【理想的名君・上杉鷹山公】ケネディ元大統領が「最も尊敬する日本人」と激賞した、江戸時代屈指の名君”上杉鷹山”

-直江兼続と上杉藩の変遷を描いた2009年のNHK大河ドラマ『天地人』について、当ブログでも同ドラマの感想などを綴ってシリーズ記事化した。同ドラマ終了後も『米沢上杉藩物語』としてシリーズ化し、出来れば米沢藩中興の祖・上杉鷹山公の治世あたりまで見ていくつもりだったが、結局関が原合戦後上杉藩が会津から米沢に移封させられた景勝・兼続治世までしか続かなかった。また最近、安部増長との対比で、理想的政治家として古代ギリシャのペリクレスと古代ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリアスを引き合いに出したが、後で『しまった。日本史上の名君として上杉鷹山を挙げるのを忘れた』と後悔したのだった。そんな折り、大摩邇サイトに上杉鷹山を取り上げた投稿記事(元のサイトは「るいネット」)を見つけた。ちょうど良い機会なので、私の郷里の大偉人を改めて紹介したい。以後は私に引きつけた話で恐縮だがー。私の郷里町の山形県(旧)東置賜郡宮内町も、旧上杉米沢藩の領内だった。だから鷹山公の事跡については、養蚕を奨励したことなど小学校の頃から時折り聞かされて育った。また転載文中にもあるが、地域一の名門校・米沢興譲館高校は鷹山公が開設した藩校「興譲館」が前身である。同校は小学校高学年以来の憧れだったが、生来の勉強嫌いが祟って地域2番目の母校に入ったのだった。高校3年生の夏休みに、クラスの「郷土史跡めぐり」2回目企画として米沢市内の上杉藩史跡を回った事がある。その中に(今は別の場所に移築したらしいが)旧米沢上杉藩城跡内に上杉博物館があった。上杉藩ゆかりの物数々を展示してある館内を見ていく途中、一枚の書状に釘付けになってしまった。「鷹山公誓詞」(ネットを方々探したが画像見つからず)である。文面は、いよいよ上杉鷹山が米沢藩改革に着手するに当たっての不退転の決意を記したものである。達筆な直筆の決意文と共に、文末署名に血判が押してあった。その時公は弱冠17歳、既に18歳になっていた私より1歳若かったのである。歴史上の偉人と張り合っても詮無い話ながら、内心物凄いショックを受けたのである。そういう時決定的に打ちのめされてしまうタイプと、それを発奮材料として「為せば成る為さねば成らぬ何事も」(鷹山公の名言より)とポジティブに受け止めて伸びていくタイプがある。その頃(さらにはずっと後年まで)の私は前者の意気地なしタイプで、何かあるとすぐに『あゝダメだ』と簡単にあきらめてしまうタイプだった。『だが、今なら少しは違うぞ』と、遥か“後期青年者”になった今、改めて思う次第である。 (大場光太郎・記)-

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上杉鷹山公-上杉 治憲(うえすぎ はるのり、1751年9月9日 - 1822年4月2日)

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江戸時代屈指の名君”上杉鷹山”とは その①
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/2005689.html#more
大摩邇(おおまに) 19:21   
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=319545


<転載開始>
「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」どんなことでも強い意志を持ってやれば必ず成就するということで、やる気の大切さを説いたことば。これを教訓として江戸時代莫大な借財をかかえて身動きが取れない状態の米沢藩を復活させた上杉鷹山という男の正体とは!?

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■上杉鷹山とは
鷹山は、寛延4年(1751年)に日向高鍋藩主、秋月種美の次男として生まれました。

宝暦10年(1760年)、10歳で米沢藩8代藩主重定の娘幸姫の婿養子となりました。14歳の頃から細井平洲に師事し、君主としての知識を磨き、その後の藩政改革に役立てています。

鷹山は17歳で家督を相続しますが、当時の米沢藩は莫大な借財をかかえて身動きが取れない状態でした。この困窮した藩を立て直すには相当な決意が必要だったわけですが、藩主になった鷹山は、決意を表す誓詞を春日神社、白子神社に奉納しています。

また白子神社に奉納した誓詞には、大倹約を行って米沢藩を復興することを誓っています。

■数々の藩政改革
☆大倹約令の実施
明和4年(1767年)、鷹山はこの誓詞に誓った通り、12か条からなる大倹約令を発令しました。重役の一部からは、米沢藩の対面に関わると強い反対を受けましたが、鷹山は率先して節約を実行しました。江戸藩邸での藩主の生活費をおよそ7分の2とし、日常の食事は一汁一菜、普段着は木綿、奥女中も50人から9人に減らしました。

☆農業開発と籍田の礼
大倹約令と並行して実施されたのが農業開発です。鷹山は安永元年(1772年)、中国の例にならい、遠山村で藩主が自ら田を耕す「籍田の礼」を執り行い、農業の尊さを身をもって示しました。以後、刀を鍬に持ち替え家臣あげて荒地開発や堤防修築などが次々に実施されました。

☆殖産興業
もともと米沢藩の特産品であった青苧を使い、武士の婦子女に内職として機織りを習得させました。その後、桑の栽培と養蚕を奨励し、絹織物に移行。出羽の米沢織として全国的に知られるようになりました。米沢織は現在も米沢の主要産業になっています。
 その他にも製塩、製紙、製陶などの産業も興しました。

☆藩校「興譲館」の創設
鷹山は「学問は国を治めるための根元」であるとの強い考えを持っていました。このため安永5年(1776年)、城下の元篭町に藩校「興譲館」を創設しました。創設にあたっては、鷹山の師である細井平洲の意見を求めました。
平洲は、学問は単なる考証や漢文を読めることではなくて、現実の政治や経済に役立つ「実学」でなければならないと教え、鷹山に「建学大意」という指導書を贈りました。
学生は有能な家臣の子弟から20名選んで無料で入館させました。
この興譲館からは、現在に至るまで多くの偉人が輩出されています。

☆天明の飢餓
 天明3年から続いた凶作は、当然米沢藩にも影響を与えました。天明4年の米価は1俵が平年の2倍から5倍にも跳ね上がり、このため鷹山は新潟や酒田から米1万俵を買い上げ領民に分け与えました。この政策により米沢藩は天明の大飢餓においても、1人の餓死者を出さずにすんだものの藩財政は大きな打撃を受けてしまします。

☆飢餓救済の手引書「かてもの」の発行
この経験をもとに藩政の重臣にいた莅戸善政は、日頃から代用食となる動植物の調査、研究が必要と藩の侍医矢尾板栄雪らに、食用となる動植物の研究を命じました。そして、自ら飢餓救済の手引書を執筆。その内容は、「いろは」順に、草木果実約80種類の特徴と調理法について、また、食料の保存法や味噌の製造法、魚や肉の調理法について詳しく書かれています。執筆から2年後の享和2年、鷹山の意をくんで「かてもの」(かて物・主食である穀物とともに炊き合わせ、食糧不足に陥った際に節約するための代用食となる食物)と命名され1575冊を刊行。藩内を中心に配布されました。


■ジョン・F・ケネディが最も尊敬する日本人
アメリカのジョン・F・ケネディ元大統領は、ある時、日本人記者団の「あなたが最も尊敬する日本人は誰ですか」という質問に答えて、即座に、「それはウエスギヨウザンです」と答えたという。ところが残念なことに、日本人記者団の方が上杉鷹山という人物を知らず、「ウエスギヨウザンとは一体誰だ」と互いに聞きあったというエピソードがある。ケネディは、日本の政治家として、何よりも国民の幸福を考え、民主的に政治を行い、そして「政治家は潔癖でなければならない」といって、その日常生活を、文字通り一汁一菜、木綿の着物で通した鷹山の姿に、自分の理想とする政治家の姿をみたのである。

その2へ続く


江戸時代屈指の名君”上杉鷹山”とは その②
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=319546
「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」どんなことでも強い意志を持ってやれば必ず成就するということで、やる気の大切さを説いたことば。これを教訓として江戸時代莫大な借財をかかえて身動きが取れない状態の米沢藩を復活させた上杉鷹山という男の正体とは!?

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つづき

■人の心の赤字を克服した改革
上杉鷹山が、藩主として米澤藩の藩財政改革を行ったのは、江戸時代における不況の時期で、江戸時代の三大改革のひとつである“寛政の改革”が行われた寛政の時代である。
 寛政3年(1791)上杉鷹山は、二度目の改革を行った。彼は単にバランスシートの貸方借方の赤字を克服しただけでなく、むしろ、人の心の赤字を克服した。そのために、藩の財政を再建するために、絹織物の生産など新たな産業の振興策をとりつつも、同時に「そういうことが行えるのも結局は人が決めてだ」という観点に立って、「人づくり政策」をもうひとつの重要な柱とした。
 心の赤字を克服するということは、他人に対してもっと関心を持ち、弱い人や苦しんでいる人間に優しさやいたわりや思いやりを注ぐことである。「人間というのは、もともとその性は善である。しかしその善が表に現れないのは、容れ物である環境が劣悪であるからである。従って、自分の行う経営改革としては、そのような基盤整備をしないわけにはいかない」という信念をもって具体的には次のよな改革を推し進めた。

①藩民が総ぐるみで行う体質改善活動を目指し、推進体としてプロジェクトチームを編成した。

②そして藩民にも、自分なりの範囲で理解協力することを求めた。これはジョン・F・ケネディが大統領就任演説の時に言った次の言葉に通じるものがある。「私たちが活力と信念を注いで渾身の努力をすれば、我が国と、我が国に奉仕する人々の道を照らすこととなり、炎のような輝きが真に世界を明るくするはずです。ゆえに、国民の皆さん、自分のため国が何をしてくれるかを問うのではなく、自分が国のために何ができるかを問うてください。」(*)

③新しい状況を認識して、思い切って事業の見直しをしなければならない、と考え、上杉家に伝わる色々な虚礼、習わし、必要以上にお金のかかる行事などを、全部廃止した。

④改革の実は、自分が真っ先に行わなければならないと、トップの垂範を示した。江戸の藩邸にいた時、自分の生活費を十分の一に縮めた。これは、心ないトップが、部下にだけ倹約を求め、自分は今までの生活を守り抜くといったぬくぬくとした態度を自ら誡めたといってよい。

⑤心の赤字を克服した。
 改革を行うために米澤に向かう途中の板谷峠における“火種(ひだね)のエピソード”は有名だ。真冬の板谷宿は米澤藩の衰退を反映して廃墟と化していた。江戸の藩邸で、藩の累積赤字が巨額であることは承知していたがしかし百聞は一見にしかず。この有様を見て、やる気が失せそうになった。そう思った彼は何の気なしに、目の
前にあった灰皿をかき回してみた。中には未だ消えていない小さな炭火があった。それを見ると彼の目は輝き、脇から新しい黒い炭をとって小さな炭火を基にして、フウフウ吹きつけた。火が移った。これを見た彼は江戸からついて来た部下に言った。「私がこの小さな炭火になる。火種になる。おまえたちはこの火を受けてくれ。そして明日米澤城に入ったら、各職場で火種運動を起こしてもらいたい。-------そうなれば、町や村の人も火を受けて理解協力してくれるであろう」。
 この運動は盛んになった。彼が奨励した産業政策では、武士たちが進んで鍬を握り、土を耕した。-------「意識改革」と「自分に潜在する新しい能力の開発」を藩士の一人一人が行い始めたということである。

⑥改革の途中、彼は徹底的に各町や村を見て歩いた。現場を見て考えた。そして領民たちと対話した。初めのうちは警戒していた領民たちも、鷹山の誠意に打たれるようになった。「この殿様は、決して嘘をうかない」と感じるようになった。
 この現場主義は、日本的な品質管理の基本のひとつであり、カルロスゴーン氏も実践した。

⑦改革のスピードはアップし、数年後、これも有名な現象、「棒杭(ぼうくい)の商い」が起こる。人気のない過疎地で、棒杭がポツント立っている。杭の下には品物が並べられているが、売る人間はいない。棒杭には値段表がぶらさげてあった。買う人はこの値段表に応じて、自分の必要な物をきちんと支払って持ち帰った。勘定はピタリとあった。これは、即ち単に棒杭が商いをしているというだけでなく、そこには人々が信頼しあうと言う心の黒字を生じていたことを物語る。

⑧彼は、改革の成功が自分ひとりの功績だとは決して思わなかった。陰で彼の改革を助け、推進したグループの存在である。彼に有名な言葉がある。皆様もお聞きになったことがあるだろう。
「なせばなる なさねばならぬ何事も ならぬは人のなさぬなりけり」
 やる気さえあれば、何事でもしとめることができる、ということである。


<転載終了>


 以下の「伝国の辞」は、総理大臣以下のすべての与野党国会議員、中央官庁官僚、さらには都道府県市町村首長&議員、各地方公務員のすべてが肝に銘じてもらいたい言葉である。

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関連記事
若者への応援歌(4. ケネディが敬愛した 『上杉鷹山』 )
http://kamuimintara.blogspot.jp/2013/11/6.html
今こそ上杉鷹山を知る~東日本大震災~
https://www.enbridge.jp/blog/2011/04/11/671/

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徳川家康「サンカ」(山窩)出身説 !?

-余裕のあるとき、阿修羅掲示板拍手ランキングをたどっていると、拍手の少ないずっと後の方に意外にも面白い過去投稿記事がひょっこり顔を出している事がある。今回転載するのもその一つである。2002年9月投稿だから今から14年も前である。ずっと奥の方にこういう記事が眠っているから、阿修羅は貴重な情報の宝庫なのである。さて、かの徳川家康がサンカ出身か?というのだ。「サンカ」(山窩)とは、「日本の山地や里周辺部で過去に見られたとされる不特定の人々を指す言葉である。その指し示す範囲は広く、回遊職能民であったり特殊な窃盗団など、時代や立場によって定義や趣旨も大きく変わり、語義を明確にすることは難しい。」(ウィキペディアより)とされる、一定居住地に定住せず村々を移動して生活していた、いわば日本版ジプシーのような存在といえばいいのだろうか。いわば当時賎民とされた「異形の民」の一種といえるだろう。八切史観では徳川家はサンカだったわけではなく、その遠祖は南朝系・後醍醐天皇に与した新田義貞の末裔としているという。ただ家康の先代頃にはすっかり落ちぶれ、家康は「願人坊主」の息子だったと。願人坊主は大道芸で露命をつなぐ芸能賎民のことらしい。サンカにせよ願人坊主にせよ、このような異形の民と日本史上最大・最長の幕府を樹立した徳川家康が結びつくとなると、事は穏やかではなくなる。高度経済成長期にもてはやされた山岡荘八『徳川家康』など、いっぺんに吹っ飛んでしまうほどの大衝撃だ。その徳川家康が天下統一し徳川家の天下が二百数十年も続き、大政奉還、明治維新から百数十年後の平成今日でも「徳川家」「松平家」と言えば超名門セレブでとおっているのだが。日本史の闇に新たな光を当てたのは、後醍醐天皇をテーマとした網野善彦著『異形の王権』が嚆矢だ。以来歴史の通説が次々に覆されているのは、「真日本史」を知る上で重要なことである。 (大場光太郎・記)-

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尾瀬のサンカ集落

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サンカの子供たち

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願人坊主

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網野善彦著「異形の王権」

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(左から)織田信長、豊臣秀吉、徳川家康

徳川家康サンカ説
http://www.asyura2.com/2002/dispute2/msg/640.html
投稿者 デスラー総統 日時 2002 年 9 月 15 日 20:02:02:

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三名についてはその出自について日本の闇の勢力との関連が噂されている。
経済人類学者栗本慎一郎によると織田信長は山人の手先として、当時の日本社会の秩序に対する革新を遂行したという。
最後に余り調子に乗りすぎて山人勢力に消された。
織田家は系譜をたどると織田剣神社の宮司家で、剣という名前から白山信仰とかかわりがあると思われる。八切止夫は信長八つの民説を唱えた。
信長が本能寺の変で殺されたのは、私見によれば天皇制廃絶をたくらんで返り討ちにあった。
秀吉サンカ説勧進聖説は月海黄樹氏が唱えている。
最後の家康も闇の勢力との関係は深い。八切止夫によると徳川家は新田氏の末裔であり、願人坊主としておちぶれていた。願人坊主の息子世良田元信は岡崎松平家を乗っ取り出自をかくして戦国大名としてスタートした。この世良田元信こそ後の家康本人である。水戸徳川家にみられる熱烈な南朝思慕はもし家康が新田家の子孫だったならよく説明がつく。
例の水戸光圀など南朝の子孫熊沢家と関わりをもち、一緒に京都まで行っている。
飛鳥昭雄というフリーメーソンの手先によると、新田子孫説ではなく、京都賀茂神社の神官が松平家の先祖であり、参謀役の本田正信も同じく賀茂神社の神官である。葵の紋は賀茂氏の紋である。
家康が天下をとってから自らの出自を知る賀茂神社の関係者を皆殺しにしたという。こういうところはマンガカムイ伝の描く世界と似てくる。

(転載終わり)
関連記事
サンカ (八切史観)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/555.html
中沢新一『悪党的思考』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-38b7.html

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【天皇家】南朝と北朝の関係

-日本人である以上「天皇問題」は避けて通れない重大かつ深刻な問題である。好き嫌いは別として、一般国民の預かり知らぬところで厳然と天皇家は存在していたし、皇室は現にあり続けているのだ。天皇家神話では伝説の初代天皇・神武が国を開いてから今は皇紀2672年になるのだそうだが、神武天皇の実在性は今日の歴史学では疑問視されている。が、実在が確実視されている応神天皇、仁徳天皇という親子の天皇以降の上古の天皇の出自が朝鮮半島であった事は、今や定説になっている。だから神話中の高天原もわが国ではなく半島のどこかであった可能性が高いのだ。以来半島出身の天皇が代々この国を知ろしめてきたことになる。しかも一筋縄でいかないのは、同じ天皇家が南朝と北朝という二つの別の系統に分かれていることである。歴史的にも北と南とに分裂しそれぞれが正統性を主張した南北朝時代があったほどである。以後50数年して室町時代初期の頃、北朝系に統一されて江戸末期まで続いたのである。現皇室も建前では北朝系とされているが、既に何度も見てきたとおり、明治天皇は英国ロスチャイルド了承の下、その手下の薩長による替え玉であり、実は南朝系とみられるのだ。それでは「南朝と北朝の関係はどうなっているのか?」という問いについて、朝鮮半島にその解を求めたのが今回のテーマである。 (大場光太郎・記)-

【参考図】
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南朝と北朝の関係
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=312274
るいネット 16/02/13 PM09 

南北朝と東国と西国と田布施
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「天皇はどこからきたのか?」
「天皇=仏教だったのに、なぜ天皇=神道になったのか?」

普通の人に説明する時は、この2つの視点が一番わかりやすいかな?

・歴史上は「北朝が正統なのに、なぜか明治以降の皇室は南朝を正統としている」こと。
 
ようは、すり替え=明治維新=南朝復興であって、そのために仏教=天皇から、キリスト教の三位一体を作り変えた国家神道を設立し、反対した奴らは廃仏毀釈で叩き潰したということがあったこと。
 
後者の視点に対する説明は、これ以外に説明はつかない。
そもそも、グラバーなどの海外勢力と連携して「尊皇攘夷」なんて、「傀儡政権を作る」以外の目的では、ありえんだろうと。
攘夷が佐幕でなく、討幕になるっておかしいだろと。
 
(中略) 
 
その傀儡を作る上で一番簡単でありふれた話が、暗殺による摩り替えである。
 
北朝を7度生まれかわっても倒すという皇居の楠木正成、南朝崇拝のためクーデター首謀者でも崇められる西郷隆盛、南朝崇拝教育の元祖、水戸学派の副将軍(そんな役職はない)=水戸黄門の権威主義。
昔の人なら、戦前までは国賊として敵視された足利尊氏の事は知ってるだろう。
今だって教科書を開けばいい。
すり替えがないとした場合の正統である北朝を掲げたはずの武将、足利尊氏が、なぜあんな無精ひげで、毛むくじゃらの「ひどい」挿絵になっているか。
 
南朝は崇拝されて、北朝は貶められる。
これが明治以降の日本の天皇教の根幹である。
現皇室の言うとおり、南朝正統であるというのなら、真言立川流でも崇拝してろと言いたい。後醍醐天皇の正統宗教である。
 
おっと、「なぜ天皇=神道になったのか?」の答えがこれ以外では説明できない。
 
この視点の説明から、前者の視点、「天皇はどこから来たのか?」、天皇の起源を理解する事に繋がる。
 
それには、今出てきた区分け、南朝と北朝の区別、理解も必要になってくるわけ。  
 
その結論が、北朝=高句麗、南朝=百済である。
今日は、そこらへんの補足。
 
世界ではユダヤ教の識字率が領土統治の要になったように、日本で昔は、中国の漢文が使われてたように、中国の朝鮮統治支局ともいえる高句麗との関係が、日本で果たした役割は大きい。
 
天皇と仏教で国を統治しようとした=聖徳太子の仏教の先生も高句麗の出身である。
この高句麗と百済を大量に招き入れるきっかけになったのが、660年の白村江の戦いである。
 
唐+新羅 VS 高句麗+百済+日本の戦いであり、唐と新羅の連合軍に日本側が負けることで、百済、高句麗の戦争難民を日本が大量に迎える形になる。
 
天皇自身が百済の血を混じってるという発言をして韓国でTOP記事になっても、日本ではマスコミが完全スルーなわけで、ここらへんは日本のタブーである。  
 
ここからが今日の本文。
北朝=高句麗、南朝=百済、この日本の南北朝の表現も中国の南北朝からきている。
日本の南朝と北朝、それぞれは、大覚寺統とか持明院統とかの読み方の違いが判断基準でもなく、吉野と京の違いでもない。
 
北朝と南朝に別れる前に、東国と西国という派閥に分かれていた時期が日本にはある。
 
 
東国(長野、新潟などを含む、愛知や三重などより東)→ 北朝
西国(地域というより反東国だが、主に九州北部、山口県などの地域)→ 南朝
 
南朝の武将、楠木正成が東国からの出身という説もあるように、綺麗に分かれるわけではないが、まあ基本的には「南朝=西国、北朝=東国」で間違いはない。
 
白村江の戦い以前の6世紀から、高句麗から長野や新潟に多く渡来し、豪族を形成していた。
大昔の漢文=統治手法としての字、高句麗からの渡来人。
これが、東国=北朝=高句麗勢力の基盤である。
 
逆に、白村江の戦いの本営があった場所=北九州を中心に、百済難民が後の南朝となる西国の基盤となる。  
 
新潟、長野への朝鮮(高句麗)からの移民は、続日本記などでも確認できる。まあ今の北朝鮮(高句麗)と新潟の関係も、この大昔からの延長である。
逆に、西国の基盤は、南朝を経由して、周防国(山口県東部)などの大内氏の勢力(毛利家もその一つ)、で、出来上がった「すり替え天皇=明治維新」の構図は、田布施という特別な地域を作り上げ、現在にも繋がる薩長支配に繋がるわけである。

田布施=山口県南東部=周防国=西国。
 
そして周防国の支配者=大内氏は、別名=多々良=百済の日本語読みである。山口県の旧多々良学園とかもそうだよ=百済。
ね、西国に多数に亡命したのが百済なわけだよ。  
 
ね、簡単でしょ?
多々良浜ある福岡も薩摩も長州も、大内氏の勢力地域、まあ南朝=西国=百済の簡単な構図。
 
(中略)
 
西国と多々良、そして現在の田布施にまで繋がる話。
毛利とグラバーと南朝にも繋がる事。
 
逆に、北朝=高句麗=中国の朝鮮半島統治支部から漢文のわかる貴族を朝鮮から招き入れて「天皇=渡来人」、新潟などを含む東国=北朝を作ったこと。
統治に字が必要だったこと=西洋と共通の話や、聖徳太子の仏教の先生などの話でも整合性が取れるわけね。
 
で、その北朝の天皇から、西国である薩長が南朝にすり替え、天皇自身が韓国=百済の血を引いていますよと発言し、日本では隠蔽されるという形になってるわけ。
だから、こんなもんがあるわけで。
 
広辞苑より
からのかみ【韓神】 朝鮮から渡来した神の意。守護神として宮内省に祀られていた神。大己貴(オオナムチ)・少彦名(スクナビコナ)二神をさすという

(転載終わり) 

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