話や民話探求の楽しみの一つでもあるわけです。

 (大場光太郎・記)

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『遠野物語』発刊100周年

 -「この書を外国に在る人に呈す」という冒頭の献辞には深く考えさせられる-

 先日の『寒戸の婆』作成の過程で気がついたのですが、『遠野物語』が刊行されてから、今年はちょうど100周年だそうです。

 『遠野物語』は、民俗学者の柳田國男が発表した説話集です。岩手県遠野地方出身の小説家、民話蒐集家だった佐々木鏡石(本名:喜善)によって語られた、遠野盆地、遠野街道にまつわる民話を、柳田が筆記・編纂した初期の代表作です。
 その内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪にまつわるもの、マヨイガ、神隠し、死者などに関する怪談、さらにはオシラサマなど祀られる神様、そして行事など多岐にわたっています。文語体で最初に発表された『遠野物語』本編は119話、後に口語体で発表された『遠野物語拾遺』には299話が収録されています。

 『遠野物語』の初版発行は明治43年(1910年)、わずか350部あまりの自費出版でした。比較的好評で半年ほどで印刷費用を回収できたそうです。ただし200部は柳田が買い取り、知人に寄贈したといいます。
 寄贈した中でも、島崎藤村、田山花袋、泉鏡花らが積極的な書評を書きました。また同物語購読者には芥川龍之介や南方熊楠(みなかた・くまぐす)、言語学者のニコライ・ネフスキーらがいました。特に当時19歳だった芥川は、同書を激賞する旨の書簡を親友に宛てて出しています。
 当時『遠野物語』は、奇異な物語を詩的散文で綴った文学作品として受け入れられていたようです。

 著者の柳田國男(やなぎた・くにお)は、明治8年(1875年)7月31日兵庫県福崎町で、松岡操の六男として生まれました。幼少期から非凡な記憶力を持ち、11歳の時旧家の三木家に預けられ、そこの膨大な蔵書を乱読したそうです。19歳にして第一高等学校に進学しました。
 兄の井上通泰の紹介で森鴎外と親交を持ち、一高時代は『文学界』『国民之友』『帝国文学』などに投稿。明治30年(1897年)には田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版しました。

 しかし柳田家の養子に入った國男は文学を捨て、官界を目指して東京帝国大学に入学。東大では農政学を学び、農商務省のエリート官僚となっていきます。講演旅行などで地方の実情に触れるうちに、次第に民俗的なものへの関心を深めていったようです。また当時欧米で流行していた心霊主義(スピリチュアリズム)の影響を受けました。
 これらが後の『遠野物語』誕生の素地となっていくのです。

 さて『遠野物語』が発刊された、明治43年とはどんな年だったのでしょう。簡単に見てみましょう。
 この年の8月「日韓併合条約」が締結され、以来35年間朝鮮半島は日本の統治下に置かれることになりました。また明治天皇の暗殺を企てたとして、幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)ら数百名の社会主義者、無政府主義者らが逮捕された「大逆事件」が起きたのもこの年です。またこの年の1月23日には、鎌倉の七里ガ浜で逗子開成中学ボート部の13名が強風にあおられ転覆、全員溺死するという事故が起きました。これを悼んで作られた『真白き富士の嶺』(『七里ガ浜の哀歌』)が大流行しました。

 「明治の御代」も終わりにさしかかった明治43年は、明治37年の日露戦争などを経て欧米列強の仲間入りを果たすなど、明治維新以来創り上げてきた「この国のかたち」がだいぶ見えてきた時代だったといえます。
 その頃に柳田國男が『遠野物語』を上梓した意義とはどこにあったのでしょうか。『遠野物語』はその後、民俗学の原典的テキストと位置づけられ、後の民俗学者たちによって幾多の優れた論考が積み重ねられてきました。今さら私ごとき者が大上段に論ずべきものでもありませんし、そんな力量もありません。

 私はここで的を絞って指摘しておきたいと思います。それは「この書を外国に在る人に呈す」という、冒頭の柳田自身の献辞です。
 さて当時どれだけの日本人が、外国に居住していたのでしょうか。日韓併合により渡朝した人々、各国の大使館に勤務する外交官や駐在武官、英仏などへの留学生…。確かに「外国に在る」人々は、当時も少なからずいたのでしょうが、まさか今日ほどでもなかったことでしょう。果たして柳田のこの献辞は、それらの人に向けられたものだったのでしょうか。

 私はむしろ、日米戦争末期から岡本天明師に降ろされた『日月神示』の中の、「顔は日本人でも心は外国人沢山いるぞ」という神示に共通する想いが、柳田の本心としてあったように思われてならないのです。

 これは夏目漱石にも共通しますが、明治政府が強力に推し進めてきた近代化政策に、柳田は大いなる違和感と危うさを感じていたのではないでしょうか。それとともに、日本人としての「アイディンティティ喪失」の危機もひしひしと。
 ですから柳田國男が創始した民俗学もこの書も、「日本とは何か」「日本人とは何か」を問い直す試みだったのであり、同時に欧米式近代化へのアンチテーゼでもあったと思われるのです。

 民俗学で扱う全国各地の民話や伝承は、明治政府が強大な中央集権国家建設のよすがとした、天孫降臨など万世一系の華々しい神話ではあり得ません。むしろ縄文時代から全国各地に脈々と受け継がれできた、庶民たちの血と汗と涙と笑いが結晶化した、伝承であり民話だったのです。
 そこに息づいている、権力側から押し付けられたのではない、「真の庶民史」としての民俗学が興ったことの意義は極めて大きい。その原点としての『遠野物語』の価値は今日でもいささかも揺らいでいない。私はそう考えます。

 (注記)本記事前半は、フリー百科事典『ウィキペディア』を参考にまとめました。

 (大場光太郎・記) 

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寒戸の婆

  盆荒れや寒戸の婆はまだ来ぬか   (拙句)

 「寒戸の婆」(さむとのばば)と聞いてすぐピンと来た人はかなりの通(つう)です。何の通か?柳田國男の『遠野物語』の。そうなのです。寒戸の婆は『遠野物語』に登場する人物なのです。

 『遠野物語』は岩手県遠野地方に伝わる民話を、柳田國男が遠野出身者から聴き取って、流麗な文語体としてまとめたものです。その後の我が国民俗学の嚆矢(こうし)となった記念碑的作品です。
 各民話は120近くの短章として語られています。その中で「寒戸の婆」の話は、八番目に出てきます。短いですから、全文を以下にご紹介してみます。

八 黄昏(たそがれ)に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸というところの民家にて、若き娘梨の樹の下に草履(ぞうり)を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまりすぎたりしに、或(あ)る日親類知音の人々その家に集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留めず行き失(う)せたり。その日は風の烈(はげ)しく吹く日なりき。されば遠野郷(とおのごう)の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆が帰って来そうな日なりという。  (岩波文庫版『遠野物語』より)

 これはいわゆる「神隠し」についてのお話です。神隠しといえば近年、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』がハリウッドでも高く評価されるなど大評判でした。このアニメ映画のように、何かしらスリリングな怪異さを感じさせるのが神隠しです。
 しかしこれは柳田が一文で触れているとおり、昔々はどの国々(地方)でもあった現象のようです。

 この物語では、ある日の夕方急に姿を消した“若き娘”が、30年余後にひょっこり“老いさらぼえて”帰ってきたことが述べられています。姿を消したきり所在が分からない、一方通行の行方不明譚が神隠しの本旨であることを思えば、遠野郷で以前あったことを伝え聞いてまとめられた、この話などは極めて珍しいことと言わねばなりません。
 ともかく女はどこかでしっかり生きていたのです。いったいどこでどうやって?親類知音や読者が最も知りたいことは語られません。女はその後の身の上話を一切しなかったのです。「会いたいから帰ってきたのだ」とばかり言って、寒戸の婆は再び姿を消してしまいます。その日は怪異譚を盛り上げるには好都合なことに、風の烈しく吹く日だったというのです。

 この場合「神隠し」とは言っても、若い娘を本当に神が隠したのではありません。長年月が経過して老婆となって帰ってきたわけですから、女は元々の村落に比較的近接したどこかで生活してきたと見てさしつかえなさそうです。
 それではその場所とはどこだったのか?あくまでも推測ですが、この物語の他の個所でも述べられている「山人の世界」だったのではないだろうかと考えられます。「サンカ」や「マタギ」と呼ばれ、山奥で動物の狩猟などで生活している人々の世界です。それは「皮はぎ」などとして蔑まれた、被差別の民の世界でもありました。

 山奥の彼らの居住区は、里の村落とは隔絶した世界です。村落の村はずれの墓地の向こう、川向こう、山のたもとから先の山の中などは、当時の村落共同体から見れば、十分「異界」だったのです。ですから村人にとっては、山中でたまに姿を見かける山の民は災いをもたらす「異人」として怖れられたのです。

 ところで山の民は、古来役の行者(えんのぎょうじゃ)以降の修験者ネットワークとも関わりがありました。がなにぶん山奥ということもあり、通常の場合家族単位で通常世間とは没交渉的に生活しています。その一家族の息子に嫁が必要になったのです。とは言っても嫁候補はおいそれとは見つかりません。
 そこで家長は『里のどこかの家の娘を…』と考えます。普段里とは交流などないのですから、非合法的にかっさらってくるしかないわけです。そこで目をつけられたのが、くだんの娘だったのです。

 こうしてその日の黄昏時、計画は実行に移されます。村人に知られぬよう、家長や息子など何人かが松崎村に忍び入って、家の外に出ていた娘を力づくで拉致したのでしょう。山の民の仕業と怪しまれぬよう、娘の草履を脱がせて梨の樹に置き、さも忽然と姿を消したように偽装工作もしました。

 哀れを誘うのは、30年余後に「きわめて老いさらぼえて」帰ってきた女です。その姿は元の貧村以上に過酷な生活だったことを物語っています。しかし「女三界に家なし」という昔の言い伝えどおり、一旦異界に入った者にとって、生まれ育った村といえども既にわが身が安らげる場所ではなくなっているのです。
 だから寒戸の婆は多くを語らず、山の住まいに戻って行ったのです。一陣の烈しい風とともに去りぬ、です。

 この物語では「季節がいつか」は述べられていません。烈しい風の吹くさまから、あるいは早春の春一番の頃かな、とも思われます。しかしかなり前にこれを読んだ時から、私はなぜか旧盆の頃なのではと思い込んだのです。『死んだはずの老婆がひょっこり現われたからには、きっとお盆だろう』と、短絡的に考えたのかもしれません。
 それに都合のいいことに、俳句にも「盆荒れ」という季語があるように、旧盆の頃にわかに強い風が吹いて荒れることがあるようです。冒頭の句は、俳句を始めたての10余年前に作った句です。   - 旧盆の中日に

 (大場光太郎・記)

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